1.争いを繰り返す愚かな世界の中で、一線を引いて「傍観者」であることは賢い選択であろうし、それが出来る国があったとしたならば、それはその国が真の意味で恵まれた強い国家であることの証だろう。
だけれども、憎しみが憎しみを呼ぶ負の連鎖が益々深まる「世界」に対して、背を向け続けることが、果たしていつまでも己の身を守ることになるのか。
若き王は苦闘し、決意する。
若く屈強な黒衣の王が、ソウル・ミュージックの重低音と共に、世界の中心で立ち上がる。
新たな英雄の誕生譚にまた高揚せずにはいられなかった。
言わずもがなマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の大ファンではあるが、「シビル・ウォー」で突然登場した“ブラックパンサー”の単独映画が製作されることを最初に知った時は、「さすがに地味過ぎるんじゃないか」と不安感を禁じ得なかった。
だがしかし、実際に公開初日に鑑賞に至ってみたならば、成る程この作品がこのタイミングで製作されることは様々な角度から意義深いものだったのだと思い知った。
現実世界のありとあらゆる場面で差別と格差は益々広がり、それに伴う諍いは深刻に泥沼化している。
ただしそれは、一概に弱者と強者のパワーバランスを均せばいいとか、どちらが搾取しどちらが搾取されていると安易に擁護したり否定できるものでもない。
マクロからミクロに至るまで、あらゆる関係性の中で、欲望や思惑や妬みや怒りが渦巻いている。
その現実を目の当たりにし、この世界の真理を垣間見たからこそ、若き王は苦悩したのだ。
与えられたその鋭い爪を向けるべき相手は何なのか?
彼が抱えた苦悩は、今この世界全体が抱え込む出口の見えない葛藤に他ならない。
自身の無知の裏側で生じていた哀しき怨念の権化と対峙し、一度は奈落の底へ落とされたものの、ついに打ち勝ち、彼は「国王」として「英雄」として進むべき路を見出す。
それは、「シビル・ウォー」において生じた“耐え難い対立”を孕んだまま「インフィニティ・ウォー」を迎えなければならない“アベンジャーズ”にとっても、必要不可欠なニューヒーローが生まれたことを意味する。
ファンとしては、ワカンダに滞在していたことは明らかである“キャップ”の登場が無かったことは残念だったけれど(バッキーかよ!)、そこは公開間近の三度の“大祭”に期待するとしよう。