2.《ネタバレ》 この2年あまりの間、いつ観ようかいつ観ようかとずうっと思いつつも、そのタイミングを逸し続けていた恋愛映画をようやく観た。
巷の評判から想像はしていたけれど、やっぱりものすごく堪らない映画だった。
公開当時、最初にこの映画の予告をテレビCMで観たときは、何とも甘ったるいタイトルと、人気の若手俳優を配置した安直なキャスティングに対して、なんて安っぽい映画なんだろうと嘲笑してしまった。
実は個人的に、菅田将暉と有村架純という本作の主演俳優の両者をあまり好んでいなかったこともあり、全く興味を持てなかった。
ただその直後、脚本が「最高の離婚」「カルテット」他数多くのテレビドラマの傑作を生み出している坂元裕二であることを知り、各方面からの評判が耳に入ってくるようになり、次第に「あれ、まずいな」と思うようになった。さてはこれは「未見」は不可避な作品なんだろうと。
そうして鑑賞。僕は結婚をして12年以上になる。「恋愛」という概念からはもう遠く離れてしまったれっきとした中年男性の一人としても、本作が放つ短く淡い輝きは、儚く脆いからこそ、忘れ難いものとなった。
最初のシーン、カフェに居合わせた主人公の二人が、同じ価値観のもとにある行動を起こそうとしてふいに目を合わせる。
そのさまは、誰がどう見ても恋の“はじまり”に見える。
そこから紡がれる二人の5年間の恋模様と到達点が、美しく、切なく、愛らしく描き出される。
決して、特別な恋愛を描いた作品ではない。
本作の終盤でも描き出されるように、世の中のあらゆる場所、あらゆる時代において、まったく同じように若い男女は出会い、花束みたいな恋をする。
ただし、その恋は、両者の成長や変化と共に形を変え、次の全く別のステージへと両者を促す。
花束は、次第にしおれて枯れてしまうこともあろうし、別の場所で根をはることもあろう。
彼らの道のりはとても美しかった。あと一歩だった。
それ故に、あまりにも瑞々しくて輝かしい新しい“花束”を目の当たりにしたとき、もうあの時と同じには戻れないということを思い知り、届かない一歩の大きさを痛感したのだ。
はじまりは、おわりのはじまり。
有村架純演じる絹は、自らの恋のはじまりに、その言葉を思い浮かべる。
菅田将暉演じる麦は、自らの恋の終わりのその先に、ささやかな奇跡を見つける。
そう、この映画の終わりが、“おわり”なのか“はじまり”なのかは、実は誰にも分からない。