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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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701.  凶悪 恐ろしい映画だったと思う。 自分はこの映画に登場する“彼ら”ではなく、“彼ら”に関わった人間でもないという無意識の立ち位置による屈折した「愉悦」を知らぬ間に敷き詰め、この映画に「娯楽」を感じている自分の意識に気付いたとき、この映画の「凶悪」というタイトルの真意を垣間見た気がし、ゾッとした。 描かれる事件と犯罪が「真実」であることを念頭において観ているわけだから、映し出される凄惨な描写に対して「痛み」や「悲しみ」を感じなければならないという“建前”を意識しているにも関わらず、ピエール瀧(=須藤)の爆発的な残虐性に何故か高揚し、リリー・フランキー(=先生)のおぞましいまでの狂気に引き込まれてしまう。 実在の被害者に対して後ろめたい気持ちを多分に感じつつも、描きつけられる「凶悪」が次に何を見せるのか、どこか期待をしてしまい、その都度「不謹慎」という言葉をぬぐい去ることに苦労した。 「あなた こんな狂った事件追っかけて 楽しかったんでしょう?」 終盤、主人公の妻のこの台詞により自分の中で見え隠れしていた感情が突如丸裸にされる。 見て見ぬ振りをしていた自分自身の深層心理がふいに明るみに放り出されたような気がして、主人公と同様に「やめろ!」と叫びたくなった。 「映画」である以上、いくらノンフィクションが原作だとはいえ、脚色されている部分は大いにあるだろう。 ピエール瀧が度々発する「ぶっこんじゃお」というあまりに印象的な台詞や、リリー・フランキーの脱帽するしかない「怪演」など、映画的な面白さが加味されている要素は多く、それはまさにこの作品が映画として優れている点でもあると思う。 俳優たちの表現はことごとく素晴らしい。一つ一つのシーンも綿密な計算と明確な意思をもって構築されており、見事だったと思う。 ただ敢えて苦言を呈するならば、もう少し「編集」の巧さがあれば、同様の深いテーマを孕んだまま、もっと“面白い”映画に仕上がっていたようにも思う。 もし同じ題材で、というかこの監督と俳優が撮った同じ映像素材を、世界的な映画巧者が編集したならば、例えばアカデミー賞をも席巻するような名実ともに質の高い映画になりそうな気さえする。 ま、そんなのは一映画ファンの身勝手な妄想であり、実際どうでもいいことだ。 こういう本当の意味で骨太な映画が、もっと沢山国内で製作されることを願いたい。[映画館(邦画)] 8点(2013-10-26 17:12:34)《改行有》

702.  L.A. ギャング ストーリー 冒頭に表示される「実際の出来事に着想を得た」という但し書きは、逆に「大部分において脚色をしている」ということだと思う。 これは「映画」なのだから、勿論それで問題ないし、想像したよりもずっと「娯楽」に振り切った作りになっているこの映画の方向性は圧倒的に正しいと思えた。 実在したギャングと彼を撲滅した警察官たちの戦いを描いたというイントロダクションが先行していたので、数多のギャング映画と同様にハードボイルドで骨太な映画なのだろうと期待していた。 ところが、実在の人物たちを描いているという割には、警察官側もギャング側も揃いも揃ってキャラクター描写に漫画的で、実在感がないことに序盤違和感を覚えた。 ジョシュ・ブローリン演じる主人公は、正義感が強いというよりも、殆ど危機感が欠如したイカレ野郎だし、対峙するギャングのボスを演じるショーン・ペンも、過剰な演技プランが際立ち殆どアメコミ映画の悪役と化していた。 「なんだこのリアリティの無さは……」と呆れかけるが、次第にこの映画は「そういう映画」なのだと納得し始めることができる。 曖昧だったリアリティラインを適切なポイントで確定させた最大の要因は、何を置いても主人公の愛妻のキャラクター造形だったと思う。 実在した人物というイメージが先行してしまい、まるで説得力を感じなかった破天荒な主人公のキャラクター性を更に超越した破天荒さで包み込んでしまった彼の妻のキャラクターがあったからこそ、この映画の娯楽性は良い意味で振り切れたと思う。 危険を顧みない任務に就く夫に対して激昂した翌朝、途端に彼のブレーンとして立ち回る様や、夫の留守中にギャングによる銃撃を唯一人で受けた最中に、考えられない生命力の強さを発揮する姿には、主人公以上のヒーロー性を感じてしまった。 「アンタッチャブル」、「スカーフェイス」など名だたる傑作ギャング映画の名シーンを彷彿とさせる場面は多々あり、オリジナリティーが高いとはとても言えないけれど、“パクリ”ではなく“オマージュ”と好意的に捉えることが出来れば、映画ファンが観たいシーンが連続しているとも言える。 主人公チームはもちろん、悪役や脇役に至るまで、下手な深みなんて削ぎ落とした漫画的なキャラクターたちに次第に愛着を持ってしまう。 思っていたのとは違うタイプの映画だったが、だからこそ面白い映画だったと思える。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-10-26 17:10:17)《改行有》

703.  ゼロ・ダーク・サーティ すべてを終えて、帰国の途につくヒロインが、飛行機の操縦士に「どこに行く?」と聞かれる。 他愛もない問いかけの筈だが、彼女は茫然としたまま何も答えられず、一筋の涙を流し、映画は終焉する。 私は何をしたかったのだろう?私は何故こんなところまで来てしまったのだろう? 彼女が抱えたその「虚無感」こそが、この映画が辿り着いた真理だろうと思う。 アメリカによる「ビン・ラディン殺害」を実録的に描き出した今作において最も重要なことは、この映画が、実際に報じられた「ビン・ラディン殺害」から一年余りの極めて短かい期間の中で製作され公開に至っているという事実だ。 それは、この映画で映し出されるものが、リアルタイムの「世界」の姿であることに他ならない。 勿論、この映画の内容が、そのまま総て真実だと認識すべきではないだろうとは思う。 が、あの「9.11」から現在に至るまでの10年余りの時間の中で、アメリカが辿った「混迷」と、それに伴う世界の「混沌」の様は、ありのままに表現されていたと思う。 主演したジェシカ・チャスティンの演技は素晴らしかった。 恐らく意図的であることは間違いないと思うが、彼女が演じたキャラクターは、主人公であるにも関わらずバックグラウンドが殆ど描かれない。 どうして彼女がこの任務にアサインされたのか、どうして彼女はこれほどまで任務に固執したのか。当然生じる疑問に対して敢えて真意を描かず、時に淡々と時に妄信的に職務を遂行する主人公の姿のみが描かれる。 そういった明確なキャラクター性が見え辛い主人公を、この主演女優は絶大な説得力を持って演じていた。 ラストシーン、茫然自失としたヒロインの姿には、世界中を渦巻く「憎しみの螺旋」の中心に、自分が知らないうちに引きずりこまれていたことに初めて気づいた「絶望」が滲み出ていたように見えた。 そして、その「絶望」は決して彼女だけに与えられたものではないと思う。 この世界においてその愚かな“螺旋”が続く以上、世界中のすべての人々が、渦の中心にじわりじわりと引き込まれているということを、この映画は静かに重く訴えかけてくる。 主人公のバックグラウンドが描かれなかった理由は、彼女が「特別」な存在なのではなく、この世界に生きる人々を象徴する存在として描き出すためだったのだと思えた。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-10-25 00:21:42)《改行有》

704.  G.I.ジョー バック2リベンジ もしこれが単体のB級アクション映画であるのならば、決して一方的な否定はしない。 ドウェイン・ジョンソンがお決まりの極太男を演じ、ひたすらに肉弾戦と銃撃戦を繰り広げるという、良い意味で工夫の無いアクション映画としてテキトーに楽しめば良いだけの話だ。 正しい意味で「役不足」と言えるブルース・ウィリスのゲスト出演を見られて「ラッキー」てなもんだ。 が、しかし、この映画が「G.I.ジョー(2009)」の続編である以上、「それじゃあ済まないよ」というのが、映画ファンとして、特に馬鹿アクション映画ファンとしては避けられぬ否定的感情だ。 前作は国際色豊かな秘密組織の“チーム感”が娯楽性を高めていたのに、その前作キャラクターが殆ど総入れ替えになっていることなど、“酷い点”はイロイロある。(無闇矢鱈なイ・ビョンホン推し…、ロンドン市民むご過ぎ…などなど) が、最も問題なのは、“G.I.ジョー”という「玩具」が原作であることによる無限のイマジネーションが、この続編には全く無くなっているということだ。 前作の最大の見どころは、漫画でもアニメでもなく、「玩具」の映画化であることに相応しいギミックの格好良さだった。 世界中の子どもたちが片手に持った兵隊の人形を縦横無尽に動き回す様をそのまま映像化したような豪快さが、この映画シリーズの最大の“売り”となるべきなのに、それが完全に欠如し、ただただ鈍重なアクションシーンが羅列されてはどうしようもない。 そういったあるべき“娯楽感覚”の欠如に、監督の交代が大いに影響していることは間違いない。 前作を監督したスティーヴン・ソマーズは、「ハムナプトラ」シリーズや「ザ・グリード」などの過去作からも明らかなように、分かりやすい娯楽性を導き出すことに優れている。 エンターテイメント大作の監督における「作家性」を軽視しがちだけれど、大バジェットのブロックバスター映画にこそ、適切な娯楽性を導き出すことが出来る「作家性」が不可欠だと思う。 今作では半ば意味不明にボスキャラが途中退席していったけれど、更なる続編を作るつもりなのならば、スティーヴン・ソマーズの監督復帰は絶対不可欠だろう。 「実はアイツは生きてました~!」なんて強引さは全然オッケーなので、今作の“色々”は無かったことにして、前作チームの復帰を監督共々願わずにはいられない。[ブルーレイ(字幕)] 3点(2013-10-22 22:38:15)(良:2票) 《改行有》

705.  トランス(2013) 冒頭、ヴァンサン・カッセル率いる強盗団がオークション会場を急襲する。主人公のジェームズ・マカヴォイも含めて、その面々の面構えが絶妙で惹き付けられた。 俳優の表情というものは、勿論映画づくりにおいて最重要なポイントで、それがきちんと押さえられている映画は、ある程度信頼していいと思う。 そういう映画なので、終始面白く見れたことは間違いない。入り組んだストーリーテリングに絡む人間描写に引き込まれ、観客として最後まで謎を追い求められたのだから、この手の映画として“悪くはない”と断言出来る。 しかし、映画が終わり立ち返ってみれば、大いに腑に落ちない要素が目白押しの映画であることも間違いない。 こういう人間の「記憶」をサスペンスの中核に据えた映画は、観る者を幾重にも重なる謎へ一気に引き込むけれど、許容範囲をしっかりと設けておかないと、際限がなくなり一気にリアリティに欠けるものになってしまう。 ダニー・ボイルらしい繊細且つ大胆な映画世界の中で濃厚なサスペンスが繰り広げられていたけれど、残念ながら少々行き過ぎてしまっている。 決して納得が出来ない話ではないのだけれど、こういう顛末なのであれば、主人公をはじめとする中盤までの人物描写が、導き出される「真相」に対してあまりにアンフェアだったと思う。 結果、クライマックスにかけてこれほど主人公の人格が“急降下”していく映画も珍しく、最終的に誰にも感情移入が出来ないまま、映画自体が突っ走ってしまった印象を覚えた。 なんだかんだ言って、結局、ヒロインが最も悪魔的な行為をしているんじゃないかと思えるし、そうなるとあのエピローグは極めて無責任で、嫌悪感を覚えてしまった。 まあしかし、脳味噌を吹き飛ばされたヴァンサン・カッセルが喋り出したり、昨今の娯楽映画には珍しくヒロインの強烈なフルヌードが唐突に映し出されるなど、想像以上に個性的な映画であることは確かだ。 故に、ルックの秀麗さに反して完成度が高いとは言えないが、無下に否定も出来ない。 タイトルに相応しく、良い意味でも悪い意味でもとても「倒錯的」な映画と言えると思う。[映画館(字幕)] 6点(2013-10-20 23:07:32)(良:1票) 《改行有》

706.  アデル/ファラオと復活の秘薬 「一体いつの時代の映画なんだ!?」と、2010年製作の映画に対して何度も突っ込まざるを得なかった。いちいちノリが古臭いというか、諸々の描写が気恥ずかしいというか、失笑と苦笑がひっきりなしに訪れる作品だ。 どうやら“おフランス”の古いコミックが原作のようなので、全編通して漫画的な展開が繰り広げられること自体は致し方ないとしても、コメディらしい表現が尽くピンと来ず、「愉快」に感じることが出来なかったことが最大の致命傷だと思う。 “面白げ”なキャラクターは続々と登場するが、その全員が完全にスベッている映画も珍しい。 まあ「お国柄の違い」ということなのかもしれないけれど、もし現代においてこれが大ウケするようであれば、僕はフランス人の感性を疑わずにはいられない。(フランス映画のコメディって酷いのが多いので、あながち外れてはいないかも……。) ともかく、何よりも残念なのは、この映画の監督がリュック・ベッソンであるということ。 近年、携わった作品群を見れば、特別に驚くことではないのかもしれないけれど、こういう映画を真剣に監督しちゃっている姿を見ると、ファンとして「勘弁してよ…」と思わずにはいられない。 相変わらずの女好きが高じて、ヒロインに抜擢された無名女優ルイーズ・ブルゴワンのルックは独特な妖婉さを持ち魅力的だったけれど、彼女が演じる主人公のキャラクターそのものには特筆すべき魅力は皆無と言える。 一応、女インディー・ジョーンズ的な主人公を描いた娯楽映画である以上、彼女に魅力が無けりゃ面白い映画になりようがないと思う。 なんか意味不明な続編への布石もあったけど、ぜひとも頓挫して頂きたい。[インターネット(字幕)] 2点(2013-10-17 12:30:49)《改行有》

707.  エリジウム ニール・プロカンプ監督の前作「第9地区」は、彼の出身国である南アフリカ共和国でかつて行われた人種隔離政策(アパルトヘイト)が社会にもたらした影響を如実に反映した特異なSF映画だった。 個人的に、映画としての面白味は認めつつも、その年のアカデミー作品賞にノミネートされるなど、過剰な評価の高さに違和感を覚えた。 作品の性質上、もっとカルト的な人気を得るべきタイプの映画であると思えたし、この監督自身も限定的な製作環境の中で無限の可能性を示すタイプのクリエイターに思えた。 そういう思いがあったので、前作の思いもよらない大成功を経て、ハリウッドの潤沢な製作資金を与えられた作り手が、果たして“持ち味”を維持出来るものかどうかという危惧が期待を大きく上回っていたことは確かだ。 そうして、映し出された映画世界は、はっきり言って「凡庸」の一言に尽きる。 それほど悪くもないが、特筆すべきハイライトや目新しさも殆ど無かった。 SF大作として、映画全体のクオリティーはぎりぎり及第点に達しているとは思えるけれど、主人公にマット・デイモン、敵役にジョディ・フォスターを引っ張り出しておいて、「この程度」ではやはり低評価は免れないと思う。 莫大な資金を使って、近未来のロサンゼルスを自分のホームグラウンドである“ヨハネスブルグ化”して描き出した映像世界は見事なクオリティーだったとは思う。 しかし、理想郷である“エリジウム”との対比により、世界各地で見られる富裕層と貧困層との各社社会を反映する意図は充分に理解出来るが、描き出された世界観は明らかに前作やその多くのディストピア映画の二番煎じと言わざるを得ず、新しい映画としての高揚感がまるで無かった。 製作環境が一変しようとも、己の趣向を貫き通すだけの“エゴイズム”が、この新鋭監督に備わっていなかったことがもっとも残念に思えることだろう。 次回作は「第9地区」の続編かな?成功によるしがらみをかなぐり捨てて、原点に回帰出来るかどうか。この映画監督にとって、結構大きな分岐点になるような気がする。 監督の“お友達”のシャールト・コプリーは、良い味を出している。「第9地区」、「特攻野郎Aチーム THE MOVIE」に続いて、演じるキャラクターの“イカレ具合”が安定している。勿論褒めている。 [映画館(字幕)] 5点(2013-10-14 23:27:52)(良:1票) 《改行有》

708.  クロニクル 《ネタバレ》 「童貞をこじらせる」なんて表現がしばしば使われるけれど、この映画ほど“童貞をこじらせた”主人公を描いた作品は他に無い。 この映画の主人公は確かに不幸な境遇にあるけれど、彼の暴走と発狂の発端は、決して特殊なことではなく、世界中の「男子」の誰にでも起き得ることであり、普遍的であるが故に、同時に彼に対する同情の余地はあまりない。 しかし、だからこそこの映画が“描くこと”は極めてリアルで、身につまされ、ちょっと笑えない。 登場するキャラクター自身が撮影している体で映し出される「POV方式」で、ふいに超能力を得た3人の男子高校生の顛末を描いた今作。 「アイデア一発」の映画に捉えられがちだろうが、決してそんなことはない。 多くのPOV映画が、「リアル」というものをビジュアル的に安直に追い求めて失敗しているのに対して、この映画は必ずしもビジュアル的な要素に「リアル」の焦点を当てていない。 この映画がPOV方式をとった意味は、主人公をはじめとする現代の若者たちの「自己表現」の手段、詰まるところの「自画撮り」をストーリーテリングの「主眼」に据えるために他ならない。 他ならぬ僕自身もまさにそうだが、SNS、スマートフォン……取り巻く環境に伴い、「自分を撮る」ということは、もはや屈折でもなんでもなく、世界中の若者にとって普遍的な自己表現の一つとなってきている。 「他者」との関わりを拒絶し、その距離感が広がれば広がるほど、自身の主眼はより内向きになり、必然的にカメラのレンズも自らを映し出すようになる。 それこそが、この映画がこの撮影方式によって求めた「リアル」だったのだと思う。 映画は、非常にミニマムで内省的な青春映画のように始まり、コメディからアクション、悲愴感が溢れる破壊衝動を経て、ヒーロー映画の秀逸な「前日譚」のような帰着を見せる。 綻びもあるにはあるが、そんなものどうでも良くなる程に、なんという発想の豊かさだろうと思える。 そんな映画世界を殆ど無名の若いスタッフとキャストで作り上げていることに、眩い輝きを感じる。 キャストで印象的だったのは、やはり主人公を演じたデイン・デハーン。 独特な鬱積を秘めた目と、滲み出る危うさは、若い頃のレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせる。 既に注目作へのキャスティングも決まっているらしいが、今後の注目株であることは間違いないだろう。[映画館(字幕)] 9点(2013-10-14 23:05:08)(良:2票) 《改行有》

709.  Wの悲劇 流行の中で生まれては消える“アイドル”という“生き方”の数だけ、アイドル映画というものは存在する。 “演じる”ということにおいては素人に毛が生えた程度の人間が主演を張るわけだから、当然駄作も多い。 しかし、すべてのアイドル映画は、アイドルである彼女たち彼らたちの生き様そのものであり、その存在のみで充分過ぎる価値がある。 そして、中には今作のような紛れもない傑作も確実にあって、その価値は、アイドルファン、映画ファンはもちろん、その時代と大衆にとって計り知れないものになると思う。 或るトップ劇団で「女優」として生きる女たちの間で巻き起こるスキャンダルを、現実と舞台劇の境界を巧みに交えて描く今作。 名だたるキャスト陣がそれぞれにおいて印象的な存在感を見せる。 が、この作品が紛れもない“アイドル映画”である以上、その映画世界を支配するのは唯一人。 「薬師丸ひろ子」という存在に他ならない。 今作で演じた主人公と同様に、この年に二十歳になった稀代のアイドルにとって、この映画は、最後のアイドル映画と言え、アイドルそのものからの「卒業」を意味していると思う。 そのことを如実に表すかのように、この映画は、アイドル薬師丸ひろ子の「処女喪失」から始まる。 そこから初体験の夜を経て、朝もやの帰路につく冒頭のシーンがとても印象的だ。 何気ないオープニングシーンとして描かれてはいるが、そこには幾ばくかの満足感を大いに超える喪失感に溢れていて、薬師丸ひろ子が「アイドル」というレッテルを捨て去り、「女優」として生きていく「覚悟」が満ちている。 それは、主人公自身が女優を目指す道程の「覚悟」と完全にリンクし、明らかなフィクションの世界が、“薬師丸ひろ子”という存在を通じてリアルに結びついてくる。 更には、映画世界内で描かれる現実と舞台劇もがオーバーラップし、二層、三層の世界が陽炎のように重なり合って行く。 僕自身は、薬師丸ひろ子という稀代のアイドルにリアルタイムで熱狂した世代ではなけれど、時代を席巻したアイドルのフィナーレを飾るに相応しい、巧みで情熱に溢れた映画であることは間違いない。 もちろん、「角川」のアイドル映画らしく、時代と剛胆さに伴う“ほころび”は多い。 しかし、その“ほころび”こそが、アイドル映画に絶対不可欠な要素であり、完璧ではないからこそ、完璧な映画だと言えると思う。[インターネット(字幕)] 8点(2013-10-11 17:43:36)《改行有》

710.  野性の証明 大いに「矛盾」しているが、僕はこの映画が「好き」なんだと思う……。 高倉健の男気に10点 薬師丸ひろ子のアイドル性に10点 夏八木勲(夏木勲)の正義感に10点 成田三樹夫の睨みに10点 舘ひろしのどら息子ぶりに10点 三國連太郎の厭らしさに10点 松方弘樹の極道自衛隊っぷりに10点 丹波哲郎のお決まりの特別出演ぶりに10点 “手斧”のみで繰り広げる大殺陣シーンに10点 稀代のアイドルの砂浜かけっこシーン(妄想)に10点 「お父さーーーーん!」に10点 戦車隊に突っ込む決死のラストカットに10点 社会派サスペンス巨編!+アイドル映画!+任侠映画!+自衛隊アクション映画! 全部が混じり合って、見事に“相殺”しあって、結果「0点」! いやあ、見事だ。 これは決して「皮肉」ではなく、ここまでのものを見せるのであれば、“映画作品”として最低点だとしても、「見事」としか言いようがない。 もはや何のかんのと難癖つけることも無粋。 問答無用の「ザ・角川映画」の超大作を目の当たりにして、最高点か最低点のどちらかを付けて終わり! それがこの映画に対する礼儀だ。 というわけで、いくらでも点数の付けようはあるのだけれど、「敬意」を込めての最低点![インターネット(字幕)] 0点(2013-10-10 00:28:57)《改行有》

711.  そして父になる 《ネタバレ》 2年前に娘が生まれた。とても幸福な瞬間だったけれど、同時に「父親になった」という事実に対しては、ふわふわとした実感の無さを感じたことを良く覚えている。 女性は、子を産んだ瞬間に「母親」になると思う。それは、我が子の生命を身籠り、出産するという幸福と苦闘に溢れたプロセスをしっかりと経ているからだと思う。 一方で、男性は、そういった実を伴ったプロセスを経ていないから、本当の意味で「父親」という存在になるまで「時間」が必要なのだと思える。 それが数日間の人もいるだろうし、数ヶ月間の人もいるだろうし、「6年間」かかる人もいる。 この映画のテーマを知ったとき、“親”の一人として、選択の余地はあるのか。と思えた。 傍らの我が子をふと見て、今まで共に生きてきた子を選ぶに決まっている。と、思った。 この映画を、「母親」の目線で描くことはある意味容易だったと思う。 この「事件」において、最も傷つき、最も感情的な対象になり得るのは、当然「母親」だからだ。 しかし、この映画はそういうストレートな感動には走っていない。 「母親」ではなく、「父親」を主人公に据えた意味。それこそが、この作品の価値だと思う。 「交換」という決断を迫られ、夫婦は苦悩する。 母親は、他の誰よりも傷つくが、その分シンプルに決断出来る“強さ”を持っていると思う。いざとなれば自ら育てた子と二人きりででも生きていくという「覚悟」がある。 しかし、そもそも「親」になったということそのものに自信が備わっていない父親は、「子」との距離感に対して大いに惑う。 そこには、「父親」というものの弱さと脆さが溢れていて、それがこの映画が描くドラマ性なのだと気付いた。 映画のテーマに対して「選択の余地はない」と“シーソー”の片方に思い切り重心をかけて映画を観始めた。 そしてこの映画のストーリーは、概ね自分のその意思に沿った着地を見せた。 それなのに、観終わった瞬間、僕は“シーソー”の真ん中に立っていた。 どちらが正しいということは言えず、どちらも間違っていないとしか言えなかった。 「選択」を迫るこの映画は、終始どちら側にも偏ってはいなかった。故に観客は、描かれる人々の言動のすべてに共感し、また拒否することが出来る。 この映画の素晴らしさは、その“立ち位置”によるバランス感覚そのものだ。[映画館(邦画)] 10点(2013-10-06 02:00:08)(良:4票) 《改行有》

712.  ウルヴァリン:X-MEN ZERO マーベルをはじめとしたアメコミ映画は大好きで、大概満足するのだけれど、「X-MEN」シリーズだけは今ひとつ乗り切れず、好きになれなかった。 その最大の要因は明らかで、主人公であるウルヴァリンにどうしてもヒーローとしての魅力を感じることが出来なかったからだ。 一方で、彼が主人公ではない2011年の「ファースト・ジェネレーション」には相当満足したので、やはりウルヴァリンというキャラクター性が性に合わないということだろうと、自身で結論づけていた。 しかし、その結論は必ずしも正しくはなかったようだ。 “戦犯”のレッテルを貼付けていたウルヴァリンの「過去」を描いた今作は、想定を大きく外れて、きっぱり面白かった。 そもそも、アメコミ映画は大好きだけれど、その原作であるアメコミ自体には全く造詣が深くないので、「X-MEN」という作品自体の性質と、その一キャラクターとしてのウルヴァリンの存在性を理解出来ていなかったのかもしれない。 「X-MEN」というアメコミ作品の主役は、あくまでミュータント集団である「X-MEN」という群像そのものであり、ヒュー・ジャックマンが主人公然として演じるウルヴァリンというキャラクターをメインに見据えるべきではなかったのだろう。 ウルヴァリンの個人的な前日譚である今作を観て初めて腑に落ちたのだが、過去の記憶をいっさいがっさい失くして、盲目的に己の「異端性」を呪うしか術の無いキャラクターが、その辺のアメコミの主人公と同様にヒーロー然と振る舞えるわけがなく、どこか屈折し“陰”に傾いてしまうことは必然だ。 このキャラクターにこういった“経緯”があるということを全く知らなかったので、おおよそアメコミ映画の主人公らしくない彼に拒否感を感じてしまっていたのだと思う。 前日譚ではあるが、当然演じるヒュー・ジャックマンにとっては、3作品経た上での(当時の)最新作であるので、そのフィット感は彼自身のスター俳優としての進化も相まって、当然最高潮であり、ウルヴァリンという苦悩に溢れたキャラクターの出自から記憶を失ってしまうまでの様を描いた今作は、物語としても魅力的で、ちょっと感動的ですらあった。 順番は後先になったが、「ファースト・ジェネレーション」の高揚感に続いて、今作の意外な満足感。一気にこのシリーズそのものが好きになりそうだ。 ガン無視だった最新作「SAMURAI」も俄然観たくなってきた。[地上波(吹替)] 7点(2013-10-03 23:06:45)(良:2票) 《改行有》

713.  感染列島 期待通りの“駄作ぶり”に、怒りなんて感じる間もなく、なんだか安堵感すら覚えた。 小松左京風のタイトルからして、てっきりそれなりに売れた原作小説の映画化と思いきや、完全なオリジナル作品だった。 いや、オリジナルという表現にはあまりに語弊がある。国内を騒がした“パンデミック”に対しての危機感に便乗して、1995年の米国映画「アウトブレイク」をパクろうとした映画なのだから……。 「アウトブレイク」は言わずと知れた傑作なので、言い方は悪いがそれをパクること自体は、もはや問題ないと思う。 問題なのは、そのパクり方があまりに「下手糞」過ぎることだ。 なにも世界的な娯楽映画に勝ってほしいとか、主演の妻夫木聡にダスティン・ホフマンを彷彿とさせる演技を見せろとか、そんな無理難題を言いたいわけではない。 せめて、いい“お手本”があるのだから、多少工夫が無くてもいい所をしっかり真似て、なぞるぐらいはしてくれよと言いたい。 ここまで大筋を似せておいて、どうしてただ模倣することすらできないのか。本当に理解に苦しむ。 何もかもが悪いのだろうけれど、やはり最も目に余るのは、脚本の稚拙さだと思う。 どのキャストも、他の作品ではそれなりに良い演技も見せてくる俳優ばかりだったと思うが、発される台詞の一つ一つが嘲笑を禁じ得なかった。 俳優というものは、脚本や演出によってこうも素人臭くなるものかと、改めて思い知った。 どうやっても「良い映画」にはなり得なかったのかもしれないが、題材はやはりタイムリーなだけに、もう少し「マシな映画」に仕上げることはいくらでも出来たと思う。 檀れいが、選択の余地無く生存の可能性が断たれた人たちの呼吸器を無表情で外していくシーンは、描き方によってはもっと印象に残る名場面になったはずだし、国仲涼子の旦那役で登場する爆笑問題・田中裕二の決して上手くない泣き演技には、幼子役の子役の助力もあり泣かされてしまった。 ほんの少し真っ当な“センス”さえあれば、これほどまで“悲劇的”なことにはならなかったと思う。 あまりに不味くて我慢ならなかったので、間髪入れず口直しに「アウトブレイク」を見直した。面白過ぎた。 「アウトブレイク」の面白さをより引き立たせることにおいては、最高の映画だと思う。[CS・衛星(邦画)] 1点(2013-10-01 22:48:59)《改行有》

714.  最後の戦い 「好きな映画は?」と問われると、いつも非常に困るのだが、なんだかんだ言ってもいつも5本の指に「レオン」が入ってしまう。ミーハーな映画ファンのようで気恥ずかしさも感じるのだけれど、好きなんだからしょうがない。実際、「レオン」は最高に良い映画なのだし……。 したがって、近年どんなにヨーロッパ方面でのB級アクションの製作に突っ走り、殆ど名義貸しのような形で脚本のクレジットに名を連ねる愚にもつかない作品が連発されようとも、「リュック・ベッソン」という固有名詞が目に入ると、完全には無視することが出来ないのは、彼の虜になった映画ファンの悲しい性だ。 そんなリュック・ベッソンの長編デビューである今作。 長らく作品の存在は知っていたのだけれど、中々見られる機会が無く、彼に対する世評の低下に伴い、鑑賞の意欲そのものが忘却してしまっていた。 環境破壊により文明が滅亡したのであろう世界で繰り広げられる暴力の連鎖。 全編モノクローム+台詞なしで展開するストーリーテリングには、若きベッソンの野心がほとばしっているとは思えた。 「理解できなきゃそれでいい」と開き直って、独自の世界観を見せつけている様は、このクリエイターが次期に世界的な存在になり得る可能性を充分に醸し出している。 が、しかし、一作品として観た感想としては、正直「?」の連続だった。 諸々の設定自体にあれやこれやと説明を求めることは無粋だとは思うが、「台詞なし」という荒技を駆使するにあたっては、やはり色々な部分で力不足な感じがして、映画の世界観に入り込むことが出来なかった。 盟友エリック・セラによる音楽も、おそらくは当時の流行が反映されているのだろうけれど、映画の世界観に合っているとはまったく言えず、ビビットな映像に対して興が冷める部分が多かった。 世界に残された数少ない「女性」の存在がすべての暴力の鍵になっているということなのだろうが、それであれば、もっと画面に登場するだけで魅了されるくらいの風貌を携えた女優を起用するべきだし、その女性キャラクターの描写をもっと印象的に多く用意すべきだったと思う。 「ニキータ」、「レオン」、「フィフス・エレメント」……、ヒロインの造形に定評があるリュック・ベッソンであるからこそ、その部分の映画的魅力が全く欠けてしまっているのは至極残念。[インターネット(字幕)] 5点(2013-09-30 16:32:07)《改行有》

715.  トランスポーター3 アンリミテッド 良い意味でも悪い意味でも、「これぞトランスポーター」と言える映画だった。 ジェイソン・ステイサム演じる主人公の、プロフェッショナル精神をガンガン押し付けてくるわりには、あらゆる面で突っ込みどころ満載のキャラクターが健在。 致命的な「粗」とも取られかねないキャラクター描写の脆弱さを、圧倒的なアクションパフォーマンスと、ジェイソン・ステイサムならではの愛嬌で、「娯楽」の一つの要素としてまかり通しているのは、彼のアクション俳優としてのスター性によるところが大きい。 そういった主人公のある意味“ブレない”キャラクター性が安定しているので、シリーズのファンであれば充分に楽しめる映画には仕上がっているとは思う。 ただし、そのような贔屓目で見たとしても、いただけない部分が確実にある。 一つは、ストーリーのネタが一作目とあまりに類似し過ぎている。「運び屋」として運ぶものが、何やら訳ありの女一人という設定は、一作目と同じでありあまりに工夫が無い。 そして二つ目は、その運ばれる女、つまりはヒロインという位置付けの女優に魅力が無さ過ぎた。 無名のロシア系女優が、例によってリュック・ベッソンに見初められて大抜擢に至ったようだが、あまりに個人的な趣味趣向に走り過ぎてしまっている。 赤毛を携えたミステリアスな風貌は、「フィフス・エレメント」で同じくベッソンに抜擢されたミラ・ジョヴォヴィッチを彷彿とさせなくはないが、よくよく見れば見るほどそばかすだらけの顔が気になってしまい、ヒロインとして受け入れることが出来なかった。 終盤になる頃には、何とかヒロインのキャラクターに感情移入することは出来ていたので、この新人女優の可能性そのものは否定はしないけれど、やはりこの手アクション映画のヒロインには、分かりやすいチャーミングさが必要だと思う。 悪党チームの巨漢要員にK-1王者セーム・シュルトがキャスティングされていたのに笑ったのと、ステイサムのジャケット&Yシャツアクションは馬鹿馬鹿しさと新鮮味が相まって良かった。 というわけで、決して褒められる映画ではないが、なんだかんだと見所は備えている映画だと思う。 あ、首筋の「安」タトゥーの意味については深入りしません……。[インターネット(字幕)] 5点(2013-09-27 17:02:16)(良:1票) 《改行有》

716.  NEXT-ネクスト- 近年のニコラス・ケイジ主演映画は、しばしば評価が難しい。 大概、大して期待も出来ないB級娯楽映画である場合が多いので、ハードルを上げる必要もなくサクッと観終わる。 期待感は極めて薄いので、「思ったよりは楽しんで最後まで観られたな」という印象でエンドロールを迎える。 しかし、よくよく振り返ってみると失笑ものの「粗」がボロボロと見え始める。 そして、なんだかんだ言っても、ニコラス・ケイジのスター性と表現力が無ければ、もっと「酷い」映画に見えるのではないかと思われてくる。 れっきとしたアカデミー賞俳優であるニコラス・ケイジが、特別に良い演技をしているのであれば、映画そのものが多少くだらなくても、主演俳優の演技を観るべき作品として評価できるのであるが、決してそういうわけではなく、ニコラス・ケイジはあくまで“ニコラス・ケイジ然”とした“いつもの”演技をしているに過ぎない点が、非常に評価を難しくさせる。 私生活の乱れでどんなに落ちぶれようとも実力は確かな俳優なので、彼さえ主演していなければ、このなやきもきする必要もなく、程度の低い映画としてこき下ろすことも出来よう。が、もはやそういう映画に節操なく出演し良い意味でも悪い意味でも“らしさ”を出すことが、このスター俳優の“味わい”にすら思えてきた。 と、「ニコラス・ケイジ論」をついついダラダラと語ってしまったが、この映画もまさに「ニコラス・ケイジ映画」と呼ぶに相応しい作品だと思う。 まあ概ね楽しんで観られるし、ラストの顛末もフィリップ・K・ディック原作らしく小気味良く感じられたので、鑑賞前の低い期待感に対しては充分に満足出来たと言えるので、それ以上のことを望むべきではないとは思う。 よくよく考えてみれば、やっぱり粗だらけだ。 ただし、前述の通りそんなことは「ニコラス・ケイジ映画」においては想定内のことなので、いちいち目くじらを立てるのは無粋というもの。 こちらもアカデミー賞常連でありながら、フットワークが軽いジュリアン・ムーアの無駄な存在感や、ヒロインのジェシカ・ビールが意外にキュートな点など、想定以上に楽しみがいのある映画でもある。 このレビュー内に合計10回も「ニコラス・ケイジ」という固有名詞が繰り返されていることからも明らかなように、良いか悪いかで言えば「断然良いニコラス・ケイジ映画」だということは間違いない。[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-09-26 00:50:11)(良:1票) 《改行有》

717.  ラスベガスをぶっつぶせ 《ネタバレ》 MITの秀才を揃えた“ブラックジャック・チーム”が、ラスベガスに乗り込んで大金を荒稼ぎするという話。 ストーリーの肝となる“カード・カウンティング”の論理がちっとも理解し切れないことには、知能指数の差をあからさまにされているようで悲しくなったが、他にはないタイプのギャンブル映画として個性的だったと思う。 カウンティングの理屈が理解できないとしても、ブラックジャックというカードゲームのルールは最低限押さえておかないと、終始ストーリーテリングに付いていけないことは明らかだろう。 苦学生だった主人公が、チームに誘われあぶく銭の渦に呑み込まれて行く様は、ありきたりと言えばそれまでだけれど、そりゃああれだけ目もくらむような豪遊の世界に没入してしまっては、なかなか戻って来れるもんではないと共感できる。 主人公をはじめとしてチームの面々のキャラクター性をもう少し深堀りしても良かったと思うが、彼らのキャラクター性の薄さは、脇を固めるケビン・スペイシーとローレンス・フィッシュバーンが充分にカバーしており、人間の相関関係のバランスは良かったと思う。 個人的には、ヒロイン役のケイト・ボスワーズが完璧に好みだったので、彼女がカモフラージュのためにカジノごとにコスチュームを変える“七変化”を見ているだけでも充分に楽しめた。 ラストのどんでん返しも、“驚き”があったとは言えないけれど、伏線を踏まえて端役を交えたオチは小気味良く、なかなか爽快な映画に仕上がっていると思う。 ケビン・スペイシー演じる悪徳教授の逆襲が地味に怖いけれど……。[インターネット(字幕)] 6点(2013-09-18 15:53:20)(良:1票) 《改行有》

718.  マン・オブ・スティール 《ネタバレ》 プロローグ、“父親役”のアカデミー賞俳優が、ドラゴンにまたがり、過剰なまでのスペクタクルシーンを画面いっぱいに目の当たりにした時点で、“一抹の不安”は生じていた。 以降、「あれ?なんだかノリキレナイ?」という感覚が確実に蓄積し、結局そのままエンドロールを迎えてしまった。 ザック・スナイダーが描き出したビジュアルは流石に凝りに凝られている。 タイトルからもストーリーテリングからも“スーパーマン”という名詞を極力排した新しい世界観に対して、期待感と高揚感が溢れた。 “ノリキレナイ”この映画に足り得なかったことは単純。それはずばり「娯楽性」だと思う。 「ウォッチマン」の監督と「ダークナイト」の監督とが組んで生み出されたヒーロー映画において、分かりやすい娯楽性が強調されないであろうことは必然であり、観客としてもダークで新しい世界観を期待した部分は大いにある。 実際、映画は、主人公の「出自」と「能力」、そして「運命」を軸にして、「どう生きるべきか?」ということに延々と焦点を当て続ける。引き込まれる要素は多分にあったし、概ね製作者の意図通りの映画に仕上がっているのだろうとも思える。 しかし、圧倒的に物足りない。 結論として辿り着いたことは、他のヒーローならいざ知らず、「スーパーマン」にだけは突き抜けた「娯楽性」が必要不可欠だったのではないかということだ。 過去作に対して、まったく異なる設定やストーリー展開を見せるのであれば、センシティブでリアリティ重視な表現に対してもう少し納得が出来たかもしれない。 しかし、何だか込み入った描き方はしているが、根本的な描写は、1978年のオリジナルと結局のところ同じであり、それであれば過剰な現実主義は、ただまどろこしく感じるばかりである。 ヒロインをはじめとする市井の人々が絶体絶命のピンチに陥る。 そこに弾丸よりも速く強いスーパーヒーローが颯爽と現れて問答無用に彼らを助ける。 「スーパーマン」は、彼だけは、それでいいのだと思った。 最後にもう一つだけ。 冒頭から大立ち回りをするスーパーマンの実父役のラッセル・クロウだが、こんなに露出が多いのなら、むしろ、彼を悪役に配した方が良かったように思う。 久々に見たケビン・コスナーが育ての親役を好演していただけに、わざわざ新旧スター俳優同士で“父性対決”を見せる必要はなかったと思う。[映画館(字幕)] 5点(2013-09-18 00:03:17)(良:5票) 《改行有》

719.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 ファーストカットのアップから始まり、終始、主演俳優クライヴ・オーエンの濃ゆい顔面が印象強い映画だった。 特に好きでも嫌いでもない俳優だけれど、改めて振り返ってみると、結構印象強い映画に多数出演しており、決して派手さはないけれど存在感のある俳優だと思う。 そのクライヴ・オーエン主演で、相手役は、これまた地味だけれど確固たる存在感を放ち続けるスター女優のナオミ・ワッツ。 この二人が組むに相応しく、映画は地味で堅実で骨太な世界観を構築している。 世界的な大銀行における巨悪と陰謀を、主人公らが単身対峙し、暴こうとするストーリー展開は、この手の映画ではよくあるプロットではある。 しかし、前述の主演俳優らの堅実な存在感と、ドイツ人監督のトム・ティクヴァの構成力が冴え、独特の緊迫感と映画的な美しさに溢れた見応えのある作品に仕上がっていると思う。 観る者を引き込む多彩なカメラワークは流石で、息を殺しての尾行シーンから突如として激しい銃撃戦に展開させる流れなどは白眉の出来映えだった。 映画のラストは、再び主演俳優の表情を画面いっぱいに映し出して終わる。 ファーストカットのそれと異なり、巨悪を追い詰めはしたが、結局何も変えられなかった主人公の表情は虚無感に溢れている。 カタルシスには程遠いラストだったが、この映画の顛末としてはとても相応しい幕引きだったと思う。 概ね良い仕上がりの映画なのだが、各キャラクターの造形には一抹の消化不良感が残る。 主人公をはじめとして、それぞれのキャラクターへの踏み込みが弱いので、今ひとつ感情移入できない部分もあった。 敵役関連のキャラクターも良い風味は出していたのだが、味わい深いところまで造形が及んでいたとは言い難く、そういう部分がラストの呆気なさに繋がってしまったとも言える。[インターネット(字幕)] 6点(2013-09-07 16:06:54)《改行有》

720.  10人の泥棒たち 《ネタバレ》 一人のカリスマによって集められた10人の“泥棒”たちが、マカオのカジノを襲撃するという、まさに韓国版「オーシャンズ11」。 基本的なプロットは似通っているが、韓国映画らしくエグいところは結構エグく、必ずしも安直なハッピーエンドは迎えない。 「オーシャンズ11」との最も大きな違いは、“アンディ・ガルシア”的なターゲットは存在するものの、そのターゲットがそのまま「敵」というわけではなく、「敵は内にいる」ということだろう。なので、よくあるタイプのケイパームービーとは、娯楽性の気質が異なり、少々面食らう。 そのあたりが、韓国映画の「流石」と言える部分で、同じようなプロットで日本で製作したとしても、ただただハリウッド映画の表面をなぞっただけの迫力の無い映画に仕上がることだろう。 たとえ内容が似通っていても、そこに独自の価値観や行動原理、つまりは“お国がら”を加味することこそが、映画が世界中で作られることの意味だと思う。 そういうことが出来る出来ないの部分で、韓国映画との差は大きい。 この映画は、詰まるところ泥棒集団の愛憎が絡んだ“内輪もめ”を描くので、前述の通りよくあるタイプのカタルシスは得られない。 主人公タイプのキャラクターが意外な側面を見せ始めるので、時に困惑してしまう。 ヒーロー的なキャラクターは一人もおらず、全員が利己的な欲望と愛を追い求めて失墜へと突き進んでいく。 クライマックスは想定を超えるバイオレンス性を伴ったアクションシーンが展開され、また良い意味で驚かされる。 と、このまま突き進むと日本語タイトルに反して“重い”映画になってしまいそうだが、そこは時に軽妙に描かれるキャラクター造形でバランスを取っている。 特にチョン・ジヒョン演じる女盗賊は、“キャッツ・アイ”ばりのアクション性と美貌でとても魅力的だった。 その語学力で日本人夫妻に化けるのは無理があるだろうとか、中国人チームの若いニーちゃん最終的にどうなった?とか、諸々と突っ込みどころもある。 それに138分という尺は少々長過ぎるようにも思う。色々な要素が盛りに盛られていることは良いが、そうであればもう少しテンポ良く展開してほしかったと思う。 ともあれ「泥棒映画」としてクオリティーは高い。 結局、全員が悪党なわけだが、そりゃ当然。 「俺は泥棒だ 何が悪い」 主人公の台詞が明瞭に表している。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-09-06 14:44:18)(笑:1票) 《改行有》

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