201. ラスト・ワルツ
ザ・バンドのラストライブのドキュメンタリーフィルム。監督はマーチン・スコシージ。僕はダンコのバラードが大好きで、「It makes no difference」の歌い出しのところなんか映像で観るとしびれるんだなぁ。ゲストも最高。ヴァン・モリソンの変なおっさんぶりも、ニール・ヤングのおたく青年っぽい感じも、Dr.ジョンも、ディランも何もかも素晴らしい。ロビー・ロバートソンとクラプトンのギターバトルもいい。(クラプトンと比べると改めてロビーのギターソロの味が分かるのだ)同名CDは永遠不滅のライブアルバムだと思う。 10点(2002-01-17 02:14:59) |
202. ビリー・ザ・キッド/21才の生涯
僕にとってのペキンパーNo.1。この映画は、ペキンパーの思想そのものだ。ペキンパーほど生き様と死に様が醸し出す時代精神の深みを切実に描く作家はいない。見方によってはすごく青臭いと思うかもしれない。クリストファーソンやディランのようなミュージシャンを出演させていることが若者に媚びた印象を与えたかもしれない。ジェームズコバーンが単なる理不尽なおじさんにみえたかもしれない。そう、どれも当たりです。いや、逆です。すべてがペキンパーそのものなのです。クールに生きて、あっけなく死んでいくクリストファーソンと葛藤に苛まれながら己の生き様を貫いたコバーンの対比。生き様が死に様であり、死に様が生き様であることを体現していく多くの脇役たち。<イカサマおじさんや川縁の決闘で死んでいく老ガンマンが特によかったけど、その他ペキンパー映画の常連たちも素晴らしい> これら一つの時代の終わりを丹念に追っていくこと。ひとつひとつにペキンパーの情念が感じられないだろうか? こんなにもカッコよくて、こんなにも哀しい群像に満ちた作品が他にあるだろうか? ペキンパーの撮影中の酒乱が原因で撮影が長引き、編集権を配給会社に奪われたりとかなんとか、そういう先入観でこの映画を観てはいけません。ここにこそペキンパーの集大成があるのですから。それぞれのシーンを揺蕩(たゆた)う深く哀しい情念の灯火。僕はしっかりと受け止めましたよ。とてもぐっとくる映画。 10点(2002-01-12 00:11:12)(良:2票) |
203. ファントム・オブ・パラダイス
はまる映画ですね。この映画に感動してうるうるしてしまった自分にはっとさせられたものです。普通じゃないかも。。。僕の中ではいまだにデ・パルマの最高作です。 10点(2002-01-12 00:01:15) |
204. イングリッシュ・ペイシェント
恋愛映画を1本だけ挙げろと言われたら、「黒い瞳」にするか「ベティブルー」にするか、それとも「東京夜曲」にするか、一晩悩んだ末に僕は「イングリッシュペイシェント」を挙げているだろう。恋愛映画にとって、登場人物を取り巻く状況は重要なファクターとなるが、それは恋愛に対する障害の大きさがその激しさに比例すると考えられているからであろう。しかし、恋愛映画にとって一番重要なのは状況そのものよりも、恋愛の本質理解である。恋愛とは自己意識と世界の関係性そのものである。そのため、意識としての恋愛は常に利己的かつ自虐的ものとならざるを得ない。それは自己の周囲にメタフォリックな非現実空間を作り出し、他者との現実的な劇に引き合う中で苦悩や挫折を導くことになるのである。「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでにまったく終わっているのである。」これはキルケゴールの言葉だがまさに恋愛の利己性を衝いており、恋愛が本質的にメランコリックであることを見事に言い当てている。本質を捉えていない作品は空虚で薄っぺらく、この本質を間違うと途端に見るに耐えないものに陥ってしまうだろう。また作品の状況が状況だけに間違ってしまう場合があるが、ここで「戦争の愚かしさや虚しさを痛烈に告発する力強いメッセージ」などは不要である。主人公の口からそのような台詞が吐かれた途端、僕らは一変に興ざめしてしまうに違いない。ここまでくれば、「イングリッシュペイシェント」が恋愛の本質を十分に表現している優れた恋愛映画であることがお分かりいただけたかと思う。<え?分からない?そうですか、それは残念です。> 最後に補足;人はシンプルな恋愛映画を指して「昼メロ」と呼ぶことがある。典型的なパターンとして不倫愛を挙げるだろう。その場合、それを「昼メロ」と呼んでしまった途端にその発語者は恋愛という劇から最も離れた存在である自分を自覚することになる。だからなるべくそういった類型的な視線を排して、作品を鑑賞しなければならない。 10点(2001-12-19 00:38:21) |
205. プライベート・ライアン
戦闘シーンのリアルさが訴える戦争の悲惨さ。それを素直に感じてしまう心情。それはある意味で無邪気な屈託のように僕には感じられる。この映画は戦闘シーンのリアルさと戦闘従事者のある種のヒューマニティという二つの側面を持っているが、その二つの事柄がうまく整合しない、妙な座りの悪さを強く感じるのだ。作者の切実さが僕らを捉える焦点のようなものを欠いている、その硬質性、その薄っぺらさがこの時代の精神なのだろうか。そう思うと妙に納得してしまうのも事実ではあるが。<補足>映画を単なる娯楽としてのみ観る立場から言えば、どうでもいいことかもしれない。娯楽として観れば、この映画はとても面白い。しかし、それが僕らの生きる「ほんとう」を指し示していない限り、娯楽以上の価値がないということも確かなのだ。そう思ってはいけないのかな?でも、そうでなかったら、僕がここで言うことなど何もない。世の中は既に汚れちまった哀しみに満ちている。既にイノセントな立場から言えることなど何もないはずなのだ。本来的な意味でリアルとは一体何だろう?僕らはもう一度、その意味について考えるべき時期に来ているのだと思う。イラクでのアメリカ人虐殺シーンの映像がネットで公開されたそうだが、その虐殺シーンとこの映画の冒頭に描かれる兵士達の殺戮シーンとの違いは何だろうか。また、戦闘ゲームやその手のマンガに描かれる殺戮シーンとの違いは何だろうか?それは、そこに投げかけられる問題の切実さによる。そしてそれを僕らがどのように捉えられるかにもよるのだ。 8点(2001-12-19 00:18:22)(良:1票) |