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すぺるまさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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101.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 
「ママに会いたかった、パパに会いたかった、家に帰りたかった」という台詞だけでもう十分すぎるほどに心を撃ち抜かれた。そしてそれをガラス越しに見つめるアンジーが、まるでスクリーンを見つめる我々観客のようで、そのイーストウッドの客観性に追い打ちをかけられ震え上がった。 そして「希望」を口にするアンジーの赤く染まった口元の優しさ、これほどまでの愛情・・思い出すだけでも感慨深いものだ。 もちろん真のアメリカ映画は昔からアメリカや社会と戦ってきた、しかしこの映画はそれだけのアメリカ映画ではない。それはロス市警の不正を徹底的に追及する映画ではないし、ましてや殺人狂への遺恨を描いた映画でもないからだ。 息子と映画を見る約束を仕事の忙しさから果たすことが出来ず、家を後にするアンジー、そして家に取り残された息子。この時の描き方が、既にこの親子は二度と再会することはないという永遠の別れを物語っている。窓越しに母を哀しく見つめる息子をキャメラがトラックバックしていく、これがあまりにも決定的だ。 更には仕事が長引いてしまった彼女がようやく帰路に着こうとするのだが、赤い路面電車は彼女に車体を幾度となく叩かれるも、そんな彼女の左手など触れてもいないかのように知らぬふりを決め込み走り去ってしまうのだ。そして彼女が「なんてこと・・」というような表情を浮かべた時の少し望遠気味のショット、先ほどの路面電車を正面から捉えていたのが縦位置だとすれば、横位置に回ったショット、この瞬間こそが、彼女の表情から不安感を滲み出させ、後戻りなど出来ない道へと踏み出してしまったと告げているのだ。 この導入部を見れば、これこそが真の映画であると気付くのだし、登場人物の視線、キャメラの視線ということの重大さ、強さ、そしてその真意にはっとさせられるのだ。 アンジーの潤んだ視線や憤りを露にした視線の先には、不正や殺人狂などを越え、いつも必ず息子ウォルターがいるのだ。 「チェンジリング」は圧倒的な視線劇で、徹頭徹尾、愛情を描き貫いている。
[映画館(字幕)] 10点(2009-02-24 23:08:57)(良:3票)
102.  ベンジャミン・バトン/数奇な人生 《ネタバレ》 
(良いことか、悪いことか、この映画には悪というものがほぼ存在していない ) 歯車が組合わさっただけの機械であるところの時計がいくら逆さに廻ろうとも、神の業であるが故に歳を重ねれば重ねるほどに肉体のみが若返ろうとも、時の流れだけは決して巻き戻らない、死者は蘇らない、死は待ってはくれないのだから、ならばそれまでは生きていくしかない、ならばどう生きるのか。これは死を考える映画ではなく、今を生きることを考える映画だ。 ベンジャミンが勉学で何かを学ぶシーンなどは一度も出てこない。街へ出て、友と語り合い、船に乗り身を削って働き、セックスを、酒を、友の死を、恋を、全て身を以て経験し、体験し、それが生きているということだと知る。 ひととひとというのは決して強い結びつきがあるわけではない。素晴らしい時間がいつまでも続くわけではない。はなればなれにならなければどうしようもないときもある。そしてひとはさすらい、またもどる。そこにはもどりたくなる理由があるからだ。 ベンジャミンが最期のときを迎える様などは素晴らしい。彼はますます若返り、認知症を抱えた少年へと老い、そしてひとりでは歩くことすらできない赤児となり、彼を抱き抱えるデイジーを思い出すも、何も、ひとことも言えることなく息をひきとる。そして本当に生まれたときそのままに、彼女はブランケットで彼をそっと包むのだ。 彼女はどうして彼が自分のことを思い出してくれたと言えたのだろうか。それはもしかすると彼女だけの思い違いかもしれない、彼女がそうであって欲しいと思っているだけかもしれない、ただあるいは彼のまなざしが、どんなに自分が老い彼が若返っていこうとも変わらず愛してくれた、あのまなざしと同じだったからかもしれない。 雷に7度打たれても生きていた男、ピアノを教えてくれた老婆、シェイクスピアが好きな男、ボタンを作った男、そして母親、そしてバレリーナ、皆、生きていた。どんな死を迎えたかなどは大した問題ではなく、どのように生きていたかというその瞬間だけが永遠なのだ。思い出そう、丁度人生も折り返しの頃、この瞬間をいつまでも記憶に留めておこうと、沈黙のままに鏡に向かい合うふたりを、あの瞬間が永遠なのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-02-09 03:01:40)(良:2票)
103.  ニュー・ワールド 《ネタバレ》 
スミス大尉のナレーションで語られるのは、現実と夢、つまりネイティヴ・アメリカンの穏やかで豊かな生活と自分たちの血と権力による荒んだ文明社会との葛藤というところに重きを置いたものだ。そこにポカホンタスとの恋が絡まる。そしてスミス大尉が去ると、この映画の主観はポカホンタスに移る。それはスミス大尉が語ってきたような葛藤ではなく、完全なる恋の葛藤である。彼女のナレーションが語るのは母への言葉だ。更にこの映画も終盤に差し掛かると、夫が主観のナレーションまでも登場する。これは完全に妻への愛、更には未来の息子へと語っているのだが、こうなると前半のスミス大尉の葛藤などどこへやら、話の取っ掛かりでしかなかったのかとすら思える。であるから、ラストもこれは文明だとか人間であるとかそんなところへ向かおうとしているのかすらあやふやで、ただのメロドラマになっていく。しかしラストの隅々まで手入れの届いた英国式庭園の中を歩むネイティヴ・アメリカンという構図などを作り、ぎりぎりメロドラマだけで終らすところを耐えている。  では本当の意味での「ニュー・ワールド」とは何か。確かに入植しようとする地はイギリス人にとって「ニュー・ワールド」だが、ポカホンタスがイギリスに初めて行ったとき、そこはまさしく彼女たちにとっては遥かに「ニュー・ワールド」であったというこの逆さまの展開こそが本意だ。人々は今までに見たことのない新しいものを見ると非常に驚嘆するし感動する。イギリス人にとって「ニュー・ワールド」と言えども所詮未開の地、ただの草原や森だ。しかし彼女たちにとってのイギリスというのは、未知の世界、 「ニュー・ワールド」なんだと。 そしてポカホンタスがスミス大尉に再会したものの、夫を選ぶという選択、そして「故郷(HOME)に帰りましょう」という台詞、「ニュー・ワールド」よりも「故郷(HOME)」という選択の様々な本意が見え隠れする。そしてあの船やら空やら港やら川やら森やらをぶつ切りに少し震撼させられる。  テレンス・マリックと言えば映像美の監督だと言われるが、この映画の凄さは、そういった映像美そのものにはなく、それを逆転的に使っているところにある。彼の映像美といえば、自然光を駆使した自然美だ。その自然美を散々見せつけ、そこにふといきなり整然とした人工美を見せる、そこではっとさせられてしまうという経験こそが本当の狙いなのだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2009-02-08 11:08:50)(良:1票)
104.  007/慰めの報酬 《ネタバレ》 
ただ見せるということにのみ重きを置き、物語ることなどほぼ放棄し、しかしながら展開は着実に前進していくわけで、それをこれだけ詰め込んで100分弱というのは立派だ。ただほぼ説明らしい説明を廃し、兎に角詰め込んだ結果、マチュー・アマルリック演じるドミニク・グリーンがどんな人物なのかということがあまり明瞭ではなく、まこんなもんでもいいかとも思えるが、足りないといえば足りないだろう。ただ正義と悪の対立という構図のみに固執し過ぎるアクション映画の時代は過ぎ去ったのだとも言える。 007本来の華麗さなどは捨て、無骨な復讐の鬼となり、ひたすら乾いた接近戦を繰り返すダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンドというのは、それはそれでいいのだと思える。そんな無骨さと対象的に洗練されきった美術とローケーションが、逆にその無骨さを際立たせている。007シリーズのみならず正義と悪の対立を描いたアクション映画のひとつの型としてあるのが、最後に敵のアジトに乗り込んでいき大爆発という展開、もちろんこの映画でもそうなのだが、それを仰々しく描いていないところに好感が持てる。それはホテルのセットのうまさ、洗練さにもあるだろうし、これはあくまで復讐劇なんだと。そんなホテルのシーン、特筆すべきは音響だ。爆発音と編集がまるでアンサンブル演奏のごとく調和がとれていている。そういった意味ではアクションシーンの見せ方もうまい。全くハイスピード撮影を使わず、CG処理などは最小限にし、リズムで繋いでいく。対話はカットバックでわかりやすい。 また炎の中オルガ・キュリレンコ演じるカミーユが膝を抱え、そこにボンドが飛び込んでいき抱きしめるところなどは、前作「カジノ・ロワイヤル」での ヴェスパーとのシャワールームでのシーンを思い起こさせる構図となっているように思える。ボンドの位置が左と右で逆であることが、その女性を救えるか救えないかという表象的意図があるかどうかはさておき。 とりあえず今作は復讐という大前提があるので、ジェームズ・ボンド本来のスパイらしさなど皆無、悪の一団を潰すということすらぼやけがちだったものの、やはり映画は復讐劇がいいなあと思いながら楽しめた。 多くを説明せず見せる映画とした今作のラストショットはなかなかのものだと思える。そして前作との繋がりを意識して敢えてラストに持ってきたガンバレルというのもなかなか憎い。
[映画館(字幕)] 5点(2009-02-06 23:56:39)
105.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 
映画で人が走っている瞬間は素晴らしい。 この映画の主人公三人は、もう一度やり直したい、どうすればこの柵から抜け出せるかということをきっかけに、唐突に走り出す。 オープンカーの屋根を開けることで女の決意となった瞬間の美しさや、妻に見つかったことでの後ろめたさで狼狽する醜さや、大人に対する嫌悪感や子供であることの無力感、それらが一気に膨れ上がり映画そのものも走り出す。  そして彼らは「どこか」に向かう。家族という社会での最小単位のコミニュティから、救いがあるかもしれない「どこか」に辿り着くために外へ出る。しかし小泉今日子演じる佐々木恵が目にしたものは、海であり、海の向こうには陸だか船だかそれがあるのかもわからないくらいにまだ海が広がり続ける。 結局、三者とも、どこかに辿り着けそうで、どこにも辿り着けないのだ。 実際に存在したかもわからない橙色の光を見つめ涙したり、一度は死んでみたり、子供ながらに大人と同じ扱いを受けてみたり、果たしてそれが何か救いになるのか。 そして彼らは結局もとの位置に戻るしかないのだ。  恵は、自身を傷つけようとしている役所広司演じる泥棒に、最後に信じられるのは自分自身でしかないと言う。 井川遥が演じるピアノの金子先生は離婚するのだが、もともと他人だったのがまた他人同士に戻ったと言う。 所詮、個人は個人、他人は他人に過ぎない。自分ですらもうひとりの他人である。しかし一番信じられるのは自分でしかない。 この三人は静かに自分を信じ始めたからこそ家に帰り、お母さん役が作った朝食を食べたのだ。  確かに個人は個人で、自分の悩みなど自分で解決するしかないのだし、家族と言っても所詮は他人同士のコミュニティだ、でも違うんだよ、そうなんだけど違うじゃん、それだけであって欲しくないじゃんという、前向きな希望があの象徴的なラストシーンにはある。 それこそが救いだろう。許しや救いというのは愛の中にしかない。あの愛情に溢れた(ように見える)家族は陽の当たる中を、カーテンがたゆたうほどのそよ風に乗りながら、そうだけどもそうだけであって欲しくないじゃんというアカルイミライへ歩んでいくのかもしれないし、あるいはそうじゃないのかもしれない。  しかしながら、すべてはあの海だ。あの横一直線に光る白波と小泉今日子、そして朝日を目一杯浴びる。まるで生き返っていくようだ。
[映画館(邦画)] 9点(2008-12-31 23:59:22)(良:3票)
106.  LOFT ロフト(2005) 《ネタバレ》 
黒沢清は常に死を撮り続けてきた。『回路』では「死は永遠の孤独だ」といい、見た者に底知れぬ不安感と恐怖感を滲み上がらせた。この『LOFT』という映画もまた、その死と孤独、そして永遠についての映画だ。 中谷美紀演じる女流作家春名礼子と豊川悦司演じる大学教授吉岡誠のふたりは周囲の人々との関係を保つものの、どこか孤立して生きている。 そんなふたりが風吹き荒ぶ嵐の晩に、何の前触れも無しに、突如破綻したように結ばれてしまう。この瞬間、物語は立ち上がり、そして物語が機能し、また消えていく。 その繰り返しがこの映画だ。ひとつの物語を語り続けるのではなく、その瞬間瞬間に物語が立ち上がり、そして消失していく。 礼子が柱陰に見る黒い服を纏った女の件などはほぼどこにも連鎖しているようには思えず、あの瞬間にサスペンスが沸き起っているだけだ。 そんな物語の集積でこの映画は形作られているのではないか。それがショット間の断絶にも繋がり、とてもちぐはぐなショットとショットの繋がりを見せている。これもまたショットの集積と言うべきか。 これらはひとつの物語を語っていくには、映画の限界に近い、際どい表現方法であると思う。しかし思いっきり大胆に言えば、映画の豊かさを最大限にまで活用した贅沢な表象なのではないだろうか。 ラストシーン、それは最高に美しく映画的な瞬間に溢れたものだと信じてならない。 礼子と吉岡は抱き合い、ふたりで「永遠に互いを離さない」と誓った瞬間、吉岡は死を遂げたもはや魂の篭ってはいない肉体によって、沼へと連れ去られる。ふたりの永遠は一瞬のうちに完全に放棄され、生きている限り、しかもふたりでなど永遠は迎えられるわけがないのだというごくごく当たり前のようで、実は大きく勘違いをしているその永遠ということの恐ろしさと孤独感がここで瞬時に解き放たれる。礼子を俯瞰で撮らえるクレーンショットは礼子の孤独の表象ではない。つまり彼女はまだ姿を残しているのだ。いつか滅びる肉体を保持している礼子は永遠ではなく、またその後ろにぶら下がる人間としての形だけを留めたミイラは未だに死にきることの出来ぬ切なさの塊だ。 永遠の孤独、それはもはやラスト、スクリーンには映し出されることすらなくなった、沼に沈んでいった、吉岡の死のことだ。あのクレーンショットは吉岡の孤独の表象だ。
[映画館(邦画)] 9点(2008-11-03 04:46:53)
107.  石の微笑 《ネタバレ》 
クロード・シャブロルはここ数年も撮り続けているはずだが、全く日本に入ってこない。困ったものだ。この映画を見ればクロード・シャブロルが枯れ果てた爺様になってなどいない、むしろ年を重ねますます映画が冴えてきているとさえ思えるだろう。こんなにも無駄を排した濃密な映画はなかなかない。 終盤、警察署内の扉が幾度となく開閉され、それを性急なまでに移動し、細かくモンタージュしていく。この辺りからこの映画の終幕へ向けての極度の緊迫感は高まっていく。 「もうしばらく会うのはよそう」とブノワ・マジメル演じるフィリップは、ローラ・スメット演じるセンタ(決して美人とは言えずとも、この怪しげな色香は一体何事か・・)に電話を通して言う(ここでも単純ながらも秀逸なカットバック)。しかしフィリップの衝動は抑えきれない。キャメラは浮遊感たっぷりにセンタの家へと入っていく。自然と玄関の扉は開き、半開きとなっていた地下への扉をくぐり抜け、左へ穏やかにカーブした階段を下りると裸電球がぶら下がっている。この緊迫感に唸りをあげない人などいないだろう。しかしセンタは地下の部屋にはいない。フィリップは階段を上り、義理の母とその恋人がタンゴを踊っている2階を通過し、悪臭が漂う3階へと足を踏み入れる。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには椅子に腰掛け、前屈みになり煙草をふかすセンタがいる。この時の戦慄、もはや説明するまでもあるまい。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには腐ったネズミではない、あの誘拐されていた少女の死体があるのだ。 この終幕までの10分から15分足らずで、幾度とない扉が開け放たれ、そこにはフィリップが虚構の世界に止めておきたかったものが現実となって広がっていく。勿論、このラストだけではない。この映画は常に扉が開かれること(あるいは閉ざすことで)、そしてその中を、その空間を移動することで物語が展開し、極度の緊迫感を醸し出している。この扉を開ける、閉めるで映画は作られ続けてきた。この扉というたった一枚の板に蝶番がついた装置が、ここまで機能してしまう。映画って凄いな、素晴らしいな、と感じる濃密なサスペンス。
[映画館(字幕)] 9点(2008-10-31 02:26:03)(良:1票)
108.  残菊物語(1939) 《ネタバレ》 
悲しくも、恐ろしく美しい。 西瓜をふたりで食べようとする、勝手場での長回しのワンショットに心が震え上がる。 これは映画を見ていくと、後に、菊之助とお徳が離れ離れとなり、 菊之助が、昔ここでふたりで西瓜を食べたということを思い返すシーンとして、 前述の勝手場のワンショットと全く同じ構図が反復される。 ただその勝手場にはお徳の姿はなく、菊之助だけが、ひとり佇んでいるのだ。 回想シーンが挿入されるわけでもなく、同構図で反復されるというだけで、 あのふたりで食べた西瓜の時を菊之助は思い出しているのだろうと 我々観客は気付くのだが、もう涙なくして、佇む菊之助を直視することは出来ない。 しかしその後々に反復されるという事実を知らずとも、 もはや西瓜を食べようとしているショットの時点で深く心に響いてくるのは何故か。 それはやはりこのショットが後のふたりの運命を喚起していたからなのか。 或は、溝口健二の馳せた想いが、後に反復するこの構図から、 スクリーンを通して滲み出てきていたのだろうか。 だからか、菊之助が「お徳、ちょっと持っておくれ」などと言うだけで、 切なさが溢れ出し、涙が頬を伝うのだ。 そう、つまりこれは全て溝口健二によって仕組まれた周到な仕掛けだ。 この仕掛けは台詞ではない、身振りでもない、構図だ、ショットの持つ強さだ。 そしてショットの反復は他にも繰り返される。舞台袖だ。 映画の冒頭、父は舞台袖で菊之助の至らなさに腹を立てる。 この舞台袖での件というのは映画が進んでも幾度となく登場する。 そして菊之助がとことん落ちぶれた後に、東京への再帰をかけた舞台が終わった時の、 その舞台袖でのあの感動はなんなのであろうか。 更に、菊之助がいた二階の安下宿。ここに菊之助と離れ離れになったお徳が戻ってくるとき。 昔、鏡台を二階に運ぼうとしたときと全く同じ構図、そう階段上からのあの俯瞰のショットが、 それも空ショットとして挿入されたとき、お徳の悲しさ、寂しさ、そして優しさに心を打たれる。  そして映画はいつまでも鳴り止まぬ声援に手を上げ答える菊之助、 そして静かに息を引き取るお徳、このあまりにも悲し過ぎる対比で幕を降ろす。 しかし、美しい。この美しさは作品の持つ悲しさを破綻させるほどの恐ろしい美しさだ。
[映画館(邦画)] 10点(2008-10-14 00:01:04)(良:2票)
109.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 
ラストシーンのあまりの素晴らしさ。 愛情の欠片もない無慈悲な兄との関係を、暴力によって断ち切った(かの様に見える ─ というのは暴力は暴力を生むというこの映画の法則に従えば、ここで断ち切ったとは言い切れない)トム・ストールは、愛情の消えかけた(かの様に見える ─ この後の展開がそうでなかったことを明白にしている)我が家に辿り着く。キッチンのテーブルの上には3人分の食事が用意されており、妻と子供ふたりが夕食をとっている。誰も何も語ろうとはしない。そこに苦悩するトムが帰ってくる。妻エディはうつむき、息子ジャックは戸惑う。トムは項垂れつつもキッチンに入ってくる。沈黙。エディはうつむいて、ジャックは戸惑っている。ここで、娘のサラがふと席を立ち上がり、後ろを向く。そしてふいとサラがこちらを向いたとき、(恐らくエディが用意しておいたであろう)真っ白な大きな皿とフォーク、ナイフが、か弱い手にしっかりと握られているではないか。サラはそれらをそっとテーブルの上に置き、席に着く。それを見たジャックは、大皿に盛ってあったチキンか何かをその真っ白な皿によそってやるのだ。この子供たちの愛情に答えるかのように、トムは静かに席に着く。そして目線の先にいるのは、勿論うつむいたままのエディだ。ここからは純粋な切返しが始まる。やがてエディの顔は上がり、二人は見つめ合う。そしてふと何かを見つけたという顔のトムのショットでこの映画は幕を下ろす。  「君の目を見たときに好きだということがわかった」トムはチアガール姿のエディを抱いてそっと呟く。つまりラストのトムが見つけたものは「それでもまだ愛している」というエディの愛情のまなざしだったのだろう。だからこの映画のラストに台詞は必要がないわけだし、この切り返しだけで、映画になっている。  ただしかしこの結末が、安易に愛情の安堵感だけで締め括られているとは到底思えない。この映画の根底には暴力は暴力である、暴力は暴力を生む、ということがあるからだ。暴力を愛で乗り越える映画では決してないのだ。ただエディのまなざしには「許し」が存在する。それは暴力の中にあるのではなく、やはり愛の中にあるのだ。許すこと。
[映画館(字幕)] 10点(2008-10-02 01:49:05)(良:3票)
110.  百年恋歌 《ネタバレ》 
電球、ランプ、蛍光灯、手紙、メール、自転車、船、バイク、高速道路、手を繋ぐ、服を着せる、服を脱がす、音楽、そしてサイレント・・そして舒淇・・様々なものがこの映画の中ではとても感動的に作用しているが、最も感動的で、なお官能的でもあり、そして躍動と流動と静と動を兼ね揃えた、もう一度言うが、最も感動的な瞬間の連続、それがファーストショットだ。まだ灯りの点かぬ電球から、キャメラは静かに下がっていき、ビリヤードの球のささやかな揺れと回転を、李屏賓のキャメラは優しく優しくフォローし続ける。この球とキャメラのあまりにもしなやかな動きに、もはや涙を堪える必要などない。恐らくビリヤードの球が転がっていくだけの様を見て泣けるなどということは、そうそう在ることではない。だからこの瞬間の連続に涙を流せばいいのだ。何故ならそれだけ美しく、そして官能的だからだ。そしてこのショットの続きをわざわざ説明する必要もないだろう。どうしてあんなにも人物を動かしておきながら、最後にふたりが完璧な形で、完璧な位置でフレームの中に存在しているんだろうか。驚愕。  第一話、張震が舒淇を探している様をずっと描いている。この場合、本来的に重要なのは恐らく張震が舒淇を見つけたという瞬間だろう。つまり張震側にてこの再会を描くのだろうが、侯孝賢はその選択をしない。再会の瞬間を、勿論、ワンショット内にてすべてを描いているが、先ず映っているのが舒淇だ。どこだかのビリヤード場で働いている。そこに、奥のほうから張震が入ってくるのだ。これが決定的に素晴らしい。つまり侯孝賢はふたりの中に我々観客を入り込ませないのだ。あえて一歩引いた立場でこの再会シーンを描いている。重要なのは張震の舒淇を見つけたという感情なのではない、その瞬間の風景なのだ。このあえて一歩引いた立場があるからこそ、ラストの、あのあまりにも唐突に現れる手を繋いだヨリのショットが感動的に見えるのだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2008-09-28 02:19:41)
111.  おくりびと 《ネタバレ》 
愛情故に、夫のすることにあれだけ寛容で理解のある妻(勿論、台詞にもある通り裏腹な内心を抱えてはいる)の人間性が納棺師という職業にあれだけの拒絶反応を示すのかが納得出来ず、つまりそれは後に夫の仕事を認めるという結果へと導くための原因作りでしかないだろうと誰もがその場で理解できるこのシーンはとても寒々しく、彼女のその強い母性的性格との一致はまるで無視されている。この認めないという態度は、納棺師という職業に対する世間の一部も示すであろう態度の表れだが、ではその態度を覆すためにはということになるだろう。 つまりこの映画の大きな山場とは、■納棺師は遺体を扱う職業であるが故に、反対する者もいるが、その仕事内容は余りにも知られてはいないため、百聞は一見に如かず、なシーンが必要である。■誰にでも死は訪れる。勿論極々身近な人にでも。ならば知人を納棺することもあるというシーン。というふたつがあればいいのだ。それをまとめて詰め込んだのが、あの吉行和子の納棺シーンだ。こんな下手糞な展開はなかなかないだろう。 「好きなのを持ってきな」の件も頂けない。本木雅弘がせっかく父親に会いに走り始めたにもかかわらず、わざわざ一度脚を止め、山崎努のオミトオシダヨという粋を見せた態度のシーンなど完璧にオミットするべきだ。あるいは、「好きなのを持ってきな」で走り始めなければならない。映画において人が何かに向かって走り始めたなら、挫折や妨害がない限りは、辿り着くまで走り続けなければならないのだ。 更に「うちの夫は納棺師なんです」と広末涼子が言い始め、忘れていたはずの父親の顔にフォーカスが合ってしまうというあの恥ずかしい件は果たして何なのだろうか。話は舞い戻り、妻が納棺師という仕事を認めること、それがこの映画の断固としての態度だ。だから、完全に認めること、その表象がこの台詞だったのだ。はっきりと聞こえた。しかも口の動きも凄くわかりやすいクロースアップでだ。そう、夫は納棺師なのだ。いくらなんでも安易過ぎるだろうと言いたい。その安易さが父親の顔をも思い出させる結果に繋がった。そして輪廻転生へ・・この映画はあほか。
[映画館(邦画)] 3点(2008-09-22 14:42:52)(良:3票)
112.  鴛鴦歌合戦 《ネタバレ》 
こんなに楽しい映画はない。そして何度見ても、何度見ても楽しいのだからしょうがない。 ファーストショットを見ればもう一目瞭然、水玉模様の傘をさした娘、それを取り巻く男たち、彼らが橋からやってくる時の、あの得体の知れぬような浮遊感。彼らは歩いちゃいないし、スキップしちゃいない。ましてや走ってなどいない。どう考えても彼らは浮いてる。または現実的に置換えてみるならば、そう彼らは浮かれている。 浮かれているのは、何も恋した米屋や酒屋や炭屋だけではないだろう。ここでは殿様ですら浮かれている。彼は突如に歌いだす殿様なのであって、笑顔を絶やすことなどはひと時もない。終いには女の子を軽く骨董品扱いしだす始末だ、酷い。  ならばと地面一面に並べられた傘はどうだろう。だがむしろこの丸みを帯び、柔らかさもを感じさせる色とりどりの傘こそが一番の浮かれ記号なのだからしょうがない。つまり冒頭でさしている水玉模様の傘、これがもう今にも娘をどこかに飛んでいかせてしまいそうに見えて仕方がない。  だが中盤、お春はその浮かれ気分に業を煮やしてか、傘を滅多打ちにしてしまう。つまりあの娘など浮かせて堪るか、更に言えば、片岡千恵蔵演じる礼三郎すらも浮かせて堪るかという想いからの滅多打ちなのだろう。そんな愚痴しか言わない市川春代演じるお春。台詞のおよそ八割が愚痴だ。しかもたまに「ちぇっ」とか舌打ちをしたときには、生意気さをも飛び越えて愛らしくて仕方がない。  ただこの映画は浮かれてはいるが、浮かれ過ぎてはいない。それが最大の魅力だ。殿様は結局のところ浮かれ損。麦こがしの壺も一千両と聞けば浮かれるが、選ぶは心の清らかさ。さぁさ、今日も傘を広げましょう、と、観客はラスト、宮川一夫の見事なクレーンショットに乗っかって空へと浮き上がってしまうのでした。
[映画館(邦画)] 10点(2008-09-22 13:58:43)(良:2票)
113.  007/カジノ・ロワイヤル(2006) 《ネタバレ》 
やはり人が本気走っているのは見ていて凄く気持がいい。だから007シリーズで走っている様を映そうとする気がある場合は本当にかっこいい。とにかくピアース・ブロスナンの走る様というのは半端がないほどにカッコイイ。それをダニエル・クレイグがどう受け継いでいるかというのが一番気になるところだった。いや、いいですね。いい走りをしている。そしていい体をしている。ショーン・コネリーもなかなかの胸板をしていたが、ダニエル・クレイグも負けてはいない。 それにしてもこの映画のアクションシーン、つまり始まって間もなくの爆弾魔の追跡や、空港や、車の派手な横転、これらはこの物語とほとんど関係がない。唐突だ。いや、関係がないわけではないが、本筋ではなく、そこから派生し、枝分かれしたところで起こっている出来事、副産物でしかない。とりあえず枝の先のほうをアクションで描いてしっかり本筋に戻るという繰返しだ。だから正直このアクションシーンを記憶に留めて置くことは難しくなるだろう。あったという事実だけで、無くても良かったという苦笑と吊り合ってしまうのだ。だがそれが良い。つまりこの映画はあくまで007になるまでのボンドの純愛映画であり、そしてそれをも冷酷な顔で撃ち抜いてしまうボンドの冷酷映画なのだから。つまりピアース・ブロスナンがやり続けたただのアクション映画ではないのだから。だからそれでいい。だからこそ本来かかるべきところでかからずに、溜めに溜めて、最後の最後に劇場内に響き渡る、007のテーマのメロディーの流麗さに心が躍るのだ。ああここからダニエル・クレイグのジェームズ・ボンド、007が始まるのだと。
[映画館(字幕)] 6点(2007-09-14 15:48:36)(良:1票)
114.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 
つまり、物語とまなざしという、映画の本質的な何かを見た気がしたのだ。 それはブライス・ダラス・ハワードという女優のまなざしだけで、映画として足り得てしまっているという事実だけではなく、この映画における人々のまなざしの向け方、更にはクリストファー・ドイルのキャメラのまなざしの向け方を見ればそれは明かだった。そのまなざしの連鎖は、外を見せずに外を見させることだ。この映画にはアパートの外部は存在していない。またどこか狭いフレーミングで撮られたショットが多い。これらは決して窮屈であるということではなく、フレームやアパートの外の何かを映さずに、つまり見せずに見せているということだ。外があるのだから、そこには何かがあるのだ。それは世界であるし、あの獣でもあるだろう。フレームで切り取るということをよく言うが、これは間違いだと言い切りたい。フレームは全体から部分を切り取るためにあるのではなく、部分から全体を見せるためにあるのだ。 またシャマランは、水の妖精にあえてそして潔くも堂々と "ストーリー" という名をつけた。物語が映画において何であるのか。果たして物語は映画で一番重要なことなのか。物語があるから映画なのか。違う。物語は "導き" であるに過ぎない。映画を見せるために物語はある。誰か人が行動することを、考えることを見せるために物語はある。物語は原因に過ぎない。結果は映画であり、それを俳優であり、職人であり、監督が産み出す。観客が観るのは結果=映画であり、物語ではないのだから。つまり、シャマラン自らが過去に描いたような観客が仰天するような結末や、予想を裏切る展開などは、映画において大して重要なことではないのだ。重要なのは、そのような結末や展開の物語を映画としてどう見せるかであり、物語に引き摺られ続ける映画は映画ではないのだ。またそれと同様にこの映画がVFXにて(またそれを駆使しすぎずに)あの獣を描くのは、VFX(の乱用)が物語の足を引っ張っているのだという明示であり、物語をVFXから守らなければならないという答えでもある。紋切型の批評家は物語にすら参加することが出来ず、終いには敵視するVFXに喰い殺されてしまう。ただシャマランがVFXを否定していないというのは、ラスト、ストーリーがVFXに包まれVFXの宙へと飛び立っていくのを見れば明らかだろう。 何だか最近のシャマランは泣けるよなぁ
[映画館(字幕)] 7点(2006-10-02 00:40:29)(良:4票)
115.  グエムル/漢江の怪物 《ネタバレ》 
それは例えばスピルバーグの『ジュラシック・パーク』の様な「いつになったら恐竜出てくるんだ」という苛立ちや、「出てくる、出てくる」という期待感、そういったものを観客が持つ前に、言ってしまえば観客が油断している冒頭の段階での唐突なまでに橋にぶら下がっているあの怪物の潔い登場、それは映画として歓喜すべき裏切り行為だ。極一般的に考えて、見たこともない巨大な物体が徐々に近づいているにも関らず、河に物を投げ入れ、あたかもその物体を歓迎しているような態度を人々はとるであろうか。この連続した観客への裏切りこそが、序盤の見せ場だ。つまり注目すべきは、WETAが描いた怪物自体でなく、それを登場させる過程だ。そんな潔さと裏切りにこの映画は満ちている。そして最も注目すべきは走るという行為だ。メールで姪の居場所を知らされたナムジュが突如として走り出す様をキャメラはただ横移動で映し出す。更に怪物を追い父ガンドゥは橋の上を走り抜けるがこれもキャメラは横移動で追い続け、徐々に俯瞰構図となり橋の下を泳ぐ怪物とを橋の手すりを境とし、分割画面として映し出している。この走る行為とキャメラの横移動、思い出すのは『M:i:III』だ。イーサン・ハントもガンドゥもいきなり自転車や、車を奪っても映画としてはなんら問題は無い。良くあることだ。しかしそうしないのは『M:i:III』同様、愛する人の元へ向かう時、もはや最終的に人は走らなくてはならないという必然性を、雄弁なまでにこの2本の映画は映し出している。そして撮り方もだ。つまり、例えその目的が違えども、スピルバーグの『宇宙戦争』のラストで、ダコタ・ファニングが枯葉舞う中を愛する母の胸の中へと走り寄っていく時の横移動があまりにも美しかったことが、今、アメリカを飛び出し、韓国で再現されたのだ。ポン・ジュノは間違いなく『宇宙戦争』を見て、大いに影響を受け、そして嫉妬したであろう。トライポッドの脚が人々をくるりと巻き上げる様、そして一度吸収し、洋服だけを排出する様にだ。ジュノはそれを尾と骨で再現した。瓶で殴られた浮浪者を次のカットで仲間に引き入れているという出鱈目さは、黒沢清に近い感じすらする。ペキンパーが好きなのはわかるが、ハイスピード撮影の使いどころはもう少し考えて欲しい。だがこれはこれで真に《面白い》映画だ。赤の他人を"HOST"として迎え入れているという結末はギャグか否か。
[映画館(字幕)] 6点(2006-09-02 23:07:40)(良:1票)
116.  M:i:III 《ネタバレ》 
もはやスパイ映画ではないのでは・・という最大の疑問は無視するとして、これは限りなく充分に楽しめるアクション大作だ。 トム・クルーズってこんなに凄いんだ・・というよりこの人どうなっていきたいんだろうとか思ってしまう。この映画はスバラしくトム様マンセーの映画なのだけど、そのために次々と積み上げられていくアクションシーンだが、何だか微妙にズレてることに気がつく。最初の救出作戦、そっか一人一人やっつけてたら限が無いし、時間ももったいないもんね。そうだよ機関銃三つ一気にぶっ放せばいいじゃん、とトム様の活躍はほぼ記憶から薄れるくらいの暴れん坊。更にバチカンでは作戦云々より、フィリップ・シーモアホフマン・マスクの制作過程から変装、あれが凄い。今まであのマスクを外すシーンはちょくちょく出てきてたけど、あれをセットするのをじっくり見せたのはこの映画が初だろう。そして更にはラビットフットとやらを盗むときに関して言えば「盗んだ」という台詞ひとつで片付けてしまうという潔さが気持いい。そして最後なんかは妻にやっつけさせちゃう。なんだかこの映画は微妙にズレてる。しかしそこが面白いんだ。 そして何といっても、ただ横一直線に猛ダッシュをするだけのトム・クルーズをキャメラはただ横一直線に追い続けるところ、ここはやられた。いま、これだけ人間の肉体を克明に映し出した映画はそうは見ることはできない。ただ走って走って走りまくって妻の元へと走る様はスパイアクションとかそういった概念を飛び越えた、正に人がある一定のものに傾ける激しい情熱そのものだった。これは敵を倒すためではなくて、ただ愛する人の元へと急ぐという一種の青春活劇にもなりかけた瞬間だった。つまりアクションシーンのズレも全てここでの愛ってところに辿り着きたかったわけだ。 で、ラストだ。妻が言うわけだ「何で私たち今中国にいるの?」って。でも映画はこの後もダラダラ続く。ローレンス・フィッシュバーンがいい奴だったとか、一生会えないかもと言っていた友人、いやあえて言うなら戦友の妻に会えてテンションが上がる黒人とか、別に見たくないわけ、そんなの。何故あの妻の問いに「中国がハネムーンってのも悪くないだろ?」の一言で幕を下ろせないのかというところに今のアメリカ映画の勇気のなさを見た感じがする。今のトム・クルーズならこの台詞言えるはずなんだけどなぁ。
[映画館(字幕)] 6点(2006-07-14 02:03:41)
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