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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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341.  皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ 一風変わったイタリア産ヒーロー映画。 ハリウッドにおける“マーベル”、“DC”の二大コミックそれぞれのユニバース作品群は隆盛期のピークを迎えているが、所変わればヒーロー像も変わるもので、癖と雑味が激しいイタリアンヒーローの立ち振舞は、とても興味深かった。 社会のど底辺に生きるどチンピラが、突然“超人パワー”を手に入れたらどうなるか。 当然ながら突如として「正義」に目覚めるわけもなく、豪胆にもATM強盗を犯す様がまず潔い。 その後も、ヒーロー映画らしい颯爽としたシーンなどまるで無く、苦痛と苦悩にのたうち回りながら、本当に少しずつ己の運命を見定めていく愚か者の不器用さが何とも切ない。 “ヒーロー”である主人公以外の登場人物たちも、皆どこか心を病み、こじらせている。 ヒロインは陰惨な生い立ちの過去を覆い隠すかのごとく、何故か実在の日本産のロボットアニメ「鋼鉄ジーグ」に心酔し、心の拠り所にしている。 一方の悪役も、歌手になりきれなかった夢を引きずりつつ、狂気的な凶暴性を増大させていくという、ワケのわからないキャラクター像を構築している。 主要キャラクターに限らず、登場人物たちの全員が何かしらの“屈折”を抱えているように見え、それは即ち現在のイタリア社会が根底に抱えている病理性に通じているようにも感じた。 心身ともにズタズタに傷ついた愚かなヒーローは、ようやく運命を受け入れ、無様で愛おしい毛糸のマスクを身につける。 そして、眼下に見下ろす夜の街にジャンプし、映画は終幕する………が、飛翔能力があるわけではないので、きっと彼はいつものように地面に叩きつけられたことだろう。 アイアンマンやスーパーマンには敵うはずもないけれど、こんな“鋼鉄の男”がいたっていい。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-15 08:35:23)(良:1票) 《改行有》

342.  カメラを止めるな! 昔、映画学校の学生時分、脚本家志望だった僕は、「サバ缶」というシナリオを書いた。 またカリキュラムの中で、短編作品の撮影もどこかしらの民家を一泊借りて行った。 もう随分と遠い昔の思い出となってしまったけれど、その時の記憶がありありと思い出される。 そして、月日は経って、地元に帰り、結婚をして、娘が生まれ、父親になった。 何が言いたいかというと、そんな僕が、この「映画」を愛さないわけがないということだ。 いや、参った。これは、日本映画史上待望の「ゾンビ映画」の傑作だ。 巷で話題沸騰となっていたことは知っていたけれど、あまり精力的な情報収集をせぬまま、地元の級友たちとの飲み会前の空き時間にフラリと観に行った。「情報」を最小限に留めたまま鑑賞に至れたことが、極めてラッキーだったと思う。 古今東西「ゾンビ映画」というものは、生み出された実社会の閉塞感や鬱積を、血と狂気の混沌の中で描き出してきた。 したがって、そのジャンルは、もちろん「恐怖映画(ホラー)」ではあるのだが、同時に「風刺映画(コメディ)」でもあると思う。 今作は、そのホラーとコメディというアンビバレントな要素を絶妙なバランスで混ぜ合わせ、驚くべきアイデアで纏め上げて見せている。 ただし、一言で「風刺」と言っても、この映画で描き出されるテーマ性は極めてミニマムだ。 核家族における父性のあり方、あらゆるしがらみにがんじがらめの働き方、そして、一個人レベルに至るまで蔓延する虚構と実像の葛藤。 この映画は、現代のこの国の社会の中で、あまりにも普遍的なそれらの鬱積を根底に敷き詰め、呆れて笑うしかない「暴走」と共に、爆発させ、解放させている。 一つ一つの描写はとてもくだらなくて、チープだけれど、それをあまりのもチャレンジングな試みの中で、「本気」になって叩きつけているからこそ、今作はとてつもない“面白味”と“感動”を生み出しているのだと思う。 映画館で、あんなにも臆面もなく手を叩いて笑った記憶はない。 観客のその反応を誘い出し、エンターテイメントとして成立させたアイデアとチャレンジに脱帽する。 散々笑わせといて、最後の最後でホロリとさせるなんて、ズルい。[映画館(邦画)] 10点(2018-08-13 08:06:53)(良:6票) 《改行有》

343.  ゴースト・イン・ザ・シェル アニメ映画の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と、その続編である「イノセンス」は“一応”観ている。が、しかし、押井守監督が生み出したアニメーションの独特の質感と、鬱々とした世界観が、個人的にどうにも肌に合わず、面白いとは言い難かった。 人間と、電脳、アンドロイド、サイボーグが混在する近未来の混沌を描き出すにあたり、描き出されるテーマがどんどんと陰鬱に、インサイドの更にインサイドへと突き進んいくストーリーの構図が、精巧に感じる反面、酷く“ひとりよがり”にも感じてしまったことが、拒否感の最たる要因だったと思う。 そんなわけで、満を持してのハリウッド映画化の報を知っても、特段興味はそそられず、本来東洋人設定であるはずのヒロインにスカーレット・ヨハンソンを配したキャスティングにも安直さしか感じなかった。 “ビートたけし”の主要キャスト起用にも、キアヌ・リーヴス主演の往年のトンデモSF映画「JM」を彷彿とさせるばかりで、観る前から“やっちまった感”を覚えた。 だがしかし、だ。そうやってハードルを下げきって実際に観てみたならば、いやいやどうして、フツーに面白かった。映画とは、本当に厄介な娯楽である。 少なくとも、アニメ映画「攻殻機動隊」の非ファンとしては、想像以上に面白かったと言える。 考えてみれば、これだけ世界的なファンと非ファンを持つ作品の映画化にあたっては、どれだけ完成度を上げて仕上げたところで、どこかしらの角度からの「否定」は避けられないわけで。 そんな火中の栗を拾うようなプロジェクトに無謀に、いや果敢に挑み、統一された価値観で纏め上げて見せていることには、今作の製作陣のプライドを感じた。 当然ながら原作のファンなのであろうスタッフ陣が、原作はもとより「日本文化」そのものに対してのリスペクトをしっかりと掲げて映画の世界観を構築してくれていることも、この国の映画ファンとして意気に感じる。 また、懸念材料だったキャスティングも、強引ではあるが辻褄は合っているストーリー設定で整合性を保っているし、想像以上に主要キャラクターだったビートたけしと、桃井かおりの存在感が光っていたことも誇らしかった。 今一度、アニメ版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を見直してみようと思う。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-12 00:20:01)《改行有》

344.  未来のミライ 子どもが育つということは、ただその事実のみであまりにもドラマティックだ。 それは、どんな形であれ、子どもを育てた経験がある人、もしくはその真っ最中の人ならば尚の事、身に沁みて感じることだろう。 ただ、そのドラマは普遍的であるからこそ、映画表現としてそのまま描くばかりでは、退屈なものになってしまうことは避けられない。今作の序盤はまさにそんな感じだった。 「あ、やっちまったか?」と、序盤から中盤、いや終盤近くまで正直思った。 個人的に、細田守監督の前作「バケモノの子」の満足度が、それまでの過去作と比較すると随分と下回っていたこともあり、今作については鑑賞前の危惧が大いにあった。 予告編等のインフォメーションを見ても、今ひとつ「面白そう」だとは思えなかった。タイトルやキャラクターの台詞から、なんとなくありきたりなストーリーラインを思い浮かべてしまっていたのだと思う。 そんな思いの中で展開されたものが、想像以上に間延びした幼児の成長譚だったものだから、「危惧が的中したのだ」と意気消沈してしまったことは否定できない。 しかし、だ。この作品は、終盤にある種「異様」とも言える転じ方を見せる。 即ち、退屈と困惑からの、カオスとエモーション。 アニメーションは秀麗ではあるけれど間延びし、ありのままの幼児像に少なからずの不快感すら覚え始めていたそれまでのストーリーテリングが、時空と概念を超えて“ファミリー・ツリー”として集約され、眼の前がぱっと明るくなり何かしらが覚醒したような感覚に包み込まれる。 気がつけば、抱えていたはずのフラストレーションは霧散し、特異な充足感を感じていた。 冒頭から山下達郎の爽やかなテーマソングが流れ、いかにもなファミリームービー的な導入で始まる映画ではあったが、今作は決して万人受けするアニメ映画ではないだろう。少なくとも、大いに困惑し、最終的に腑に落ちない点も多々あると思う。 しかし、この映画が語るものが「家族」であることはやはり間違いなく、その主題を“根幹”に据え、「子が育ち、命を継いでいくこと」の意味と価値を示したこのいびつなアニメ映画は、結局のところこの季節に相応しい。 やっぱり、細田守のアニメーションは、夏がよく似合うと思える。 我が家の娘と息子も、笑いながら、泣きながら、文字通りすくすくと成長している。 その日々が、「未来」につながり、ファミリー・ツリーの枝葉を伸ばしていくのだと思うと、胸を熱くせずにはいられない。 うちも庭先に何か木を植えようか、と思うのだ。[映画館(字幕)] 9点(2018-08-03 23:36:18)(良:1票) 《改行有》

345.  ジュラシック・ワールド/炎の王国 ラスト、貫禄たっぷりに年老いたマルコム博士が、「ようこそジュラシック・ワールドへ」と強い眼差しで言い放つ。 前作では「テーマパーク」の呼称だった“world”が、真の意味の“world”に転じた瞬間、前作で生じていた消化不良感は消化され、シリーズを通じた高揚感を覚えた。 原題「fallen kingdom」が指し示す真意がラストに際立ち、腑に落ちる。多少トンデモ展開であることは否めないけれど、こういうSF的暴走は、個人的に大好物なのだ。 至極当然なことではあるが、「ジュラシック・パーク」シリーズは「SF映画」であるべきだと思っている。 SF作家のマイケル・クライトンが著し、スティーヴン・スピルバーグが蘇らせた「失われた世界」には、常にSF的主観があり、物語に登場する科学者や博士の目線によって綴られるからこそ、あたかもフィクションの境界を超えた“実像”として、僕たちの目に映ったのだと思う。 その“博士の目線”が薄れ、単純なヒーロー&ヒロインもののアドベンチャーに終始していたから、僕は世界的大ヒットとなった前作に今ひとつ乗り切れなかったのだと思う。 今作も、主演コンビが続投となり、主要キャラクターの中に明確な科学者や博士は存在しないが、前述の通り、冒頭とラストのみにカメオ出演的に登場するマルコム博士の存在感が利いている。 彼が如何にも意味ありげに博士的見解を発するからこそ、良い意味でB級的なSF映画色が際立っている。流石はジェフ・ゴールドブラム(ファン)である。 また、日本語タイトルの「炎の王国」を軽くいなすように展開される“舞台チェンジ”も見事だ。 噴火する孤島を舞台に大仰だけれどありきたりな大スペクタクルが展開されるのだとばかり思っていたが、“ゴシック屋敷”への大胆な舞台変更により、映画のテイストはまさかの“ゴシック・ホラー”に転じる。 改造人間ならぬ“改造恐竜”が、大屋敷内を所狭しと暴れまわったかと思えば、雷光を浴びた恐ろしげな影がじわりじわりと少女に迫りくる。 前半の火山島シーンも含めて、映画的なビジュアルセンスに優れた気鋭のスペイン人監督(フアン・アントニオ・バヨナ)に、この最新作の舵取りを担わせたことは、大ファインプレーだったと思える。 生命の理を超越して蘇り、生き延び、進化した恐竜たちは、生命として進むべき新たな道を辿る。 一度放たれた生命を“檻”で囲うことなど不可能だ。 T-REXの咆哮は、その真理を高らかに宣言しているようだった。 かつて偉大な恐竜映画は、一人の恐竜ファンの少年を興奮で包み込んだ。 あれから25年、36歳になった少年は、彷彿とされる興奮と共に、あの1993年の夏を思い出す。[映画館(字幕)] 8点(2018-07-21 22:01:28)《改行有》

346.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 「ハリー・ポッター」シリーズは、全8作を“一応”鑑賞している。最終作「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」は満を持して劇場で鑑賞したが、結局最後の最後まで乗り切れなかったというのが正直なところだ。 児童文学の映画化シリーズとして致し方ないし、むしろ真っ当なことなのかも知れないが、話運びや登場人物たちの言動に対して“子供向け”の範疇を超えたものを感じることが出来ず、シリーズを通じて成長した主人公がどんなに必死の形相で呪文を唱えても、滲み出る“お遊戯感”を受け入れることが出来なかったのだと思う。 ただし、この映画シリーズが、老若男女世界中の人々に愛され人気を博した映画史に残るシリーズであることは否定しようもないし、原作ファンでも無い者が否定する余地はないと思う。 そんな個人的なスタンスのため、このスピンオフ作品についても、それほど興味を持てぬまま続編となる最新作の公開を間近に控えた今の今までスルーする形になっていた。 本シリーズに通づる“お遊戯感”にプラスして、ファンタジックな生き物たちが登場するファミリー向け映画なのだろうと高を括っていた部分もあった。 が、しかし、実際に観てみたならば、いやいやどうして想像よりもずっと好きな映画だった。 珍妙な魔法生物たちが続々登場するファンタジックな映画であることは間違いないけれど、映画全体のテイストが決して子供だましなわけではなくて、“オトナの可愛らしさ”が随所に散りばめられた良いファンタジー映画だった。 思うに、「ハリー・ポッター」シリーズは、「子供」が主人公であることによる避けられない幼児性や稚拙さが、話運びのまどろっこしさに繋がっていたのではないかと思う。 しかし今作は、主人公のニュート・スキャマンダーをはじめ、登場人物たちはみな既に何かしらの人生の機微を味わっている「大人」たちだ。 大人ゆえのまどろっこしさも勿論あるが、そういう部分も含めて、彼らが織りなす人生模様が物語の奥ゆかしさとして表れている。 1920年代の古式ゆかしきニューヨークの物語舞台と魔法との相性も極めてよく、秀麗なビジュアルを見せてくれていると思う。 一転して、公開を控える最新作が俄然楽しみになってきた。 今作でサプライズ登場したジョニー・デップに加え、若きダンブルドア役にジュード・ロウ!パリ・ロンドンを舞台にした映像世界にハマらないわけがない。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-07-17 00:07:58)《改行有》

347.  パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊 前作「生命の泉」から7年も経っていることに唖然とする。そして、7年も間を空けた上で、前作の流れを引き継ぐわけでもなく、まるでシリーズ第一作目かのようなベタな焼き直し的ストーリーを展開したのは如何なものか。 もはや忘却の彼方だったが、前作で新登場したペネロペ・クルス演じる女海賊アンジェリカが、引き続き登場する流れだった筈だが、この最新作では触れられもしなかった。 敵役として、二番煎じ、三番煎じなキャラクターをハビエル・バルデムに演じさせるくらいなら、妖艶な女海賊と対峙する様をしっかりと描いてほしかった。まあ7年も間が空いてしまった時点で、ペネロペ側としてもNGだったのだろうけれど。 キャストを一新した“リブート”だと言うのならば、まだ理解は出来よう。だが、ジョニー・デップに頼り切りの製作陣からはそんな考えは毛頭あり得なかったようだ。 であるならば、新世代を主軸に据えた新展開を繰り広げれば良かったのではないかと思う。 ウィル・ターナーの息子を主人公にして、新世代の新キャラクターを活躍させつつ、随所でジャック・スパロウやキャプテン・バルボッサの存在感を際立たせる「エピソード7」的なアプローチが展開できたならば、シリーズ全体の魅力を昇華させる新作になり得た筈だ。 オーランド・ブルーム演じるウィル・ターナーを海の底から復活させて、更なる続編を目論んでいるようだが期待は出来まい。 おそらくは、ひたすらに繰り返されるプロットで、ジャック・スパロウがバタバタと暴れまわるのだろう。それを観たいファンが喜んでいるのならば、もはや何も言うまい。 そして、海に沈んだくらいであのバルボッサが死んだとは、誰も信じていまい。[CS・衛星(字幕)] 4点(2018-07-16 21:47:17)《改行有》

348.  湯を沸かすほどの熱い愛 冒頭の朝ごはんのシーンから、この映画の主人公である“母娘”の存在感に、何だか“違和感”を感じた。 ただし、その“違和感”は、決して不快なものではなくて、何気ない会話を交わす母娘の佇まいに実在性の曖昧さを感じ、彼女たちの発する空気感が妙に心地よく、不思議な浮遊感を覚えたのだった。 宮沢りえと杉咲花が演じるその母娘像は、勿論実像としてそこに映っているのに、感覚的にはまるで秀逸なアニメーションを観ているようだった。 その不思議な感覚の正体は、ストーリーが連なり、織り重なるドラマの流れの中で、徐々に明らかになっていく。 詰まるところ、この映画は、ありふれた人情物語ではなく、母娘の機微に溢れた愛すべき“ファンタジー”だったのだ。 神々しいまでに強く慈愛に満ちた母親、その厳しく熱い愛を一身に受け止める娘。彼女たちが発する時にエキセントリックにさえ見える「激情」の意味と意図が、“ファンタジー”という言葉に集約される。 それは決して非現実的な絵空事を描いているという意味ではない。 少々現実離れしていようが、常軌を逸していようが、ありのままに描きつけたかった「母の愛」。 その表現の手段として、現実的な“しがらみ”を廃すためのファンタジー性だったのだと思う。 「母の愛」と一言で言うけれど、そのありふれたテーマ性を、こんなにも真っ直ぐに、深く、強く、愛おしく、そしてファンタジックに描いた日本映画があったろうか。 冒頭で感じた違和感を早々に通り越し、この映画世界に息づく母娘の言葉と表情がダイレクトに心に突き刺さるようになってからは、琴線が震えっぱなしだった。 この物語が素晴らしいのは、テーマである「母の愛」と、それにまつわる「母娘の機微」が、決して主人公母娘だけの事柄ではなく、ストーリーに絡む多面的かつ多層的な“母娘像”の中で描きつけられていることだ。 そして、描き出されるそれらの殆どは、決して安直な美談としてではなく、胸が締め付けられるような辛辣な現実と共に映し出される。 自らの病を押し隠し、まさに「聖母」のような美しさと強さを見せる“母親”自身にも、自らの“母親”に対する拭い去れない心傷があり、その傷は安易に癒やされることはなく、より一層深く刻まれる。 むしろ、この映画の中で語られる幾つかの「母娘」の関係性においては、一つとして“幸福”のみで綴られているものはない。 どの母娘も、何かしらの深い後悔と失望に苛まれ、恨みや怒りを孕み、苦しみ、泣き濡れる。 それでもだ。 それでも、心のどこかで、母親は娘を愛し、娘は母親を愛し続ける。幸か不幸か、そこから逃れることなんてできないのだ。 「でも、まだ、ママのこと、好きでいてもいいですか?」 母親に置き去りにされた少女が振り絞るように発するその吐露に、この映画に登場するすべての「娘」の感情が表れているのだと思えた。 いや泣いた。少なくとも、この1〜2年の間では一番泣いた。 宮沢りえは、最強だ。杉咲花は、最高だ。 ラストシーンは、銭湯での葬式。その一寸エキセントリックに見えるシーンから、「風呂桶」と「棺桶」という言葉に見え隠れする密接な関係性を知ったこの幸福な映画体験は、暫く心から離れそうにない。[CS・衛星(邦画)] 10点(2018-06-30 16:48:49)《改行有》

349.  映画ドラえもん のび太の新・魔界大冒険 7人の魔法使い 「のび太の魔界大冒険」は、藤子・F・不二雄原作の「大長編ドラえもん」シリーズの中でも屈指の名作である。 故にその原作を忠実に映画化した「ドラえもん のび太の魔界大冒険」も、必然的にドラえもん映画の傑作であると思っている。 F先生お得意の“パラレルワールド”を駆使したストーリーテリング力と、「魔法世界」というファンタジー性を見事に融合させた想像力と創造力は「流石」の一言に尽きる。 そして、その漫画世界を独特の語り口と、子供向け映画としては一寸ぎょっとする不穏さで描き出してみせたアニメーションが見事だった。 とまあそんな感じでオリジナル作品を愛するオールドファンなので、2007年にそのリメイクである今作が公開された際も、さほど興味を示すこともなく、“7人の魔法使い”なんていかにも子供だましな副題の功罪も手伝って、完全にナメていた。 が、しかし、先日観た「のび太の恐竜2006」同様、鑑賞し終えた今となっては、ナメていたことをまず平謝りするしか無い。 想定を大いに超えた“傑作”だった「のび太の恐竜2006」程の驚きは無かったが、今作も、押さえるべきところをちゃんと押さえつつ、新しい世代に向けてただの“焼き直し”にはならないように仕上げた良いリメイク作だった。 「のび太の恐竜2006」と同じく、オリジナルのストーリー性をちゃんと踏まえた上での、精力的な「改変」の姿勢が素晴らしく、ストーリー的にも概ね上手く練り上がっている。 まず分かりやすい改変ポイントから言うと、なんと言っても“メドゥーサ”の取扱い。オリジナルではシンプルに恐ろしい使い魔だったこの悪魔キャラを、ああいう形でピックアップしてくるとは。このキャラクター性の大きな改変により、ゲストスターである美夜子の抱える傷心とドラマ性が深まっている。 そして、最も特筆すべき改変ポイントは、パラレルワールドと現実世界の相互関係がさり気なくもちゃんと描かれていることだ。オリジナルでは、“もしもボックス”によって論理的な説明はないまま生まれた世界に過ぎなかった「魔法世界」だったが、今作では現実世界と並行する世界という、SF的常識にのっとったパラレルワールドとして、双方の出来事が影響しあっていることがきちんと描写される。このSF映画的には真っ当な追求は、F先生の原作にも描ききれてなかったことで(ページ数の関係上致し方ないことだが)、極めて秀逸だった。 現実世界では、美夜子の存在自体がまるで無いもとされるという原作のウィークポイントを、今作ではしっかりとフォローしているのだ。 すなわち、あの“フェイクエンディング”のまま元の世界に戻ったとしても、謎の天体の衝突により地球は滅亡を免れなかったわけで、のび太の「英断」の価値と意味が殊更に高まっている。 その他にも、魔界星の悪魔たちがなぜこれまで地球を攻めあぐねていたかの理由だったり、絶体絶命の状況でドラミが助けに来ることの論理的な説明だったりと、オリジナルでは都合よくぼかされていた部分を改変しSF的な整合性を加味していたことは、本当に見事だったと思う。 ただ一方で一抹の物足りなさもあった。それはやはり、オリジナルに対して、おどろおどろしい不穏さが激減していたことだ。今作ではカットされた“出来杉による魔法に関する講釈”のシーンで顕著だったように、オリジナルもとい原作漫画では、F先生の「魔法」や「悪魔」という文化そのものと、それが人類史に及ぼした歴史的背景に対する愛とイマジネーションが溢れていた。 メジューサの恐ろしさをはじめ、肉食角クジラの巣窟へ誘う人魚の歌声、帰らずの原の恐怖と魔界のハイエナetc…と、「魔界」という異世界の創造性とアイデアは、圧倒的にオリジナルの方が秀でていた。 とはいえ、そんなことはオールドファン特有の“難癖”の範疇だろう。 新しい世代の新しいマーケティングに対して、しっかりと戦略的に練られたアプローチであったことは理解せざるを得ない。なぜなら、自分自身も幼い我が子たちと鑑賞しながら、「メジューサの登場シーンで泣き出すんじゃないか」という不安を回避してくれたことへの安堵感を否めないのだから。[CS・衛星(邦画)] 8点(2018-06-23 22:15:36)《改行有》

350.  犬ヶ島 「日本」という国は、なんて奇妙で、ユニークで、興味深い国なんだろう。と、思う。 日本人でありながら、この映画を観ていると、この国の「異質」さに頭がクラクラしてきた。 それは、決してこの映画がいわゆる“トンデモ”日本描写に溢れているというわけではない。 日本の文化と風土を愛してくれている稀代のクリエイターが、懇切丁寧にこの国の本質を表す描写を積み重ねている。 その結果として、こんなにもエキセントリックな映画が出来上がるのだから、それは即ち、やはりこの国そのものが本当にエキセントリックということなのだろう。 “今から20年後”という時代設定も巧い。この表現により、この先いつどの時代に今作を観たとしても、近未来を描いたディストピア映画のように見える。 そして、映し出される映画世界は、過去も未来もあらゆる時代が混濁している。それは、この物語がどの時代にも当てはまる悲哀と戒めを秘めていることの暗示でもあろう。 権力と暴力により虐げられる対象を「犬」としてこの物語は綴られているが、その光景はまさに今なお続く人間の負の歴史そのものだった。 もしこれがそのまま「人間」が虐げられる話として描き出されていたならば、とてもじゃないが直視できない。 けれど、人間の“隣人”である「犬」に置き換えて、独特の風合いのストップモーションアニメで映し出すことで、映画としての可笑しみが生まれ、同時に胸に刺さる悲しみや辛辣さも孕むことに成功している。 ウェス・アンダーソン監督ならではのフェティシズムに溢れたユーモラスでブラックな快作である。 コレ程偏執的な「日本愛」を示されては、日本人として、映画ファンとして、ニマニマしながら観るしかなかった。[映画館(字幕)] 8点(2018-06-21 09:23:39)《改行有》

351.  フリー・ファイヤー “いかにも”な倉庫街で繰り広げられる悪しき交渉と、その「決裂」と同時に巻き起こる愚か者たちによる愚かな銃撃戦。 このあらゆるアクション映画で飽きるほど描かれてきた“ワンシーン”のようなシンプルなプロットただそれのみで、映画を構成する潔さと豪胆さは「良し」と思えた。 キャスティングも、アカデミー賞女優のブリー・ラーソンをはじめ、キリアン・マーフィ、アーミー・ハマー、シャールト・コプリーと、巧さと、華やかさと、クセの強さを併せ持った魅力的なスター俳優が顔を揃えており、イントロダクションのチープさに反して、“掘り出し物”を観られるんじゃないかという期待感は膨らんだ。 そして、製作総指揮にはマーティン・スコセッシの名が。そりゃあ一定の期待はしてしまう。 結果としては、決して観られなくはないが、アクション映画として面白いとは言い難いと言ったところ。 一流どころの演者を揃えているだけあって、一人ひとりのキャラクター性には興味をそそられる。 何かしらの思惑を孕んだクセのあるキャラクターたちが、徐々に本性を表しながら、愚かにも死屍累々を築いていくという作品の方向性自体は間違っていなかったと思う。 場面場面においては、ブラックユーモアやシュール性も併せ持ちつつ、ユニークなシーンを見せてくれたとも思う。 では何が悪かったのか。ずばり「脚本」だろう。基本的な話運びがあまりにも雑でチープすぎる。 何だか気の利いた台詞を言わそうとしていることは伝わってくるが、それらが尽く上手くないので、キャラクター全員がただただ“馬鹿”に見え、娯楽的なカタルシスがまるで生まれない。 必然的に、延々繰り広げられる馬鹿たちの撃ち合いにダレてしまった。 「レザボア・ドッグス」的な暴力描写と会話劇の妙を織り交ぜたストーリーテリングをしたかったのだろうけれど、遠く遠く及んでいない。 マーティン・スコセッシがどういうスタンスで「製作総指揮」に名を連ねているのか知らないが、これだけビッグネームを揃えられたのであれば、クエンティン・タランティーノにもお願いするべきだった。 まあ、タランティーノがこんな「二番煎じ」に参加するとは思わないけれど。[CS・衛星(字幕)] 4点(2018-06-10 22:45:30)《改行有》

352.  ゲティ家の身代金 「地獄の沙汰も金次第」ではないけれど、ビジネスの成功は勿論、慈善事業も、教育も、犯罪も、人の生死すら、「金」でどうにかなるという現実、むしろ「金」が無ければ何も行動を起こすことすらできないという現実を、終始一貫突きつけてくる。 まさに「この世界は金がすべて」という身も蓋もない現実を、ファーストシーンからラストカットまで言い切っている。 登場人物たちが揃いも揃って「金」という概念に支配され、右往左往する様は「皮肉」に満ちており、深刻な事態を描いているにも関わらず、時には失笑すら禁じ得ない。 しかし、その観客の失笑すらも、この映画世界の内外に存在する怪物のような“二人の老人”による「支配」の範疇なのではなかろうかと思える。 即ち、リドリー・スコット監督による豪胆かつ繊細な映画作りと、緊急登板したクリストファー・プラマーのリアルで精力的な役作りの賜物だと思う。 スキャンダルによりケヴィン・スペイシーが撮影完了後に降板するという非常事態をはじめ、その後のギャラの男女格差問題に至るまで、不幸にも色々とゴタついた撮影現場の苦労は伝わってくる。 正直言って、この映画が本来到達すべき「完成度」に至っていないことは垣間見える。だがしかし、その諸々のトラブルやそれに伴う社会的な“視線”すらも、作品の“味わい”として加味し、驚くべき短期間で纏め上げてみせたリドリー・スコットには感服せざるを得ない。 また、「やっぱりケヴィン・スペイシーで観てみたかった……」という、映画ファンとしての正直な思いも否定はできないけれど、あまりにも豪華すぎる“代役”となったクリストファー・プラマーの強欲かつ哀愁漂う「糞爺」ぶりは脱帽だった。 一見、キャラクターの焦点がぼやけているようにも見えるし、ストーリーテリングはちぐはぐに見える。実際、上手く纏まり切っていない映画なのかもしれない。 ただ、だからこそ、この欲と不条理に塗れた現実世界に蔓延する「皮肉」を、巧みに表現し得たとも思える。 良い意味でも、悪い意味でも、「生々しい」この映画の雰囲気をクリエイトしたのが、御年80歳の超大巨匠であることに、またしても舌を巻く。[映画館(字幕)] 7点(2018-06-07 23:48:53)《改行有》

353.  アナイアレイション -全滅領域- 美しく、そして残酷な、“未知との遭遇”。 映画全編に渡る得体の知れない恐怖感と、「世界」と「世界」の狭間を描き出したビジュアルの美意識自体は、決して嫌いじゃなかった。 幻想的で、芸術的、そして観念的なアプローチによるSF的な解釈は、興味をそそられた。 けれど、映画の中の“調査隊”が謎と恐怖に包み込まれた真相に突き進む程、ストーリー的な推進力は緩慢になり、残念ながら面白味も霧散していくようだった。 詰まるところ、「SF」として物語を紡ぐには、それを語り切るに相応しいストーリーテリング力が欠如していたのだと思う。 理解し難く、“答え”そのものを観る側に委ねるタイプのSF映画は多々あるし、それはそれで大好物だけれども、この映画の場合は、秘められているのであろう“哲学性”が巧く表現できているとは言えず、展開の稚拙さや唐突さが雑音となり、それがどんどん大きくなったまま終幕してしまった。 ナタリー・ポートマン演じる主人公が、オープニングからエンディングに至るまで、ひたすらに「わからない」を繰り返すばかりでは、流石にストーリーそのものを放り投げすぎじゃないか。 そう思わせてしまった時点で、この映画の目指した“試み”は失敗しているのだと思う。 プロットやストーリーにおけるアイデアそのものは、過去のSFスリラーでも幾度も描かれている類のものなので、この映画が描いている顛末は何となく理解できる。しかし、観客にそれを腑に落ちさせなければ、それは単なる自己満足的な絵空事に過ぎない。 「エクスマキナ」で一躍気鋭監督となったアレックス・ガーランドの最新作であり、キャストも一流どころを揃えているにも関わらず、劇場公開が難航し、一転してNetflix公開となったこの映画の辿った道程の「理由」が、何となく見えてくる。 予算面含めて、もう少し製作環境が整っていたならば、それこそSF映画の新たな傑作になり得ていた可能性も感じるだけに、SF映画ファンとしては至極残念だ。[インターネット(字幕)] 4点(2018-06-04 17:25:00)《改行有》

354.  孤狼の血 「今」の日本映画において、ぶっちぎりに「熱量」が多い作品であることは間違いないし、こういう日本映画をもっと観たい。 が、しかし、熱量が高騰したことは認める反面、それが沸騰するまでに達したかというと、正直なところ疑問符が残る。 触れ込みの通り、往年の大傑作「仁義なき戦い」を彷彿とさせる作品ではあるが、その系譜の娯楽映画、即ちジャンル映画として、あらゆるしがらみから「脱却」しきれていないと、敢えて言いたい。 言い換えれば、色々な意味で、「丸裸」になり切れていないとも言える。 必ずしも、もっとエロく!もっとグロく!ということではなくて、ジャンル映画としての本質的な部分で、もっと脱ぎきってほしかった。脱がしきってほしかった。 敢えて表面的な部分を指摘するならば、そのままの意味合いに聞こえるかもしれないが、もっと「裸」を見せるべきだったと思うのだ。 傍若無人のマル暴刑事を演じた主演の役所広司にしても、妖艶さを振りまく真木よう子にしても、“こういう映画”で「裸」にならないのは如何なものか。 ましてやせっかくの“濡れ場”にも関わらず、松坂桃李を脱がさずに、おぼこいラブシーンに終始した演出には、「一体、どういうワケだ?」と監督を問いただしたくなる。 「暴力映画」として随所に振り切れているのだからそんなことは些末なことだと言う人もいるのかもしれないが、バイオレントシーンやグロテスクシーンにおいて白眉なものを見せてくれているからこそ、そういうあるべき娯楽要素の欠落に、何だか遠慮めいたものを感じてしまい、非常に勿体無く思えた。 それは、この映画が、「俺たちが観たい日本映画」を表現してくれているからこそ、発さずにはいられない“物言いだ”。 封切りから間もないが、どうやら日本映画としては異例の続編製作が既に確定しているらしい。 白石和彌監督が、これからの日本映画界を牽引していくべき中堅監督の一人であることは疑わない。 是非とも、「仁義なき戦い」の第二弾である「広島死闘編」並に遠慮なくブチ切れた続編を期待したい。[映画館(邦画)] 7点(2018-05-19 17:34:35)《改行有》

355.  トムとジェリー スパイ・クエスト 海水浴に訪れたトムとジェリーが、スパイキッズに遭遇し、世界征服を目論む秘密結社と対決する。 ストーリーのフィールドが大きくなって、毎度おなじみのドタバタが展開されるわけで、それ以上でもそれ以下でもなく、果たして映画と位置づけていいのかどうかも微妙だけれど、その身一つで、世界中のすべての子どもたちの目線を釘付けにするこのネコとネズミのスラップスティック・コメディ力は流石だ。 我が家の子どもたちもしっかりと釘付けだった、休日の束の間。[CS・衛星(吹替)] 4点(2018-05-13 23:59:12)《改行有》

356.  クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ 拉麺大乱 この世界は腹立たしい。「正義」を貫こうとすればするほど、怒りが膨れ上がる。 行き場のない怒りは、徐々に憎しみとなり益々世界は混沌とするけれど、それでは“相手”の思うツボ。 「じゃあ、どうすればいいんだ?」 “正解”ではなく、それだけではこの世界の問題は解消しないけれど、ひとつの“アンサー”をこの映画は導き出してみせている。 「クレヨンしんちゃん」映画を劇場鑑賞したのは実は初めてだった。 今作で26作目にも関わらず、鑑賞しているものは、第一作の「アクション仮面VSハイグレ魔王」と、傑作として名高い「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」くらいで、子供の頃からアニメ放映している世代としては馴染みが薄い方かもしれない。 「オトナ帝国」然り、作品によっては世の好事家たちも舌を巻く世界観を描き出してきたシリーズであることは勿論知っていたけれど、それでも何となく「ナメていた」部分は大きかったようだ。 結論を言うと、今作は凄く良い映画だった。完全にナメていた。 序盤から繰り広げられる“おバカ”カンフー映画テイストで、圧倒的大半を占める子どもたちを和ませつつ、カンフー映画世代の大人たちの“子供心”もしっかりとくすぐってくる。 映画作品26作にも渡って土壌を培ってきているわけだから、当然といえば当然だが、「クレヨンしんちゃん」の世界観だからこそ許されるハイテンションギャグとブラックユーモアを併せ持ったコメディ性のバランス感覚には、もはや老獪な安定感すら感じる。 破天荒な展開を突っ走って、しんちゃんとヒロインが取得した“必殺奥義”で悪党を倒して大団円〜、かと思いきや、まさかの展開が用意されていた。 クライマックスからエンディングに向けて、“行き過ぎた正義”がもたらす弊害と、“正義”という概念そのものが孕んでいるアンバランスまでを描き切る大胆さにまず感嘆した。 そして、その誰も解決の見出だせていない通念的な問題に対して、しんちゃん(かすかべ防衛隊)は、彼らならではの“アンサー”を堂々と示す。 そう、腹立たしいことの多い世界だけれど、“ジェンガ”を踊って戦争をすることは出来ないし、憎しみを抱くことすら馬鹿らしくなるということ。 その光景は、一寸「なんだソレ!?」と思ってしまうけれど、紛れもない真理であり、それを臆面もなく表現することができる彼らの姿に、心が洗われる。 「そんなことで問題は解決しない」と一蹴してしまうことはあまりに安易で愚かだ。そんなことは理解した上で、今作はこの顛末を描き出しているのだから。 “ジェンガ”を踊り続けるラストシーンは、ある種の異世界のように非現実的に描かれている。もしかしたらすべては傷ついた子どもたちの「空想」なのかもしれない。 では、その「空想」を「空想」のままにしてしまっていいのか?その問いは、この世界のすべての「大人」たちに突き付けられている。[映画館(邦画)] 8点(2018-05-06 21:53:17)《改行有》

357.  怪盗グルーの月泥棒 何だか知らぬ間に、ミッキーマウスやハローキティ並の大人気キャラクターになっちゃってる“ミニオンズ”。今更感は強いが、ミニオンズが初登場する今作を子どもたちと鑑賞。 なるほど、ミニオンズの造形や動きはユニークで、ポップアイコンとしての魅力は抜群だ。子どもや女性に人気があるのはよく分かる。 「その他」と言っちゃあなんだが、主人公グルーのビジュアルやキャラクター性も、アニメらしく過剰な娯楽性も含めて良いと思う。 少なくとも、共に鑑賞していた6歳と3歳の子どもたちは画面に釘付けだったので、アニメ映画として及第点だろう。 ただ、ピクサー映画やディズニー映画のように、老若男女が楽しめる映画かというと、その点は少々疑問だ。 キャラクターの造形が魅力的な反面、キャラクター性に説得力がない。 特に主人公グルーは、端々の描写から察するに、もっと心の奥底に「孤独」を抱えたキャラクターであるべきだったと思うが、今ひとつ真に迫ったものが伝わってこない。 彼がなぜ「月」に執着したのか?「母親」との関係性に鬱積があるのか?そういう主人公造形の核になるべき部分の描き込みが極めて軽薄で中途半端なので、あって然るべきののドラマ性が生まれていないと思う。 とはいえ、前述の通り“子供向け”だということを割り切れば問題はなかろうし、本来アニメとはそういうものだろう。 そして、“ミニオンズ”という人気キャラクターを生み出したことによる商業的成功も、賞賛すべきことなのだろう。[CS・衛星(吹替)] 6点(2018-05-05 20:21:58)(良:1票) 《改行有》

358.  ゴーストバスターズ(2016) 1984年の「ゴーストバスターズ」は、世代的に、少年時代にハリウッド映画に触れ始めたタイミングの作品でもあり、非常に馴染み深い。 個人的には、アメリカの娯楽映画とはこういうものと無意識レベルで植え付けられた映画とも言え、ある意味娯楽映画の“基準”となった作品だった。 「もの凄く素晴らしい映画!」ということでは決してないけれど、特に僕らの世代以上の映画ファンにとっては、“愛着”のある映画であったことは間違いないだろう。 そういう意味では、オリジナルキャスト達のカメオ出演や、あの愛すべきアイコン、そしてテーマ曲等の踏襲は、往年のファンとして少なからず“アガる”ポイントであったことは言わずもがななところ。 時代と、主人公たちのキャラ設定は変わっているけれど、NYを舞台にして、お決まりのテーマ曲、お決まりのロゴマーク、お決まりのコスチュームで、“ゴーストバスターズ”の面々が出揃った瞬間、「帰ってきた!」と高揚した。 しかし、だからこそ殊更に残念なことだが、今作には、そういった高揚感を映画作品として保ち続けるための魅力が備わっていない。 言うなれば、“リメイク”として、オリジナル作品にあった魅力を再現できておらず、無論それ以上の付加価値を見出だせていないということだ。 バスターズの面々の性別を変えて、現代版として焼き直すからには、何かしらの新しい価値観や、テーマ性を示してほしかった。 今作の監督+主演コンビで、結婚式にまつわる女性の親友同士の「本音」をドぎついコメディと下ネタで繰り広げてみせた「ブライズメイズ」は最高のコメディ映画だっただけに、その部分が期待はずれだったことはとても残念だ。 オリジナル版のビル・マーレイやダン・エイクロイドは、勿論コメディ俳優という領域を超えた「名優」だが、今作のクリステン・ウィグやメリッサ・マッカーシーも、今後同等以上の存在感を放つ可能性を持った女優だけに、彼女たちが弾けきれていないことが殊更に口惜しい。 “ソー”こと、クリス・ヘムズワース演じる“逆・紅一点”の秘書ケビンの常軌を逸した“脳筋”ぶりは可笑しかったけれど。[CS・衛星(字幕)] 5点(2018-04-30 00:54:58)(良:1票) 《改行有》

359.  未来警察 あのマイケル・クライトンのオリジナル脚本、そして自ら監督をした近未来SF。 生活の中に根付いたロボットが暴走し、人々を襲うというSF短編的なプロットに興味を引かれて鑑賞したが、良い意味でも悪い意味でも一風変わった映画だった。 まず、警察官が主人公なわけだが、制服から、警察署内の雰囲気に至るまで、まったく「未来」っぽくない描写が、期待感を削ぐと同時に潔く感じる。 そして、そのビジュアルの映画世界に対して、「未来警察」なんて殊更に違和感を生じさせるような邦題をつけちゃう日本の配給会社のセンスも、逆に潔い。 SFのベストセラー作家が描き出すに相応しいエスプリの効いたストーリー性を期待したけれど、悪党がロボット工学に長けているという設定以外は、概ねありふれた“刑事モノ”であったことが、意外であり、残念なところ。 襲いくるロボットの独特な気味悪さだったり、自動追跡銃のギミックなどについてはユニークだっただけに、娯楽性に優れた映画監督が指揮を取っていたならば、もう少しレベルの高いエンターテイメント映画になっていたかもしれない。 それこそ、「ジュラシック・パーク」同様にスティーヴン・スピルバーグが監督していたならば、映画史が変わっていたかもしれない!などという過剰な妄想を出来る程度には、妙な味のある映画だったとは言える。[CS・衛星(字幕)] 5点(2018-04-29 00:12:32)《改行有》

360.  映画ドラえもん のび太の恐竜2006 休日の昼間、子どもたちとの暇つぶしに鑑賞。WOWOWの特集放映を録り溜めていることもあり、ドラえもん映画鑑賞が日課になりつつある。 声優陣の切り替わり前の“旧ドラえもん”体制での作品群については、子供の頃からほぼリアルタイムで観ていたので、自分の子どもたちにもその面白さを知ってもらおうと、精力的に再鑑賞をしている。 一方で、新声優陣でのドラえもん映画については、“F先生”の「大長編ドラえもん」が原作でないことによるストーリーの稚拙さに満足しきれないことが多いため、“うたた寝上等”で気軽に観ていた。 ぐだぐだと何が言いたいかというと、要するに今作を「ナメていた」のだ。 12年も前に、これほど良質なドラえもん映画が創り出されていたとは。 正直言って、この映画はドラえもん映画としてはもとより、アニメ映画として確固たる「傑作」の部類だと思う。 よくよく考えれば当然のことである。 今作は、れっきとした“F先生”原作のドラえもん映画の記念すべき第一弾「のび太の恐竜」のリメイクなのだから、ストーリーテリングにおいては一定以上のクオリティが確保されている。そこに最新のアニメーション表現が加われば、そりゃあエキサイティングな映画になる可能性は充分にあったわけだ。 そういう可能性をまったく考えず、声優陣が変わったことによる安直な“食わず嫌い”と、「もう大人だから」という意味のないレッテルを自分自身に貼り付けて、今作を今の今まで観ていなかったことは、一ドラえもんファンとしてまったくもって恥ずべきことだった。 このドラえもん映画は、想像以上に真摯に原作(大長編ドラえもん)とオリジナル映画に向き合い、リスペクトをし、ただストーリーラインを踏襲するだけではなく、時代に相応しい新たな解釈や、最新の学術に即した恐竜の生態、そしてラストの描写の改変に挑んだ意欲的なリメイクだった。 特に、ラストの改変は素晴らしい。 原作漫画も含め、オリジナルでは、クライマックス後の物語の収束はほぼ“タイムパトロール”に委ねてしまっている。 勿論それは、限られた“ページ数”の中で、大スペクタクルを収めるためのF先生ならではの巧みさだったわけだが、今作はその部分の改変に、リメイクすることの「意義」を見出している。 悪党である恐竜ハンターたちを撃退しすべてが解決しても、のび太たちは「目的」に向かって歩き続ける。そしてついに、自分たちの努力のみで目的地に辿り着く。 この描写が加わったことで、この大冒険を経たことで彼らにもたらされた「成長」が浮き彫りになる。のび太が育てた首長竜“ピー助”が「成体」として育った様を丁寧に描いていることからもそれは明らかだ。 少年と異形の者との交流、“行って帰ってくる”というすべての物語の原型を敷いた冒険譚、それらすべてをひっくるめた「成長譚」としてのジュブナイル性が、「のび太の恐竜」という物語に新たな価値を生んでいる。 その他、意欲的なアニメーション表現についても枚挙にいとまがない。 部屋のサイズ感のリアルさ、超空間を漂う涙、時に敢えて“いびつ”に表現されるキャラクターの輪郭線、それらは一寸「違和感」にも感じたが、「ドラえもん映画」という枠組にありながら、それを越えんばかりの「独自性」を追求した成果として賞賛すべきだと思う。 子どもたちと共に鑑賞したその日の夜、一人再鑑賞に至った。 昼間は抑えていた涙を拭ったことは言うまでもない。[CS・衛星(邦画)] 9点(2018-04-28 21:09:57)(良:3票) 《改行有》

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