Menu
 > レビュワー
 > onomichi さんの口コミ一覧。6ページ目
onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順1234567891011
投稿日付順1234567891011
変更日付順1234567891011
>> カレンダー表示
>> 通常表示
101.  華麗なるギャツビー(1974)
ギャツビーもニックもちょいとイメージが違うのだが、、、原作のギャツビーは何やら怪しげな素性ながら実は純粋で誠実な人間であり、そのことが田舎インテリで若気を残すニックに感銘を与えるのである。ギャツビーの素性の如何わしさ、成り上がりものとしての存在感、上流階級に馴染めない率直さなど、レッドフォードのお坊ちゃん的雰囲気とはあまりにも対極にあるような気がする。ニックについても同様。ニックは語り部らしい機転のきくスマートな皮肉屋であるはずなのに、画面で見る人物は単なる田舎青年にしか見えない。つまり人物設定がかなり平板な印象を拭えないのである。それでも、若きレッドフォードはそれなりに魅せる人物ではあるようだ。確かに華麗である。でも、本来ギャツビーは華麗ではない。ギャツビーは価値判断の間違った無為な破滅志向に囚われる純朴さの象徴であり、それが偉大なのだ。ギャツビーの破滅がこの作品の主題であるとともに、ニックにしてギャツビーを偉大だと思わせる、その破滅も含めて忘れえぬ印象がニックを成長に導く物語でもある。その辺りの描写はかなり薄く、あの当時の時代的雰囲気を忠実に再現した小説のダイジェスト版と言われてしまうのも分かるような気がする。なかなか映画化は難しいものだ。
7点(2004-07-05 08:23:34)(良:1票)
102.  情婦
アガサ・クリスティは、愛憎を絡めたミステリーに優れている。デビュー作「スタイルズ荘」や本作などはそういう意味で傑作の一つだろう。この作品の展開自体は、そんなアガサのミステリーをうまく再現しているように思える。しかし、この映画の本当の驚きはマレーネ・ディートリヒ、その人に尽きるのではないかな。彼女の演技には感銘以外の言葉が見つからない。
8点(2004-06-27 02:01:17)
103.  エルビス オン ステージ
エルビスが偉大なる復活を果たし、日本でも大ヒットした1970年のライブ記録映画。最近、僕の叔父さんが車で<オンステージ>のサントラ盤をかけながら、運転&熱唱していたのを横で見ていて、「なるほど、団塊の世代の叔父さんにとってもエルビスの歌が響くというのは、この<オンステージ>のせいなのだなぁ」と納得した。僕自身も、高校生の頃、テレビで<オンステージ>を観たときには、さすがに「エルビスすごいぞ!」と感銘し、さっそく図書館へエルビスのベスト盤テープを借りに行った記憶がある。ど派手なステージングも印象的ながら、あの甘い歌声から繰り出される極上のバラードソングには、男の僕でもかなり痺れるものがあった。単純にかっこいいのである。50年代中期から60年代にかけての若々しいロックンロールアイドルたるエルビスも印象的だが、やはり彼がスターとしてステージ上で最も輝き、その虚勢と苦悩をも全身全霊で見せ付けた孤高の<オンステージ>があってこそ、エルビスはエルビス足りえるのではないだろうか。(思い出してみれば、最近の映画で現れるエルビスの亡霊たちも皆この頃のエルビスではないか!日本のスターにしきのあきらも何かって言うとエルビス風の衣装を着ているしね。)彼の<オンステージ>はDVDで発売されている。もうこれは一家に一枚の世界だね。
10点(2004-06-25 02:09:12)
104.  ビッグ・フィッシュ
映画っていうのは所詮がホラ話なんですね。そりゃもう巧妙なホラ話。それをリアルに見せれば見せるほど人は満足したりするんです。不思議なことに。そうすると、「この映画は真実に迫っている!」なんて杓子定規な評価が出たりしまして、これは映画っちゅうものの成り立ちからしてそういう傾向があるから、仕方のないことなのかもしれませんけど。映画のジャンルを問わず、ドキュメンタリーであろうが何であろうが凡そ人が撮るものには必ず演出ってものが付いてまわるもんだし、言ってみりゃあ、それは思い込みとヤラセの世界ですよ。映画ってものはそもそもそういう了解のもとに観るべきものなんじゃないのかって僕は思うんですけどね。ホラ話だって、そこに夢や希望が感じられれば十分に幸せを与えられるんです。ということで、ティムバートンの「ビッグフィッシュ」っちゅう映画なんですけど、これが実に大らかでいい作品ですね。クソ面白くもないエピソードを延々と見せられてつまらんという評価もあるみたいですけど、あのつまらん(?)ディテールがラストに大団円となるところが「蒲田行進曲」的な映画愛だとしたら、僕がほんとに評価したいのは、そっちのつまらんディテールの方でして、あれこそがティムバートンなりのささやかな日常への賛歌なのだと思いますよ。映画もホラ話も、大風呂敷な夢や希望があるのはいいけど、それが日常に繋がる「誠実さ」もなくっちゃね。その観せ方には十分なリアリティがあったような気がしますよ、この映画は。実は親父も自分と同じ弱さを抱えたひとりの人間なんだって、この「自分が存在することの原理」みたいなものを認めなければ、本当の意味で自分が親父を赦し、自分を自分として認めることはできないんです。映画の中の息子と同様に、観ている僕たちが知らず知らずのうちにそのことを了解してしまう、そういう父子にとっての現実的な物語でもあるんです。
9点(2004-06-20 08:06:21)(良:1票)
105.  ショート・カッツ
傑作である。レイモンド・カーヴァーの小説作品といえば、日本では、村上春樹訳としてよく知られている。その村上春樹がカーヴァー作品について、「人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者と関わりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフ」と解説しているように、カーヴァーは、その原初的な孤独と暴力性に常に囚われる下層労働者たちの荒涼とした悲哀を描く作家である。しかし、村上訳でカーヴァーに接する僕たちにその辺りのニュアンスを掴むのはなかなか難しい。村上訳から漂う軽妙な風がまさに都市的な悲哀を僕らに吹き込んでくるからである。個人的には、その悲哀の本質<弱さ>は変わらないと思うが、カーヴァー作品で描かれる下層労働者たちの絶対的な「どうしようもなさ」が圧倒的な存在感をもって僕らに伝わっているかと言えば、なかなかそうは捉えられないところがあるだろう。それに比べればアルトマンの描く「ショートカッツ」は実にカーヴァー的<原カーヴァー的>であると僕には感じられた。画面に漂うあまりにも明瞭な寒々しさ、絶対的な孤独を自明とした人々の生活とその荒涼感。映画としては、カーヴァーのいくつかの短編を繋ぎ合わせた構成となっていながら、そのエッセンスをうまく統合することにより、カーヴァー的世界を忠実に表現していたように思える。著名な役者たちも各々の無意識的な「ボロボロさ」加減をうまく演じていた。上空を旋回するヘリコプターが煽る硬質な不安感の中、最後の地震のシーンは人間の根源的な衝動、漠とした悪夢を見事に映し出す。僕は映画を観終わったあと、しばらく間、悪夢の続きの中をくらくらしたものだ。
10点(2004-06-10 01:05:17)
106.  コン・エアー
ダイ・ハード級の面白さ<アクション映画としては最大級の賛辞!>ですね。とにかく役者が揃いました。愚直な正義派マッチョマン、ニコラス・ケイジ。危険な香りをプンプンと撒き散らすインテリ系のボーン・トゥ・犯罪者、ジョン・マルコビッチ。最後まで訳が分からない変質者、ブシェーミ。とことんやさ男キャラ、ジョン・キューザック。このメンバーを見ただけでもうお腹いっぱいってところだけど、それぞれのキャラクターが妙に噛みあわずに空回りしている<誰もがみんな浮いている!>ところが、実に最高ですw。これはそういうキャラクター映画で、それを楽しめるかどうかがポイントではないかな。
8点(2004-06-10 00:46:28)
107.  ミッドナイトクロス
どこを取ってもデ・パルマ丸出しのデ・パルマ映画の中堅どころ。独特のカメラワークに、多用される画面分割、そして美しい音楽と奇妙に捩れたサスペンス・ストーリー。主演のトラボルタとナンシー・アレン<「キャリー」を引き継ぐアーパーカップル>も最高だけど、相変わらずの変質的殺人者ジョン・リスゴーもいい味を出しています。ラストはとても哀しい。美しきヒロインの死も、暴走する殺人者のあっけない死に様も共に哀しい。濃密な夢が終わるかのごとく、世の中は何事もなかったかのように日常を流れていく、ただ主人公の大きな喪失感と実録された悲鳴だけを残して。これはデ・パルマ版の「世界の中心で、愛をさけぶ」だ。かなり捻くれてはいるけど、やっぱりテーマは純愛物語なのだから。。。
9点(2004-06-05 01:47:02)(良:1票)
108.  バッファロー'66
ヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。心底共感したと言うと僕もダメ人間ということになるのかな? まぁそれはいいけどね。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。
9点(2004-05-20 02:20:52)(良:3票)
109.  プライベート・ライアン
戦闘シーンのリアルさが訴える戦争の悲惨さ。それを素直に感じてしまう心情。それはある意味で無邪気な屈託のように僕には感じられる。この映画は戦闘シーンのリアルさと戦闘従事者のある種のヒューマニティという二つの側面を持っているが、その二つの事柄がうまく整合しない、妙な座りの悪さを強く感じるのだ。作者の切実さが僕らを捉える焦点のようなものを欠いている、その硬質性、その薄っぺらさがこの時代の精神なのだろうか。そう思うと妙に納得してしまうのも事実ではあるが。<補足>映画を単なる娯楽としてのみ観る立場から言えば、どうでもいいことかもしれない。娯楽として観れば、この映画はとても面白い。しかし、それが僕らの生きる「ほんとう」を指し示していない限り、娯楽以上の価値がないということも確かなのだ。そう思ってはいけないのかな?でも、そうでなかったら、僕がここで言うことなど何もない。世の中は既に汚れちまった哀しみに満ちている。既にイノセントな立場から言えることなど何もないはずなのだ。本来的な意味でリアルとは一体何だろう?僕らはもう一度、その意味について考えるべき時期に来ているのだと思う。イラクでのアメリカ人虐殺シーンの映像がネットで公開されたそうだが、その虐殺シーンとこの映画の冒頭に描かれる兵士達の殺戮シーンとの違いは何だろうか。また、戦闘ゲームやその手のマンガに描かれる殺戮シーンとの違いは何だろうか?それは、そこに投げかけられる問題の切実さによる。そしてそれを僕らがどのように捉えられるかにもよるのだ。
8点(2004-05-15 22:22:29)(良:1票)
110.  A.I.
「鉄腕アトム」には、成熟しない永遠の子供ロボットというモチーフがある。彼には元々家族が存在しなかった。<妹のウランはアトムが誕生日プレゼントにもらったものなのだ> 天馬博士からは成長しないことを理由に捨てられ、ロボットというだけで人間から疎外されながらも、愛情に飢え、逆に人類に対して無償の愛情を与え続ける、そういう存在がアトムの原型<原アトム>なのである。成熟の放棄は、人間のファンタジックな願望であるとともに人的異常さの象徴であり、心を持つアトムにとってそれは深い哀しみそのものだったのである。<「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」では宇宙人から大人の顔をプレゼントされて終わるらしいが> というわけで、この「A.I.」という映画、「火の鳥」のウーピーやロビタ、永遠に生き続ける未来編の男、それらの物語群を彷彿とさせると同時に、僕には原アトムの物語を思い出させた。手塚治虫は、ディズニーアニメを模倣することによって、日本マンガの技術的手法を確立したが、成熟しない主人公という日本マンガ普遍のモチーフは、実は「鉄腕アトム」から培われたものなのだ。そしてその未成熟ロボットが愛すべきキャラクターとして肯定されたことが、戦後日本空間を象徴する確信的意味合いをもつのである。<その辺りのことは大塚英志の評論に詳しい> キューブリックやスピルバーグが手塚治虫のマンガを意識したのかどうかは知らない。ディズニーの「ライオンキング」の例のようにあからさまではないが、「A.I.」も明らかに似ていると感じる。A.I.として蘇った苦悩する愛情ロボット<原アトム>の物語は、その根底に時代的モチーフを持ちながらも、ピノキオという西洋ファンタジーの真綿に包まれることによって、アメリカ的成長物語として<全く逆のベクトルをもって>再生した、というように僕には感じられた。「成熟と喪失」というテーマは本来、日本にこそ相応しいが、アトムの本来的苦悩など今の日本で忘れ去られているのが現実であろうか。
7点(2004-05-03 15:54:41)
111.  地獄の黙示録
これまで繰り返し語られてきたことだが、この映画は、悪夢の如き戦争を描いたのではなく、戦争に纏わる悪夢そのものを描いているのである。まず、冒頭。密林を一瞬に炎と化すナパーム弾、「ワルキューレの騎行」の旋律とともに隊列を組むヘリコプターの一群。破壊の象徴としての圧倒的な重量感と硬質性、その神々しさ。戦争という生の破壊的状況において、それは荒ぶる女神の如き美しいものとなる。中盤。ボートを駆って河の上流を目指す一隊に訪れるベトナム戦争という義なき闘争への疑念。剥ぎ取られていく人間性。河の上流は、明らかに人を正義から狂気へと導く思念的道筋である。終盤。此の世の境界というべきド・ラン橋を超えた辺りより、映画には常に不穏な音楽が流れ続ける。ボートは遂に彼岸とも言うべきカーツ王国に辿りつく。カーツを神と崇める天国。それはカーツの思念的理想を生み出した地獄でもある。ウィラードによるカーツ殺しは、文化人類学的に言う「王殺し」であろうか。これもカーツの思念的達成である。<特別編では、カーツを殺したウィラードは、鬼が島から帰還する桃太郎の如く、村上春樹の「羊をめぐる冒険」の主人公の如く、現世に戻る。> ここまでストーリーを俯瞰してきたが、改めてこの物語の骨子を言えば、それは「狂気のその先にあるもの、その一線を越えることへの抑えがたい欲望と恐怖」である。そしてその答えは、Nothingなのである。この物語はそういう悪夢なのだ。そう、これはコッポラの悪夢。彼が芸術的信念に基づいて辿った悪夢の先、現代の黙示録として名づけた物語の終末はNowhereであり、Nothingなのである。彼がただ善悪を超えた美しさ、心象の完全性のその先に描いた光景、それは物語として如何に脆く儚いものであったろうか。Nothing。その恐怖。そんなものは物語として、映像として描ききれるものではないのだ。その到達と挫折が混沌としたラストシーン。彼の作品に対する自身の評価は、どうだったのだろうか。それは、彼が80年代以降に辿った道筋によって示されている。しかし、映画界でこの領域にまで足を踏み入れた作品は数少ない。そして僕にとっても忘れがたい悪夢としてこの映画は脳裏に刻まれることになった。大傑作。<全くもって個人的に。。>
10点(2004-03-28 22:04:32)(良:1票)
112.  暴走機関車
この映画全編に漂う切迫感には、ある種のノスタルジックな感傷を伴う。確かに演出にはこれといって特徴的なところもなく、凡庸といっていいのかもしれない。しかし、僕はこの作品に昨今の災害系のアクション映画にはない悲壮な意志を感じた。それは切実なるヒューマンな意志なのである。暴走機関車が雪原を爆走するラストは、とても絶望的に映るかもしれない。しかし、この作品に通底するヒューマンな意志を感じる限り、それは同時にこの世界に微かに光るポジティブな一本の道筋を指し示しているように思えるのである。僕には確かにそう思えた。だから僕はこの映画が好きなのだ。
8点(2004-03-02 20:23:23)
113.  フレンチ・キス
メグ・ライアンの魅力溢れる作品。メグ・ライアンの魅力はその子供っぽさにあると思う。劇中でケビン・クラインに子供っぽい歩き方だと揶揄されるのを軽く否定しながら、まさに子供っぽい歩き方を自然にしてしまう場面の面白さ。感情が素直に表情や行動に現れて、ずっこけた失敗を繰り返してしまうところも可愛らしい。対立から和解。自身の感情への気付き。そんな幼い恋の展開もメグにかかればとてもナチュラルに思える。やくざなフランス人役のケビン・クラインがそんなメグに惹かれて、「素直な自分」というものに捉えられてしまったように、僕らもこの映画にはとても素直に納得させられてしまうのだ。
8点(2004-03-02 20:08:29)
114.  ホテル・ニューハンプシャー
「ホテルニューハンプシャー」とは喪失の物語である。家族、或いは父親が真っ当な存在としてのあり方を模索しながらも、結局はそれが永遠に失われてしまったことが語られているのだ。熊とは正にその真っ当さの象徴だったのではないか。この物語の中で、本物の熊が冒頭で殺されてしまうのは、家族としての真っ当さの死を象徴しているのだろう。そして、擬似の熊はその喪失の代替的な役割を担っており、彼らが常に失われたものへの快復を切実に求めていることの証しなのである。父親はその失われたものを快復しようとホテルニューハンプシャーの経営を始めるが、家族はそれぞれに不具を抱えており、さらに新たな喪失にも見舞われてしまう。彼らは、それでも家族としての或いは生きていくことの真っ当さを求めることを諦めず、喪失感の中で彷徨<その象徴がウィーンであろう>し続けるが、結局のところ、彼らは何処に辿りついたのだろうか。もちろん何処にも辿りつかない。村上春樹の小説「回転木馬のデッドヒート」の有名なプロローグは、その現代的な喪失感を的確に表現している。「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。」 この映画<或いは小説>は、僕らにこう考えることを教えてくれる。それは一種の方法論として。それでも、僕らは意志し、生きていく。それしかないのだと。
10点(2004-02-28 23:46:35)
115.  クリエイター
地方では他の有名な作品と同時上映だった。それが何かは思い出せない。。。<何だったかな?> まぁこれが観たくて映画館に足を運んだわけではなかったのだ。ただ予想に反して、この映画が語る愛と再生の物語には、当時、単純に感動したものだ。特にヴィンセント・スパーノが爽やかな印象を残す。彼が恋人となる女性と出会うシーンやその後の甘い生活ぶりは、少年だった僕に恋愛に対する憧れを抱かせるのに十分だったし、その彼女が死の淵から生還するシーンの切実さにも結構泣かせるものがあった。<実際、泣いちゃったよ> この映画を観たのはもう20年前。。。あの頃と同じ思いでこの作品を観れるかどうか、再見するのがとても怖い映画でもある。
8点(2004-02-22 11:15:45)
116.  ザ・ビーチボーイズ/アン・アメリカン・バンド
ブライアン・ウィルソンがブルース・ブラザースと夢の共演を果たしている。それだけでも一見の価値あり。但し、歌の共演ではないが^^; ビーチボーイズに関しては、ちょっとこの場だけで語りつくすことはできない。ただビーチボーイズの偉大さを知る上でもとにかく観て欲しい作品だ。初期のサーフィン/ホットロッドの時代からブライアンの才能溢れる「ペットサウンド」の時代、伝説の「スマイル」製作風景とブライアンがドラッグに溺れていく様、ブラザース時代である不遇の70年代初期とブライアンの復活、そしてデニスの死。まさに原題のごとく一つのアメリカンバンドの歴史を追いながら、それはまさしくポップ&ロックの歴史そのものでもあるのだ。80年代のレーガノミクスの時代、ビーチボーイズがアメリカンロックの象徴として建国記念コンサートに招かれたのは当然といえば当然であるが、不遇の時代にヨーロッパでは認められながらもアメリカから見放され続けた彼らが実際どう思っていたのかは分からない。まぁとにかくビーチボーイズを知るための入門映画として、お薦めの一品である。僕としては、デニスが歌う「You are so beautiful」がとても印象に残っている。ブライアンとカールの入れ替わるPVも暗示的だったな。 そしてトリップ状態のブライアンがソロで歌う「Surf's up」・・・美しくも哀しい。
10点(2004-02-22 11:10:11)(良:1票)
117.  ベイビー・イッツ・ユー
「クリエイター」と「グッドモーニング・バビロン」を観て以来、ヴィンセント・スパーノという役者は僕にとってちょっと気になる存在だった。そんな彼の初主演映画がこれ。残念ながら観たのがもう15年以上前なのであまりストーリーは覚えていないけど、ヴィンセントがシナトラに憧れて誰もいないキャバレーのステージで「夜のストレンジャー」を歌うシーンは印象に残っている。良家のお嬢様だった若きロザンナ・アークェットが次第にヒッピーかぶれになっていく様も印象的だ。どちらも切なく痛々しい。
7点(2004-02-21 23:56:35)
118.  ワイルドバンチ
今や伝説となったラストの殺戮シーン。数年ぶりにこの映画を観て、改めてここに描かれる男達の生き様死に様の美しさに感嘆の念を禁じえなかった。男達の自死を賭した大量殺戮は、如何なる理由で描かれなければならなかったのか。彼らは仲間への友情の為に殺すのか。それとも自らのプライドの為か。ゴモラの火の如く、ラプラスの悪魔の如く、一切の妥協も躊躇いも排したあの殺戮シーンの美しさは一体何であろうか。僕はこの映画に失われた予定調和を見る。強烈なメランコリーの発露として、男達のちっぽけな信念に裏打ちされた運命そのものを見るのである。行き場のない狂気は、ただ生死の意味のみに執着し、その行為は、神の裁きの如き美しさを放ち、瞬時に一切を無に帰す。刹那に放たれた至上の輝き。その美しさ、その哀しみ。その根源性は、僕らの胸を強烈に打ち奮わせるのである。
10点(2004-02-17 23:40:19)
119.  ビッグ・ウェンズデー
「ビッグ・ウェンズデー」を観たのは大学生の頃だった。青春というのは終わるものだ。若く、輝かしい、最高の時。終わってしまう。それは確実に。この映画に描かれる青春に対する強烈なノスタルジーは、大人になることへのアンビバレンツな感傷としてビッグ・ウェンズデーという伝説に象徴的に集約されていた。しかし、それはあくまで幻想である。決別すべき幻想。もちろん、そこに答えはない。やがて笛が鳴り僕らの青春が終わる、、、本当だろうか。ノスタルジーはメランコリーの水脈となり、僕らの心にいまだ澱のように漂っている。その発露もなく。
8点(2004-02-08 23:26:29)
120.  恋人までの距離(ディスタンス)
旅と恋愛とは似ている。その本質は期待すること。そんな可能性を改めて認識させてくれる映画だった。旅が終われば、今、この瞬間の恋は終わってしまうのか。でも、それでも。。。この映画、舞台設定もなかなかよく出来ているが、日常を超えた些細な可能性について、その高揚と不安をよく描いていると思う。誠実さがさりげなく光る恋愛映画の佳作。
8点(2004-02-08 22:47:15)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS