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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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561.  海街diary 「家族」って、とても面倒なものだ。でも、だからこそとても愛おしいものなのだとも思う。 私的なことだが、今年自分自身が家を建てることもあり、いつになく自分の家族や親戚とコミュニケーションを取らなければならないことが多い。 それ自体は、至極当然のことであり、幸福なことであるはずだけれど、そのコミュニケーションの中で、時折、いや頻繁に、自分自身が生まれ育った家族が見せる“弱さ”や“無理解”に対して、寂しさと憤りを感じる。 それは、僕自身の“弱さ”と“無理解”が露呈し、合わせ鏡のように相手に写っている結果であることは重々承知している。 ただし、それらを認め、何の不満もなく素直に受け入れられるほど、僕も、家族も、完璧なわけではない。 「家族」の中の些細な“ほつれ”は、そのまま些細なものとして消え去ることもあるし、小さな不満が募り不幸を呼び寄せてしまうこともあるだろう。 「家族」の形態は様々だけれど、ほとんどすべての人達は、そういう普遍的な危機感を孕んだ危ういバランスの上で、小さな人間関係を築き、支えあっているのだと思う。 随分と愚にもつかない前置きが長くなってしまったけれど、詰まるところ、この映画は、“四姉妹”を中心とした、「家族」の物語であり、穏やかで優しい時間の流れの中で、彼女たちが根本的な部分で持ち続ける人生の“苦味”を垣間見せる傑作であると思う。 普遍的な人間関係の機微を、極めて細やかに、それでいて卓越した技量で描き出したこの映画は、一つ一つのシーンの意味を言及するほど野暮になる。 ただ、最初から最後まですべてのシーン、すべてのカットが、映し出された瞬間に「名作」のそれだと分かる。 当然ながら、四姉妹を演じた4人の女優は、みんな素晴らしかった。 一見、人気漫画の映画化に際して人気女優たちを集めただけのようにも見える。しかし、実際にこの映画世界の中で息づく彼女たちは、“四姉妹”以外の何者でもなく、それぞれが息づく様をずうっと観ていたくなる。 この奇跡的なキャスティングそのものに幸福感すら覚える。ただそれも、一流の監督のなせる技なのだろう。 4人揃って砂浜を歩いていく姉妹たちの道程は、きっとこの先枝分かれしていく。 その度に彼女たちは、時には「面倒」と思いつつも、悲しみつつ、怒りつつ、相手のことを思うのだろう。 それはきっと、正しい家族の在り方の一つなのだと思う。[映画館(邦画)] 10点(2015-07-10 23:19:36)《改行有》

562.  マッドマックス 何というアタマの悪い映画だろうか。 登場するキャラクターも、製作チームも、この映画を愛する観客たちも、揃いも揃って「なんてアタマが悪いんだ!」と思わざるをえない。良い意味でも悪い意味でも。 バイオレンスアクションの金字塔としてあまりにも有名な映画だと思うが、世代的な要因もありこれまで未見。今夏の最新作“怒りのデスロード”を観てから初めての鑑賞に至った。 全世界においてカルト的な人気を誇るこの映画を初めて観た率直な印象を先ず一言で述べたい。 「クソ映画」だなと思った。 はっきり言って、支離滅裂でいたたまれない愚鈍な映画世界に対して、居心地の悪さしか感じなかった。 何と言っても我慢ならなかったのは、傍若無人・極悪非道の悪党どもよりも誰よりも、主人公とその妻の著しく生存本能に欠けた馬鹿さ加減に辟易してしまい、冷めてしまった。 満を持して観た映画史上に残る傑作に、全くハマることが出来なかったことは、至極残念に思う。 ただ、それは映画を観るという行為において致し方ないことだとも思うし、だからと言って、この映画が世界中から愛され続けていることに対して疑問を感じることはない。 自分なりに長らく映画を観てきて思うことは、「カルト映画」と「クソ映画」の差は紙一重というか、むしろ同義だと言ってしまっていいのだろうということ。 公開された1979年において、全く新しく、暴力的で破天荒な映画世界に世界中の映画ファンが心酔したこともよく理解できる。 同時に、当時においてもこの映画を全否定した映画ファンも決して少なくなかったことだろう。 是と非がせめぎ合うほど、映画のカルト性は深まり、伝説化していくものだ。 すべての映画を楽しむことが出来たならばそれに越したことはないのかもしれないが、やはりそれでは映画を観るという行為の価値が薄れてしまうようにも思う。 一つの作品に対して、「面白い」か「つまらない」か、それぞれの反応が等しく存在することが許されることこそが、映画というものの醍醐味だろう。 とまあ、「クソ映画だ!」と断言しつつも、無意識的に各シーンを思い返もしている。 まったくもって変な映画である。 アタマの悪い映画ファンに愛されるわけだ。と、口角が上がる。[DVD(字幕)] 5点(2015-07-03 00:05:02)《改行有》

563.  マッドマックス 怒りのデス・ロード 「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。 公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。 映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。 実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。 今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。 随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。 “激アツ” あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。 終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。 手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票) 《改行有》

564.  くもりときどきミートボール2 フード・アニマル誕生の秘密 前作の「エイリアン」「インデペンデンス・デイ」オマージュに続き、今回は完全に「ジュラシックパーク」! 正々堂々とパクって……いや、オマージュを捧げている娯楽性がまず楽しい。それだけで、アニメーション映画としての及第点は満たしていると思える。 前作は、過剰なほどにポップなビジュアルにそぐわぬ「飽食」に対しての意外にも深いテーマ性と、シニカルなブラックユーモアの連続で彩られた万人向けというよりも、むしろオトナ向けとも言えるアニメーション映画の傑作だった。 食べ物が“災害”として襲ってきた前作は、その描写の下品さに対して文化的に若干引いてしまう部分もあったが、今作はありとあらゆる食べ物が大なり小なりの“アニマル”として登場し、ただただ愉快で可愛らしい。 前作と同様のテーマ性なりを期待しすぎてしまうと、この続編への拍子抜けは避けられないかもしれない。 けれど、今作はメインとなるテーマを主人公を中心とした普遍的な人間関係に絞り、敢えて良い意味での子供向け路線にシフトチェンジしているのだと思う。 そして、これはこれで充分過ぎるほどのクオリティーを備えたアニメーションだったと思う。[CS・衛星(吹替)] 6点(2015-06-26 23:33:06)《改行有》

565.  トゥモローランド この映画を観る前の日中は、愛娘の幼稚園の行事に参加してきた。梅雨の合間の炎天下、我が娘も含めて、数百人の子どもたちがわらわらと駆け回っていた。 そんな日の夜に観たからこそだったのかもしれないけれど、僕はこのSF映画が伝えるメッセージを素直に受け止めることが出来た。 それは、映画ファンとして、子を持つ父親として、とても幸福なことだったと思う。 映画の冒頭、少年時代の主人公が、自作したジェットパックで未来都市を飛び回る。 このシーンをはじめとする「未来」を目の当たりした問答無用の高揚感こそが、この映画の総てだと言っていい。 映し出された未来像に対して“ワクワク”するというあまりに普遍的なSF映画の本来あるべき姿がそこにはあり、同時にそれを素直に肯定することが出来ない現代社会の病理も表しているように思えた。 無邪気だろうが、浅はかだろうが、「明日」を夢見なければ「未来」はない。 未来に希望を持てないなんて悲しすぎるし、希望を持てないことを誰かのせいにして、ある意味開き直って、あたかも絶望を抱える方が当たり前だと言わんばかりに、世界の退廃を受け入れるなんてまっぴらだ。 この映画が導き出したテーマを、「選民意識」の表れだと批判する人が多いらしい。なんて見当違いで、愚かなんだと思わずにはいられない。 確かに、この映画のラストでは、より良い未来を担うべき者の選抜が描かれてはいる。 そこに、未来という次のステージに今この瞬間の全員を連れていけるわけではないというある種の非情さが表れていることは確かだとは思う。 ただしそれは、才能に秀でた者が、才能に秀でた者を選民しているわけでは決してない。 「未来」という夢と希望を担うべき人材を、「才能」ではなく、それを諦めない「意志」で選ぶことを理想として導き出したこの映画を、僕は決して戯れ言だとは思いたくない。 それを「選民意識」なんて捉え方をすることこそが、未来に対しての逃げ口上だと思えてならない。 もちろん、困難や問題は尽きない。特別な才能があろうが、なかろうが、絶望することは容易だろう。 しかし、自らとそれに追随する若い命のために、「明日」という世界を作り続けなければならない。 そのために必要な物が夢や希望だと言うのならば、何がなんでも、僕はそれを追い求めたい。[映画館(字幕)] 7点(2015-06-21 23:27:26)(良:1票) 《改行有》

566.  ゴジラVSスペースゴジラ ゴジラ映画ファンでありながら、長年に渡ってスルーし続けてきた作品だけあって、ある意味“安心”の駄作ぶりだった。 ハードルを限界まで下げきった上での鑑賞でありながらも、「早送りしてぇ」と思わざるを得なかった出来栄えには、もはや「流石」と言いたくなった。 「ゴジラVSビオランテ」以降“平成VSシリーズ”の“心のヒロイン”としてレギュラー出演し続けた三枝未希(小高恵美)が、ついに作中のメインヒロインとして登場したことは嬉しかったが、青臭い恋愛模様が痛々しくて仕方なかった。(おまけにイメージチェンジのショートカットが可哀想なくらいに似合っていなかった……) 兎にも角にも、90年代の映画であることを疑うくらいにストーリー展開の稚拙さが際立っている。諸々の事情により急遽製作された作品であるらしいが、それにしても酷い。 ただし、一点だけピックアップポイントはあった。 主要キャラとして登場する女性科学者の名前が「権藤」。これはピンときた。 「VSビオランテ」ファンとしては、“権藤一佐の弔い”という一つの要素には口元が緩んだし、彼の形見であるジッポーを柄本明演じる少佐が使っているという裏設定は胸熱ではあった。[CS・衛星(邦画)] 2点(2015-06-15 22:24:25)《改行有》

567.  映画 けいおん! この作品における「青春」。それは、“非現実”という多幸感だ。 現実を執拗に突き詰めていく青春劇も勿論あろうが、敢えてそれ(現実)を無視することで生まれる幸福と娯楽。この作品の在り方が意図することは即ちそういうことだと思う。 と、意識的に堅苦しく綴ってみたが、要は何の事はない。 軽音部の彼女たちに対して、“萌え萌え”の“ペロペロ”だったということに尽きる。 はっきり言って、そのこと以上に特筆するべきところなどなく、それが総てで良いのだと思う。 テレビシリーズは未見。 当然登場するキャラクターたちに何の思い入れもないままこの映画化作品を観始めた。 ストーリーは非現実的だし整合性もなくグダグダ感に溢れている。作品として鑑賞後の満足度が高かったわけでもない。 けれども、まんまと彼女たちの一挙手一投足に萌え、「テレビシリーズ観たいかも……いや観たい!」と思わせたこの映画の在り方と、アニメーション技術の確かさは、まったくもって正しいのだと思える。 この映画作品では流石に泣けなかったけれど、テレビシリーズを観終わる頃には号泣している自分の姿がわりと容易に想像できてしまう。[CS・衛星(邦画)] 6点(2015-06-14 23:25:28)《改行有》

568.  パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間 劇中、“二つの棺”が運ばれていくシーンが、序盤と終盤に対比的に描かれる。 一つは、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの棺。そしてもう一つは、“JFK”暗殺の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドの棺だ。 両者の棺を運ぶ者の心情は大いに異なるはずだが、その様はどちらもややぞんざいに扱われているように見える。 そこには、「この棺を運びたくなんてなかった」という、同じ言い回しだけれど全く真逆の意味合いを持つ、それぞれの死に関わった人々の感情が漏れているように見えた。 英雄の暗殺と、その実行犯とされる者の暗殺。この二つの死が人々に与えた影響はいかなるものだったのか。 今作は、偶然にもそれに関わってしまった人たちの心の損失を描き出している。 「JFK暗殺」を描いた映画は多々あるが、この作品の視点は意外にも新しく、それでいて真っ当だったと思う。 他の多くの作品が暗殺にまつわる陰謀説を主軸に描いているのに対して、今作はあくまでも事件現場となった街に居合わせた市井の人々の様を描いている。 そういう意味では、JFKの実弟であるロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件を描いた作品「ボビー」にとても良く似た映画だったと思う。 稀代の英雄の死を目の当たりにした人々にとって、本当の犯人が誰かなんて追求する余裕はなかっただろう。 自分たちが住んでいる場所で、世界で最も重要と言って過言ではない人物が殺されてしまった。 ただひたすらに、その悲しみとショックに打ちひしがれるしかなかったのだろうと思える。 その人々の動揺と混乱の中で、もう一人の男が“真相”と共に闇に葬られた。 その男にも勿論家族がいて、市井の人々以上の動揺と混乱を強いられていた。 彼らの死から50年が経過した。 数多くの疑惑と陰謀説は渦巻き続けるが、いまだ真相は闇の中。 いつの日か時代は真実をさらけ出すことが出来るのだろうか。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-06-13 00:35:40)《改行有》

569.  トランスフォーマー/ロストエイジ 165分の取り留めのない映像的物量の「羅列」を、グッと耐えるように観終えて思う。 これは、マイケル・ベイ監督渾身の「自虐」だと。 前三部作を撮り終え、身を引く予定だったマイケル・ベイが、敢えてこの新作でも監督を引き受けた理由は何なんだったのか。 勿論、単に自分が培ってきた人気シリーズを他人の手に任せたくないという思いもあったのだろうとは思うが、この映画の仕上がりを見たところでは、それ以外の明確な「意思」があるに違いないと思う。 もはや突っ込むことも馬鹿らしく思えるほどに、今作は「中国資本」による「広告」のオンパレードである。クライマックスを含めた後半は、完全に中国映画であり、中国のPRビデオである。 当然ながら、映画は“お金”がなければ作ることは出来ない。 そんな中で潤沢な資金力を誇る中国市場に、ハリウッドの映画産業が集中していくことは、もはや必然だろうと思える。 昔から映画の作品内で“スポンサー”の威光が示されることは決して珍しいことではない。 ただし、その“威光”が、今後更に度を越していくことを、稀代のブロックバスター映画監督であるマイケル・ベイは、この映画で示したかったのではないか。 嘲笑を携えながら、165分の広告映画を観終えた。 しかし、この映画が歴代最高額の興収をたたき出したという現実を知り、嘲笑すらも消え失せた。 明確に生じたこの「危機感」は、ある意味、映画史上において「貴重」なことなのかもしれない。[CS・衛星(字幕)] 0点(2015-05-24 22:47:43)《改行有》

570.  ザ・イースト 「ミイラ取りがミイラになる」というあまりに有名なことわざ一つで済まそうとすればそれまでなのだが、映画のストーリーテリング自体はオーソドックスだったと思う。 ただ対象となる素材が、過剰なテロまがいの行為を展開する正体不明の環境保護集団であるという点は、極めて時事的で興味を引いたポイントだった。 そういう時事的な要素を用いれているだけに、描き出される現代社会の病理性はリアルで、実際世界中が注視しなければならない問題だったと思う。 主人公は、元FBIの民間警備会社調査員の女性で、前述のことわざの通りに、謎の集団の在り方にシンパシーを感じ次第にのめり込んでいく様は、スリリングであった。 決して盛りすぎることなく抑えた緊張感を持続させた演出も高水準だったとは思う。 ただし、だ。結局、最終的に得られた映画の印象は「軽薄」という一言に落ち着いてしまった。 この映画における最大の欠落は、主人公のバックグランドがあまりに描かれていないことだと思う。 展開されるストーリー上では、主人公の感情はしっかりと描かれているし、演じているブリット・マーリングの演技も良かったと思う。(彼女は今作の脚本も手がけているらしく、とても才能豊かな人なのだろう。) しかしながら、この主人公がなぜこの「仕事」に執着するのか、そもそもなぜにFBIに入り、退職し、得体のしれない民間の警備会社に在籍しているのか。 ここまでに至った主人公の人生模様がまるで見えてこないことが、全編を通して彼女の言動の理由付けを曖昧にしてしまっていて、結果として映画全体において感情移入できない要因となってしまっている。 その他の環境保護集団の面々の人物描写もどこか浅はかだった。それぞれが自らの人生を賭して環境破壊に対しての過激な警鐘活動に取り組んでいるわけだが、彼らの行動原理についても語られ方が浅く、そこにあるべき悲壮感が伝わりきらなかった。 そして、最後の“オチ”の見せ方があまりに粗末過ぎる。 「だいたい分かるでしょ?」と言いたいのだろうけれど、一介の調査員の一人に過ぎない彼女があの後どうやって巨悪を陥れていったのか、あまりに説明不足で腑に落ちない。 このところ益々“不気味”な存在感を高めているエレン・ペイジをもう少し有益に使うべきだったとも思う。あの段階でのフレームアウトは少々勿体無い。 非常に興味深い作品だっただけに、根本的な部分での欠落があまりに勿体無く、映画としての価値を大いに下げてしまっている。[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-05-24 01:39:36)(良:1票) 《改行有》

571.  300 <スリーハンドレッド> ~帝国の進撃~ “インパクト”のみで勝負し、娯楽映画として見事に勝利してみせた「300<スリーハンドレッド>」から早8年。 8年越しの続編は、物語の時間軸的にはほぼ同時進行の「番外編」という立ち位置だった。 スパルタ王レオニダスの死闘の裏では、また別の死闘が繰り広げられていた!という話。 前作自体が好き嫌い大別される作品だっただけに、もはやこの第二作目においては“好きな人以外立入禁止”にすべきだろう。 まず最初に断言させて貰いたいのは、「セックスより上手ね」と、最後の死闘の最中に敵役の最強最悪の女傑に言い放たせた、この「番外編」の在り方は正しい!ということだ。 前作でスパルタ王を演じたジェラルド・バトラーが、あまりに熱苦しく、あまりに豪傑だっただけに、今作の主人公テミストクレスを演じたサリヴァン・ステイプルトンなる俳優の存在感が希薄だったことは明らかだ。 彼が率いるアテナイ軍も、豪傑揃いの精鋭300人だったスパルタ軍と比較してしまうと、当然ながら脆弱に映ってしまい、映画に添えるべきインパクトに欠けていたと思う。 しかし、その希薄さや脆弱さは、ある意味必然的なことだ。続編であり番外編である今作が、物語の本筋である前作に対して“同様”のインパクトで勝てるワケがないし、勝つべきではない。 その代わりに今作は、また別のインパクトをちゃんと用意出来ていた。 それこそが、前述の「台詞」を放つペルシャ帝国海軍指揮官アルテミシアなる最恐の悪女であり、それを演じたエヴァ・グリーンに他ならない。 彼女一人で、主人公率いるアテナイ軍はおろかペルシャ王すらも凌駕する存在感を放っている。 最近数作では印象的な悪女ばかりを演じているエヴァ・グリーンだが、彼女が現役最恐の“悪女女優”であることは間違いない。 彼女と主人公の「一戦」が、今作の最大のハイライトであることは言うまでもないだろう(ニヤリ)。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-17 22:56:52)《改行有》

572.  バットマン リターンズ “バットマン映画”として観るか、“ティム・バートン映画”として観るか、どちらの心構えで観るかで、この映画から受ける“感触”は大いに左右されると思う。 僕は、前作「バットマン」を当然のごとく“バットマン映画”として観てしまったため、その特異な世界観に正直違和感を覚えてしまった。 しかも、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」シリーズを観てからの、ティム・バートン版「バットマン」の初鑑賞だったため、両者のギャップを殊更に激しく感じてしまったのだと思う。 というわけで、今回は、初めからちゃんと、ティム・バートン映画として観ることが出来たので、前作よりも随分と楽しむことが出来たのだと思う。 そうして観てみると、このヒーロー映画が、想像以上にティム・バートン色の強い極めて「異質」な映画であることに気付かされた。 数多の論評にあるように、このヒーロー映画には、もはや主人公としてのヒーローは存在しない。 マイケル・キートン演じるバットマンは、一人のメインキャラクターに過ぎず、主人公としてはあまりに存在感が薄いと言わざるをえない。 ただしそれは、決して主演俳優が力量不足なのではなく、風変わりな監督が悪役描写に力を入れ過ぎてしまっているからに他ならない。 監督の興味が、大富豪の蝙蝠男からは早々に外れ、気味の悪いペンギン男と、心を病んだ猫女に集中してしまっていることは明らかだった。 それは、まさに奇異なるものの存在性と生き様を愛するティム・バートン作品に相応しい世界観だった。 善と悪の対立という本来ヒーロー映画にあるべき分かりやすい構図を脇に追いやって、今作はひたすらに孤独な者達の邂逅を描く。 悪役たちは勿論、主人公であるバットマン=ブルース・ウェインも、孤独の中に生きる者の一人だ。 ティム・バートンが、この題材を選んだ理由は明確だろう。 個人的な話をすると、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の鑑賞直後に、今作をまさかの初鑑賞。 映画史の文脈を鑑みると、なかなか稀有な映画体験だったと思う。 マイケル・キートンの俳優人生に乾杯!そして、ダニー・デヴィートとミシェル・ファイファーに拍手![CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-06 17:04:15)(良:1票) 《改行有》

573.  バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) “キャスティング”に込められた“巧み”な“悪意”。 このアカデミー賞受賞作品の成功の要因は、先ずそれに尽きると思う。 マイケル・キートンをはじめとする配役の妙が見事で、その配役に応えたキャスト陣がそれぞれ見事だったということだ。 かつてヒーロー映画の主演でドル箱スターとなり一世を風靡した俳優が、十数年の月日を経て、己の俳優としての存在性、そして父親としての存在性に疑問を持ち、満を持して挑んだ舞台作品の初演を前に苦悩する様を描いた物語。 プロットとしては、極めて“ありがち”である。 ただし、先に挙げた「配役」も含めて、「撮影」の手法、ストーリーの「展開」など、描き出し方がとてもユニークで、それ故にオリジナリティに溢れた作品に仕上がっているのだと思う。 まあ何と言っても、主人公の元スター俳優役にマイケル・キートンを選んだことは、この映画が成り立つための必須項目だったように思う。 二十数年前にティム・バートン版「バットマン」で“ブルース・ウェイン”を演じたこのベテラン俳優は、今作の主人公そのものだ。 彼がこの役を引き受け、ベストパフォーマンスをしてみせたからこそ、このコメディ映画は、モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)の要素も併せ持つ特異な世界観を醸し出すことに成功しているのだと思う。 主人公のリーガン・トムソンは、俳優としての栄光を取り戻すために、畑違いの舞台に挑む。 それを演じるマイケル・キートン自身も、己の俳優人生をある意味自虐的に体現し、自身のキャリアと俳優としての意地をかけた「演技」をしてみせた。 その様には、一人のハリウッドスターの“生き様”がまざまざと表れていて、物語を越えて感動的であった。 主人公は妄想と現実の狭間で終始苦悩をし続ける。 それは即ち「過去」との折り合いをつけるための闘いとも言える。 どんなに「過去」が「現在」にとって邪魔な存在になろうとも、自分の人生である以上、それから完全に決別することなど出来ない。 「現在」と「過去」を等しく見つめ、それぞれに対してどう折り合いをつけるか。人生とはそういうものなのかもしれない。 【過去=バードマン】を病室のトイレに追いやって、主人公が掴んだ【現在=現実】は、果たして何だったのだろう。 如何様にもとらえられるこの映画の結末は、それを目の当たりにした観客それぞれに語りかけてくるようだった。 「飛ぶのか?」「飛ばないのか?」と。[映画館(字幕)] 8点(2015-05-05 22:15:49)(良:2票) 《改行有》

574.  ゴジラ×メガギラス G消滅作戦 予告編を観ただけで、否が応でも鼻につく“駄作臭”から逃れるようにこれまでスルーし続けてきた今作。 ただゴジラファンとして、シリーズ中観ていない作品があることも口惜しいので、ついに初鑑賞。 ハードルを下げきっていた分、思ったよりは“観られた”感覚はあるが、やはり駄作は駄作だと思う。 予告編の段階から明らかだったことではあるが、今作における最たるマイナス要因は“キャスティング”だと思う。 田中美里には大変申し訳無いけれど、主人公の特殊部隊隊長に彼女を起用したことは、完全なるミスキャストだ。どこからどう見てもまるっきり戦闘員に見えないことは、主演女優の演技力どうこうではなく、配役の失敗以外の何物でもない。 今作で監督デビューを果たした手塚昌明は、この後の「ゴジラ×メカゴジラ」でも釈由美子を女性戦士役で主人公に配しており、完全に彼の“趣味趣向”なのだろうが、今作のこのキャスティングミスは致命的だった。 もちろん“駄作”と言い切る以上、主演女優一人にその原因を押し付けることは出来ない。 その他のキャラクターの軽薄さ、ストーリーそのもののお粗末さも、当然褒められたものではない。 そして、個人的に最も我慢ならなかったのは、ゴジラの造形である。 不必要に仰々しい背びれは厨二病丸出しのデザインで不自然でダサい。 ゴジラと対峙するメガギラスなる新怪獣も下品な毒々しさが空回りしており、これまたダサい。 とまあ振り返ってみれば、オープニングタイトルから、ラストカット、エンドクレジット後の“蛇足”シーンに至るまで、ことごとく「ダサい」の一言に尽きる。 しかし、ゴジラシリーズは実のところ7割以上が“駄作”であることは、ファンであれば周知の事実。 それを踏まえれば、今作の駄作ぶりなどそれほど目くじらを立てることではないとも思える。 そして、今作での長編デビュー後に、手塚昌明監督が再度挑んだ「ゴジラ×メカゴジラ」と「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」は、シリーズの中でも屈指の良作だと思っているので、この「失敗」は許せる。[CS・衛星(邦画)] 3点(2015-05-05 22:12:46)《改行有》

575.  七年目の浮気 マリリン・モンローが、マリリン・モンローである理由が、この映画には満ち溢れている。 その理由は、即ち当時世界中の男が“彼女”に恋をした理由と全く同義と言える。 マリリン・モンローといえば、時代を越えて、“セックスシンボル”というスキャンダル性に溢れたイメージが先行しがちの女優である。 しかし、「お熱いのがお好き」に続き彼女の映画を観て感じたことは、滲み出る“女優魂”だった。 この女優から醸しだされるフェロモンと、惜しみないセクシーショットは、当時としてみれば「常識」の範疇を大きく超えていて、故に揶揄を含めたスキャンダルに伴ったイメージが先行してしまったのだろう。 今作にしたって、何と言っても60年前の映画である。彼女の存在そのものがいかに“センセーショナル”だったかは、想像に難くない。 それがいつしか“伝説化”し、敬愛と嫉妬を込めて、“セックスの象徴”として語り継がれてきたのだろうと思う。 でも、この伝説的女優の存在がなければ、その後に登場したすべての女優の“表現の幅”は随分と狭まったままだったと思う。 アンジェリーナ・ジョリーも、スカーレット・ヨハンソンも、今のような魅力を発揮することが出来なかったと思うし、スター女優として存在すらし得なかったのではないだろうか。 主演女優の時代を超越した存在感、その一方で、“浮気”をテーマに描き出される喜劇のストーリー性も、しっかりと深く面白い。 中年男性の根底にある浮気心と止まらない妄想。 過剰なまでに妄想を繰り広げる主人公の“一人相撲”は、可笑しさに溢れると共に、同じく既婚者として身につまされる。 留まらない妄想を突き抜けて、家族の元へ走る主人公の姿には、同じ男として、夫として、父として、渦巻く感情を鷲掴みにされた。 流石はビリー・ワイルダー。些細な仕草や、細やかな小道具つかいに至るまで、緻密で巧い演出が随所に光り、最上級のコメディ映画に仕上がっている。 主人公役のトム・イーウェルの、可笑しさと、哀愁と、愛らしさに溢れたパフォーマンスも素晴らしかったと思う。 今作は、映画史上最高の監督による卓越した映画術を随所に堪能出来る映画である。 が、しかし、結局、あらゆる場面で目がいってしまうのは、ただ“一点”。 やはり、世界中の男の中の一人として、“彼女”に釘付けにならずにはいられなかった。 “彼女”に対する思いは、欲情を越え、憧れを越え、もはや尊敬の念に達する。 さて、僕自身は、“7年目”まであと一年半ほど……。くれぐれもセンセーショナルな“お隣さん”が現れないことを、切に願う。[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-05-03 01:06:59)《改行有》

576.  きっと、うまくいく 誰しも、いくら普通に生きていたって、大なり小なり困難はつきまとう。 僕自身、瞬間的に生きていくのが嫌になるくらい些細な苦悩に苛まれることが多々ある。 そんな時、自分に唯一残された“手段”は、結局、「大丈夫だ、きっと、うまくいく」と己に言い聞かせることだけだ。 苦しいことも、楽しいことも、始まりがあるのだから、大抵の場合終わりがある。 自己暗示でもなんでも、「きっと、うまくいく」と言い聞かせて、今この瞬間を生き抜きさえすれば、大体の物事は解決しているものだ。 このインド映画のタイトルは一見浅はかに見えるし、紡ぎだされるストーリーもベタベタでご都合主義的だとも言えるが、それでも、「人生」って、結局そういうものだよなと思うことが、この幸福な映画には溢れている。 「多幸感」こそが、インド映画という文化が最も重要視する要素である。今作もその例に漏れず、愛すべき多幸感とそれに伴う娯楽性が満ちている。 ただそれと同時に、インド社会が持つ慢性的な“闇”もしっかりと背景として描き出している。 国家の発展のための学歴至上主義がもたらした社会的な圧迫感は、若者たちの自殺者を増大させた。 それは、インドに限らず世界中のあらゆる国々が、同様に抱える現代社会の病理だろう。 その原因となっている社会のしくみに対して、真っ向から異を唱える主人公は、その存在そのものがエンターテイメントであり、インドに限らず世界の“理想”を体現するものだった。 そんな主人公を中心にして描き出される笑いと涙の尽きない青春群像には、決して悲しみにばかり暮れることはないインド映画の心意気が表れていたと思う。 今この瞬間も、世界中、あらゆる国のあらゆる人々が、何かしらの問題で行き詰まっていることだろう。 でも、大丈夫。「うまーくいーく」と心のなかで唱えていれば、いつも間にか苦しい時間は過ぎ去っている。[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-05-02 15:15:28)《改行有》

577.  あなたを抱きしめる日まで 赦すことの苦悩。赦さないことの苦悩。赦されることの苦悩。赦されないことの苦悩。 人生は時に残酷で、一つの“赦し”にまつわるすべての人々が、どの決断をしたとしても、苦悩に苛まれることがしばしばある。 果たして、真の意味で正しい人間、真の意味で強い人間は、自分の人生を通していずれの“赦し”を導き出すのか。 この映画には、様々な“ミスリード”が含まれていて、巧い。 実話を元にした感動物語風にイントロダクションをしておいて、実は非常に辛辣で罪深いこの世界の闇が描きつけられる。 そして、重いテーマ性に対して身構えてみたならば、紡ぎだされる語り口は極めて軽妙でユーモラス。 御年80歳の大女優ジュディ・デンチのコメディエンヌぶりに、心が鷲掴みにされる。 原題は「Philomena」。ジュディ・デンチ演じる愛すべき主人公の名前である。 原題が指し示す通り、この映画は主人公“フィロミナ”の人間的な魅力に魅了されるべき作品だと思う。 暗く悲しい時代の中で、生き別れになった母と子。50年の年月を経て、ついに母は子を探す旅に出る。 実話とはいえ、もっと安易に感動物語に仕上げることも出来たろうし、悲しい時代が犯した罪を掘り進めて、もっと暗く重い社会派ドラマに仕上げることも出来ただろう。 カトリック教会の渦巻く闇だとか、レーガン政権下のエイズ患者への仕打ちなど、暗に示されている題材は多々ある。 しかし、この映画はそういうありきたりで安直なシフトを認めなかった。 主人公のキャラクターを魅力的に描き出し、コメディとして仕上げた巧さと勇気に賞賛を送りたい。 もう一人の主人公であるジャーナリストは、ふとしたきっかけで出会った貧しい老婦人のことを、“無知で心が弱い人たち”と決めてかかる。 だが、彼女と旅をしていく中で、ほんとうに含蓄が深く心が強い人間が誰であるかを知っていく。 それは、浅はかな固定概念を払拭する旅路でもあった。 主人公“フィロミナ”が辿り着いた「真実」は決して喜ばしいことではなかった。 それでも彼女は揺るがない。相手を赦し、すべてを受け入れる。 それは、何よりも最初に先ず自分自身の罪を認め、そして苦悩と共にそれを赦してきた彼女だからこそ導き出すことができた“答え”だったように思えた。[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-04-29 01:04:23)《改行有》

578.  ワイルド・スピード/SKY MISSION 「別れなんてない」 そう言い残して一人走り去るドミニク。そんな彼を追ってきて、真っ白のスープラでいつものように横に並んだブライアンの姿は、果たして現実だったのだろうか、幻影だったのだろうか。 「さよならも言わずに行くのか?」と笑顔を見せるブライアンに対してのドミニクの表情には、喜びと悲しみが等しく入り交じっているように見えた。 シリーズ7作目。 当然ながら“一見さんお断り”の今作を、封切り早々に観に行く“ファン”としては、とてもじゃないが、ラストのシークエンスを涙なしでは観られなかった。 とはいえ、この映画は「ワイルド・スピード」である。映画の9割以上は、突っ込むことが馬鹿らしく思えるくらいに大味なストーリーテリングと、大仰なアクションシーンのひたすらな連続である。 ただし、その「大味」と「大仰」は、このシリーズが7作品を通じて培った娯楽性の“境地”であり、否定の余地は微塵もない。 一介のストリートレーサーだった主人公とその一味が、シリーズを追うごとにアクションヒーロー化し、ついには某スパイアクション映画を彷彿とさせるほどの極秘任務を担う。 フツーなら“あり得ない!”と一蹴されるべきプロットを、堂々とまかり通してしまう。それを成すものは、このアクション映画シリーズが導き出した奇跡的なエンターテイメント性に他ならないと思う。 この「7」は、あらゆる側面で「奇跡」そのものだ。 前作のラストで突如登場したジェイソン・ステイサムを最恐の悪役に配し、ヴィン・ディーゼル、そしてドウェイン・ジョンソンと、あまりに“肉厚”な肉弾戦を繰り広げる。 “アクションスター”というステイタスの価値が低迷して久しいが、それでも“現役”トップスターである三者の揃い踏みは、あまりに豪華だ。 また、ミシェル・ロドリゲス好きとしては、前作のジーナ・カラーノ戦に続き、またしてもプロ格闘家ロンダ・ラウジーとの“連戦”はたまらなかった。 そしてもちろん、最後に言及したいのは、ポール・ウォーカーだ。 俳優の死は、いかなる時も映画ファンにとって不幸以外の何ものでもない。 今作のクランクアップ前に急逝したもう一人の主演俳優の死は、あまりに大きな損失だった。 ただ、彼の死が、この映画に特別な意味と価値を与えたこともまた事実であろう。 ド派手なカーアクションの追求の果てに、今作ではついに自動車が“空を飛ぶ”。 「SKY MISSION」は後付の邦題ではあるが、今作の主題であるその要素は、天国へと旅立った主演俳優の姿に重なってくる。 映画は、総合芸術であり総合娯楽だ。 その「総合」という言葉には、そこに携わった人間の“人生”そのものも含まれるのだと思う。 一人のスター俳優の生き様と共に、今シリーズはこの先も愛され続けるだろう。 今宵は、ポール・ウォーカーの冥福を改めて祈りたい。 もちろん献杯は“コロナビール”で。[映画館(字幕)] 9点(2015-04-25 23:45:00)(良:4票) 《改行有》

579.  花とアリス殺人事件 岩井俊二監督の“絵コンテ”をそのままアニメーションにしたような映画だった。 正直なところ、アニメーションとしては稚拙だし、二次元のキャラクターに情感が溢れているとはとてもじゃないが言い難い。 紡ぎだされる物語自体も、随分とチープで散文的と言わざるをえないだろう。 何の思い入れもない人が、この作品を単体で観たならば、酷く退屈だろうことは否めない。 でもね。“一部”の人は、どうしたってこの映画を無下に否定することなど出来やしないと思う。 アニメーションであれ何であれ、再び「花とアリス」の世界観をスクリーンで堪能することが出来る。 その事実だけで、高揚感と幸福感を感じずにはいられなかった。 10年の時を経て、岩井俊二監督のもと、蒼井優と鈴木杏をはじめとする演者が揃い、同じ息吹を届けてくれた。諸々のセルフオマージュも含めて、この映画監督のファンとしては頬を緩めずにはいられなかった。 一つの映画として、決して優れた作品ではない。僕自身、想定よりも随分と満足度は低かった。 でも、また“彼女たち”に会えた。それだけで、僕はうれしかった。 今作の鑑賞直前に劇場版を鑑賞し直したが、今作を観終わった後にまた観たくなった。 “Web版”と“劇場版”と“殺人事件”を同封したコンプリートBOX出ないかな。絶対買うけど。[映画館(邦画)] 6点(2015-04-11 23:43:02)《改行有》

580.  ジュピター とても“ふざけた映画”だった。 でも、あの“姉弟監督”に、こうも“本気”でふざけられては、最終的に親指をグッと立てるしかなかった。 大バジェットのSF映画でありながら、偏屈な芸術家が気まぐれで生み出した作品を観ているような感覚。この“ふざけた”感じは、まるでテリー・ギリアムの映画のようだと思っていたら、ウォシャウスキー姉弟監督の思惑はまさにその通りで、リスペクトを込めてなんとギリアム監督本人が出演していた。 “IMAX3D版”を観るかどうか、ぎりぎりまで迷った。何とも得体のしれない映画自体の印象と、伝わってこない前評判に尻込みしてしまい、結局通常版を観てしまった。結果、とても後悔している。 序盤は、ベッタベタでありきたりな展開に対して全く乗りきれなかった。 冒頭の大迫力の攻防シーンも、これでもかという仰々しさがクドすぎる程に展開され、無駄にハイクオリティーな映像世界に対して思わず苦笑してしまった。 ただ、その“仰々しさ”や“クドさ”が、段々と癖になってくる。 本来なら排他すべきマイナス要素も含めて、姉弟監督がこの映画で狙った“娯楽性”だということが徐々に見えてくる。 まさにお決まりの大団円を迎える頃には、嫌悪感や不快感など微塵もなく、むしろ鑑賞後にはふつふつと“愛着”が沸き上がってきていた。 キャスティングもハマっている。 チャニング・テイタムとミラ・クニスという主演カップルの組み合わせは絶妙だ。 どちらも“セクシー”さの印象が強いスター俳優だけに、観客は、この映画がどこまで「本気」の映画なのか、最後まで難しい見極めを強いられる。 これも監督の狙い通りだろうと思うし、実は演者としてとても“賢い”両俳優も、その狙いをちゃんと理解した上で、ヒーロー像、ヒロイン像を演じている。 キャストにおいては、やはりエディ・レッドメインの名前を挙げないわけにはいかない。 今年アカデミー主演男優賞を獲得したばかりのこの若い俳優の実力は本物だ。 当然、この映画の撮影時はアカデミー賞受賞のずっと前だろうが、彼ならではの悪役像はとても新鮮で、既に名優としての存在感を放ち始めている。 おそらくウォシャウスキー姉弟は、“序章”として今作を製作しているハズ。 本国ではコケてしまったようだが、それにめげずに続編を作っていってほしいと思う。 今度はちゃんと“IMAX3D版”で観るからさ。[映画館(字幕)] 7点(2015-03-28 23:54:53)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》

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