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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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341.  映画ドラえもん のび太の恐竜2006 休日の昼間、子どもたちとの暇つぶしに鑑賞。WOWOWの特集放映を録り溜めていることもあり、ドラえもん映画鑑賞が日課になりつつある。 声優陣の切り替わり前の“旧ドラえもん”体制での作品群については、子供の頃からほぼリアルタイムで観ていたので、自分の子どもたちにもその面白さを知ってもらおうと、精力的に再鑑賞をしている。 一方で、新声優陣でのドラえもん映画については、“F先生”の「大長編ドラえもん」が原作でないことによるストーリーの稚拙さに満足しきれないことが多いため、“うたた寝上等”で気軽に観ていた。 ぐだぐだと何が言いたいかというと、要するに今作を「ナメていた」のだ。 12年も前に、これほど良質なドラえもん映画が創り出されていたとは。 正直言って、この映画はドラえもん映画としてはもとより、アニメ映画として確固たる「傑作」の部類だと思う。 よくよく考えれば当然のことである。 今作は、れっきとした“F先生”原作のドラえもん映画の記念すべき第一弾「のび太の恐竜」のリメイクなのだから、ストーリーテリングにおいては一定以上のクオリティが確保されている。そこに最新のアニメーション表現が加われば、そりゃあエキサイティングな映画になる可能性は充分にあったわけだ。 そういう可能性をまったく考えず、声優陣が変わったことによる安直な“食わず嫌い”と、「もう大人だから」という意味のないレッテルを自分自身に貼り付けて、今作を今の今まで観ていなかったことは、一ドラえもんファンとしてまったくもって恥ずべきことだった。 このドラえもん映画は、想像以上に真摯に原作(大長編ドラえもん)とオリジナル映画に向き合い、リスペクトをし、ただストーリーラインを踏襲するだけではなく、時代に相応しい新たな解釈や、最新の学術に即した恐竜の生態、そしてラストの描写の改変に挑んだ意欲的なリメイクだった。 特に、ラストの改変は素晴らしい。 原作漫画も含め、オリジナルでは、クライマックス後の物語の収束はほぼ“タイムパトロール”に委ねてしまっている。 勿論それは、限られた“ページ数”の中で、大スペクタクルを収めるためのF先生ならではの巧みさだったわけだが、今作はその部分の改変に、リメイクすることの「意義」を見出している。 悪党である恐竜ハンターたちを撃退しすべてが解決しても、のび太たちは「目的」に向かって歩き続ける。そしてついに、自分たちの努力のみで目的地に辿り着く。 この描写が加わったことで、この大冒険を経たことで彼らにもたらされた「成長」が浮き彫りになる。のび太が育てた首長竜“ピー助”が「成体」として育った様を丁寧に描いていることからもそれは明らかだ。 少年と異形の者との交流、“行って帰ってくる”というすべての物語の原型を敷いた冒険譚、それらすべてをひっくるめた「成長譚」としてのジュブナイル性が、「のび太の恐竜」という物語に新たな価値を生んでいる。 その他、意欲的なアニメーション表現についても枚挙にいとまがない。 部屋のサイズ感のリアルさ、超空間を漂う涙、時に敢えて“いびつ”に表現されるキャラクターの輪郭線、それらは一寸「違和感」にも感じたが、「ドラえもん映画」という枠組にありながら、それを越えんばかりの「独自性」を追求した成果として賞賛すべきだと思う。 子どもたちと共に鑑賞したその日の夜、一人再鑑賞に至った。 昼間は抑えていた涙を拭ったことは言うまでもない。[CS・衛星(邦画)] 9点(2018-11-15 14:32:54)(良:3票) 《改行有》

342.  映画ドラえもん のび太の宝島 昨年は5歳の長女と一緒に映画館に赴き、実に15年ぶりにドラえもん映画の最新作を観たことが非常に感慨深かった。 そして、今年はそこに3歳の息子も加わり、封切られたばかりのドラえもん映画最新作を観に行った。 上映時間を確認すると2時間近くあり(映画本編は108分)、3歳児が大人しく観続けられるかいささか心配ではあったけれど、息子は、幼児故に座高が低くて前のシートが重なる視界の悪さを特に苦にすることもなく、終始しっかりとスクリーンを観続けていた。 その横顔を垣間見るだけで、映画好きの父親としては胸が熱くなったことは言うまでもない。 それに加えて、今作のテーマは“父子の絆”。必然的に涙腺は決壊寸前だったが、同じく親子連れで共に鑑賞していた高校時代からの友人の手前、落涙を必死に堪えた。後で聞くと、友人も同様に涙を堪えていたようだ。 新時代の「ドラえもん映画」として、完成度は極めて高かったと言っていいと思う。 “F先生”の崇拝者として、紡ぎ出されるストーリーそのものの根本的な深みの無さは、どうしても否めない。 けれど、そういったオールドファンをも充分に楽しませるエンターテイメント性と、最新鋭のアニメーションの力が、この映画には確実にあり、それはこの製作陣が真剣に「ドラえもん映画」に挑んでいることの証明にほかならないと思える。 前作でも感じたが、アニメーション表現の随所に見受けられる“ジブリ感”や“既視感”も、もはや「複製」や「類似」ということではないだろう。 新世代の若いアニメーターたちが、この国のアニメ文化が培ってきた素晴らしい名作とその表現方法やアイデアに対して、オマージュを込めて、新しい時代とそこで育つ子どもたちにしっかりと届けようとする熱い思いが伝わってくる。それは彼らにとっての「敬意」と「挑戦」の表れだろう。 (まさかドラえもんが“元気玉”と対峙するシーンが見られるとは!!) 3歳の息子は「また観に行きたい」と言い、6歳の娘は「泣けたー!」と言った。 自分を育ててくれたアニメーションが、時代や世代を超えてしっかりと継承され、工夫され、進化され、自分自身の子どもたちを同様に育ててくれていることに、僕は、父親として、映画ファンとして、ドラえもんファンとして、敬意と賞賛を惜しまない。[映画館(邦画)] 7点(2018-11-15 14:32:19)(良:1票) 《改行有》

343.  映画ドラえもん のび太のひみつ道具博物館 ストーリーのキーアイテムとなるシャーロック・ホームズセットをはじめ、コエカタマリンやらころばし屋なんかのマイナーなひみつ道具をピックアップしてくるあたり、現代の子どもたちをターゲットとしつつも、彼らを映画館に連れてくる僕たち往年のドラえもんファンに対してのサービス精神は豊富だ。 その他にも、頭上を越えていく“ザンダクロス”の巨体だったり、“どこでもドア第一号”などの描写は思わずニヤリとしてしまう。 そういう意味で、子どもも大人も楽しみがいのあるドラえもん映画であったことは間違いない。 だがしかし、小うるさい往年のドラえもんファンとしては、大きな物足りなさが残る。 それはやはり、ストーリーテリングの“踏み込み”の弱さだろう。 面白そうな掴みや、ギミックは散りばめられてはいるのだけれど、それらはすべて表面的な“ユニーク”さに終始しており、かつてのドラえもん映画に存在したワクワク感が感じられない。 そして、表面的な感動を追い求めた結果、あまりにウェットで安直な友情物語に着地してしまっている。 勿論、描かれているテーマ自体が悪いわけではない。むしろ、子供向けの友情物語であれば、これが真っ当な表現なのかもしれない。 ただ、のび太とドラえもんの間の「友情」って、そういうのじゃないだろう。と、思っちゃうんだからしょうがない。[地上波(邦画)] 5点(2018-11-15 14:29:05)《改行有》

344.  バーニング・オーシャン 人間が、「地球」を削り、築き上げてきた文明の上で被る災害のすべては、何がどうであれ「人災」と言えるのかもしれない。 この映画で描かれる実際に起こった“災害”にしても、もし人間以外の者が傍から見ていたならば、「自業自得」と断罪されても致し方あるまい。 ただ、たとえそうだとしても、生き抜くことに執着して、妻子の元へ戻ろうとする権利は誰にだってあり、そのために力を尽くすことこそが、我々人間の正しい在り方だと思う。 炎が燃え盛る海の上、ほんの数十分の間、それをやり遂げた“普通”の人間たちの、良いも悪いも人間らしい姿に胸を打たれた。 2010年にメキシコ湾沖で実際に発生した原油流出事故を描いた作品なので、良い意味でも悪い意味でも映画世界の表現は制限されている。 前述の通り、登場する人物は石油採掘施設で働く作業員をはじめとするごく普通の人々であり、絶体絶命の危機を奇跡的に打開するスーパーヒーローなどは存在するわけもない。 休暇が明け、至って日常的に現場業務に戻り、普通に就労する中で突如として事故が発生する。 マーク・ウォールバーグ演じる主人公は、献身的な言動をするけれど、決して過度ではなく、あくまでも現場の責任者の一人としての一般的な救出作業に留める。 一方、一応の悪役として存在するジョン・マルコヴィッチ演じる発注企業側の責任者も、分かりやすい悪人などではなく、自社の利益とその達成を任されている企業人としての役割を全うする“嫌われ役”程度に描かれる。 そういう展開的な派手さや、極端な人物描写が全くない分、事故そのものの原因と現実的な危険性が明確になり、とてもリアルだったと思う。 当たり前の光景を描きつつも、吹き出す炭酸飲料や、車のエンジントラブル、不吉な色のネクタイなど、ささやかな描写を連ねて、これから起こるであろう“不穏さ”をさり気なく表現した冒頭シーンも巧かった。 一方で、当然ながら特筆すべき劇的な展開が訪れないことも事実。 もしこの映画を、「災害パニック映画」として観てしまったならば、大いに肩透かしを食らうだろう。 冒頭からのストーリー展開はまさに災害パニック映画的だけれど、事実を描いている以上、似て非なるものと理解すべきだ。 故に、果たして商業映画として成立するほどの題材だったのかという疑問符は生じる。 マーク・ウォールバーグ、カート・ラッセル、ジョン・マルコヴィッチとスター競演のスペクタクル映画として宣伝したのであれば、物足りなさが残ることは否めない。 事実を歪曲する必要は全く無いけれど、例えばクリント・イーストウッドが旅客機の不時着事故を映画化した「ハドソン川の奇跡」のように、事故後の当事者たちの葛藤や人生模様まで描きこまれていたならば、今作はもっと良い映画になっていたと思う。 まあそういう“行儀のいい”ドラマ描写を極力避けて、石油プラントの大爆発炎上シーンに心血を注ぐあたりに、ピーター・バーグ監督の“らしさ”を感じるけれど。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-11-15 10:33:59)《改行有》

345.  おもひでぽろぽろ 晩夏の深夜。ふいに観たくなった“ジブリ作品”の中でもマイナーの筆頭とも言えるこの映画を、DVDで観る。 観る季節としては、とてもいいタイミングだと思う。 “マイナー”と言っても、この作品でさえ鑑賞回数の延べ数は2、3回では留まらないだろう。 だが、「良い映画」というものは、観るほどに深みが増すものだ。 そして、この作品の場合、歳を重ねたり、環境が変わるほどにその風合は大きく変わってくると思う。 詰まるところ、これまでの印象以上に素晴らしく良い映画だと思った。 27歳を迎える都会育ちのOLの心象を、小学5年生時の自分の「思い出」と共に描き出す。 時間の壁を懐古感と情感たっぷりに行き来するその描き方が、非常に巧みだ。 昔の自分を顧みるだけでなく、その心情を軸として現在と自分自身と向き合っていく様が、この映画をただの「昔懐かし映画」に留まらせていない。 小学5年生の自分、東京でOL暮らしをする自分、田舎生活を満喫する自分、様々な「自分」を見つめながら、新たな「自分」を見出していく。 この映画を初めて観たのは小学生の頃だが、その時はこの映画の持つテーマの意味合いなんて分かるはずもなかった。結果、“なんだか地味なアニメ映画”という印象が根強く残る。 でも、まあそれは仕方がない。 ある程度、観る者自身が歳を重ねないと、この映画が“物語るもの”に感情は反応しないだろう。 と、いうことを25歳になる年の夏に気づいた。 歳を重ね、思い出はあるときぽろぽろと降り落ち、自らの足元に積もっていく。 そういうものなのだと思う。[DVD(字幕)] 10点(2018-11-11 23:11:12)(良:1票) 《改行有》

346.  バーフバリ 伝説誕生 話題の超大作インド映画をようやく鑑賞。評判に違わぬ豪華さ、熱さ、美しさを堪能できる「流石、インド映画!」という仕上がり。 物凄い映像的物量を目の当たりにしながら、感覚としては、超豪華絢爛な舞台劇を観ているような特殊な娯楽的迫力が、この作品のパワーであり、あらゆる文化圏を飛び越えて観客を魅了する理由だろう。 インド映画の愛すべきところは、その「躊躇」のなさだと思う。 この国の映画は、描き出そうとする娯楽性に対して、てらいもためらいもない。 当然、今作も冒頭から躊躇はない。 ファーストシーン、祖国を追われた瀕死の女王が、激流に呑み込まれながら命をかけて赤子を守り切るのだが、その描写がいきなりぶっ飛んでいる。過酷な運命を強いる神に対して啖呵を切ったかと思えば、赤子を片手で水面から掲げて、なんとその姿勢のまま溺死する。「なんじゃそりゃ!」と思ってしまうが、この冒頭のシーンなどは文字通りの序の口なので、気にしてなどいられない。 その後も全編通して、主人公“バーフバリ”の3世代に渡る熾烈な宿命が、豪胆に、破天荒に描き連ねられる。 ストーリー展開においては、手塚治虫の「火の鳥」のようなダイナミズムと世代を渡って展開される運命模様も感じる。特に序盤の大滝を登っていくくだりは、「火の鳥 黎明編」のラストに着想得ているのではないかと思わせた。 アドベンチャーシーンから大合戦シーンまでアクション描写は多様で勿論迫力満点だが、今作で個人的に最も白眉だったのはロマンスシーンだ。 大滝を登りきり、見たこともない愛しき君にようやくめぐり逢えた主人公が、戦士であり激情的なヒロインの警戒心を華麗にかわし、包み込むように、美しき女性に導いていくシーンが何とも「素敵」だった。 躊躇なくあらゆる娯楽性を増し増しで盛り込んでいるからこそ、この映画は老若男女が様々な側面から楽しむことが出来得るのだろうと思う。 今作だけでも、物凄いエネルギーを見せつけてくれるが、それでもまだ二部作構成の続編に向けて「本領」を抑えていることは明らか。 俄然、完結編の鑑賞が楽しみになった。[CS・衛星(吹替)] 8点(2018-11-10 09:50:15)(良:1票) 《改行有》

347.  ヴェノム アメコミ映画が飽和状態で、食傷気味になりつつある中、今作が孕んでいたテーマとアイデアからは、充分に新たな独自性を放つ可能性を感じた。 そうきっぱりと断言できるくらい、“ヴェノム”というダークヒーローの存在感は魅力的だったと思う。 宇宙の果てから明確な“悪意”を持って地球に侵入した謎の生命体(実は負け犬)が、人生に打ちひしがれた主人公(もちろん負け犬)に寄生し、融合し、共に傍若無人で残虐な制裁を繰り広げるというプロット。 宇宙の片隅で奇跡的に混じりあった負け犬同士の“リベンジ”を描く物語構造は、間違いなく胸熱で、ボンクラ映画ファンを狂喜に包み込むだけの可能性を秘めていたと思う。 日本のポップカルチャーファンとして、そこに垣間見えたのは、「寄生獣」のおぞましさと、「ど根性ガエル」の可笑しさだった。 が、しかし、残念ながらこの映画が表現し得たのは、あくまでもその一端に過ぎず、随所に目を引く娯楽性は散見するものの、トータル的には、僕たちボンクラ映画ファンが求める娯楽性を突き詰め切れていなかった。 この映画に足りなかったものは明らかだ。 クライマックスに向けて、主人公とヴェノムの間に生じたのであろう互いに対する「信頼性」と「必要性」の描きこみが、全くもって希薄であったことに尽きる。 残虐で不可思議な宇宙生命体との間で「友情」なんてものを安易に描く必要はないけれど、“彼ら”が稀有な運命の中で邂逅し、反目と拒絶を繰り返しながらも、徐々にお互いを必要とするプロセスをちゃんと描いてほしかった。 それは、この映画にとって、ド派手なアクションシーンなんかよりもずっと重要なものであり、せめてあと2、3シーンでも彼らがキャッキャする様が軽妙な掛け合いと共に描きこまれていたならば、今作はもっとサイコーな映画になっていただろう。 また、「最も残虐な悪」なんて謳ってはいるけれど、その表現方法も極めて中途半端だった。 元々、スパイダーマンに登場するヴィランのダークヒーロー化なわけだから、ヴェノム自体を“純真な悪”として振り切って描くべきだった。 表向きには主人公との共存共栄を望んでいるようにみせて、実のところは主人公の心身を侵食し支配していくおぞましさを表現してほしかった。 そういうこの題材がもつツボをちゃんと理解し、それこそ「寄生獣」や「ど根性ガエル」すらもフォローするオタク魂全開で、映画世界を構築することが出来る人が監督を担っていたならば……極めて“好物”な雰囲気を醸し出していただけに、口惜しくてならない。[映画館(字幕)] 6点(2018-11-10 07:34:25)《改行有》

348.  タリーと私の秘密の時間 《ネタバレ》 長女7歳、長男4歳を持ち、共働きの妻とともに、“子育て”をしてきたつもりの父親(自分)にとっては、問答無用に身につまされる作品だったことを、先ずは認めなければなるまい。 日本語タイトルに「時間」という言葉が使われているが、子を育てる、つまりは「親」という立場で生活を送ることにおいて、母親と父親ではまさに「時間」という概念の在り方と、体感が全く異なるのだと思う。 それくらいに、子育てにおける母親と父親の負担は、アンバランスだ。 僕自身そうなのだが、恐らく世界中の殆どの“父親”は、そのことを半分気がついてはいるけれど、目を伏せ、耳をふさぎ、気がつかないふりをしている。 この映画は、シャーリーズ・セロン演じる主人公の母親と、とある“ナイトシッター”との交流を描く物語だ。 日本では殆ど聞き馴染みがないが、“ナイトシッター”とは文字通り母親の就寝時間に乳幼児の見守りと世話をしてくれるベビーシッターとのことで、欧米ではポピュラーになりつつあるらしい。 ナイトシッターの“タリー”は、毎晩22時過ぎに訪れる。そのため、今作は必然的に「夜」のシーンが圧倒的に多い。 だがしかし、この映画の各シーンは、「夜」であるという“意識”を意図的に避けるかのように、明るく、温かく、色鮮やかに映し出される。 したがって、観客は知らず知らずのうちに、育児ノイローゼで疲弊した主人公の心労が、“タリー”の存在によって癒やされ、回復していっているものだと、疑う余地もないくらいに……“刷り込まれる”。 結果、観客にも、主人公本人にすら、夜を夜と感じさせないことが、逆説的にこの物語が孕む普遍的な深刻さと問題の重さを表していた。 監督は、「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」のジェイソン・ライトマン。両作とも脚本を担ったディアブロ・コディとの三度のタッグによる作品世界の安定感は抜群で、ストーリーテリングは勿論のこと、映画作りが流石に巧かった。 序盤から、“上手な映画”の心地よさを堪能することができた。 そしてなんと言っても、シャーリーズ・セロン姐さんの、演技力、存在感、役作り、それらすべてをひっくるめた「女優力」が相変わらず物凄い。 彼女は、3人目の子を妊娠・出産する母親役を演じるにあたり、約20kg増量したという。 前作が昨年公開の大傑作アクション映画の「アトミック・ブロンド」だっただけに、その“体格差”に只々愕然とせざるを得ないし、見事すぎる程に体を仕上げ、全く異なる女性像を体現しきった様には、感嘆するしかない。 驚きの顛末と共に描き出された「真相」の正体が、あまりにも普遍的でありふれた課題だったからこそ、この映画表すテーマ性は非常にヘヴィーだ。 親になり、子育てという営みに向き合う以上、きっとこの課題が丸々解消されるなんてことはあり得ない。 ただし、それを分かち合い、共有することはできる。 閉鎖的なヘッドホンを外し、隣り合ってイヤホンを共有するだけで、たぶん大抵のことはうまくいく。ということを心に刻み、ひたすらに猛省&猛省。[映画館(字幕)] 8点(2018-11-07 22:39:20)《改行有》

349.  ドント・ブリーズ “最凶盲目爺さん”が織りなす恐怖と狂気。貧困による若者の絶望と犯罪。 デトロイトを舞台にして、現代社会が抱える“病”とそれに伴う“鬱積”が、一軒の古屋敷の中で渦巻き、恐怖と悲劇のるつぼと化しているようだった。 両者に同情の余地はあり、だからこそ両者ともに罪と罰を叩きつけられる。完全に是となる者が存在しないサスペンスホラーの構成が新しい。 盲目の屈強な老人が、暗闇の中で襲ってくる様は、恐怖体験としてフレッシュであり、その“モンスター性”にも独自性と魅力があったと思う。 “悪しき者”のアンチヒーロー化は、実にサム・ライミ(製作)らしいと思えた。 盲人役を演じたスティーヴン・ラングは、「アバター」で悪役軍人を憎らしく演じた様が印象的に記憶に残っているが、あの軍人が盲目になって襲ってくると想像すると、そりゃあ恐ろしい。 というわけで、盲目の老人が襲ってくるというアイデアを礎にして、アクション性とサスペンス性を散りばめた上で、確固たるホラー映画として成立させていることは、映画作品としてとても独創的だったとは思う。 ただし、ストーリー展開的には、どうしても粗というか、無理が生じていることを否めない。 逃げ場がないとはいえ、舞台は一般的な家の中なわけだから、いざとなったら如何様にも脱出は可能に見える。 盗み目的で侵入した若者たちが、自ら積極的に袋小路に入り込んでいるように見え、序盤から「お前らは馬鹿なのか?」やや鼻白んでしまった。 そして、最凶爺さんの方も、流石に超人的すぎてリアリティラインの境界を見失ってしまった。 元軍人という設定で、身体的な能力の高さや、玄人的な銃器の取り扱い、殺人に対する躊躇いのなさ等は理解できるが、盲目の状態であのような異様で綿密な“企み”を遂行できるわけがない。 ただシンプルに、実は何人もの侵入者を返り討ちにしていたということであれば許容範囲だったが、あそこまでいっちゃうともはやファンタジーだ。 まあしかし、そのぶっ飛び方が良い意味でも悪い意味でも常軌を逸しているポイントであることは確かで、それが老人のモンスター性を高めているとも言える。 もはや彼は、憎しみの権化として「人間」という領域を逸脱した悪魔的な存在であり、それを劇中で速やかに呑み込めさえすれば、心ゆくまで楽しむことができる恐怖映画だと思う。 僕自身は、そのリアリティラインの境界を呑み込みきることが出来なかったので、完全にこの映画を楽しみきるには至らなかった。 けれど、悪魔的な存在性へと高まった盲目爺さんが、主人公を追ってカリフォルニアで新たな恐怖を展開する“逆・ホーム・アローン2”的な続編があるのならば、それはそれで観たい。[CS・衛星(字幕)] 6点(2018-11-04 21:00:53)(良:1票) 《改行有》

350.  アンダー・ザ・シルバーレイク 久しぶりにイカれた映画を観たな。と、新宿バルト9を後にした。 “ヒッチコック+リンチ=悪夢版ラ・ラ・ランド”的な寸評コメントは、やや安直にも聞こえるが、確かにそう感じずにはいられない空気感が随所に感じられた。 二十歳になったばかりの頃に観たデヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」鑑賞後の困惑を彷彿とさせられた。 ただ、「マルホランド・ドライブ」ほど難解で手がつけられないということではなかった。 ストーリーテリングはいかにも混沌としているけれど、紡ぎ出された事の真相と顛末は意外にシンプルだった。 三十路を過ぎて、恋に破れ、夢に破れ、己の人生を見いだせないまま空虚な生活を送る主人公が、不意に訪れた出会いと喪失に端を発して、盲目的に、破滅的に、人生の意義を掴み取ろうとする話。 主人公は、或る種の強迫観念にせっつかれるように、世の中に渦巻く(かもしれない)陰謀論と暗号の解読に、自分の“居場所”を見出そうとするわけだ。 結果として、確かに暗号はあった。そして、主人公は自分の知り得なかった世界を垣間見る。 しかし、それだけだ。 暗号を解き、この世界に隠された理を知ったところで、そこに彼の居場所はなかった。彼はその真理を思い知り、打ちのめされる。 果たして、彼は、この淫靡で妖しい冒険を経て、何かを得られたのだろうか、空虚な自室を出て、新たな世界を踏み出せたのだろうか……。 当然ながら、このヘンテコリンな映画が分かりやすいハッピーエンドを描くわけもなく、熟女とのセックスの後に気だるく佇む主人公の姿を映し出し終幕する。 カオス。しかし、この“混沌”は映画世界と現実世界の境界線を、フクロウ女のように奇妙に、強引に、越えてくる。[映画館(字幕)] 8点(2018-10-30 22:31:17)《改行有》

351.  陸軍中野学校 竜三号指令 大日本帝国陸軍時代に実在したスパイ養成機関出身の諜報員たちの姿を描いたシリーズ第三弾。 主人公椎名次郎が、戦禍に向けて混沌が加速する上海の地で、危険な諜報任務を繰り広げる。 一作目、二作目と、諜報員としての才覚と経験を高めてきた椎名次郎が、ついに本格的なスパイ活動を展開していく様は、先ず単純に娯楽性が高い。 「007」とまではいかないが、“M”的存在の草薙中佐から秘密道具的なガジェットも提供され、窮地に陥った主人公がその秘密道具を駆使して危機を回避する描写は、「地味」ではあるが、なかなか楽しい。 そして、やはり主演俳優市川雷蔵の存在感が光る。 シリーズ三作目にして椎名次郎像もすっかり板についた様子で、常に淡々と立ち回りつつ、己の職務と宿命に全うする様は哀愁にあふれている。 今作では、敵地に潜入するために地元中国人に扮して関所を通り抜けるシーンがあるが、その際に見せる聾唖ぶりが巧みだった。 時は大戦前、椎名次郎をはじめとする諜報部員たちは、国際的対立を何とか水面下で収束させるために命をかける。 今作でもまた幾つもの屍が主人公の前に横たわる。しかし、その犠牲も虚しく時代は世界大戦への突き進んでいく。 スパイ椎名次郎の苦闘は続く。[CS・衛星(邦画)] 7点(2018-10-17 15:18:21)《改行有》

352.  イット・フォローズ 概念的な死生観そのものを「それ」と表現して、確かにそこに存在するのに正体が明らかにならない「恐怖」のメタファーとして描き出したホラー映画であることは理解できる。 しかし、ハイティーンの主人公の目線を主眼として、こんこんと紡ぎ出されたそのテーマ性が、ストーリーの中で最終的に腑に落ちず、靄々としたままエンディングロールを見送ることになってしまった。 “新しい視点”のホラー映画だと思うし、面白くない訳ではないけれど、恐怖映画が苦手なため評判の良さを耳にしながら後回しにしつつ、いたずらに期待感を膨らませ過ぎてしまったことが良くなかったと思う。 やはりこういう映画は、空いた時間にたまたま入った映画館や、眠れない夜にふと見始めた深夜放送で観た時に、最良の映画体験となるものだと思う。 思うに、この映画は主人公らの“お年頃”同様に、ティーン・エイジャー向けの、いやティーン・エイジャーのためのホラー映画なのではないか。 確実に意識的にだろうが、この映画のストーリー上に「大人」が直接的に絡むことが殆ど皆無であることからも、それは明らかだ。 この映画で描き出される「恐怖」の根幹にあるものは、「性」即ち「セックス」との距離感と、意味合いが、より強い年頃の若者たちの中に渦巻く不安定さや曖昧さに直結するものなのだと思う。 セックスという行為に触れることで露わになる自分自身の“生物感”と“不確定要素”。 それは人間としての経験が浅く、故にその行為そのものに対して憧れや畏怖、不安などといった様々な感情が渦巻く若者だからこそ鋭敏に感じ取れてしまう「恐れ」なのではないか。 このホラー映画における「それ」とは、まさにその得体の知れない曖昧な「恐れ」のことだったのではないだろうか。と、思う。 だからこそ、とうの昔に大人になり(別にセックスに精通しているとは言わなけれど)、少なからず何かしらの経験を重ねて、子どもまで生まれてしまった自分には、この映画で表現される恐怖の正体について理解めいたことはできるものの、実体感を感じることが出来なかったのだと思う。 したがって、「それ」という表現から滲み出る曖昧さ自体に対して靄々した感情が拭えず、物語上の整合性の欠如や、論理性の脆さが、雑音として響いてしまった。 しかし、この映画が新しい視点とアイデアを礎にしつつ、或る世代における普遍的な「畏怖」を具現化したチャレンジングなホラー映画であることは間違いない。“或る視点”の映画として、長く評価される作品だとも思う。[インターネット(字幕)] 6点(2018-10-17 09:14:46)《改行有》

353.  メカニック:ワールドミッション 「お粗末」という言葉がこれほどしっくりくる映画も久しぶりである。 個人的に前作は想定以上の満足度を得られた快作だっただけに、極めて残念だ。 往年のスター俳優チャールズ・ブロンソン主演による1972年の同名作のリメイクだった前作は、現役アクションスター界のトップランナーであるジェイソン・ステイサムの抜群のアクション性と独特の男臭さが、孤高の暗殺者という役柄にマッチした意外なほどに上質なアクション映画だった。 ステイサム版鑑賞後にブロンソン版を鑑賞したが、リメイク版の方がアクション映画としてのクオリティは高かったと思う。 前作の最大の面白味は、なんと言っても超一流の暗殺者である主人公が貫く“殺し方の美学”だ。 出来る限り「暗殺」であることを周囲は勿論、殺される当人にすら気づかせないように、「仕事」を遂行する。 マシーンの綿密な設計図のような計画表を打ち立てつつ、それを淡々と速やかに実行する様は、まさに“メカニック”。 己の生活空間を含め、あらゆる物事の細部に至るまで徹底した拘りを見せる主人公の佇まいは、一見無骨なように見えるけれど、どこか気高さと気品を併せ持つこの英国俳優だからこそ表現し得た存在感だった。 しかし、残念なことに今作では、その最も重要視すべき主人公のキャラクター性が、尽くないがしろにされている。 計画性が全く無いとは言わないが、前作で堪能できた殺しの美学は早々に影を潜め、行き当たりばったりの雑なアクションが繰り返される。 そもそもストーリーテリング自体が極めて陳腐。序盤に展開される“バケーションシーン”は全くもって無意味であり、前作の成功により得られたであろうバジェットを垂れ流していると言わざるを得ない。 やはり、先ず何よりも初めに、前作同様に主人公の完璧な“仕事ぶり”を見せて、暗殺業を引退した筈の彼が一体なぜそんな仕事をさせられているかを遡って見せれば、この主人公のキャラクター性を再確認させられたし、ストーリー展開としてもスマートだったと思う。 これもバジェットの増大によりキャスティングできたのであろうが、ジェシカ・アルバも、ミシェル・ヨーも、トミー・リー・ジョーンズも、使われ方が尽く雑であり、勿体ないの一言に尽きる。 ジェイソン・ステイサムは、アクションスター苦難の時代にあって存在感を放っている数少ないスター俳優の一人だと思うが、必然的に低予算の出演映画が多いため、決して良作揃いの俳優というわけではない。 そんな中で、前作の成功ポイントを全く理解していない愚かなスタッフにより、期待の続編が低レベルのお粗末映画に終始してしまったことはあまりに残念だ。 散々な映画だが、ジェシカ・アルバ嬢のカワイイお尻に免じて+1点。この女優も相変わらず作品に恵まれないな。[インターネット(字幕)] 3点(2018-10-16 17:43:42)《改行有》

354.  陸軍中野学校 市川雷蔵演じる主人公の渇いた物腰が、この映画が醸し出す空気感のすべてを体現している。 その様は、とても整然として美しい反面、おぞましさと狂気がふいに顔を見せる。 この男は一体何を考えているのか。 ストーリーの進展と共にそれは絞り込まれ明らかになってくる筈なのに、クライマックスに突き進むほどに、彼の心情は靄がかかるように見えなくなるようだった。 それは即ち、主人公・三好次郎もとい椎名次郎が、本物のスパイに成った表れだったのかもしれない。 スパイ・椎名次郎は、僅かに残っていた愛する者への情を、使命という名の非情で闇の中に埋め込み、世界の混沌へと歩み出していった。 実在したスパイ養成所「陸軍中野学校」の実情を描いたこの50年前の映画は、決して一筋縄ではいかない娯楽性と狂気性が入りじ混じっている。 描き出される時代と舞台に共鳴するように、この映画そものものが非常に混沌としている。 ただし、混沌としてはいるが、難解なわけではない。映画としては、娯楽作品としての立ち位置をきちんとキープしている。 それはまさしく、往年の日本映画界の底の深さであり、ただ凄い。 美しき能面のような主人公が、この先どのような“表情”を使い分けて、スパイという生き方を全うしていくのか。 そして、彼が手繰り寄せるのは、世界の平和か、それとも更なる混沌か。 この後のシリーズ作品を観ていくのが、楽しみでもあり、恐ろしくもある。[CS・衛星(邦画)] 8点(2018-10-16 15:50:21)(良:1票) 《改行有》

355.  グーニーズ 1985年公開のこの有名すぎるアドベンチャー映画を、1981年生まれの自分がこれまで観ていなかったことには、何とも縁がなかったものだなと思う。 公開当時は4歳。劇場で観ることは出来なかったとしても、当然ながら何度もテレビ放映していただろうし、レンタルビデオで観る機会もいくらもあっただろう。全く縁遠いまま随分と大人になってしまったものだ。 先ず感じたことは、この映画をもし自分が4〜5歳の頃から繰り返し観ていたならば、きっと自分にとってもっと特別な映画になっていただろうなと思う。そういう可能性は大いに感じた映画だった。 スティーヴン・スピルバーグとリチャード・ドナーが組み、更にはクリス・コロンバスが脚本を担った今作は、オープニングクレジットから極めてテンポの良いエンターテイメント性に溢れている。 娯楽映画の玄人たちが生み出したそのテンポの良さは最初から最後まで一貫して、飽きさせることなく観客を映画世界に引き込む。 物語自体は、まったくもって荒唐無稽な絵空事でありながら、少年たちの葛藤を礎にしたジュブナイルとアドベンチャーを全面に描き出し、映画世界を成立させていることは、ひとえにスピルバーグをはじめとする超一流の映画作家たちだからこそなせる業だろう。 登場人物たちも、善玉悪玉問わずみな愛らしい。 特に、主人公のマイキーを演じるショーン・アスティンが何ともキュートだった。 この映画の往年のファンは、「ロード・オブ・ザ・リング」のサム役でショーン・アスティンが再び大冒険を繰り広げる様を見て、殊更に感慨深かったことだろう。 風貌はだいぶ変わってしまったけれど、彼が放つ仲間たちに愛される存在感は変わっていないもの。[インターネット(字幕)] 7点(2018-10-16 15:37:19)(良:1票) 《改行有》

356.  エスター 《ネタバレ》 長年に渡って各方面からの好評は当然耳に入っていたものの、ホラー映画が大の苦手なので、常に“鑑賞予定リスト”に入りっぱなしだった今作をようやく鑑賞。 当然ながら序盤からビクビクしっぱなしで、恐怖感と不穏感をこれでもかと煽る演出と、卓越した画作りは際立っていたと思う。 基本的なプロットとしては、ホラー映画の傑作「オーメン」を彷彿とさせる。ただ、描き出される物語の本質は、現代社会と、或る夫婦間における普遍的な「鬱積」を炙り出しており、主人公と同様に二人の子を育てる同世代の者としては、殊更に映画世界が醸し出す居心地の悪さと不気味さを感じずにはいられなかった。 決して著名な監督が手がけていたり、有名な俳優が出ているわけでもない極めてミニマムなバジェットのホラー映画でありながら、評判通りに独自性に溢れた恐怖感を生み出す映画ではあったと思う。 しかし、ある意味致し方ないことではあるのかもしれないが、“ネタバレ”以降のクライマックスにおける恐怖感は、それまでに比べて著しく急降下してしまっていることは否めない。 “エスターは実は○○でした!”という真相は確かに衝撃的だけれど、それを突きつけられた途端、得体の知れない不穏な恐怖感は一気に霧散した。 その真相は、ある意味では確かに恐ろしいけれど、裏を返せば、ただただ“イタい”浅はかな狂った女の凶行にしか見えず、一旦そういう見え方をしてしまうと、この映画が行きつく顛末も容易に想像できてしまう。 作風に同じ匂いを感じた「オーメン」は、“オーメン”の天性的な悪魔性と表現した演出同時に、彼を「悪魔」の権化として捉えてしまう要因が、主人公夫婦をはじめとする周囲の人間の精神的な脆さにも起因するのではないかという疑念を絡ませたストーリー展開が極めて巧かった。 今作に隠された「真相」の部分が決して悪いとは思わないが、そういうことなのであれば、もっとエスターの言動は天才的に狡猾なものとして描き出されるべきだったのではないか。 すべての言動があまりにも子ども臭く、そもそも狂人であったとしても、もう少し上手く世渡りしろよと、いらぬ感情を抱いてしまう。 “ネタバレ”された瞬間に、そういった点での符号が成されなかったことが、ホラーとしても、サスペンスとしても、非常に残念だったと思う。 まあ、同じ人の親として口幅ったく言わせてもらうならば、実子たちの瞳に滲み出ている明確な「恐怖」を感じ取れていない時点で、主人公夫婦は「親失格」だったと断言せざるを得ない。 そういう意味では、不気味すぎるエスター役の子よりも、勇敢なマックス役の子の女優としての表現力の確かさの方が凄いと思える。[インターネット(字幕)] 6点(2018-10-02 19:00:16)(良:1票) 《改行有》

357.  ゲット スマート よくあるタイプのスパイ映画パロディのコメディ映画だろうなと思いつつも、方々から意外な程の好評も耳にする作品だったので、期待を膨らませてようやく鑑賞した。が、正直な感想としては、“よくあるタイプのスパイ映画パロディのコメディ映画”だった。 公開から10年間に渡って、無意味に期待感を膨らませ過ぎてしまったのかもしれない。 そもそも映画という娯楽においてほとんどのジャンルは、良作であればあるほど、国や文化の違いを超えて受け入れられるものだが、「コメディ」というジャンルだけは、時に良作であればあるほど、文化の違いによりウケ方が全く異なることは多々ある。 繰り広げられるコメディ描写に対して、愉快ではあったけれど、心から笑いきることができなかったことは、この映画の敗因ではなく、僕自身の敗因だろう。 映画の中で殆ど笑顔を見せない演技で観客を笑わせるスティーヴ・カレルは優れたコメディ俳優だと思うし、もはやスキンヘッドの印象しかないドウェイン・ジョンソンの“髪型”にも笑ってしまった。 そして、個人的には、この映画のアン・ハサウェイだけはずっと見ていたい。[インターネット(字幕)] 6点(2018-10-02 18:11:51)《改行有》

358.  続・深夜食堂 漫画「深夜食堂」と、ドラマ版「深夜食堂」の大ファンである。 一人飲みの際には、最高の「肴」となる世界観を映画化してくれたこと自体は嬉しかったが、必然的な物足りなさを前作には感じた。 深夜帯の限られた時間の中でまさに“つまむ”ようにミニマムな人間模様に触れられることが「深夜食堂」の醍醐味であり魅力であると思う。 しかし、映画化により長編となることで、その醍醐味が明らかに薄れてしまう。 前作はそれでも、多部未華子というこの作品世界に相応しい“華”や、舞台が“めしや”の「2階」の描写により、世界観が文字通り立体化したという映画的な価値があった。 でも、この続編ではその映画ならではの舞台設定を闇雲に広げすぎてしまっており、肝心の“めしや”の外でのストーリー展開が多すぎる。ファンとしては、これでは「深夜食堂」で描く意味がないなと思わざるを得ない。 必然的に、ストーリー上においても、“めしや”のマスターが作るメニューが主体になっていないので、このシリーズならではの「味わい」が殆ど無くなってしまっていると思う。 詰まる所、一見では人情映画を作るのに最適な素材のように見えるけれど、数ページの漫画や、30分以内のドラマ枠だからこそ、その味が深まる世界観なのだと思う。 それは、他愛のないメニューであっても、あの空間で、あのマスターが作るからこそ、「美味い!」と足を運ぶ“めしや”の常連客たちがもっとも理解することだと思う。[CS・衛星(邦画)] 4点(2018-10-02 17:41:03)《改行有》

359.  エージェント・ウルトラ 公開前に予告編を観たときは、とても興味をそそられた。ヒョロガリのコンビニ店員が実は殺人マシーンでした!という設定は、良い意味で馬鹿らしくて、それだけでイントロダクションとしての娯楽性は備わっていると思えた。 そしてそれを演じるのがジェシー・アイゼンバーグというのも注目ポイントだった。この若手実力派の最筆頭とも言える俳優であれば、完全なダメ男ぶりと、実は秘められた狂気性を、一人の人物像の中に同居させ表現し得ることは容易に想像できた。 想像通り、ジェシー・アイゼンバーグの滲み出る狂気性は、主人公のキャラクター設定と合致しており良い。 陰謀によって生み出された悲しき“殺人マシーン”と、彼を支える恋人との逃避行は、古典的でありふれたアイデアのようにも感じるが、ストーリーの紡ぎ方自体には新しさがあった。 少なくとも、個人的には嫌いじゃない映画的雰囲気が醸し出されていたとは思う。 ただし、最終的に面白い映画だっとは言い難く、この手の映画でそういう印象を持たせてしまった以上は、「失敗作」と言わざるを得ない。 つくり手の思惑としては、「ボーン・アイデンティティ」的なキャラクター設定をベースにしつつ、「キック・アス」的な悪ノリのバイオレンスアクションを展開し、「スーパー!」的なマンガ的で悪趣味なポップさを充満させた映画世界を構築したかったのだろう。 その趣向自体は伝わってくるし、部分的には理解できる。 が、結局の所、映画としてのクオリティの低さが致命的だったと思う。 そもそもの発端となる陰謀めいたものと、黒幕であるCIAの首謀者たちの愚行ぶりが、あまりにもおざなりで目に余る。 悪ノリだろうが、悪趣味だろうが、根本的な話作りが滅茶苦茶なので、致命的な雑音となりストーリーに入っていくことができなかった。 娯楽映画として面白ければ、当然続編にも期待したい終わり方だったけれど、このクオリティの映画にジェシー・アイゼンバーグを続投させることはあまりに勿体ないので、止めたほうがいい。[インターネット(字幕)] 5点(2018-10-02 17:11:48)(良:1票) 《改行有》

360.  マリアンヌ 《ネタバレ》 戦争の狂気と愚かさの中で生まれた儚くも本物の愛。 諜報員としての「業」を背負った彼らは、おそらくはじめからこの平穏が永く続かないことを、心の奥底では覚悟していたのだろう。 冒頭から二人の瞳には深い闇が宿っていて、それは戦火の混沌の中を生き抜くために、彼らがそれぞれに犯してきたであろう「罪」を暗に示していた。 そんな彼らが、共に生存する可能性はほぼ皆無だったあの“出会いの作戦”で、必死に手繰り寄せた安息の日々。 それは、モロッコの砂嵐の中で愛し合った二人による、己の運命に対する抗いだったのだ。 極めて古典的なプロットを敢えて今の時代に映し出したロバート・ゼメキスの巨匠ぶりが冴え渡っている。 当初はおおよそゼメキスらしくない作品のチョイスに思えたが、近年の監督作品の系譜を振り返ってみれば、そのテーマ性は一貫している。 「フライト(2012)」にしても、「ザ・ウォーク(2015)」にしても、主人公が自らの人生の業と向き合い、運命に挑む様を描いた力作だった。 決して清廉潔白ではない主人公の生き様を、卓越した画作りと共に映し出し、見事な映画世界を構築し続けている。 主人公の夫婦を演じるブラッド・ピット、マリオン・コティヤールの演技も素晴らしい。 自らの運命に対する抗いを内に秘め、終始疑心と不安を携えつつも、それらをすべてひた隠し、必死に平穏を追い求める悲しき夫婦像を演じきっている。 サスペンスとラブロマンスを巧みに散りばめたストーリーテリングは、映画という娯楽の極みのようであり、「いい映画を観たな」という率直な満足感に満たされた。 物語は悲劇的な終焉を見せるけれど、マリアンヌが死の間際に思い描いた父娘の姿は、きっと深い愛を噛み締めて「生」を紡いでいたと思う。 彼女は、その充足感と多幸感に包み込まれながら、引き鉄を引いた。そう信じたい。[インターネット(字幕)] 9点(2018-09-28 23:27:10)《改行有》

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