14.今年、35歳、結婚7年目、二児の父親。
紛れも無い「18年」という時間の中で、奇跡のように美しい“出会い”と“再会”を経て、ともに人生を歩んできた男女の様を描いた本作を観て、言うまでもなく、身につまされ、“辛辣な時間”を耐え忍んだことは確かだ。
きっと「夫婦」という生き方を経験している殆どすべての男女が、多かれ少なかれ同じような時間を経てきていると思う。
それは、世界中で、日々繰り返されている、あまりにありふれた男女の「現実」だ。
同じ監督が、同じ俳優二人と、物語内と同じ時間経過の中で映し出してきた稀有な映画シリーズの第三作目。
「ウィーンの夜明け」と「パリの夕暮れ」を経て、ついに結ばれた二人の「9年後」。
この奇跡的な三部作を観終えた人の多くは、“時の残酷さ”をひしひしと、いやひりひりと感じることだろう。
それは間違ってはいない。時間はいつだって残酷だ。
主演俳優の顔に刻まれた皺の数と、主演女優の少し垂れた乳房は、そのことをあまりに雄弁に物語っている。
ロマンティックな“夜明け”と“夕暮れ”で結ばれた二人も、時が経ち、子どもが生まれ、世界中のどこにでもいる“普通”の夫婦となった。
そこに映し出されていたのは、見紛うことなき「倦怠期」。
そして、日常の中で密かに孕み、着実に育み続けてきた双方の鬱積が、休暇中のギリシャの地で不意に弾け、二人を失望で埋め尽くしていく。
ああ、あんなにもロマンティックな時間を経てきた二人でも、こういう夫婦像にたどり着いてしまうのか……。
彼らの18年間を追ってきた観客は、彼らと同様に失望に苛まれるかもしれない。
けれど、それと同時に、18年というリアルな時間経てきたからこその「人間味」と、それに伴う人生の「価値」を感じることが出来る。
彼らの大いなる“失望”は、出会って18年、共に人生を歩み始めて9年という「時間」があったからこそ、“辿り着いた”ものだということに気づく。
泥沼の夫婦喧嘩の果てに、彼らはお互いに対して心底失望する。
じゃあ聞くが、9年前に恋が成就しなければ幸せだったのか?そもそも18年前に出会わなければ幸せだったのか?
いや、違う。
はるか昔のときめきも、結ばれ子を授かった多幸感も、セックスの恍惚も物足りなさも、互いに対しての尊敬も失望も、ぜんぶひっくるめて、もはや二人の人生であり、愛の形なのだと思える。
そして、その事実は、たとえもしこの先二人が離別してしまったとて消え去りはしない。
前二作と同様に、本作のラストシーンでも「結論」は映し出されない。
二人の間に生じた問題は何も解決されておらず、溝は最大限に広がったまま、夜は更けていく。
けれど、不思議とそこには“眩さ”を感じることができる。
その眩さの正体が一体何なのか。35歳の僕には明確に説明することができない。
ただ、この二人の18年分を見てきたけれど、この夜更け前の二人が一番好きだ。ということは断言できる。
主演のイーサン・ホークとジュリー・デルピー、そして監督のリチャード・リンクレイターの三者によって織りなされる「会話」が、益々素晴らしい。
前二作と変わらず、他愛なく自然な会話シーンのみによって映画は構成されている。
ただし、リアルな時の重なりとともに、一つ一つのやり取りが、より自然な味わい深さを携えている。
それは時に滑稽で、時に愚かしく、時に恐ろしい。
会話が互いを傷つけ、会話が溝を深めていく。
けれど、遠ざかっていく彼らをつなぎ留めたのもまた会話だった。
これが「台詞」であることが、まったくもって信じられない。
また「9年後」があるのだろうか。
物凄く気になるし、物凄く観たいけれど、いよいよこの先を見ることが怖すぎる気もする。
彼らの心持ちが幸福であれ不幸であれ、そこには“悲しみ”の予感がつきまとうように思う。
それが「時間」というものの宿命だと思うから。
その様を心して観られるように、自分自身が人間として成熟していかなければならないとも思う。
“タイムマシン”でやってきたジェシーが読んだ手紙の通りに、南ペロポネソスの夜が“最高の夜”になるであろうことは、喧嘩とセックスを繰り返す世界中の夫婦が、深く納得するところだろう。
何だかんだで、そういうことが分かるようになる人生は、やっぱり悪くない。