2.愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。
もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。
映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。
こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。
スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。
「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。
対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。
映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。
教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。
なんて悲しいのだろう。
差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。
主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。
しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。
結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。
映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。
この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。
ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。
それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。
映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。
差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。
それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。
根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。
そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。