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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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721.  横道世之介 なんだかとてもふしぎな映画で、一回目観て、「良い映画だな」と思う反面、「一体何が良いの分からない」という、この映画の世界観の中を浮遊するような感覚を覚えた。 しばらく経っても、ふわふわと落ち着かなかったので、160分のこの長い映画をもう一度観た。 二度目は、160分なんて時間をまるで感じず、終始居心地良くすんなりと観終わることができた。 結果、ふわふわとした浮遊感はそのままだったけれど、その部分こそが、このふしぎな映画の愛すべき価値そのものであり、主人公横道世之介の魅力だと思う。 人生においては、ささやかな出会いと別れが無数に繰り返される。 その出会いの中で、自分の人生を左右する程の喜びや感動に巡り合えたとしても、時の流れは、それらを記憶の片隅へと追いやり、仕舞い込む。 時の流れは無情で、取り返しのつかない喪失を伴う場合も多かろう。 あんなにも輝いていた思い出なのに、どうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。と、人は思う。 でも、思い出すことで、その思い出は色褪せることなく再び輝き始める。 忘却してしまっていたことが不幸なのではなく、思い出せることが幸福なのだということを、この映画は眩いばかりの輝きの中でしっかりと伝えてくる。 長い映画であることは間違いない。ただし、その中には愛しくて仕方ないと思えるシーンが溢れている。 僕は今32歳だが、おそらくこの先観返す度に、その眩さと愛しさに更に涙が溢れることだろう。 いろいろと語りがいのある映画なのだが、何よりも特筆せざるを得ないのは、吉高由里子が演じたヒロインの存在。 この特徴的で同時に繊細な心持ちのバランスを孕んだヒロイン像は、たぶん、他のどの女優が演じても、見ていてただただ気恥ずかしいばかりのものになってしまっただろう。 夢を見ていると、その世界の中で、説明はつかないがどうしようもなく魅力的な女の子が登場し、目が覚めても彼女に対する恋心が消え去らないということがしばしばある。 この映画で、吉高由里子が演じたヒロインは、まさに夢が覚めても忘れられない存在そのもだ。 彼女が演じた与謝野祥子にまた出会うために、僕はこの映画を再び観るだろうとも思う。 ともかく、また一つ愛すべき青春映画が誕生したことは間違いない。 そして、“大人になりかけ”の若者の青春群像に、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲はよく似合う。[DVD(邦画)] 9点(2013-09-05 23:45:45)(良:4票) 《改行有》

722.  イップ・マン 葉問 邦題「イップ・マン 葉問」は、同じ人名がただ並んでいるだけで意味不明だが、原題「イップ・マン2」もなんだか安いヒーロー映画みたいに思える。ただし、このタイトルには意味があると思う。 前作に引き続き、反日感情、さらには反英感情の鬱積した思いが、過剰に描写されていることは、映画ファンとしてよりフラットな視点から観たい者として、居心地の悪さに繋がっていることは否めない。 ただし、前作鑑賞時と同様、抑えきれないその“感情”を描けることが出来るのは、当然その国の人間だけであり、これが映画である以上、他国民には理解し難い描写があることは致し方ないとも思えるし、それは映画表現においてある意味大切なことだとも思う。 そして、この優れたカンフー映画に対して、そういうどうにもならない感情と表現に対してあれこれと難癖を付けることは、無粋だと思う。 ドニー・イェンとサモ・ハン・キンポーが真っ向から拳を交えるという、この映画の最大の見所、それを心の底から楽しむということ。それが真っ当な映画ファンが取るべきスタンスだと思う。 前作は、日中戦争の渦中を舞台にし、主人公の武術家としての盛衰をドラマ性豊かに描き出したことに対し、今作は戦後の香港を舞台にして、より分かりやすい娯楽性を伴って仕上げられている。 プロットとしては、諸々のブルース・リー映画、ジャッキー・チェン映画、さらには「ベストキッド」やら「ロッキー4」やら、各国のカンフー映画、スポ根映画をごちゃ混ぜにしたような話になっている。 実在の人物を描いているとはいえ、とても“リアル”とは言い難い。 でも、もはや「イップ・マン(葉問)」という人物は、近代中国武術とそこから生まれたカンフー映画における「伝説」であり、タイトルに示された通り、特に中国人にとっては紛れもない「ヒーロー」であるのだろう。 ならば、真実のみを描くことが必ずしも正しいわけではないと思う。 ラストの小さな“李小龍”登場も含めて、中国国内に向けたこの映画のサービス精神、娯楽映画としての在り方は、圧倒的に正しいと思う。[インターネット(字幕)] 7点(2013-09-03 17:08:41)(良:1票) 《改行有》

723.  イップ・マン 序章 この映画で描かれる“イップ・マン(葉問)”という人物は、周知の通りあのブルース・リーの師匠として知られる人物である。 そのカンフースターであるブルース・リーや、その後を引き継いだジャッキー・チェンの映画を幼い頃から楽しんで観てきたけれど、一つだけいつも腑に落ちない点があった。 それは、映画の中で描かれる飲食店や肉屋なんかの従業員が、揃いも揃って武術の使い手として主人公に襲いかかるということ。 いくら中国だからって、そこいらに武術の使い手が溢れているわけなかろうと思い、これは欧米の人たちが日本にはどこにでも忍者がいるというような類いのフィクションなのだろうと思っていた。 しかし、今作や、先だって観た同じく“葉問”の半生を描いたウォン・カーウァイの「グランドマスター」を観て、そういう描写がある程度事実に基づいているものだということを知った。 詰まるところ、あの時代、混沌を極めた中国では、生きる場所と食い扶持にあぶれた数多の武術家たちが、“生きる術”としてそれぞれの生業を持ちつつ、同時にその中で流派を継続、または構築していったということなのだろう。 また、この映画の中で描かれるように、混乱する社会の中で“己”を守るために、人々は慣習として武術を身に付けていったのだろう。 そしてそれは、今作の舞台となっている日中戦争時代に必ずしも限ったことではなく、長い長い時間の中、常に「外敵」との対立の中で身を置いてきた“大陸”の民たちが、必然的に備えていた意識によるものだったのだと思う。 この映画は、カンフー映画としてのクオリティーはもちろん、そういった中国人の民族意識を知る上でも、非常に価値のある娯楽映画に仕上がっている。 終盤はどうしても、滲み出る反日感情がエスカレートしていき、日本人としては当然拒否感を覚えてしまう。 けれど、エピローグの説明描写は別にして、映画のストーリー展開の中の描写は、必ずしも行き過ぎたものではなく、実際にあり得た事象だろう。 そして、どちらが良い悪いなどではなく、そういった感情が根強く残っているという事実を「知る」ということは、非常に大切なことだろうと思う。 ともかくカンフー映画としての娯楽性の高さが、この映画において何よりも重要なことだろう。 そしてそれを司る主演ドニー・イェンが、やはり今一番信頼性の高いカンフースターであることは間違いない。[DVD(字幕)] 7点(2013-09-03 00:34:50)(良:1票) 《改行有》

724.  ガンマー第3号 宇宙大作戦 この映画を深作欣二が監督した意味と経緯は何だったのだろうと首を捻る。 面白味はあるものの、滅茶苦茶な科学考証には終始突っ込みどころに暇が無い。この時代の特撮映画としては“普通”な仕上がりと言えるけれど、それ故に深作欣二作品としては極めて異色のSF映画と言える。 プロットとしては、特撮映画の傑作として誉れ高い「妖星ゴラス」や「マタンゴ」等々を混ぜ合わせたようなもので、東映が、東宝が築き上げてきた特撮映画の牙城を突き崩そうと、「日米合作」という戦略を企てて製作されたのであろうことをは明らか。 娯楽性の部分では、前述の東宝の名作映画に及ぶとまではいかないが、一定の水準までは到達していると思う。 キャストを全員外国人で揃えたことなどは、安直ではあるが、どうしたって日本人に出せなかった雰囲気を加味できているとは思う。 ただし、当然のことではあるが、特撮における実績と歴史が圧倒的に乏しい分、二番煎じ、三番煎じな感じは否めず、映画全体が軽薄に映る。 主人公をはじめとして、キャラクターの造形が薄っぺらく、相当大変な自体に陥っているわりには緊迫感が極めて薄いことが、最も大きなマイナス要因だろう。 特撮の部分では、やはりクリーチャーの造形ダサ過ぎる。これは技術力の精度の問題というよりも、そもそもの“センス”が無さ過ぎるような気がした。 アメーバー状の物体の段階では気味悪さとそれに伴う恐怖があったけれど、その状態から一気にもっさりとした怪物に変態し、のそのそと襲ってくる様には失笑を禁じ得なかった。 ヒロインはボンドガールにも抜擢される程で流石の美貌を誇っていたけれど、終始難しい顔をし続けるので、残念ながらキャラクターとしての魅力に欠けた。 もう少し彼女を絡めたエロティックなシーンが備わってるなどしていれば、SF怪奇として確実なプラスポイントだったけれど……。 あとせっかく米国との合作なのだから、“お約束”として、ラストカットでは「続編」を予感させる余韻を携えて、決して製作しなくていいので、「『ガンマー4号 地球大作戦』につづく」と締めて欲しかった。[DVD(吹替)] 3点(2013-09-02 17:21:31)《改行有》

725.  ONE PIECE FILM Z 連載中の長編漫画の映画化において常にマイナス要因となり得るのは、長期連載だからこそ描くことができる各エピソードの膨大なボリュームを、番外編的な扱いとはいえ映画作品の2時間前後の尺で収められるわけがないということだろう。 特に「ONE PIECE」の場合は、敵が強大であればあるほど、そのキャラクターのバックボーンまでしっかり描くことが常なので、限られた尺の中では到底そういう部分を描くことが出来ず、結果極めて希薄なエピソードに仕上がってしまうことは必然的だ。 しかし、今作では、そういった映画化における必然的な「弊害」を最小限に抑え、映画としてのオリジナリティを加味することに成功していると思う。 巧かったのは、敵方のキャラクター設定とそれに伴うストーリー展開だ。 最大の敵「Z」を、海軍の元大将というキャラクターにしたことが、最大の勝因だと思う。 海賊に対しての深い「怨恨」と、海軍が掲げる正義に対する「不満」とが混じり合い、文字通り一気に爆発したというキャラクター設定は、極めてベタではあるけれど、長編漫画におけるスピンオフとして、とてもまとまりが良かった。 この映画は、“麦わらの一味”の活躍を描くという大前提の一方で、「海軍」という公の正義の内外における“矛盾”を描いており、その要素が感動を生んだ最大の要因だと思う。 加えて、“麦わらの一味”が「新世界」に突入したばかりという舞台設定は、“センゴク”や“ガープ”が一線を退き、彼らが次世代のリーダーに推した“青キジが去った海軍の“暴走の兆し”を誘引しており、このストーリーを描く上でのタイミングも非常に巧いと思える。 更に特筆したいのは、アニメーションの迫力とサービス精神。 アクションシーンは、見せるべきカットを見せるべきタイミングでしっかり見せてくれ、この漫画特有の目まぐるしいバトルを充分に表現していた。 そして、ナミ&ロビンの“メルモちゃん”描写、ミニチョッパーの可愛さ、フランキーの過剰なまでのロボ描写、戦闘担当キャラの入浴シーンに至るまで、麦わらの一味各人の“萌え”ポイント羅列の特別サービスが、あざとくも素晴らしいと思った。 いやあ、長々しくなってしまったが、想定外に熱弁を振るいたくなる作品であることは間違いない。 それにしても、青キジ、海軍辞めたからって自由に活躍し過ぎ!イロイロ曝け出し過ぎ!歌い過ぎ! [ブルーレイ(邦画)] 7点(2013-08-31 14:16:47)《改行有》

726.  夫婦善哉 日曜日の正午、あまりに眠たくて2歳の娘の世話を妻に任せて、居間のソファで居眠り。ふと目が覚めると2時間以上寝てしまっており、ちょうど帰宅した妻に呆れられた。 眠気が治まらぬまま反省しつつ、再び外出する妻をソファに寝転んだまま送り出した後、この映画を観始めた。 この作品における映画体験としては、何ともいいタイミングだったと思う。 お椀二杯で一人前の“夫婦善哉”のように、詰まるところ“良い夫婦”というものは、二人揃ってようやく一人前になるものなのかもしれない。 この映画に登場する“夫婦”の男女は、二人ともどうあっても結局のところ一人では行きていけない。 森繁久彌演じる柳吉は、どこからどう見ても大店のどら息子であり、駄目男ぶりが甚だしい。 淡島千景演じる蝶子も、しっかり者の人気芸者ではあるけれど、最後の最後まで柳吉無しで生きてはいけない駄目女だ。 駄目男と駄目女が連れ添い、愚にもつかないすったもんだを延々と繰り返す映画である。特筆する程のストーリー的な面白味もあるとは言えない。 しかし、この映画が多くの日本人に愛されている映画であろうことは容易に理解できる。 やはり魅力的なのは、駄目男と駄目女の主人公夫婦に他ならない。 つくづく愚かな二人なのだけれども、どうしたって彼らのことを憎めるわけがない。 その理由は明らかで、この二人の姿こそ、世の中のすべての男女が持ち得る愛すべき愚かさだからだ。 どんな男も柳吉のようになろうし、どんな女も蝶子のようになり得る。 この映画を観た多くの人が、「馬鹿」と蔑みつつも、どこかこの二人の“寄り添い”に憧れを抱いてしまうのだと思う。 中盤、何度目か知らないが愛する男が再び自分の元に帰ってきて、女は心から喜ぶ。 お互い軽い悪態をつきあいつつ、女は真っ昼間なのに部屋のカーテンを閉める。 男は勘弁しろよという表情だが、実のところまんざらでもなさそうだ。 森繁久彌、淡島千景、二人の名優の一挙手一投足を含め、このシーンの総てが可愛過ぎる。 さて、僕自身、決して甲斐性があるわけではないので、せめてこの映画の夫婦のように愛らしい二人で居続けたいものだと思う。 「頼りにしてまっせ」を連発しつつ。[CS・衛星(邦画)] 9点(2013-08-25 23:42:24)《改行有》

727.  スター・トレック/イントゥ・ダークネス 《ネタバレ》 過去のシリーズ作をまったく観ていなかった僕を「ちょっと“トレッキー”の入り口に立ってみようかな」と思わせた2009年の前作の出来映えは、娯楽映画としても、SF映画としても素晴らしかった。 その新シリーズの満を持しての続編に対しては、ブロックバスター映画の公開が重なる今夏においても随一の「期待」をしていた。ためらうことなく、無い袖を振ってIMAX3D版で鑑賞。 後進惑星でのミッションを描いたプロローグから映像的な迫力は、当然の如く抜群で、序盤から予定通りの高揚感に包まれた。 が、しかし、結論から言ってしまえば、その後のメインの展開に、高揚感を更に加速させる爆発力が残念ながら備わっていなかった。 各種イントロダクションに主人公以上の露出で登場していたベネディクト・カンバーバッチ演じる悪役が、想定通りに登場し、殆ど想定通りの悪役ぶりを披露する。 英国BBCのテレビドラマ「SHERLOCK」のファンなので、カンバーバッチの抜擢は嬉しく、存在感のあるパフォーマンスをしてはいたが、如何せんキャラクター造形が凡庸過ぎた。 対峙する主人公はじめエンタープライズ号の面々の活躍も、極めて予定調和に終始し、アッと驚くことがまるでなかった。 ストーリーがベタであっても、描き方によって目新しい娯楽性に導き出すことはいくらでも可能だと思うし、特にこの製作スタッフであれば実現できたはずだけれど、前作に対してあまりに手際が悪く、“工夫”のないストーリー展開が残念。 ストーリーの稚拙さが目立つと、画的な見せ場の印象も極めて低くなってくる。 各アクションシーンの見せ方にしても、宇宙船をはじめとするギミックにしても、どうも目新しさがなかったように思える。 偉大なスペースオペラシリーズの一作として、ラストのバトルが地球上での“追いかけっこ”からの“殴り合い”では、どうしたってアガらない。 ハードルを上げ過ぎてしまっていた部分は確かにあり、これだけ酷評寄りのコメントを並べた上でも、充分なクオリティーを備えたエンターテイメント大作であることは間違いないと思うけれど、前作以上の「衝撃」を期待していしまった以上、結果的に欲求不満が溜まってしまったことは否めない。 「スター・ウォーズ」とのまさかの掛け持ちで忙しかろうが何だろうが、J・J・エイブラムスには次作も責任を持って監督してもらい、反撃の一撃を食らわしてほしいものだ。[映画館(字幕)] 4点(2013-08-24 17:43:07)《改行有》

728.  パシフィック・リム 上映前に買った飲み物をカバンに入れたまますっかり忘れてしまっていて、上映後興奮してカラカラに渇いた喉に一気に流し込んだ。 映画は常に没頭して観ているつもりだけれど、それでもこれほど“無我夢中”になった映画はあまりない。 そして、これほど監督をはじめとする製作スタッフに「感謝」を捧げたくなる映画も珍しい。 冒頭、いきなり異次元から“怪獣”が問答無用に襲撃し、人類側の最後の砦である“巨大ロボット”が、文字通りの肉弾戦を繰り広げる。 実際、ひたすらにそれの繰り返しの映画である。ストーリーなんて明らかに後付けで、突っ込みどころ満載。 しかし、その“ほつれ具合”こそ日本人が生み出し、愛した「怪獣映画」「ロボットアニメ」の真髄であろう。 もはや巨大な鋼鉄の“建造物”であるロボットが大勢の技術者によって“起動”し、パイロットによって“駆動”する様の一つ一つに対して、高揚感が治まらず、思わず座席から身を乗り出して終始ニヤニヤしてしまっていた。 怪獣の襲撃シーンで用いられている音楽は明らかに“伊福部昭オマージュ”に溢れており、怪獣の重量感による地響きと共に響く旋律に涙が溢れそうになった。 そして繰り広げられる大攻防戦。「これぞ大スペクタクルだ!」と古風な言い方を敢えてしたくなる。 日本の本多猪四郎、米国のレイ・ハリーハウゼン、映画史に名を残す“怪獣映画の父”たちにこの映画を捧げたギレルモ・デル・トロ監督の意志は紛れもなく崇高で、日本人映画ファンとして感謝の念が尽きない。 普段は絶対に字幕版しか観ない主義だが、「これは米日合作映画だ!」と一方的に現実逃避を決めて、今回は敢えてIMAX3Dの日本語吹替え版で鑑賞した。 製作スタッフの、日本のアニメ文化への崇高な尊敬の念に対して呼応するように揃えた豪華声優陣が功を奏して、素晴らしい吹替え版に仕上がっていると思う。 何よりも、この映画に限っては、怪獣映画、ロボットアニメに純粋に興奮した「あの頃」に完全に立ち返って鑑賞すべきであり、字幕を追うなんて無粋なことを避けることもまた一興だろう。 兎にも角にも超最高!ありがとう!ギレルモ・デル・トロ! 続編、スピンオフ、ロン・パールマン並みのしぶとさで期待しております。[映画館(吹替)] 10点(2013-08-20 16:58:40)(良:7票) 《改行有》

729.  ワールド・ウォー Z どこかの悪大佐じゃないが、「人がゴミのようだーーー!」と思わず叫びたくなる“見せ場”は、トレーラーで何度も観ていてもやっぱり衝撃的で、個人的にはその過剰なまでの仰々しさが非常に好ましかった。 「ゾンビ映画」ということを大々的に触れ込むと、客層が限定されると思ったらしく、いやに“家族愛”を強調した国内プロモーションには辟易したが、言うまでもなく、この映画は紛れもない“怒濤”の「ゾンビ映画」である。 ただし、基本設定として描かれるストーリーテリングは、あくまで感染症のパンデミックであり、必然的に全世界的にゾンビが大発生している状態であるので、前述の通り良い意味で仰々しい映画世界は、恐怖性というよりもエンターテイメント性に富んでいて、僕のようなホラーが苦手な者でも程よい恐怖感と共に終始楽しめる「ゾンビ映画」に仕上がっていると思う。 “人体”そのものが虫の大群のように襲いかかる衝撃のビジュアルもさることながら、印象的だったのは、主演のブラッド・ピットの“目尻の皺”だ。 「ああ、もうこんな深い皺があるんだ」と稀代のハリウッドスターの老いを感じる一方で、これまでのブラッド・ピットの主演作のどれよりも、彼の「生身」の姿が投影されている映画のように思えた。 国連の紛争地域担当エージェントという他の映画ではあまり聞き慣れない役柄が、私生活のパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーの国連親善大使としての活動から着想を得ているだろうことは言うまでもなく、途中両親を亡くした少年を家族の一人として受け入れる様なども、難民の子供たちを養子としている私生活の投影そのものだろう。 そういう意味で、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが、俳優業を礎にして積み上げてきた己の人格そのものを反映したとてもパーソナルな映画であるとも言えると思う。 それがただの自己満足に終始するでなく、きちんとした娯楽性を備えた作品に昇華されていることが、ハリウッドのトップをひた走る映画人として“エラい”ところだと思う。 どうやら例によって続編の企画もあるらしい。 今作では、都合の良い解決策で安直なハッピーエンドを描いているわけではないので、ここからどう展開していくのか非常に興味深い。 まあいずれにしてもはっきり言えることは、「全力疾走」が出来るゾンビほどコワいものはないとうことだろう。 [映画館(字幕)] 8点(2013-08-11 00:07:37)《改行有》

730.  紙ひこうき ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の同時上映短編アニメーション。 たった7分という時間の中で、無限のドラマ性と、エモーションを生むのは、アニメーションならではの「チカラ」だと思う。 「街中で紙ゴミを撒き散らかし過ぎだろ!」とか、「そんな嫌々仕事したらそりゃ上司から嫌な顔もされるよ!」とか、もちろんそんな無粋なことを言うべきではなく、ファンタジックな小さなロマンスを堪能すべき。[ブルーレイ(字幕)] 6点(2013-07-31 15:20:08)《改行有》

731.  シュガー・ラッシュ ゲームセンターに通ったという経験はなく、そもそもテレビゲームを子どもに与えることにそれほど積極的ではない家庭だったので、テレビゲームに対しての傾倒はそれほど深くはない。 とはいっても、ファミコンからプレーステーションまで基本的なゲーム機は浅く経てきているので、ゲーム世界の裏側を描いた世界は充分に楽しめた。 世界観の構図は、すばり「トイ・ストーリー」+「アベンジャーズ」のテレビゲームキャラクター版。 メタ的要素がこれでもかと散りばめられており、少しでもゲームで遊んだことがある者ならば、楽しくないわけがない映画世界が構築されている。80年代から90年代のゲームをやり込んでいるゲーマーなら、その娯楽性は倍増することだろう。 ただのゲームキャラクター大集合映画で終わっているわけではなく、そこは流石のディズニーブランド、ストーリーは極めて大衆的でありながら、誰もが感動できるドラマ性を内包している。 社会における個人の存在と役割、その中で生じる差別やヒエラルキー。 世界中の人々がそれぞれに苦悩している普遍的な社会の病理性が、時に辛辣に描かれている。 最終的なハッピーエンドは結果オーライ的な印象も受けるけれど、この作品があくまでも“子ども向け映画”であることのスタンスを貫いている以上、この展開は極めて真っ当だったと思う。 登場するキャラクターの中では、主人公(悪役キャラ)のホームであるゲーム世界のヒーローキャラクターの存在が光っていた。 この手の展開だと、実際のゲーム世界の設定と一転して性格の悪いキャラクターとして描かれがちだけれど、正真正銘の“良いヤツ”として描かれており、主人公並みの活躍をみせ、ロマンスまで成就させてしまう様が愉快だった。 最後に一つだけ苦言。ザンギエフは悪役じゃないよね? ただの勘違いだとは思うが、米国映画が「ソ連」の国旗を背負う彼を悪役に位置づけちゃうと、色々と時代錯誤的な面倒臭さが頭を出してしまう……。[ブルーレイ(吹替)] 7点(2013-07-25 15:08:04)(良:1票) 《改行有》

732.  風立ちぬ(2013) 「狂おしい」 ストーリーそのものは、とても古風でオーソドックスに見えるけれど、過去の宮崎駿作品のどれよりも、もっとも“狂おしい”までの感情に埋め尽くされた映画だと思った。 映画世界に対峙し、己の理屈においては明確な拒否感を感じている筈なのに、涙が溢れて止まらない。こんな映画は初めてかもしれない。 その“拒否感”の大部分は、「主人公」に向けられたものだったと思う。 この映画の主人公は、善人で、優秀な好青年である。 ただし、同時に「変人」であることも揺るがない事実だ。 堀越二郎と堀辰雄、実在した二人の人間に「敬意を込めて」と謳っているが、この映画で描かれる主人公の姿は、明らかに宮崎駿自身の投影であり、その「変人」ぶりにそのすべてが表れていると思う。 そういう意味では、この映画が過去作のどれよりも宮崎駿にとってパーソナルな作品であることも確かであり、それ故の“狂おしさ”なのだとも思える。 主人公の言動を理解し難い面は多く、主人公は世の中のすべての人から非難されてもおかしくはない。 しかし、主人公自身が自分を呪ったとしても、彼が愛したヒロインだけはどこまでも彼を守り愛し抜くだろう。 ならばそれがすべてだ。 余命幾ばくも無い病床の妻を囲い仕事に没頭する主人公も、養生を放棄し命を縮めても夫のもとで過ごしたヒロインも、その姿には、少し狂気じみたものを感じる。 彼らは二人の間に確実にあるはずの“障壁”なんて何もないように、繰り返しキスをして、そして愛を営む。 この「幸福」は二人だけのもの、そしてこの「悲哀」も二人だけのもの。 そこには、“観客”も含めて、周囲の他人が入り込む余地は全くなかった。 その二人の姿は、あまりに独善的で、歯がゆいけれど、何よりも美しく、涙が溢れた。 そう、この映画の主人公、そして宮崎駿自身が追い求めたのは、“美しさ”以外の何ものでもない。 誰に理解されなくとも、自分自身にとっての「美」を最後の最後まで追い求める。 この映画は、そういう“彼ら”の生き方における「覚悟」を描いた作品だと思った。 「ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ」 あまりにもはまり過ぎている荒井由美の「ひこうき雲」が延々と頭の中をめぐる。 映画館を出た。真夏の太陽が眩しかった。 空の青は、少し、“狂気的”に見えた。[映画館(邦画)] 10点(2013-07-20 19:33:13)(良:7票) 《改行有》

733.  クラウド アトラス 無数のクローン少女たちが、何も知らぬまま「死」への歩みを進める。 その不穏さに溢れたシーンが、手塚治虫の「火の鳥」における人間の精神を受け継いだ万能ロボット“ロビタ”の“死の行進”と重なった人は多かろう。 この奇妙で荘厳な映画を観終えてやはり何よりも先ず思ったことは、「火の鳥にそっくりだ」ということだ。 そして、手塚治虫のライフワークであった「火の鳥」の“崇拝者”である僕にとって、この映画に対してのその感想は、最大級の「賛辞」であることは言うまでもない。 時空を超えた6つのストーリーにおける複数の“同一の魂”を描いた映画世界は、非常に複雑で、混沌としているように見える。 しかし、まさに散らばったパズルのピースが組み合わされていくように、次第に複数の支流が絡み合い、結びつき、大きな一つの流れに集約される。 そうして紡ぎ紡がれた一つの結末に辿り着いた時、すべての疑問や謎は、そんなもの最初から無かったかのように綺麗に解消され、主人公が見上げる星空の如く美しく澄み渡る。 誰もが「映像化不可能」と考えた原作は未読だが、前述の通り、手塚治虫の「火の鳥」の映画化と考えれば、それを成立させた「構成力」だけを取っても映画としての価値は揺るがないと思う。 しかも、複数の独立したエピソードを章分けするでなく、すべてを同時進行で描き連ね、最終的に一つの物語に“繋げた”ことは、もはや奇跡的ですらある。 ウォシャウスキー姉弟とトム・ティクヴァ、この3人の監督が導き出した映画世界は、原作の持つテーマと世界観を完璧に再現し、更にそこに誰も見たことが無い映画のマジックを加味してみせたと思う。 勿論、時代も人種も性別までも超越した複数の人物像を演じた俳優たちも素晴らしい。 彼らがそれぞれのキャラクターすべてにおいて見事に息づいているからこそ、6つの物語は本質的な部分で結びつき、一人のキャラクターではなく、一つの魂を持ったキャラクターに感情移入出来たのだと思う。 兎にも角にも、この映画の凄さは、いくら言葉を並べても表現出来るものではない。 ハリウッドの大作映画としては珍しい程にとても実験的な作品であることは間違いなく、評価は大きく二分されることも頷ける。 ただし、結局のところそれは実際に観てみないと分からないだろうし、結果がどうであれ「観た」ということの価値が大きい映画であることは間違いない。[ブルーレイ(字幕)] 10点(2013-07-15 23:13:10)(良:3票) 《改行有》

734.  ワイルド・スピードX3/TOKYO DRIFT 「ワイルド・スピード」シリーズは、大味で荒削りなアクション映画シリーズだが、もはやそういう安直な荒々しさが「味」になっており、結構好きである。 ただし、このパート3だけは、何故だか日本が舞台で、主要キャラクターも殆ど登場せず、シリーズの時系列からも唯一脱線していたため、完全な“番外編”としてスルーしていた。 実際、“番外編”というのはまさにその通りで、映画としての「路線」そのものが明らかに他のシリーズ作品とは異なっている。 言うなれば、想定外にオーソドックスな“ベストキッド”的映画に仕上がっていると思う。 問題児の主人公が、殆ど意味不明に日本の高校へ“強制転校”させられ、異文化社会での孤立感もそこそに、転校初日に早速“ドリフト”に邂逅する。 そこで何故か、流れ者のハンに見初められ、ドリフト技術を仕込まれていく。 正直、この映画だけ観れば、ストーリー展開のあらゆる部分に脈略がなく、入り込める余地は無いと思う。 しかし、他のシリーズ作品観た上で今作の鑑賞に至ると、一つのドラマ性が見えてくる。 無論それは、シリーズのレギュラーキャラクターであるハンの存在だ。 ヴィン・ディーゼルのチームの一員として世界各地であらゆる修羅場を乗り越えてきたハンが、何故に日本に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染め、不意に出会ったアメリカ人高校生に対して運転技術を仕込もうと思ったのか。 結局、その言動の理由は明確にされぬまま、彼は悲劇的な末路を辿るわけだが、シリーズのファンとしては、やはりこの“番外編”のストーリーは気になるところだ。 そして、ラストのヴィン・ディーゼルの“弔いカメオ出演”は、意外にじんわりする。 追記。 主人公役のショーン・ブラック。どこかで聞いた名前だと思ったら、「スリング・ブレイド」の少年役かあ。昔は可愛かったのに、大きくなったというか、老けたなあ……。[地上波(吹替)] 5点(2013-07-08 23:54:59)(良:1票) 《改行有》

735.  レディ・イン・ザ・ウォーター ハリウッドきっての人気親子主演の最新作「アフター・アース」の日本版トレーラーにおいて、かつて一世を風靡したはずの「監督」の名前が一切表示されないことをあまりに不憫に思い、改めて“彼”の未見作品を見直してみることにした。 “彼”とは勿論、M・ナイト・シャマランのことである。 1999年の「シックス・センス」があまりに大ヒットしてしまったため、大衆向けの娯楽映画監督という印象が強く付き過ぎてしまい、その後の「特異」な映画世界に対する大衆の拒否感が必要以上に高まってしまった感のあるシャマラン監督。 個人的に最も好きな作品は、世間的には酷評が目立つ「アンブレイカブル」なので、一概に大衆向けの映画監督だとは思っていなかったけれど、その後の「サイン」「ヴィレッジ」にまったく面白さを感じられなかったので、以降彼の作品からは疎遠になっていた。 気がつけば実に9年の空白を経て、彼の映画を観ることになった。 率直な感想だが、とりあえず善し悪しは別にして、たぶん、この作品の映画世界こそM・ナイト・シャマランという映画人が本当に描きたい世界観なのだろうと思える。 正直、映画の世界観に少しでも没頭できなければ、「結局なんなんだ!?」と噴飯もやむを得ない作品であることは間違いない。 僕自身、「面白かったか?」と問われれば、実際「微妙」と答えざるを得ないというのが正直なところだ。 ただし、この特異な映画において、この特異な映画監督が描こうとしていることは、一貫している。 自分たちが存在し生きているこの世界を、「物語」そのものに見立て、世界そのものの閉塞感や神秘性、そこに生きる人間たちの宿命や運命を、ある部分では間接的に、ある部分では極めて直接的に表現しているのだろう。 それはシャマラン監督自身が、「表現者」として常にこの世界に感じている“ジレンマ”に他ならない。 「物語」がつまびらかにされるストーリーにおいて、シャマラン監督自身が「作家」を演じ、「悪役」が映画評論家なんてのは、どうしても伝えずにはいられない彼の思いがほとばしっているように見えた。 というわけで、この監督の本質が極めて大衆的ではないということは明らかだ。 あまりハリウッドの潮流に流され過ぎずに、映画作家として我を張って、自分の描きたいことだけに集中していってほしいなあ。と、映画ファンとしては思わずにいられない。[DVD(字幕)] 6点(2013-07-08 23:47:48)《改行有》

736.  探偵はBARにいる 観終わってみて、何よりも疑問に思ったことは、「なんでテレビドラマでやらなかったんだろう?」ということ。 それは安易にこの作品の素材がテレビドラマレベルだと揶揄するわけではない。 「表現」の方法として、映画との適合性、テレビドラマとの適合性を照らし合わせてみて、この作品のスタンスは限りなくテレビドラマ向けであると感じたからだ。 基本的にゆるく、駄目男ぶりが際立つけれど、キメるときはキメる主人公が、殆ど“事務所”と化しているBARでいつものようにくすぶっていると、“或る事件”が舞い込む。 探偵ものとしてありふれたプロットではあるけれど、主演の大泉洋のキャラクター自体はオリジナリティがあり、これまた“個性的”な相棒役の松田龍平とのコンビネーションは意外な程に良かった。 要するに、「ああ、また来週もこの二人の活躍が見たいな」と思わせるキャラクター性を充分に備えていて、だからこそテレビドラマ向けだと思ったのだろう。 二人が常駐しているBARに、様々な「事件」が週代わりのゲストと共に現れる。 まさに“探偵ドラマ”の王道ではないか。 おそらく人気のドラマになったろうし、ドラマシリーズで愛着を深めた上で、テレビ局の常套手段である「映画化」に繋げれば、“商売的”にも成功したろうにと思わざるを得ない。 そういうふうな印象が強かったため、映画作品単体としては物足りなさが先行してしまったことは否めない。 主人公らのキャラクター性が掴めぬまま、話はどんどん進むので、キャラクター自体は魅力的なのに思ったりよりも感情移入が出来ない。 その一方で125分という尺は、描き出されるストーリー的にはやや冗長で、観賞後の満足感が伴わなかった。 ストーリーや演出は全体的に凡庸(というか古風)だけれども、キャラクターの面白さと、それを演じる俳優のフィット感により、作品として“愛される要素”は多分にあった。 それだけに、もう少しアプローチの方法を熟考してほしかったと思う。[DVD(邦画)] 4点(2013-07-04 22:09:51)(良:2票) 《改行有》

737.  遊星からの物体X ファーストコンタクト ジョン・カーペンターの傑作「遊星からの物体X」の“前日譚”というコンセプトではあったけれど、実際のところはほとんど“リメイク”だったように思う。 それくらい、ストーリー展開が酷似していて、あまりに目新しさが無かったことは否めない。 前日譚と言うからには、1982年の公開時に世界に恐怖とトラウマを与えた“物体X”の「正体」に少なからず踏み込んでいってほしかった。 前作と同じ舞台の極地で、“宿主”の宇宙人を掘り出した地球人チームが、前作同様に紛れ込んだ“物体X”との死闘を繰り広げるだけでは、工夫がなさ過ぎる。 「何おんなじこと繰り返してんねん」と、前作主演のカート・ラッセルに、お門違いなツッコミを入れたくなってしまう。 ジョン・カーペンター監督が生み出した世界観を出来るだけ壊さないようにした製作意識は好感が持てる。 しかし、残念ながら続編としてもリメイクとしても、作品としてのオリジナリティーを付加するには至っていない。 この映画の見所である“人体変形”描写に“思い切りの良さ”はあったが、決してクオリティーが高いとは言えず、新しい観客を惹き付けるだけの“センス”も無かった。[ブルーレイ(字幕)] 3点(2013-06-30 11:35:16)《改行有》

738.  ヴァンパイア(2011) 《ネタバレ》 「これはあなたの夢?」 “ヴァンパイア”の、おそらくは最初の“献身者”となった女の最期の一言。 この映画の主人公である“ヴァンパイア”の「彼」にとって、“血液を啜る”という行為の意味は、果たして何だったのだろうか。 心の隙間を埋めるための一種の趣向だったのか、行き場を失った孤独を癒す“温もり”を感じるための唯一の手段だったのか。 結果として、繊細で優しい殺人鬼と化した主人公の得た結末は、幸福だったのか、不幸だったのか。 ラスト、己の業が明るみに曝された主人公は、思わず逃避に駆られる。 どこまでも逃げようとするけれど、その足は次第に宙空に浮き、無情にから回る。 それはおそらく、彼の深淵なる“夢”の終わりの時だったのだと思う。 孤独の淵に立たされた主人公が、妄信的に辿り着いた“ヴァンパイア”という生き方。 物語の吸血鬼のように、己の存在が「永遠」でないことは、他の誰よりも本人がよく知っていたことだろう。 「血は命そのものだ」と、“ヴァンパイア”は語る。 「血」を追い求めた彼の姿は、「生」を渇望する弱々しくも必死な、人間という生物そのものの本質的な在り方に見えた。 「花とアリス」以来8年ぶりとなる岩井俊二監督の長編映画。勿論、映画館で鑑賞したかったけれど、地方都市住まいの悲しさにより叶わず……。 とうにレンタル開始はされていたけれど、万全のタイミングを探るべく、日々が過ぎ去った。結局、劇場公開から10ヶ月近く経過した今ようやく鑑賞。 淡々と、空気を呑み込むような、あまりに美しい映像世界。 独創的な世界観は、人によっては独善的で独りよがりに映るのかもしれない。 でも、僕にとってそれは、十代後半で初めて触れ、心の底から愛した映画世界そのものだった。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-06-30 02:04:14)《改行有》

739.  エージェント・マロリー “素材”の魅力に惚れ込んだスティーヴン・ソダーバーグが、ハリウッドにおける自らの人脈を最大限に駆使してスタンドプレーで撮った、格闘家出身の主演女優ジーナ・カラーノのための“プロモーション・ムービー”のように見えた。 どんな形であれ、この手の女スパイアクションもサラリと撮ってしまうあたりには、ソダーバーグ監督の相変わらずのマルチぶりを感じずにはいられない。 そして、確かに主人公に抜擢された(というか彼女ありきの作品なのだろうが)、格闘家ジーナ・カラーノはアクションヒロインとして充分過ぎるほどに魅力的だったと思う。 類い稀な美貌と、プロ仕様の“実用的”なローキックだけも、女優として勝負できることは間違いないし、想像以上に演技力も備わっていたように見えた。 ストーリー的には、凄腕スパイである主人公が所属する組織の陰謀により命を狙われ戦いを挑むという、あまりにありきたりなものなのだが、御大マイケル・ダグラスをはじめとして、新旧のスター俳優が顔を揃えたキャスティングが成功したのは、監督の人脈ばかりではなく、彼らが主演女優の魅力に文字通り“ノックアウト”されたからに違いない。 というわけで、ストーリー展開だけを捉えれば何の捻りもなく、シーンによっては肝心のアクションにもキレが足りない部分もあり、凡庸極まりないアクション映画なのだけれど、“素材”の発見という唯一のトピックスのみで娯楽映画として成立させていることは、ある意味潔い。 生身で本格的なアクションをこなせる女優として、各種エンターテイメント映画における需要は確実にあると思うので、ジーナ・カラーノの今後の活躍には期待したいところ。[ブルーレイ(字幕)] 5点(2013-06-27 17:17:14)《改行有》

740.  華麗なるギャツビー(2013) 野望、欲望、羨望……言い方は様々だけれど、人間は誰しも大なり小なりの「望み」を抱えて生きている。 この映画は、世界中の誰よりも、自分が抱いた「望み」を追い求め、そのすべてを実現しかけ、つい果てた男の物語だ。 絢爛豪華に見える人生の中にひた隠されたこの男の本質は、あまりに哀れで、哀しく、だけれどもほんの少し羨ましくも思う。 虚栄と退廃に塗れた“クソ”のような世界において、ギャツビーという男の生き様にこそ唯一無二の「価値」があった。 その生き様は、時に笑ってしまうくらいに無様だけれど、そこにはたった一つの「目的」のために生きた人間の、人間らしい純粋さが満ちていた。 だから、世の中のすべてに馬鹿にされようとも、最後の最後まで「望み」を信じ続けた彼に羨ましさを感じるのだと思う。 ただその一方で、彼以外の、クソのような世界で生きるクソのような人間たちのことを無下に否定することもできない。 ギャツビーにとって最大にして唯一の「望み」であり「夢」であった“麗しの君”も、結局は卑怯で醜い人間の一人であったわけだけれど、誰が彼女の“選択”を否定出来ようかと僕は思う。 自らの娘の将来を案じて「女の子は美しくて馬鹿なほうがいい」と、彼女は言う。 それは彼女自身が、虚栄の極みの中で生き、それに頼らざるを得ない人間であるということを自覚していることに他ならない。 ある意味では、彼女もまた己の「望み」を貫き通した人間の一人だったのだと思う。 結局、彼女は孤独に果てたギャツビーに一瞥もくれずに去っていく。 非常に冷淡で愚かしく見えるけれど、あの時代、あの環境において、そのスタンスこそが彼女にとっての生き抜く術だったのだとも思える。 愚かな程に美しいこの映画のすべてのシーンがオーバーラップしてくる。 「夢」に対してすべての手筈を整えたギャツビーの満面の笑み、ニックが抱いた尊敬と羨望の眼差し、愛する人のキスを待つデイジーの麗しさ……。 誰もがただただ「望み」に対して懸命に生き、結果として大きな大きな“悲哀”が残ったということ。その人間ならではの、儚くも果てしない無情さに感極まった。 最高の演技、最高の音楽、最高の映画世界。もう他に何も要らない。[映画館(字幕)] 9点(2013-06-27 12:33:02)《改行有》

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