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パブロン中毒さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 914
性別 女性
ホームページ http://ameblo.jp/cluttered-talk/
自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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301.  さらば、ベルリン 《ネタバレ》 
この作品は映像を楽しむものではなくて、「謎解き」のほうがメインなのではないかと思います。 クルーニーとかブランシェットを投入して過去の名作を濃厚に匂わせるなどしてしまったので、もっと雰囲気やムードを楽しませてくれるかと期待されがちだが、そんな意図は全然なく、「謎解き」や、「歴史」との絡みで唸らせることを狙ったのではないかと思う。 そういう意味では、バホ「ブラックブック」とかのほうが近いのではないか。 この作品のミソはどこなのかと聞かれたら、私なら「エミール・ブラントにトドメを刺したのは誰だったのか」と答えるなあ。 「英語がしゃべれない」というのは嘘に決まっている「元ドイツ人警察官」の無口なおっさんだが、「なぜ彼がエミールを殺したのか」ということを考えるととても面白い。 なぜなら、私はバーニーがレーナとエミールを裏切って殺したというふうには思っていないからだ。バーニーは「自分の指示だった」ということを一度も言っていないと思う。また、レーナはトドメを刺されていないから、殺意は明らかにエミールだけに向けられていたということもある。 バーニーはマラーたち米軍に「待ち合わせ場所」を密告したかもしれないが、「殺し屋」まで送ってはいないと思うのだ。1人目の殺し屋は米兵だった。 米兵が失敗したあと、例のおっさんは動き出すのだが、これがバーニーの指示だったというふうには、私は思わない。なぜならバーニーは密告しているので「軍がエミールの口をふさぐ」ということを知っているわけなので、「もしも失敗したときのために部下を配置する」ということは「介入」になり不自然だ。 百歩譲って「観察」のために部下を配置したのだとしても、「失敗したら殺せ」という命令をバーニーがしていたとは、私は考えない。 おっさんがバーニーの命令ならずしてエミールを殺した理由を考えてみるのはおもしろいと思う。 おっさんはもしかして「元ドイツ人警察官」ではなくユダヤ人なのか。ドーラでの非人道的行為に対する復讐だったのか。それともやっぱりドイツ人で、ドーラでのことを公にされたくないという「死んでいるヒトラーもしくは上層部からの」指示を忠実に守ったのか。もっと言えば、おっさん自身がドーラでの行為に関わっていたのか。 そのへんのことを明らかにしないまま終わるところが、ミソなのかなあと思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-04-19 15:27:32)
302.  グッド・シェパード 《ネタバレ》 
リドリー兄弟が製作総指揮を務めた(ということになっている)TVドラマ「CIAザ・カンパニー」と比べて見るとこの作品の特異さがよくわかると思う。 TV版では、血湧き肉踊る「現場」へ主人公が赴き、銃弾は飛び交い、東欧の住民蜂起では共に銃を持って戦い、現地人はコロコロと死に、スパイは殺し合い、キューバ侵攻に参加して上陸までする(泳いで単身船に戻って逃げるという設定)。 八面六臂の大活躍で、主人公は決して死なない。よってリアリティは激しく低い。 デニーロ版では、銃弾飛び交う戦闘シーンとか住民の蜂起とかは描かれず、凄惨な拷問シーンも一回だけで、「スパイ合戦」などは部下がやっているらしいからウィルソン自身は決して手を汚さない。 「前線」ではなく「前線の一歩も二歩も奥」を描いているのだ。 この作品は「奥の方々のお悩み」のことを言っているみたいなのだ。 そして、この当時の「奥の方々」とはWASPであり、作品中で最も重要なセリフである「WASP以外は〝visitor〟である」が登場するのである。 この〝visitor〟は〝お客さん〟と訳されていたが、私は〝よそ者〟というのがここでは適すると思う。 さて、こんな作品を作ったのはデニーロさんで、デニーロさんは〝よそ者〟と呼ばれる側の人なんである。そして上のセリフは、イタリア人マフィアのじいさんとウィルソンの会話である。 デニーロさんの目線は、ウィルソンの側にあったはずはないのだ。デニーロさんは、「奥の方々のお悩み」について本当に、心から、興味を持てるのだろうか。 それがこの作品をよそよそしいものにしているのではないか。 また、デニーロさんがデイモンに要求した演技の内容は、そのままデニーロさんのWASP像ということでしょう。…材料が乏しすぎたのでは。「本当はよく知らない」から、こういうことになったんじゃ? 今は〝日焼けした人〟がホワイトハウスの主になった時代。 〝visitor〟の内訳は変わったんでしょうか。 マット・デイモンがミス・キャスト。老け役が無理すぎ。それ以上に彼は「奥の方々」的なキャラではなかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-18 14:24:22)
303.  ゴッド・アンド・モンスター 《ネタバレ》 
「〝フランケンシュタイン〟は死を扱ったコメディだ」とホエールは言います。 だから、映画を見たら笑ってほしかったのだそうだ。 〝ヒトの死〟は尊厳あるものとされているので、ホエールのバックグラウンドを知らなければ単に掟破りなやりすぎマンということになる。 が、〝ヒトの死〟を戯画化しなければやっていけないような経験が彼にはあって、それはもう、そんな経験をしてしまったら冗談でも言わなければ発狂してしまうよ、というような凄惨なものだった。ヒトは精神的に追い詰められると、冗談で回避しようとする生き物なのかな。 金網に引っかかったまま腐っていく戦友から、〝フランケンシュタイン〟が生まれた。 凄まじいなあ。 全体的に「収束の美学」みたいなものを感じました。「拡大」の時期がとうに過ぎ、人生の終わりのほうで、風呂敷を畳んで、大事な荷物を捨てて、去る時期が来たことを知ったとき。どのように去っていくか。どのように去りたいか。 ホエールは脳卒中による幻覚に悩まされるようにならなければ、もっと別の去り方をしたかもしれない。 コントロールできない幻覚の内容は、彼にとって耐えられないものばかりだったので、どんなに辛かったかと思う。思い出したくない過去のシーンを、いつなんどき見せられるかわからない状態は、拷問であろう。 庭師とホエールの関係がいったいなんであったのか、ラストの映画中映画シーンで示される。感動的…といえるかもしれない。 しつこくエンドロールを見ていたら、ホエール作の絵画(の本物)をジョエル・コーエンに借りたと書いてありました。…なんでそんなもの持っているんだ。アトリエにあった絵画の何点かはホエールが書いた本物ということです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-18 13:52:57)
304.  ハーヴェイ・ミルク 《ネタバレ》 
84年のアカデミー賞ベストドキュメンタリー受賞だそうです。 ハーヴェイの生い立ちに詳しく触れていないとか、彼の政治活動について通り一遍の説明しかしていないとか、彼の恋愛関係について全く触れていないとか、金銭問題はなかったのかとか、ドラッグはやっていなかったのかとか、消化不良の点はいっぱいあるが、まあこれは殺されてしまった哀れなハーヴェイへの追悼映画、ということである程度美化されても仕方ないのであろう。美化することで、実物よりもつまらないハーヴェイ・ミルクになってしまったのではないだろうか。 申し訳ないけど私はハーヴェイ・ミルクよりもダン・ホワイトにほうに、激しく興味が湧く。 私なりにダン・ホワイトの犯行を分析してみますと、これは「失敗した無理心中」ですね。 ダンは市長とハーヴェイを道連れに死のうとしたのです。 彼は「世界が終わった」と感じ、1人で死ぬことができずに無理心中しようとしたのだった。 見るからに虚勢を張っていて、建て前ときれい事しか言えず窮屈で余裕のなさそうな、まさにコロンボドラマの犯人役に出てきそうなダン・ホワイトにとって、何が「世界の終わり」なのかというと、「家庭の崩壊」です。 具体的には、妻から離婚を迫られたのです。 理由にはいろいろな可能性があるが、たとえば、言いなりの条件で離婚に同意しなければ、妻への暴力について被害届を出すと脅されたら、元警官のうえ有名人である彼は相当追い詰められたのではないか。 妻に捨てられたという事実は、ダン・ホワイトにとって決して他人に知られたくない恥部なので、自ら語ることは絶対になく、こうなった以上は妻も隠すでしょう。 実際にダンは85年に自殺したそうですから、もともと「自殺志向」だったのです。 また、ダンはハーヴェイ個人を嫌っていたわけではないと、私は思う。「自分に対していつも誠実(オネスト)に接してくれた」と言っている。 けれど、学歴でも収入でも人気でも〝恥ずべきゲイ〟であるはずのハーヴェイより劣ることになったとき、ダンが唯一勝てるものだった「ファミリー」が崩壊して、彼の中で「世界」は終わったのです。たぶん。 ダンの妻がインタビューに応じたこと自体が不思議であり、なにか自分の「アリバイ作り」的なものを感じるし、妙に落ち着いていて怖かった(分かる人は分かるよね)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-03 15:47:40)
305.  アグネス 《ネタバレ》 
ジェーン・フォンダが出ていれば、それはおおむね駄作ではない。 美人で知的で金持ちの生まれなのに、なぜかこきおろす気にならない。 私はジェーン・フォンダ好きなんだよなあ。 プライベートで話すときはまるで大学教授のような話しかたをするし、セクシーなアメリカ人女性なのにインテリという変り種。シャロン・ストーンもそうだけど。 さて、「相手の男はいったい誰なのか」という興味だけで1時間半引っ張ったあげく「不明」というふざけた回答の本作だが、やっぱり「不明」にするしかなかったかもなあ。 「不明の男」は修道院近辺をうろついて歌を歌って注意を引き付け、秘密の通路から納屋に現れたアグネスをレイプした。なんだそりゃ。 …これは、シスター・ポールに仕組まれたということですね。シスター・ポールも生前にその男を見たとアグネスは言っている。 50年間修道院で過ごしたシスター・ポールは、80過ぎて自分の死が近づき、哀れなアグネスを修道院に埋もれさせたくないと思ったのだ。 秘密の通路をアグネスに教えたのは、シスター・ポール。死の床で、アグネスだけに分かる何かをつぶやいたのは、「不明の男」との密会を導く合図だったに違いない。 シスター・ポールは、生前に「不明の男」と何らかの接触をし、アグネスを誘惑するよう頼んだのだ。 死にかけた尼さんのくせになんでそんなことを、と誰もが思うだろうが、死にかけた尼さんだから、荒療治を用いても、アグネスを修道院から出したかったのだ…と私は思う。 しかし、シスター・ポールの善意は思わぬ悲劇へ発展し、妊娠と子殺しを招き、そして結局アグネスは死んだ、のだと思う。そんな感じのラストだった。 すべての原因であるシスター・ポールは死んでいる。相手の男は不明。子殺しをしたアグネスは知的障害。 さて、誰を責めたらいいのでしょうか。責める相手が居ませんよね…という話。 佳作だと思うが、教会への配慮から、色々な意味で遠慮がちな作品になってしまっていると思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-01-29 23:57:42)
306.  わが命つきるとも 《ネタバレ》 
まさにイギリス版「秀吉と利休」だが年代的にはこちらが先だろう。 視覚的な効果は単に添え物であって、見た目が作品を壊さなければそれでよく、作り手の意図を理解するには「会話」がすべてという疲れるタイプの作品である。ラジオ劇でも可、かもしれない。 さて、会話に目を凝らし(ヘンだなあ)た結果、私はなんだかトーマス・モアにブレを感じたのである。 大法官を辞した直後、彼は「法が自分を守る唯一の砦」であると考えていて、そのため、他人のためにも法を守るわけだ。「法は自分を守るし他人も守る」ものなので、裏切る可能性が大でも捕らえる理由のないリッチを見逃した。それに、「沈黙」していれば罪に問われるはずはなく、万が一糾弾されても「抗弁」する自信があると言っている。 ここでモアが言っている「法」は、「国が決めた法」のはずで、「神様が聖書で言っている〝法〟」ではないようだ。「国家の法」ならば、それは「〝市民〟の成立と発展」に直接関係することであり、「市民社会」が成立するには「自分も相手も約束ごとを守る」状態が必要である。 モアは自ら法を守り、他人にもそれを当然のことと期待している(結局それは無駄だったが)。「市民社会」を成立させ維持したいからだ。 私はモアが最終的に守ろうとしたものは「ソレ」なんじゃないかと思ったのだ。 中世に芽生え始めた「プレ市民社会」を守るためには、君主の我儘で「国の法」をいちいち変えることはイカんのだと。法を曲げてまで、沈黙している者を罪に問うてはイカんのだと。 そう思っていたのだが、最後になるにつれて、モアは「法が自分を守ってくれる」から遠のき、「王より神に従う」と言って死んでいく。 …それは、「神」ではなくて「ローマカトリック教会」か「法王」に従ったということではないのか。 神がモアの前に現れて「ヘンリーの離婚は認めない。よって再婚も無効。」と言ったわけはないので。 法王がヘンリー8世の離婚と再婚を認めないから、自分もそれに従って死んでもかまわない、と、モアは本当に思ったのか。最後の瞬間まで。違うだろ…。 というわけで、やっぱりブレたと思うんですよ。この作品内では。こうするしかなかったのかなあ。 モアの斬首はヘンリー8世の無茶苦茶による多くの処刑の中の一つでしかないが、同じ斬首でも信念を貫いた場合は価値があると思いたい…市民社会や国家の法を守るためだったのなら。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-01-28 21:00:48)
307.  イカとクジラ 《ネタバレ》 
まっフツーの国の人が見れば、問題点は明らかなので、この「メストアップ」な状態はアメリカ人のセックスに対する優先順位が高すぎるから起こる。 それは女の数が足りない期間が長く続いたという不幸な歴史をしょっているためだが、それにしても、もういいかげん自分らで気がついたらどうなのか。 人生にセックスというオプションはあるが、酸素や食料と違って、なくても死ぬということは、ないんだ。けど、あそこの国の人たちは「セックスの相手の確保」と「恒常的にセックスで満足を得る」ことが、呼吸や食事と同じかそれ以上に必要なものと思い込んでいる。…それで、しなくてもいい苦労をしたり、余計なトラブルがいっぱい起きてる。 大人の価値観が子供に伝わって、子供たちも、セックスが一大事だと思いこむ。 セックスは、してもしなくてもいい。オプションだから。 この作品の中で、最終的に長男がそのことに気がついて、「この国の大人たちはなんかおかしい」と表現してくれれば、わざわざこういう作品を作った意味もあると思うんだ。 でも、そういうふうにはならなくて、なんだか「不安の正体」を直視しに博物館へ行く、もう「不安」から逃げないぞ、みたいな「少年の成長系」締め方になる。 違うんだって。その不安は、大人たちがヘンだからあーたたちが巻き込まれて発生したんであって、あーたの親だけじゃなくて国全体がヘンなんだって。確かに、父が学歴だけが自慢の貧乏で嫌味なインテリだったり、母が淫乱だったりという、その家庭ならではの特殊事情はあるにしても、「国がしょってる問題」のほうが大きいんだって。 こういう終わり方をしては、根本的な原因がまたうやむやになるだけだ。 フツーの国では、やたらと子供にセックスの話なんかしないし、上の子が高校生になってまで、両親がセックスの相手を必死に求めていたり、自分の親と親友の親がデキてたりなんてことは、たま~にはあってもそんなにはないんだって。 結婚=キングベッドで夫婦が一緒に寝る、という鉄則なんか、そもそも無い国だっていっぱいあるんだよ。40過ぎても週に数回セックスしないと愛が無いなんて、誰が決めたんだ?だいたい、「愛」がなくなったら離婚しなきゃって、誰が決めたんだ? アメリカ人は、優先順位を考え直す時期をとっくに過ぎているんだけどなあ。 でも、べつに啓蒙する気がないならなんでこんな映画をつくるかな。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-10-19 20:32:34)(笑:1票) (良:1票)
308.  バーン・アフター・リーディング 《ネタバレ》 
これは〝アンチ〟の作品ですね~。 何に対するアンチかって、私がふだんからさんざん見ているような「テロリスト」とか「スパイ」が出てくる国家的陰謀系映画やドラマですよ。 それらの山のような作品群と、コレと、どこが何が違うかというと、見ればわかるように〝物事はマヌケなハプニングで動いていることが多い〟であり、〝誰もがマトモな目的を持って合理的に行動しているわけじゃない〟である。 〝並みの作品〟では、全くもってその逆になっているのであり、これだけの量を見てくるといくらボーッとしている私ですら、「物事はそんなに目標どおりにうまく運ぶものかなあ」とか「計画どおりにサクサク行きすぎるよなあ」とか「煩悩にかられてワケのわからない行動をする人とかいないのかなあ」とか、思うわけです。ようするに「不自然」なんだ。 コーエン兄弟がこういう作品を作って「不自然」と主張してくれたことは、評価したい。こういうのが主流になることは、ないとは思うけどさ…。 でもまあ、キャストが豪華すぎるわりには、なんだかな…。 はっきり言うけど、豪華すぎるんだよ。このテーマで主役級の俳優を何人も使う必要があるのか? そしていつものお気に入り女優を出すのはどうなの? 私は別にコーエンファンというわけではないので、そういうのがあざと~い感じがしていまいちノレないですね。「オレらの作品なら、こ~んな超A級俳優も低ギャラで参加したがるんだよん」って大書きしてあるのと同じ。 見慣れた俳優さんが何かしているというシーンばっかりだもの。べつにこの作品は、役者さんの微妙な演技を鑑賞させるための作品というわけじゃないのに。 これさあ、BC級俳優で固めたら、テーマが際立ってけっこう面白くなったんじゃないでしょうか。 ちなみに、こういうキャスティングだとどうしても上手い下手が目立ってしまうが、最も良かったのがマルコヴィッチ。見ていられないほど最悪だったのはブラピ。
[地上波(字幕)] 7点(2010-09-26 01:22:09)
309.  ありふれた愛のストーリー 《ネタバレ》 
ちょっと変わったお話です。 …本当をいうと、かなり違和感を感じる話です。 39歳のバツイチ子持ち女を中心に、男女関係のあれこれを描いています。 私はかなり考えました。…いったい何が言いたいのかと。 「Aの子供なら中絶するけれど、Bの子供ならこちらから迫ってでも産む」というわけです。AやBには特定の男性の名前が入るのです。 このへん、とうてい誰にでも共感できるなどというレベルの話ではありません。 そして、私はマリーと同じ女ですけれど、妊娠したことがないのでその気持ちが〝アリ〟なのかどうかすら判定できない。 まあこういうことです。マリーは若い頃に離婚したジョルジュとの間に16歳の息子がいて同居しているが、あと2年もすれば彼は巣立って出て行く。そうなると淋しくなるに違いないので不安になり、大人のつきあいのセルジュに腹を決めさせようと妊娠してみた。しかし、妊娠してみたら、実は自分はセルジュの子供を産みたくないということがわかった。で、中絶しセルジュとも別れた。そこにたまたま前夫のジョルジュが現れ、同棲中の若い彼女がいることを知りながら積極的に迫り、避妊をしないでヤリまくって見事妊娠する。しかし結局若い彼女に負け、ジョルジュに捨てられるが、子供をゲットしたマリーには男は不要で、再びシングルマザー生活へ…。 なんかこう、ドロドロした話ですがたいへんドライに描かれているのでかえってコワい感じがしますね。 見終えた結論は、何度止めても自殺してしまった友人も含めて、「生死は本人に決定権があり、誰にも奪えない」ちゅーことなんでしょうかね。その場合、胎児については母体に決定権がある、ということですね。これはもう、キリスト教とは全然関係ないところの話です。まあアメリカの一部の地域では上映できないでしょう。 …不思議な作品です。殺伐とした洗練、または〝ブキミ〟というのが合っています。私はマリーみたいな女性とは友達になりたくないです。ブキミだから。
[地上波(字幕)] 7点(2010-08-27 21:39:38)
310.  苺とチョコレート 《ネタバレ》 
〝革命〟とか〝ゲイ〟とかいう過激なものを扱っているわりに非常に冷めたというか浮ついたところのない、気負いを超えたある意味「達観」の境地に至らないと作れなかった作品と思います。 この作品世界では、誰の肩も持たず出来事を時系列で淡々と語るという難しい演出に成功していると思う。異性愛が正しいとも同性愛が正しいとも、革命が正しいともそうでないとも、言っていない。 反対の立場にある二人が、〝対話〟を始めて最後にはお互いを認めるところまで行く…という話です。 ディエゴにもダヴィドにも突っ込みどころが満載なのに、ここでは彼らはそのことが原因で深く悩んだりしません。 つまり、「見知らぬストレートの青年をベッドに連れ込めるかどうか賭けたりするディエゴの下品さ」とか「己の黒人蔑視に何の矛盾も感じないディエゴの鈍感さ」とか、「初体験を済ませたら(しかも年増の半分娼婦のような相手)、まるで憑き物が落ちたようにほがらかになってしまったダヴィドの単純さ」とか「結局女なら誰でもいいのか」とか…欠点だらけの彼らを批判することなく、そのまま終わるところが持ち味…ラテンの味? 特筆すべきは、ディエゴ役の俳優さんのオカマ演技の素晴らしいことで、これがなければ作品の魅力は八割がた低下していたと思う。ディエゴが魅力的なのに比べて、ダヴィド役の青年はガイコツ系で、ガリガリ過ぎてなんだかなあ。私は「栄養失調」とか「収容所」とかいう言葉が消えなかった。 オカマ演技が素晴らしいということは、ネイティブのオカマではないと私は思うんですよね。ハーヴェイ・ミルクにショーン・ペンが選ばれたのもそういうことだそうですし。 つまるところは「対話」を成立させることについての作品です。一見の価値はあります。 しかしあの「祇園・京都」とかいう変な浴衣はどうやって手に入れたんでしょうか…。
[地上波(字幕)] 7点(2010-08-06 15:39:31)
311.  デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー<TVM> 《ネタバレ》 
CSで放送されたブレードランナーのメイキング&インタビュー映像。マニアにとっては垂涎ものと思われます(私はマニアではないけど)。 多くの観客と同じく、私も若い頃に初めて見たときは「つまらない」と思って即忘れ、年月を経てその偉大さに気がついたクチです。 さて、この映像では強引にナレーションを付けたり制作費超過に怒っていた(当然だけど)「Pたち」と並んでなんと「リの字」本人もインタビューに応じています。すごいことです。年を取るとは、単に老けるということではなく「絶対にできなかったことができるようになる」ということでもあるのですね。 イギリス人であるリドリーとアメリカ人クルーの確執なんかも興味深い。どう考えてもリの字はヤンキーをバカにしてますね。まあ分からなくもないが。 また、憤懣やるかたなかったハリソン・フォードも肩の力の抜けた穏やかな語りぶりで、「時間」はほとんどいろいろなことを解決してしまうのだなあ、と思うことしきりです。 ごくごく当たり前のことだけど、天才は理解されないのです。理解されないヤツが全部天才、というのは違いますが。そして天才は常に周囲を理解しないか理解しないふりをしますので、映画のような共同作業でなければいけない芸術の場合は、手伝う人間はいつも悲惨です。天才を手伝うのは秀才か凡人なので、天才が目指すところを完全には理解できないというのに、天才のほうは妥協を知らないからです。キューブリックしかり、フリードキンしかり、コッポラしかり。 そうして私たちはスタッフの苦しみと涙のうえに成り立つ偉大な映像作品を鑑賞するのです。そうでない作品は面白くならないのだ。 …偉大な作品に「なごやかな現場」とか「家族的なスタッフ関係」なんて有り得ないのです。 このメイキングを見ていると、そのことを強く思う。偉大な芸術が生まれる場所には、口論と対立と怒りと疲労と裏切りと懐柔があふれているのだ。 スタッフがそろって批判Tシャツを着てこようが、天才にとっては次元の違う話なのだ。それが天才なのだ。…「エクソシスト」のメイキングも見ましたが、同じようなものです。フリードキンは現場でライフルをぶっぱなしたので、もっとひどいかなあ。役者に喝を入れるためだそうです。 このメイキングのタイトルはとても「わかってる」と思う。
[地上波(字幕)] 7点(2010-07-10 19:59:24)
312.  BOY A 《ネタバレ》 
ジャックとしてのピュアでシャイな少年像を見せたうえで、同一人物のはずのエリックがなぜ過去に残虐な殺人に加担したのか、そのへんを観客に納得させることにはとても気を使っていると思う。 エリックという家庭環境の不幸な子供がいました。勉強もできず、いじめっ子に殴られる日々。ある日、エリックよりもっともっと不幸なフィリップがいじめっ子からエリックを守ってくれました。エリックにとって信じられるのは、フィリップただ1人となって、フィリップにどこまでもついていこうと思いました。 疎外された少年たちが固い絆に結ばれて、絆を守ることがすべてに優先されて、エリックの年齢では善悪の判断がつかなかった。…そういうふうに説明していると思う。 が、カッターを握りしめて少女を追うエリックと、出所後のジャックには、同一人物とは考えられないほどのギャップがありますから「(追い詰められて自殺してしまうような)ピュアなジャック像」というのが先にあって、上の説明は後から考えたものなんじゃないかと。 テリーが情報管理にもっと注意したうえ息子に優しくしていたら、息子が金に目が眩んで密告しなかったら、白鯨ちゃんが新聞に写真を売らなかったら、クリスが電話でジャックを見捨てるようなことを言わなかったら、この中の一つでもなければ、ジャックは生きていた…と思われます。皆が少しずつジャックの自殺に加担しているわけですから誰ひとりこの件について「無罪」ではないということになります。 周囲のみんなが、少しずつジャックを死に追いやったのだ。 この人たちは罪を問われることはないが、ジャックはいつまでも憎まれたではないか…ってそら、やったことがやったことですから。そういう比べ方(をしているように見えるが)もヘンじゃないでしょうか。 エリック=ジャックという少年は邪悪ではなかったのだ、というふうに描かれていますけど、じゃあフィリップはどうなのかというと兄に虐待されなければ邪悪ではなかったので、ジャックを自殺に追い込んだ人たちも特に邪悪なわけではないのに結果的にそういうことをしてしまっていて、つまり全体を流れる思想は、誰ももともと邪悪じゃないけど誰もが少しずつ過ちを犯しているのだということで。 罪を犯していない者だけが石を投げよ、というふうに見えます。それだと本当に罪を裁けるのは神様だけということになります。またこんな感じ…。
[地上波(字幕)] 7点(2010-06-21 20:35:44)
313.  ショック集団 《ネタバレ》 
3人の目撃者はそれぞれアメリカが抱えていた深刻な問題を象徴していたわけで、戦争(兵役)、人種差別、科学の暴走(盲信)というわけですね。人を狂わすほどの深刻な問題を挙げろと言われれば。 もう2~3年遅ければ、「マフィア」とか「国家的謀略」を抜きにすることはできなかったでありましょうが、それでも、この時点で「アカの脅威」とか逆に「アカ狩りの恐怖」は入れてこなかった。それらは戦争や人種差別や科学の暴走を押しのけてまで「人を狂わす」とは言えないと考えたのでしょうか。…ここのところのチョイスに作り手の意思が最もあらわれているはずなので、関心を持つべきはジャーナリストがいかに狂っていくかということよりは「チョイス」に対してです。 3人の目撃者がなぜか名乗り出た?そして氏名が公表されたか情報が漏れたという、著しく不自然な設定はリアリティに問題があります。 また白黒が残念な気がします。精神病院の雰囲気を白黒であらわして、記憶をカラフルなものとして強調したいというのはちょっと安易じゃないでしょうか。ともあれ、意欲作です。
[地上波(字幕)] 7点(2010-06-20 00:00:29)(良:1票)
314.  ファウンテン 永遠につづく愛 《ネタバレ》 
ユダヤ系アメリカ人という西洋人であるところのア氏が、〝死に対する恐怖〟への克服を東洋思想やマヤ文明という「外側」に求めたという意味で画期的な作品です。 作品内には一切「創造神」の観念が出てきません。これは西洋人とくにユダヤ人が作ったということを考慮すれば「大変なこと」です。それだけ、「他の作品」には「それ」が必ずあるからです。 さて、そういう前提を踏まえてもう一度この(一見)難解な作品を見てください。 な~んだ、大して難しいことは言ってないじゃないか。 トリッキーな映像を駆使して観客を混乱させ、一時間半ののちにヒュー・ジャックマンのセリフまで引きずってきてやっと「オレは自分が死ぬことが怖くて仕方ない」という本音を聞かせるわけです。 「なんだそんなことか」と言うなかれ。それはあなたが今現在健康で若くて楽天的だからという、それだけの理由です。例えば哲学者の中島義道は、幼少時から自身の死を恐れ続けて哲学に進み、還暦を過ぎた今も死ぬのが怖くて気が狂いそうなのです。彼は哲学者なので、死後は「無」になると思っているからだそうです。 「自分はいつか死んでいなくなる」という恐怖の事実と共にどう生きるか、西洋人にとってはGODのまします「天国」に行くことが答えです。ア氏はこれを退けた。死後のイジーは天国に行っているわけではありません。 それはラストで「万物流転」という形で表現されました。…ア氏から観客への直球が投げられたわけです。しかし、キャッチしてくれる観客は少ないだろうなあ。 例えば普通の日本人だったら「難解なファンタジーですか?」という反応になる。 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者にとっては、ア氏の直球を受け止めることはすなわち「改宗」を迫られることを意味します。これは大げさではありません。なんたって「全能の神はいない。死んでも天国には行けない。」のだから。 そういうような、危険な球を投げてきたある意味勇気あるア氏ですが、ひとつ指摘すれば彼の限界を感じる部分がある。 なぜ、妻が死ぬ側でなければならないのか。なんで逆ではいけないのか。 妻を救おうと奔走する夫って、あんまりにもありきたりじゃないですか。新しさを追求するならそこまでやってほしい。 ここは、逆にしてみるべきだったと思う。妻を聖女のように描かないでもらいたいしね。ここらへんが男であるア氏の限界。
[地上波(字幕)] 7点(2010-06-14 14:32:23)(良:1票)
315.  パッション・ダモーレ 《ネタバレ》 
〝好き〟の反対は〝嫌い〟ではなくて〝無関心〟である。 なんたってフォスカが登場するまで30分も観客をじらしているんですからね。 同じくジョルジョもじらされて、〝関心〟を持っただけでなく顔を見て叫び声を聞いたら〝大嫌い〟になってしまいます。こうなればもうこっちのもの、フォスカの勝ちです。 そのブスだブスだと評判の彼女、そんなにブスとは…つまり、感動するほどのブスには見えなかったのです。美醜感覚の違いでしょうか。 確かにアントネッリのほうがどうみても美人だし、フォスカはげっそりして、目は落ち窪み、出っ歯ではあるが…わざわざ見に行くほどのブスではありません。ちょっと太って歯を治せば充分イケる顔じゃないですか。 なんというか、30分も客を待たせるのなら、もっと感動するほどのブスを見せてもらいたいんだ私は。 ま、それはともかく、フォスカ登場後の展開はホラー映画の要領で進み、なかなか驚かせてくれます。ここまでする女は映画界広しといえどもフォスカの前にフォスカなし、フォスカの後にフォスカなしと言ってよいでしょう。もうほんとうに思い切りが良いですこの監督さん(不遇だったらしいけど)。 本筋と関係あるのかわかりませんが、冒頭のクララの部屋シーンで私はぎょっとしたのですが。…鳥カゴのある部屋に猫を入れるなよ!!鳥飼いにとっては絶対の禁忌なんですけど。実際に喰われるかどうかという問題より、捕食者と同室になるだけで小鳥にとってはすごいストレスなんですから。もしかしてクララの性格を暗示する描写なんでしょうかねえ…。それとも単なる当時の風習なのか、作り手が無神経なのか、よくわかりません。 ともかく「ハンサムで優しいということはそれだけで罪だ」とかとかとか、イタリア映画らしい意味深なセリフもいっぱいですし、なかなか楽しめます。最初の30分をガマンすることです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-05-18 21:25:31)
316.  ゴーストワールド 《ネタバレ》 
それまでずっとリアリティだと思って見ていたので、ラストのバスシーンおよびシーモアのママ同伴セラピー通い及び、エンドロール後のシーモア大暴れシーンを見たのち、しばし考え込んでしまった。 もしかすると、バスシーン以外にも「現実に起こっていない出来事」が挿入されているという禁じ手が使われていたのか?まさかそんな、「ピアニスト」みたいなヘンな映画なのかコレは。 けども辻褄が合わなくなるのでいちおう、妄想シーンは含まれていないというふうに見るしかない。 しかし、完全にリアリティの映画というふうにもいえない。 バスに乗る前のイーニドの状態はというと、親元には住めず、おそらくレベッカとの同居もあきらめ、今さらシーモアとの同居も見込みは乏しく、高卒資格は帳消しで、美術学校の夢も消え職を探す気も失せた、ということになります。八方ふさがりとはまさにこのことです。全部自分が招いた結果であるが。 さて、このあとイーニドだったらどうするのか。レベッカに聞かれて「I'm not sure」つまりまだよくわかんない、というふうに答えています。 ここに及んで作り手は、彼女をビルの屋上とか線路脇に連れていかないで、ファンタジーに逃げたのです。このやり方については、賛否両論ありそうだ。ミステリアス感が増したとはいえるが、私は、ビルの屋上に佇むイーニドのショットで終わるべきだったと思っている。飛び降りたかどうかは観客にまかせればいい。 さて、イーニドの苦しみはハイティーン特有のものには違いないが、「母の不在」を抜きにしては語れない。女子にとって「母」=「縁を切れない反面教師」であり、しかも相手は自分を愛しているというやっかいなことなので、これすなわち「折り合うしかない」存在なのだ。大人になるために最も必要な「折り合う」を学ぶための最適教材=母、なのだが、それができない環境にあるイーニドは「バカとは折り合う必要なし」を貫いているつもりになっている。と私は思うのだ。 ボロボロになったシーモアがママに助けられていることも実は意味深で、作品中であえて全く触れられていないイーニドの「母の不在」こそが、大きなマターであるように思える。 「ゴーストワールド」の意味とは「私たちは地球に優しい石油会社です」という作中CMが象徴するように、周囲の人間がすべて「偽善者」に見えているイーニドの精神状態を指していると思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-04-11 23:40:58)(良:3票)
317.  愛されるために、ここにいる 《ネタバレ》 
どういうわけだかこのところフランスものばかり見ていまして、もう頭の中がほにゃらら状態になったため(全く理解できないフランス語を何時間も耳にしているため)、放送大学のフランス語入門で勉強しようかと思っているこのごろです。言葉が少しでも聞き取れないと、非常にツラい。 で、「DISCO」を見てフランク・デュボスクに入れあげているところに、また仏版オヤジ挽回映画タンゴバージョンが…。 このクラ~い映画を無視できないと思うのは、「DISCO」がコメディであることもあって「日常に生じるさまざまな不都合」をすべてカットしてストレスを無くしていたのに対し、コレはほとんど「それがメイン」という感じに作ってあることです。そうだストレスがメインなのだ。 家族に疎まれているおじさんの灰色の生活に、一筋の希望の光が差し込むそれは「若い女」…。 …私なんかはここんとこでひっかかっちゃう。なんで「若い女」でないといけないのかな。自分の世代の女性では、いけないのかな。 フランク・デュボスクとエマニュエル・ベアールなら、違和感はありません。しかし、ジャン・クロードは50歳。相手の年齢は不明だが30代前半か? 主役の俳優さんがあまりにも老けすぎているため、「若い女」を追い求める姿にイヤ~なものを感じてしまうのです。 女なら、事務所にちゃんといるじゃないですか。しかも同世代の人が。あの人ではなんでいけないのか。ちゃんと答えなさいジャン・クロード!と言いたくなる。 ストーリーや演出は、似た者親子や優勝カップのエピソードなどなかなか巧みです。なぜヒロインがあのおじさんにホレたのかがいまいちわかりませんが。 しかしなあ、おじさんを元気にさせるのはいつの時代も若い女(だけ)なのか…そういうのって当たり前すぎてすっごい虚しいわ。個人的には、あんまり認めたくない。 おじさんとおばさんの映画ではヴィジュアル的にダメなんでしょうかね。ポツポツとはそんなのもありますけど、そういうのをもっと見たい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-03-31 20:10:42)
318.  I SHOT ANDY WARHOL 《ネタバレ》 
8bitさんご指摘ありがとうございました。原題で検索していませんでした。 そういえばジョン・レノンを撃った男の映画もありますねえ。 いかにもヒラリー・スワンクがやりそうな役柄ですがオファーが無かったんでしょうか。 この女性は単に「頭のおかしい人」ということで済まない何かがあるということですね。映画にする価値があると。 私も単に「ビョーキの人」ということでヴァレリーを評価してそれだけでいいのかという気持ちがあります。それはいったいなんなのか。 「労働を拒否する」「他人の寄付で生活する(物乞い)のが当然である(そして恥じない)」「自分の主張は絶対に正しい&他人に広めたい」…さてさて、これは何かと似ています。というか同じです。いろんな宗教の創始者の人生に。 ヴァレリーのしていたことは、基本的にキリストや釈迦と同じです。これは「教祖様」の取る態度なのです。教祖様と乞食は紙一重です。 私は実は、彼女の主張が「男性撲滅」であったことについては、あんまり重要じゃないのではないかと思っています。それよりも、「教祖と同じ生活態度を意識的に選んでいた」ということのほうを重視したい。 私の評価はこうです。まかりまちがえば、または時代が違えば、教祖になったかもしれない人間が途中で失敗したケースであると。 まあ彼女の思想が「男性撲滅」である限り、成功する可能性はありませんけども(女はみんな男が好きですからねえ)、内容が違えばヴァレリーには一大教祖になる素質があった。だから「内容」はあんまり重要ではないと思うのです。キリストにせよ釈迦にせよ、最初は周囲の人間から大顰蹙をかって嫌われていたに違いないのです。ヴァレリーと同じように。 そして、人間界にはときどきこういう人が出るのだと思う。成功することは稀なので、おおむね精神病院で一生を終えたり、野垂れ死にしたりするのだと思う。ヴァレリーはそのうちの1人…という目で見たらどうかと思うのだった。 作品としては地道な作りに好感がもてる。ただウォーホル役はもっと貧弱な体格の役者にするべき。 カレの貧弱な肉体と、その肉体が作り出したアートが無関係であるはずはないからだ。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-03-13 13:33:51)
319.  フィッシャー・キング 《ネタバレ》 
従来のアメリカ製映像コンテンツの中に「無いもの」ばかりを集めてみました、という実験的な作品なのではないかと思いました。 罪悪感にさいなまれ続ける男。 家族を殺されても復讐したいと思わない男。 セクシーだけど野心家でも高圧的でも威圧的でもなくて尽くしてしまう都合のいい女。 ブスではないがセクシーでなく不器用でもてない天然女。 どうでしょう、他の作品で見かけない顔ぶれですよね。 これらは通常のアメリカ製コンテンツの中では、 とにかく自己を正当化することに熱心で、罪悪感はカウンセリングで処理する。 家族の仇はとことん憎んで復讐する。 セクシーな女性は威圧的に男性を誘惑し、野心家である。 ブスでないのにセクシーでない女は存在しない。 というふうに必ずなります。 なので、ここまで揃うと「意図的」としか思われません。 そして、個人的には「実験」は成功したとはいえない…と思います。 これは「一部のアメリカ人」には大ウケしたかもしれないが、9割がたのアメリカ人には理解されず、パッとしないまま20年近く経って忘れられていくタイプの作品なのです。 そして、失敗の原因は一つではないがまずジェフ・ブリッジスというあまり個性的とはいえない俳優を主役に据えたこととか、ギリアムの笑いはどちらかというとダークなシチュエーションでこそ生きるタイプのものであるとか、ジャックとパリーのどちらも死なないハッピーエンドにしてしまったこととか、「聖杯」についての話とストーリーの関係があまりにもわかりやすすぎる…。ジャックに金髪の白人を使うなら、ニック・ノルティくらい個性的な俳優でなければダメですし、「12モンキーズ」でのダークな笑いのキレの良さを考えると今回はほのぼの明るすぎますね。 最初から最後まで「籠の小鳥を見守るがごとき神の視線」が感じられ、つまり「人間が何をしていてもカミサマにとっては可愛くて仕方がない」ということを意識させたかったのでしょう。 それはいいのだがギリアムはやはりダークなもののほうが本領を発揮できると思われます。実験的に作品をつくるとやはりこういうことになりますね。  受賞は女優に対してではなく現実には存在しない「都合のいい女」に対する男性陣からのエールだったと思いますよ私は。「やっぱりね」という感じです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2009-12-07 16:06:05)
320.  今日も僕は殺される 《ネタバレ》 
最初のほうだけ見て一旦中止し洗顔歯磨き等に励んでいる間にいろいろ考えまして、「イアンは病院のベッドで昏睡状態である」という結論になり残りを見ます。 ああ~、最初の30分くらいはワクワクしたんだけどもなあ、こんなものかなあ。がっくり。 「寄生獣」という長編マンガを思い出します。あれは果たして英訳されて海外に出たのだろうか。 しかし、「寄生獣」を見たとしか思えないですよね~。あの手。 そういう意味でビジュアル的に「なつかしい」感じもしました。 それにしても出だしは良かったんだからもうちょっとなんとかならんかったものか。 それと愛の力で変身したとかそういうのはあまりに手垢がついたテーマで、ダメだと思います。こういうのを作るときは、美しくまとめようとしてはいけないように思います。この手の作品は「なんでやねん」と思ったまま終わってしまうくらいでも、いいのではないかと思う。 …これってラストのとこからすると、なんとなく続編が出そうな気がする。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2009-12-06 18:31:42)
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