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性別 女性
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自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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301.  ヘルレイザー ゲート・オブ・インフェルノ 《ネタバレ》 不満が残る。それはたぶん主にクレイグ・シェーファーに対するものかも。 何に出てもイマイチパッとしない彼だが、大胆にも主役に据えたうえ出ずっぱりにして複雑なキャラクターの心理表現を求めてしまった。やっぱり演技うまくない。最後の方で彼単独の場面が続くと、かなり辛くなってくる。 あとは、ちょっとピンヘッド周辺の魔物を安易に出しすぎ。フリークスというのは、一瞬出してどのくらい怖がらせるかが勝負だと思う。安いものなら大量に存在しなければ効果が出ない、といった感じになる。[CS・衛星(字幕)] 5点(2007-12-10 18:10:15)《改行有》

302.  ブラジルから来た少年 《ネタバレ》 サーのつくイギリス人俳優ローレンス・オリヴィエ。ヴィヴィアン・リーの元夫。それが、ホロコーストを生き伸びた老ユダヤ人を演じるとは。私にはもうそのことだけで充分なような気もする。 「ブラジルから来た少年」というタイトルが絶妙で、何も知らず題名だけを見れば「母国で貧乏してアメリカかヨーロッパに移住してきたブラジル人というイミ?」くらいにしか思われない。ところがどっこいだ。 ほとんど「オデッサ・ファイル」の向こうを張った作品といっていいと思う。「オデッサ」に比べれば、これはどうしてもサイエンスフィクションということになるが、テーマは同じといっていいと思う。 編集・演出は冗長なところがあるとはいえなかなか見ごたえがあるし、「少年」の子役もブキミな感じがかなり出ている。なんで65歳の男性ばかり殺すのかというそのオチも効いている。が、なんといってもヨボヨボのオリヴィエがローゼンタールのような元ナチの追っかけ仕置き人を演じるところを見て欲しい。どうですか、イギリス人に見えますか。私には、生き残ったユダヤ人のじーさんにしか見えんかった。老いたりといえどオリヴィエ恐るべし。 が、映画としてはやはり「オデッサ・ファイル」に軍配を上げざるを得ない。[CS・衛星(字幕)] 6点(2007-12-09 20:24:30)《改行有》

303.  犯罪の系譜 お手上げです。どうしたらいいのかわからない。 今までに見たフランス映画の中でも、ダントツの難物だった。 これに比べたら、フランソワ・オゾンなんて分かりやすいと言ってもよい。 いわゆる「映画」を期待して臨むと間違います。私は見たことは無いが「前衛演劇」とかが近いのではないだろうか。そんでもって「前衛演劇」と「退屈」というのは近距離なのではないかしら。 なにしろいわゆるハリウッド映画の演出とは全く違う。ベルイマンの映画とかはワケわからないが、ベルイマンのほうがはるかにマシと思う。 衛星の解説によればルイス監督は巨匠という触れ込みだが、日本では3本くらいしか知られておらず、知名度がイマイチなのだという。が、この一本だけを見ても、「他のも見てみたい」とは全く思わせないから日本で受けていないのもあながちマチガイではないのではないか。なんだかワケのわからない文章になってしまった。 たとえば一瞬でも早送りしてしまったら話がわからなくなってしまうほど、会話に重きを置いた映画なのだと思う。が、残念ながら、私はフランス語が全然分からない。必死に字幕を追っていくと、およそ映画とは思えぬ哲学的な、そして小説的なセリフがバンバン続く。深読みしようとがんばってみるがすべての登場人物がおよそ異常な言動しかしないのでとても疲れる。疲れるだけ。 どなたか、この映画が面白かったという方の話を聞いてみたい。どこがどのようにウケたのだろうか。 ドヌーブがキレイなのは間違いない。50過ぎているにしてはあまりにもイケているので、お金を払うとしたらドヌーブに対してのみ。ドヌーブが出ただけでなく、マチュー・アマルリック(ミュンヘンとかキングス&クイーンの)とメルヴィル・プポー(「ぼくを葬る」の主役をやった)が出ているので、伸びる役者を見抜くという目はあるのかもこの監督。[CS・衛星(字幕)] 3点(2007-12-09 20:04:14)《改行有》

304.  バッドサンタ 《ネタバレ》 ソーントンでバッドサンタだ。コーエン兄弟でブラックコメディだって? こりゃうまそうだ、と期待を大きくいそいそとTVの前に座ったのがいけなかったのだろうか。 部分的にウケたギャグもあったのだが…「アスピリン?」が良かった。 全編通して汚らしい雰囲気満載なのだが、その汚さの程度も中途半端な気がした。どうも個人的にはいただけない。 「不潔さ」で笑いをとる場合は、そのものずばりを見せるだけでは面白くならないのではないか?小便をもらしたとか、ゲロを吐いたとか、酔ってベロベロとかいうものを、ずばっと見せられるだけでは、笑えない。これに上手くシチュエーションを絡めるとか、「低身長の人」とか少年がリアクションしてフォローするとかしないと、単に気持ち悪いだけでブラックな笑いにもならないと思うんだけどなあ。 というか、ソーントンの「汚さ」がリアルすぎたというのもある。もともとが奇人変人系のソーントンだから、無精ヒゲでの不潔演技が妙にリアルで笑えないのかもしれない。とにかく生理的にダメだ私には! それから、サンタの「悪い人ぶり」も甘すぎる。相手かまわずファックするから悪人なのか?飲んだくれて仕事に差し支えるから悪人なのか?泥棒するから悪人なのか?そのへんのキャラ造形がいかにもあいまいで、「はい、これが不良のサンタです、どうぞ」と提供されているような気がしてくる。やはりもうひとつサンタがバッドである決め手が必要だったと思う。 …が、不良のサンタがいじめられ少年と心を通わせて更正する、というストーリーは悪くない。 そうだ、キャストがダメなのだ!と今気付いた。 ソーントンが不良だったら、あんまりにも当たり前じゃないかあ。ここはやっぱり、日頃清潔感を漂わせているような意外なキャストで行くべきであったのだ。 トム・ハンクスとかさ。[CS・衛星(字幕)] 5点(2007-12-03 19:53:24)《改行有》

305.  やかまし村の子どもたち 《ネタバレ》 われわれが普段よく見ている映像世界では、「平穏無事な風景」というのは、その後の異変の前ふりであるのが常である。よって、平和な風景を見ながら、「来るぞ来るぞ」という予感に捕らわれているのがいつもの状況だ。 「やかまし村」のような作品を作ったということは、そういう「緊張感ある映像」に対するハルストレムからの「異議申し立て」という意味があると思う。曰く「幸せや平和が続いてもいいじゃないか」。 緑あふれるスウェーデンの風景の美しさ、そこに住む人間の性質の良さ、ひたすら癒される。癒されるのだが、「やかまし村」を見る際に、無視できないことがある。「己との落差」である。 世界中の観客が「やかまし村」を見るだろうが、見たときに感じる思いは、国や地域によってかなり違うのではないかと思う。 「やかまし村」は、あまりにも平和で幸福で美しいために、見る者は「やかまし村と自分の間の距離」を意識せざるを得ない。よって観客自らの「幸福からの距離」を確認するための最適なツールとなる。たとえばマイケル・ジャクソンなら、まさにこのような幼年時代を送りたかったと嫉妬にかられることだろう。犯罪者に見せたなら、このような幼年時代を送れていれば、犯罪者には育たなかったのに、と思うだろう。北朝鮮で飢えている人民に見せたなら、同じ地球上の出来事とは思われず、よその星のこととしか思えないだろう。アメリカで家庭に銃を備えている人々に見せたなら、「やかまし村」の無防備さに不安を感じるだろう。 映画「やかまし村のこどもたち」とは、見る人の幼年時代や社会状況が「やかまし村にどのくらい近いか」を測ることにより、「案外自分の幼年時代も悪くなかった」なり「自分はこんなに不幸だったのか」と気づかせたりする作用がある。おそらく地球上に、「やかまし村」以上に幸福な幼年期を送れる場所はないからだ。…罪な映画である。 「将来もこの村で暮らしたいから、村の男の子と結婚するの」…すごいことを言わせる。これこそが、共同体における究極の理想だ。 犬を貰い受けるエピソードが印象的。お父さんは、どうやって偏屈な靴屋と話をつけたのかが非常に気になる。「やかまし村」では、「金や物」で話をつけるはずはない、と思うからだ。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-12-02 18:37:22)(良:1票) 《改行有》

306.  クラッシュ(1996) 《ネタバレ》 ハギスの「クラッシュ」と間違えて見てしまった方にとっては、噴飯ものでありましょう。そりゃ災難でした。 どっこい私は衛星で放送を楽しみにしていたクチで、ひいきのスペイダー全盛期の美しさを堪能しようと…。や、スペイダーの美しさにはマチガイは無かった。確かにどの角度から見ても美男である。今のように太ってもいない。衣装がダサすぎるが、スペイダーのような美男であればそれもまた…。 が、この作品はスペイダーの美しさではカバーしきれないほど気色悪かったのであった。 基本はブラックジョークなんだと思う。悪趣味なコントなのだと思う。ラストシーンがあのように終わるのであるから、コントでいいのだと思う。 しかし全編に溢れて収まりきらないほどのえげつないセックスシーンは、私のような枯れ木状態の負け犬にはキツすぎた。ここまでエロを露出しないとダメかなあ。もう満腹なんですけど。 もともとコメディの素質があるスペイダーであるから、事故や障害によって性欲が刺激されハアハアとガッついていく様は笑えないこともない。でも、私は笑顔が凍りついて素直に笑えないのだー。 エロシーンの合間にブラックな笑いをはさんでいく、という試みは激しく観客を選ぶと思う。クローネンバーグにとって大爆笑のネタというものは、一般人が見ると笑顔が凍りつくレベル。…天才は孤独だなあ。[CS・衛星(字幕)] 4点(2007-12-02 17:15:02)(笑:1票) 《改行有》

307.  地下鉄(メトロ)に乗って 《ネタバレ》 見終わった時の素直な感想は、「どこまでも男に都合のいい話だなあ」である。 日本人の泣かせのツボを押さえきった浅田次郎(ホメているつもりではない)の原作ということは知っているが、こんなに男に都合のいい話なワケか、本当に。 それにしても大沢たかお。日本映画界は大沢に期待しすぎているように思う。いくらなんでも父親になった佐吉役は、他の老練で重厚な俳優にまかせるべきでしょう。ありえない、あの老けメイク。 で、冒頭からありえない老けメイクでDVという無茶な設定のせいで台無しになっているため、その後のほとんどの部分は「駄」の字を念頭に見ることに。 30年代、戦後闇市、共に、美術面ではトホホ状態だ。これでは、コントの書き割りと大して変わらないではないか。そんなに金が無かったのか。金をかけられないなら、ないなりに、時代設定を損なわない工夫はできなかったのか。トホホ。 演技…とにかく大沢が浮いている。舞台と間違えているような大仰さ。常盤も、持ち前の雰囲気を壊してまでアバズレになりきれていない。出番が少ないせいか、役柄を理解していないように感じる。 最悪だったのは岡本綾で、単なる湿っぽくてうっとうしい女で終わってしまった。生気が無い。生気が無いので、自らを抹殺するという行動に出てもそれほど意外性が感じられない。 この話はファンタジーなわけだけども、最初に言ったように、「ファンタジー」が「男に都合のいい方にだけ働く」のである。どういうことやねん。 別の男のタネによる長男が死んで、二号さんの子供が産まれなくなって、または近親相姦だった不倫相手がもともと存在しなかったことになって、佐吉親子は何か損をしただろうか。悲しかっただって?それどころか女たちは決定的なダメージを受けているというのに? あああああ、もうやんなっちゃうけど、男にだけ都合のいいファンタジーを公共の場でセンチメンタルに語るのはやめてもらいたい。とっくの昔に日本の女子はそれに同情するほどウブではなくなったのじゃ。[CS・衛星(邦画)] 3点(2007-11-25 17:53:45)(良:2票) 《改行有》

308.  絶対恐怖 Booth/ブース 《ネタバレ》 この内容だったら、全然お金かけてないと思われるが、お金使わないわりにはそれなりによくできました、というべきでしょうか。 これは脚本がよくできていて、DJが精神的に追い詰められていく過程を、ブースという密室の中でうまく表現していると思う。投稿者との電話のやりとりをするたびにどんどん状況が悪化していく、というのもなかなか新鮮なアイディアだ。 自分勝手な今風の若者を、一人称で(主人公の目線から)描き観客に提示することにより、「今どきの若いもん」への反面教師的意味あいも持たせていると思う。 ただ、海に落ちた小島聖が生還したうえニュースを読みに登場する、というのはいくらなんでもリアリティが無いしご都合すぎ、新人アナの鋭すぎる突っ込みにも違和感あり。この話の場合は、もっとリアリティにこだわって欲しかった。ディレクターや構成作家との疑心暗鬼のやりとりはけっこうスリリングで良かったんだけどなあ。 あと…日本髪で着物の女性を出して観客を怖がらせようというのは、安易すぎると思う。ラストはもう少し工夫したほうが良かった。やはり、低予算のわりにはまあ…という程度の出来。[CS・衛星(邦画)] 6点(2007-11-20 15:57:13)《改行有》

309.  グロリア(1980) 《ネタバレ》 クールでかっこいい。子供を出している映画なのに、とことん甘さを排しているところがいい。 一家惨殺までの場面をダラダラ説明せず、観客に最小限の情報を与えてテンポよく見せる。うまい。あえて惨殺場面を見せず、マンションのガラスが内側から吹き飛ぶ場面だけで語る。うまい。 特に感心したのは、グロリアとフィルのママの関係性について、ものの5秒くらいしか説明していないというのに、その後のグロリアの行動で充分想像させてしまうことだろう。 「コーヒー飲ませて」とフラッと訪れることのできるご近所さんなんて、そんなにいるだろうか。グロリアは、「彼女が在宅なら必ずコーヒーを飲ませてくれる」という確信を持っている。相手が不在なら、別に構わない。もし居るならば、彼女の顔を見て、おしゃべりをしながら、コーヒーをごちそうになれば、この世の「憂さ」も少し晴れるような気がするわ。…と、外出帰りのグロリアはインターホンを押す。 きっと、こういう関係になるまでには、フィルのママとグロリアの間にはそれなりの「歴史」があったに違いない。共通点は「一匹狼」で冒険を恐れないところだろう。 普通なら、普通の監督なら、まずは「日頃の関係」をある程度見せてから一家惨殺を見せると思うのだ。「惨殺」の悲劇的な効果をより狙うならそうだろう。 フィルのママとグロリアの浅からぬ関係は、その後のグロリアの行動にとって非常に重要なものなのだが、この映画では事件前の「日頃の関係」を全く見せることなく、それをなんと「コーヒー飲ませて」と、「私の親友なのよ」というママの言葉だけで充分語ってしまう。ほんとうにクールだ。 この映画は「激動の昼間」と、「静寂と暗闇の夜」の繰り返しになっている。「朝起きて、昼逃げて、夜寝る」の繰り返しだ。そして、繰り返すことによる効果を充分上げている。なんというか、「連続ドラマ」を何回分か見ているような気持ち。実際には何日も経っていないというのに、冒頭の事件から、どんどんどんどん遠いところへ連れてこられたような気持ち。上記のママとグロリアの件といい、非常に巧みな脚本だと思う。 最初は憎たらしかったフィル小僧が、途中から可愛く見えてくるのも、この映画ならではの醍醐味だ。大傑作。でも子供はもう少しお行儀よくね。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-11-16 19:06:12)《改行有》

310.  洗濯機は俺にまかせろ 《ネタバレ》 80年代を背景とした作品だという。そのころ確か、世の中はバブリーな景気にあふれていた、ように記憶している。「新しければ新しいほど良し」「高価なものほど良し」という価値観が、乱立する各種新店舗や、ビルや、都内にあふれる外車にもあらわれていた。と思う。 この映画には、ツルピカした新しいものや、ゴージャスなものが、全く出てこないし、人間もそうだ。そういう確かな美意識に裏打ちされ、新しいものを慎重に排除して、作られている。 で、出てくる人は誰も彼もなんとなく貧乏な雰囲気で、「バブルはどうなっていたのか?」とも思うのだが、そういうリアリティを求めた映画ではないんだろうたぶん。 富田靖子も「きれいな人だから」では全然なかったし、ラブシーンとて不発。各登場人物も、裏ビデオで拘留とか借金まみれとか不景気な話が続く。 では「ツルピカしたものやゴージャスなものが無い状態を楽しむ」以外に何かいいところがあるのかというと…なんていうか筒井道隆の木崎を見ていると、「過去に自分の知っていたいろんな男性(恋愛感情の有無問わず)」のことを、筒井が何かするたんびに思い出してしまった。「そうそう、こういうこと言う(男って)」「そうそう、こういう態度とるよね(男って)」。 木崎っていうのは、「次にこうする(言う)だろう」という予想をことごとく裏切らないやつなんです。木崎ってのは、いわば「男の最大公約数」なヤツ。「ザ・普通の男」。 ほのぼのしてていいんだけれど、私はこれはわざわざ映画にしなくても、という気もする。TVドラマで充分な内容ではないだろうか。なぜ映画化したんだろう…?というくらいドキドキも発見もない映画。[CS・衛星(邦画)] 5点(2007-11-10 20:14:09)《改行有》

311.  ユビサキから世界を 《ネタバレ》 「明日のない日本の〝現代社会〟なんて」「〝アメリカ(教師のあだ名!)〟のせいじゃない」などなど、ジャムフィルム以来の例の行定節が冒頭から展開され…突如として、特攻隊の生き残りを登場させる。かなりあざといというか、ベタすぎると思いますが。 「こんな世の中」は生きる価値がない、と言う子供たち。「こんな」って、「どんな」よ。 「こんな」が「世の中」の枕詞として当たり前に機能するというのは、「ガキの社会」です。「こんな世の中」というのは、未だ社会の構成員となっていないために己の所属する社会に対して何らの責任を負わぬ「ガキのセリフ」に他なりません。それは例えれば、不潔でボロボロのホテルに有無を言わさず案内され、「ここで寝ろ」と言われた時に、ツアーの客が抱く感想に似ているかもしれない。「えっここで寝るんですかあ?」。 よって、「こんな世の中、生きる価値がない」と子供が言う場合は、「ええー、こんな不潔なホテルで寝るのはイヤだなあ…」というような意味である。 ティーンエイジャーたちにとって、とりあえず今の世の中は「ボロボロのホテル」に見えているらしい。ということに〝行定ワールド〟では「なっている」。 けれど、今回「ユビサキ」を見て思ったのは、「こんな」と言われた時に、それが子供の発言であったなら、同調するのは大人のすることではないということだ。 「ボロボロのホテル」が本当はどんなものなのか、それを知っているどころか加担しているのが社会の構成員たる大人なのだから、大人が「こんな世の中」と一緒になって思ってはいけないのだ。 私は行定監督とはほぼ同年代だけれど、この年まで「こんな世の中」に参加してきたからには、「こんな世の中に対して、己の責任が全く無い」などとは思えないし、かといって子供から「こんな」と言われて「ごめんね」と謝る気もないけど監督はどうなんだろう。「オレとは全く関係のないところで、世の中はまわってきたんだもんね。そんで〝こんな〟になっちゃったわけよ。〝こんな〟舞台を用意された子供たちって、運が悪いっつうか、可哀想だよね。」…私は「ユビサキ」を見て、そんな感じがしちゃったんだなあ。 ダメだと思うよ、それは。それに、「こんな」と言っている子供と、「明日をも知れぬ特攻兵」を比べる…ダメだその感じ。 母子家庭で母水商売の子が飯田香織に似ていると思ったがこの子はなかなかよかったかな。[CS・衛星(邦画)] 4点(2007-11-10 19:25:28)《改行有》

312.  グッドフェローズ 《ネタバレ》 このくらいテンポよく軽妙に見せてくれれば文句はない。 スコセッシは、話を面白くする要素をいくつも盛り込んでいる。まず、ジミーとヘンリーがアイリッシュであること、そのため裏社会で生きるに「第2市民」のごとき位置から一生抜け出せないであろうこと、それなのに仲間内で最も異常な人物であるトミーを「生粋のイタリア人」にしたこと。 トミーがマザコンで、ママは変な犬の絵を描くことや、ヘンリーが文字通り〝女難〟で破滅していくこと。 これらのどこまでが実話なのか知らないが、なんとも面白い話に仕立てたものだ。 ヘンリー自身はギャングとしては大した人物ではないのだが、こいつは何しろ実力者へのゴマすりがうまいということを武器に、コバンザメ式に成り上がる。そして最後には、俗な言い方をすると「命根性が汚い」ために裏切って司法取引する。法廷で突然観客に向かって語り出すというけったいなシーンは、法治主義である現代社会を鋭くついている。「法律なんてものは空洞だ。すべての他人はアメとムチでどうにでもなる。」でも、もうやめたんだ、〝殺されたくないから〟。 〝順番を待たないですむ〟ことや、〝より良い席を用意してもらえる〟ことって、それ自体は大したことじゃないように見えるけど、己にその「価値」がないのにそれを望んでしまったら、その〝代償〟はとても大きい。大きいんだ。普通の人は「アメ」か「ムチ」がなければ、他人にサービスなどしないんだから。 そして、ヘンリーに群がった女(妻を含め)たちというのは、とても頭が悪いか、そうでなければ自分に対して誠実でない。なぜなら彼女たちは、ヘンリーにくっついていることで〝おこぼれ〟を享受しながら、〝順番を待たないですむ〟〝より良い席を用意してもらえる〟の担保を見極めようとしなかったか、見ないふりをしたか、どちらかであるからだ。 これは古今東西の女性に共通する重要課題であり、軽視してはいけないと思う。あなたはどうですか?「なぜこんなに良い待遇が受けられるのか?」と冷静に判断できますか?それとも見ないふりをしますか? なんてことを考えてしまいました。ヘンリーと女たちについて。「グッドフェローズ」は面白いです。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-11-07 18:11:05)《改行有》

313.  ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 《ネタバレ》 大好きなサンドラと、「エクソシスト」から好きなエレン・バースティン、この2人が画面に映っているだけで、幸せな気分になる。それだけでなく、シッダの子役の子がすばらしい。 そして、アシュレイ・ジャッドがエレン・バースティンの若いころを演じたというのが…絶妙な感じがした。顔の雰囲気が似ているのだ。これまでアシュレイについては、個人的な評価は「微妙」だったが、家出後のホテルでの孤独なシーンなど、「アシュレイ・ジャッドって、こういう演技もできるんだ」と思った。 ストーリーについて。アメリカ南部の女性たちの話である。先日読んだ「性と暴力のアメリカ」によると、昔からアメリカでは、既婚の女性どうしが精神的に深い絆で結びつき、男性社会であるアメリカを生きぬく支えとなってきた伝統があるという。「ヤァヤァ」は、まさにそれをあらわしているようだ。 さてこの話の中で、女性たちに対して強烈な支配力を示す男性はただ一人、ヴィヴィの父親だけ。彼は自分の娘にセクハラ言動を行い、高価な指輪を与える。でもそれは、ヴィヴィの言うように本当に「パパとは何もしてない」のにもらったものなのか?ヴィヴィの母親は、夫と娘の関係を邪推するほど「妄想幻覚」に囚われていたのだろうか? 作品の中では確たる証言はなかったけれど、前後の事情からすると、ヴィヴィと父親はなんらかの性的関係があった、ということだろう。「高価すぎる指輪」は、「もうすぐ結婚する娘に対する謝罪と口止め」の意味だ。でなければ、その後のヴィヴィの「心の病」に説明がつかない。婚約者が戦死したため、気に染まない男性と結婚した、だから人生に不満だった、というだけでは、ヴィヴィの「ご乱心」に説得力が生まれない。作品の中で語られないけれど、これは父親に性的虐待を受けた過去を持つ、という前提でヴィヴィの「乱心」を見るべきだと思う。 そんなヴィヴィは、懺悔したように本当は「有名になりたかった」女性、なのである。夫が成功すれば自分も幸福感を得られる、というタイプではなく、「自分が」社会的に成功したかった、野心ある女性だった。 これはヴィヴィという女性にとって、自分があきらめたものを娘が手に入れたことを許し、受け入れるまでのプロセスの物語だ。 シッダの弟妹が全く話に絡んでこないことが少々不自然だったが、「ヴィヴィ」の立場の女性にも、「娘」の立場の女性にも、見てほしい一作だ。[CS・衛星(字幕)] 7点(2007-11-02 20:20:27)(良:1票) 《改行有》

314.  きょうのできごと a day on the planet 《ネタバレ》 最初のほうを見ていたらあまりにつまらなくて〝努力忍耐〟とひたすら念じながら先へ進む。すると、途中から面白くなってきた。3人が帰って、西山が暴れだすあたりから…。「おっこれは」と思っていると、正道は何気に当て逃げされるし、スキマ男はどんどん悲惨になるし、かわち君は性格面白いし、話の展開がやっとわかってきて、〝この映画〟の面白さ、もやっとわかった気がした。 確かに、この話の人間関係が全く把握できていない状態で、時間をシャッフルしたうえ、けいとがクダをまいている(卵の話は本当につまらない)ところとか、真紀が酔って他人の髪の毛を切っているところを見ても全然面白くないのに、そこらへんを長く見せすぎる…。2回目に見ればわかるけど、やっぱり女2人が酔っ払っているところは何度見てもあんまり面白くない。監督は、女どうしのシーンで笑いを取るのが下手だと思う。(男ばかりでモメているシーンは大変よいのに。) 小説の原作ものということだが、私はそれを知らずに見ていてまず「これはまさに少女漫画の間の取り方だ」と感じた。吉田秋生あたりが一番近いと思う。もしもこの映画を吉田に漫画化してもらったら、すごく自然な感じになると思う。正道のキャラなど、見た目も言動も本当に吉田秋生の漫画から抜け出してきたようだ。 で、この話は出てくる人間がほとんど「モラトリアムな奴」なのだ。自分で稼いでいる人間はチョイ役でしかない。働いているやつは、スキマ男だけだ。北村のサーファーだって、どうもマトモな勤め人らしくない。 そういう男も女もモラトリアムなやつらが、ある日集まって勝手気ままに騒ぐ。過ごす。それをダラダラとコミカルにさんざん見せたうえ、クジラが帰った海辺で終わる。クジラとは、何の意味だろう。 クジラと同じように身動きが取れなくなって、己の命を他人まかせにしなくてはならなかったのは誰か。違法な賭博喫茶で働くスキマ男だ。クジラはスキマ男だ。スキマ男は、中沢たちと違ってモラトリアムに生きていない。 世の中に出て、自分で食い扶持を稼いでいくということは、座礁した瀕死のクジラのようなもの…そんな大変なこと、できるだろうか。できればこのままいつまでも、京都の古民家という通好みのおしゃれスポットで、ダラダラとモラトリアムに仲間とじゃれていたい…。そういう気分を描写したのが本作だと思うなあ。やっぱり昔の吉田秋生の気分。[CS・衛星(邦画)] 8点(2007-10-23 19:47:36)《改行有》

315.  Jam Films 《ネタバレ》 15分程度で観客の心に何かを残すにはどうする。競作なので、各作り手はいろいろ趣向をこらしています。 「けん玉」、両手包丁で肉を叩いてミンチを作る。一心不乱な篠原涼子の表情もなんとなくこわい。見ているほうの頭には〝危〟の字が浮かぶ。これと、山崎まさよしという役者でないボケキャラを絡ませたことで、大した話じゃないのになんともいえぬ味わいが出た。インテリアも個性的でかわいい。ちゃんとオチをつけていながら、プロットで凝りすぎず自然に仕上げたところが勝利。 「JUSTICE」、これって、行定監督が、西洋的な論理的思考様式(文字や言葉を信頼する文化というもの)に対してケツをまくって見せたもしくはおもいっきり舌を出したと思っていいのだろうか。たぶん、それでいいんだろう。なんたって、キンパツで蝶ネクタイのセンセが、「ポツダム宣言」を「読んでやっている」んだぜ。ポツダム宣言だよポツダム宣言!負けの込んだ日本人の知らないところでパイの取り合いをし、「今後はこうするべき」「ああするべき」そして「もしこれをしなかった場合は」「もしも最悪の事態になった場合は」ほとんど、自分の知らないうちに勝手に結ばれた結婚契約書?…ポツダム宣言に対して〝ブルマー〟で返すというのは、なんていうか、やっぱり「文字や言葉を信頼する文化」に対するアンチ、揶揄、「キミたちとはステージが違うのよ」って感じだな。ボクシングに対して寝技で立ち向かう、というような。…たぶん外人(とくに西洋人)に見せたら、作り手の意図はすぐバレるフィルムなんだろうが、ブルマーばかりが注目されて、そこんところが無視されてしまっているのでは、とちょっと気がかりだ。私自身は、「ポツダム宣言的な文化」に対して舌を出したいかというと…保留。 エンディングのワケわからん激しい曲も、ケムにまいた感を出してうまくマッチしている。あっほかの作品のことはどうでもいいや。[CS・衛星(邦画)] 5点(2007-10-17 20:46:12)《改行有》

316.  シン・シティ 《ネタバレ》 こういうのをマトモに見てしまうと、何らかの機能が少々狂ってしまいそうでやばい気がしながら最後まで見た。 このコミックの世界では、女は若くてナイスバディでないと、映ることを許されない。年取ってたり、美人じゃない女はあらかじめ排除されている。〝ママ〟なんて、〝声〟すら出してもらえない。すごいなあ。徹底している。 出てくるすべての男は、他人を陥れるために常に暴力を辞さない。ことになっている。疲れそうだなあ。 まあコミックだから。 3人の中で私が一番面白いと思ったのはミッキー・ロークでした。特殊メイクのせいもあろうが、彼のエピソードが最も見易かった。何をされても死なないのも、悪者相手の残酷なお仕置きも、あのメイクなら「コミックコミック」と思いながら結構平気で見られる。何年経っても頭から離れないヒラヒラパンツのイメージも、あのメイクでカバーできるぞOKだ。だってだいたい誰だか分かんないしあのメイク。 というわけで、最もリアリティのないミッキー・ロークのエピソードが一番イケていた。「だいじょぶだいじょぶ。コミックコミック。」 下手に演技しようとしてしまったクライブ・オーウェンがダメだったと思う。バカに成りきれてない。 ブルース・ウィリスについては…だってあなた、刑務所から出た時点で70歳近いんでしょうが。19歳の女にせまられるのはシリアスでもアリなのか?それともコメディでいいのか?たのむからやめて。 デボンは結構足が太いと思った。[CS・衛星(字幕)] 5点(2007-10-15 17:53:59)《改行有》

317.  イン・ザ・プール 《ネタバレ》 普通に楽しめる映画かな。 私には松尾スズキの演技はいまいち印象に残るものではなかったが。あと、市川の強迫神経症ぶりは、かなり甘すぎる気がする。悲壮感が全くなくて、「そういえば、強迫神経症だったっけな」という程度である。市川の責任ではなく、脚本演出だけれども、実際の患者とはかなり違うのではないだろうか。たとえば中森明菜を思い浮かべれば、本作の市川との違いは明らかであろう。 患者のうち、私が最も面白いと思ったのは田辺誠だった。自分ではストレス社会をうまく泳いでいるつもりの彼が終始クールなモノローグ。これをオダギリや市川のドタバタの合間にはさむところがおもしろい。編集にセンスを感じるし、田辺自身のコメディセンスも感じる。 さて監督はオダギリのような美男子にこれでもかの情けない演出を加えまくったところ、なんとなくいじめ感がありますね。おそらく多くの〝オダギリほどかっこよくない〟男性は溜飲を下げたことでしょう。…が、ここまでみじめな演技をさせられても、〝やっぱりオダギリジョーはかっこよ〟かったのでした。かっこいい人は何をしてもかっこよくなってしまうのですね…。という実験だったような気もする。 私的にはオダギリと市川の部屋のインテリアが興味深かった。最近は邦画もインテリアに手を抜かなくなって喜ばしいことだ。 難をいえばやっぱり、悲壮感を排除したことにより〝心の病気〟のワリには各キャラクターに深刻さが欠けていること、「ハメをはずせ」というメッセージをあからさまに出しすぎたことでしょうか。大変お気楽な作品になっています。[CS・衛星(邦画)] 6点(2007-10-13 16:16:37)《改行有》

318.  ひまわり(2000) 《ネタバレ》 個人的にはラストのシーンを深読みする必要はないのじゃないかと思っていますが。行定作品というのは…どうにも見た後に気分が暗くなりますね。 行定作品(除く春の雪)を見るにつけ、この果てしないローテンション、「渡る世間は鬼ばかり」的なものに対するアンチ、というふうに私には感じられてきた。勝手にそう思ってしまうけれど、渡鬼的なものを憎んでいるからといって、ここまでのローテンションというのは…やっぱり私はヤだ。なんだか、うつ病の人しか住んでいない世界、のように感じられる。 で、監督お気に女優の麻生久美子、私には広末涼子との見分けがつかない。どっちにしても、女に好かれないキャラである。私も好かない。そして、「ひまわり」でもほとんどの女性に総スカンを食らうに足る嫌われ女ぶりを発散しまくる。 どういうところがそうなのかというのは女の人には言わなくてもわかると思うけど、ルックスもファッションも朋美の行動もそのすべてが、男性にしかウケないものであって、同時に女性に嫌がられる要素充分なんである。「ひまわり」は、男にウケて女に嫌われる朋美なる女性について、本人不在のところでストーキングしている作品…といった味わいだ。 ところで袴田演じる輝明なる青年であるが、なんと私は見始めて1時間以上経過しないと〝輝明〟が〝モテ夫〟を演じていることに気がつかなかった。…。モテ夫だったのか。しかし袴田って。袴田=モテ夫という役どころに、何%くらいの観客が気がついてくれるのだろうか。私の場合は、輝明=オダギリジョーかキムタクでもなければ、この脚本では気がつけない。 身長があるからといって、袴田が輝明であることはもともと無理だと思うのであるが、実は小学校時代の輝明を演じた少年というのが優れもので、どっからどうみても〝クラスで一番モテそうな子〟であった。いいなあ、この子。 音声が非常に良くない。意図的とは思えないほどの悪さだ。ヘッドフォン装着でも大変苦労した。なんだかとても長く感じてしまった一品だった。[CS・衛星(邦画)] 5点(2007-10-12 20:49:55)《改行有》

319.  フル・フロンタル 《ネタバレ》 以前、喜び勇んでレンタルして見た際には、あまりのワケわからなさに金返せ(レンタル料金程度のものであろうと)気分に満ち満ちてしまったのだが、しかし。「衛星で流れているならちょっとジュリア・ロバーツの顔でも見ておくか」的に見始めると、これが以外な面白さを持っていたのだった。 …そうか、劇中劇をはさんでいるからワケわからなかったんだなあ…って、それだけのことだったのか。キレイな映像のとこは劇中劇ってことね。 どういうふうな面白さに気付いたかというと、準備万端整えたうえ映画館の暗いシートにかしこまって見る面白さ、では全然なくて、「あっそう、流れているなら見てもいいよ」といったゆるーい状況下において、ちょい散らかった部屋の中で姿勢もだらしなく視線もナナメ気味に見るのがよい…すると、ハンディカメラぽい映像でどこまでもナチュラルな演技を繰り広げるセレブな欧米俳優達をぼんやり見ているうちに、己の日常生活がいくらか美化されたような〝錯覚〟の世界に陥ることができる。 「それでどうした」の起承転結を求めてはいけなくて、ジュリア・ロバーツがツナサンドがまずいとパシリをいびる場面とか、モルダー捜査官がマッサージを受けている場面とか、ブラピが49回もリテイクさせられても(そんな訳ないけど)さわやかだとかそういうのを、近所の誰かに起こった出来事のように、あたかも自分の目の前で起こっているかのように、楽しむ。 それにしても、ジュリア・ロバーツがカツラを取ったシーン以降は、スリルがなくなるなあ。そんな早くネタばれなくても。[CS・衛星(字幕)] 6点(2007-10-11 18:24:54)《改行有》

320.  贅沢な骨 《ネタバレ》 これはまさに…私は岡崎京子「Pink」を思い出しちゃった。 けど、「Pink」は「資本主義対個人の戦い」が狙いだったのだが、「贅沢な骨」は違う。 ホテトルやってても平気なふりをしている、という点は同じだが、「Pink」の主人公は本当に罪悪感が無かったし、「自分の持ち物のうち、売れるものを売る」という形で資本主義を攻略しようとしていたのだった。対して、「贅沢な骨」のみやこは…「あたしは不感症だから体売っても平気だからいいの」だ。 「不感症の女がセックスしても、セックスしたことにはならないから、していないのと同じだから、売春したって平気」。そこに、さきこを養ってやるという義務を追加して、彼女がホテトル稼業を営む状況が成立している。よって、新谷による開眼後の売春は苦痛を伴うものになり、営業後の口直しに新谷にまとわりつく…ということになっていく。 「Pink」にも3人の共同生活が描かれ、メンバーはホテトル嬢と腹違いの妹と作家志望の青年である。そして…彼氏の作品が受賞して金が入るという「偶然の幸運」という動機によって売春をやめ、お約束のように「南の島へ旅に」出ようと水着を選ぶが、出発当日彼氏は車にはねられ死亡。知らずに空港で待つ元ホテトル嬢。 が、行定監督が犠牲者に選んだのは、ホテトル嬢のほうだった。変態電車男に首を絞められて死んだのだろう。もちろん、自分から「締めてくれ」と要求したに違いない。 どうも監督は「汚れているとはどういうことなのか」ということを言いたかったらしいのだが、そうであるならば、性描写がちとしつこすぎたように思った。エロシーンが映画の邪魔をしている…と私には思えるくらいだ。 この3人を見るかぎり、日本はなんてひねくれた希望のない国なのか…という気がする。ここにいるのは「法」とか「奉仕」とか「道徳」とか「理想」とは無縁な若者たちだ。それが、今の日本の若者の雰囲気である、というふうには…私は認めたくない。20何年生きてきて、共通の話題が古いバンドの曲のことだけとか、3人同時に楽しめるのは他人に花火を投げつける時だけ、とか、あんまりにも情けないと思うなあ。それでいいのか。それが〝時代の空気〟か。 私は「Pink」は認めるけど、「贅沢な骨」の空気感は支持しない。この映画は、外国の人には見てほしくない。[CS・衛星(邦画)] 6点(2007-10-04 13:49:08)《改行有》

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