Menu
 > レビュワー
 > 鉄腕麗人 さんのレビュー一覧。21ページ目
鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637383940
>> 通常表示
401.  皇帝ペンギン
自然界の動物の生態を指して、「親子愛」だとかそういう擬人的な価値観を押しつけることは出来ない。そんなのは、紛れも無い人間のエゴだ。そういう意味では、この作品のスタンスは少し過剰だとも思う。ただ、映し出されるペンギンたちの姿は、どうやったって「本物」なわけで、そのひとつの“生命”としての“生き様”には、純粋で力強い感動が生まれる。 もし、彼らの姿にどうしても、「愛」というフレーズをもって表現したいなら、それは、生命としての本能としての愛、すなわち「生命愛」であろう。
[DVD(字幕)] 7点(2006-01-07 02:49:24)(良:1票)
402.  勝手にふるえてろ
「絶滅すべきでしょうか?」と歌い上げた後、主人公はアパートの小さな玄関で、独りうずくまり、嗚咽する。 胸が締め付けられてたまらなかった。性別は違うけれど、彼女は20代の頃の私だと思った。 「絶滅」という言葉は使わなかったけれど、当時の私も、彼女と同じように、孤独感と自己憐憫の狭間で藻掻き苦しみ、突っ伏して声にならない声を上げていた。今でこそ、「暗黒期」と自嘲的に振り返ることができるけれど、私の中では本当に絶望的な時期だった。  この映画の主人公ヨシカは、愛くるしく、痛々しく、トリッキーに見えるけれど、実のところ、この年頃の女性の普遍的なありのままの姿を表していると思えた。 誰だって、いつまでたっても「召喚」し続ける過剰に美化された思い出を持ち続けているだろうし、不遇な自分自身を憐れみ、達観していると思い込むことで、慰め、人生に折り合いをつけようとしているんじゃないか。 そのさまは、客観視すれば、愚かで滑稽に見えるかもしれないけれど、人間が社会の中で必死に生き続けるための“術”であり、本当は誰も嘲笑うことなんてできない。  この映画は、そういう今この社会に生きる、性別も年齢も関係ないすべての人が、実は孕んでいる“脆さ”とそれと同時に存在する“強かさ”を、あまりにもユニークな映画的表現と、あまりにも奇跡的な“松岡茉優”によって、描きつけている。  思わず逃げ出したくなるブサイクな“キス顔”のように、「無様」な映画である。 結局、主人公はダークなインサイドのドツボにハマったままで、具体的には何も解決はしてない。 人生は笑っちゃうくらいに面倒で、複雑なので、答えがいつも「1+1=2」になるとは限らない。「1+1=1」になることはままあるし、すべてが無くなって「0」になってしまうことだってあるだろう。  だけれども、怯えてばかりの自分自身に、「勝手にふるえてろ」と言い放ったヨシカは、きっと「1(イチ)」以上の何かを見つけるための一歩を踏み出せたのだと思う。  嗚呼、なんてパンクで、愛おしいのだろう。最高すぎて勝手にふるえるわ。
[インターネット(邦画)] 10点(2019-07-14 00:18:45)(良:1票)
403.  ゴーストバスターズ(2016)
1984年の「ゴーストバスターズ」は、世代的に、少年時代にハリウッド映画に触れ始めたタイミングの作品でもあり、非常に馴染み深い。 個人的には、アメリカの娯楽映画とはこういうものと無意識レベルで植え付けられた映画とも言え、ある意味娯楽映画の“基準”となった作品だった。 「もの凄く素晴らしい映画!」ということでは決してないけれど、特に僕らの世代以上の映画ファンにとっては、“愛着”のある映画であったことは間違いないだろう。  そういう意味では、オリジナルキャスト達のカメオ出演や、あの愛すべきアイコン、そしてテーマ曲等の踏襲は、往年のファンとして少なからず“アガる”ポイントであったことは言わずもがななところ。 時代と、主人公たちのキャラ設定は変わっているけれど、NYを舞台にして、お決まりのテーマ曲、お決まりのロゴマーク、お決まりのコスチュームで、“ゴーストバスターズ”の面々が出揃った瞬間、「帰ってきた!」と高揚した。  しかし、だからこそ殊更に残念なことだが、今作には、そういった高揚感を映画作品として保ち続けるための魅力が備わっていない。 言うなれば、“リメイク”として、オリジナル作品にあった魅力を再現できておらず、無論それ以上の付加価値を見出だせていないということだ。  バスターズの面々の性別を変えて、現代版として焼き直すからには、何かしらの新しい価値観や、テーマ性を示してほしかった。 今作の監督+主演コンビで、結婚式にまつわる女性の親友同士の「本音」をドぎついコメディと下ネタで繰り広げてみせた「ブライズメイズ」は最高のコメディ映画だっただけに、その部分が期待はずれだったことはとても残念だ。 オリジナル版のビル・マーレイやダン・エイクロイドは、勿論コメディ俳優という領域を超えた「名優」だが、今作のクリステン・ウィグやメリッサ・マッカーシーも、今後同等以上の存在感を放つ可能性を持った女優だけに、彼女たちが弾けきれていないことが殊更に口惜しい。  “ソー”こと、クリス・ヘムズワース演じる“逆・紅一点”の秘書ケビンの常軌を逸した“脳筋”ぶりは可笑しかったけれど。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2018-04-30 00:54:58)(良:1票)
404.  死刑台のエレベーター(1958)
古き名作サスペンスには満足することがほとんどない。今作も例にもれず、何の衝撃も受けずに終始してしまった。題材的には興味を引く部分はあるのだけれど、描き方に中途半端な印象を受ける。現代映画の目まぐるしい編集に慣れきってしまっている部分もあるのかもしれないけど、やはりサスペンス映画はある程度映像で引き付けることは重要だと思う。そういうことを考えると、やはりヒッチコック映画は革新的であったのだと感じる。
4点(2003-11-18 15:30:29)(良:1票)
405.  めまい(1958)
往年のサスペンス映画やスリラー映画は、どんなに名作であっても総じて“テンポの悪さ”を感じてしまう。 最新作品の展開の早さやそれに伴う“衝撃性”が、そういった過去の名作を礎にして生まれていることを考えれば、一概に否定することはもちろん出来ない。けれど、率直に楽しむことが出来ないことも否めない。  アルフレッド・ヒッチコックの「名作」の誉れ高い映画も何作品か観てきたが、そういった印象はやはりあり、今作についても同様にシンプルなカタルシスは得られなかった。 しかし、流石は映画史に残る巨星の作品である。一度観れば終わりという単純な衝撃性に頼らない、映画作品としての深みを併せ持っている。  高所恐怖症により職務中に同僚を死なせてしまった元刑事が、学生時代の知人から彼の妻の監視を依頼されることから、ストーリーは展開していく。  「めまい」というタイトルが暗示する通りに、映画全体が主人公の主観的な歪みや屈折によって捉えられ、その巧みな展開力が観客をスリリングな映画世界へ引きずり込んでいく。 他のヒッチコック作品とくらべると、幾分かストーリー自体が入り組んでいて、結末も含めて非常に特異な映画なのだと思う。  ラストの顛末はあっけにとられてしまったが、よくよく振り返り、結局どこまでが現実で、どこからが主人公が陥った妄想なのかということを考えていくと、未だ見えていないこの映画の持つ本質が見え隠れしてきた。  また観直す機会があれば、新たな心象を得られるだろうと思う。そう思わせることが、良い映画監督の良い映画ということなのだろうと思う。   P.S.この時代の映画としては尺が長くて、展開が遅い分殊更に長く感じてしまった。あと主演のジェームズ・スチュアートが、あまり格好良くないというか、主人公のキャラクター性に対して、少々愚鈍で老け過ぎている印象を持った。その点が、主人公に対して感情移入できなかった要因とも言える。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-05-06 16:08:54)(良:1票)
406.  RONIN
この手の映画としてはストーリーには特に目新しさがあるわけではないのだが、全編に渡る徹底的な緊張感は秀逸と言えるものだった。映画自体がトーンダウンしそうなところを卓越した演出による緊迫感でまとめあげている。相当に面白いというわけではないが、作品のクオリティをギリギリのところで保っているあたりに、この監督の手腕の確かさが伺える。
[映画館(字幕)] 6点(2003-11-18 18:36:12)(良:1票)
407.  シカゴ7裁判
人類史において「正義」というものほど、絶大なパワーを持つ言葉でありながらも、それが指し示す意味と範疇がひどく曖昧で、都合のいい言葉はない。 世界中の誰でもが強い意志を持って掲げられる言葉だからこそ、とてもじゃないが一括にできるものではなく、本来、その是非を裁判なんてもので問えるものではないのだと思う。  今作で描き出された「裁判」においても、それぞれの主張はどこまでいっても平行線であり、折り合える余地などそもそもない。 なぜならば、被告として裁かれる活動家の面々は勿論、悪辣に描かれる裁判官にしても、微妙な立ち位置で己の職務を全うしようとする検事にしても、この映画に登場するすべての登場人物たちは、ただひたすらに己の「正義」を貫こうとしているのだから。  この裁判劇は、様々な側面から「正義」という言葉の意味とその本質を問い、その価値も、その危険性も、平等にあぶり出している。 正義を掲げる者たちが、突発的な怒りによって、いとも簡単に暴力を生み、無秩序な憎しみの螺旋に引きずり込まれるという事実。 すべての争い、すべての戦争も、詰まるところ「正義」と「正義」の衝突であるというあまりにも空虚な皮肉。  エディ・レッドメイン演じる主人公は、その現実に、自分自身が無意識のうちに呑み込まれていたことに気づき、思わず言葉を失う。  だが、それが愚かな人間の拭い去れない本質である以上、もはや絶望しても仕方がない。 自分自身の愚かさと罪を認めつつ、それでもなお、自分自身を駆り立てる「正義」を、自分の言葉で叫び続けるしかないのだ。 ラスト、主人公の“最終陳述”で発されたものは、主張でも、弁明でもなく、彼らを突き動かした「動機」そのものだった。  2020年、全世界的に混迷を極めたこの年にこの映画が“公開”されたことの意義はあまりにも大きい。(コロナ禍の影響による劇場公開断念を受け、いち早く権利を買い取って世界配信したNetflixの功績は大きい!) 大統領選に伴う大国アメリカの分断は、今年の混迷を象徴的に表しており、この映画で描かれた時代の空気感とも類似する。 この映画の主人公の手元にある“リスト”と同様に、今この瞬間も、社会の犠牲者はリストアップされ続けている。 映画の着地点と同じく、今この世界に必要なことは、一方的な「正義」の主張などではなく、大局的な見地で、この酷い「現実」を今一度直視することだろう。  次のメッセージが大衆の声によって高らかに発せられ今作は終幕する。  The whole world is watching !(世界が見ている!)  今まさに、私たち一人ひとりが、自分の目で世界の現実を見て、動き出さなければならないのではないか。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-12-19 22:09:32)(良:1票)
408.  ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎<TVM>
ルパンはもちろんだけど、次元と五右衛門のキャラクターが際立っていて嬉しかった。やはりルパン映画はルパンファミリーがそれぞれ活躍する展開が楽しい。テレビスペシャル版の中では特に良い出来栄えだと思う。
[ビデオ(邦画)] 6点(2003-11-26 11:28:41)(良:1票)
409.  陽はまた昇る(2002)
家電メーカー各社の技術競争というものが今の日本の発展を促してきたと言って過言ではないと思う。まさにドキュメントである当時のエネルギーそのままに映し出される技術者たちの熱い奮闘が胸に迫ってくる。極力抑えた演出と、熱情的な演技、手ぶれ映像による効果的な撮影が徹底的なリアリティを醸し出し、決して派手さはないが臨場感を感じた。この映画の鑑賞直後にニュースで薄型テレビの開発競争の特集がされていて、今作の時代から流れ続ける情熱が感慨深かった。ただひとつ悔やまれるのは、この映画をDVDで観てしまったことだ。意味はないが、やはりVHSで観るべきだったと思う。
[DVD(邦画)] 7点(2003-12-20 02:29:19)(良:1票)
410.  エイリアン
この映画をまともに観るのは何年ぶりだろうか。 いや、実際は、かつて淀川長治氏の日曜洋画劇場で放映された吹替え版を何度が観た程度で、字幕版をしっかりと観るのはこれが初めてだったのかもしれない。(しかも今回はBlu-ray特典のディレクターズカット版)  もちろん、エイリアンがどういう場面でどういう登場を見せるかということは把握しており、ストーリーの顛末も当然知っているのだが、それでも次の瞬間にもエイリアンが襲いくるというシーンでは、恐怖の余り目を背けがちになってしまった。 リドリー・スコットが生み出したこのSFモンスター映画の醍醐味は、何を置いてもやはりその「恐怖」だと思う。  宇宙船という完全に閉鎖された空間に突如として付加された恐怖。 それは、モンスターそのものに対する恐怖というよりは、それから逃げられないという恐怖の真髄だ。 そこにある思惑により隠された真意による不信感が巧みに混じり合い、映画史上かつてない恐怖感を生み出したのだと思う。  今回どうしてもこの映画を再見したかった最大の理由は、今作の前日譚として公開されたばかりの「プロメテウス」を観るため。 改めて今作を見返してみると、エイリアンそのものの出生をはじめ、その発端となるシーンのあらゆる「謎」が気になる。よくもまあリドリー・スコットは、このあからさまな「伏線」を30年も放っておいたなと思う。  そして、30年前の映画にも関わらず、映し出される映像世界のスタイリッシュさに舌を巻く。本編開始前の“20世紀フォックス”のタイトルロゴの古めかしさに「そんなに昔の映画なのか?」と違和感を感じるほどに。  P.S.あたり前だが、シガニー・ウィーバーが若い!終盤の“半ケツ”が、その瑞々しさを極めて分かりやすく表現している。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2003-10-21 00:45:25)(笑:1票)
411.  西の魔女が死んだ
大切な人の死に面した時、「ああしておけばよかった」「あんなことしなければよかった」と後悔しないことなんてないと思う。 その後悔は、時に自己嫌悪に陥るほどに大きくなり、自身を苦しめる。 でも、もし「西の魔女」からのようなメッセージが届いたなら、どれほど救われることだろう。 ラスト、そのあたたかさに涙が溢れた。  映画作品としては、決して完成度が高い作品とは言い難い。 原作は未読だけれど、おそらく、文体で表現された世界観を充分に表現出来ているとは言えないだろうと思う。 それはこの物語が、あまりに繊細で理屈ではない人間同士の心の交じり合いを描いたものだからだ。 映画を観ていて、そのテーマ性自体は伝わってきたけれど、映像表現や演技がそれを伝え切れているかというと、疑問は残った。  “おばあちゃん”を演じたサチ・パーカーが、女優シャーリー・マクレーンの娘だということを、今作の観賞後に知った。 先日、「アパートの鍵貸します」を初めて観て、若かりし日のシャーリー・マクレーンの魅力に触れたところだった。親日家の彼女が、娘の名前に「サチコ」とつけたということを思い出した。  面白い偶然に何だか感動し、この奇遇は、母と娘と孫娘の関係を描いたこの映画にふさわしいようにも思えた。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2010-08-27 12:17:34)(良:1票)
412.  ネバーランド
ふと考えると、映画を観ること自体が、“空想をする”“イメージをする”ということだと思う。映画の素晴らしさというのはそういうことで、まさにその真髄を描いたこの作品の感動の深さはシンプルだが、非常に深い。美しい現実と空想の狭間で繰り広げられる、美しい愛の物語。感動作としてなんともこれ見よがしな物語であるが、涙が溢れるのだから批判の余地も無く素晴らしいと言うしか無い。空想の名における永遠の少年ピーター・パンが、深い喪失を抱えた少年から生まれたということに、想像性に対する感慨深さを覚えた。
[映画館(字幕)] 8点(2005-01-15 17:43:22)(良:1票)
413.  スター・トレック/BEYOND
「亡き友へ」 と、死んでいったクルーたちを悼み、カーク艦長が献杯をする。 このラストシーンのシークエンスは、一体どの段階でシナリオに組み込まれていたのだろうか。 劇中、襲撃されたエンタープライズ号の多くのクルーたちが命を落としてしまう展開はあるので、最初から用意されていたシーンなのかもしれないが、このシーンの持つ「意味」が悲運にも深まってしまったことに、映画ファンとして泣くしかなかった。 往年のTVシリーズからスポックを演じ続けたレナード・ニモイの死、そして、不慮の自動車事故で今作の撮影直後に亡くなってしまったチェコフ役のアントン・イェルチンの死に、惜別の思いばかりが募った。  二人の俳優の死が重なってしまったことも多分に影響しているのかもしれないが、リブート版第三弾となる今作には、全編通して「死」そのものと、それに伴うそこはかとない“別れ”の悲しさが漂っている。 「宇宙」というあまりに壮大で果てしない空間の中で突如として生じる空虚感と望郷の念も、冒頭のカーク艦長の心情描写に端を発して随所に表されており、表面的な大エンターテイメントのすぐ裏に垣間見える「宇宙」そのものの“深淵”が興味深い仕上がりだった。  僕自身は、この新しいリブート版シリーズからのファンで、残念ながらTVシリーズは観られていないのだが、その宇宙に対する深淵なる哲学性こそが、「スター・トレック」の本質的な魅力なのだろうと思える。 そして、いつの日か“人類”が宇宙で生命を紡ぎ蔓延ることに想像をめぐらし、そうなった時に、我々人類が辿り着く「境地」までもを創造したことが、このシリーズの凄さなのだろう。  J・J・エイブラムスから引き継ぎ新監督を務めたジャスティン・リンは、想定以上にそつなくシリーズ3作目を纏め上げたと思う。 「ワイルド・スピード」シリーズで磨き抜かれたチェイスシーンの安定感は言わずもがなの出来栄え。 また、アジア系キャラの“ヒカル・スールー”の見せ場を増やし、彼のキャラクターにゲイという要素を加味したことなどは、新鮮だったし、そのキャラクター像の広げ方は、長きに渡り“多様性”をテーマとして謳ってきた同シリーズにとって相応しいものだったと思う。  英語を理解しない日本人として少々残念だったのは、今作から脚本にも参加しているサイモン・ペッグが繰り広げているのであろう台詞回しの妙が、字幕では今ひとつ伝わらなかったことだ。きっと随所で意味深で愉快な言い回しがあったに違いない。  喪失し、破壊され、それでもエンタープライズ号は旅を続ける。 引き続き、最新作を心待ちにはしたい。 しかしながら、もうそこにはチェコフ君がいないことを思うと、やはり寂しくて仕方がない。
[映画館(字幕)] 7点(2016-10-29 23:27:11)(良:1票)
414.  星の王子ニューヨークへ行く2
30年ぶりの続編。30年の月日を経ても変わらない“エディ・マーフィ”というエンターテイメント力が圧巻で、懐かしさを存分に携えた爆笑は、次第に週末の夜のささやかな多幸感へと変わっていった。  30年後の続編という企画において、敢えて新しいことに積極的に挑まず、オリジナル作品のキャラクター性や映画的な雰囲気の「再現」に努めた制作陣の意向は正しかったと思う。 必然的に“新しさ”なんてものはなく、ほぼオリジナル作品のファン層のみをターゲットにした“同窓会映画”であることは否めないが、そうすることが、この映画が持つエンターテイメント性を過不足無く引き出していると思える。  何よりも嬉しかったのは、エディ・マーフィをはじめとするオリジナルキャストが勢揃いしていたことだ。 主人公の親友役セミを演じたアーセニオ・ホールは勿論、ヒロインのシャーリー・ヘドリー、父国王のジェームズ・アール・ジョーンズ、バーガーショップ経営者(義父)役のジョン・エイモスら、懐かしい顔ぶれが見られただけでも、感慨深いものがあった。 そして勿論、エディ・マーフィとアーセニオ・ホールによる“一人四役”も健在で、楽しかった。  新キャラクターでは、主人公の婚外子として登場するラヴェルのビジュアルが、完全に「ブラックパンサー」の“キルモンガー”パロディで愉快だったし、3姉妹の娘たちもフレッシュな魅力を放っていたと思う。 そして、隣国の独裁者として登場する“イギー将軍”に扮するのはウェズリー・スナイプス。鑑賞前にクレジットを見ていなかったので、90年代を代表する黒人アクションスターの登場には、益々高揚感を高められた。演じるキャラクターのバカぶりも最高すぎた。   繰り返しになるが、二つほど時代を越えて制作された「続編」として、何か新しい発見や挑戦がある類いの映画ではないし、オリジナル作品のファン以外が観てもピンとこない要素も多いのかもしれない。 ただ、かつて週末の民放ロードショーで「星の王子ニューヨークへ行く」を観て、エディ・マーフィというエンターテイメントを楽しんだ世代としては、問答無用に爆笑必至だった。  今作はパンデミックの影響で劇場公開が断念され、Amazonでの配信と相成ったとのこと。 制作陣やキャスト陣にとっては残念なことだっただろうけれど、かつてオリジナル作品を観たときと同様に、週末の夜、自宅で、“日本語吹替版”で観られたことは、ファンにとってある意味幸福な映画体験だったと思うのだ。
[インターネット(吹替)] 7点(2021-03-15 12:14:15)(良:1票)
415.  スーサイド・ショップ
日常生活の中で自殺が“風景”として多発する極めて陰鬱とした社会。そんな中で「自殺用品専門店」を営む家族の物語。 フランス産ならではの陰湿でブラックなユーモアに溢れたアニメーションが印象的。  まず舞台作品の映画化かと思えるくらいに、ミュージカルと舞台的な演出のクオリティーの高さが光った。 きっとこの脚本と演出のまま舞台化しても成功は間違いないと思える。  自殺が蔓延する社会の中で、それを助長する商売を生業とする主人公家族の面々。 映画の序盤、彼らのキャラクター性は、悪魔的に、ある種のファンタジーとして描かれる。 しかし、そこに彼らの存在性を根本から否定する天使のような次男が生まれ、この家族の人間性があらわになる。 悪魔的な陽気さが、実のところ陰鬱とした世の中を生き抜くために彼らが選ばざるを得なかった手段だということが描き出され、このファミリーの悲しさが見えてくる。  映画の中盤、店主と自殺志願者のやりとり。  「この“面倒”にもう耐えられない」 「“面倒”とは?」 「人生さ」  自分はまだ30年余りしか生きていないが、このやりとりは身につまされる。 世界中の誰しもが、その“面倒”と葛藤をし続けていることだろう。 ただそれでも、“生き続ける”こと以上に意味深いことなどないと、この奇妙なアニメ映画は高らかに歌いあげる。 ストーリー展開は稚拙ではあったけれど、語り口そのものには好感が持てた。   店主の名前が「ミシマ」。自殺の方法にやけに“ハラキリ”を推奨し、日本刀を振り回すこのキャラクターのモデルは、完全に三島由紀夫だよな……。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-11-15 09:31:12)(良:1票)
416.  日本で一番悪い奴ら
いやいやいやいや、まったく笑えない!なのに、笑えて笑えて、困る!! 実際の警察不祥事事件をモチーフにしたこの犯罪映画は、想像以上に胸クソが悪くて、想像以上に面白くて、とても困った映画だった。  こういう“感覚”を、日本の映画ファンが体感する機会は少ない。 その理由は明確で単純だ。こういう映画があまりにも少ないからだ。 現代社会において実際に巻き起こった事件、事故、スキャンダルを映画の「題材」とすることはあっても、それらを真正面から捉えた上で“エンターテイメント化”する文化的土壌が、この国の映画業界には備わっていない。 その昔は、そういうことをまかり通すだけの肥えた土壌があったのかもしれないけれど、今はすっかり痩せ衰えていると言わざるを得ない。 それは何も映画業界だけの問題ではないだろう。この国の文化的な民度とリテラシーそものもが矮小化し、弱体化してしまい、許容し得る度量がないのだ。  そんな中で、今作と、これを描いた白石和彌という映画監督は、明らかに特異な存在と言えよう。 事実を事実として捉えた上で、「娯楽映画」としての暴力性、可笑しさ、エロさ、猥雑さ、それらすべてをひっくるめたエンターテイメント性から逃げない姿勢が先ず素晴らしい。  日本の映画業界と比較し、映画文化の土壌が肥えているハリウッドでは、作品の善し悪しは別にしてこの手の映画作品で溢れている。 マーティン・スコセッシの映画などはその頂点の一つであろう。決して過言ではなく、今作は、かの巨匠の作品の空気感を彷彿とさせた。近年の作品で言えば、序盤の主人公が悪徳メンターと交流するシーンをはじめ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に映画的な展開と性質がすごくよく似ていると思えた。  看過できない社会性と、直視しづらいほどの毒性、そして観る者を釘付けにするエンターテイメント性の混在。 それはまさに映画的「快楽」であり、日本でもこういう映画が作られるようになったことがとにかく嬉しい。   公開当時から観たい作品の筆頭であったが、劇場鑑賞の機会を逃したまま、期待値が高まるあまり鑑賞のタイミングを掴みそこねてきた。 ようやく鑑賞に至った動機は、この国の映画ファンにとってあまりに悲しい「ピエール瀧の逮捕」だった。 ピエール瀧が俳優としての類まれな存在感と価値を爆発させた最大のきっかけこそ、白石和彌監督の「凶悪(2013)」だったと思う。 今作においても、彼は序盤の少ない登場シーンで、前述の悪徳メンター役を嬉々として見事に演じ切っている。  無論、彼が犯した罪を擁護する気持ちは毛頭ない。一報を聞いたとき、一ファンとして、憤りと悲しみで打ちひしがれそうになった。 「作品に罪はない」という意見は概ね正しいと思うが、それがイコール「作品の価値が下がらない」ということではない。ピエール瀧の逮捕後に今作を観て、少なからず彼の演技を訝しく観てしまったことは否めなかったし、それはたとえ“過去作”であっても、この映画にとって決して小さくないマイナス要因だった。  ただそれでも、この映画がエネルギーに満ち溢れた良作であることは揺るがないし、今作に限らず、一人の演者の罪によって作品自体が蔑まされたり、日の目を見ないなんてことは間違っていると思う。 詰まるところ、重要なのは我々受け手一人ひとりの「意識」のあり方なのだ。 先に呈したこの国全体の文化的リテラシーの低下にも関わることだけれど、この社会の文化意識そものもがもっと成熟しなければならない。 その上で、「現実」と「作品」との境界線をきちんと認識し、個々人が適切な判断と評価をするべきだ。 そうでなければ、アグレッシブでオリジナリティに溢れた創造活動などできるわけもなく、結果本当に面白い映画なんて生まれるはずもない。  これからも、今作のように「現実」を「娯楽」で笑い飛ばすような映画が生まれ続けてくれることを切に願う。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-03-17 11:48:18)(良:1票)
417.  BRAVE HEARTS 海猿
「海猿」シリーズもなんだかんだと第4作目。もはや毎度のことではあるが、これでもかと「奇跡」という言葉を連発する予告編に興ざめしてしまい、映画館へは二の足を踏んでしまった。 が、これももう毎度のことなのだが、いざ本編を観ると映画作品としての精度は別にして熱くなる。 それは、奇跡、奇跡と安直にのたまう海上保安官たちのことをあざとく感じる反面、こういう仕事をする人たちにはそういうことを言い続けていてほしいという願望がきっとどこかにあるからだと思う。 そうして、映画としての出来が良かろうが悪かろうが、シリーズ通じて結局目頭を熱くする自分が居た。  ただ今作においてはっきり言えることは、そういう個人的な趣向は別にしても、間違いなく及第点の出来映えを誇っていいパニック映画に仕上がっているということだ。 エンジントラブルを起こしたジャンボジェット機が決死の海上着水を試みるというプロットは、航空パニックと海難パニックの見事な合わせ技を見せ、往年のパニック映画の名作「エアポート」+「ポセイドンアドベンチャー」の図式を彷彿とさせる。  これまでのシリーズ作は、頭に馬鹿が付くほど愚直な主人公がただただ自らの精神論を武器に無闇矢鱈に人命救助に望むという構図が全面に出過ぎてしまっており、それがリアリティを著しく削ぐ大きな要素になっていた。 しかし今作においては、そういった主人公のこれまでの言動そのものをバックグラウンドに敷き、一定のリアリティと説得力をもってストーリーを進めることに成功している。 そこに3・11以降の「結束力」に対する価値が加味され、我々日本人にとっては特に感慨深いドラマ性を孕ませられていたと思う。  ラストの顛末など、相変わらずの御都合主義はあるけれど、それを分かった上で映画の中の保安官たちを応援してしまう。じゃあそれで充分だと思う。
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2013-02-05 23:44:55)(良:1票)
418.  ゴジラ2000 ミレニアム
初見時は、全く期待していなかった分、思ったよりも楽しめた要素が多く、ゴジラ映画として及第点を出した今作だったが、久しぶりに観てみると、なかなかの“トンデモ映画”だった。  1998年公開のハリウッド版「GODZILLA」に対する批判を受けて、「これが本家だ!」と言わんばかりに製作されたらしいが、描き出される諸々のアクションシーンやスペクタクルシーンは、いずれも何らかの娯楽映画の二番煎じ感が強く、皮肉にも「ハリウッド映画の見過ぎ!」と言いたくなる。  登場人物らの台詞回しが一々あざとくて、各俳優の演技も全般的に稚拙に映ってしまう。 無駄に威圧感のある高級官僚役の阿部寛の存在感と、ラストの「ゴジラーーッl!」からの自暴自棄ぶりはなんだったのか。(ゴジラを抹殺することに信念を燃やしつつも、誰よりもゴジラに憧れていたのは彼だったということか?)  ゴジラと対峙する存在もまた「異色」である。 この映画のタイトルを“VSバージョン”にするならば、ずばり「ゴジラVS未確認飛行物体」であろう。 映画の大半において、ゴジラは謎の「円盤(UFO)」との対決を繰り広げるわけだから、これはまさにゴジラ映画史上においても稀有な「異色作」と言えるだろう。 そして、その円盤から誕生する滅法ダサくて無様な宇宙怪獣にも注目である。  と、まあ散々こき下ろしているようにも聞こえるだろうけれど、この“トンデモ映画”ぶりは、ある意味ゴジラ映画らしいとも言え、突っ込みどころ満載のほつれ具合は、良い意味でも悪い意味でも東宝特撮映画の真髄と言えよう。  到底傑作とは言えぬが、ファンにとってみればこれはこれで味わい深い。 他作品では類を見ない絶望的なラストシーンも、「個性」として光っている。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2004-02-06 19:34:14)(良:1票)
419.  巨神兵東京に現わる 劇場版
「特撮」という“業”は、「破壊」の為にあると言っていい。 それは即ち、人間に唯一許された“神の真似事”と言ってもいい。  その真理において、“この題材”を「特撮」で描いたことは、まさに正しい。   「創造」とそれに伴う「破壊」に総毛立った。以上。
[映画館(邦画)] 7点(2013-05-27 23:53:35)(良:1票)
420.  ウルフ・オブ・ウォールストリート
乱れ飛ぶ欲望とドラッグ、そして3時間の尺を目一杯使って映し出される人間という生物の下衆の極みの様に、序盤から偏頭痛を覚える程にクラクラしっぱなしだった。  こんな人物のこんな人生が実在して、この悪行の果てに今ものうのうと生きているということに「世も末だ」と感じる。 が、それと同時にまったく逆接的な感情が、この映画を観ているにつれ大きく膨らんでいることに気付いた。 それは、実は世界中の誰しもが、この人物のこんな人生に憧れを禁じ得ないのではないのかということ。 勿論、世界中の殆どの人間は、彼の人格と生き様を否定するだろう、いや否定したいのだろう。 ただそれは同時に、彼のような生き方が絶対に出来ないことに対しての、人間という生物としての「嫉妬」ではないか。  “善悪”という価値観以前に、この世界に巣食うすべての人間は強欲なのだ。 強者が弱者を喰らうのは、至極当たり前のことであり、世界が彼を否定出来るのは、ただ単に彼の行動論理が、大多数の価値観に反しているからだ。 勿論それが社会の秩序というものであり、彼の行為を肯定する理由にはまったくならないのだが、この映画はそういう人間が本来隠し持っている真理をあぶり出しているように見えた。  一旦は失墜した主人公の言葉に群がり陶酔する大衆の眼差しを映し出すラストシーンは、人間のその愚かしい真理を如実に見せつけられているようで、思わず目を背けたくなった。   このあまりに荒削りで猛々しい映画が、71歳の大巨匠の最新作であることには驚きを越えて唖然としてしまう。 マーティン・スコセッシという生ける伝説は、映画監督という表現者の極みすらも通り越し、若返っているように思えてならない。  そして最後に言及しておかなければならないのは、勿論主演俳優レオナルド・ディカプリオ。 もはやハリウッドの頂点と言って過言ではないこの俳優が“汚れられる”ようになって久しいが、今作での汚れっぷりは尋常ではなく、どこまでも滑稽で、どこまでも凄まじい。 彼のキャリアはまだこれからも長く長く続くだろうが、このジョーダン・ベルフォート役が現時点での集大成であることは間違いない。  ともあれ、ジョーダン・ベルフォートという人物が最低最悪のクソ野郎であることは、最も間違いないことだけれど。
[映画館(字幕)] 9点(2014-02-11 13:54:28)(良:1票)

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS