5.科学界のジョークで、《研究予算を取りたい時、科学者は大学にどうアピールするか。アメリカの科学者は「自分の研究が最高のものである」と、フランスの科学者は「自分の研究は世界中で他に誰も行っていない」と、日本の科学者は「みんなが同じ研究をやっている」事をアピールする》ってのがありましてね。この例えってそっくり映画にも当てはまっちゃうんですな。
他国になかなか輸出されないインド映画と、一旦崩壊寸前になったロシア映画を除くと、米仏は映画発祥の頃から業界をリードしてきた2大国。両者の違いはまさにここ、「最高の作品」を目指すか、「人類の未踏領域」を目指すか、にあると思う。そういう素地の違いが、鬼才ラルーを生み、ベッソンを生み、マルを、グリモーを、ゴダールを…そして当然ビラルをも映画界へデビューさせる事になったワケです。
視点を切り替えて。
自分が生き延びるために芸術しなければならなかった人たちってのがいまして、七歩の間に詩を作れと強要された李白なんかがそうですが、現代だと共産圏の作家や詩人たちがそうです。いや一番恐ろしい芸術に手を染めたのは作曲家のショスタコービッチでしょう。スターリン・フルシチョフ・ブレジネフの3代に渡って、粛清の嵐を生き延びた彼の芸術は、西側諸国の誰にもやれない「時代や政治が変わっても生き延びるための音楽」だった。とてつもないモチベーション。とてつもない表現力。とてつもない芸術家魂。
表現の圧力がほとんどなかった西側で作品を生み出し続けるために、芸術家はどんなモチベーションを持てばいいのか。どんな人間がそれをやり遂げられるのか。
その答えに最も直線的な解答を出そうとするのがビラルであり、そういう行為を高所から俯瞰しようとするのがゴダールであり、高所から低所へ自由自在に出入りするのがマルであり…そして、そういうあれやこれやを掌に乗せ、温かく見守っているのがグリモーであり…。
…ちょっと脱線しました。ビラルってェ奴は、だから、フランスが生んだ最高級に生真面目な芸術家なんじゃないでしょうか。