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21.  楢山節考(1958)
深沢七郎が1956年に発表した原作を木下恵介が映画化した作品であり、後年今村昌平がリメークした同名タイトル作品のオリジナル版でもある。そして木下作品としては、「二十四の瞳」と並ぶ昭和を代表する名作である。 物語は信州の山奥深い寒村を舞台にした、姥捨てという因習に基づく老母とその息子の心の葛藤と情愛を描いたもの。いくら“口減らし”の為とはいえ、70歳を迎えると山へ捨てられるという「掟」の情け容赦のなさ。土着の古臭い慣習からすれば、非人間的で残酷な行為でさえも正当化されてしまう怖さ。貧しさからくる因習は余りにも露骨であり、その悲惨さは信じ難いほどだが、本作は決してそういった暗い部分を前面に押し出して描こうとはしていない。むしろ聞き伝えの民話をひたすら叙情的に描こうとしたものであり、斬新で実験的な手法を用いることで木下恵介の才能が存分に発揮された作品だったと言える。黒子が口上を述べる場面から始まるように、その演出はまるで舞台劇をそのままカメラに収めたような方法で統一されている。舞台装置としての書き割りや、場面が変換するときの幕の使い方、あるいは照明に至るまで徹底して舞台的な構成と演出に拘りながら、神秘的かつ荘厳で、どこまでも格調高く描かれていく。まるで歌舞伎を観るようなその様式美は、色彩設計ですら人工的でありながら、統一された美しさを醸し出している。そのテーマ性とは趣を異にして、全編木下作品らしい温か味を感じさせる一方で、田中絹代演ずるおりんが臼で歯を折るという、本編で最も凄惨なシーンとして強烈に印象が残っている。その静寂を破壊するかのような音の響きは、未だに忘れられない。鴉が谷底から乱舞する夕景の中、母親と息子の道行きの終盤のシークエンスは、本作の最大の見所である。とりわけ後ろ髪を引かれる思いで山を後にする息子の背後で、白く雪が降り始めていた姥捨山が、晩秋の景色に変わるという演出の見事さ。言葉ではとても表現できない情感溢れる名シーンであり、これこそが演出の妙というものなのであろう。 もはやこれを芸術と言わずして何と言おうか。確かビデオ化はされておらず、目に触れる事の少ない作品だが、機会を見つけて是非鑑賞して欲しい傑作である。
[映画館(字幕)] 10点(2005-09-06 18:37:28)(良:3票)
22.  ラスト サムライ
アメリカが本気で日本映画を作ったんだと、間違いなく胸を張って言えるおそらく初めての映画ではないだろうか。それは単に日本を舞台にしているというだけではなく、E・ズウィックが“滅びゆく者の美学”をテーマとして永年培ってきた精神と、日本映画に深く心酔し探究を重ねてきた成果とが見事に融合・結実したものであり、決して付け焼刃などではない、どっしりとしたものを感じさせる。そしてそれは、途中から日本人の監督とメガホンを交代したのではないかとさえ思われる程、日本映画たり得ている。ここで描かれる“侍”たちは、アメリカで言えばいわゆる“西部の男”たちでもあり、“時代に翻弄されていく者”という共通項を通して、紛れもなく彼らへの崇高なる鎮魂歌として成立している。そして、如何に死んでいったかなどではなく、武士として男としてそして人間として如何に生きてきたかという、彼等の生きざまをこそが本作のテーマなのであり、だからこそ、男が男に惚れまたその友として、オールグレン大尉が天皇に沈痛な思いで言うセリフが泣かせるのである。ただ、ラストはいかにもスター、T・クルーズ作品らしい締めくくり方が少々残念で、欲を言えば、馬を走らせている彼の姿で終わらせて欲しかった。しかしそれでも、世評に違わぬ、いやそれ以上に確かな手応えを感じさせてくれるこの素晴らしい作品と出逢えた事に、幸福感を味わうとともに、本作に携わった方々に深く感謝を申し上げたい。
10点(2003-12-18 15:23:39)(良:3票)
23.  ユナイテッド93
「再現ドラマのお手本」あるいは「再現ドラマの極致」。本作をひと言で形容すると、こう言ったところだろうか。秀作の多い今年、そんな中でも本作は特筆すべき作品と言っていいだろう。9・11における無差別テロ攻撃で、標的としてのホワイトハウスへ向けられていたと伝えられているのが、本作に登場するユナイテッド93便。唯一、テロ攻撃が回避されたとされる旅客機であるが、それは単にホワイトハウスへ突っ込まなかったと言うだけの事で、結末は周知の通りである。本作はその顛末を、当時の関係者からの証言などに基づく膨大な資料を微に入り細にわたり分析し、出来得る限りの想像力を働かした結果、“彼ら”しか知り得ない出来事を忠実に再現し、最も真実に近付けたものである。ハイジャックされた機内と管制塔だけの密閉された空間だけのドラマだが、ポリティカル・サスペンスとしての驚くべき迫真性は、映画を観ていると言う事を暫し忘れてしまうほどである。それは純粋な映画でありながら、著名な俳優を一切起用しない事でドキュメンタリー性がより強調され、ノンフィクション・ドラマとしての一貫性を齎せているからに他ならないからである。また、結末云々の映画ではない事は観客の誰しもが認識しているが、それだけに興味を繋いでいく演出力が殊更要求されるものはなく、そういう意味に於いてもP・グリーングラスの緻密な計算に裏打ちされた演出手腕は並外れたものであり、高く評価されるべきである。国家やイデオロギーが違うという理由で、立場を異にする人間たちを描いた本作は、民間人とテロ集団という対立軸の構図をとりながら、どちらに比重を置く事もなく、一つの運命共同体として、そして双方をあくまでも一人一人の人間として描いている点が最大の特徴だと言える。緊張・動揺・躊躇・不安・恐怖・覚悟。行動を起こす方も、被る方も、極限状況で究極の選択を迫られたとき、人間は人間としての当然あるべき感情を露わにする。最悪のシナリオを未然に防ぐ為、勇気を振り絞って闘った人々の白熱のドラマの面白さと、現実の結末とのギャップに虚しさを覚えずにはいられない。何が正義で何が悪であるかは、映画ではついに語られる事はない。それ自体むしろ意味のない事なのかも知れないからだ。しかし、本作は“人間の真価”を問うた秀作である事だけは間違いない。
[映画館(字幕)] 9点(2006-10-28 18:16:51)(良:3票)
24.  オーメン(2006)
オカルト・ブームに乗って大ヒットしたR・ドナー版が存在している以上、オリジナリティという観点からすると、本作はかなり損をしている。もし、オリジナルがなければ、もっと話題にもなり評価されて然るべき作品である。それほどに充実した内容の作品となっているのだから。しかし、J・ムーアという人は、そういった損な役回りにはまるで関心が無いかのように、“オレ流”を貫き通す。まさに“リメイクだったらおまかせ”と言わんばかりである。そしてオリジナルをものともしないバイタリティ溢れる若々しい映像で、水準以上の作品に仕立て上げてみせた。本作を観て、改めて彼の手腕は本物だったと確信できた。彼の作品を誉めそやすからと言って、決して贔屓の引き倒しではない事は、よく観れば分かること。より練り上げられ、スリム化された脚本により、展開がシャープでより分かり易くなり、また前作で多くの指摘を受けていた例の、二階のベランダから落下した妻が、病室の窓から再度落下して死に至るというシーンなどの、見た目の派手さ重視による不手際も、より自然な形で巧みに処理され、より恐怖感を盛上げている。前作でも話題になった、それら“殺しのテクニック”も、CGや新しい撮影技法でヒネリを効かせてあり、スタイルは同じであってもテクニックが違うことで、そういった不自然さを払拭するかのような踏襲のされ方をしている。また、主人公夫婦が悪夢に苛まれるシーンに、独自のケレン味を色濃く出す事によって、纏わりつくような恐怖感をも生み出している。ただ、彼らにネームバリューが伴っていない事で、小粒な作品という印象は拭えないが、しかしそれこそがキャスティングの妙と言うべきであり、M・ファローの怪演をより際立たせたという点では、それも計算の内と見るべきだろう。彼女の過去の作品歴からくる印象からは想像できないほどインパクトがあり、彼女の持つミステリアスな雰囲気がまさに功を奏したと言える。どちらかと言えば、正攻法の演出(しかできない?)のR・ドナーに比べて、J・ムーア監督は事程左様に実に器用な人で、自らの有りっ丈の才能を縦横に発揮して、リメイク作品群を立派に成立させ続けている。リスクに決して臆することなく、果敢に挑戦する意気や良しで、これからもこの若きディレクター(創造者)を応援していきたい。
[映画館(字幕)] 8点(2006-06-28 23:32:23)(良:3票)
25.  マイノリティ・リポート
ほんの50年ほど先の未来を想像した事あるでしょうか。情報手段や機械文明といったテクノロジーの更なる進歩。或いは高層の建築物に代表されるような景観の近代的変化などは想像に難くない。しかし人間はどうかと言うと、やはりまだまだ犯罪が後を絶たないようで、こと人間に関してだけはどうやら進歩がない様子が窺い知れる。要するに現代とそれ程変わらないということだと思うのだが、しかしそれでは映画として面白くない。ひたすら映像で語り続けてきたスピルバーグは、フル・スケールのビジュアルから細やかなアイテムまで、現時点で考え得る限りの近未来を我々に創造してみせた。さすがと言うべきか、やはりと言うべきか、その独創性と映像センスは他の追随を許さず、凡百のSF映画にありがちな絵空事的なものとは決定的に違う。明らかに現代と50年先とは繋がっているのだという基本的なことを、我々に体感させ納得させてくれる。そして原作の持つ雰囲気やそのテーマ性などから、スピルバーグお得意のアクションが、今回だけはピンポイント的で、大スペクタクル・シーンなども極力避けて、全体に渋め・抑えめにしているのが良く分かる。しかしサスペンスのハラハラ度やドキドキ感の演出の冴えはいつも以上で、浴槽の一粒の泡でスパイダー・ロボットがピタッと足を止めるシーンの、その呼吸の間の巧さ。さらに、自分の目玉を追っかけるT・クルーズや嘔吐棒のアイデアなどは、彼の悪趣味が遺憾無く発揮されて、傑作。そして最も好きなシーンに、ジョンとアガサの道行きを挙げたい。この時代でも雨が降れば、やはり傘を差していると思います。(笑)
10点(2003-02-14 00:27:47)(良:3票)
26.  モスラ(1961)
地図にも載っていない南海の孤島(=インファント島)の象徴である双子の小美人と、島の守護神である巨大な蛾(=モスラ)の特撮冒険物語。言わずと知れた円谷作品の中でも、ファンタジックな怪獣としては唯一無二のキャラクターで、作品としては「ゴジラ」「空の大怪獣ラドン」と並んで傑作の誉れ高い映画だったと言える。島での秘境・冒険モノのスタイルの前半から舞台が一気に東京へと移る構成となっているが、いかにも映画的な興趣満載で、調査隊の島での様々なエピソード(小美人を捕らえて一儲けしようとする一派との対立など)が、フランキー堺を中心にコミカルに描かれていくテンポの良さ。島民の祈りの中、巨大な卵に亀裂が生じモスラが誕生する瞬間の盛上げ方の上手さ。海を渡る幼虫モスラに攻撃を加える自衛隊機といった、パースペクティブな画面構成の美しさ。決壊したダムでのスリリングな救出エピソード。そして集中攻撃を浴びながらも、地を這って目的地へと進む幼虫のユニークな動きの面白さ。一方そんな中、ステージでは小美人を乗せた馬車が空中から舞台に降りて、中から出てきた二人(=ザ・ピーナッツ)が歌い始める、お馴染み“♪モスラの歌”。その音響効果の素晴らしさ。このシーン、一種のミュージカルと言ってもいいほどで、否応でも胸高まる名場面となっている。さらに、真っ二つに折れた東京タワーに成虫となる為の繭を作るアイデアが素晴らしく、夜間から一気に朝へと画面が切り替わる、その遠景に捉えたタワーと繭とのファンタジックな美しさ。やがて大勢の見守る中、四方からの熱戦砲の攻撃を受けるシーンになるや、そのボルテージは最高潮に達する。(直前、フランキー堺が光線避けのサングラスを慌ててかけるというシーンも挿入されるが、このあたり、本多猪四郎監督演出は実に木目が細かい。)成虫したモスラの極彩色の羽根の衝撃波で舞い上がる車などは、いかにもミニチュア丸出しで、この当時の円谷特撮のひとつの壁だったに違いはないが、むしろそれが円谷作品の味だとも言え、ここはご愛嬌と捉えるべき。優れたオリジナルの脚本に生命を吹き込み、(お得意のミニチュア・セットの緻密さはさらに進化している!)ダイナミックでスケール感溢れ、超大作の風格すら漂わせた本作は、特撮怪獣映画のお手本であり、円谷をして“特撮の神様”と言わしめた記念碑的な作品だったと言える。
10点(2003-10-18 00:22:18)(良:3票)
27.  空の大怪獣ラドン
怪獣と言えば「ゴジラ」がその代名詞のようになっていて、何故か“彼”ばかりが持て囃される風潮にあるが、決して忘れてはいけないのがもうひとつの雄である本作の「ラドン」である。年配の映画ファンなら、この血沸き肉踊る大冒険スペクタクル活劇を興奮してご覧になった方もきっと多いはず。怪獣映画としては記念すべき初のカラー作品で、本多猪四郎&円谷英二の黄金コンビがいよいよ本格的に動き始めたことから、東宝としても相当気合の入った作品だったと言える。冒頭、炭鉱の坑道内が水没事故に遭い、原因を探るため警官と炭鉱夫の三人が互いにロープを体に縛って、胸まで水に浸かりながら暗い坑道内を進むというミステリアスなシーンが秀逸で、不気味な音だけで姿を現さない何物かに次々と襲われていく緊迫感・恐怖感は尋常ではなく、トラウマになってしまうほど。その暗いトーンから一気に開放感溢れる青空の中でのドッグファイト・シーンに変転する構成の巧さ。伊福部昭の音楽が実に効果的で、いやが上にも胸高まらせられる。カメラのファインダーを覗いたまま“信じられない”といった引きつった表情で後退りするアベックの男性。あるいは、ラドンの殻の欠片のカーブから卵の大きさを計算するといった、実にリアルな描写。さらにダメージを受けて海面に墜落した後、再び飛び上がり、その衝撃波で巻き起こる津波と、たたき折られる西海橋といった大スペクタクル。そして特筆すべきは、福岡市街の細やかなミニチュア・セットの見事さや(とりわけ家屋の瓦が粉々にすっ飛んでいくシーン等)、終盤の阿蘇山をめがけて攻撃するミサイル発射のゆったりとした噴射イメージなど、実に印象深くそして見せ場の多い作品だったといえる。この世紀を超えた傑作を是非ご堪能あれ。
10点(2003-04-17 16:19:50)(良:3票)
28.  ドニー・ダーコ
不思議な感覚の作品だ。それは、まるで自分自身が体験しているかのようでもある。一種のタイムスリップものか、或いは「シックスセンス」の流れをくむものか。観る人によって様々な解釈の出来る作品といってよいだろう。ただ、ひとつ言えるとすれば、誰しもが幼い頃に抱いた、“この世は自分を中心に動いている!”“この世は自分の為だけに存在する”といった感覚だろうか。それは“自分が死ねば同時にこの世も終わる”という意味でもある。ある事故がきっかけで、銀色のウサギの仮面を被った不気味な人物(あたかもあの世からの使者のような存在)から世界の終わりを告げられたドニー・ダーコの、夢とも現実ともつかない不思議な体験は、彼の願望そのものなのだろう。個人的な解釈だが、人間が死ぬ時に見る一瞬の夢というものを作者は描きたかったのではないだろうか。「ドニー・ダーコ?そう言えば、そんな子いたね。よく知らないけど・・・。」と言った意味のセリフを吐くのは、彼が憧れた近所の女の子。人死しても尚この世は依然として存在しているという現実を強烈に印象づけられるた幕切れだ。主人公の“その瞬間”がひたひたと迫りくるような帯状の雲の流れが奇妙にリアルで、VFX効果もいたって斬新だ。
8点(2002-10-15 00:17:24)(良:3票)
29.  父、帰る
12年前失踪したまま音信不通だった男が、ある日突然妻の元へ帰ってくる。戸惑いを隠せない二人の息子。次男は父親を写真でしか見たことがなく、ここで初めて父親という存在を認識することとなる。本作は父親と二人の息子との数日間の出来事を描いたものだが、誰もが疑問に感じる本来語られるべき“父親の事情”には一切触れられないまま ドラマが進行していく。この父親、いきなり食事にワインを飲ませたり、釣りを目的にした旅に出るのも、男としての息子の成長ぶりを確かめたかったのだろう。自らのことは語らず寡黙で野性的な、いかにも男っぽい父親ぶりで、躾としての振る舞いや言動は親としては極めて当然のことでありながら、息子たちには不満や不信感が募るばかりだ。それには、男親がないまま育ってきた子供たちの心情が微妙に作用しているのだが、長男は大人の世界が少しは解りかけている年頃ということもあって、父親を理解しようとするが、母親に溺愛されて育ってきた次男には、理解を超えた単なる威圧的な男にしか見えてこないのだ。このあたりの細やかなエピソードの積み重ねは絶妙で終盤それがボディーブローのように効いてくる。長い間留守にしていた空白を埋めるかの様に息子たちに接する父親だが、父親と母親との愛し方の違いが分からない次男は、やがて反撥を抱くようになり、ドラマはクライマックスへとなだれ込んでいく。結局、子供の成長を見守ってこれなかった男の苦悩と焦燥感は理解できるにしても、何かが欠落していると言わざるを得ない。いかにも古いタイプの父親像と、新しい世代との間に横たわる溝。この国での失われた12年というのは、あまりにも大きく重いという事なのだろう。映画は様々な謎を残したまま悲劇的な結末を迎えるが、この理不尽ながら絶対的な存在である親の重みというものを、息子たちは嫌というほど感じとることとなる。  実に皮肉で見事な幕切れだが、それにしてもなんと後を引く作品だろうか。
9点(2004-10-26 18:37:02)(良:3票)
30.  叫びとささやき
神に祈り、神に反撥する。そんな人間に対して神は沈黙をつづける。「人間の原罪の追求」 巨匠ベルイマンの終生のテーマだと個人的に考えてはいるが、実際のところは解らない。それほど彼の描く世界は深く難解で、おそらく説明のつけようがないもののようだ。本作は十九世紀のとある大邸宅を舞台にした、何をするにも一切召使任せで育った三人のブルジョワ姉妹とその召使との室内劇。が、ストーリーらしいストーリーはなく、二女アグネスの死を巡っての女たちのその反応や屈折ぶりを追求する事によって、人間性の深淵を垣間見せてくれるというもの。作品の雰囲気を醸し出すロココ調の室内調度品。死期を暗示するかのような古びた時計。壁やカーテンの真紅さは血のイメージで、F.IやF.Oにも滲ませている。そして、それらを殊更強調させているのが、彼女たちの白もしくは黒の衣裳などといった徹底ぶりだが、ベルイマンのそれらの効果的な映像の創造力と人間の洞察力は、凄いとしか言いようがない。そして、かわるがわる姉と妹の顔を見つめて、心から幸福を感じているアグネスの元気な頃の表情で終わるラストに、得も言われぬ感動を覚えたものだ。ベルイマン作品では比較的解りやすいと言われるが、本当に理解しているかは自信が無いと言うのが正直なところ。それでも強烈な魅力を放ち、永年、心をとらえて放さない作品であることだけは間違いが無い。
10点(2003-04-11 18:02:48)(良:3票)
31.  グエムル/漢江の怪物
今、世界中から最も熱い眼差しを受けている韓国の社会派ポン・ジュノが、いわゆる大娯楽作品に挑戦したのが本作である。本国では当たらないとされているジャンルであるにも拘らず、大ヒットを記録したこの作品は、紛れもなく“正しい怪物映画の作りかた”的な面白さに満ち溢れていて、今後、亜流作品が続出することは間違いない。  本作の最も注目したい点は、政府や軍隊あるいは科学者といった、市民(=弱者)を守り、本来立ち向かっていくべき組織が怪物を生み出す原因を作り、そればかりか、自ら闘う事を余儀なくされる市民の足枷にまでなってしまうという、今までの怪獣映画の常識を覆す逆転の発想にある。冒頭の在韓米軍研究所から薬物を廃棄処分するシーン(いかにもB級っぽい!)や、政府による妨害工作など、反米・反政府といった社会派としての一面を覗かせてはいるが、実のところ余り深読みするほどの面白みは感じない。それは怪物に攫われた娘を、家族が力を合わせて救出するというストレートなドラマツルギーのほうが勝っているからに他ならない。それは一方で、さながら街をジャングルに見立てた、サバイバルゲーム的な面白さとでも言えるだろうか。怪物と国家の両方と闘わなければならない家族には、悲壮感や深刻さを余り感じさせず、どこまでもカリカチュアされた描写を貫く事で、大騒動を繰り広げる人間たちの滑稽さと悲しさを浮き彫りにしている。それにしても、韓国映画の生々しさは本作でも健在で、黒くヌルっとした物体が橋の欄干から、(まるでウ○コのような)いかにも排泄物の塊のように垂れ下がる姿で登場する怪物と、“ん?あれは一体、ナニ?”と、一瞬わが目を疑うような反応をする人々の描写が秀逸で、そのあとにくる河川敷でのパニックへと波及していく転換の面白さは比類のないものである。カメラの遠くから近くへの遠近法と、「ジョーズ」を参考にしたような横移動との巧みな組合せによる視覚効果は、緊迫感を伴った極めて精度の高い迫真の映像であり、中でも、次々と人々を襲う怪物が土手で足を滑らせるマヌケぶりなどは、まるで本当の生き物のような錯覚を覚えさせるほど芸が細かい。この序盤の圧倒的な素晴らしさに比べると、クライマックスは少々呆気ないが、ジャンルを問わずとも質の高い映画を描出するポン・ジュノの才能も然ることながら、映画製作に於ける柔軟な姿勢と懐の深さには敬服せざるを得ない。
[映画館(字幕)] 8点(2006-12-02 16:39:36)(良:3票)
32.  ゲッタウェイ(1972)
キャロルが計算高く、したたかな女として描かれているのに反して、このドク・マッコイはウジウジした煮えきらない、優柔不断な中年男として描かれていることが、まず興味深い点だ。それは彼女とギャングのボスとの関係にいつまでもこだわっていて、痴話ケンカの種をつくったり、その事で彼女を殴ろうとしても、平手打ちでペチャペチャとするだけで、泣かれてしまうともう止めてしまうと言うように、女にはからっきし意気地がない。また一方では、子供に水鉄砲を向けられると、ムキになって怒るほど大人気ない。このダメ男ぶりという意味ではマックイーンというよりは、やはりS・ペキンパーの映画なのだと納得させられる。こういうシーンがある。刑務所から出てきたあと、唐突にツタにつかまって池に飛び込み、二人が水の中でラブ・シーンをやる。それがスローモーションなので、幻想シーンかと思っていると、そのあとびしょ濡れでアパートの部屋に戻ってくる。又、パトカーをショットガンで炎上させて車に乗り込もうとしたとき、彼女が急にバックしたためドクがひっくり返るというシーン。あるいは、駅で現金入りのバックを掏りかえられた後、取り返すまでにセリフを極力排し、二人の表情だけで描くというように、ペキンパーのこだわりの演出が光る。
8点(2001-01-07 01:34:55)(良:3票)
33.  ウィスキー
下町で古びた靴下工場を細々と経営する初老の主人ハコボの元へ、疎遠になっていた弟のエルマンが訪ねてくる。ハコボは事もあろうに、従業員のマルタに偽装夫婦になる事を頼み込み、三人での束の間の奇妙な共同生活が始まるというのが、大雑把なストーリー・ライン。何故、ハコボは結婚していなかったのか、或いは偽装結婚を何故する必要があったのか、などと言った素朴な疑問には殆んど触れられないまま、ドラマは進行していく。勿論、それらには然したる意味はなく、何の変化もない同じ事の繰り返しで明け暮れしている所へ、一石を投じた事によりドラマが生まれ、やがて人間の本性が炙り出される面白さ。様々なエピソードを積み重ねる事でそれらは的確に描出されていく。静かな語り口だが演出は実に巧みで、ドラマらしいドラマがなくとも、多くの事を語りかけてくる作品だ。もう若くもなく、同じスタイルに固執し変化を望まない一組の男と女。仕事以外のことには無気力・無関心で、自分の殻に閉じこもって人生を楽しもうとしないハコボ。今までどのような人生を送ってきたのだろうか。しかし羽振りのいい弟には弱みを見せたくないという、兄としてのプライドだけは持っていて、その頑なな姿勢はどこまでも崩さない男だ。年配の従業員マルタも寡黙で仕事には従順な女性として描かれるが、利己的で単純なハコボと違い様々な表情を垣間見せる。彼女は一人では生きていけない事を自覚し、そして何かに期待を抱きながら生きてきた女性なのである。偽装夫婦を頼まれた時に快く応じたのもやはりその何かを期待したからで、たまたま年恰好が同じという程度の理由で、マルタを選んだハコボとは大違いだ。だからラストのしっぺ返しも当然の成行きとも言える。表向きは例え同じ方向を向いているようでいても、生き方や考え方というものはやはり人それぞれ違うという、至極当然のことを映画は改めて教えてくれる。“チーズ”と“ウィスキー”の違いはあっても、人生を笑顔で過ごしたいのは何処の国の人も同じだと、作者は言いたげだ。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-09 16:21:21)(良:3票)
34.  ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還
何と表現すればいいのだろうか。声が出ない。言葉にならない。シーンと静まり返り決してざわめく事のない場内で、延々と続くエンドロールをぼんやり眺めていた。間違いなく映画史に残るであろうこの長大な作品とリアルタイムで接してきて、まさにその歴史的瞬間に立ち会えたことへの至福とともに、“とうとう終わってしまったか・・・”という祭りの後の寂寞をも感じた。芸術品と言い換えてもいいぐらいの完成度の高さを保ち、その豊かな娯楽性で満足感と醍醐味を存分に味わえるという作品など滅多になく、永く映画を観てきた者にとっても何と凄い作品であったことか。思えば第一作目で、小人のホビット族と彼等以外の登場人物たちとが同一画面に何の違和感もなく共存しているという視覚効果に、只ならぬものを感じたものだったが、図らずもそれから展開される目くるめく映像の見事さ美しさは、まるで美術品のような崇高さをもって我々を否応なく作品世界に誘ってくれ、そして本作でついにその頂点を極めたのである。この膨大な原作のもつテイストを決して損なうことなく映像化に成功したことはひとつの奇跡であり、また様々な優れたスタッフが集結し、P・ジャクソン監督指揮の下、彼等の編み出すイマジネーションと気の遠くなるような高度な技術力で創造され、そして実を結んだ労作であるということは言うまでも無い。長尺でありながら決して散漫にならず全てのシーンが印象に残り、とりわけ捨て身の活躍をみせるサムに花を持たせる心憎い演出や、あるいはフロドの輝くような美しい表情が忘れられないラスト・シークエンス等々、登場人物それぞれに見せ場を用意させるバランスの良い編集の上手さは、特筆に価する。
10点(2004-08-04 18:38:15)(良:2票)
35.  ダイ・ハード/ラスト・デイ
酷評につぐ酷評で、シリーズ最低作の烙印をも押されてしまった気の毒な作品だが、本当に、そんなに酷い出来なのだろうか。存分に楽しめたという点では、私などは少数派だが、冒頭からクライマックスに至るまで、昨今、これほどダイナミックでスピード感溢れるアクション映画を他に知らない。些かもダレることなく、切れ味鋭くストレートな印象を魅せているのも、余計なドラマを極力廃し、アクションに徹する事で、上映時間を最小限に抑えているからなのだろう。この設定と内容なら、極めて妥当であり、過去の優れたアクション映画と呼べるモノは、すべからく上映時間は1時間半程度であり、そういう意味において、本作は、まさにアクション映画の王道なのだ。随所に、“偉大なる第一作”にオマージュを感じさせてはいるが、むしろ、これらは、“プチ・リメイク”と言えるもので、ご愛嬌として楽しめる。それと言うのも、監督に“リメイクの帝王”J・ムーアを迎えた事から、製作者側の狙いが読み取れ、彼もまたそれに見事に応えたのである。難を言えば、父と息子が殴り込みをかける戦場に、チェルノブイリを設定した事。アイデアは面白いんだけど、これはちょっと無茶だったかも。ただ、無茶は、このシリーズの大きな特徴で、ジャンプしたパトカーでヘリを墜落させたり、ライターの火で旅客機を空中爆発させるという、物理の法則を無視したり、高速道路で戦闘機がミサイルをぶっ放したりと、過去の事例を言い出したらキリが無いほど。だが、本当に問題なのは、テロ集団の襲撃に巻き込まれ、孤立無援の高層ビルの中、戦いを余儀なくされていく若き日のマクレーンから、冒頭の射撃の的に風穴を開けた時から、既に戦闘モードになっている、本作の彼の姿の変貌ぶりだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2013-04-06 15:17:47)(良:2票)
36.  ぼくは怖くない
画面いっぱいに広がる黄金色に輝く麦畑に思わず目が奪われてしまう。ややセピアがかった緑の陽光が包み込む中、ひたすら疾走する自転車。そして、そのまるで絵画に描かれたようなクリアーな風土は、まさしく遠い夏の日の記憶そのものだ。どこか懐かしさが込み上げてくる、その清々しさ、初々しさ。大自然の変化を少年の心象風景として捉えたカメラの素晴らしさ。ひとつの作品の出来を左右する、これはまさにその好例と言えるだろう。そして、それらが美しければ美しいほど際立つ、その下に蠢く大人たちの愚行や浅はかさ。疑いを知らない少年が、大人たちの世界に足を踏み入れたときの不安と困惑。その不条理で抑圧的な大人社会に翻弄される子供たち。何色にも染まっていない純粋なものが壊されていくことへの警鐘を鳴らした本作は、人間関係(とりわけその取り巻き)次第では、そのしがらみから抜けきれず、やがて個々の人生を狂わせてしまうことの危うさと、その一方で、人を慈しみ心を通い合わせることの大切さというものを我々に教えてくれる。まさに心が洗われる思いだ。
8点(2004-07-19 15:46:01)(良:2票)
37.  エレニの旅
アンゲロプロスの映像世界には、他の誰もが真似ることが出来ないこだわりとオリジナリティがある。今日に至るまで、死守され続けてきたこの人だけの映像スタイルは、黒澤とそして小津の影響が明々白々であり、その姿勢は愚直なほど一貫している。オープン・セットでは超望遠レンズを多用して映像に奥行きと重厚さを生み出し、室内シーンともなると固定キャメラで延々と芝居をさせる事などがその顕著な特徴である。本作はギリシア悲劇をベースに、繰り返される戦争の虚しさとそれに翻弄される民族、そして愛する者への慟哭を描いたものである。これはアンゲロプロスが作家として追い続けている永遠のテーマであり、また世界的に見ても唯一無二である事で、独自の地位を築き上げてきた人である。一大叙事詩とも謳われるその映像は、まるで能の舞台を観るかのような様式美で統一されていて、室内よりむしろオープン・セットにより彼らしさが表れている。それは彼の作品のモチーフでもある「河」に象徴的に描かれる。ときに国境として、あるいは祖国を分断するものとして、さらに民族の分裂から仲間や家族との別離といったシーンにより深い意味が込められ、今まで以上に大きな役割を担っていると言える。オープニングの難民たちに始まり、洪水に見舞われ水没する村々、あるいは多くの舟が整然と並び、漕がれる櫓が幾何学模様となって河を渡るシーンなど、それらはまるで静物画のような美しさで描かれる。また、木に逆さ吊りにされた無数の羊たちのショット、あるいは土手を挟んで二人の息子が再会する様子を、幻影として見つめる母親の姿を捉えた終盤のシーン等々、物言わぬ映像が多くの事を語りかけてくる。悲しくも美しい映像には枚挙の遑が無いほどだが、ひとつひとつのシーンはまさに芸術品であり、あたかも美術館を巡っているようである。細かなプロセスが省略されていても、個々のエピソードは十二分に理解でき得る。映像の持つ力とはそういうものなのである。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-15 18:32:14)(良:2票)
38.  めぐりあう時間たち
言葉ではとても表現できない、感動とは違う何か特別な感情が湧き上がってくる。この作品を見た後の自分の素直な気持ちは、こう言ったところだろうか。これほど濃密なドラマを見たのは久しぶりの感がある。オムニバスともフラッシュバックとも違う、三つの異なった時代を生きる女性たちを交互に描いていく演出方法は、斬新で極めて効果的でもある。本作の彼女たちは何らかの形でリンクしていて、人生そのものが謎めいているという共通項をも併せ持っている。そして、ありのままに生きようとする彼女たちを通して、愛することとは何か。本当の幸せとはいったい何なのか。そして生きていくとはどういう事かといった、人間の根源的な在り様を問いかけてくる。壮絶な生き様を見せつけたE・ハリスの凄味は言わずもがな。さすがに名女優たちの演技も三者三様で上手いが、とりわけJ・ムーアは、個人的には今まであまり買っていなかった女優さんだっただけに、彼女の素晴らしさには目から鱗の思いだ。さらに、心の揺れ動きを要求する演技者に対しては勿論のこと、部屋の隅々にまでも計算され尽くしたS・ダルドリー監督の演出は、品格さえ漂わせて見事と言うしかない。(彼の手に懸かれば、卵さえ演技するのだ!)そして、ヒアリングのお手本になるような英語のセリフの明瞭な美しさは、特筆に価することも付け加えておきたい。
10点(2003-05-23 00:22:25)(良:2票)
39.  シェーン
遠くロッキー山脈の雪の白さと青い空。颯爽と登場するシェーンのカッコ良さ。一見、絵に描いたような西部劇のようだが、実はそのカッコ良さとは裏腹に、この作品は西部開拓期の終焉とローンライダーの孤独と侘びしさをオーバーラップさせ、その時代をだだっ広い荒野で共に生き抜いていこうとする、或る貧しい家族との心温まる人情ドラマだと言える。とりわけ、友達もいないことで寂しさが募る少年ジョーイと、やはり孤独なシェーンとが心を通わせていくというプロセスや、少年の母親との仄かな愛にも似た気持ちの機微など、J・スティーブンス監督が実に木目細やかに、そしてあくまでも正攻法で鮮やかに描ききった点で、やはり映画史に残る名作たり得ていると思う。V・ヤングの名曲に乗って、史上余りにも有名なラスト・シーンの残像は、生涯脳裏に焼き付いて離れることはない。
9点(2002-07-07 18:21:52)(良:2票)
40.  博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
米ソ冷戦時代の核戦争の恐怖とその愚かさを、ブラックな感覚で描いたS・キューブリックの傑作SF。この作品で特に印象的なシーンは、終盤、米軍爆撃機のたった一機が旧ソ連ミサイル基地上空で、水爆投下のハッチが故障して開かなくなってしまう。しかし少佐(=名前がキングコング)が水爆ミサイルに乗っかったまま修理しようとしたとたんハッチが開いてしまう。その彼がロディオのカウボーイよろしく落下していく様子を上空から俯瞰でとらえ、やがて小さく見えなくなった途端、水爆が爆発してしまう。それから、やがて世界中にキノコ雲が立ち上がるわけだけど、この悲惨な中、“♪いつかまた逢いましょう・・・”と女性ボーカルの甘いラブ・ソングが流れて映画は終わる。他にもドクター・ストレンジラブが時折、自分の意思とは関係なく右手がナチスの挙手のように上がってしまうのを、必死になって押さえるおかしさや、彼がラストで「私は立てる」と車椅子から立ち上がるシーン等、意味深く印象的なシーンは多い。この公開時期、日本では東京オリンピックが開催されていたこともあり、記録的な不入りとなった不幸な作品でもありますが、かえってS・キューブリック(当時はカブリックでした)の名前を高めた作品として記憶に残る。
9点(2000-10-09 00:08:20)(良:2票)

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