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621.  4分間のピアニスト 《ネタバレ》 ハンナ・ヘルツシュブルングと初対面したモニカ・ブライブトロイは不作法で凶暴な彼女に失望し、騒乱状態となった部屋を退出していく。看守たちが駆け付け、渡り廊下もまた騒然とするが、画面はスローモーションとなりBGMのごとくピアノ曲が流れだす。 その曲に反応するように振り返るモニカ・ブライブトロイの表情によってそれが現実音であったことが判明する。 あるいは映画後半、画面を横切るピアノと共にヒロインを消して驚きを創出するショットなど、さりげなくハッタリを利かせた趣向が光る。 そして、窓外の外光や屋内のランプなど合理的光源に限定した自然主義の照明設計が創り出す画調が全編に亘っていい。 冒頭で首吊り死体の背後に光る朝陽のショットを始め、いずれのショットも自然光と暗部の黒がよく映えている。 その極めつけがクライマックスの演奏であり、スポットライトの蒼い光と闇は、音楽とヒロインだけの世界を画面に現出させる。 映画のラストを締めくくるヒロインの眼差しのストップモーションは名状しがたい最高度の情動を湛え、素晴らしい。 [DVD(字幕)] 8点(2012-04-26 22:46:23)《改行有》

622.  ももへの手紙 《ネタバレ》 『となりのトトロ』が感動的なのは、気丈な姉サツキが泣く姿を妹メイが影から「黙って」「見つめる」からであり、迷子になった妹を探しまわる姉の懸命な走り(アクション)とひたむきな表情が露呈しているからである。 この映画はそこをどう処理するか。アルバムに落ちる涙の滴は、娘ももに見つめられることはなく、娘は母がアルバムを見て泣いていたことを、後姿の回想から「憶測し」我々観客に「お母さんは泣いていたんだ。」と言葉によって二重説明してしまう。 この一点からして演出の凡庸ぶりを物語っている。心ある演出家ならアルバムに落下する涙の滴は、間違いなく娘の「見た目のショット」となるよう、処理を工夫するだろう。成瀬巳喜男のように。 見られることそのものこそ映画の要である上、「落下」と「滴」はこの作品の重要な主題なのだから。具体的な涙を介して見る/見られることで二人の絆は回復されるべきだ。説明台詞などもっての他だろう。 母親の影の苦労・心労が具体的アクションで提示されることが一切ないのは勿論、不安に駆られながら娘を心配して探しまわるアクションが説明的ショットの連続に終始し、描写になっていない。 前半で「息絶え絶え」の娘の走りを丹念に見せるなら、後半に母のそれを照応させるのは基本だろう。 それが半端な為に映画はクライマックスにおいても母娘間のエモーションが高まらない。 なまじプロットを類似させているからこそ、映画的資質の差が如実に現れてしまう。 ご当地描写は模写の域を出ることはなく、異化効果がまるでない。アニメーションである意味はどこにあるのか。 巻頭巻末を繋ぐ水滴の落下と、少女の飛び込み。その下降のモチーフも中盤にみかん畑の傾斜を配置しておきながら、弱い。 単にロリコン趣味だけが浮き上がっている。 [映画館(邦画)] 4点(2012-04-26 19:47:48)《改行有》

623.  バトルシップ(2012) 《ネタバレ》 日本版『バトルシップ(ヤマト)』のビジュアルエフェクト担当は、この映画を見習うとよろしい。 メカニックのスケール感・ケレン味の演出とはCG予算の多寡ではなく、キャメラポジションであり、アングルであり、艦体を引き立てる対照物(波、飛沫、敵艦、アンカー)の活用であり、テンポ(ツメとタメ)であると判るだろう。 階級・国籍を超えて砲弾を抱え上げ、運ぶ男達の協働の姿。若手に装填を指南するベテラン。艦首で大きく砕ける波濤を艦橋に登ったテイラー・キッチュが望む俯瞰ショット。 そういう具体的アクションの積み重ねが、深いパースペクティブを活かした構図やハードロックの劇伴と共にミズーリ出撃やT字戦法の圧倒的エモーションを形づくっている。 山崎版『ヤマト』に必要だったのは、そうした人間が操る艦としての描写の豊かさだ。 『機動警察パトレイバー2』や『ガメラ3』など日本製戦争映画(共に伊藤和典脚本)の「ディスプレイ上の戦争」の形式を必然性のある形でボードゲームに見事にアレンジしているこうしたアメリカ映画こそ、したたかである。(球体の殺戮兵器は『機動戦士ガンダムF91』のそれを思わせる。) なによりも、巷のありきたりな粗探しを愚かしく思わせてしまう潔さがいい。 荒唐無稽だからこそ、いかにも大作絡みの政治的ゴマスリに乗せられる心配もない。 (云うまでもないが、作り手の「ご都合」で企画され、書かれ、演じられ、撮られ、編集され、一定時間内に再現された虚構であるあらゆる物語映画は「ご都合主義」である。ご都合主義こそ映画だ。ゆえに『バトルシップ』はより映画的である。) [映画館(字幕)] 8点(2012-04-26 02:15:02)《改行有》

624.  リアル・スティール 《ネタバレ》 ヒュー・ジャックマンのシャドーボクシングや、ダコタ・ゴヨのダンスにピタリと同調してみせるロボットの運動リズムに視線がシンクロしていく快楽と官能性。 小津『父ありき』の川釣りシーンでの父子の運動や、『東京物語』でバスに揺れる乗客たちの同調運動の快感を思い出しても良い。 ロボットが二通りのトレースをする根拠は映画の中盤とラストで少年の口からはっきりと説明されているとおりであるが、そうした説話上の合理的根拠付けもしっかりと行いながら、その使い分けが各ショットにおいて同調運動の官能性をより高める形で選択されている事こそ重要である。 向かい合う少年の動きに合わせ同方向に小首をかしげてみせるロボットの、機械的であると同時に人間的でもある動き。ブルーの眼の輝き。ロボット側頭部で回っているファンのレトロなモーター音。その静かなショットに流れる繊細な情感がいい。 雨の上がった朝方の街道で、手押し車でロボットを運んできたダコタ・ゴヨがヒュー・ジャックマンに無言で殴りかかるショットの構図や距離感など、地味にいいショットも随所に散りばめられている。 そして最終ラウンド前のインターバル。音声認識を失ったロボットへの台詞「Watch Me」の響きとともに「見ること」の主題が立ち上がる。 リングサイドで三者の視線の交錯がスローで連なっていくリズムが断然素晴らしい。 視覚の交流。やはりスピルバーグの映画である。 [映画館(字幕)] 8点(2012-04-23 22:15:43)《改行有》

625.  アーティスト 《ネタバレ》 幾度も導入される鏡面、水面、質屋のショーウィンドウといった反射装置、または肖像画、あるいは階段などの建築構造で以て「映画スターと映画」という虚像および虚構空間の隠喩をやらんとする意図だけは伝わる。 しかし、まさにその意図だけしか伝わらない。理屈だけの、体裁だけのオマージュ。 「モノクロ」「サイレント」に対するも然り。モノクロは単にモノクロであるだけで、レンズのフォーカスや照明の繊細な技法が創り出す画面の艶やエモーションに対する無頓着を見せつける。 『サンライズ』など、どこにも見当たらないが。 フィルムが燃え上がる炎も煙も、タランティーノの画面にも遥かに及ばない。 犬の「芸」はただ単に人間の調教ぶりを示すだけだ。 加えて、饒舌で説明的で煩わしい劇伴音楽がさらに画面の邪魔をする。 恐らくはグリフィスを意識しただろう「最後の瞬間の救出」のクロスカッティングがこうも盛り上がらないとは。 とどめは、サイレント俳優がトーキーへの「適応手段」として思いつきのような「名案」に乗って要領良くタップダンスに転向し活路を見出すという安直な作劇。 幼少から鍛錬と努力を積み上げてきたはずのハリウッドのダンス「アーティスト」達も随分と舐められたものだ。この脚本では、そう取られても仕方ない。 だから、頭でつくられたダンスになりさがる。 ケリーかアステアか。どうでも良い。そういうスタイルの問題ではない。 [映画館(字幕)] 2点(2012-04-23 21:07:42)《改行有》

626.  戦ふ兵隊 戦意高揚を目論む「撮らせる側」に対する「撮らされる側」の精一杯の抵抗と反骨が画面に滲む。 巧妙なレトリックで多義性を担保した字幕によって検閲を欺こうするも、やはり画面と被写体は作り手の思い入れや真情を如実に浮かび上がらせてしまう。 家を焼かれ、項垂れる中国農民。道端に残され、臥していく1頭の病馬。疲労し切った兵卒の眼差し。夜の野営地に寂しく響く驢馬の鳴き声。 明らかにやらせとわかる最前線の中隊本部の描写がふるっている。約10分間のフルショット・ロングテイク。同時録音らしい生々しさを醸しながら、どこか間の抜けた滑稽さをも纏う。 亀井監督の本作での演出意図に関する考察は、佐藤忠男の「日本映画の巨匠たちⅡ」などに詳しいが、付け加えるとするなら本作における行軍の構図取りもまた確信的なものだろう。 南京から漢口へと西進する日本軍がアニメーションの矢印で地図の左手方向に伸びるように示されるが、実際の行軍の画面は逆に右手方向へ向かうようにフレーミングされたものが多い。 田坂具隆監督の『土と兵隊』などが、一貫して左手方向への進軍となるよう画面作りしているのとは対照的だ。 ショットによっては、右方向へ行軍していた列が、(曲がり道のため)画面手前で左手に反転するかに見えるものもある。 これもまた日本軍の大陸での「左往右往」を文字通りに皮肉ったものと云えなくもない。 作中には、「(家に)帰りたい」と語る中国人捕虜のショットと字幕も登場するが、これが日本軍兵士の本心を暗に代弁させたものとするなら、この行軍のショットが示す方向性もまた、兵士たちの内なる思いを慮ったゆえのものだろう。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-04-23 01:07:46)《改行有》

627.  ジョニー・ベリンダ ヒロイン、ジェーン・ワイマンの出のショットとなる納屋のシーン。 雌牛の出産を手懸けるリュー・エアーズの指示で娘が灯りを高くかざすと、その彼女のクロースアップが暗闇から美しく浮かび上がる。 他にも、彼女自身の出産シーンやチャールズ・ビックフォードの葬儀シーンにおけるランプシェードなど、「闇から光へ」の宗教的主題を表すライティングの数々が素晴らしい。 舞台は冒頭の解説で示されるとおり東海岸だが、どうやらロケは西海岸らしい。 テッド・マッコードのキャメラは海沿いの風景を瑞々しく切り取り、嵐の前触れの不穏な感覚なども生々しく捉えている。 複数の人物を的確に配置した屋内のフレーミングもいい。 そして、叔母役:アグネス・ムーアヘッド、ステラ役:ジャン・スターリング、父親役:チャールズ・ビックフォード、いずれも地味な所作の中に人柄を滲ませる芝居で素晴らしいが、やはりジェーン・ワイマンの純真無垢な佇まいと表情が傑出しており、独壇場といって良い。 『舞台恐怖症』での彼女も外面のイメージと合致した役柄でとてもよいが、聾唖の設定である本作の彼女は、視線と手話の柔和な動きとで見事に役を生きている。 冒頭で、生まれた子牛に頬を寄せる彼女の慈愛の所作は、我が子を守り抜く映画の最後まで一貫して美しい。 父親を追悼する彼女の祈りの手話がとりわけ感動的だ。 [DVD(字幕)] 9点(2012-04-21 00:11:01)《改行有》

628.  僕は戦争花嫁 戦禍の生々しく残るドイツの街並みを往くサイドカー。 その狭いシートに押し込められたケイリー・グラントとその横で颯爽と運転するアン・シェリダンの図が、このスクリューボール・コメディの女尊男卑を端的に物語る。 前半はドイツの農村の牧歌的なロケーションの中で繰り広げられる異性間闘争が軽妙で楽しいが、後半は結婚した二人と「男性社会的」組織との闘争となる。 狭いサイドカーや浴槽に押し込められ、ペンキ塗りたての柱に登らされ、さらには干し草の山に突っ込み、と散々な目に遭わされ続け、ベッドでゆっくり眠る事すらままならないケイリー・グラントの被虐の連続に、後半は笑いも少々弾けづらい。 その反面、結婚申請を邪魔した男性士官を派手に盆で殴り、グラントをリードしていくアン・シェリダンがひたすら痛快だ。 [DVD(字幕)] 7点(2012-04-17 23:54:22)《改行有》

629.  アレクセイと泉 チェルノブイリの被曝地域であるブジシチェ村にご両親と共に暮らすアレクセイ・マクシメンコさん。その朴訥としたナレーションと、はにかむような表情と佇まいがとても素晴らしい。ラストの老夫婦のツーショットも心が暖まる。 朝もやの美しい情景を始めとする固定ロングショットの数々は、ともすれば単に「美しい風景」に陥りそうなところで、湧き出る水や村に残る様々な動物たちや高齢者たちの慎ましく淡々とした営為がフィルムに「生」のダイナミズムを湛えさせている。 その映画志向は『ナージャの村』から一貫しているものだ。 収穫を祝う村人たちのパーティと踊り。色鮮やかなスカーフを巻いて踊る女性たちと、酔いつぶれている男性たちのショットが微笑ましい。 水汲みや農作業、木材の切り出しから洗い場の組み立てまでの労働。落成した洗い場にイコンと十字架を供え、祈りを捧げる村人たちの敬虔な様が尊く美しい。 村人の周りに常に寄り添っている動物たち(馬、犬、家鴨、豚など)。 人間が汚染した土地に、邪気無く共存していく彼らの姿が愛おしい。 被曝地帯である現場に腰を置きつつ被写体である彼らに不必要に寄ることをしないキャメラの倫理は、3.11後を報道するテレビドキュメンタリーのカメラの多くがその涙を狙って被災者の顔面と眼に図々しく寄っていく浅ましさの対極にある。 それは、ひたすら『感情移入』と称した他力的な感傷と刺激の欲求を肥大化させていく「見る側」の倫理問題でもある。 [ビデオ(字幕)] 9点(2012-04-04 00:32:07)《改行有》

630.  僕等がいた 前篇 《ネタバレ》 同じ生田斗真出演、同じ釧路地区ロケでありながら、俳優にきちんと方言指導を施し、ロケーションを多彩に展開してみせた『ハナミズキ』の仕事のほうが数段誠実である。 主人公を取り巻く人間関係の展開、男女の距離の見せ方、映画的交通手段のあり方、季節の提示、携帯電話の用法など、様々な観点においてあまりにも演出が貧困でレベルが低い。 特に最初に挙げた二点のいい加減さは、作り手の単なる怠慢に他ならない。 方言は人物の人間味の演出と上京のドラマを語る上で必須の要件だろうし、主演二人の実力からすれば雑作もないことであるのは過去の出演作に明らかでありながら、それを課すことが出来ないのはスタッフよりもキャスト優位の環境ゆえか。それら手抜きの集積によってキャラクターの生活感が失われていく。 説話の効率の悪さも致命的である。 一例だが、生田斗真と吉高由里子が噴水のベンチで語り合うのを、本仮屋ユイカが見ていたというシーン。縦の構図一発で十分に語れるものを、俳優のスケジュールの都合かどうか知らないが、ショットをただただ官僚的に連ねひたすら説明に勤しむ。その繰り返し。 おまけに、使いどころを間違えているとしか思えない劇伴音楽がひたすら耳障りだ。 そうした陳腐で不出来なドラマと、要領の悪い語り口が駅での別れまで延々と続く。 結果、この程度のオハナシが自堕落に引き延ばされ、詐欺のごとく二時間超まで弛緩する。 そして結局、肝心の主演二人の人物像すら満足に描写できていないという体たらくだ。 後篇まで付き合う気は無い。[映画館(邦画)] 1点(2012-04-03 23:27:33)《改行有》

631.  ヒューゴの不思議な発明 フランスで生まれ、イタリアのスペクタクル史劇映画を経由したトリック映画の造形性・見世物性を継承・発展させているのがアメリカ映画であることをスコセッシ監督が如実に示す。 この作品でのストーリーテリングも、メリエス作品のようにそのスペクタクルを目的とするためにあると云って良い。だから作劇はもっとシンプルでも良いくらいだ。 解説的で、直截的で、打算と下心まる出しにも見えてしまうオマージュの作法には辟易するのだが、それはほとんど変節ともみえる作風の違いを受けての不純な読みでもあってどうも居心地が悪い。 列車や時計盤といった一目瞭然の声高オマージュよりも、『ダイヤルMを廻せ!』の鍵穴、『めまい』の階段、『ハリーの災難』の足、『下宿人』のガラス張りの床などを意識した立体効果のように、暗に提示されているそれらのほうにこそ心は動く。 [映画館(字幕)] 5点(2012-04-01 14:08:02)《改行有》

632.  ハナミズキ 『涙そうそう』に続いて有名楽曲をモチーフにしたアイドル映画だが、 安易な死を用いた泣かせ志向の脚本も相変わらずである。 ヒロインの生活感や身体感覚の欠如ぶりも初作『いま、会いにいきます』から全く進歩がない。新垣結衣はプラトニックな世界で単に物語に沿った喜怒哀楽の表情演技を見せるのみである。 たとえば「稲荷寿司を既に食べてしまった」というやり取りが象徴するように、この映画で彼女がまともに食事するシーンはほとんど無い。この映画に限ったことではなく、現在の「アイドル」映画の一般的傾向で、寝・食という非物語的かつ非アイドル的行為は説話的経済性と女優イメージ保護からか真っ先に映画のシーンから排除される。 結果的にヒロインは人間味を欠き、浮世離れする。 実際は物語的には無意味にみえる日常的な食事こそふとした人間味を露呈させる生活行為であり、優れた演出家は人間描写として食事シーンを決して疎かにしない。 ヒロインの実在感の希薄さ、人間性の欠如の一因は心理の説明不足などではなく、演出家の身体行為に対する感覚の欠如に由来するというべきだろう。 その点、生田斗真の朴訥とした所作と方言と労働ぶりはまだ共感性が高い。 原曲のモチーフとはいえ、甘い恋愛ドラマのお飾り程度に9.11やら戦場カメラマンを利用する安直ぶりも気になる。[映画館(邦画)] 4点(2012-03-31 23:54:55)《改行有》

633.  ローマの休日 半醒半睡状態のヘプバーンがグレゴリー・ペックのアパートのらせん階段で見せるサイレントギャグの冴えを始め、ワイラー印の「階段」の数々は本作ではロマンチックなアイテムとしてある。 一方で得意のパンフォーカスによる縦構図も、夜の別離のシーン(駆け去るヘプバーンと、それを手前の車中から見送るG・ペック)や、ラストの記者会見シーン(画面奥から手前へと順々に握手していくヘプバーン)などに活かされているのだが、その用法は実にさりげなく抑制的であり、技巧が前面に出てくることはない。 その代わりに際立つのが、(本作以前と比して)ワイラーらしからぬ「通俗的」切り返しのモンタージュの多用である。 そのエモーショナルなクロースアップの数々と視線の劇は結果的にスター映画として主演二人のスクリーンイメージのアップに大きく貢献すると共に、その「物語」を最も効果的に語り切ることとなる。 自身の持ち味である映画的技法を抑制し、突出させぬこと。説話に徹することで原作(Story)の美点を最大限に引き出すこと。 それこそが、赤狩りの渦中ワイラーへ累が及ぶのを懸念しノンクレジットに徹した原作者ダルトン・トランボに対する映画作家の敬意と報恩だったのではないか。 密告と不信の時代に「信頼と友情」(「faith in relations between people」)の主題を王女とアメリカ人記者とカメラマン(エディ・アルバート)の間にさりげなく忍ばせた脚本の声高でない慎ましさ。 それは劇中の会見の場で、主演二人が交わす短い台詞の背後に込められた万感の真情とも響き合う。 恋愛劇・ビルドゥングスロマンとしての魅力と、劇中でヘプバーンが飲むシャンペーンのような軽妙なコメディの奥に、時代の切実なテーマ性を含ませたストーリーの豊穣。 そしてそのストーリーに奉仕する為、自らの技巧を透明化してみせたワイラーの矜持に打たれる。 50周年記念ニューマスター版において、デジタル修復によって初めてクレジットされたStory by Dalton Trumboの記名が感慨深い。 [DVD(字幕)] 10点(2012-03-23 22:54:11)《改行有》

634.   オリジナル140分に対し、現存するのは巻頭・巻末部分を欠いた92分のフィルム。 ロングテイク主体でありショット数は250弱だが、その全てが素晴らしい。 出稼ぎにいく娘たちのシルエットが丘の稜線に小さく消えていくロングショットの美。 波打つ稲穂の揺れが拡がっていく緩やかな移動撮影。 斜面が活きた独特の農地の中を人物が走行するキアロスタミ的なジグザグ運動。 囃子のリズムに重なりながら、天秤棒を担いで水を運ぶ父娘を捉えるトラックバックの映画性。 風見章子が愛しげに掬い上げる精白米に注がれる光の眩さ。 そして、石臼や足踏み式脱穀機の生み出す土着的なリズム。 山本嘉一が座る囲炉裏端を捉えた屋内真上からの構図だけで醸し出されるただならない雰囲気。果たして傍の藁に引火し、一気に火の手が上がり家屋が炎に包まれる中を老人と子供が必死に這い逃れる姿を追う迫真のショットの苛烈な様。 各ショットの映画的充実ぶりは挙げ出せば限がないが、それは殊更な風俗描写や技巧の披歴ではなく、あくまで俳優と風土の素朴な佇まいと素朴な語り口の融合によってもたらされているものであり、生活風景の中のさりげない台詞ひとつひとつが人物描写として映画に厚みを出している。 フィルムの欠損と原作通りの徹底した茨城言葉の録音は、却って物語よりも言葉の意味よりも、映像と音の響きそれ自体の充実をより際立たせてくれており、作品の素晴らしさを損なうものではない。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-03-17 21:01:11)《改行有》

635.  顔のないスパイ 本来なら星条旗の露出は、中盤の木々のざわめきや物干しにかかった衣類のはためき、情報屋のアジトである304号室の廊下の窓外で揺れる影などと共に何よりも具体の揺れとして画面に呼び込まれるべきはずだが、その頻出はメリハリを欠く上に何らかの象徴的な意味付けを感じさせて少々煩わしい。 逆に議員暗殺現場の路地の照り返しや、回想シーンの中で倒れている妻と娘に駆け寄るリチャード・ギアのロングショット、格闘シーンに入り込む割れた鏡など、所々に差し挟まれたさりげない部分の方が目を引く。 プラント内の監視室のシーン。リチャード・ギアより先に観客にトラップに気づかせてしまうようなモニター画面の映し方も小器用ではないし、主役二人の暗殺アクションの数々は短いカッティングが逆に俊敏性を欠いて物足りない一方、スティーヴン・モイヤーが乾電池二つを呑みこむ1ショットの異様が突出してしまう辺りの不均衡もこの映画の歪な魅力でもある。 尤も、小器用な映画などに面白味はない。 [映画館(字幕)] 8点(2012-03-12 00:34:03)《改行有》

636.  ミカエル 《ネタバレ》 室内劇、フィクス主体の端正な画面である上、役者の動作も抑制的でスタティックであり、その画面の美的な求心力と緊張感は尋常でない。 ドイツ表現主義的な画面としては、画家の養子ミカエル(ヴァルター・シュレザーク)が師のスケッチを勝手に持ち出すシーンに拡大投影される竜の黒い影程度に慎ましいが、室内の調度品や美術品、宗教的意匠の数々のみならず、繊細なライティングに浮かび上がる女性たちのショットの輝きは息を呑むほどの素晴らしさである。 そしてその静的な画面ゆえ、女性が小さな溜め息をつく肩や画家(ベンヤミン・クリステンセン)の表情筋の微細な動き、絵筆を折る手の抑えたアクション、そして画面に張り巡らされた各々の視線の微妙な変化が、映画的事件ともいうべき強度を孕む。 特に、ミカエルが恩師を手伝う場面で突出する視線の劇が白眉である。 青年とも、女性モデル(ノラ・グレゴール!)とも、切り返しショットによって視線が結びあう事のない画家は、どうしても彼女の目を描くことが描くことが出来ず、ミカエルに代わりに絵筆を持たせる。 彼女の視線のショットである、アイリスで縁取られたフォーカスの中心が巨匠画家からミカエルのほうへ移動し焦点化され、そして二人の見詰めあう目のクロースアップがカットバックによって繋ぎあわされる。 ショットによる視線の結びつきが示す、心理的関係の劇的かつ決定的な変化がここにある。 かつてミカエルに見ることを諭した画家は、彼に看取られることなく生涯を終えていく。 その臨終の言葉、そしてラストショットの夫人の残酷な美しさも印象的だ。 [DVD(字幕)] 9点(2012-02-28 17:50:40)《改行有》

637.  ギターを持った渡り鳥 雄大な山肌を背にした一本道を荷車が往くファーストショットから素晴らしすぎる。 灌木が疎らに散らばる平原。あたかも演出されたかのような雲の表情。それはいかにも北米西部の荒野の風情だ。函館方向と大沼方向を示す道標から、背後の山が北海道大沼の駒ケ岳とわかる。 続いて函館山から俯瞰した市街、その夜景、そして歓楽街の街路へと画面は移り、バーの店内ではアメリカ人らしき船員らが揉めている。そのバーの長いカウンターテーブルの美術がまた彼国風でいい。 そこへ至る一連の流れも鮮やかだ。 映画は港の倉庫街、連絡船乗り場、湾内の堤防、函館独特の坂道などを奥深いパースを用いながらシネスコ画面を目一杯使って的確にフレーミングしてみせる。 とりわけ、序盤で通りがかりの子供のために風船を買ってやる小林旭の、橋を使った縦構図のロングショットなどは絶品だ。 洋上の船の荒々しいローリングも素晴らしく、ロケーションの魅力が全編に亘って存分に詰まっている。 その揺れる船上で対決する小林旭と宍戸錠も相当なタフであり、殴り合い主体の擬斗シーンもカットを割ることなく、持続的なアクションを当人が見事にこなしている。 ビリヤード台を挟んだ二人の、因縁の対決の瞬発性。 主人公の過去を数ショットに留め、多くを語らない経済性。 シンプルな物語を効率よく語りながら、主題歌のメロディを明確に印象付けてしまう洗練された技能。 それらが、充実しながら無駄のない77分を創り出している。 [DVD(邦画)] 8点(2012-02-26 22:01:17)《改行有》

638.  プライド/運命の瞬間 某スポンサー丸抱えによって製作されたこの映画。 法廷シーンで「本作」が弄する恣意的改竄・方便・歪曲の数々は、山田和夫「日本映画の歴史と現代」なり、木下昌明「映画と記憶」なり、「映画芸術No386」なりに詳しいので省く。 勿論、恣意的に再構築された虚構たる劇映画を真に受けるほど観客もウブでも愚かでもなかろうし、政治性よりも社会性よりも映画はまず映画として見られるべきであるのは云うまでもない。 冒頭の、焼け跡から東條家の庭のトマトへとパンするカメラなどは良しとしても、津川雅彦のグロテスクな表情芝居と、それを捉える仰角クロースアップが何よりも映画として醜悪であり、『裁かるゝジャンヌ』とは比ぶべくもない。 「闘う東條」という劇画をやりたいのなら徹底して劇画タッチを貫けばよいものを、一方ではパールのモノローグ、大鶴義丹の狂言回しと、主観と客観が中途半端に混交し、視点が拡散し、一貫しない。苦肉の戦略上、インドを無理矢理盛り込まざるを得ない関係から構成も自堕落となり、冗長である。 『女囚さそり』シリーズや『誘拐報道』の劇画タッチと、曖昧なリアリズム演出との致命的な齟齬、それは本作同様に実際の事件を題材とした近作『ロストクライム‐閃光‐』においても変わっていない。 [ビデオ(字幕)] 1点(2012-02-26 08:25:52)《改行有》

639.  ドラゴン・タトゥーの女 音入れの工夫が際立っている。 映画は男女それぞれのシーンが交互に展開していくが、次のシーンからの音を前のシーンの最後に挿入する、いわゆるズリ上げが随所でシーン間の浸透とアクセントの効果を挙げており、長丁場のドラマをスムーズに繋いだ秘訣の一つだろう。 そして心臓の鼓動のような、環境雑音のような微妙な音響の活用。レイプシーンに重なる廊下の掃除機の不協和音、あるいは過剰なまでに悲痛な絶叫が前面に出ることで、画面に不穏の様相が与えられていく。 拷問シーンにかかる挿入曲「オリノコ・フロウ」によって不気味さを増す対位的な効果、静寂の丘に響き渡るライフルの銃声のインパクトなども絶妙だ。 オープニングとは対比的な叙情性に富んだ静かなエンディングのサウンドトラックがヒロインの切ない姿に被り、一際耳に沁みる。 一方では、写真フィルムの流れやルーニー・マーラの手際の良い仕事ぶりを表すハイテンポのカッティングが説話のリズムを創り出し、無機質な邸宅内の廊下を歩くダニエル・クレイグと資料室の書架の間を歩くルーニー・マーラの一体化された構図のクロスカッティングは静かな緊迫感を醸し出す。 サウンドのズリ上げ・ズリ下げだけでなく、構図的連続を擬したシーン転換の技巧も、交互に語られる二人のシーン間のモンタージュを滑らかにし、二人の関係性を映画的に強調する効果まで挙げており秀逸だ。 それら精密に設計された編集による緩急もまた音楽的と云える。 [映画館(字幕)] 7点(2012-02-25 20:23:38)《改行有》

640.  東京島 《ネタバレ》 導入部の大胆な省略と、蛇を捕獲する木村多恵のインパクトあるショットで一気にドラマに引き込む語りの妙は原作の出だしにも負けていない。 現代風刺や寓意性を殊更に強調しない節度も原作の精神の尊重だろう。 したたかと脆弱、善良と狡猾と、ヒロインのみならず個々のキャラクターも多面的かつ複雑な諸相を見せる点に、人間描写へのこだわりの意思が伺える。 キャストとは対照的に原作を始めとする主要スタッフには女性が多く、特に出産シーン以降は反逆光を活かして力強さと繊細さと色彩美を湛えた芹澤明子の撮影が印象的だ。 サヘル・ローズと木村が洗濯する水辺のシーンにおける水面の光の照り返し。 岩場の影で、生まれた赤子を懐に抱く二人のショットの自然な光。 後日談での、東京の夜景を背景にした食卓のキャンドルの暖かな灯りなどは格別に美しい。 窪塚洋介が背負う亀の甲羅のユーモアが秀逸で、10年後のエピローグにもさりげなく登場することで物語に映画オリジナルの膨らみをもたらしている。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2012-02-23 20:48:30)《改行有》

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