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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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41.  HACHI/約束の犬 《ネタバレ》 
映画の冒頭、秋田県? らしき日本の風景が映し出され、子犬のハチが今まさにアメリカへと送り届けられようとしている。つまりここで、ハチが純然たる“日本の犬”であることが強調されているわけだ。当初は「?」なこの場面だけれど、見ていくうちにナルホドと納得させられるだろう。そうか、これはハチを通して「日本」を見つめようとする映画でもあったんだ、と。  投げたボールを取りにいかなかったり(あのスヌーピーですら条件反射的に追いかけるというのに!)、このリメイク版では、オリジナルの『ハチ公物語』にはない秋田犬ならではの性格が強調されている。こうした、“西洋人の眼から見た日本の犬”のストイックさと、しかし主人を全身全霊で慕うさまを、映画は、リチャード・ギア演じる大学教授と同じ驚きと愛情に満ちた眼差しで追い続けるのだ。そして、教授が文字通り「帰らぬ人」になった後、ハチがそれでも毎日駅に教授を迎えに行く。その忠誠心や忠義の徹底ぶりとは、まさに「無償の愛」そのものだ。そんなハチは、映画の作り手たちにとってたぶん、「サムライ」そのものだった・・・。  武士の心得を説いた書『葉隠』は、主君に仕える者(=侍)の関係を「黙って死ぬまでつき従う」ことの「究極の愛」としている。この定義ほどハチにふさわしいものはない(だからこそ戦前の日本で「忠君愛国」のイデオロギーにハチも取り込まれ、プロパガンダに利用されたのだった・・・)。それはしかし、主人が死んだからそれに殉じるというのでは断じてない。主人の死後もずっと慕い待ち続けるその「無私の愛」によって、洋の東西を問わず普遍的な感動を呼ぶのだと思う。本作の作り手はそこに、死の美学化ではない「武士道」の真髄を重ねているのだ。  それを、西洋人の単なる「日本幻想(オリエンタリズム)」というのはたやすい。でもこれは、アメリカから「日本(犬)」に贈り届けられた、慎ましくも美しい一編の“ラブレター”に他ならない。そして、そういった彼らの視点からこの忠犬物語を見直す時、ぼくたちはあらためて「ハチ」の生きざまを、純粋に愛おしむことが可能になるのだ。  HACHIィ~!
[映画館(字幕)] 7点(2009-08-21 14:33:12)(良:1票)
42.  ターミネーター4 《ネタバレ》 
まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。  それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。  そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。  それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。  結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票)
43.  死霊の盆踊り 《ネタバレ》 
・・・たぶん作り手たちの主眼は、まだ当時メジャーの作品では御法度だった女性のハダカを、これでもかこれでもかとスクリーンに映し出すこと、それに尽きるものだったはずだ。その点では、堂々10名ものダンサーを次々と“競艶”させる大サービスぶりこそ、彼らが考える本作の「商品的価値」だった。つまりこれは、あくまで「プレイボーイ」誌なんかの映像版、“動くヌード・グラビア”のはずだった。  ただこの映画は、単なるストリップショーのライブをフィルムにおさめるのではなく、あくまで“劇映画”としての体裁をとってしまう。それゆえ「ハダカを見せる」だけ以上の付加(負加?)価値を求められることになり、そっち方面でのあまりの低レベルぶりが、本作を「史上最低の駄作」ということで、良くも悪くもカルト化させてしまったのだった。しかし、どうしてただのストリップ映画が「ホラー」(と、言えるならだが・・・)であらねばならなかったのか? そこにぼくは、原作・脚本・共同製作エド・ウッドの映画への“愛”を見たく思うのだ。  映画の冒頭近く、三流小説家の男が婚約者に「他は全然ダメだけど、ホラー小説だけは売れるんだ」と自嘲気味(にしては、ちょっと得意気)に語る。あきらかにあれは、ウッド自身の投影であり、彼の心の声だろう。そしてウッド映画のお馴染みクリスウェルが口にする大仰でバカバカしい(だが、いたって大真面目な)与太からもまた、ウッドの「ホラー」ジャンルへの自負やら思い入れが伝わってくるじゃないか。ここに欠けているのは、そういう「(ホラー)映画への愛」を表現するための演出であり、スタッフであり、役者たちであるだろう。逆に言うなら、ここには「愛」(と、女のハダカ)だけがあって他には何もないのである・・・。  それでもぼくは、ここでのブーイングと失笑の嵐(と、一部の“倒錯”した絶賛)にもかかわらず、この作品の徹底した「無意味さ」と、それゆえ透けて見える「エド・ウッド魂(!)」に、ひそかなエールをおくることにしよう。【はちーご=】さんも書かれていたと思うけれど、あの政治的・社会的に混沌とした1960年代半ばにあって、ここまで「無意味」に徹しきれることもひとつのラディカルさに他ならないのだし。だから、点数は「0」でも、個人的には「10」です。あしからず。
[ビデオ(字幕)] 0点(2009-05-25 16:38:00)(良:5票)
44.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
イーストウッドが、玄関ポーチにすっくと立っている。それだけで、そこに“荒野”が出現するのだ。イーストウッドが、街の不良どもに凄みをきかせる。その時そこにいるのは、まぎれもなく“ダーティハリー”その人だ。イーストウッド自身が最後の出演作というこの映画は、彼これまで演じてきたアンチ・ヒーローな「ヒーロー像」の集大成であり、それへのオトシマエに他ならない。  この映画から様々な政治的・社会的な寓意やら見解を見出すことは容易だろう(そこから、アメリカにおけるマイノリティの問題を皮相的に扱ったとか、不良少年たちの側の「問題」の背景を見ずに単なる悪役として描いている・・・等の批判も出てくるわけだ)。が、そんなこと以上に、『許されざる者』が「最後の西部劇」だったようにこれは「最後のイーストウッド映画」なのである。「監督」としてのイーストウッドは、「役者」としてのイーストウッドのキャリアをここに完結させ、“封印”してみせた。ジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』が、まさにそうだったように。  クライマックスの、両手を広げて地面に横たわる主人公は、ほとんどキリスト(!)のようだ。ここでもまた観客は、この“聖人画(イコン)”から様々な解釈やら印象を語ることができるのかもしれない。しかしそれが、「最高の死に場所」を得た主人公を映画が“祝福”するものであること、そして「役者」イーストウッドの最後の勇姿への“餞(はなむけ)”であること、ただそれだけのことだとぼくは信じて疑わない。本作の主人公であるとともに「役者」イーストウッドそのものである彼は、ここで映画に、そして「監督」イーストウッドによって召された。それをこういう形で目撃できたぼくたち観客は、何と幸福なことだろう・・・   そう、何よりもこれは「幸福」な映画なのである。だからぼくたちも、心からの祝福と“歓喜の涙”で応えてあげようじゃないか。
[映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 16:45:40)(良:7票)
45.  パッチギ! LOVE&PEACE 《ネタバレ》 
ここでは3世代にわたっての、とある「在日」一家の生きるーーというか、“生き抜く”姿が描かれている。祖父の世代は苛酷な戦火のなかを、泥と血にまみれながら。二・三世である父母とその子供たちは、貧困と差別のなかを。そして四世となる男の子は、不治の病に対して。彼らはそれぞれの逆境を、時にのろい、時に怒り、時に嘆き傷つきながら、それでも生き抜こうとするのだ。  もちろん、彼らをそういった状況に追い込み、追いつめたのが日本という国家であり、その国民であることを、映画は真正面から描くだろう。けれど映画のなかの一家は、そんなことを告発や断罪する前に、とにかく必死に生きる、懸命に生きる。その姿を前にする時、「日本人」たちの何と卑小でみじめなことだろう・・・! そこでは藤井隆扮する「良い日本人」ですら、どこまでもひ弱で無力な存在でしかない(もっとも、彼は彼なりにーー愛ゆえに?--「意地」を通すのだけれど)。たぶん、彼らは我々にこう言うだろう。差別するなり反省するなり勝手にやってろ! と。  前作『パッチギ!』では、そういった「生」のエネルギーのほとばしりを高校生たちの群像ドラマに託しつつ、一方でそれを「在日」という言葉(=観念)に収斂させてしまうことで実に「上質」な(ということは、「映画賞の取れる」ような!)作品を撮りあげた井筒監督ら作り手たち。だが今回は、「政治」だの「歴史」だのといった観念性をブッちぎり、映画としての体裁すらブッこわしてまでも、主人公とその家族の「生」を、それだけを映像におさめようとした。そしてそれは、見事に成功したといえるだろう。何故なら、前作とうって変わってのこの「低評価」こそがその証じゃないか!  だが、これでいいのだ。映画が「生きるもの」たちの姿を、その輝きこそを映し撮るものだとするなら、これこそが正真正銘の「映画」そのものなのだから。  ・・・映画の最後、難病の男の子が、自転車にはじめて乗ることに成功する。彼は助からないかもしれない。しかし、それでもやっぱり生き抜こうとしている。その姿にふたたび家族がひとつになる。  何て美しい光景だろう。
[映画館(邦画)] 10点(2009-03-31 17:30:36)(良:1票)
46.  二十四の瞳(1954)
映画の中盤以降、主人公である大石先生はことある毎に泣いている。最後には、子供たちからも「泣きみそ先生」とあだ名される始末だ。でも、大石先生の流すその涙にこそ、昭和という歴史への、つまりは「戦争」というものへの“異議申し立て”があることを、この映画の作り手たちはまちがいなく自覚的である。それはただ悲しいからでも、つらいからでもない、「くやしい」からこそ流された涙だ。時代に翻弄され、押し流されながらなすすべもない時、人はそういう状況に追い込んだものたちに怒り、しかしそ気持ちの持って行き場がないから、泣く。そこには単なる「被害者意識」ではなく、もっと烈しい告発の意志がある。だからこそそれは、時代を超えて見る者の心を揺さぶり続けるのだと思う。  ・・・以上、ずっと以前に録画してあったビデオで、先日久しぶりに再見した感想。昔は単なる感傷と、いかにも日本人的な諦観にいろどられたもの、という印象を抱いていたのだけれど、今回見てコロリと考えがかわりました。やっぱり映画は、何回も見直すべきだなという反省と自戒をこめて、ここに記す次第です。木下恵介監督、ゴメンナサイ。 そして素晴らしい映画をありがとうございます。
[ビデオ(邦画)] 10点(2009-02-03 20:06:26)(良:1票)
47.  明日への遺言
連日、厳しく罪状を追及してくるアメリカ人検事に、主人公はある朝、こんな風に声をかける。  「おはよう、検事殿」  あくまで何気なく、何のふくみもない平凡な朝の挨拶。それに対して検事は、思わずニッコリと微笑むのだ。  時間にして1秒にも満たないかのような、検事の微笑。そこから、全編が裁判所内というこの映画のなかの「空気」は、少しずつ“軽さ”をーーあるいは“すがすがしさ”へと変わっていく。それは、「裁く/裁かれる」という対立の構図ではなく、かつては(あるいはその時も)敵同士だった者たちのあいだに、連帯が、むしろ〈友愛〉そのものがうまれたからである。  そう、藤田まこと演じる主人公の岡田中将は、何も部下たちを救ったからだとか、日本人としての「品格」とやらを示したから称賛されるのではない。この映画はそんな程度のもの(と、言ってしまおう)を描こうとしているのではあるまい。ここには、戦争犯罪人という立場でありながら、日本人とアメリカ人、原告と被告、敗戦国と戦勝国、正義と悪といった対立軸を超えて、この法廷をただ正々堂々と戦い抜こうとする岡田中将と、同じく正々堂々と戦うアメリカ側という〈構図〉があるばかりだ。その〈構図〉を、フェアネスな“空気”を実現してみせたことにこそ、岡田中将という人の真の偉大さがあった。  映画は冒頭で、醜悪で悲惨な戦争の非人間性を記録フィルムで観客に示す。そのことで、岡田中将の“もうひとつの「戦争」”が、むしろ「人間性」をあらためて信じ、取り戻すためのものであったことを、この映画は見る者の心に鮮明に焼きつける。そう、この映画は人を(あるいは国家を、歴史を)裁くのでも、告発するのでもない。日本側・連合国側を問わずこの法廷にいる者たちは、人間というものの持つ真の「崇高さ」のために、共に共闘しているのだ。そういった姿を通して、人間というものの「美しさ」を、ただそれだけを映し出そうとしたものだったと、今ぼくは確信している。   確かに、一見すると地味で派手さのかけらもない、「映画的」ですらないと思われもするかもしれない。しかし、映画がここまで「人間」の美しさ、その精神の「崇高さ」を見つめようとしたことにおいて、本作は、ぼくにとってたとえばジャン・ルノワールの作品に比するものだ。  ・・・最後に。小泉堯史監督、貴方の映画と同時代の観客でいられて、ぼくは本当に幸福です。
[映画館(邦画)] 10点(2009-02-03 19:23:13)(良:1票)
48.  その男ヴァン・ダム 《ネタバレ》 
思えば、ヴァン・ダムくらい一人二役にこだわるスターも珍しい。『ダブル・インパクト』にはじまって、『マキシマム・リスク』や『レプリカント』まで、双子だのクローン人間だのを嬉々として(?)演じている。『タイムコップ』でも、過去の自分を未来から来たヴァン・ダムが見つめるという場面があったはずだ。そして本作もまた、「ヴァン・ダムがヴァン・ダム自身を演じる」という意味で、やはり一人二役をめぐる彼の“オブセッション”的主題を反復しているんである。  落ち目の人気スター「ヴァン・ダム」が郵便局強盗にまきこまれ、包囲する警官隊から犯人と間違われるという喜劇的設定ながら、全編を覆うシリアスな、重苦しい空気感。そのなかで、これまで演じてきたヒーローのようにはいかず成すすべもないヴァン・ダムの、疲れきった表情がまず素晴らしい。そして皆さんもご指摘の、あの独白・・・   ヴァン・ダムが突然カメラに向かって「これは俺の映画だ」と語りはじめ、これまでの人生やドラッグに溺れた事実などを告白し、最後に「そう、これは俺の現実だ」と告げて、ふたたびドラマへと戻る、ワンカットで撮られた長いモノローグ場面。そこにあるのは、単なるメタフィクションとしての面白さを超えて、映画(=虚構)と現実が交差することのスリリングさだ。そう、この映画はまさしくヴァン・ダム版『サンセット大通り』(!)とでもいうべき、現実のヴァン・ダムと虚構(=イメージ)としての「ヴァン・ダム」という“一人二役”を自ら演じてみせた作品として、その〈二重性〉に賭けられたものに他ならない。  ただ、これでもう少しヴァン・ダム=「ヴァン・ダム」の悲喜劇性を際立たせることができたなら、この映画はかなりの傑作になっていたにちがいない。と思わせる、映画としての“弱さ”は確かに認めよう。けれど何度もいうけれど、本作のヴァン・ダムは本当に良い。素晴らしい! これを契機にひと皮むけたヴァン・ダムの、今後に期待をもたせてくれただけでも、ファンとしては大いに感謝しようじゃないか。
[映画館(字幕)] 7点(2009-01-28 15:31:20)(良:1票)
49.  しあわせのかおり 《ネタバレ》 
映画の冒頭、ガスコンロに火がつく「ボッ」という音にはじまって、食材を炒める、揚げる、煮る、蒸すといった音が、調理する光景とともにーーいや、それ以上に音こそが強調されてぼくたち観客をとらえる。そしてその中華鍋をおたまで攪拌する音、中華包丁で刻む音の、何というリズミカルな響き・・・。そんな音たちの連なりの果てに、眼にも鮮やかで艶やかな料理が画面いっぱいに映し出されるのだ。  そう、料理を創ること・食べることが半分近くを占めているこの映画は、そういった「料理」を“音”によって表象する。いかに見事な音を奏でるか、それが料理それ自体の映像に、官能的なまでの〈美味しさ〉を与えることになるというわけなのである。・・・結局のところ映像は、料理の味も匂いも伝えることができない。けれどその官能性を、一種の「音楽」として聴かせることは可能だろう。音が創り出され、そのリズムやハーモニーが結果として料理を、その〈美味しさ〉を産み出す。本作が単なる「グルメ映画」と一線を画すのは、これがむしろ“音と音の響きあう”映画、まさしく「音楽映画」であるからにちがいない。  たとえば、藤竜也が演じる料理人の王さんは、その「音楽」を見事に奏でることで「名人」であることを体現し、我々を納得させるのだし、中谷美紀による主人公は、はじめはたどたどしかった“音”が徐々に「音楽」となっていくことで、料理人としての成長を実感させる。・・・クライマックスとなる食事会。それぞれ夫を亡くしたシングルマザーと妻と娘に先立たれた孤独な料理人であるふたりが、二人三脚で“ひとつの「音楽」”を創り出す料理場面は、中華鍋をふるう所作ひとつをとっても、これが一種の“ミュージカル映画”でもありうることをぼくたちにハッキリと見せつけてくれるだろう(その食事会の終わりに歌われる「ホーム・スウィートホーム」は、だからそういったふたりが奏でる「音楽」への“返歌”としてあったのだ)。  まるでホウ・シャオシエン監督の『戯夢人生』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のような、沈黙と、ひとつの乾杯で締めくくられる長いワンカットのラストまで、この一見つつましい、およそオリジナリティを主張しないかのような「地味」な映画が、実は最近の日本映画のなかでも最も「滋味」豊かなものであること。そのことこそを、ぼくは高く、高く評価したいと思う。
[試写会(邦画)] 10点(2008-10-16 12:04:21)(良:1票)
50.  愛妻記
う~む、書きたかったことはほぼ全て青観さんに書き尽くされてしまったので、それ以上付け加えることもないんだけど・・・まあ、小生もちょこっとコメントさせていただきます。  それにしても、この映画の司葉子は本当に素晴らしい。女学生時代の友人をたよって郷里の金沢から東京に出てきたという彼女は、まさに天真爛漫でいながら、それがたまらなくコケットリー(誘惑的)だ。しかも、そのことに彼女自身がまったく無自覚であること。その“無垢[ウブ]”なところが実に実に良いのであります。たぶんそれは、この昭和初期にあってもじゅうぶんに魅力的だったんだろう。だからこそフランキー堺の主人公が魅かれ、一緒になろうと決意したことも、素直に納得できる。そして、こんな貧乏作家のところに喜んで嫁いでくれる彼女のような奥さんと出会えた主人公に、大いに「嫉妬(笑)」してしまうんである!  そんなふたりが、はじめて“結ばれた”シークエンスも忘れがたい。とはいえ、もちろんベッドシーン(というか、この時代じゃ“床入り”か)があるわけじゃない。司葉子がフランキー堺の下宿にやって来て、彼の部屋で朝を迎える。その明け方の場面。おたがいきちんと着物姿でありながら、それまでになかった彼女の恥じらいを含んだ様子ひとつで、ふたりがその晩に結ばれたことを、ぼくたち観客はハッキリと知ることになる。案の定、そこでフランキー堺は(貧乏作家のくせに!)「所帯を持とう」と切り出すのだ。・・・このあたりの“奥ゆかしさ”こそ、本作の美質であり、久松静児という監督の持ち味なんだろう。  ともあれ、まだ戦争の影がさしていない昭和初期の生活風景をていねいに素描しつつ、これほど魅力的なヒロイン像を造型し得ただけでも、ぼくにとってこの映画は忘れられない1本になったです。記録よりも、記憶に残り続ける映画。・・・そう、ひとりの映画ファンにとって、それこそが真の「名画」であり、宝物なのだから。   《追記》ユーカラさんのおっしゃる「軍国化」のくだりは、え、そうだったの? と思いもよりませんでした。さすがスルドイ。ただ木下恵介ならともかく、この映画の場合、ああいう兵隊たちや警察の横柄さも含めて当時の日常というかあたりまえの「空気感」であるという、それ以上の含意はないのでは・・・とも思うのですが、どうでしょう? でも、この映画って愛されてるんですねぇ。シミジミ
[CS・衛星(邦画)] 8点(2008-08-21 13:48:08)(良:1票)
51.  紀元前1万年 《ネタバレ》 
神話や伝説なんかに接する時、往々にしてその「語り」の飛躍ぶりやご都合主義、デタラメさに驚かされる。そこでは人と動物が対等にコトバを交わし、何年もの時間がひと言で片付けられたりする。そして語り手(とは、その神話なり伝説を産んだ「集団的(無)意識」の具現化した存在=声に他ならないんだけれど)の思惑や気分(!)により、平気で展開や細部が変更・改変されることも常のことだ。でも、だからこそその「語り」は現代のような、緻密さと物語の整合性、テーマに汲々とした「神経症」的な息苦しさから解放された、あるすがすがしさや味わいがあるのだと思う。  オマー・シャリフの「語り」で物語が進行する『紀元前1万年』は、何よりも先ず、そうした「神話的・伝説的」な叙述[ナラティヴ]を映像化する試みとしてぼくは見た。というかこれは、最新のCG技術やらテクノロジーを駆使しつつ、しかし徹底して「現代的」な物語の叙述から身を離そうとする映画以外の何物でもないのじゃないか。だからこそ登場人物の「内面」やら心理的葛藤なんぞは、あっさりとナレーションで語られる程度なのだし(・・・例えばペーターゼン監督の『トロイ』は、登場人物たちの内面に寄りすぎたその「現代的」な演出ゆえに魅力を欠いたのだ、とすら言ってしまいたい)、死んだヒロインの“蘇生”場面にしても、あくまでそういった「語り」の要請に忠実だったゆえなのだ。すべてに成功している映画だとは思わないけれど(人々を支配する神のごとき存在がWASP風の「白人」だったというオチの、いささか安易な寓意性はむしろ不要だろう・・・)、その“大胆さ”こそ本作を真に興味深い作品にしているのではあるまいか。  そう、エメリッヒ監督の映画は、これまでもそのどこか反=時代的な「語り」のおおらかさこそが魅力なのだった(まあ、それを「バカバカしさ」ととる向きもあるんだが)。本作は、そういった「語り」そのものに監督自身がのめりこんでいるかのようだ。それゆえ、彼の映画としてはあまりに“作家性(!)”がオモテに出すぎた感がなくもない。が、「神経症」めいた映画にどこかイヤ気をさしていた観客にとって、これほど映画ごころを慰撫され、ホッとできる作品もないだろう。  エメリッヒ、やはり断固支持!
[映画館(字幕)] 8点(2008-06-03 16:03:59)(良:2票)
52.  火星探検 《ネタバレ》 
冒頭、月着陸を計画した博士や宇宙飛行士たちの記者会見の模様が延々と続き、これがやたら長い。いいかげん観客が焦れてくる頃、ようやくアタフタと出発(笑)。しかし航行中、燃料の計算ミスで推進力が低下したとかで、今度は紙に鉛筆(!)で受験生みたく延々と計算し直す場面が続くんである。その挙げ句、突然の加速(またも計算間違いで?)宇宙船は軌道をはずれ、失神した乗組員とともに月ではなく火星に到達。ううむ、いったい彼らはどれだけの時間気を失っていたんだ? ・・・まったく、隕石群の飛来とか、核戦争の末に退化したらしい火星人の襲撃などといった見せ場より、この映画はそういった地味な(そしていささかおマヌケな)場面にこそ焦点を当てているかのようだ。  1950年代のアメリカ映画にあって、特にこの手の「B級」(とはいえ本作、赤狩りの当事者ゆえノン・クレジットだが脚本にダルトン・トランボ! 撮影監督や音楽にも驚くべき名前がクレジットされている)SFは、宇宙人や怪物たち(とは、冷戦と「共産主義者」の暗喩的存在だ)とのヒロイックな戦いを描き、無邪気なまでに「自由主義」礼賛を謳いあげたものだった。けれど一見「おバカ映画」な本作は、そういったプリミティヴな「思想的偏向」ではなく、実のところ極めて屈折したかたちで「愛」を描こうとする。というかこれは、オザ・マッセン演じる女性科学者こそを主人公とした「女性映画」、一種の『ニノチカ』の変奏(!)として見るべき作品なのだと思う。  ロイド・ブリッジスの好意にも冷ややかだった“科学がすべて”である彼女が、いかにして「女性」としての自己を取り戻し、「愛」の言葉を口にするかーー。それを、ルビッチ作品のような諧謔とフモール(ユーモア)ではなく、これも「ドイツ的」といえなくもない生真面目さとともに、「宇宙冒険もの」というカテゴリーにしのび込ませる。しかも、彼女が「愛することの歓び」に目覚めると同時に悲劇が訪れるという、驚くべき〈運命愛〉的な結末・・・。  おいおい冗談だろ、と申すなかれ。この名もないドイツ出身監督による低予算SF映画は、間違いなくもうひとつの「別の物語」を語っている。それが「ルビッチ」という“偉大なドイツ出身監督”の作品を想起させてくれただけでも、少なくともぼくにとって、実に刺激的な映画体験をもたらしてくれたのだった。 
[DVD(字幕)] 7点(2008-05-19 11:56:59)(良:1票)
53.  映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝 《ネタバレ》 
声優が一新されてからのドラえもん映画は、常に「のび太」という11歳の少年のメンタリティに寄り添うかたちで創られている。この少年の、11歳という年齢だけが持つ「まっすぐさ」、たぶんそれだけを(とは、まぁ極論だけれど)描こうとしているのだと思う。  そして映画の中で、のび太は、自分にとって“何より大切なもの”のために、11歳の男の子としてのありったけの努力と勇気をふりしぼって、その“大切なもの”を守り抜こうとする。その時ジャイアンやしずかちゃん、スネ夫たちもまた、のび太といっしょにがんばり抜き、最後まで行動をともにするだろう。彼らは、「友だちであり続けること」というもうひとつの“大切なこと”のために、やはり「まっすぐ」がんばるのだ。そう、友だち同士(=同志!)として。  だからドラえもんも、映画では、“頼れる存在”というよりあくまでコメディリリーフ的役割というか、のび太たちを「あたたかい眼(笑)」で見守る立場だ。特に今回の映画では、ひみつ道具すらあまり登場しない。その分、のび太たちの「まっすぐ」ながんばりがクローズアップされることになる。・・・そのことに、いいトシをした親父であるぼくは感動し、不覚にもナミダしてしまう。  確かに、植物星人たちが地球を攻撃する後半は、いささか状況が分かりにくいかもしれない。でもその中で、のび太がキー坊を懸命に助けようとする姿と、それを見た植物星のお姫さまも手助けしようとする、この場面にこそ、映画版ドラえもんを貫く主題ーーと言って大層ならば“精神(ハート)”があるにちがいない。そう、ドラえもんの道具でも、悲壮感たっぷりのヒロイズムでもない、「ぼくにはこれしか出来ないから…」と大切なものを守ろうとする11歳の少年の「まっすぐさ」こそが、世界を救うことになるのだ。その、何という清々しさ・・・。  そうした「11歳の心(ハート)」を、「まっすぐさ」という彼らの〈倫理〉をドラえもん映画が失わないかぎり、ぼくもこのシリーズを見続けていこうと思う。どんなにトシをとろうとも、のび太たちの「まっすぐさ」を見守り続けることは、子どもたちにとってはもちろん、大人にとってもまちがいなく大切なことだから。  以上、レビューというよりひとり語り、スミマセン・・・。 <(_ _)>
[映画館(邦画)] 10点(2008-03-12 19:22:10)(良:2票)
54.  アラカルト・カンパニー
パリの地で、邦人相手の「便利屋」をこなしながら、デラシネ(根無し草)のように生きる主人公たち。尾美としのり、今井美樹、嶋大輔が演じる彼らは、何ものによっても連帯せずひとりひとりバラバラでありながら、その「独り」であるという意識において“連帯”している。そして、そんな彼らのゆるやかな結びつきこそが、この映画の、コミカルすぎずシリアスすぎない独特の「空気感」を醸し出すものに他ならない・・・。  これが劇場用映画の監督第1作となる太田圭は、自身のパリ滞在体験をモチーフに脚本を書き上げたという。その前の世代のように、海外滞在に何の特権性も希少価値も付加できず、その後の世代のように「自分さがし」の口実にすらならない、「ただ、何となく」といういい加減さというか中途半端さに、彼はじゅうぶんに自覚的だ。そこには希望も絶望もなく、自由も不自由すらもない。その中間をふわふわと浮遊する自分たちの、昨日に続く今日が、そして同じような明日があるばかり。たぶんそれは、パリじゃなく、これが東京でもニューヨークでも同じことだったろう。あの頃の「ぼくたち」は、本作の主人公たちと同じようにただ“浮遊”していた。漂っているという、意識だけがリアルなものとしてあった。この映画は、そんな「気分」をフィルムに定着してみせた、ほとんど唯一のものだと、あらためて思う。  そう、これは時代がバブルに突入する直前の、ぼくたちが「新人類」と呼ばれたあの頃の、ほぼ完璧な〈自画像〉だ。主人公たちの「ダメさ」を自嘲的に笑い、チクチクと胸をさす“痛み”を共有しつつ、この傑作でもなんでもない、けれどこの、ぼくでありキミやアナタの精神的ドキュメントを「見た」ことの記憶は、ムラカミハルキとミヤザキツトム(!)の“間”という、真の意味で「同世代人」の表現者=作品を持ち得なかったぼくたち1960年前後の者にとって、この上なく貴重なものだと、今更ながらというか、今だからこそ思うのだった。  最後に、この映画の今井美樹は本当に素晴らしい。彼女が見せる喜怒哀楽の表情こそ、ただ息をつめて見守り続けるしかない最高の〈スペクタクル〉だ。その記憶においてだけでも、ぼくにとってこの映画は“永遠”です。  《追記》劇場公開以来ずっと再見を果たせていない映画だけど、やっぱり深く愛着ある映画なので「7」を「8」に変更。ああ、見たいなぁ~。
[映画館(邦画)] 8点(2008-02-12 17:22:43)
55.  東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(2007)
主人公のボクが、仕送りを飲み倒し、電話でカネの催促をする場面。その時、オカンは電話口でどこか中空の一点を見据えたまま「おかしーねー、送ったはずなんやけどねー、何でかいねー、…」と独り言みたいに繰り返す。ここでの樹木希林は、あまりにも見事に「母親なるもの」を体現している。息子が嘘をついていることを分かっていながら、分かっていないふりをする。その愛情の深さと、一方で、否定できない鬱陶しさ。そう、確かに「母親」とは、こういった両義性によって息子を「抑圧(!)」するものではないか。  そして、とある温泉施設(?)で、オカンが幼い日のボクを置いて男と“消えた”エピソード。しかしその時以来、オカンは「女」としての自分を決定的に“捨てた”。そして彼女は、ボクの「オカン」として生きることにした。しかし繰り返すが、それは一種の「抑圧」以外の何物でもない。けれど、ボクはそれを受け入れる。・・・彼が松たか子演じる恋人と別れることの背景にも、あるいはこの母子の“関係”が影響していたのかもしれない。なぜならそこに、第三者の立ち入る隙などありはしないのだから。  もちろんそれを、エディプスコンプレックスだの「近親相姦」的な文脈で語ろうなどと言ってるんじゃない。そうではなく、表向きは微温的で心優しいこの映画が、実のところ、平然と「母」を捨てることで「女」を選んだ成瀬巳喜男の『秋立ちぬ』とは真逆のベクトルから、「母と子」というものの関係性を、いかに母親は真の意味で「母親」となり息子は「息子」となるかを、冷徹に見据えたものであること。ボクとオカンの間には、もはやオトンですら立ち入ることの出来ない関係性が築かれている。そのことを、良いとも悪いとも裁定することなく描いたものであると、ぼくは思っている。  松岡錠司監督は、平凡な人間のなかの「のっぴきならない関係性」という物語を、決してあからさまにではなく、けれどくっきりと画面に、あるいは役者のたたずまいそのものに語らせる。もちろん才能や映画の質は全然ちがうけれど、ふとぼくは彼のその確固たる繊細さに「ああ、成瀬だ…」とつぶやいてしまう。これはそういった松岡監督の類い稀な資質が、慎ましくも豊に発揮された映画だと信じる。・・・本作を単なるメロドラマとしか見られないとしたら、我々はその“「物語」に対する不感症”こそを反省しなければならないだろう。
[映画館(邦画)] 9点(2007-07-20 13:57:07)
56.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
『硫黄島からの手紙』のなかで、負傷して日本軍の捕虜になったアメリカ兵の青年が登場する。彼は手厚い看護を受けたものの、結局息を引き取る。けれど、彼が持っていた母親からの手紙の内容に、今までアメリカ人を“鬼畜”だと信じ込んできた日本兵たちは、「彼らも俺たちと同じじゃないか…」と愕然とするんである。  この場面は、本作のなかでもとりわけ感動的で、美しい。その時、日本兵たちは、目の前のアメリカ人青年をただ殺すべき〈敵〉ではなく、はじめて〈人間〉として認識した。と同時に、ぼくたち観客もまた気づかされるのだ。この映画そのものが、『父親たちの星条旗』にあってまったく「顔」を与えられなかった日本兵たちを、ふたたび個々の〈人間〉として見出すものであったこと。そのために、どしてもこれが「二部作」であらねばならなかったことを。  『星条旗』が、「憎悪と敵意」「政治」という「戦争の本質」こそを描くものだったとするなら、本作は、常にそういった「戦争」のなかで見失われてしまう〈人間〉を回復する試みである、といって良いかもしれない。・・・戦場にあって、ただお互いを殺し・殺されるだけの兵士たち。「憎悪と敵意」の対象でしかなかった〈敵〉同士を、イーストウッドの本作は、あらためて〈人間〉として描こうとする。それこそが、戦争の“消耗品”として歴史に埋もれ、顧みられることのない彼らを、あくまで一個の人間として追悼することになるからだ。だから、「戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在だ」というイーストウッド自身の言葉は、決して彼の「右翼的」な信条=心情から出たものではあるまい。むしろ彼は、現在に至るまで時の為政者(ブッシュ!)たちが「自分たちは正義の側で、悪と戦う」と唱え、戦争を肯定することへの断固としたアンチテーゼとして、兵士たちを1人1人〈個人〉として「戦争」から“帰還”させようとしているのだから。  この、全編のほとんどを日本人の役者ばかりが登場する「日本(語)映画」を、アメリカのジャーナリズムが高く評価するのも、おそらくその一点においてであるだろう。・・・これが、監督イーストウッドの最高傑作かどうかは分からない(し、どうでもいい)。けれど、戦争の「本質」を描き、兵士たちをふたたび〈人間〉の側に取り戻そうとする「硫黄島二部作」は、現代最高の「(戦争)映画」であること。それだけは間違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 18:31:23)(良:4票)
57.  父親たちの星条旗
18世紀プロシアの軍人クラウゼヴィッツは、その古典的著書『戦争論』で言っている。戦争の「本領」とは、「憎悪と敵意」を伴って遂行される暴力行為だ、と。  戦場において国民(=兵士)たちは、ただこの「憎悪と敵意」を増幅することだけを課せられ、そのエスカレーションとともに相手国民(=兵士)を殺し・殺される。そして、そんな「憎悪と敵意」をむけるべき〈敵〉としてのみ、本作の日本兵たちは描かれるのだ。だから、彼らは「顔」がない。徹底して得体のしれない“脅威”としてのみ、アメリカ兵たちの前に現れる。その時『父親たちの星条旗』は、これ以上なく端的に戦争の「本領」をぼくたち観客に見せつけているのである・・・。  一方クラウゼヴィッツは、「戦争とは異なる手段をもってする政治の継続である」とも言っている。「憎悪と敵意」をぶつけ合う戦場とは別に、国家にとって戦争とはあくまで政治的な「外交(!)」の手段なのだ、ということか。事実、映画のなかで政治家たちは戦争を継続するために、何とか戦場から生還した兵士たちを、国民が国債を買うための“道具”として利用する。兵士たちは、否応なくもうひとつの戦争の「本領」に巻き込まれてしまう。いわば、彼らは「憎悪と敵意」と「政治」という二重の「戦争」を戦うハメになったのだ。  そう、これまで常に〈体制〉からハミ出した「個人(アウトサイダー)」を演じ・描き続けてきたイーストウッドは、そんな「個」を単なる“道具=消耗品”としてしか扱わない戦争そのものの〈本質〉、ただそれだけをこの映画のなかで表出しようとした。声高に「反戦」を叫んだり、賛美・正当化する「反動」に走ったりするのではなく、いかに戦争が〈個人〉をないがしろにすることで遂行=継続されるものであるかを、ある痛み(と、悼み)とともに観客へと伝えようとしたのだと思う。同時にその時、本作が、ジョン・フォード監督の『コレヒドール戦記』(原題は、「They Were Expendable(彼らは消耗品)」だ…)に呼応し共鳴しあうものであることも、ぼくは深い感動とともに確信する。   その上で、『硫黄島からの手紙』を撮ることによって、あらためて「兵士たち」を人間として、〈個人〉として追悼しようとしたイーストウッド・・・。この「硫黄島二部作」において、彼はジョン・フォードをすら“超えた。この2作品と「今」出会えたことを、ぼくはただただ幸福に思う。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 15:43:55)(良:2票)
58.  16ブロック
ニューヨーク市警の刑事で、どうやら離婚経験者である主人公。それを演じるのがブルース・ウィリスとくれば、誰だって『ダイ・ハード』シリーズを思い浮かべるだろう。事実この映画には、今は酒におぼれる自暴自棄な日々を送るジョン・マクレーン刑事の“後日談”めいた雰囲気がある。これを、シリアスに撮られた『ダイ・ハード4』だとすら言っていいかもしれない。  しかしあのシリーズが、<刑事もの>というジャンルを超えて、どんどん「見せ物(スペクタクル)性」をエスカレートさせていったのに対し、『16ブロック』は、あくまで<刑事もの>というジャンルにとどまり続ける。警察内部の腐敗や、護送中に心の絆がうまれる犯人と主人公の刑事といった、この手の映画の約束事というか定石を律儀なまでに踏襲していくのである。  それゆえこの映画は、一見すると地味で派手さに欠けた「普通」の映画、ひと昔もふた昔も前によくあった感じのありふれた映画にすぎないようにも思える。けれど、けれどそれは、作り手であるドナー監督自身によって意図的に選びとられたスタイルであり“戦略”に他ならない。わざと色調をおさえたトーンの荒い画面にしても、まさしく1970年代の映画のようなテイストをめざされたものであるだろう。ドナー監督は、あえて<ジャンル>に忠実というか自覚的な映画を撮ろうとした。何故か? たぶん<ジャンル>こそが、“映画が「映画」として成立する規範”であると、彼は信じているからだ。  CGの登場、あるいはルーカス=スピルバーグの登場によって、映画は<ジャンル>を逸脱することによる新たな「見せ物性(スペクタクル)」を開拓してきた。しかし一方でそれが、なんでもありの、「今まで見たことのない映像」を競うことの自堕落な増長を招いたことも確かだろう。だからドナーは、CGによる見せ場も、非現実的なアクションも禁欲(あの『リーサル・ウェポン』の監督が、だ)することで、あえて<ジャンル>への意識に満ち満ちた本作を撮った。映画そのものを、「アメリカ映画(!)」を“とりもどす”ために。そのことが、かろうじて「1970年代の(アメリカ)映画」にふれることができた年代の観客にとって、何より感動的なことなのだった。  そう、映画なんて、たとえば小道具に“小型ボイスレコーダー”ひとつあれば、充分なのだ・・・   
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-01 16:05:39)(良:3票)
59.  夜のピクニック
80kmという長い長い距離を歩き通すなか、極度の疲労が逆に心を開かせ、友人やクラスメートとの“距離”を縮めていく。けれど、物語の中心となるふたりだけは、どうしても自分たちの「ある秘密」ゆえにぎこちなく、その理由を、お互いに親友にもうち明けられない・・・。  そういった高校生たちの心情を点描していく部分は、演じる若手役者たちの好演もあって、小生のようなオヂサンにも素直に受けとめられる(特に多部未華子の、心の痛みを胸に閉じこめた、それでいて、笑うと世界が一瞬にして華やぐかのような表情の素晴らしさ!)。特に、今まで誰にも言わなかったその秘密を、一緒に歩いている友人がこともなげに口にした時の驚いた表情を、さりげない切り返しのショットで際立たせるあたり、本作の監督らしいデリカシーを感じさせてくれる瞬間だ。  けれど、それだけなんだなぁ。この映画が見せるべきだったのは、途方もなく長い「夜のピクニック」のなかで、高校生の少年少女たちの心のうちがどんどん“武装解除”されハダカになって、ようやく本当にふれあえることの幸福感であったんじゃないだろうか。だのに、かんじんの「ピクニック」が、その距離感も、歩く彼らの疲労感も、その果てのふっきれた解放感も、まるで描かれていない。というか、伝わってこない。主人公ふたりの「秘密」をあかす過去の場面も、いたずらに説明的なだけだ。ましてや、南果歩扮するヒロインの母親の言動に至っては、どう好意的にとろうとしても唐突だし、ありえないだろう。演じる若手たちがいかにがんばってはいても、この内容では、ほとんど「学芸会」レベルじゃないか・・・。  実際、エキストラ募集で参加したのだろう映画のなかの高校生たちは、事実まるで学園祭のように楽しそうだ。見る側も、そんな“参加者”になったつもりで、つまり学園祭のノリで楽しめばいいのかもしれない。これはそういった「イベント・ムーヴィー」として、価値があるんだろう。でも、本作の監督である長澤雅彦の、『ココニイルコト』の繊細な心優しい映像に魅せられた者のひとりとしては、その後1作ごとに「才能」を枯渇させていくかのようで、実に、実に、サミシイのであります。
[映画館(邦画)] 5点(2006-10-20 12:31:34)
60.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 
シャマランの映画におけるモチーフは、どれもあまりに単純というか、馬鹿馬鹿しいくらい「幼稚(プリミティブ)」なものばかりだ。「幽霊」、「不死身のヒーロー」、「宇宙人」、「都市伝説」、そしてこの最新作における「妖精」・・・。世の常識的(!)な大人たちにとってそれらは、せいぜい子供だましのギミックか、浮世離れしたファンタジーの口実(エクスキューズ)にしかならないだろう。  しかしシャマランの映画は、そんなあ然とするようなモチーフを、どこまでも大真面目に物語っていく。だから観客は、「これには何か、アッと驚く“仕掛け”があるに違いない」と思う。大のオトナが、幽霊や妖精などを「本気(シリアス)」に語るはずがないのだから。実際、シャマランの映画はこれまで、その“仕掛け”において(のみ)評価されてきた。  でもシャマランの映画が描こうとしたのは、やはり幽霊や妖精の方だったのだと思う。なぜなら、それらこそ「物語」の“根源的(プリミティブ)”なものに他ならないからだ。ヒトが「人」としての歴史を歩み出して以来、人間は常に「物語」を求め続けてきた。なぜだろう? たぶん他の生き物たちと違って、人間は、この過酷な世界=現実をそのまま受け入れることに、耐えられないからではないか。だから「物語」を通じてのみ、人は世界や現実を見出すことができた。恐怖や不安、苦痛から目をそらすのではなく(なぜならそれは、“現実逃避”という別の「悪しき物語」だから)、それを受け入れるためにこそ、人は「物語」を求めた・・・。  シャマランの映画は、そういった「物語」あるいは「物語ること」の根源にあるものを、あらためてぼくたちに教えてくれるものだ。この最新作で、ポール・ジアマッティ扮する主人公は水の精(その名も「ストーリー」!)を癒すと同時に、自分も「ストーリー」によって耐え難い過去の不幸な記憶から癒される。そして観客であるぼくたちはその主人公の姿に、「物語(ストーリー)」こそが人間にとって(たぶん唯一の)“救い”であることを深い感動とともに見出すのだ。  だからシャマランの映画は、プリミティブであるからこそ美しい。そう、何て美しく、愛しいんだろう・・・   (以上の文は↓の皆さん、特に【あにやん】さん、【すぺるま】さん、【のはら】さんのレビューから示唆されたものです。ありがとうございました!)
[映画館(字幕)] 10点(2006-10-04 17:24:22)(良:2票)
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