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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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41.  フォーカス(2015) マーゴット・ロビーが好きだ。 いまやハリウッドのトップ・オブ・トップの女優に上り詰めたと言っても決して過言ではないこの俳優の魅力は、リアルな“叩き上げ感”とそこから溢れ出る強かな人間性そのものだろう。 1990年生まれ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、主演のディカプリオの妻役としてマーティン・スコセッシに抜擢されたのが22〜23歳頃だろうから、若くして成功した俳優の一人であることは間違いないが、オーストラリアから裸一貫でのし上がった苦労人でもある彼女には、俳優・映画人としての天賦の才と、生きる上での聡明さが備わっている。 そんな人間的な厚みが備わっているからこそ、マーゴット・ロビーという女優は、セックスシンボルにもなれるし、馬鹿にもなれるし、イカレ女にも、痛い女にも、ミューズにも、ヒーローにもなれる。 本作「フォーカス」で彼女が演じている詐欺師のジェスも、まさにその適性に合ったキャラクターであり、ベストなキャスティングだったとは思う。色仕掛けとスリを得意とし、詐欺師としての才能を開花させていくヒロイン像は、ハマり役と言えよう。 そのヒロインを圧倒的な詐欺師の技量で魅了していくのが、主演であるウィル・スミス演じるニッキー。 常に相手を騙し続ける凄腕詐欺師のキャラクター造形は主人公らしく、ウィル・スミスの多才さとも相まって悪くはなかった。 が、しかし、その完璧だった詐欺師像が、魅力的なヒロインの出現によって乱れ、崩れていく。 まさにその天才詐欺師に生じた不協和音こそが、本作のストーリーにおけるミソなわけだが、最終的にはその綻びが綻んだまま、少々グダグダな展開のまま終着してしまった印象を受けた。 ヒロインに対して恋愛感情を抱いてしまった主人公が、詐欺師道を貫くために、彼女から離れる展開までは良かったが、その後再開してクライマックスとなる大仕事に挑むくだりが、中途半端で盛り上がりに欠けた。 詐欺師映画である以上、映し出されるすべてのシーンに何かしらの意味があって然るべきで、“騙す相手”は、大富豪のボスなどではなく、スクリーンの外側の観客であるべきだと思う。 無論、本作においても、最終的にアッと驚く仕掛けを用意しているつもりであろうが、結局のところ主人公がヒロインに対してただただメロメロになっているようにしか見えず(実際彼女の本質を見抜けていなかったわけだし)、カタルシスを得るまでには至らなかった。 まあ、そういうグダグダな雰囲気は、往年のヨーロッパの娯楽映画を観ているようでもあり、おしゃれでキッチュな落とし所は嫌いではないけれど、主演のウィル・スミスが、作中のキャラクター的にも、俳優としての支配力的にも、マーゴット・ロビーに喰われているなという印象は拭えない。 それならば、マーゴット・ロビー演じるジェス側に、すべてを覆す思惑や計画を持たせて、名実ともに主人公と観客を“支配”してほしかったところだ。[インターネット(字幕)] 5点(2023-11-03 09:13:22)《改行有》

42.  キリエのうた 野外ステージの中央を真正面から捉えた望遠レンズの向こうで、アイナ・ジ・エンドが振り向き、こちらを真っ直ぐに見据えて、歌い始める。 178分に渡るこの“音楽映画”の中で、彼女は主人公“キリエ”として、最初から最後まで歌い続け、人間の脆さと儚さ、だからこそ眩くて手放せない“讃歌”を体現し続けた。 「歌」は、彼女にとっての唯一無二の伝達手段であり、表現方法であり、生き方そのものだった。 岩井俊二のフィルモグラフィーの中で、燦然と輝く“歌姫”の系譜。 グリコを演じたChara、リリイ・シュシュとして歌ったSalyu、里中真白を演じたCocco、その中に、個人的に5年間追い続けたBiSHを終えた“アイナ・ジ・エンド”が刻まれるというこの奇跡は、私にとってそりゃあスペシャルなコトだった。 公開初日に劇場に足を運び、深い情感と共に瞬く間に過ぎ去った178分に、しばらく呆然とした。 素晴らしい映画だと思った。ただしその一方で、この映画を彩る様々な要素が、私にとって特別過ぎることからの好意的なバイアスがかかってしまっているのではないかということを否定できなかった。 決して完璧な作品ではないし、万人受けする映画でもないだろう。 演技者として専門職ではないアイナ・ジ・エンドの“異物感”は、その是非は別にして確実に存在する。 2011年の石巻と大阪、2018年の帯広、2023年の東京、時間や社会状況を超えて行き交うストーリーテリングは、時に散文的で、歪だった。 それぞれの状況における登場人物たちの言動を裏付けるバックグラウンドを映し出しきれていないことに、一抹の物足りなさも覚えた。 そんな思いも抱えつつ、巡らせて、主人公キリエによる劇中歌をヘビーローテーションして、一週間後再び劇場に向かい、2回目の鑑賞に至った。 自分の中で消化しきれない部分を綺麗に呑み込みたいという思いもあったが、それ以上に、この作品を、そこで響き渡る歌声を、「映画館で観た」という記憶の中にもっとしっかりと刻み込んでおきたいという思いの方が強かったように思う。 2回目の鑑賞を経て、やっぱり歪で、ある部分においては非常に脆い映画だなと思った。 ただそれは、この映画が、極めて不安定で未成熟なこの世界の「人間」そのものを描き出していることの証明に他ならないと思えた。 大震災、不況、コロナ禍、遠い国の戦争や気候変動……。平成から令和へ、まさに文字通りの時代の移り変わりの中で、この国が直面した悲劇と苦難と、それに伴う深い鬱積。 この世界は、あまりにも理不尽で、往々にして優しくはない。けれども人々は、傍らの樹木にしがみつくようにして必死に生き延び、今この瞬間を生きている。 暗闇の中でも、僅かな光を見つけて、それを憐れみ、慈しみ、愛を込めて歌い続ければ、きっと“赦し”は訪れる。 それはもはや理屈でも無ければ、信仰でもないと思う。ただひたすらに、この場所に存在し続けることを決めた人間たちの強い意思だ。 “キリエ”が、“歌う”ということに求め続けたものは、例えば歌手としてプロになるというような世俗的なことではなく、その純粋な意思の表明だということを本作は物語っていた。 「音楽映画」と明確に銘打たれたこの映画で、「歌声」そのものにキャラクターとしての人格と映画のテーマを求められた役柄を体現し尽くした、アイナ・ジ・エンドには、ただただ感嘆した。 この5年間、BiSHでのパフォーマンスを通じて、ずうっとアイナ・ジ・エンドが歌う姿を観続けてきたけれど、彼女が辿り着いたその神々しくすらあるミューズとしての立ち振舞に心が震えた。 その主人公を映画世界の内外で支える存在として、役者としての新境地を開いてみせた広瀬すずも素晴らしかった。 心が締め付けられるくらいに相変わらず美しいその鼻筋と、キャラクターの心の奥底の闇を表現する漆黒の瞳に、終始釘付けになった。彼女が演じた逸子(真緒里)の2018年から2023年に至る「変貌」こそが、この現実世界そのものの激動と悲哀を象徴していたと思う。 語り始めるまでに時間はかかり、いざ語り始めたならば、それがなかなか尽きることはない。 「スワロウテイル」や「リリイ・シュシュのすべて」など、過去の岩井俊二作品と同様に、時代を超えて様々な世代が観続け、愛され、または嫌悪され、その素晴らしい音楽と共に思い出され続けるであろう、忘れ難い“現在地点”だ。[映画館(邦画)] 10点(2023-10-22 22:03:47)(良:1票) 《改行有》

43.  閉ざされた森 いつも視聴している某映画紹介系You Tubeチャンネルに出演するグラビアアイドルが、生涯ベストの映画として本作を挙げた。 おお、やっぱりこの子は“映画好き”として信頼できるなと思った。 僕自身、公開当時に1度観たきりだったが、“どんでん返し”系サスペンス映画としては、間違いなく屈指の作品だったと鮮烈に記憶に残り続けていた。 ただし、掘り出し物感の強い面白い映画だったという記憶は確実にあるものの、20年の月日は、本作のストーリーテリングとその顛末を忘却の彼方へ押しやっていた。 つまるところ、“幸運”にもどんでん返しのオチをほぼ忘れてしまっていた。 それならばと、早速サブスクを漁って本作を見つけ出し、20年ぶりの再鑑賞に至った。 主演はジョン・トラボルタ。「パルプ・フィクション」をきっかけに90年代後半に再ブレイクを果たして乗りに乗っていたこの大スターの出演作品を、当時中高生だった僕は映画館で何作観ただろうか。 本作が製作された2003年時点では、その勢いもやや下降気味だったとはいえ、この映画のジョン・トラボルタは、主人公として文字通りにストーリーテリングを支配している。 そしてその主人公が捜査官として真相究明する事件の中心に存在するのが、特殊部隊の鬼軍曹を演じるサミュエル・L・ジャクソン。そう言うまでもなく「パルプ・フィクション」でコンビを組んだ二人の再共演であり、そのキャスティングの構図だけでも今なお高揚するというもの。 肝心のストーリー展開は、まさに“藪の中”ならぬ“森の中”の様相で、生き残った兵士たちの食い違う証言によって、二転三転、いや最終的には四転五転と、真相がひっくり返り続ける。 ストーリーを追うにつれ、段々とどんな映画だったかは思い出していったけれど、結局最後の最後の大オチで、ああそうか!と記憶がよみがえり、しっかりと本作の最大の娯楽性を堪能できた。 ラストカットは、ジョン・トラボルタが劇中何度が見せる口を鳴らしてウィンクする表情で締める。小気味よくて最高。 もちろん、“どんでん返し”のストーリー展開が贔屓目に見ても強引であり、主人公が言う“つじつま”は合っているようで合っていないんだけれど、そのB級的な娯楽感が堪らないのだ。 淀川長治の日曜洋画劇場が健在な時代なら、きっと何度も再放送されて、良い映画体験をもたらしてくれただろうなと想像してしまう快作。[インターネット(字幕)] 8点(2023-10-12 22:28:51)《改行有》

44.  チィファの手紙 映画の“リメイク”は、古今東西数多あるけれど、同じ映画監督が「製作国」を違えてリメイクをすることは、実はなかなか珍しい事例なのではないか。 どうやら、そもそも同じ物語を別々の国(日本・中国・韓国)で映画化するという企画だったようだが、岩井俊二監督自身によるその着想は、とてもエモーショナルな映画世界上の多様性を生み出していた。 2020年に公開された「ラストレター」の中国版リメイクという認識のまま、ハイティーンからの岩井俊二ファンでありながら、今の今まで未見だった本作。 そこには、中国市場に向けた安易なリメイクなんだろうという誤解と、何となく日本版以上のクオリティは期待できないだろうという勝手なレッテルが存在していたと思う。 ただ、よくよく考えてみたならば、「作者」である岩井俊二自身が、両作とも監督している以上、そこにオリジナル、リメイクの境界などそもそも存在しなかったのだろう。 しかも、企画の経緯と、実際はこの中国版の方が先に製作され公開されていたことを知って、つくづく自分の浅はかさを感じた。 そして、繰り広げられたのは、見紛うことなく岩井俊二の映画世界であり、日本版と同等の傑作だったと思う。 出演する中国人俳優たちのことをまったく知らないので、松たか子、福山雅治、広瀬すず、神木隆之介ら日本版キャストに感じた華やかさは当然ないけれど、日本版と比較して何か違和感を生じるようなキャラクターや演技は皆無で、俳優たちの確かな実力と魅力が滲み出ていたと思う。 必然的に殆ど同じストーリーテリングでありながらも、国と文化の違いにより、この物語そのものが孕む“光”と“闇”の陰影が、より一層くっきりと深まって見えたことがとても印象的で、興味深かった。 特に「死」に対する諦観めいたドライさが、この中国版では際立っており、その仄暗さに対する、ストーリー展開上のコメディやノスタルジーとの対比が、日本版とは異なる芳醇な人間模様を映し出していたように感じた。 それは、映画的に日本版と中国版のどちらが優れているとかそういうことではなくて、同じストーリーを同じ映画監督が撮っても、明確に「差異」が生まれ、それがまた一つの創作物の魅力になることの証明だった。まさにこの「差異」こそ、岩井俊二の“たくらみ”だったのだろう。 悔恨と絶望の淵に立たされた小説家の男が、二人の眩い少女との偶然の邂逅により、癒され、救済がもたらされるシークエンスに、日本版と同じくふるえて泣いた。[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-26 22:31:50)《改行有》

45.  ジョン・ウィック:コンセクエンス ラストの「決闘」の舞台に向けて、パリ中から群がるおびただしい数の敵を蹴散らしながら、50代後半のキアヌ・リーヴスもといジョン・ウィックは、二百数十段の階段を登り切る。そして、見事な“階段落ち”を見せる。 決闘開始時刻のタイムリミットが迫る中、数十段のロスかと思いきや、まるでコントのように延々と転がり続け、なんと二百数十段丸ごとの階段落ちを目の当たりにした時、この映画世界の真の境地を見たと思った。 そこに生まれたのは失笑などではない、唯一無二のアクション映画に対する紛れもない感嘆だった。 どんなにマンガ的な設定であろうと、どんなにあり得ない展開であろうと、どんなに馬鹿馬鹿しい描写であろうと、それを“アリ”にしてしまう孤高の娯楽力。それこそが、「ジョン・ウィック」という映画化世界が達した世界観であり、五十路を越えて己の“アクション映画馬鹿”の精神を貫き通したハリウッドスターの矜持であろう。 振り返ってみても、「ジョン・ウィック」シリーズは、いわゆる“一級”のアクション映画の“品質”など端から追い求めていない。「ミッション:インポッシブル」や「007」のように、世界中の幅広い映画ファンに認められて称賛されようなんて考えは微塵も無かった。 本シリーズにおいて、キアヌ・リーヴスを始めとする製作陣が追求したのは、古今東西のアクション映画マニアの心に巣食う「俺が観たいアクション映画」に他ならなかった。 もっと言い切るならば、キアヌ・リーヴス自身が“観たいアクション”そして“撮りたいアクション”の結晶だったのだと思う。 「俺が撮りたいアクション映画」、それを実現するためならば、彼はあらゆる努力を惜しまない。 ガンアクション、マーシャルアーツをはじめ、玄人はだしのあらゆるトレーニングを積み重ね、60歳を目前とする今なお、己の身一つで“スタイリッシュ”を体現し続ける。 本作において、ヨーロッパの荘厳な教会や歴史的建造物を背にして歩くだけで、映画シーンとして様になるキアヌ・リーヴスは、まさしくイケオジの頂点だろう。 169分というあまりにも長い上映時間の中で、ほぼフルフルで展開されるアクションシーンの連続に対して、観客の多くは高揚感を遥かに通り過ぎて、頭がクラクラしてくるに違いない。 正直なところ映画的に冗長であることは否定できないし、何度も何度も繰り返される殺し屋同士の殺し合いの様は、まともな神経で観続けれることは困難で、ちょっと頭がどうかしていると思える。 だがしかし、もはやその狂気性とカオス感こそが、「ジョン・ウィック」なのだと認めて、呆然としながらこの映画世界を呑み込むしかない。 そう半ば強制的に観客の価値観をも支配してしまう本作と、その主人公及び主演俳優の在り方は、エキサイティングで、やっぱりちょっと異常だ。[映画館(字幕)] 8点(2023-09-24 23:09:22)(良:2票) 《改行有》

46.  ザ・メニュー 《ネタバレ》 「料理」というものを突き詰めた結果、たどり着くのは果たして、“奉仕”だろうか、“芸術”だろうか。いや、“狂気”だった。 人間にとって不可欠なプロセスである「食事」を対象にして、更にその欲求を高め、娯楽性を生み、古くから享楽の境地にまで達した「料理」には、元来人を狂乱させる要素を多分に孕んでいるものなのかもしれない。 何のために料理をするのか、誰のために料理をするのか。 いつしかそれを見失ったまま、その“行為”を極限まで追い求め、高め抜いた結果、そこに群がる高慢と強欲の餌食となってしまった一人のシェフによる、狂気的な芸術と奉仕。 それは一見すると、究極的な“逆恨み”による復讐劇のようにも見えるけれど、本作が最終的に描き出したものは、もっと達観していて、もっとイカれた、至高の料理人による「表現」であった。 彼にとっては、自分自身の料理に群がり渦巻く愚かな人間たちの“業”そのものと、それに対する怒りや悲しみや絶望が、もはや料理を彩るための“スパイス”や“隠し味”にしか捉えられなかったのだろう。 シェフの絶望と狂気は、彼と彼の料理を妄信的に信奉するすべてのスタッフ、そしてさらにはゲストたちにも伝染していく。 料理、そして食事の本質を見失い、“高額な美食”というステータスに執着する人間たちが、このレストランに来る前からそもそも抱えていた虚無感と闇が、ラストの“デザート”を迎える頃には充満していたように思える。 そして最終的には、ゲストも含め、レストラン内に残った全員がこの“メニュー”の終着を心から望んでいたようにすら見えた。 劇中シェフ自身からも言及されている通り、“メニュー”による理不尽や暴力に対して、客たちは結託していくらでも抗い闘うことができたはずだが、彼らは「美食」というレッテルにただ支配され、殆ど抵抗らしい抵抗をすることもなく盲目的に受け入れてしまっている。 その虚栄心に満ちた客たちの無理解と浅はかさこそ、このシェフが狂気に殉じた起因なのだろう。 そうしたすべての顛末を、達観した強い眼差しで眺めながら、冷めたチーズバーガーを頬張るアニャ・テイラー=ジョイの表情が堪らない。 アニャ・テイラー=ジョイが主演としてメインを張った時点で、彼女がこの地獄絵図を生き残ることはある意味必然(「スプリット」の“ビースト”から生き延びたのだから)だったろうが、相変わらずの眼力でシェフと観客を魅了している。 主演女優をはじめ、配役とそれぞれの演技も素晴らしかった。 狂気の料理人を体現しきったレイフ・ファインズは、彼の芳醇なキャリアにおいても特筆すべき印象的な演技を見せ、劇中のレストランのみならず、本作そのものを支配していたと思う。 個人的に長らくファンのバイプレイヤー、ジョン・レグイザモの安定した存在感、ベトナム系女優ホン・チャウのおぞましい立ち位置も見事だった。 彼らを筆頭に、様々な人種が混在するレストラン内の面々がこの世界の縮図を表していたのだとも思う。 そして、実はシェフよりもよっぽどサイコパスだったグルメマニアを演じたニコラス・ホルトのキャスティングも抜群にハマっていた。 冒頭のスタッフの宿舎を案内するシーンでの「燃え尽きることはないのか?」というゲストの何気ない発言だったり、「シェフは死と戯れる」、「すべてを受け入れて赦すのです」といった序盤の様々な台詞回しが、“メニュー”の伏線となっていくストーリーテリングも見事。[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-17 09:28:33)《改行有》

47.  ゲームの規則 第二次世界大戦前夜の時代、フランスの“上流階級”の人間たちの愚かさと滑稽さを描いた群像劇は、驚くほどに感情移入することができない。それくらい、彼らの思考と価値観そのものが、我々庶民からは異質であり、遠い位置にあることの表れだろう。 ただしそれは、何もこの映画で映し出された時代や環境に限ったことではないのかもしれない。 今この世界にも、確実に“上流階級”というものは存在していて、そこに巣食う人々は、一般ピープルにはまったくもって常軌を逸した思考経路でこの世界を捉えているのだろう。 そして、どの時代においても、そういう人間たちが、資本を牛耳り、結果的にこの世界全体の意思を司っているという現実に、本作の顛末同様にクラクラと目眩がするようだった。 フランス映画界の名匠ジャン・ルノワールの最高傑作とされる本作は、そうした遠くもあり、実のところこの世界の本質的な“愚”が詰まった何とも皮肉でブラックなコメディ映画だった。 ブルジョワたち(今で言うところのセレブリティ)同士の色恋沙汰や人間模様、享楽的な人生観が、ひたすらに滑稽で呆れる。 手放しで面白い映画とは言い難かったけれど、この世界の根幹に存在する“笑えない”愚かさは伝わってきた。群像劇を彩るそれぞれの人物描写も細やかだったと思う。 特にルノワール監督自身が演じた財産も才能もない食客の男が、小間使いの男と共に“屋敷”を去っていく顛末には、監督自身が感じていたこの世界からの逃避への願望が如実に表れていたと思う。 “ゲーム”とは何なのか。社交場での立ち振舞か、社交界における人間関係か、人間のエゴイズムの取り回しか。 いずれにしても、そのくだらない“ゲームの規則”の中で、雁字搦めになりながらも、それに抗うすべもなく依存することしかできず、体裁と偽善的な笑顔を保つしかない彼らの生き様に対して、感情移入せぬまま、ただただ不憫に思えた。 冒頭の狩猟パーティーの途中、数週間前に銃の暴発で太ももを撃ち抜かれて亡くなった社交界仲間のことを笑い話にするくだりがある。 今宵の飛行家の死も、きっと二週間後にはアンラッキーな事故として、彼らの中の笑い話として葬られるのだろうな。[インターネット(字幕)] 7点(2023-09-17 07:51:40)《改行有》

48.  ワイルド・スピード/ファイヤーブースト えっ!?ええっ!!?えええっっ!!!の連続。それは、このアクション映画シリーズを愛し、この第10作に至るまで堪能してきたファンにのみ許された特典的なエキサイティング性だったかもしれない。 無論、必ずしも“一見さんお断り”というわけではなく、圧倒的物量のアクションシーンと怒涛のスペクタクルは、誰が観ても高揚する娯楽性を放っていたけれど、その根底にあるのはやはり、本シリーズのファンも含めた“仲間”に対する「家族愛」であり、シリーズを追い続けてきたからこそ得られる高揚感が確実に存在していた。 「ワイルド・スピード(原題Fast & Furious)」の最新10作目にして、最終章の前編となる本作は、常識や現実なんてものは、もはや遠い彼方に置き去りにしたアクション&ファンタジーとして、堂々と仕上がっている。本作の“あり得ない”描写に対して、揶揄したり、鼻白んだりすることしか出来ないのであれば、もうそれはこの“車”からお降りいただくしかない。 最終章を描くにあたって、敵味方を含め過去9作に登場してきたキャラクターたちを“総動員”させようという心意気も嬉しい。 それは、“ファンサービス”と言ってしまえば確かにその通りかもしれないけれど、去ってしまった仲間に対する敬愛、そして倒してきた敵からの憎悪の連鎖とが入り交じる本シリーズの人間模様の総決算でもあり、相応しい顛末に感じた。 シャーリーズ・セロン演じる最凶の敵サイファーが、いきなり呼び鈴を鳴らして訪ねてくる冒頭シーンに驚き、絶対に死亡していたはずの“ワンダー”な女性キャラの再登場に高鳴り、“不仲”が伝えられていた最強捜査官の復帰に歓喜した。 そして、ジェイソン・モモア演じる本作の敵ダンテのイカれジョーカーぶりも最悪で最高だった。 本作においてドムの追撃をことごとく阻み、ついには“ファミリー”を「崩壊」にまで至らしめたこの悪役の暴れっぷりと狂いっぷりは、近年のヴィランの中でも随一の存在感を放っていたと思う。 キャラクター的にはもう一人、前作で悪役として登場したドムの実弟ジェイコブも、その“キャラ変”ぶりが最高の一言だった。ドムの息子“リトル・B”との道中のやり取りは、その微笑ましさと痛快さに終始ニッコニコ状態。この叔父・甥コンビのロードムービーだけで1本の映画が作れるのではないかとすら思えた。 ジェイコブは、前作からの禊も含めた涙腺崩壊必至の“離脱”となるけれど、本作の世界観が描いてきた「常識」を踏まえると、ほぼ確実に、「ジェイコブ叔父さんは帰ってくる」だろう。 というわけで、本作は「前編」として、ある意味最高にエキサイティングな終幕を迎える。2025年公開の次作が待ちきれないところだが、本シリーズが積み重ねてきた10作分をじっくり観返して待つとしよう。 何度も何度も大切な仲間たちを生き返らせてきた「ワイルド・スピード」の最終作であれば、しばらく不在の“もう一人の主演俳優”も、まるで何もなかったように復活するに違いない。と、非現実的なことを信じずにはいられない。[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-03 22:23:28)《改行有》

49.  地球防衛軍 東宝特撮映画が大好きで、その第一人者である本多猪四郎監督の作品はほぼ観てきた。 特技監督の円谷英二と組んだ数々の特撮映画作品は、時代を超えてクリエイティブの真髄を僕たちに見せてくれ、世界中のクリエイターたちに今なお影響を与えて続けている。 本多猪四郎の最後の特撮映画作品は、1975年の「メカゴジラの逆襲」なので、1981年生まれの僕には劇場のスクリーンで観る機会は無かった。 そんな折、古今東西の名画を映画館でリバイバル上映する企画「午前十時の映画祭」で、「地球防衛軍」が上映されるという情報を得て、これは観に行かなければと数ヶ月前から心に決めていた。 「地球防衛軍」は、本多猪四郎監督作の中で数少ない未鑑賞作品だったので、これを逃す手は無かった。 普段は選択しないが、シアター内の前方席を予約し、やや見上げ気味の体勢で東宝特撮を堪能することにした。角度的にやや見辛かったことは否めないが、稀代の特撮映画を見上げながら味わうことも、この機会ならではだと思えたし、多少の観心地の悪さは、本作が公開された当時の映画館の環境を擬似的に味わえているようにも感じた。(途中聞こえてきた男性の寝息に対する不快感もまた一興) 冒頭、幾度も見てきた「東宝」のオープニングロゴに続き、「本多猪四郎」、「円谷英二」とクレジットが大写しになった時点で、感慨深さを覚えた。 モゲラによって倒壊する山村、伊福部昭の劇伴にと共に出動する自衛隊の兵機、それらの描写は、これまでも東宝特撮映画をつぶさに観てきた者にとって決して目新しいものではなく、幾度も鑑賞してきた光景ではあったけれど、劇場のスクリーンに映し出されているということが、やはり感動的だった。 映画のストーリーテリング自体は、極めてチープで大雑把なものだが、この味わいこそが特撮映画の妙味でもあるので、終始微笑ましく鑑賞することができた。 本作は、自分が想定したよりも東宝特撮映画としても、本多猪四郎監督作としても初期の作品だったようで、平田昭彦、佐原健二、志村喬ら、常連俳優たちの若々しい姿も新鮮だった。 東宝特撮映画に限らず、往年の名作、大作を、今の時代に改めて劇場鑑賞できる機会は、極めて重要に思える。地方でもこういう機会が増えることを望む。 翌日、起床した途端に首から背中がやたら痛く身動きが不自由になっていた。寝違えたのかと思ったが、このレビューを書きながら、「ああ、前方席で無理な角度で映画を観たからだ」と気づいて、激しく後悔した。[映画館(邦画)] 6点(2023-08-20 17:25:36)《改行有》

50.  バービー(2023) 小学6年生の娘はブルーやグリーンが好き。小学3年生の息子はピンクやイエローが好き。 自分の好きな“色”に対して、子どもたちが違和感を持つことはないし、親の僕自身も好きな色を選べば良いと心から思うけれど、一方で、こうやって敢えて言葉にすること自体が、僕自身が古い価値観を抜け出しきれていない証明なのだろうとも思う。 ただ、時代の変遷とともに移り変わり様変わりする価値観そのものを「古い!」と言って一概に否定したり、拒否したりすることは容易なことだけれど、あまり意味のないことだとも思う。 なぜなら、一つ一つの価値観には、それぞれの時代や環境において、何かしらの「意味」と「役割」を持っていただろうから。 本作の主題である“バービー人形”は、その顕著な事例であり、価値観という概念を象徴するものだったのだと思えた。 それまで少女たちの“ままごと”の子守相手に過ぎなかった人形が、バービー人形の登場により、夢や理想を投影する存在となった意味。 そして、少女(=女性)たちに、“定番”の夢と理想を与えて、“現実”から目を背けたかった意図。 なぜ少女たちは、金髪の白人人形に自らの夢を投影したのか、なぜ女性たちは非現実の世界に逃げ込まなければならなかったのか。 そこには、「功罪」が等しく存在していて、一方的な否定も肯定もできないと思う。 時代の変化、社会の変化に伴い、価値観の象徴であるバービー人形の存在意義そのものが問われることは必然だろう。 ただし、だからといってそれまでの価値観をそっくりそのまま“反転”できるかというと、無論そうではない。 「時代が変わった」「価値観が変わった」とただ声高に叫んで、バービーたちの女性社会を、ケンたちの男性社会に逆転させてみたところで、本末転倒で結局何も変わらないということ。 本作の最も素晴らしいところは、そういったこの世界の“価値観”の今現在の有り様に対して、極めてフラットな視点に立ち、そのことを偏った価値観の象徴であった“定番バービー人形”の変化の中で顕わにし、笑い飛ばしていることだ。 “定番”であり、世界の女性たちの夢と理想の権化であると信じていた“彼女”が、いつの間にか古臭い旧時代の女性像の象徴であると突きつけられるシーンは、つまるところ、今この瞬間に是とされている価値観すら常に変容していくものだということを物語っていると思えた。 いつからか世界は「完璧」を求めすぎている。 それは決して皆が一様に完璧な自分になりたいわけではなく、完璧でなければ許容されない現代社会の風潮に振り回されているからだろう。 そして、その“風潮”自体にも、必ずしも真っ当な信念があるわけではなく、ただ耳障りのいい“トレンド”に過ぎないことが、この世界の悶々とした息苦しさに繋がっているように思える。 本作は、ピンク一色のイカれた世界観の中で、浅はかな見識や無責任な正義感によって、“ポリコレ”や“ジェンダーレス”という言葉の嵐に振り回される現代社会に対する痛烈な批評性と風刺に満ち溢れていた。 “バービー人形”の中に、今この瞬間の世界で描き出すべきテーマの本質を見出し、映画化を実現し、この狂気的な映画世界の中で終始“バービー”としての存在感を貫き通したマーゴット・ロビーが、映画人として、女優として、そして一人の現代人として、本当に素晴らしい。[映画館(字幕)] 8点(2023-08-20 11:14:45)《改行有》

51.  逆転のトライアングル とどのつまり、人間社会というものは、「格差」とそれに伴う「階層」を取り払うことなんてできない、ということを本作の終着点における虚無感は物語っている。 現代社会において、全世界的に“格差の是正”が問題提起されていたり、幅広い要素での“ポリティカル・コレクトネス”がともすれば病的なまでに声高に叫ばれている昨今ではあるけれど、果たしてそこに本質的な理解と実行力が伴っているのか。 結局、聞こえの良い言葉を一種のトレンドや、免罪符のように振り回して、個々人の立場を正当化しているだけではないのか。 この映画の痛烈な批評性と、度を超えたブラックユーモアは、そういう現代社会の実態を痛々しく丸裸にしている。 俗世の象徴とも言える豪華客船に乗船した様々な“階層”に人々。彼らの中に、真に中立的で、公正な人間は存在しない。 本作の舞台となる豪華客船や無人島がこの世界の縮図を表している以上、それはすなわちこの世界に中立公正な人間は存在しないということの証明であろう。 したがって、本作を鑑賞したすべての“社会人”は、それぞれの信条や立場において、ものすごく居心地の悪さを感じることだろう。 ヨーロッパの映画(スウェーデン・フランス・イギリス・ドイツ合作)らしく、多様性に富んでいると同時に、ものすごく振り切ったブラックユーモアの連続がときに痛すぎる程に痛快で無慈悲なコメディ映画だった。 船が難破して無人島でのサバイバルが始まらなくとも、人間社会のヒエラルキーなんてものは、時代や価値観の変化によって突如として逆転するものだ。 その逆転が生じたとき、人間は己の中に確実に存在する“闇”を目の当たりにする。 それは、皆等しく業の深い人間には避けられないことなのかもしれない。 映画作品として意欲的すぎるシニカルさを称賛する反面、全体の構成としてはややバランス感に欠けている印象も拭えない。 主人公のカップルのみに焦点を当てたプロローグ的な一章目の描き方や、ヒエラルキーのあらゆる階層が“同乗”する豪華客船上を描いた二章目の作りは興味深かった。が、無人島が舞台となる三章目は、テーマに対する回答と帰着を描いているわりにはやや冗長に感じてしまい、よくあるシチュエーションでもあるので新鮮味が薄れてしまった。 ラストのオチを踏まえると、無人島パートはもっとスマートに、端的な愚かな人間たちの有様を描いてよかったように思う。 他の文化圏でリメイクされたならば、同じストリーテリングであったとしても、また別のどす黒いユーモアが新たな“闇”を浮かび上がらせるだろう。 虚しく、愚かしいことだけれど、それはそれで観てみたいなと、業深い人間に一人として思ってしまう。[インターネット(字幕)] 7点(2023-08-19 17:38:35)《改行有》

52.  ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE “Actor”とは文字通り“Action”を追求し表現し続ける“生き方”であることを、今年61歳になるハリウッドスターは、証明し続ける。 1996年にトム・クルーズ自身の手によって製作された「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新第7作。 27年余りの年月を経て、主人公イーサン・ハントを体現し続ける稀代のスター俳優は、“演者”としてのボーダーラインをとうの昔に超えてしまい、本作では文字通り境界のその先に我が身を放り出している。 数ヶ月前にYou Tubeで公開された本作最大のスタントシーンのドキュメント映像を見たときには、トム・クルーズの“映画馬鹿”としての気質を重々理解していた上でも、思わず「馬鹿かよ」と口に出さずにはおられず、ニヤつきが止まらなかった。 これまでのシリーズ作同様に、アクションシーンのアイデアを起点としてストーリー展開が構築されるスタイルは本作も変わらず、むしろさらにそのコンセプトが加速している。 163分の長尺の上映時間ほぼ目いっぱいに展開される数々のアクションシーンは、どれも驚きと娯楽性に溢れていて、そのアクションの過剰なエンターテインメント性に対して、ストーリーテリング自体が振り落とされないように必死にしがみつているような印象すら覚えた。 特に本作は、シリーズ初の二部構成の“前編”ということもあり、多少のストーリー的な説明不足感や、真相や伏線回収はあえて放置して、ひたすらにアクション描写に振り切っているようにも感じた。 ただその一方で、描き出されるテーマとほぼイコールの存在として描き出される本作の「敵」は、この2023年の映画としてあまりにもタイムリーであり、トム・クルーズの映画プロデューサーとしての視点の確かさにも感服する。 劇中“それ”と呼称され、全世界へ支配力を強める神のごとき存在として対峙する“AI”との戦いは、まさに「デッドレコニング(=推測航法)」の主導権を巡る戦いであり、すなわち人間とAIにおける未来の覇権争いへと繋がっていく。 無論、来年公開予定の続編がただただ待ち遠しいが、本作の各シーンでセルフオマージュされた「ミッション:インポッシブル」第一作からまた見直しつつ待つことにしよう。 ただひとつ、“彼女の死”がフェイクであることを願いながら。[映画館(字幕)] 8点(2023-07-30 17:49:11)《改行有》

53.  君たちはどう生きるか(2023) 少し唐突な印象も残るくらいにあっさりと映画が終わった。 その時点で、とてもじゃないが言語化はまだできておらず、一抹の戸惑いと、何かしらの感慨深さみたいなものが、感情と脳裏を行き交っている状態の中、少しぼんやりとエンドロールを眺め見ていた。 すると、「作画協力」として、今やこの国のアニメーション文化を牽引する錚々たるスタジオの名前が整列するように並んでいた。 他のアニメスタジオが作画協力に名を連ねること自体は、さほど珍しいことでもないのだろうけれど、スタジオジブリ作品、そして本当に宮崎駿の最後の監督作品になるかもしれない本作のエンドロールにおけるその“整列”には、何か特別な文脈があるように思えた。 そしてはたと気づく、ああそうか本作の「真意」は、クリエイティブの極地に達した創造主からの、新たな創造主たちに向けたメッセージだったのだなと。 宮崎駿、その想像と創造の終着点。 そこには、彼がこの世界に生まれ落ち、いくつもの時代を越えながら吸収してきた数多のクリエイティブの産物で溢れかえっていた。 彼が吸収したものが、いくつものアニメーション作品の中で具現化され、一つ一つの「世界」となって、積み木のように積み上げられていったことをビジュアルによって物語っているようだった。 そしてその世界は、「崩壊」という形で、時を遡って、何も生み出していない無垢な自分自身に継承される。それはまるで、クリエイターの根幹たる魂が「輪廻」していくさまを見ているようだった。 宮崎駿が生み出した「世界」そのものは、創造した自分自身の手によって崩壊という終焉を経て、無に帰す。 ただし、同時にそこからは、色とりどりの無数のインコが飛び立っていく。 この色とりどりのインコたちこそが、エンドロールに名を連ねた新世代(ジブリ以降)のアニメスタジオであり、新たな創造主たち(=クリエイター)を表しているのだろう。 “声真似”をするインコを用いたのは、どこか“ジブリっぽい”アニメ作品を量産しているクリエイターたちへの皮肉めいた批評性、というか明確な“イヤミ”もあるのかもしれない。 その一方で、宮崎駿自身がそうであったように、先人たちの数多のクリエイティブを吸収し、真似て、発信しようとするプロセスは、必然であり、正道であることを暗に伝え、激励しているようにも思えた。 あらゆる側面において、極めて意欲的な作品だったと思う。 ただ、本作においいて、宮崎駿というクリエイターの本質とも言うべき“支配力”や“エゴイズム”が、全盛期同様に満ちていたかというと、そうではなかった。 クリエイティブという活動そのものの性質や限界を考えると、それは至極当然のことだろう。 むしろ、クリエイターとしての限界のその先で生まれた作品だったからこそ、本作はそれに相応しい「崩壊」や「終焉」をエモーショナルに描き切ることができたのだと思う。 創造と崩壊、巡り巡ったその先に、君たちはどんな「世界」を創るのか。 様々な解釈はあろうが、それは、「夢と狂気の王国」築き上げ、積み上げ続けた一人の狂気的なクリエイターの、決して優しくはないが、力強いメッセージだったと思う。[映画館(邦画)] 8点(2023-07-25 23:01:16)(良:1票) 《改行有》

54.  名探偵コナン 緋色の弾丸 休日、子どもたちが観ていたので、横目で見ていたら、結局最後まで観てしまった。 振り返ってみれば、実に10年ぶりのコナン映画鑑賞。 「名探偵コナン」は単行本を連載開始当初より買い続けていて、既刊全巻保有をなんとかキープしている。 が、とっくの昔に購入自体が「惰性」になってしまっており、新刊を購入するたびに、妻とともにアンチトークを繰り広げるのがお決まりとなっている。 通常回からかなり“トンデモ”要素が強まってきており、キャラクターたちの時代錯誤な台詞回しも手伝って、ツッコミどころ満載の漫画になっているわけだが、映画化になるとそのトンデモぶりはさらに強まる。 本作の最強ツッコミポイントは、何と言っても赤井秀一による、名古屋ー東京縦断超絶射撃だろう。 あらゆる物理的法則や常識を超越した“弾丸”は、すべての殺人トリックをなきものにするメチャクチャな展開だった。 まあしかし、漫画作品同様、大いにツッコミながらこの世界観を楽しむのが、正しいあり方なのかもしれない。[インターネット(邦画)] 4点(2023-06-26 16:50:20)《改行有》

55.  怪物(2023) 「怪物」と冠されたこの映画、幾重もの視点と言動、そして感情が折り重なり、時系列が入り乱れて展開するストーリーテリングは意図的に混濁している。そして、その顛末に対する“解釈”もまた、鑑賞者の数だけ折り重なっていることだろうと思う。 本当の“怪物”は誰だったのろうか? そもそも“怪物”なんて存在したのだろうか? 詰まるところ、私たち人間は皆、脆くて、残酷な“怪物”になり得るということなのではないか……。 鑑賞直後は、自分一人の思考の中にも、様々な感情や気付きが入り混じり、形を変えていった。 ただ、僕の中で、しだいに導き出された明確な「事実」が一つある。それは、この社会の中で一番“怪物”に近く、一番“怪物”になる可能性が高いのは、やはり「親」であろうということ。 本来人間なんて、自分一人を守り通すことだけでも必死で、余裕なんてあるはずもない。 でも、ただ「親」になるということだけで、問答無用に自分自身以上に大切な存在を抱え、それを「守り通さなければならない」という「愛情」という名の“強迫観念”に支配される。 微塵の余地もなく、自分の子を守ることも、正しく理解することも、「親なんだから当たり前」と、自分自身も含めた大半の親たちは、思い込んでいる。 でも、その“私はこの子の親なんだから”という、自分自身に対する過信や盲信が、得てして「怪物」を生み出してしまうのではないか。 一人の親として、本作を観たとき、最も強く感じたことは、誰よりもこの僕自身がモンスターになり得てしまうのではないかという“恐れ”だった。 したがって、本作の登場人物たちにおいても、最も「怪物」という表現に近かったのは、安藤サクラ演じる母親だったと、僕は思う。 彼女は、愛する息子の変調を憂い、いじめやハラスメントを受けているに違いないと奔走する。 シングルマザーとして息子を心から愛し、懸命に育てる彼女の姿は、“普通に良い母親”に見えるし、実際その通りだと思う。 意を決して学校に訴え出るものの、校長をはじめとする教師たちからあまりにも形式的で感情が欠落したような対応を繰り返される母親の姿は、とても不憫で、まさしく話の通じない“怪物”たちに対峙せざるを得ない被害者のように見える。 しかし、視点が変わるストーリーテリングと共に、物語の真相に近づくにつれ、母親が「怪物」だと疑っていたものの正体と、本人すらも気付いていない彼女自身の正体が明らかになっていく。 彼女は明るく、働き者で、息子の一番の味方であり理解者であることを信じて疑わないけれど、実は、夫を亡くした経緯がもたらす心の闇を抱え続けている。 そのことが、無意識にも、息子に対して“普通の幸せ”という概念を押し付け、アイデンティティに目覚めつつある彼を追い詰めていた。 最初のフェーズでは、紛れもない“良い母”だった彼女の言動が、視点が転じていくにつれ、自分が“奪われてしまったモノ”を、一方的に息子の未来で補完しようとしているようにも見えてくる。 “普通に良い母親”が、実は抱えている心の闇と、我が子に対する無意識の圧力と、或る意味での残酷性。 母親のキャラクター描写におけるその真意に気がついたとき、目の前のスクリーンが大きな“鏡”となって自分自身を映し出されているような感覚を覚えた。 無論、“普通に良い父親”の一人だと信じ切っている僕には、安藤サクラが演じる母親を否定できる余地などなく、只々、身につまされた。 人の親になろうが、学校の先生になろうが、人間である以上、心には暗い側面が必ず存在する。 その側面がたまたま互いに向き合ってしまったとき、人間は互いを「怪物」だと思ってしまうのかもしれない。 長文になってしまったが、ちっとも纏まりきらず、語り尽くせぬことも多い。 子役たちの奇跡的な風貌、田中裕子の狂気、坂元裕二の挑戦的な脚本に、亡き坂本龍一の遺した旋律……。 鑑賞にパワーはいるが、何度も観たい傑作だ。[映画館(邦画)] 10点(2023-06-24 23:02:19)《改行有》

56.  NOPE/ノープ 《ネタバレ》 恐怖映画が苦手なので、気鋭のジョーダン・ピール監督の最新作として話題性と評判を各方面から聞き及びつつも、なかなか鑑賞に至れなかった。が、この類の作品は、経年するほどネタバレ要素も含めて面白みが軽減してしまうものなので、意を決して鑑賞した。 苦手な恐怖映画として身構えて見進めたけれど、そんな苦手意識を一蹴するとびきり“ヘンな映画”だった。 この手のスリラーは、恐怖の対象として登場する「?」の正体があらわになるまでが、ある意味映画の推進力が及びピークであり、その正体が明らかになった時点で一気に興ざめすることも避けられない。 だがしかし、本作はそんなジャンル映画の宿命すらも織り込んだ上で、大仰で馬鹿げた展開を堂々と貫き通している。おかしな映画ではあるが、それは映画を知り尽くした者のクリエイティブだと思えた。 ジョーダン・ピール監督作「ゲット・アウト(2017)」でも主演したダニエル・カルーヤのギョロッとした目の演技が終始印象的で、彼の周辺に巻き起こる不穏な現象に対するめくるめく様々な感情が巧みに表現されていた。 またその目の演技による、見る、見られるの描写は、本作のテーマである「見せ物」という娯楽への功罪にも繋がっていた。 ティム・バートンの「エド・ウッド」の劇中で、「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」という台詞があった。本作において、未確認飛行物体が吐き捨てた5セント硬貨によって亡くなった主人公の父の悲運は、まさにその台詞を象徴する描写であり、この映画は全編通して、ハリウッド、ひいてはショービジネス全体の罪と罰を描き出しているのだと思える。 兎にも角にも、奇妙なスリラー映画として中盤までを牽引しつつも、そこまでの恐怖感をいい意味でひっくり返すかのごとくSFモンスターパニック映画へ急旋回する本作のストーリーテリングは極めて独特で、やっぱり“ヘンな映画”と結論づけるのがふさわしい。 決戦前夜の食卓に並ぶ缶ビールがなぜかキリンビールの“一番搾り”であったことも謎すぎたが、これは単にプロデューサーと監督が“一番搾り”好きということだったらしい。 そんな意味のないディティールに何か不穏さや意図を感じせるこも、本作が噛みごたえがある映画であることの証明だろう。[インターネット(字幕)] 8点(2023-06-03 12:25:56)(良:1票) 《改行有》

57.  花束みたいな恋をした 《ネタバレ》 この2年あまりの間、いつ観ようかいつ観ようかとずうっと思いつつも、そのタイミングを逸し続けていた恋愛映画をようやく観た。 巷の評判から想像はしていたけれど、やっぱりものすごく堪らない映画だった。 公開当時、最初にこの映画の予告をテレビCMで観たときは、何とも甘ったるいタイトルと、人気の若手俳優を配置した安直なキャスティングに対して、なんて安っぽい映画なんだろうと嘲笑してしまった。 実は個人的に、菅田将暉と有村架純という本作の主演俳優の両者をあまり好んでいなかったこともあり、全く興味を持てなかった。 ただその直後、脚本が「最高の離婚」「カルテット」他数多くのテレビドラマの傑作を生み出している坂元裕二であることを知り、各方面からの評判が耳に入ってくるようになり、次第に「あれ、まずいな」と思うようになった。さてはこれは「未見」は不可避な作品なんだろうと。 そうして鑑賞。僕は結婚をして12年以上になる。「恋愛」という概念からはもう遠く離れてしまったれっきとした中年男性の一人としても、本作が放つ短く淡い輝きは、儚く脆いからこそ、忘れ難いものとなった。 最初のシーン、カフェに居合わせた主人公の二人が、同じ価値観のもとにある行動を起こそうとしてふいに目を合わせる。 そのさまは、誰がどう見ても恋の“はじまり”に見える。 そこから紡がれる二人の5年間の恋模様と到達点が、美しく、切なく、愛らしく描き出される。 決して、特別な恋愛を描いた作品ではない。 本作の終盤でも描き出されるように、世の中のあらゆる場所、あらゆる時代において、まったく同じように若い男女は出会い、花束みたいな恋をする。 ただし、その恋は、両者の成長や変化と共に形を変え、次の全く別のステージへと両者を促す。 花束は、次第にしおれて枯れてしまうこともあろうし、別の場所で根をはることもあろう。 彼らの道のりはとても美しかった。あと一歩だった。 それ故に、あまりにも瑞々しくて輝かしい新しい“花束”を目の当たりにしたとき、もうあの時と同じには戻れないということを思い知り、届かない一歩の大きさを痛感したのだ。 はじまりは、おわりのはじまり。 有村架純演じる絹は、自らの恋のはじまりに、その言葉を思い浮かべる。 菅田将暉演じる麦は、自らの恋の終わりのその先に、ささやかな奇跡を見つける。 そう、この映画の終わりが、“おわり”なのか“はじまり”なのかは、実は誰にも分からない。[インターネット(邦画)] 9点(2023-05-28 22:51:07)《改行有》

58.  キル・ボクスン 「ジョン・ウィック」を皮切りに、「ポーラー 狙われた暗殺者」「ブレット・トレイン」など、“サラリーマン社会”のように企業化され階級付された“殺し屋業界”を描いた娯楽映画がこの数年量産されている。 日本でも、「ベイビーわるきゅーれ」や「ザ・ファブル」がその系譜であり、レベルの高いアクション性と、ある種の“ファンタジー”の中での殺し屋たちの悲喜こもごもの群像劇が楽しい作品が多い。 本作「キル・ボクスン」も、まさしく韓国産の殺し屋業界映画であり、このジャンルと韓国映画の相性をきっちりと見せつけている。 韓国映画では、強烈なバイオレンス描写を見せるとともに、どこか気の抜けた台詞回しや、登場人物たちの言動とのギャップが、映画作品としての独特の味わいとなっていることが多い。 それは韓国という国の社会風俗や、思想、教育倫理を根底にしたアイデンティティであり、韓国映画が唯一無二の娯楽性を生み出している大きな要因だとも思える。 韓国映画が描き出す“殺し屋業界”は、極めて激しく暴力的であると同時に、生々しい滑稽さが、空想上の“リアル”を導き出していた。 「先輩」の命令は絶対である揺るぎないタテ社会の中での、殺し屋業界の面々の人間関係がまず面白い。 業界における伝説的エースである主人公を、畏怖と共に敬愛する“同業”の飲み友達が集まる居酒屋だったり、所属する殺し屋会社の訓練生たちからの尊敬の眼差しだったりと、他の国の同ジャンル映画には無かった人間模様が新鮮でユニークだったと思う。 ただし、だからといって殺し屋同士で馴れ合うばかりではなく、いざその“対象”となれば、躊躇なく殺し合うシーンへと転じる急激な変調が、アクション映画としての見事な抑揚を生み出していたとも思う。 韓国映画として、アクションシーンのクオリティの高さはもはや言うまでもない。アクションシーンのパターンやそれに伴うカメラワークのアイデアがとにかく豊富で、「ジョン・ウィック」のように決して銃弾が飛び交うような派手なシーンが多いわけではないにも関わらず、137分の時間が飽くこと無く過ぎ去っていく。 無論、殺し屋稼業と思春期育児を行き来するシングルマザーの主人公を描いたストーリーテリング自体が上手く展開していたことも本作のオリジナリティを高めていたと思う。 殺し屋としての苦闘以上に、15歳の我が娘との距離感や教育に苦悩する主人公描写こそが、本作の要であり、主人公を演じたチョン・ドヨンは両極端の人間性を絶妙なバランス感覚で、説得力をもって演じ分けていた。 冒頭の日本人ヤクザとの対決における片言日本語描写はご愛嬌。 組織内で主人公と並ぶ手練れとして名前だけ登場する“カマキリ”が、続編への布石であることを期待したい。[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-09 15:08:11)《改行有》

59.  ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー 《ネタバレ》 昨年前作を観て、主人公であるJK殺し屋コンビが織りなす空気感と世界観にすっかり魅了されてしまった。 ほぼ「無名」と言っていい髙石あかりと伊澤彩織という二人の若い女優たちが体現する特異な“殺し屋像”は、国内外のボンクラ映画ファンたちを虜にしたに違いない。 特にスタントマン出身の伊澤彩織は、圧倒的な体術とアクションスキルによる“説得力”を全身に帯びつつ、朴訥とした“らしさ”があまりにも魅力的だった。 そんな作品の続編が公開され、珍しく地元の映画館でも公開されるというのだから、仕事を終えた終末の夜、隣町までレイトショーを観に行った。 前作の良さがある部分においてはしっかりと引き継がれ、またある部分においては大きく欠落してしまっている続編ではあった。 まず感じたのは、作品全体のテイストが必要以上にユーモアに振られすぎている感があったなということ。 女子高生上がりの殺し屋を主人公にしたコメディであることは前作から勿論変わらないけれど、前作には殺し屋稼業を描くバイオレンス性や狂気性が明確に存在し、それに伴う大きな“振れ幅”が魅力的な映画だったと思う。 言い得て妙だけれど、本作は殆どコメディに全振りしていて、明らかにその振れ幅が少なくなってしまった分、逆にアンバランスな印象を受けてしまった。 それに付随する形で、最も「難点」だったのは、“殺し”描写をあからさまに避けすぎてしまっていること。映画作品を取り巻くどの部分に対する配慮があったのか無かったのか知らないけれど、いくら笑えてライトなコメディ映画であっても、本作が“殺し屋映画”である以上、全編通して主人公たちに明確な殺人描写を与えなかったことは、大きすぎるマイナス要因だった。 業界トップクラスの一流のアサシン(暗殺者)である主人公たちが、その反面高校を卒業したばかりの「女子」であり、社会経験や社会性の無さも相まって右往左往する“ギャップ”こそが、本作の最大の面白味であるべきで、魅力的な彼女たちのキャラクター性にただ依存してしまったことは、逆に彼女たちの魅力を半減させてしまっている。 前作よりも少し年を重ねて「女子」から「女性」へと変化していくリアルな生活感を追いつつ、しっかりと殺し屋としてのステータスや経験値、そしてバイオレンス性も高める彼女たちの生き様を追求して見せてほしかったなと。 ただそれでも、髙石あかりと伊澤彩織が二人きりで表現する女同士のキャッキャ感と絶妙な空気感には、やっぱり魅了され、それだけで三杯飯が食える。 益々アクションの鬼と化している伊澤彩織には思わず身悶えてしまう。 描き出される世界観は、まさに日本版「ジョン・ウィック」であり、そもそも破茶滅茶な設定なのだから、もっともっとイカれてカワイイ狂気的なファンタジーを貫いて、さらなる続編に期待したい。 (新登場する落ちこぼれ兄弟コンビとの“対バン”構図は非常に良かったので、再登場求む)[映画館(邦画)] 7点(2023-04-08 17:48:50)《改行有》

60.  Winny ある時、TikTokのフィードに流れてきたショート動画で、「金子勇」という天才プログラマーの存在を知った。それは本当につい先日のことで、恥ずかしながら私はその時までこの人物のことをまるで知らなかったし、彼が生み出した「Winny」というソフトウェアがもたらした功罪を、まったく理解していなかった。 この一個人の「無知」と「無関心」も、本作で描き出される“不世出の天才プログラマー”の運命を狂わせた一因なのではないかと、映画を観終えて数日経った今、思いを巡らせる。 本作は、ある理由もあり、ことさらに自分自身の無知と無関心に対して、痛烈に突き刺さる作品だった。 本作では主人公である金子勇氏の「Winny事件」と並行して、同時期に発覚した愛媛県警の裏金問題と、その告発者となった現職警官の苦悩が描かれている。 ちょうどこの時代に、私は地元(愛媛県)の放送局でカメラアシスタントのアルバイトをしていて、本作で吉岡秀隆が演じた警察官・仙波敏郎氏の自宅での取材に同行したことがあった。 そして、取材を担当していた記者やカメラマンの無責任な陰口を聞きつつも、特に何の感情も持たずに、仏壇に線香をあげる現職警官の厳つい横顔を見ていた自分自身の姿がフラッシュバックと共に蘇った。 そう、本作で描かれた事件の一端は、まさに自分の目の前でも繰り広げられていたのだ。 もっと言えば、私自身、Winnyそのものではなかったと思うが、類似するファイル交換ソフトを興味本位で利用して映像や音楽のダウンロードを試してみたこともある。 何が言いたいのかというと、無自覚で無知な大衆の一人であった私は、自分が目の当たりにしている物事の本質を何も分かっていなくて、それを理解しようともせず、ただ漠然と事件を眺めていたのだ。 無論、当時20代前半のフリーターだった私が、何ができた、こうすべきだったとおこがましいことを言うつもりはない。ただ、これらの事件に対する世間のスタンスは、学歴や職種、ステータスに関係なく、ほぼ同じようなものだったのではないかと思う。つまり、社会全体が、無知で無関心だったのだ。 “事件”に対して、大衆の一人ひとりが無知を恐れずに、ソフトウェア開発の本質をもっと正しく理解しようとして、自分たちの社会にとって何が有益で、何が不利益なのかということをもっと積極的に関心を示していたとしたら、国家権力による一方的な横暴は結果的に起こり得なかったのではないか。 劇中、主人公本人の台詞の中でも表現されていたが、時代に対して、このソフトウェアの開発が早すぎたのか、遅すぎたのか。もしくは、日本の社会そのものがあまりにも“時代遅れ”だったのか。 今この瞬間も、「捏造」という言葉があいも変わらず飛び交い、そのあまりにも酷い体たらくぶりに辟易してしまうこの国のあり方に対して、この映画が提示する批評性は、辛辣に突き刺さる意義深いものだったと思う。 アメリカなどでは、こういう現実社会の事件を取り扱った作品は極めて豊富で、何か題材となり得る事件が 起きたならば間髪入れずに映画化してしまうけれど、日本映画でこの手の作品が、しっかりと娯楽性を保ちながら製作されたことは稀だし、とても喜ばしい。 主演の東出昌大は、実在の天才プログラマーを見事に演じきっていたと思う。 裁判中でありながら、溢れ出るアイデアのあまりプログラミングに没頭してしまう主人公の姿は、ソフトウェア開発者としての彼の純粋な姿を雄弁に表していた。 だからこそ、その貴重な時間と機会を奪ってしまったこの事件の顛末は、何も体質が変わっていない社会に対して改めて重くのしかかる。[映画館(邦画)] 8点(2023-04-07 23:33:20)《改行有》

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