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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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201.  ジョジョ・ラビット 《ネタバレ》 強く美しい母親が、愛する息子に向けてカチッと独特の“ウィンク”をする。 もしかしたら、あのウィンクは所在不明の夫が、彼女に対してよくしていた“仕草”なのかもしれないな。と、思った。 そんなことを暗示する描写は特に何もないのだけれど、非情な戦乱の中、優しく、明るく、息子を愛し、「できること」をし続けるこの気高き女性は、きっと壮絶な経験と、深い愛情に包まれた、濃密な人生の上に立っているのだろうということを想像させた。 そういうことを何よりも先んじて言及したくなるくらいに、スカーレット・ヨハンソン演じる主人公“ジョジョ”の母“ロージー”のキャラクター造形が素晴らしく、この映画の根幹を担っていたことは間違いない。 詰まるところ、彼女の一つ一つの言動こそが、息子に対する“愛情”と“導き”であると同時に、この映画のテーマに対する「真理」であった。 「愛は最強の力よ」と、母親は息子に言う。 戦禍の混乱と、人間の心の闇が渦巻く状況下でのその彼女の台詞は、字面のみを捉えれば、無責任で能天気な印象を受けるかもしれない。 しかし、母親であり、一人の女性であり、信念を持って生きる人間である彼女が放つその台詞には、彼女の「人生」そのものに裏打ちされた言葉以上の重みと意味が内包されていた。 彼女はその言葉を息子に向けて発してはいるが、彼に対して背を向けており、目線はどこか遠くを見ているようでもあった。 その他の数々の台詞や行動においても、その一つ一つが魅力的かつ説得力をもって、息子と、我々観客に突き刺さるのは、それらの言動の裏に見え隠れする彼女の人生に、ドラマ性と真実味を感じるからだ。 劇中、主人公の母親についての描写は、敢えて意識的にぼかされている部分が多い。 2年間音信不通の夫の正体、長女の死の真相、サム・ロックウェル演じるクレンツェンドルフ大尉(最高!)との関係性、そして「できること」をする理由と、“あのようなこと”になってしまった事の顛末。 そこには、メインストーリーとして描かれる主人公の少年の葛藤と並行して展開していたのであろう重厚なサイドストーリーがあるに違いない。 (そのサイドストーリーの映画化も充分にあり得るのではないか。そのためのスカーレット・ヨハンソン起用だったことも充分に考えられる。) 随分と主人公の母親の話を長々と綴ってしまったが、無論この映画は10歳の純粋な少年の目線から描き出される確固たる「戦争映画」である。 ただし、その表現方法はまったくもってオリジナリティ豊かなイマジネーションに満ちあふれていた。 その特異な映画世界には、「マイティ・ソー」を次元を超越した“極彩色映画”に転じさせてみせたタイカ・ワイティティ監督の異才がほとばしっている。 今まで観てきたどの戦争映画よりも“可笑しい”。そして、だからこそあまりにも“悲しい”。 混乱の最果て、“滑稽さ”が極まる戦禍の只中に放り込まれる少年。 戦場シーンは数多の映画で観てきたけれど、少年が信じた全てのものが、脆く、愚かに、崩壊していく様を目の当たりにして、只々涙が止まらなかった。 そこに映し出されていたものは、通り一遍的な激しい戦場の凄惨さではなく、10歳の少年の心を蝕み覆い尽くす「絶望感」そのものだった。 “世界の終わり”を、その小さな身体一つで受け止めて、あまりにも大切なものを失い、深く大きく傷つき、それでも少年は命をつなぐ。 結べなかった靴ひもをぎゅっと結び止め、“独裁的”なイマジナリーフレンドを窓の外に蹴り飛ばす。 それは「鏡」に映った自分が、本当の意味で大人になった瞬間でもあった。 ジョジョよ、さあ踊ろう。好きなだけ、自由に、踊ろう。[映画館(字幕)] 9点(2020-12-03 23:08:30)《改行有》

202.  キャッツ 本格的な舞台ミュージカルを観劇した経験が無いので、勿論「キャッツ」というミュージカルを観たことはない。 無論、タイトルくらいは聞き馴染みがあるけれど、どのような物語なのかすら無知な状態で、映画鑑賞に至った。 映画作品として食指が動いた理由は、ミュージカル映画そのものは好きであるということ、「レ・ミゼラブル」のトム・フーパーが監督であるということ、そして何よりも“猫”の造形に言葉にならない“異様さ”を感じたからだ。 「キャッツ」が猫の世界を描いていること自体は物語を知らなくても何となく想像できていたけれど、予告編で流れた映像から、キャラクター造形が常軌を逸していることは明らかであり、そのビジュアルはある意味衝撃的だった。 絶妙なセクシーさと、絶妙な気味悪さ、総じて言える「奇妙」さは、何かフツーじゃない映画を観させてくれるのではないかという期待感を生んだ。 結果的に言うと、その期待感は決して外れてはいなかった。 全身CG処理された“猫人間”が繰り広げるパフォーマンスは、予告編を観た時と同様に衝撃的だったと言える。 世間一般では、そのCG合成による“気味悪い”レベルの艶めかしさに対してストレートに嫌悪感を抱く人も多いようだが、個人的にはその行き過ぎた感じがキライじゃなかった。 アレが「猫」かどうかは置いておいて、人間界以外の世界を描く物語として、生々しい“別モノ”の生物感を表現しようとした試みは、方向性的に正しかったと思える。 ただし、明確な難点の一つとして、映像世界全体をCGに頼り過ぎてしまっている印象は覚える。 CGとリアルな撮影素材の境界が混濁してしまっていることにより、演者たちのパフォーマンス自体もどこまでが生身の動きなのかの判別が付きづらくなっている。 つまり、リアルなダンサーたちのライブ感がエモーショナルに伝わってこないのだ。 それはミュージカル映画が孕むべき「熱量」の欠落に直結することであり、決して小さくないマイナス要素だったと思う。 そして、個人的に何よりも衝撃的だったのは、「物語」がほぼ「物語」としての形を成してなく、「狂騒劇」とでも言うべき、理性が消失した“騒ぎ”の中で終止するということだ。 主人公の若猫がとある猫コミュニティに迷い込み、年に一度の“舞踏会”の狂騒に巻き込まれたかと思えば、入れ代わり立ち代わり“お披露目”される「演目」が延々と繰り広げられる。 そこには分かりやすい成長譚もなければ、恋愛模様や対立劇も無い。(実際は無いことはないが、どうでもいい感じで流される) ただひたすらな猫たちの宴。まさに、猫の猫による猫のための猫映画。 ストーリーらしいストーリーが無いまま、どんどんとクライマックス的な展開に進んでいく常軌を逸した映画世界に対して、“マタタビ”を嗅がされたかのように茫然自失状態であった。 面白かったか面白くなかったかで言うと、きっぱりと「面白くない」し、極めてバランスの悪い失敗映画だろうとは思う。 ただ同時に圧倒的に「変な映画」であったことも間違いないし、予想通りにその「奇妙」さはフツーじゃなかった。(ネズミとゴキブリを調教する“おばさん猫”のくだりとか最高にイカれてる) 大団円のラストシーンでジュディ・デンチ御大が“カメラ目線”で我々に宣言してくる通り、要は「(私たち)お猫様の映画にとやかく言うんじゃないよ!」ということなのかもしれない。[映画館(字幕)] 4点(2020-11-26 00:07:16)《改行有》

203.  プロメア “縦横無尽”と“縦横無尽”が掛け合わされたようなアニメーションが、冒頭から怒涛のごとく繰り広げられる。 そして、主人公をはじめとするキャラクター紹介カットのみならず、一つ一つの技名や、悪役の登場シーンにも漏れなく挟み込まれる“大見得”カット。 主人公のキャラクター性を指して、「馬鹿」というワードが連呼されるが、まさしく問答無用の“馬鹿映画”の世界観に順応することに時間はかからなかった。 ストーリーは極めて「類型的」ではある。「馬鹿」がつくほどに真っ直ぐで熱い主人公が、社会と社会から“悪役”と名指しされる側との狭間に立ち、真の正義を見極めて、世界を救う話。 世界中の数多のアドベンチャー映画、ヒーロー映画で描きつくされてきたストーリーライン(型)だろう。 けれど、その「型」こそが、この映画の主人公の美学でもあり、作品としての本質でもあろう。 或る極東の島国の“火消し”の様式を信奉する主人公の生き様と、そのストーリーの性質は、しっかりと合致している。 実際、ストーリーそのものに新しさは無いのかもしれない。 だが、圧倒的にアグレッシヴなアニメーション表現と、臆すること無く馬鹿馬鹿しい娯楽性が、稀有なエンターテイメントを生み出す。 鑑賞者の趣向には大いに左右されることだろうが、ここまで振り切ってくれれば、個人的には大好物であり、終始ニヤニヤが止まらなかった。 声優陣では、元祖キャラクター俳優の松山ケンイチが主人公像にマッチしており、バディとなる早乙女太一との声質の相性も良かった。 そして、珍しく悪役にキャスティングされた堺雅人は、野望と陰謀を振りかざす権力者を嬉々として演じており、キャラクターのビジュアル的な変貌を超越して憑依しているようだった。 「ジャパニメーション」なんて言葉が定着して久しいが、連綿と継承されてきた表現を更に進化させて、新しいセカイを見せてくれるこの国のアニメ制作の現場には頭が下がる。 何百人、何千人、何万人のアニメ制作スタッフの、何十年にも渡る創意と工夫と犠牲の上に、この文化は醸成されてきた。 それは、この映画の主人公と同じく、「馬鹿」がつくほどに愚直で熱い信念によって貫き通されてきた「正義」だと言えよう。 そう、彼らは、これからもアニメで世界を救い続けるんだ。[インターネット(邦画)] 8点(2020-11-26 00:03:48)《改行有》

204.  イコライザー2 冒頭、トルコの国鉄まで“出張”した主人公が、早速狂気的な正義感と親切さで悪党を撃滅する。 “正義の味方”とはいえ、相変わらずメチャクチャな暴挙に対して、カタルシスなどすっ飛ばして唖然としてしまう。 が、まあ「続編」ということも踏まえ、オープニングのそのぶっ飛んだ展開自体はアリかなと思えた。 しかし、目を引いたのはむしろそのアバンタイトルだけだったかもしれない。 前作から引き続き、“殺人マシーン”と化したデンゼル・ワシントンが狂気を解放させていく様が醍醐味の映画ではあるが、前述の冒頭シーン以降では目新しい展開が見られない。 前作では、タクシー運転手として平穏に暮らしつつも、身の回りの悪事に対して「正義感」というフラストレーションが膨らみ爆発するくだりに娯楽性が溢れていたけれど、今作では主人公は端から街の悪党退治に勤しんでいるので、前作で見られた緊張感や高揚感が得られなかった。 かつての同僚が裏切り者というありきたりな展開を経て、クライマックスを迎えるが、悪党側のキャラクターがそもそも小者で脅威がまったくないので、最強殺人マシーンの主人公の前ではことさらに弱々しく見え、盛り上がりもまるで無い。 デンゼル・ワシントンのでっぷりとした恰幅が、前作では逆に良い意味で不気味で魅力的だったが、今作ではストーリーテリングの愚鈍さと合わさって、ただただ鈍重に見えた。[インターネット(字幕)] 3点(2020-11-26 00:01:43)《改行有》

205.  007は二度死ぬ ショーン・コネリーが亡くなった。 何世代にも渡って世界中の映画ファンを魅了した偉大な名優を偲び、“007”が日本に降り立った今作を初鑑賞。 やはり、日本人としては特に忘れ難き“娯楽”に満ち溢れた快作だった。 もう50年以上も前の映画ではあるが、そのエンターテイメントは色褪せない。いや、50年という年月を経ているからこそ、娯楽性は幾重にも層を重ねて芳醇になっているようにも思える。 外国の娯楽映画が「日本」を舞台にした場合、その映画は大抵の場合“トンデモ映画”になる。 日本の文化や風俗に対する誤解や偏ったイメージが、現実とは程遠い「日本」を映し出す。 今作もその例にもれず、“トンデモ映画”の一つであることは間違いないだろう。 姫路城を本拠地にした忍者軍団、日本人の漁夫に扮装するショーン・コネリーなど、失笑ポイントは確かにある。 ただし、それ以上に、日本とその文化に対する憧れやリスペクト、そして「愛」をきちんと感じる映画だった。 トンデモ映画ではあるかもしれないけれど、日本人として決して見てられない描写は無かった。 それは、この映画が、日本に対するイメージをただ想像のままに映し出しているのではなく、ちゃんと日本の各地でロケーションを行い、ちゃんと日本人の俳優たちを起用していることが大きい。 現実的にはありえない数々のシーンも、本物の日本の街や自然の中で撮影されているからこそ“つくりもの”には見えないし、丹波哲郎をはじめとした日本人俳優がメインキャラクターとして演技しているからこそ映画世界の中での説得力が保たれていると思う。 若林映子と浜美枝が演じた二人のボンドガールもそれぞれ魅力的で美しいし、トヨタ2000GTのボンドカーも流麗でひたすらに格好いい。 そして、公開から50年以上も経った今となっては、映画の中で映し出される日本の情景や風俗そのものが、日本人にとっても非常にフレッシュに映り、その中で大活躍を見せるジェームズ・ボンドの活劇には、殊更に高揚感が高まる。 コロナ禍の影響で延期を余儀なくされているが、ダニエル・クレイグ版の最終作となる「007」最新作の公開も待ち遠しい今日このごろ。 稀代の英国人俳優の逝去はとても悲しいけれど、その他未見の「007」シリーズ作品や、「アンタッチャブル」や「ザ・ロック」など彼が残した足跡も改めて鑑賞し直したいと思う。 ジェームズ・ボンドがそうであるように、ショーン・コネリーも映画世界の中で何度でも僕たちの前に甦る。[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-25 23:58:22)(良:2票) 《改行有》

206.  X-MEN:ダーク・フェニックス 時空は常に分岐し、並行世界が幾重にも分かれて存在している。 故に、その数の分、「未来」も存在する。 という“パラレルワールド”の前提を受け入れた状態で今作を観たので、この映画世界内のX-MENが辿ったグダグダな顛末もまだ許容できた。 無論、満足感とは程遠い仕上がりであったことは否定しないけれど。 “X-MEN”の第一世代に遡って描き出されたこのリブートシリーズの一作目「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は、非常に優れたエンターテイメント作品だった。 プロフェッサーXとマグニートーの若き日々の葛藤と対立を主軸にして、冷戦下の時代背景も交えつつ、“X-MEN”創設のドラマを娯楽性豊かに映し出した傑作であったと思う。 そして、その続編の「X-MEN:フューチャー&パスト」は、前作から一転して華々しい娯楽性を抑え込んだアメコミヒーロー映画としては特異なストーリーテリングの中で、“マイノリティー”として生まれ生きることの意味と意義、それに伴う苦悩と苦闘を描き切っており、これもまた傑作だったと思う。 「フューチャー&パスト」では、前シリーズの主人公“ウルヴァリン”の一つの帰着も含めた大団円が多幸感たっぷりに描き出されていた。 今となっては、このリブートシリーズは2作品で終わらせるべきだったと強く思う。 その後の三作目「X-MEN:アポカリプス」、そしてこの四作目はまったくもって蛇足であり不要だったと思う。 なので、この「X-MEN」リブートシリーズに対しては、「ファースト・ジェネレーション」→「フューチャー&パスト」を一つの時間軸として区切り、続く「アポカリプス」→「ダーク・フェニックス」はまた別の時間軸の並行世界の出来事として捉えることが、映画ファンとしては幸福だろうと思う。 これまた別次元の世界観の中で“オールドマン・ローガン”を描いた「LOGAN/ローガン」(大傑作)を踏まえても明らかなように、アメコミのヒーローたちは、無数の多元宇宙の中で少しずつ異なった葛藤とドラマを生んでいる。 その中には、正しく正義を貫けなかったことも、苦悩に押し潰されてしまったこともあろう。 そういう並行世界が表裏一体で存在しているからこそ、我々は、ヒーローたちの分かりやすい「勝利」に歓喜できるのかもしれない。[インターネット(字幕)] 4点(2020-11-25 23:56:52)《改行有》

207.  クロール -凶暴領域- まず最初に言っておくと、“B級モンスターパニック映画”好きとしては、この映画は断然アリ。 流石は「ピラニア3D」を手掛けたフランス人監督アレクサンドル・アジャ、この手のジャンル映画の何たるかをよく理解した上で、とても丁寧な映画作りがなされている。 競泳選手の娘が、ワニと洪水の恐怖の渦を得意の“クロール”で泳ぎ切り、父娘の絆を取り戻す話。 と、この映画のプロットを文面にすると極めて「馬鹿」みたいだけれど、そういう馬鹿馬鹿しさを、大真面目にパニック映画として映し出すことこそが、“B級映画”としての醍醐味だろうと思う。 馬鹿らしいプロット、馬鹿らしいストーリー展開だと感じつつも、主人公の心情や、恐怖に至るまでのプロセスがきちんと描かれているからこそ、彼女が突如として巻き込まれる悪夢のような状況にすんなりと入りむことができる。 また、極めてミニマムな映画的題材や素材を最大化し、エンターテイメント性溢れる「恐怖」を紡ぎだしていることも巧みだった。 まず「ワニ」という題材が相当地味だ。それも、馬鹿な科学者が遺伝子操作で狂暴化させたモンスターワニなどではなく、近所の“ワニ園”にいる極々フツーのワニが襲ってくるという設定が、地味すぎて逆にチャレンジングだった。 恐怖の対象となるワニの地味さを、舞台設定を主人公家族がかつて住んでいた家に限定することでカバーすると共に、フレッシュな恐怖心や緊迫感を創出することに成功している。 更には大部分の展開を、湿地の性質も加味されたジメジメと不潔で不快極まりない地下スペースに絞り込むことで、主人公たちが味わうストレスとパニックを何倍にも増幅させている。 そして、舞台となるかつての“マイホーム”は、主人公の娘と父親が抱える“喪失”とも巧みにリンクし、そこからの脱却が、父娘のドラマをエモーショナルに盛り上げる。 襲い来るワニの精巧なビジュアルや、しっかりと迫力をもって映し出される暴風雨や洪水の災害描写を見る限り、それなりに巨額の製作費が当てられていることは見て取れる。 もっと分かりやすく仰々しい舞台設定を構築することも恐らくできたのであろうが、それをせず、あくまでも“マイホーム(家族)”の映画に仕上げたことこそが、今作の最大の狙いだったのだろう。 そういう明確な“チャレンジ”に溢れた作品だからこそ、ベタベタな王道展開にも素直にグッと親指を立てたくなる。[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-25 23:53:24)(良:2票) 《改行有》

208.  もう終わりにしよう。 《ネタバレ》 晩秋、39歳になった夜、極めて混濁した映画を観た。 「面白い」「面白くない」の判断基準は一旦脇に置いておいて、この映画が表現しようと試みている人の脳内の“カオス”にただ身をゆだねてみるのも悪くない。と、思えた。 僕自身が、人生の後半へ足を踏み入れようとする今、ことほど左様に自らのインサイドにも切り込んでくる映画だったとも思う。 主人公は、何の変哲もない恋に食傷気味などこにでもいる女性。 彼女が、恋人と共に、彼の実家へと古くくたびれた車で向かう。 あたりは吹雪が徐々に強まり、白く何も見えなくなる。 車内での弾まない会話が延々と続き、主人公も、私たち観客も、退屈で飽きてくる。 ただし、この序盤の退屈な車内シーンの段階で、妙な違和感は生じていた。 前述の古い車も含め、主人公たちの服装や街並みも確かに古めかしい。 いつの時代を描いているのだろうと思いきや、着信音と共に彼女の手にはiPhoneが。 あれれ、じゃあ現代の話なのか?と思うが、その後の彼氏の実家のシーンにおいても、およそ現代的な描写はなく、益々困惑してくる。 そして、随所に挟み込まれる高校の用務員らしき老人の描写。 更には、極めて居心地が悪い彼氏の両親の異様な言動と、明らかに時空が混濁しているのであろう描写が連続する。 “彼女に何が起きているのか?” 避けられないその疑問が、この映画が織りなすカオスのピークであろう。 ネタバレを宣言した上で結論を言ってしまうと、この映画が描き出したものは、或る老いた用務員の「走馬灯」だった。 主人公のように映し出された“彼女”は、年老いた用務員の脳裏でめくるめく悔恨か、一抹の希望か、それとも、迫りくる「死」そのものか。 いずれにしても、記憶と積年の思いは、彼の脳内に渦巻き、甘ったるいアイスクリームのように溶けていく。 人生は決して理想通りにはいかない。 劇中でも語られるように、人生は、時間の中を突き進んでいるのではなく、ただ静かに、ただ淡々と過ぎ去っていく時間の中で立たされているだけということ。 そのことをよく理解しつくしている老人は、ただ時間の中に身を置いている。 そこにはもはや絶望も悲しみもない。 特に死に急ぐということもなく、いよいよ虚しくなった彼は、己の人生に対して静かに思うのだ。 「もう終わりにしよう。」と。 あまりにも奇妙な映画世界の中で、人生の普遍的な虚無感を目の当たりにした。 その様は、とても恐ろしく、おぞましくもあり、また美しくもあった。 映画作品としてはどう捉えても歪だし、くどくどと長ったらしい演出はマスターベーション的ではある。 チャーリー・カウフマン脚本の映画を長らく興味深く観てきているが、監督作になると良い意味でも悪い意味でも“倒錯”が進み、ただでさえ混濁した物語がより一層“支離滅裂”な映画に仕上がることが多い。 やはり個人的にチャーリー・カウフマンの映画は、彼が脚本に専念した作品の方がバランスの良い傑作に仕上がることが多いと思う。 ただし、もし、あと40年後にこの映画を観る機会を得られたならば、もっととんでもない映画体験になるだろう。 自分自身が人生の終盤を迎えたとき、この映画の老いた用務員が最期に見た風景の真意も理解できるのかもしれない。[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-25 14:36:49)《改行有》

209.  スパイの妻《劇場版》 《ネタバレ》 太平洋戦争開戦前夜、運命に翻弄され、信念を貫く、或る女性(妻)の物語。 正義よりも、平和よりも、彼女にとっては優先されるべき「愛」。 危うく、愚かな時代の中で、それでも貫こうとする狂おしいまでの女の情念は、恐ろしくも、おぞましくもあるが、同時にあらゆる価値観を跳ね除けるかのように光り輝いてもいた。 “昭和女優”が憑依したかのような蒼井優の女優としての存在感は圧倒的で、ただ恍惚とした。 映画ファンとしてデビュー以来この女優の大ファンだが、そのことが誇らしく思えるくらいこの映画における蒼井優の存在感は絶対的だった。 1940年代から50年代における“日本映画”の世界観を蘇らそうとする映画世界に呼応し、あの時代の“女性”というよりも、あの時代の“女優”としてスクリーン上で体現してみせた様は、まさに「お見事です!」という一言に尽きる。 映画における秀でた女優の魅力は、ただそれだけで“芸術”として成立し、“エンターテイメント”として揺るがない輝きを放つと思い続けているが、今作における「蒼井優」は、まさしくこの作品が織りなす「芸術」と「娯楽」の象徴だった。 そして、彼女の存在を軸にして、運命の渦を加速させる二人の男。 最愛の夫をミステリアスに演じた高橋一生、幼馴染の憲兵隊隊長を非情に演じきった東出昌大の両俳優も素晴らしかったと思う。 無論、黒沢清監督による映画世界の構築も「見事」だった。 俳優たちへの演出はもちろん、1940年を再現した街並みや家屋、人々の衣装や髪型、その一つ一つの表情に至るまで、この映画で映し出されるべき「時代」そのものを映画の中で構築してみせている。 個人的には、自分が生まれるよりもずっと昔の昭和の日本映画を、長らく好んで鑑賞してきたので、この映画が挑んだ試みと、その結果として映し出される映画世界は、終始高まる高揚感と共に堪能することができた。 成瀬巳喜男監督の「女の中にいる他人(1966)」や、増村保造監督の「妻は告白する(1961)」などは、描かれるテーマや時代こそ微妙に違えど、昭和という時代の中で生きる女性(妻)の情念や強かさを描ききっているという点において類似しており、興味深かった。 ただし、そういった昭和の名画を彷彿とさせると同時に、それ故のマイナス要因もこの映画には存在していると思う。 それは、今この時代に、この作品が製作され、主人公・福原聡子というかの時代に生きた女性像を描き出すことに対して、踏み込み切れておらず、その意味と意義を見出しきれていない印象を受けたということ。 この映画が、かつての名画を忠実に再現した“リメイク”ということであれば、何の問題もなかろう。 だが、黒沢清と若手脚本家たちによって今この時代に生み出されたオリジナル作品である以上、太平洋戦争直前から末期を描いた時代映画だからこそ、映画の結論的な部分においては、2020年の時代性を表す何らかの価値観や視点を表現し加味してほしかった。 その唯一の不満要素が顕著だったのは、ラストシーンだ。 この映画は、戦禍を生き抜いた主人公が、夜明け前の暗い海で一人咽び泣くシーンで終幕する。 何よりも孤独に恐怖し、何よりも夫への情愛を優先した主人公の心情を表すシーンとして、この描写自体はあって然るべきだろうとは思う。 ただ、その描写で映画自体を終わらせてしまうのは、あまりにも前時代的と思え、工夫がないなと感じてしまった。 必要だったのは、悲しみと絶望から立ち上がり、新しい時代に踏み出していく女性の颯爽とした姿ではなかったか。 エンドロール前のテロップでは、その後聡子が、一人アメリカに降り立つということが後日談的に伝えられる。 そのような展開を物語として孕んでいるのならば、やはりその様はビジュアルとしてたとえ1カットだったとしても映し出されるべきだったと思う。 仕立てのいい洋装で身を包んだ聡子(=蒼井優)が、サンフランシスコの港に凛と立つ。 そんなシーンでこの映画が「Fin」となっていたならば、鑑賞後の余韻と映画的価値はもっと深まったのではなかろうか。[映画館(邦画)] 8点(2020-11-14 17:03:25)《改行有》

210.  ザ・フォーリナー 復讐者 終始無表情のまま、あまりにも大きな悲しみと怒りを膨らませ爆発させるジャッキー・チェンが、哀しく、怖い。 “なめてた相手が殺人マシーン”モノのエンターテイメント性と、スパイ映画のスリリングさと、ジャッキー・チェン映画のアクション性が見事に融合した映画世界はとてもエキサイティングだった。 アジアを代表する国際的アクションスターも60代後半に差し掛かり、流石にその風貌は老け込んでいる。 特に今作では、役柄的にも“隠居”状態で唯一の家族である愛娘と残された幸せを噛み締めつつ生きている初老の主人公という設定。 ジャッキー・チェンらしい、“やりすぎ”と“下手”の間をゆく役作りもあり、足元もおぼつかない様子を序盤からくどいほどに見せる。 そんな主人公が理不尽極まる娘の死を目の当たりにして、己の中の眠れる狂気を目覚めさせていく様には、荒唐無稽はあるけれど、それ故の独特の不気味さもあり目を見張るものがあった。 主人公の男が“ジャッキー・チェン”であることを十分に理解しつつも、こんなしょぼくれた爺さんがどうやって復讐を果たすのかと思わせてくれ、観客の興味の持続が非常に巧みだったと思う。 このあたりは、「007」シリーズでも手腕を発揮してきたマーティン・キャンベル監督のなせる業だろう。 そして、眠れる“ドラゴン”が短期間でその能力を呼び起こさせるくだりにおいては、律義にも“トレーニングシーン”を挟み込んでおり、その演出においてはジャッキー・チェン自身の変わらない愚直さが溢れ出ているように思った。 その短い「特訓」のシークエンスは、思わず笑ってしまったけれど、主人公を演じているのがジャッキー・チェンだからこそ、妙な納得感を持たせてくれ、その後の格闘シーンを違和感なく観ることができたと思う。 また、今作とは全く関係ない娯楽映画史の文脈を辿ると、“元・香港国際警察(ジャッキー・チェン)” VS “元・英国秘密情報部(ピアース・ブロスナン)”というスーパースター同士の構図も見えてきて、映画ファンとしては殊更に高揚感が高まった。 主人公は、驚異的な身体能力と破壊工作技術で、テロリストチームを追い詰めていく。 ただし、初老の元特殊部隊エージェントという主人公の設定がこなすアクションとしては、ちゃんとく抑制が効いており、彼が対決し撃滅する相手側のレベルとしても、決して非現実的ではなかった。 ラストの顛末においても、ポリティカルサスペンス的なシビアなスリリングさが加味されていて、映画全体の精度は極めて高いと思えた。 ジャッキー・チェンにおいては、「アクション映画引退」という報をこの十数年の間で何度も聞いた気がするが、まあこの映画で見せる程度のアクションは彼にとってはその部類に含まれないということだろう。 それならば、稀代のアクションスターの“非・アクション映画”における新境地には今後も期待できる。[インターネット(字幕)] 8点(2020-11-09 22:59:20)《改行有》

211.  透明人間(1954) 欧米では過去数十年に渡って幾度も映画化されている「透明人間」という題材。 その殆どが、SF作家のH・G・ウェルズ原作の映画化のようだが、日本でも「透明人間」という映画が存在していたとは知らなかった。 しかも1954年という公開年が益々興味深い。 1954年といえば何を置いても、「ゴジラ」第一作の公開年である。日本の特撮映画史におけるエポックメイキングと言える年に、特撮映画の一つとしてこの「透明人間」が製作されていたことは中々意義深いと思える。 第二次大戦中に秘密裏に存在していた透明人間部隊の生き残りの男を描いた悲哀は、時代的な背景も手伝って深いドラマ性を孕んでいる。 そして、その透明人間の主人公が、“ピエロ”の姿で“正体”を隠し、サンドウィッチマンとして生計を立てているという設定も、非常に映画的な情感に満ち溢れていたと思う。 (そのキャラクター的な特徴と立ち位置には、映画「JORKER ジョーカー」の逆説的な類似性も感じられ益々興味深い) 戦争における人間の功罪を、文字通り一身に背負う主人公の孤独と絶望は計り知れない。それでも彼が生き続け、守り続けた希望は、この時代にこの国で製作された映画だからこそ殊更に意義深いテーマだった。 “透明人間”という怪奇を映像的に表現した円谷英二による特撮も白眉だったと思う。 また、70年近く前の東京の風俗描写をつぶさに見られることも、時代を超えた映画的価値を高めていると言える。 この時代の特撮映画として不満はほぼない。 が、一つ不満があるとすれば、その後日本では「透明人間」という映画が殆ど存在しないことだ。 アメリカでは、1933年の「透明人間」以降、H・G・ウェルズの原作をベースにした作品だけでも4~5作品以上は繰り返し映画化が行われている。 それは、「透明人間」に関わらず、“ドラキュラ”や“フランケンシュタイン”しかり、古典的な怪奇映画の中では、時代を超えて普遍的かつ本質的な人間ドラマを見出せることを、映画産業としてよく理解しているからだと思う。 日本においても特撮映画隆盛期の1950年代から1960年代においては、今作以外にも、「ガス人間第一号」や「電送人間」「美女と液体人間」など、タイトルを聞くだけで印象的な数多くの怪奇SF映画が製作されている。 そういった往年の特撮映画を「古典」として、移り変わる時代の中で継承することができていないことが、この国の映画産業の弱体化の一因ではなかろうか。 今一度、今この時代の日本だからこそ描ける「透明人間」に挑んでもいいのではないかと強く思う。[インターネット(邦画)] 7点(2020-11-09 22:55:34)《改行有》

212.  ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密 “ミステリ”好きには堪らなく楽しい映画だった。 現代に蘇った“アガサ・クリスティー”的なストーリーテリングを、オールスターキャストで織りなす映画世界は決して華美ではないが芳醇で、多様な娯楽性が満ち溢れていた。 “007”のダニエル・クレイグと、“キャプテン・アメリカ”のクリス・エヴァンスが、それぞれ代名詞である人気キャラクターとは全くイメージを違えた登場人物を好演しており、殊更に映画ファンとしての充足感は高まった。 ミステリーというジャンルは、古今東西問わず映画史においても、文学史においても、描きつくされていて、新たな傑作を生み出すことが最も難しいジャンルではないかと思う。 今作にしても、ミステリーのネタ自体が抜群に新しいということはなく、ストーリーの形式そのものは、前述の通り“アガサ・クリスティー”が描いた推理小説の基本構成をベースにしていることは間違いない。 ただ、その“オールドスタイル”を丁寧に磨き上げ、きちんとオリジナル要素を盛り込み、現代的なアレンジで仕上げているからこそ、この映画はちゃんと面白いのだと思う。 気鋭の映画監督であるライアン・ジョンソンが、本人によるオリジナル脚本で今作を描き出した意義もとても大きい。 シリーズものやリメイクが横行するハリウッドの映画産業において、オリジナリティをもった脚本を書いて映画化することができるこの監督の存在感は、今後益々大きくなるのではないかと期待している。(「最後のジェダイ」も僕は大好きだ!) キャスト陣においては、やはり前述の通りダニエル・クレイグとクリス・エヴァンスの両スター俳優が、長年演じ続けてきた代名詞的なキャラクターのイメージを脱ぎ捨てて、新境地を開拓していることが興味深く、フレッシュだった。 特に主人公の名探偵を演じたダニエル・クレイグは、彼にとっての「007」最終作の公開を前にして、また新たな人気キャラクターを獲得したのではないかと思える。 秋の夜長、上質な推理小説を読み終えた時のような充足感に包まれる。 こういう王道ミステリーは最近少なくなっていたので、ぜひともシリーズ化してほしい。[インターネット(字幕)] 8点(2020-10-28 12:26:03)《改行有》

213.  スカイライン-奪還- 2010年の前作「スカイライン-征服-」も、決して評価が高い映画ではなかった。 酷評が並ぶ中、劇場鑑賞をスルーしかけたけれど、或るTwitterの一文で「面白い“B級SF映画”だ」と唯一賛辞するつぶやきを見て、それならばと劇場に足を運んだ。 結果的には、前述の作り手の趣向に共鳴せざる得ない要素もあり、エンドロールと同時に心の中で親指をグッと立てたことをよく覚えている。 前作のある意味振り切ったラストシーンも忘れ難く、あの“衝撃の顛末”から繰り広げられるであろう「逆転劇」をぜひ見たかったので、無論この続編の報も好意的に受け止めていた。もちろん劇場鑑賞したかったけれど、前作の評価を受け公開規模は小さかったようで、地方在住者には鑑賞機会が得られなかった。 そうして、劇場公開から3年ほど経過した或る日曜の夜にようやく鑑賞に至る。 正直なところ、B級SF映画として前作にような思い切りの良さや、フレッシュさを感じることはなかった。 前作は、エイリアン侵略による緊迫感と独特な無慈悲が印象的だったけれど、今作はその後の地球人たちの“逆襲”を描いたプロットでもあるので、随分とアクション映画に寄った仕上がり。結果的に、どうしても目新しさは薄れてしまっており、良い意味でも悪い意味でも“フツーの続編”となってしまっていることは否めない。 主人公として登場するロス市警刑事を演じるのは、「キャプテン・アメリカ」シリーズの悪役ラムロウの演技が印象深いフランク・グリロ。突然の災厄にひるむことなく勇敢に立ち向かう主人公を熱く演じていた。 そして、インドネシア産の傑作アクション映画「ザ・レイド」で一躍世界的に名を馳せたアクション俳優イコ・ウワイスが、同作でも競演した武闘家兼俳優のヤヤン・ルヒアンと共に出演しており、エイリアン相手に大立ち回りを見せてくれる。 インドネシア発のアクションスターらの“参戦”に伴い、特に後半は国際色豊かなアクション映画になっている。 総じて前作以上に大味で、雑なB級娯楽映画に仕上がっており、一定のユニークさは担保しつつも、見応えのある映画とは言い難い。 けれど、こういうB級映画を日曜の夜に鑑賞することは、かつてテレビ放映の「日曜洋画劇場」で映画という娯楽に触れた少年時代を思い起こさせる。 憂鬱な月曜日を直前に控えた日曜の夜は、何も考えずに、少々雑多な娯楽映画に興じてみる。 そんなルーティーンも悪くないなと思う。 叶うことなら、故・淀川長治氏の解説付きで観たいものだけれど。[インターネット(字幕)] 6点(2020-10-28 12:25:26)《改行有》

214.  劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 《ネタバレ》 封切り3日間で46億円超の興収に至ったとか、映画館のタイムスケジュールが埋め尽くされているとか、あいも変わらずこの国の“ブーム”というものは節操がない。 とかなんとか思いつつも、公開されたその週末に自分自身子供二人を連れ立って、3,800円支払って、46億円の一端を担っているんだからざまあない。 ポップカルチャーに傾倒する者の一人として、社会現象まで巻き起こすような“ブーム”にはとりあえず乗ってみる主義なので、コロナ禍の最中、暇に乗じて手は出してみた。 ただし、ファーストインプレッションでは正直ピンと来ず、某配信サービスでアニメ版の第一話を観たきりしばらく放置してしまっていた。 これは今となっても変わらないが、正直なところもっと面白い漫画やアニメは山程あると思うし、週刊少年ジャンプの作品に限っても、「鬼滅の刃」に至る系譜の上には忘れがたき名作がひしめいている。 とはいえ、この作品が巻き起こすムーブメントはやはり大したものであり、それは子供と暮らしていると本当によく分かる。 小学三年生の長女と、幼稚園年長の長男が、揃って“鬼滅”にハマっていく様を目の当たりにして、一つのエンターテイメントとして「これは大したものだ」と率直に感じた。 そして、その子供たちが突き進む“沼”に引き込まれるように、僕自身も再びアニメシリーズを見進め、妻が借りてきた原作にも手を付けた。 そうして、いささかの抵抗もなく、封切りのタイミングでこの劇場版を鑑賞した次第。 結論から言うと、泣いた。そりゃあ、泣く。 週刊少年ジャンプ全盛期に、そこで連載されてきた数多くの漫画作品と共に育った者として、この漫画雑誌のテーマである「友情」「努力」「勝利」をどストレートに反映したこの漫画世界が織り成す物語に熱くならないわけはなく、二人の子を傍らに置いて鑑賞しつつも、涙は溢れた。 アニメシリーズを通じて今作を成功に至らしめたものは、アニメーションとしてのクオリティの高さだったと思う。 原作漫画も魅力的な作品であることは間違いないが、作画力は決して「上手」な部類ではないだろう。 アニメ作品では、その作画のクオリティを補完し、ハイスペックなビジュアルに昇華させている。そのことが、老若男女問わず幅広い層を熱狂させた要因となっているのは間違いない。 文字も読めない幼児から、中年世代に至るまで、「全集中 水の呼吸!」なんて嬉々として真似をしてしまうのは、ひとえにこのアニメーションのアニメーターや声優たちの功績だろうと思う。 ただその一方で感じた決して小さくないマイナス要因も今作は孕んでいる。 それは、ストーリーテリングにおける“フリ”の弱さと、“説明ゼリフ”の多さだ。 クライマックスに向けたキャラクターたちの対決や葛藤が大きくなればなるほど、本来そこで生じるべき大きなエモーションのための“前フリ”が欠如してしまっていることを感じずにはいられないし、重要な感情表現においてキャラクターたちに心情を語らせすぎるのは、原作漫画自体が持つウィークポイントだと思う。 一人ひとりのキャラクターは味方も敵方も含めてやはり非常に魅力的だと思う。が、しかし、その魅力的なキャラクターたちの熱い言動に対して、前フリやバックグラウンドの描き方がやや希薄に思え、彼らの決断や行為が極めて唐突に感じてしまうことは否めない。 例えば、この劇場版“無限列車編”では、本来の主人公・竈門炭治郎以上に、柱の剣士・煉獄杏寿郎が絶大な存在感を示すわけだが、彼の人生模様と、新たに共闘する炭治郎ら若き剣士たちとの関係性を深める描写がやはり希薄過ぎたと思う。 もちろん煉獄本人の回想シーンによって彼の過去は断片的に伝えられはするけれど、そこに炭治郎や伊之助らが介在することはなく、実際彼らの関係性が深まるようなくだりも無い。 よくよく考えてみれば、この映画の中で描かれるストーリーは、炭治郎らと煉獄杏寿郎がほぼ初対面の状態から突如として死闘に至る極めて短い時間を描いているわけで、絆が深まる余裕などそもそもない。 そうなると、ラストのあの文字通りに“熱い”顛末も、どうしてもエモーショナルに欠け、鼻白んでしまう。 そういう弱点を感じつつも、それでも泣いてしまったことは事実だし、このエンターテイメントに理屈ではない魅力が溢れていることは否定しない。 この“無限列車編”、そして“煉獄の死”そのものが、この漫画世界全体の“前フリ”であることを期待しつつ、この先の展開も子どもたちと一緒に楽しみたいと思う。[映画館(邦画)] 7点(2020-10-24 12:12:33)(良:1票) 《改行有》

215.  エノーラ・ホームズの事件簿 秋の夜長、赤ワインを傍らに、ある意味において“現代版”の「シャーロック・ホームズ」を鑑賞。 “現代版”と言っても、ベネディクト・カンバーバッチの「SHERLOCK」のように現代のロンドンを舞台にしているわけではなく、コナン・ドイルが描いた19世紀後半のシャーロック・ホームズがそのまま登場する。 異なるのは、シャーロック・ホームズ本人が主人公ではなく、彼の“妹”が主人公であり、彼の“母親”がキーパーソンであるということ。 シャーロック・ホームズに“妹”がいたなんて話は聞いたことがないけれど、彼だって人の子、いくら架空のキャラクターであろうとなんだろうと、当然“母親”は存在する。もしかしたら“妹”もいたのかもしれない。 ただ、もしそういう家族構成だったとしても、原作小説の中で、“母親”や“妹”のキャラクター描写がピックアップされただろうか。 おそらくは、ただ一文節で紹介される程度だったのではなかろうか。 少なくとも、シャーロック本人にも勝るとも劣らない頭脳明晰なキャラクターとしては描かれることはなかっただろう。と、思う。 なぜそう思うのか? それは、“そういう時代”だったからだ。 今この時代に、シャーロック・ホームズ本人を脇に追いやって、彼の“妹”と“母親”を「女性」の代表として、映画世界の中で雄弁に語らせる意義。 それもまた、“そういう時代”だからこそようやく成立し得たテーマだったと思う。 だからこそ、原作同様に19世紀後半のロンドンを描いたこの作品が、“現代版シャーロック・ホームズ”と思えたのだ。 重要なのは、登場人物たちを現代人として描き直すのではなく、あくまでも当時の時代設定のままで、当時の社会の中で生きる人間として描いていることだ。 それは、女性蔑視や性格差に対する問題意識や発言や行動が、何も現代社会に限って巻き起こっているものではないというメッセージに他ならない。 100年前から、いやもっと前から、女性たちは、与えられるべき正当な権利と、認められるべき自由な生き方を主張し続けているのだ。 聡明な母は、「ひどい未来を残すのは耐えられなかった」と、愛する娘が16歳になったタイミングで姿を消す。 それはまさに、過去から現代に至るまで、世界中の女性たちが胸に秘め続ける思いではないか。 この意欲的で独創的な映画もまた「Netflix」映画である。 Netflixで独占配信される作品には、社会的、思想的、政治的なメッセージをダイレクトに強くぶつけてくる作品が多い。 映画作品としては、その主張の強さが時にアンバランスに感じる時もあるけれど、それも、“この時代”が必要とせざるを得ない表現方法であり、手段の一つなのではないかと思う。[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 15:53:46)(良:2票) 《改行有》

216.  トランス・ワールド 手塚治虫や藤子・F・不二雄のSF短編にありそうなサスペンスとホラーとエモーショナルがギュッと詰まった“小話感”が小気味いい。 舞台設定から編集作業の詰めの粗さに至るまで、“低予算感”は否めないけれど、それ故の“掘り出し物感”もあり、満足度は高かった。 キャストも少人数で地味だが、やはりクリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドが印象的。 ハンサムではあるが、独特の何だか“嘘くさい”風貌が、今作のキャラクター性に合致している。 善人か?悪人か?と中々判別がつかない雰囲気が、序盤の緊張感を高めていたように思う。 偶然にも、今年指折りの話題作「TENET テネット」に続いて“タイムパラドックス”ものを続けてみてしまった格好。 映画の規模やクオリティのレベルは比べ物にならないけれど、アイデアと表現方法の工夫で、タイムパラドックスを巡るサスペンスとドラマを生み出す映画的な巧みさは、決して勝るとも劣らないものだったと言えよう。 まさしく“親殺しのパラドックス”を逆説的に描いた顛末が導いた未来はどうなったのか? 果たして「彼」の存在はどうなってしまったのか? “切なさ”も含めて、そういうことをつらつら考えていくのも、この手の映画の醍醐味だろう。[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 00:34:59)(良:1票) 《改行有》

217.  The Witch/魔女 ある瞬間、愛らしい田舎娘の無垢な顔つきが、まさしく「魔女」そのものの狂気に包まれ、爆発する。 そのダークヒロインを務めた若き韓国人女優の“表現”は圧巻で、それ一つ取ってもこの映画の娯楽性は揺るがないと思える。 いつの時代も、どの国であっても、優れた「女優」が魅せる広義の“アクション”は、忘れがたきエンターテイメント性を観客に提供してくれるものだ。 序盤は、アクションなのか、サスペンスなのか、コメディなのか、ホラーなのか、掴み切れない映画世界のテンションに困惑した。 物語のベースとなる設定は明らかに不穏で闇に塗れたものであるはずなのに、序盤の展開で描かれるのは、田舎の夢見る女子高生たちが織りなすサクセスストーリーのようで、青春コメディかと見紛う。 ただ、事前情報と冒頭のシークエンスで、この映画が必然的にバイオレンスに転じることは承知していたので、観客としてはそのタイミングが今か今かと妙な緊張感を強いられる。 この絶妙な居心地の悪さ(褒め)は、まさしく韓国映画ならではのものであろう。 例えば同じプロットで、ハリウッドや日本でこの映画がリメイクされたとしても、この独特な空気感を表現することはできないだろう。 今年度アカデミー賞を勝ち取った韓国映画「パラサイト」にしても、あの国の風土、文化、空気の中で生み出されたからこその「傑作」であり、国境を超えて数多の映画賞を総なめしたことは非常に意義深い。 そんな相も変わらず芳醇な映画的土壌でまたもや強烈な映画が誕生したことは間違いない。 冒頭でも記した通り、絶対的なダークヒロインの誕生を表現しきった主演女優キム・ダミが、鮮烈な印象を放っている。 韓国映画界は、また一つ重要な“宝石”を手に入れたものだと思う。 一方でアクション性の高い娯楽映画だとはいえ、“粗”は散見する。 “ネタバレ”の肝となる要素も強引過ぎるし、整合性があるとは言い難い。 序盤からクライマックスまでの展開における独特な空気感を認めつつも、アクション映画としてのテンポは悪く、きっぱり長い。 とはいえ、今作は続編の制作を念頭に置いた“シリーズ第一作”なので、この作品単発のテンポの悪さは、今後の続編のクオリティいかんで上方修正されることだろう。 とにもかくにも、新たなダークヒロインの更に加速したブチギレアクションを早く観たい。[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-06 23:18:24)《改行有》

218.  TENET テネット 文字通り縦横無尽に行き交い混濁する時間の渦に放り込まれた名もなき主人公が、世界を救うために奔走する。 「行為→結果」の理が反転する時間逆行の世界の中で、彼が救うのは「未来」なのか「過去」なのか。 論理的に考えれば考えようとするほど、矛盾は幾重にもパラドックスを生み、堂々巡りから抜け出せなくなる。 このタイムパラドックスもの特有の“堂々巡り”、僕は大好物である。 そして、時間逆行の概念をビジュアル化し、この上ない“活動的”な映像世界を構築した試みと成果は、充分に評価に値すると思う。 映画監督として、「誰も見たことが無いもの」を追求し続けるクリストファー・ノーランの立ち位置は孤高であり、彼が世界の映画産業のトップランナーであるこは間違いないと思える。 ただし、だ。 この作品が映画として「完璧か?」と問われると、正直素直に「YES」とは言い難い。 非常に意欲的でセンセーショナルな映画作品であることを十二分に認める一方で、「成功」とは言い切れないフラストレーションを大いに感じている。 肝となる時間逆行のプロセスや設定が破綻しているとは思わない。 多少の整合性の無さや、細かい理屈を度外視したマクガフィンの存在などは、この手のタイプの映画にはあって然るべきだと思うし、そういう「粗」こそが娯楽になり得ると思う。 僕が感じたフラストレーションの最たる原因は、詰まるところ「分かりにくさ」だと思う。 「難解」が売りのこの映画に対して「分かりにくい!」などと言うことは、本末転倒も甚だしい。 しかし、この「分かりにくさ」は、時間軸が入り乱れるストーリーテリングや設定についてではない。 映像作品としての“見せ方”が非常に分かりにくすぎると思ったのだ。特にアクションシーンにおいては、きっぱりと「下手」と言わざるを得ない。 視覚効果を極力廃して、生身の人間、実物セットでこの映像世界を構築したキャストやスタッフの尽力は痛いほど伝わってくる。 この映画に携わる総ての映画人たちが極めてアグレッシブに映画づくりに臨んでいることは明らかだ。 だが、この難解なストーリーテリングをベースにした映画世界の構築においては、時にもっとシンプルに、もっと手際よく映像を紡ぎ出すこともまた必要だったのではないかと感じる。 そういう意味においては、アクションシーンの映像的な描き方が実はそれほど上手ではないクリストファー・ノーランの数少ない“弱点”が露呈してしまっているように思える。 順行と逆行の時間軸が同一画面上で入り交じるという破天荒な映像世界を表現するためには、敢えて仰々しいまでの乱雑さを意識することは必要だろうし、その映像的な“カオス”も含めてこの映画の魅力となっていることも確かだ。 でも、今作の物語を決する重要な局面においては、そのような過剰な演出は不要だったのではないかと思う。 特に、クライマックスについては、あのように大部隊が入り乱れる戦場シーンにする必要はなかったのではないか。 この作品の物語が実は紡いでいた熱い友情と気高い決断、そして事の真相が一気に明らかになるシークエンスにおいて、戦場シーンの混沌と混乱は不要だった。 画面上に登場する人物を主人公とキーとなるキャラクター数人に絞って、シンプルに映し出したほうが、クライマックスの緊張感とエモーションがもっと高まったと思うし、クリストファー・ノーランの監督としての資質にも合致していたのではないかと思える。 (ただ、ノーランはああいう大合戦シーンを撮りたがる。「ダークナイト ラジング」でもあったなあ……) 方々の“考察”も見聞きしつつ、ストーリーが整理できてくるほどに、決して目新しい話ではないということに気づく。 ストーリーそのものはある意味とてもシンプルだし、諸々の設定やストーリーテリングについても、「藤子・F・不二雄」をはじめ古今東西のタイムパラドックスものを好んで見尽くしている者にとっては、むしろ王道的であった。 そういうプロットを、クリストファー・ノーランだからこそ許される孤高の美学で貫き通した映画世界構築は、もちろん称賛に値する。 ただ、物語にきちんと備わっていたエモーショナルをもう少ししっかりと描きぬいてくれていたなら、鑑賞後の満足感は大違いだったように思う。 同じく難解で大胆なSF映画だった「インターステラー」が、忘れがたき傑作になり得たのは、映画的な“エモさ”に溢れていたからだと思うのだ。[映画館(字幕)] 7点(2020-10-02 23:36:31)《改行有》

219.  新聞記者 《ネタバレ》 ラスト、彼が示したものは、この国の「限界」か。それとも、未来のための「一歩」か。 8年ぶりに総理大臣が変わった。 だからといって、大きな希望も期待もない。この国の殆どの人々は、諦観めいた視線で国の中枢を眺めている。 いや、「諦観」などと言うとまだ聞こえがいい。自分自身を含め、この国の人々は、無知のまま考えることを諦め、自ら「傍観者」に成り下がってしまっているのではないか。 そういうことを改めて鑑賞者に突き詰め、あまりにも居心地の悪い情感で覆い尽くすような映画だった。 国家の中枢の陰謀と闇に気づいた新聞記者たちが、真実を暴き出そうとするストーリーテリングは、ハリウッドをはじめ数多の映画作品で描かれてきたプロットだ。 ただし、多くのハリウッド映画と異なり、この映画は、主人公たちが明確な危機に陥ることもなければ、胸をすくカタルシスを得ることもできない。 ただ、じわじわと真実に気づくと同時に、じわじわと真綿で首を絞められるようにこの国の闇の本質に追い詰められる。 真実を光のもとに晒そうとする行為が、実のところ、もっと深い闇へと自分自身を引きずり込んでいたという悍ましさ。 溜飲を下げさせないこの映画の顛末が物語るもの、それは今この瞬間の、この国の有様そのものではなかろうか。 “一応”フィクションであるこの映画のストーリーが、現実社会のありのままを描き出しているとは思わない。 或る新聞記者の主観が原案でもある以上、“一つの観点”として捉えるべきものだろうとは思う。 この映画で描かれていることに対して、「偏って考えすぎ」と揶揄したり、「そんな馬鹿な」と嘲笑することも自由だろう。 だがしかし、そういう風に一笑に付することができない現実が、事実としてこの国の社会や政治の愚かな有様に表れてしまっていることは否定できない。 この国の中枢に「巨悪」は存在するのか否か。 もし存在するとするならば、その「闇」を司るのは、私利私欲に走る政治家か、それとも「この国のため」と盲信する官僚組織そのものか。 そう逡巡しながら、はたと気づく。 否、「闇」を拡散し、支配しているのは、「諦観」という言葉の下に考えることを放棄し、「傍観者」に成り下がってしまっているこの国の人々一人ひとりなのではないかと。 「誰よりも自分を信じ、疑え」 新聞記者の主人公の亡き父が遺した言葉が指し示すものは、決してジャーナリズム精神に留まらず、国民一人ひとりのあり方として、我々が刻むべきものではないかと思えた。 主演の韓国人女優シム・ウンギョンの演技は素晴らしかった。日本語のアクセントの問題も、主人公のキャラクター設定が、国際的に活躍したジャーナリストを父親に持つ帰国子女ということを踏まえると、決して違和感ではなくむしろ的を射たキャスティングだったと思う。 一方で、日本人の主人公役に日本人女優がキャスティングされていないことに否定的な意見も見聞きするが、ここにも何かしらの圧力めいたものを感じてしまった。 韓国人俳優の骨太な演技力と存在感は言わずもがなだが、だからといって日本人女優の演技力が劣っているとは思わない。 主人公の記者役に日本人の実力派女優がキャスティングされていたとしても、作品としてのクオリティーが下がることは無かっただろう。 ではなぜ日本人女優はキャスティングされなかったのか。 この映画の主演に日本人女優がキャスティングされなかったのは、日本の芸能事務所が“尻込み”したということに他ならないのではなかろうか。 時の政府をほぼ名指しで糾弾する役柄を演じさせることによる、女優個人というよりも所属する芸能事務所自体のパブリックイメージに対する怯えと、何かしらの忖度。 そういうことがどうしても垣間見れる日本の芸能界には、やはり脆さと限界を感じずにはいられない。 近年、トップランナーの俳優たちの独立が立て続く背景には、そういうこの国の芸能界そのものの脆弱性も影響しているのではないか。 イメージ低下を危惧する芸能事務所に限らず、この国の人々、いや国家そのものが、弱々しく、怯えている。 国全体の怯えと共に、闇は益々深まる。 どうしたって同調圧力から脱することができない国民性であるならば、国民全体が同じ方向に勇気を持った「一歩」を踏み出すことでしか、「未来」は見えてこないのではないか。[インターネット(邦画)] 8点(2020-09-24 00:15:21)《改行有》

220.  オールド・ガード 不可思議にも不死身の肉体を得てしまった戦士たちが、文字通り終わりのない死闘を繰り広げる物語。 “不死身の暗殺集団”という中二病的設定は、馬鹿馬鹿しくも感じるが、安直故に容易に想像できる彼らの「虚無感」を思うとグッとくる要素もあったのでまあ良しとしたい。 この映画の面白い部分はまさにその「虚無感」であり、何百年にも渡って死闘を繰り返すあまり、もはや何のために闘っているのかその意味を見いだせなくなっている彼らの悲哀が、アクションの激しさに反比例するようにやるせない気持ちにさせる。 不死身とはいえ、彼らの本質的な能力は生身の人間であり、致命傷を受ければ相応の痛みと苦しみを味わう。そして律儀にも「死」に至った後に、蘇る。 重要なのは、決して“死なない”のではなく、「死」という明確な経験を経た上で、半ば強引に“蘇らされている”ということだ。 無論、僕は「死」というものを経験したことはないので、想像の域を出ないけれど、「死」の恐怖は、まさに息絶えるその瞬間にピークを迎えるものではなかろうか。 それを経た上で蘇る彼らは、勿論「無敵」ではあるけれど、これこそ「無間地獄」そのものであり、そのさまはあまりにも痛々しく、惨たらしい。 「世界を救う」という盲目的な使命感のみで彼らは文字通りの「生き地獄」を歩み続けているわけだが、肝心のその世界がちっとも良くならず、何百年にも渡って同じような戦争や殺戮に身を投じるはめになれば、そりゃあ心を病む。 映画のストーリー的にも、実際に登場する悪役は完全に噛ませ犬的な存在であり、真に対峙すべきは彼ら自身の苦悩そのものという焦点の当て方も、題材に対しては適切だったと思う。 そもそもの設定が安直な分、当然ながらツッコミどころには枚挙にいとまがない。 例によって配信映画とは思えない豪華な作りではあるが、良い意味でも悪い意味でもNetflix映画特有のライトさは全編通して感じる。(シリーズ化への目論見は明確なので、続編での補完の仕方次第では今作の評価も上下変動するだろうと思う) とはいえ、主題である「虚無感」を全身に帯びつつも、相変わらず“男前”過ぎるセロン姐さんに対しては、映画世界の設定を超越して「永遠なり」と思えた。[インターネット(字幕)] 7点(2020-09-20 00:31:14)(良:1票) 《改行有》

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