Menu
 > レビュワー
 > やましんの巻 さんの口コミ一覧。5ページ目
やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637
投稿日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637
変更日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334353637
>> カレンダー表示
>> 通常表示
81.  若き日のリンカン
思うところあって、ある時から、いわゆる古典的な「名画」とよばれる作品にはなるべくレビューを書かないつもりでした。が、この映画に関しては、最近DVDではじめて見ることができ(売っていたのが某100円ショップで、値段は「315円」…。嬉しいというより、ちょっと悲しかった)、どうしても書いておきたいことがあったので、自戒を解く(?)次第です。  この映画は、題名の通り、後の「黒人奴隷解放の父」リンカーン大統領が、まだ若く、無名で、貧しい弁護士時代に、保安官助手殺しの被告となった兄弟の、弁護を務めることになったエピソードを描くものです。そしてもちろん、窮地におちいった兄弟とその一家を、リンカーンが裁判の場で見事に救うことでめでたしめでたし。ではあるのですが、見終わった時の余韻というか「感動」は、若きリンカーンの聡明さや善良さ、素朴な“田舎者”としての愛すべきヒーローぶりとは別のところにあるように思いました。  映画は、留置場や裁判中のシーンで、被告の兄弟にほとんど言葉をしゃべらせません。町民が私刑(リンチ)で彼らを木に吊そうとしたり、裁判で何を言われようと、とまどいと、少しの怯えを含んだまなざしで、じっと事の推移をうかがっている。そして兄弟の家族たちも、留置場を訪れて、一緒に歌うことしかできない・・・。  その時、彼らは白人たちであるものの、映画は明らかにこの兄弟や一家を「黒人」として描いている。リンカーンの時代から、この映画が制作された1939年当時ですら変わらず差別され迫害されてきた黒人たちの受難を、この映画はまちがいなくこの兄弟とその一家に託して語り、告発しているのだと、ぼくは思います。監督のジョン・フォードは、黒人がひとりも登場しないこのリンカーンの「伝記」映画にあって、ひそかに、しかしはっきりと、虐げられてきた「黒人たち」のための物語を語っているのです。  フォード監督は、晩年近くに、今度は本当に黒人を被告とした裁判劇『バッファロー大隊』を撮ります。あまり評価されない、しかしあの美しい映画が、実はこの『若き日のリンカン』とはるかに“共鳴”するものであったことを、ぼくは今、ある深い感慨とともに確信しています。
[DVD(字幕)] 10点(2006-05-30 16:55:39)(良:2票)
82.  南部の人 《ネタバレ》 
息子が敗血症になり、毎日どうしても新鮮な牛乳が要る。けれど、貧しい農夫一家にはとてもそんな余裕がない。苦しむ子どもを前に悲嘆にくれていると、おばあちゃんが再婚(!)相手と現れて乳牛をプレゼントしてくれた。めでたし、めでたし。  また、度重なる不幸と苛酷な農作業で、すっかり偏狭な性格になった近所の意地悪オヤジ。その嫌がらせに怒りを爆発させた主人公は、オヤジを叩きのめす。復讐のため銃を持ち出すオヤジだったが、長年の夢だった川の大ナマズを主人公が釣り上げたのを見るや、コロリと態度を変え、「このナマズを俺の獲物にさせてくれりゃ、もう嫌がらせはしねぇ。井戸も使わせてやる」と言い出す始末。これまた、めでたし、めでたし。  …もう、万事がこの調子なんである。苛酷な、あまりにも苛酷な農夫一家の生活ぶりを、おそらくオール・ロケで描きながら、この映画には大らかな楽天性が息づいている。ほとんどデタラメすれすれのご都合主義が、リアルな写実主義風展開のなかに突然顔を出して、あれよあれよと主人公一家を救うのだ。 結局、豪雨で農作物が全滅し、一度は土地を手放そうと考える主人公。けれど、コンロに火を入れてコーヒーを沸かす妻の姿に、ふたたびやり直すことを決意する。…このラストにも、ぼくらは「うん、彼らは大丈夫だ。きっとうまくいく」と確信する。何故なら、彼らは“祝福”されているのだから。誰に? もちろん、この映画に。というか、この映画を撮ったジャン・ルノワールに!   映画のなかで、町の工場で働く主人公の友人が、「苦労ばかりの農業なんかやめて、工場へ来いよ」と誘う。が、「俺は青空の下で働きたいんだ。自由な気がするから」と答える。…どんなにつらい人生でも、何より「自由」こそが大切なのであり、生活の細部(ディテール)には幸せが、生きる歓びが宿っている。…こんな風に“貧しさ”をかくも“豊か”なイメージで描き得るのは、たぶんこのルノワ-ル監督をおいてないだろう。 ぼくは見ながら、何度も泣いた。この映画のなかに描かれる、文字通り「人の生きる姿」としての人生の、あまりの美しさに。  たぶん、間違いなく、これが本当に「幸福な映画」というものだ。
[映画館(字幕)] 10点(2006-05-29 17:31:30)(良:1票)
83.  ボディ・ターゲット
ジャン=クロード・ヴァン・ダム作品中、確かに最も美しい作品。何と言っても、ロバート・ハーモン監督ならではのシャープな演出と画面構成のさり気ない才気にヴァン・ダムのアクションが映えて、ほとんど視覚的至福すら感じさせてくれる…とは、ちっとばかし大袈裟ですけど。ほんと、ハマッた時の彼の身体の動きは、ジーン・ケリー(!)に匹敵するんじゃないか。とにかく、単なるアクション映画以上の価値を見る者に与えてくれる作品として推奨いたします。《追記》 先日、ビデオが300円で投げ売りされていたので購入。あらためて見直すと、やっぱりこれが良いんですよ~。いわゆるハリウッドのアクションスターがおしなべて「肉食動物」系であるのに対し、ヴァン・ダムはどこか群れから離れた「草食動物」めいた趣がある。彼のアクションに攻撃性がどこか稀薄なのは、そのせいじゃないかな…。そして本作は、そんなヴァン・ダムのパーソナリティを最も見事に引き出したものであることを、再確認いたしました。よって点数も、8→10ということで。ほんと、ビックリするくらい美しい、そして愛おしい映画なんだけどなぁ・・・
[映画館(字幕)] 10点(2006-04-26 16:29:33)(良:1票)
84.  映画ドラえもん のび太の恐竜2006
…夜明けとともに、のび太が懸命にあたため続けた恐竜のタマゴがふ化する。光があふれる窓を背景に、逆光気味に捉えられたのび太と恐竜ピー助。この瞬間、彼らはお互いに「かけがえのない存在」であることを全身で受け止めている。そして見ているぼくたち観客にも、その“思い”は、ハッキリと伝わってくるのだ。  だからこそ、その後の冒険の中で、のび太が決してピー助を見捨てようとしなかったこと、しかし最後はピー助のために別れなければならないことの「感動」がより際だったのだと思う。さらに、ジャイアンやスネ夫たちまでもが、のび太を最後まで裏切らないことの「心意気」に胸を打たれたのだと思う。  「愛するものを見捨てない」「友だちはかけがえのないものだ」「相手を思いやること」・・・この映画が描こうとしているのは、コトバにしてしまうと、とても単純で気恥ずかしいものだろう。しかし本作の作り手たちは、驚くほどの熱意と才能のありったけを注ぎ込んで、そういう「単純でありふれているけれど、何より大切なこと」を観客であるこどもたちに“説得”しようとする。そしてその真摯で心情のこもった映像には、オトナの観客をも心から説得されるに違いない。事実、あの時映画館にいた誰もがのび太たちを「あたたかい目」で見守り、それぞれが「かけがえのないもの」へ思いをはせていたのだった…。  『クレヨンしんちゃん』のように、登場するキャラクターだけを“口実(エクスキューズ)”にして「作家主義((!)」に走るのではなく、ジブリ作品のようにオリジナルな映画づくりを謳歌するのでもない。あくまで「ドラえもん」の世界に忠実でありながら、それを“超える”のではなく“深める”ことをめざした本作。・・・今さら「ドラえもん」なんて、と言わないで、ぜひ見てください。きっとアナタも、誰もが「あたたかい目」になっている映画館の幸福な“空気”を体験できますから。そして、ラストに流れるスキマスイッチの歌・・・ああ、また見たくなってきた。   《追記》↑なるほど、【トト】さんのようにオリジナル作品のファンから見ると「辛口」な評価になるんですね…。ただ、のび太を「男(ヒーロー)」というより、あくまで等身大の「11歳の少年」として描こうとした新「ドラえもん」は、藤子・F・不二雄先生の意志に反するものじゃない…と思うのですが、どうでしょう? ついでに点数も9→10てことで!
[映画館(字幕)] 10点(2006-04-01 12:24:05)(良:4票)
85.  男たちの大和 YAMATO
映画の中で、臼淵大尉による有名な言葉が語られる。「…敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺たちはその先導になるんだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」  …そう、この映画の大和乗員たちは、宣伝文句にあるような「愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたかった」から死地へと赴いたのではなく、あくまで「日本の新生」のために、未来のわれわれに<責任>を果たすために死んでいった。侵略戦争に加担した者の末路でも、戦争という「時代=政治」の犠牲者でもない、彼らは“死んでいくことで<責任>を果たした者たち”に他ならない。「日本の新生」を実現するために、未来のわれわれ(とは、もちろん、私でありあなたのことだ)への<責任>をまっとうするために、彼らは死んでいった。少なくとも脚本・監督の佐藤純彌は、大和の乗員たちをはっきりとそう描いている。だからこそこの映画は、これまでにうんざりするほど創られ続けた被害者意識たっぷりの自己弁護的「反戦」映画とも、過去の戦争を賛美・肯定する「反動」映画とも一線を画する、真に「倫理的」な作品たり得たのだと、ぼくは思っている。  もう一度言おう。これは「戦争」という情況下を人々がどう生き・死んでいったかを描いたものでも、右にしろ左にしろ何やら「思想=政治的」なメッセージを垂れ流す類のものでもない。60年前の人々が未来のわれわれに向けていかに<責任>をまっとうし、それをわれわれがどう受け止めるべきなのかを問いかける、そんな「倫理的」な次元で成立した映画だ。そして佐藤監督は、そういう「責任(レスポンシビリティ)」に対して、この映画を創ることで「応答(レスポンス)」した。そして、彼ら死んでいった者たちが果たした<責任>に、今度はわれわれが、私やあなたがどう「応答」するかを静かに問いかけるのだ。…この映画を見た者は、作品的評価とは関係なくその問いを、今を生きる者としての<責任>を、たとえ意識的であれ無意識的であれ否応なしに引き受けることになる。もちろんそれは戦争の是非ではなく、死んでいった彼らにとっての「未来」を生きるわれわれが、では彼らに対してどんな<責任>を果たし得るのか、と。  …技術的な完成度や、芸術的な価値、娯楽性の優劣などを超えた場所で、ただ「倫理的」な問いだけによって創りあげられたこの映画に、ぼくは深く敬意を表したいと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2006-02-09 11:22:59)(良:5票)
86.  キング・コング(2005)
ピーター・ジャクソンが、どれだけオリジナルの『キング・コング』とそのキャラクターを愛しているかを、ぼくもまた決して疑うものじゃない。それはこのリメイク作品においても、全編から、ディテールの隅々から伝わってくる。例えば、コングの住む断崖に散らばる巨大な骨や頭蓋骨。それを画面にさりげなく見せることで、コングが、家族や仲間の死に耐えたまったくの“独りぼっち”であることを観客に示す。それゆえ、彼がアンという「相手」を得たことの喜びを、何があっても彼女を守ろうとすることを、ぼくたちは素直に納得できるのだ。  しかし、人間であるアンもまたこの巨大な「怪物」に“愛”を、そういって言い過ぎならば“愛しさ”を抱く時、この映画はオリジナル版の〈美女と野獣〉の寓話性を失ってしまい、単なる「メロドラマ」に陥ってしまったのではないか。コングが、彼女の前ですねたり強がったりする表情やしぐさは、確かに素晴らしくチャーミングだ。ぼくもまたそんなコングを愛さずにはいられない。しかし、コングがそうやって「人間的」に描かれれば描かれるほど、これは“異形の者の悲恋もの”に過ぎなくなってしまう(…クライマックスで、エンパイアステートビルにアンとともに逃げ登る本作のコングは、まるでエスメラルダを伴ってノートルダム寺院の尖塔に登るカジモドのようだ。そう、これはむしろ『ノートルダム・ド・パリ』のリメイクといった方がふさわしいのではあるまいか…)  もちろん、メロドラマだから悪いと言ってるんじゃない。でも、決して相容れない美女(=人間)であるからこそ、彼女に魅せられ身を滅ぼす野獣(=コング)の物語は、「神話」へと昇華されたのではなかっただろうか。だのに今回のコングは、たとえ死ぬとはいえ十分に愛され、何と幸せ者かと思ってしまう。しかもその“愛”が、自分に忠実で無償の愛情を注いでくれる「ペット(!)」に向けられたものではないと、誰に断言できるだろう…。  オリジナルで、最後まで恐怖の悲鳴をあげ続けたフェイ・レイのヒロイン。コングを決して「人間」とも「ペット」とも思わなかった彼女の方が、どれだけ“誠実”だったことかとぼくは思う。もちろん、そんなのは不当なイチャモンだと言われればそれまでだ。しかしなぜかこの映画には、そんな文句を投げかけたくなってしまう。…ごめんよ、ピーター・ジャクソン。
[映画館(字幕)] 6点(2006-02-03 16:37:58)(良:3票)
87.  博士の愛した数式
ええ~っ、こんなに評価が低いんですか!? 初日の土曜日に見て、次の日曜日に、今度はカミさんと9歳の息子を伴って再見したほどホレ込んだ小生にとっては、大ショックです・・・  本作に限らず小泉堯史監督の映画は、一見すると何の変哲もない場面であり画面に、人の心の「優しさ」や、人間という存在の「愛しさ」を映し出す。それは“目に見えないもの”であることによって、本来なら映像化できないものであるはずなのに、小泉作品においては確かに「見える」。かつて故・トリュフォー監督がある映画を評して、「ボンジュール(こんにちは)という挨拶のようにさりげない」ことの美しさを讃えていたことがあったけれど、この『博士の愛した数式』など、まさにそういったさりげない、けれど奥深い精神性の美によって、あくまで慎ましく輝いているんじゃないでしょうか。  成人して高校の数学教師になった“ルート”が、黒板に書き出す数式の数々の何という「美しさ」と「あたたかさ」。原作もまた数式の「美しさ」に捧げられたものであったけれど、この映画にはそこに「ぬくもり」をもたらしている。その一点において、小生は小川洋子の小説よりもこの映画の方が勝っているとすら思います。  …そう、映画は本来、頬をなでる風のように“目には見えないけれど感じることができる”もの、例えば「愛」や「優しさ」を、そういった深い「精神性」をスクリーンに映し出す<奇跡>を実現することができた。今では大多数の映画から失われてしまったそんな<奇跡>の力を、この作品は持ち得ている。少なくともぼくはそう信じて疑いません。  …そして映画の最後近く、授業終了のチャイムが鳴ってもひとりだけ椅子に座ったままの男子生徒の姿が、一瞬、画面の片隅に映し出される。だからどうしたというわけじゃなく、ぼくは彼の姿を生涯忘れないだろうと思います。
[映画館(字幕)] 10点(2006-01-23 11:10:58)(良:3票)
88.  恋は舞い降りた。 《ネタバレ》 
生死の境をさまよう唐沢寿明の主人公に、玉置浩二扮する死神(天使だっけ?)が、「これから最初に言葉を交わした女性を幸せにすると、あなたは生き返れます」と言う。で、その相手が、江角マキコ扮するバツイチ女…。でも、その時の唐沢寿明は、生きている人間には姿が見えないハズじゃないの? この明らかな“設定上のミス”あるいは説明不足に「あ~あ」と思う向きは、以後この映画のアラばかりが目についてしまうに違いない(事実、アラが多いのだから…)。  じゃあ、こう見方を変えてみよう。唐沢と江角の出会いそのものが、玉置の死神だか天使の仕組んだことだったとしたら? …と。 映画の中じゃまるでそういった説明や暗示すらないけれど、たぶん間違いないっ! そう考えることで本作は、「出来損ないのファンタジー」から「心優しいクリスマス映画」へと様変わりしてくれるでありましょう。  そう、不幸な男女が、運命(というか、それを操る神様や天使や“優しい”悪魔)の悪戯でスッタモンダの末に幸せを掴む。そんなささやかな“奇跡”を描くのが「クリスマス映画」と定義するなら、本作は日本映画史上最も正統的(!)な「クリスマス映画」だ。幼い頃、母親に捨てられた記憶から、愛を信じられない売れっ子ホストの主人公と、ダンナに浮気されて別れたヒロイン。共に愛することに臆病なふたりは、ハチャメチャな珍騒動を繰り広げつつも少しずつお互いの心を開いていく。その様子をヴィヴィッドに見つめていく眼差しは、「ああ、映画だなぁ…」という瞬間をいくつもぼくたちに用意してくれているのだ。いや、ホンマに。  つかこうへいゆかりのスタッフ・キャストが揃った本作には、確かに「小劇場っぽさ」が、例えば唐沢のセリフ回しなどにもうかがえる。けれど主人公が、今は社宅の賄い婦をやっている母親にそっと会いに行く場面をはじめ、人の心のひだをかくも深く、優しく描けるのは、やはり「映画」だけだ。そのことをあらためて教えてくれるこの作品は、ぼくにとって、ささやかだけれど忘れ難い「クリスマス映画」なのであります。    《追記》テレビ放映で再見。唐沢と江角の出会い、ちゃんと「見えるようにしときましたから!」という台詞があったんですね…(^^;) でも、やはりあれは玉置エンジェル(死神?)が、はじめっから仕組んでたんですよっ! そして、やっぱり「好き」です、この映画。
[映画館(字幕)] 8点(2005-12-26 21:36:35)(良:1票)
89.  エコーズ 《ネタバレ》 
催眠術にかけられたことがきっかけで、それまで5歳の息子にしか見えていなかった少女霊が見えるようになった主人公。はじめは混乱し恐怖するものの、やがてそれは、幽霊の訴えようとしていることを解き明かすべく、自分に課せられた「使命」なのだと思うようになる。そして、仕事や家庭もかえりみず、霊のメッセージの解明にのめり込んでいく…。  この展開は、ぼくたちにある別の作品を思い起こさせないだろうか? そう、これは、UFOを目撃して以来「何かに導かれている」という想念が頭から離れず、遂には妻子に去られる男を主人公にした『未知との遭遇』と似ている。というか、これは「同じ物語」じゃないか! それはこの『エコーズ』の中で、ケヴィン・ベーコンの主人公が庭中に穴を掘り、奥さんが怒って息子とともに車で去っていく場面によって、ほとんどぼくにとって“確信”となったのだった。  そう、『エコーズ』も『未知との遭遇』も、かたや“霊”こなた“UFO”に憑かれた「オブセッション」をめぐるドラマに他ならない。ひとつの〈想念=妄執〉に憑かれ、そのことだけに突っ走っていくこと。これは『激突!』から『JAWS』、『未知との遭遇』までの“初期スピルバーグ映画”のドラマツルギーの根幹を成すものだ(そしてそれは、先の『宇宙戦争』によって突然甦った…)。それを『エコーズ』の監督・脚本家デヴィッド・コープは、このミステリー仕立ての心霊映画で忠実に「踏襲」してみせる。『ジュラシックパーク』や『宇宙戦争』の脚本家でもあるコープは、実のところスピルバーグにとっての「アルターエゴ(!)」なのではあるまいか。  正直、ホラーとしてもミステリーとしてもいささか中途半端な印象が拭えない『エコーズ』だけれど、コープとスピルバーグの「関係=関連」を考える上で、これは実に貴重で興味深い作品であるに違いない。
[映画館(字幕)] 7点(2005-11-22 15:58:31)(良:1票)
90.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
他のレビュワーの方がトム扮する主人公を「電波男」と評しておられたけれど、実は小生もそう思いました。そう、これは実のところ、あるひとつの「目的(=我執)」にとり憑かれた男の物語に他ならないと。では、その「目的」とは何か? 言うまでもなく、子供たちを母親のいるボストンまで何があっても連れていくということ。この、「何があっても連れていく」ことが、この映画における主人公の<すべて>だ。そしてそれは、決して「家族愛」だの「父親の復権」だのといったものじゃなく、まさしく“電波系”そのもののオブセッション(=強迫観念)として…。  だから主人公は、その「目的」を達するためなら手段を選ばない。車を盗み、他人を蹴散らし、知り合いすらも見殺しにする。そして、自分たちを助けてくれた男すら殺すことさえ厭わないのだ。  ゆえにあの終盤も、原作に忠実であるというより、この映画の「物語」上の“必然”だったと考えるべきだろう。何故なら、主人公が娘とともにボストンに到着した時点で、映画は実質的に「終わっていた」のだから。これは『インデペンデンス・デイ』のような地球的危機を描く「シリアス(!)」な作品じゃなく、徹頭徹尾トム扮する主人公のオブセッショナルな視点に一体化しつつ、その逃避行を描いた映画なのだ。彼が「目的」を果たした時、もはや宇宙人たちはその「目的」を阻む<脅威>としての意味を失って死んでいき、家族は一同に会する。もちろん、それらは決してご都合主義なのではなく、この映画にあっては(あるいは、この主人公にとっては)至極「当然」のことなのである。   …思えば、ある時期までのスピルバーグ作品とは、常にそういった、何らかのオブセッションをめぐるものではなかったろうか? 巨大タンクローリーも、人食い鮫も、UFOも、すべて主人公(たち)の「我執」あるいは「強迫観念」の実体化としてあったのではないか…。そう思い至る時、実のところ『未知との遭遇』までの映画こそを高く評価する者として、この最新作をやはり思いがけない興奮と歓喜の拍手とともに迎えねばならないだろう。そう、スピルバ-グは「狂っている」からこそ面白かったのだ。そしてこの映画は、本当に久々に、「狂っている」。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-14 12:46:58)(笑:1票) (良:5票)
91.  シンデレラマン
どんなに食うに困っても、子供が食べ物を盗んだら叱ってそれを返しにいく。妻や子供との約束は、たとえ物乞いをしてでも守り抜こうとする。妻子のため、それ以上に親友であるプロモーターのために、命がけの試合に臨もうとする…。  ロン・ハワードの映画は、いつでも〈道徳的〉だ。どんなに混乱し、汚辱にまみれた社会や世界にあろうとも、彼の映画の登場人物たちは、自分のため、愛する者たちのため、信じることのため、懸命にひたむきに生きよう、生き続けようとする。そしてその生きざまは、最後には必ず「報われる」のだ。それを、キレイごとに過ぎるだの、甘いだの、だから面白くないだのと批判したり嘲笑するのはたやすいだろう。けれど、父親が「約束する。決してお前たちをよそにはやらない」と言ったとき、それまで心の奥底に“捨てられる”不安を隠していた子供が父の腕に顔を埋めて泣くシーンの美しさは、常に〈道徳的〉であろうとする者たちだからこそではないか。その美しさをにすら何も感じず、あざ笑う向きがあるのなら、ぼくはその狭量さこそを不幸に思う。…「キレイごと」を信じなくなったときから、この世の中はこんなにも生き難いものになってしまったのではなかったか?   そしてロン・ハワードは、決して登場人物の内面や感情を大げさに、分かりやすく描こうとはしない。彼はきっと映画というものが、ひとつの微笑、ひと粒の涙、まなざし、沈黙、…そういったほんのちょっとしたしぐさや表情をていねいにすくい取ることだと信じている。もちろん迫力あるボクシングシーンなどの見せ場(スペクタクル)も用意しつつ、どのように撮れば人物たちの心の機微が映し出せるのかに全力を尽くす(だから、彼の映画に出演する役者たちは誰もがあれほど魅力的なのだ)。カメラの位置も、照明も、美術も、すべてがその一点において最も的確であるように“演出”されているのだ。それが、ハワードにとって、映画を撮る〈倫理〉だ。彼は決して映像の「詩人」ではないだろう。けれど間違いなく、ドラマにおける最良の「演出家」である。  物語における〈道徳〉と、映画における〈倫理〉を決して見失わないこと。そこからうまれた本作が現代にあって「最高の映画」であることを、ぼくは確信している。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-05 13:25:19)(良:2票)
92.  ダリアン
まあ、言わばティーンエイジ版『危険な情事』といったシロモノでしょうか。アリシア・シルバーストーン嬢の小生意気そうな鼻っぱしらが実に役柄とマッチしているものの、未成年ポルノに厳しいアメリカらしい中途半端さがイライラ。おまけにケーリー・エルウェスがどう見てもアリシア嬢が邪念を燃やすような教師には見えんのが致命的じゃあ! ただ、彼の恋人役がジェニファー・ルービン!! いつも悪女やキレた役ばかりの彼女が、珍しく”善い人”やってて、ファンとしてはうれしいようなこそばゆいような…《追記》あらためて再見したら、まあ小ぢんまりとまとまっていて、悪くなかったです。特に、ダリアンがクロ-ゼット内に身を潜めるあたりなど、室内シーンの撮影がなかなかに見事。このあたり、イーストウッドの『恐怖のメロディ』に通じる撮影監督ブルース・サーティーズの功績大とみた。よって点数4→7に変更! もちろん、客観的に見てたいした映画じゃないのは確かだろうけど、ひとつだけでも惹かれるものがあれば、それは十分「愛」の対象になり得るもんです。映画も、人も。
[映画館(字幕)] 7点(2005-09-14 18:52:27)
93.  チャーリーとチョコレート工場 《ネタバレ》 
ダニー・エルフマンの音楽に乗って、奇妙かつ奇ッ怪な機械が、踊るように、歌うように、チョコレートの原料を溶かし・固め・包装していく。そのオープニングで、ぼくは確信した。“これだ、この感じだ。あのバートンが還ってきた!”と。…そう、ティム・バートンの映画は、常にこんな「ガジェット感覚」に満ち満ちていた。どこかグロテスクなまでに誇張された、オブジェのような機械が、精確無比に動き出すことの驚きと快感。その「荒唐無稽さ」が、もはや忘れていた(と言うか、「封印」していた)幼い子供時代の「熱狂」と「破壊衝動」を呼び覚ます(…そう、子供たちは「動くもの」が大好きで、しかもそれを「壊すこと」に夢中になるものだ)。それこそがバートン作品の“核心”でなり、そのアナーキーな魅力の中心だったはずなのだ。  それが『マーズ・アタック』以降、彼の映画は、そんな破壊的なパワーをあっさりと失ってしまう。一見するといかにもバートンらしい題材や物語であり、美術やセットでありながら、そこにはあの「熱狂」も「破壊衝動」もすっかり消え失せてしまっていたからだ…。  しかしこの最新作でバートンは、ふたたび彼独自の「ガジェット感覚」を、そのアナーキーな“毒(!)”に満ちた魅力を、画面いっぱいにブチまける。あの、子供たちをひとりひとりを見事に、そして最高にイヂワルく“始末”していく装置=機械の、何というブラック・チョコレートな味わい! そう、やはりバートンはこうでなくっちゃイカンのだ。  しかも、初期のバ-トン作品が「父親」を失った「孤児」の物語であったこと。彼らの“反社会的”な振る舞いが、結局のところ「孤独」に起因し、それがいびつな形で表出されてあったものであったことを、この映画はあらためて教えてくれるだろう。最後にジョニー・デップの主人公が父親と“和解”する。その父親を、クリストファー・リーが演じていることにも、ぼくたちはナミダするだろう。…そう、バートン作品で真に「父親」を演じられるのは、ヴィンセント・プライスとリーしかいない。ユアン・マクレガー=アルバート・フィニーでは駄目なのだ!   とにかくバートンの<天才>は、この「クリスマス映画」において見事に復活した。そのことを、何より嬉しく思う。
[試写会(字幕)] 9点(2005-09-08 13:00:22)
94.  廃墟の守備隊
冒頭、いきなりコマンチ族による町のせん滅場面! 続いては、生き残った騎兵隊員数名と駅馬車の面々が、砂漠にある教会の廃墟に立てこもって、インディアンたちとの攻防戦!! …いやぁ~、この当時のB級西部劇にしてはメリハリの効いた演出とアクションで、特に↓のM・R・サイケデリコンさんも書かれておられるように、ダイナマイトによる爆破シーンは「おおっ!」と、今の眼で見てもかなりのスペクタクルです。主演がでっぷり体型の親父ブロデリック・クロフォードなんで、女性が登場に及んでもロマンスに発展しようはずもなく、そのへんの“硬派”ぶりも好感度大。アンドレ・ド・トス監督、なかなかの才能と見ました。こういうキッチリとした職人芸を、名作でも何でもない「普通(スタンダード)」な作品に見出せるところが、1950年代アメリカ映画の実力であり、懐の深さと言えるんじゃないかな。 《追記》スミマセン、あろうことかサイケデリコンさんのお名前を間違ってました…。慎んで正しい表記に訂正の上、小生もこっそり点数を8→9点へと変更させていただきます。ホント、これはかなりの快作っすよ! ねっ!!
[映画館(字幕)] 9点(2005-09-06 20:40:18)
95.  奥さまは魔女(2005)
1960年代アメリカ製TVシリーズの“魔女もの”では、あたしゃ断然『可愛い魔女ジニー』派であります。何と言っても、あのへそ出しスタイル! …もしこの映画が、『奥様は魔女』ではなく『ジニー』の方を取り上げ、なかんずくニコール.キッドマンにあのアラビアのお姫さま風コスチュームを着せ得たなら、迷うことなく満点献上したものを!(ああ、へそ出しルックのキッドマン・・・!)   とは言いつつ、小生はこの映画、なかなかどうして楽しかったですヨ。みなさんおっしゃる通り、ニコール・キッドマンがここまでカマトト演技を披露して、それが実にチャーミングだったのもうれしい誤算だったし。彼女と、相手役のなんとかいうコメディ役者(名前失念、失礼! …というか、思い出そうとも思わないが・笑)が、誰もいない夜の撮影スタジオではしゃぐ姿は、どこか『雨に唄えば』にも通じる心楽しさで、もはや演技を超えて、こんなにも嬉々としたキッドマンを見られただけでも小生には十分。  もちろん、これもみなさんご指摘のような欠点やら「問題」は多々あるだろうし、小生もあの男優だけは受け入れがたい(もっとも、どこかフレッド・マクマレーという往年の硬派スターに似ていなくもないこの男、戦争映画とか西部劇には意外とハマるかも)。何よりあのエンディングのあっけなさというか唐突さというか“投げやりぶり”には、ノラ・エフロン監督のストーリーテリングに対する才能と「誠実さ」の放棄を疑わせてガッカリだったものの、本作を見て以来、気がつけばピコピコピと鼻を動かしている小生にはやっぱりケナせませぬ。  …でも、やっぱり『可愛い魔女ジニー』にしてほしかったなぁ(笑)
[映画館(字幕)] 7点(2005-09-03 16:54:39)
96.  イブを待つ昼と夜
ひそかに愛する青年の後ろ姿を、彼女はこっそりと8ミリで撮影する。そしてその映像を、彼女は壁にかけた自分のワンピースに映写するのだ。彼女の服に重なる、愛する男の後ろ姿。そしてその映像を、彼女の手がゆっくりと“愛撫”していく…。  断言してもいい、ぼくはこれほどまでに美しく、官能的で、それ以上に深い諦念と、透明な哀しみにあふれた映像を、それまでもそれからも見たことがないことを。ワンピースの生地の起伏によって歪んだ後ろ姿。彼は決して振り向かない。それを慈しむようになぞっていく手。…「恋」する者の歓喜と絶望が、かくも鮮烈に「映像」(というか、この作品にはどうしても「イマージュ」という言葉を用いたい)へと昇華した瞬間、このささやかな8ミリ映画は、間違いなくひとつの<事件>となった。  そう、これは坂本崇子という女性が、クリスマスイブまでの日々を8ミリカメラで映像日記風に綴った、ただそれだけの作品だ。季節のうつろいや、街の表情、殺した蚊、…何気ない日常の風景に、彼女自身のモノローグが重ねられていく。しかし、“ただそれだけ”のはずの映像(と、彼女の「声」)は、いつしか見る者(の「心」)を狂おしいまでにをとらえ、魅了し、決して忘れられないものにするだろう。何故なら、ここにあるのはひとりの女性の「魂のふるえ(=エモーション)」そのものだから。そのエモーションは、見る者の心に否応なく共振する。彼女と同じ「ふるえ」を受け取り、同じものを見て、同じように感じるのだ。それを「恋」というなら、この映画は何より「恋の映画」に他ならない。あの時、小さな会場で本作を見た誰もが間違いなく「恋」してしまったことを、ぼくは知っている。そしてぼくという観客も、出会って20年近くたった今もなお、「恋」し続けている…。  それにしても、もう一度“再会”する機会はあるんだろうか。ある、と信じたい。どうですか、「イメージ・フォーラム」関係者の皆さん!
[映画館(字幕)] 10点(2005-09-01 17:54:22)
97.  アイランド(2005)
もはやとっくに見放したマイケル・ベイ監督の映画を、なぜわざわざカネ払ってまで見たのか? 1・ヒマだったから。2・ふと魔がさして。3・愛人が「どーしても見たい!」と言ったので(大嘘)。…まあ、そんなところです。でも、ちょっと興味がなかったワケでもない。それは、「ジェリー・ブラッカイマーのもとを離れてはじめて撮った本作で、ベイはどんな映画を撮ったのか…という、その一点において。  結果、ハッキリ言ってこれまでのベイ作品中では、最もまとまっている。それは素直に認めよう。ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンセンのふたりが施設を逃亡するまでの前半は、何の“芸”もないものの、逆に言えば余計な小細工なしに(ベイ作品におなじみの、意味なくカットを割ったり、凝った構図や移動撮影の氾濫もそこそこに)物語を描こうとしていることが好ましい。もっとも後半は、例によっての荒唐無稽な大破壊ショーに終始するんだが…。  かつてブラッカイマーから、「あいつはカットつなぎもお構いなしで撮影している」と揶揄されたベイ。なら、そんな監督を使うなよ! とも思うが、たぶん、そんなベイのセオリー無視(というか、「無知」ね)な映像こそが、ブラッカイマー流「スペクタクル(見せ物)」にふさわしい! ということだったんだろう。実際、見せ場となると様々なアングルから撮られた膨大なカットを嬉々として編集する彼の作品は、もはや「映画」とは別の、ただ観客に刺激や興奮をもたらし続ける「映像=音響アトラクション」以外の何物でもないだろう。そこでは、「物語(ドラマ)」ですら映像=音響のための“口実(エクスキューズ)”なのだ。そういう意味で、彼は『男と女』あたりのクロード・ルルーシュと、実は同類(!)なのである。  しかし、この新作におけるマイケル・ベイは、確かに「物語」への志向をうかがわせる。見る者のアドレナリン流出に精をだすことばかりじゃなく、彼なりに人物や世界の「背景」を描こうとしている。それは、映画ファンのひとりとして素直に祝福したいと思う。  …まぁ、「だから、いつもよりツマンナイのよっ!」とおっしゃる向きもあるでしょうケドね。
[映画館(字幕)] 6点(2005-08-05 16:14:00)
98.  ロケッティア
ノーテンキなおふざけ冒険ファンタジーのようで、実は海賊映画やスパイ活劇、西洋チャンバラ(?)映画など、往年のハリウッド映画へのオマージュに満ちた、実に実に愛すべき映画。特に、あの伝説の人物ハワード・ヒューズをかくも魅力的に登場させたあたりに、作り手たちの「映画愛」を感じさせてくれる。どこか宮崎駿の『天空の城ラピュタ』に通じるセンスも、なかなかだしね。昔は良かった、的な回顧趣味が鼻につく向きもあるでしょうけど、ぼくはこの映画が大好きです。《追記》うわっ、点数低い~っ! そこまでツマンナイ映画じゃない、と思うんすけどねぇ…。監督のジョー・ジョンストンは、その後撮ることになる『遠い空の向こうに』や、ロボットのデザインを担当した『アイアン・ジャイアント』にも通じる、どこかなつかしい“温もり”がその映画から感じられる。逆にそれがウザかったり、今っぽくないと思われるのかも知れないけれど、CG画面に「人間味」を与えられる彼の存在は、だからこそ現在のアメリカ映画にあってとても貴重なんじゃないか…? と、小さな抗議を込めて8→10に変更しますです。ジェニファー・コネリーだって、ほんとカワユイんだけどなぁ。
[映画館(字幕)] 10点(2005-08-04 11:28:31)(良:1票)
99.  亡国のイージス
この映画は、まず何よりも原作と監督の「闘争」の記録として見るべきだと思う。  「今のニッポンとニッポン人は腐りきっている! こんな国は一度ブッ潰して、つくり直さねばいかん!」と叫ぶ「憂国の士」たる軍人・自衛隊員がいて、彼らの仕掛けるクーデターを、「国家」と「国民」に忠実な軍人・自衛隊員がからくも阻止する…という、おなじみの福井晴敏イズム。彼の原作になる映画には、そういった「国家や歴史など、ゲームのように“リセット”すればいい」というきわめて安直かつキナ臭い主張が主調音(ドミナント)として繰り返されている…。  だが阪本順治監督は、そういった危機管理をめぐるシミュレーションゲームめいた物語なんぞ、実のところまるで意に介さない。フラッシュバックで描かれる登場人物たちの背景も、故意に曖昧なままか、暗示する程度(映画の冒頭、妻子に見送られて家を出た真田広之の主人公。しかし、次のシーンでは何の説明もなく「何年も前に離婚した」ことになっている…)。さらにイージス艦内での銃撃戦にしても、激しい撃ち合いの途中で別の場面になったり、窮地に陥った主人公たちが、カットが変わると何事もなかったかのように逃げおおせていたりと、原作を念頭においた観客を明らかにはぐらかし続けるんである。  そうして映画は、次第に、艦艇内と官邸内の男たちによる「闘争劇」としての姿を鮮明化するだろう。特にクライマックス、真田と中井貴一は、もはや「国家」も「民族」も「理想」も「家族」すらも無縁な、「たった独り」となって目前の「敵」であるお互いと闘う、そのカラカラに乾ききった、透明で、純粋(!)な「闘争」それ自体の現前化…。そこに至る時、ぼくたち観客は、戦争も知らないくせに「本物の戦争を教えてやる!」とのたまう原作のオメデタサとはまったく別の「映画」を見せられていることに、否応無しに気づかされることになる。ああ、これは、阪本監督のあの恐るべき『トカレフ』そのものじゃないか! …と。   そう、これは紛れもなく「阪本順治の映画」だ。この世界は、勝者も敗者もない個と個の「闘争」としてある。そんな阪本作品の文字通り集大成として、この大作は屹立しているのだ。つくづく、恐るべし。
[映画館(字幕)] 10点(2005-08-02 22:05:43)(笑:1票) (良:1票)
100.  おじゃる丸 約束の夏 おじゃるとせみら 《ネタバレ》 
【梅】さんのレビューで小生の言いたいこともほぼ書き尽くされているのですが、ちょっとだけ・・・。  不思議な少年せみらを、いつもの丘の上の大きな木の下で待っているおじゃる丸たち。でも、せみらは現れない。ふと見ると、夏の終わりを告げるかのようにセミたちが死んでいる。その時、おじゃる丸の見開かれた瞳が、かすかにゆれるのだ。そして、「まろは、夏が少し好きになったでおじゃる」とつぶやく…。  一緒にいたカズマや金ちゃんたちではなく、おじゃる丸だけがせみらという少年の“正体”に気づく。それを台詞ではなく、ただ瞳の中の光のゆらめきだけで表現する繊細さに、ぼくという大人の観客は胸を打たれる。あるいは、映画の半ばで、トミーじいさんたちがせみらを見て、まだ子どもだった時の夏休みに出会ったことを思い出す場面。モノクロームの写真風に描き出されるそこでのせみらは、いかにも昔の少年らしくランニングシャツ姿だ。そんなささやかなディテールにひとつにも、上質のノスタルジーが香ってくるかのようじゃないか。  誰にでも、忘れられない夏がある。そしてそれは、いつも過ぎ去ってからはじめて気づかされる…。そんな、多分にセンチメンタルな、でもかけがえのない感情を思い起こさせてくれたこの作品。ぼくはとても好きです。  ・・・と、また例によって長くなりました。スミマセン!
[地上波(字幕)] 8点(2005-07-22 15:55:08)(良:1票)
081.09%
140.55%
250.68%
3202.74%
4253.42%
5598.07%
67810.67%
79212.59%
817123.39%
98411.49%
1018525.31%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS