みんなのシネマレビュー |
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101. 暗殺の森 ぞくぞくするカメラの動き、美しい構図、翌々年の『ラストタンゴ・イン・パリ』に引けをとらない巧みな照明にため息が出っぱなし。とくに光の使い方は、ただ美しいだけではなく実に刺激的。主人公の婚約者を演じるステファニア・サンドレッリがまたものすごくいい。全てのシーンにこだわりを感じる。こだわりが出過ぎるとあざとくなったりするもんだが、この作品はぎりぎりのところで耐えてる。ベルトルッチの最高傑作と言ってしまおう。[ビデオ(字幕)] 8点(2007-10-12 14:21:33)(良:1票) 102. 四月 サイレント映画のようでサイレント映画でない。無言語映画です。サイレント映画でもナレーションがあったり状況説明の字幕があったりしますが、この作品にはありません。音はしっかりとあります。ユニークで可愛らしい擬音が心の高揚を、そして不安を表現する。映像と音(言語を排除した)だけで何もかも理解させる。理解させるだけじゃなく、面白い。世界中のどの言葉を使う人にも楽しめる映画というのが重要で、「音楽は世界共通」なんていわれるけど、映画も世界共通なんだと気づかせてくれる。映画ってやっぱり凄いって気づかせてくれる。映画に言語は要らない、と言っているわけではなく、あってもいいけど無くても楽しめる、それが映画本来の醍醐味なんだと思う。この作品はあえて言語を排除することでそのことを証明している。[CS・衛星(邦画)] 8点(2007-09-21 12:38:44) 103. 悪魔の発明 この作品はカレル・ゼマンのことを何も知らない数年前に、レンタル店で古そうな色あせたパッケージのビデオを見て、こうゆういかにも古いビデオはいつ処分されるかわからず、なにかの拍子に傑作だとわかって借りようとしたときにはもう既に処分されていたりということもあるかもしれないと思い、実際どんな作品なのかも全く知らないままに借りた作品なのだが、見てびっくり。傑作である。絵と実写の融合なのだが、どこからどこまでが絵なのかわからない。それほどに絵がリアルであるというのではなく、実写のほうが絵に近づいているのだ。潜水艦や潜水服の造形、またお宝回収のシーンなどはコレよりも先に作られた『海底二万哩』に酷似しているのですが、よりシンプルなデザインとより細やかなディテールによって、こちらがオリジナルなのではないかとさえ思えてしまいます。 【ドラえもん】さんが“絵が動く”と書いておられるとおり、「アニメーション」という言葉は不似合いで、まさに「絵が動いている」という表現がぴったりな作品。「絵が動いている」、、「アニメーション」、、いっしょじゃないか!と思われるかもしれませんが、観ていただければ解かってもらえると思います。[ビデオ(字幕)] 8点(2007-08-24 18:16:26)(良:1票) 104. クラバート 『ホンジークとマジェンカ』のレビューで書いたが、ゼマンは晩年の作品に、よりシンプルな切り絵アニメーションを使っているが、これもそう。切り絵アニメといっても様々ありますが、ゼマンの切り絵アニメは奥行きもなく、動きも単調で、ひたすら素朴。なのに引き込まれてしまうこの不思議。物語はけっこう怖い。そして面白い。さらに深い。戦争に奔走する国家を無視する、自由を愛する主人公。それでも働かなくては食べてゆけない。そこに甘い罠。魔法使いの下僕へ。きつい労働と閉鎖された環境。そこには国家がだぶる。でもそれ以上に感情をゆさぶるのは絵で見せる物語。頭にこびりつく魔法使いの造形と声。光と闇の対比。やさしい音楽の力。命懸けの友情。そして自由への渇望と何にも勝る愛。シンプルな絵作りながら色調や音に繊細な気配りがされており、じゅうぶんすぎる絵の力を感じさせてくれ、じゅうぶんすぎる物語の醍醐味を堪能することができる。[DVD(字幕)] 8点(2007-08-21 11:51:34) 105. 花と怒濤 お話はいたって普通の任侠ものです。普通といってもヘンテコじゃないという意味であって、多くの似たり寄ったりの任侠ものの中でも断然楽しませてくれる部類に入ると思う。そんな一見普通の任侠ものの中で、同じ小林旭主演の『関東無宿』の伊藤弘子ほどではないが、主人公をつけねらう川地民夫が登場すると、任侠ものから離れて全く別の世界観がフッと出てくる。まあその最大の原因は変な衣装にあるのですが。ラストではただのスケベ親父かと思った刑事が粋なことをしてくれる。隠れて話を聞くというシーンが度々あって、もちろん隠れているのは小林旭で、飲み屋の奥だったり二階の部屋だったり外だったりするのだが、小林旭の顔が映され小さな声が聞こえ、というシーンがサスペンス映画のようにドキドキさせてくれるのだが、ラストの刑事はおそらくいるだろう小林旭に向かって大きな声で話す。伏線が効いてて感動も2倍。夜の雪景色がまた本物の雪じゃないからできる幻想的な世界を見せてくれる。[映画館(邦画)] 8点(2007-07-12 18:48:03) 106. 関東無宿 女子高生3人組が映され、その後どう任侠の世界に繋がってゆくのかと思ったら、敵対する組の若い男に話をつけに行った先で出会う伊藤弘子の登場からなにやら怪しげな雰囲気をかもしだす。女子高生も任侠の世界もそっちのけで。あきらかに書いた太い眉毛の小林旭の目が『陽炎座』の松田優作を彷彿させる。生と死の世界が描かれているわけでもないのに、これはまぎれもなくその後清順の名を轟かせる「大正浪漫三部作」と同じ空気を持っている。実態の掴めない女の描写、そして吸い寄せられるように惹かれてゆく様の不思議な説得力は『ツィゴイネルワイゼン』そのもの。その女の夫である伊藤雄之助と博打の勝負に挑もうとするシーン、「緊張の糸が切れる」というシーンを本当に糸が張ってあって切るという誰も思いつかないような演出に笑った。本当に緊張の糸が切れた。終盤は違和感無く任侠ものの流れに戻ってくるが、殺しのシーンで画面を真っ赤にすることに代表される清順美学、そしてそこを追求する清順組、中でも彼無しでは清順美学はあり得ないだろう美術の木村威夫の仕事とアイディアが炸裂しており、驚きと興奮に満ちた映画を堪能できる。[映画館(邦画)] 8点(2007-07-09 15:01:12) 107. めし 《ネタバレ》 「夫婦三部作」(『めし』『夫婦』『妻』)の中で夫婦の溝が最も浅い。どの夫婦にもあるだろう表には出ない些細な不満。そんなどこにでもあるような話に魅入らせてしまう成瀬はやっぱり凄い。なにげない会話が画面に映されたときの人の動き、目の動きが、なんでもないシーンをとんでもないシーンにしてみせる。女だから、妻だから、当たり前のようにこなさなければならないこと、我慢しなければいけないことがある。男にだってある。それをちゃんと見ていてくれる人がいなければストレスになるのは同じ。当たり前のことを当たり前にこなす毎日の疲れ、その疲れを癒してくれる言葉もなし、そのうえ自由気ままな姪っ子に対する嫉妬、、、。居心地の良い東京へ逃げ帰る。ここで登場する杉村春子と杉葉子がまたいい。何もかも解かっている母に甘える。夫の仕事を手伝いながら活き活きと主婦をこなす妹を見る。またまた登場の姪っ子に、同じように現状から逃げているだけの自分を見る。そこに夫が迎えにくる。「迎えに来る」という行動をして言葉以上のものを伝える夫。最後のナレーションはたしかにこの時代特有の価値観なのかもしれないが、夫婦の物語は普遍に満ちていると思うし、なによりも画面は今観ても新鮮で上質なのである。[映画館(邦画)] 8点(2007-06-21 12:57:48) 108. 蛇の道(1998) 塾?の先生である哀川翔がある生徒の答に対して「そんなことしたら空間が裏返って時間が逆に流れることになる」と言う。また奇妙な計算式を書くなかで「デュアリティを組み合わせて・・・」と言う。教室には花束があった。デュアリティ=二重性。生者と死者。教室にいた者たちは家族の誰かを亡くした者たちか、あるいは亡くなった本人たち?ラストシーンの香川照之の前に突然フッと現れた哀川と女の子を見てそう思った。どちらにしても哀川が非常に危険な人物であることは間違いなく、まるでゲームのように人がどんどん殺されてゆく様は背筋が寒くなる。ゲームのようにと書いたが、哀川は全ての主導権を握っているだけでけして楽しんでいるわけではなく、ただ無感情に全てをコントロールするだけ。まるで人間ではない何か。『地獄の警備員』の大男が「暴力」そのものだったように、哀川は「悪意」、、いや「復讐」そのものか。 死者はここではないどこかでは生者なのか。殺された娘はモニターの中で永遠に生きている。死者と映画の関係は、その後『蜘蛛の瞳』そして『回路』へと繋がってゆく。[ビデオ(邦画)] 8点(2007-06-14 18:52:06) 109. ヘカテ シャンパンの泡と共に蘇る情熱の恋物語。どこにでもありそうなお話だが、どれにも似ていない映画。ローレン・ハットンの髪が夜の風に舞う衝撃の出会い。乾いた風土が一変する幻想的な夜。異国感を煽る音楽。室内に差し込むオレンジの光、あるいはブルーの光。そして光が芸術的な影を作る。カメラマンはレナート・ベルタ。納得。[映画館(字幕)] 8点(2007-05-10 15:37:58) 110. 美女と野獣(1946) 《ネタバレ》 詩人コクトーは詩では表現できない視覚的美の最たるものを見せてくれる。小説家コクトーは小説では表現できないジャン・マレーへの愛を見せてくれる。演劇家コクトーは演劇では表現できない幻想的な世界を見せてくれる。豪華なセットが、特殊メイクが、ジャン・マレーの相対する二役が、カーテンのゆらめきが映画の極致を見せてくれる。そのうえ、シュワッチ(とは言わないが)と空を飛んでいっちゃうんだから、拍手するしかない。[DVD(字幕)] 8点(2007-05-02 11:46:58) 111. 浮雲(1955) 成瀬巳喜男の最高傑作らしいという前知識をもって鑑賞したのですが、その最高傑作という言葉にかなりの違和感を持ったことをよく覚えています。これ観たとき、『夫婦』とか『妻』、その他いろいろをいっしょに観たのですが、この『浮雲』よりもその他の映画のほうが良かったと思ったし、他の作品に感じた成瀬的なものをこの作品に見出すことが出来なかった。私が当時思っていた成瀬映画(現代劇)の世界観というのはもっと些細な出来事を、あるいは物語とは別のところで見せる小さなやりとりをこそ映し出す、その繊細な感覚というのがまずひとつあるのですが、『浮雲』は「出来事」が作品を支配し、男女の大河ドラマ風になっている。でもね、時がたつとともにおかしな現象が私を襲いました。成瀬映画を思い出そうとすると、まず一番に出てくるのがこの作品の高峰秀子のアンニュイで愚痴っぽい語り口。そして旅先での歩き姿だったり、男の部屋に立っている姿だったり、病床に伏せっている姿だったり、、。他の作品を押しのけて頭に浮かぶのはこの作品の風景ばかり。実のところまだ一回しか観ていないのですが、頭の中では何十回と上映されております。そしていつのまにか傑作だと思うに至ってしまったという稀な映画となりました。[映画館(邦画)] 8点(2007-04-25 13:08:03)(良:1票) 112. 折鶴お千 《ネタバレ》 邦画サイレントを3本立て続けに観た中の1本。どれも面白かったのですが、これは格が違うという印象。格が違うという漠然とした印象をなぜ持ったのかがよくわからないのが疎ましいのですが、まずモノクロだからこそその違いがはっきりする夜のシーンの美しさ。これは他の同時代の作品を立て続けに見ていなければ気づかなかったかもしれない。そして回想で語る構成の斬新さと物語そのものが持つ質のせいかもしれませんが、さらにサウンド版ということで音楽の効果もあったのかもしれませんが、最後まで物語に没頭させる力は並々ならぬもの。『カリガリ博士』の日本公開によってこの作品もドイツ表現主義の影響を受けているということを先にチラシで読んでいて、『カリガリ博士』のような摩訶不思議な背景があるのかとドキドキしましたがさすがにそれはなかったと、ちょっとホッとしました。狂人となったヒロインの幻想シーンがその影響されたというところのシーンなのでしょうか。とにかく、今となっては古臭いお話を全く古臭く感じさせずに見せてしまう、これが溝口健二の溝口健二たるところでしょうか。[映画館(邦画)] 8点(2007-04-16 11:24:21) 113. ジャバウォッキー 《ネタバレ》 シュヴァンクマイエルの短編はどれも好きですが、コレと『家での静かな一週間』は別格です。多くの作品にみられる擬人化された無機物の動きと音楽のコラボレーションも、「繰り返し」を軸に展開させ最後にきっちりとオチをつける構成の妙もいつもどうりに完璧で、尚且つ余分なものが無い。内容はあいかわらずの不思議ワールドであるが、鳥篭に行き着くエンディングを見る限り、新作『ルナシー』同様に「抑圧」がひとつのテーマにあると思われる。女の子の人形に課せられる通過儀礼。試行錯誤の迷路は悪意無き黒猫になんども邪魔されながら(このときの「ア~ア~ア~・・」って音楽、最高!笑える!)成長した人形に待ち受けるのは社会の檻。抑圧の時代を生きたシュヴァンクマイエルにとってはこれもまたシュールレアリズム。[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-04-06 13:25:35) 114. ルナシー 《ネタバレ》 精神病院を舞台にした管理する者と管理される者の、抑圧と自由のせめぎ合い、という簡単なお話ではない。『まぼろしの市街戦』は正常と異常があって主人公は二者択一に迫られる。『カッコーの巣の上で』は抑圧と自由があって主人公は戦う。この『ルナシー』は結果的には病院を仕切る二つの方法が描かれるがそれだけで終わらない。二つの方法とは「完全な自由」と「徹底した監視と体罰」。冒頭に監督自身が言ったもう一つのやり方が描かれない。でも実は描かれていた。以前シュヴァンクマイエルについて書かれた物を読んだことがあるのですが、そこでたしか「完全なる管理」について語ったものがありましたがそれが描かれていました。この作品はストーリーは実写で描かれ、その合間にいつものシュヴァンクマイエルらしいグロテスクな舌や肉がストーリーの進行とは関係なく映される。でもストーリーには繋がらなくてもこの舌や肉は確実に話をなぞっている事に気づきます。ラストカットはラップで包装された肉。透明なラップ。管理されていることに気づかない管理。冒頭で監督がもう一つのやり方について言う。「それが使われているのが我々の住む狂った世界」。 哲学的ホラーとはよく言ったもので、ここで書ききれるほどの浅い作品ではありません。侯爵のあきらかなモデルとなっているサド侯爵について知りたくなりました。知ることによってこの作品のもっと深いところに行き着きたい。そんな欲望を奮い起こさせる刺激的な作品です。[映画館(字幕)] 8点(2007-04-02 17:39:22)(良:1票) 115. 不良少女モニカ 《ネタバレ》 「今日の映画界にあって『國民の創生』と同じ役割を果たしている」とゴダールに絶賛され、ヌーベルヴァーグの監督たちに多大な影響を及ぼしたという本作は『夏の遊び』同様に「若き日」を同じくあっという間に過ぎ去ってしまう「眩しい夏」にリンクさせて見せる。大人社会から脱出し北欧の夏を満喫する若い男女。そして当然やってくる終焉の日。若い男はすさんだ大人社会に適応しようと懸命に働く。愛する女と自分の子供のためにという目的があるから。しかし若い女は自分の子供ですら自らの自由を奪う社会の一部にしか見えない。女は自らを堕落させてゆく。それを象徴するシーンがレストランだかバーだかで昔の恋人と思われる男と会っているときの、画面を観る我々に向けた恐ろしいまでに冷たい眼差しである。もうこの後は見なくてもわかる、それほどまでに強烈にその後を暗示させるシーンであり、ついさっきまで画面にあった夏の陽気が嘘であるかのように観る者を凍りつかせる。そしてとんでもない映画を観ているのだと、この瞬間自覚するのである。[映画館(字幕)] 8点(2007-03-16 19:03:39) 116. 夏の遊び 《ネタバレ》 「初めて何から何まで自分のもの、という感じの映画が撮れた」とベルイマンが言うところの本作は、神の不在だとか性の問題だとかという難しいテーマが一切無い、実に甘酸っぱい悲恋の物語である。回想で綴られるひと夏が瑞々しく描かれ、またその回想が作品の大半を占めるのですが、青春時代のキラキラ感というかその一瞬にしか出せない陽気さというものが見事なまでに再現されています。その中で『歓喜に向って』でも主演したマイ・ブリット・ニルソンが眩しいくらいに青春の陽気を発散する。ベルイマンの多くの作品に見られる鏡を使った演出も、本作が最も意味深く、最も印象深く効果を発揮している。鏡に映ったバレリーナは涙を拭いて新しい自分を見つける。そうやって大人へと成長する。[映画館(字幕)] 8点(2007-03-15 17:13:04) 117. 歓喜に向って 《ネタバレ》 ベルイマンの作品群の中ではあまり評価されていないようなのですが、私はおもいっきり泣きましたよ、これ。『歓喜に向かって』の「歓喜」はラストに演奏されるベートーヴェンの第九「歓喜の歌」のことなのですが、そこにはもうひとつの意味が露にされます。物語は妻の事故を知らせる電話から始まり妻の死を知らされるところから回想に入ってゆきます。そしてラストで現実に帰り、その死を受け入れて前を向こうと懸命に演奏する男と、その姿を見つめる幼い息子、そしてその息子を見つめ返す父の中にまさに「歓喜」が宿るのです。音楽という芸術を通して芸術家であることの困難さが描かれる一方で、「歓喜」へと導く芸術の力を見せつける。感動作というベルイマンらしからぬ作品でありながらも、映画も演劇もまた大衆の歓喜の源であるべきというベルイマンの声が聞こえてきそうな作品でもあります。スウェーデン・サイレント映画の巨匠であり、ベルイマンの師でもあるヴィクトル・シューストレムのまさに主人公の師としての演技がポイントポイントで和やかさと笑いをもたらし、作品全体を軽やかにしている。[映画館(字幕)] 8点(2007-03-14 13:10:16) 118. 赤ちゃん教育 キャサリン・ヘプバーンといえば、タカピーで傲慢なイメージを勝手に持ってたのですが、たまたまこの作品の前年作品であるジョージ・スティーブンスの『偽装の女』を最近観て、その可愛らしさに驚いたわけです。でも彼女の魅力はこの傲慢さにあるのだということを再認識し、そしてその魅力を最大限に見出したハワード・ホークスの女優を輝かせる手腕にあらためて感服しました。とにかく今観てもかなりのハイスピード、ハイテンションで機関銃のごとくしゃべり続けるヒロインに圧倒されっぱなし。ケイリー・グラントは圧倒される間も与えてもらえずにただひたすら彼女に翻弄される。その滑稽極まるコメディアンぶりがおかしくてしょうがない。いや、ケイリー・グラントだけでなく、警察官も庭番も豹の鳴きまねをするおじさんも実にのんきでお間抜けで、ヒロインのハチャメチャさとの差異の大きさが見事なテンポを作っている。大好きな作品。[DVD(字幕)] 8点(2007-03-05 17:01:40) 119. 吸血鬼(1931) ストーリーはわけがわからん。他の方のレビューを読んで理解しようと思ったら、エスねこさんのせいで余計にわからんようになってもうた(笑)。ドライヤーの初トーキーらしいがほとんどセリフなし。吸血鬼映画なのに吸血鬼が姿を見せない。ストーリーを構築しようとはせず、イメージの羅列が淡々と描かれるといった感じ。で、そのイメージの羅列から漠然としたストーリーが浮かび上がる。物語より映像が先にある。ゆえに一つ一つの映像が強烈なインパクトを持つ。釜を持つじいさん、土を掘る、あるいは埋める影、人と影のコラボレーション、棺の中の主人公とそこからの目線で捉えた風景、凄まじきおが屑の生き埋め、、、。これが映画。これこそが映画。なんだと思う。[DVD(字幕)] 8点(2007-01-23 15:52:15) 120. 吸血鬼ノスフェラトゥ(1922) 数多くのドラキュラ映画の中でダントツに怖い。というよりこれ以外はあまり怖くない。その怖さの要因にマックス・フォン・シュレックの容姿がまず上げられるのは言うまでもないが、その恐怖の容姿を纏った吸血鬼に人を襲わせて怖がらせるようなその場しのぎの恐怖演出などせず、ただ立っている、ただ歩いている、ただ向かいの窓からこちらを見ている、それ以外は想像させることで恐怖を駆り立てる。恐怖の想像を助長する影の演出が効いている。そして他の多くのドラキュラ映画は吸血鬼にスポットが当てられるが、この作品はこれほどの怖い容姿を有しているにも拘らず、人々の恐怖心にこそスポットが当てられる。町中が、国中が、死におびえ、窓を閉めて閉じこもる描写、運ばれる棺の列に見るその恐怖の現実性、ヨーロッパ人のペストの記憶とそれらを吸血鬼に結びつけるストーリー構成。怖い!そして巧い!と唸らされる一本。[DVD(字幕)] 8点(2007-01-22 13:18:35)(良:1票)
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