SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

明日へのチケット(2005年【英・伊・イラン】)

なんか、もっと各作品の人物が絡むのかと思ってたら、意外とアッサリ系な処理でしたな。

最終話で、フーリガンの正しい生き方を世に問うた(笑)ローチ監督には愕然とさせて頂きました。やっぱりこの人、社会派だ何だかんだ言われてるけど、どの作品もユーモアセンスが相当にいい。もし本人から「社会下層のオバカたちのコメディを撮りたいから社会派のフリしてるんだよーん」と言われたら、絶対信じてしまうよオイラは。
対する2話目のキアロスタミ監督の重みが、個人的には好き。いかにもイランらしい、間接的な表現方法が、オイラの心に凄く響きました。特に列車サスペンスの定番、人間消滅のトリックが醸しているペーソスが素晴らしい…作中で種明かしがない点も含めてね。しかしこのエピソードはちょっと他の2作との連携が少なく、浮いてる感じも否めないです。
映画としては一番見応えのある1話目ですけど、これが何かオイラ的には響かない。典型的な無罰的イタリア映画なんですけどね。また、これほど暖かく演奏されたショパンを聞いたのは生まれて初めてでした。「ショパンって、こんなに暖かいんだ!」と驚いちゃったほど。みんなの知ってる太田胃散の曲(笑)も出てくるから、聞き比べてみるのダ。ある意味、感動の4割がBGMに持って行かれちゃってる作品だと思います。


…と、概略的なレビューはこんなとこですが、今回はブログ連携レビューの真価を確かめるために敢えて長文を書かせてもらいます。以下では、2話目の車両ドアに立った少女たちとの会話について、鑑賞中に思ってた事を書いてみたい。

ここんとこ、ヤン・シュワンクマイエルの『ルナシー』関連で彼の言葉を読む事が多かったんですが、やっと彼の言う「触感芸術」の意味…そして、クローズアップという技法のヤン的な意味が見え始めてきてるところです。
「メッセージ・フロム・チェコアート」50ページ目からちょっと引用させてもらいますと、

ここで、エドワード・ホールが『かくれた次元』という本で、引用している肖像画家の証言を取り上げてみよう。画家は、3フィートより近い可触的距離内では「モデルが画家に及ぼす影響があまりにも強すぎて、画家に必要な素材からの離脱ができない」という。ここで、私たちは、触覚という概念を、直接接触する感覚だけではなく、手を伸ばせばいつでも触れることができる距離、相手の感覚や感情を触発する(これも物理的な接触ではない)距離ということまで、拡張して考える必要がある。 --- 小宮義宏「シュヴァンクマイエルから絵本へ」

列車という空間は、この可触的距離内に大量の人間(まあ東京のラッシュアワーほどではないにしても)を抱えた世界。みんな触覚的に敏感になり、今まで会った事もない人、民族、考え方、経済状態とプライベートな距離を共有し、長い時間を逃げ場もなしに過ごす事になる世界。
だから、2話目の「ウソの身の上話」にのめり込む2人に、列車ならではの物語世界というか、他の場所ではなかなか成立しない一瞬の絆を感じます。オイラもああいう瞬間恋愛してみてーなー…とか思っちゃいましたね、実際。そしてここでのクローズアップは、まさに強制的に「距離を狭められた」結果のナリユキ恋愛感情を観客に疑似体験させてくれる。人間関係のドツボへハマり込んだ末に、さりげなく生まれたこのシチュエーション、様々な人が肩を寄せ合う列車世界の見事な断面だったように思えます。


●事務連絡:
イタリック体の処理時にタグの <、> が実体参照に置き換わるみたいっす。ボールドは問題ないので、em タグのキーワード認識ができてないのかな…?
これも後でバグレポートに集約しますね。
評価:7点
鑑賞環境:映画館(字幕)
2007-06-08 18:21:38 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)