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自己紹介 映画を観る楽しみ方の一つとして、主演のスター俳優・演技派俳優、渋い脇役俳優などに注目して、胸をワクワクさせながら観るという事があります。このレビューでは、極力、その出演俳優に着目して、映画への限りなき愛も含めてコメントしていきたいと思っています。

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1.  ラスベガスをやっつけろ 《ネタバレ》 
「ラスベガスをやっつけろ」は、天才映像作家テリー・ギリアムが、失われたアメリカン・ドリームの末路をシニカルに皮肉り、笑い飛ばすブラック・ユーモアの快作だと思います。  この映画「ラスベガスをやっつけろ」の原作は、1971年に発表された歴史に名を残す悪名高きジャーナリストのハンター・S・トンプソンの、"カウンター・カルチャーのバイブルとも言われている、自伝的なドキュメント「ラスベガス★71」で、その破天荒で独創的な毒気のある内容から、映画化は到底、不可能と言われてきましたが、鬼才・テリー・ギリアム監督が見事に映像化した作品だと思います。  テリー・ギリアム監督は、反体制のスピリットを持つ映画作家で、イギリス最高のブラック・ユーモア集団の"モンティ・パイソン"の創立メンバーの一人で、彼の怪物的ともいえるイマジネーションの世界観、映像の魔術は、我々、観る者を圧倒してやみません。  特に彼の代表作である、「未来世紀ブラジル」でこの悪魔的な映像魔術の世界が最高度に発揮されていたと思います。  "ありとあらゆるドラッグをトランクに詰め、一路ラスベガスへと向かったふたり----いったい何処だ、アメリカン・ドリーム!?"と謳われているこの原作は、ラルフ・ステッドマンの狂気的な挿絵が満載で、"ゴンゾー・ジャーナリズムの金字塔"とも言われ、原作を読み終わった今でも、この強烈なインパクトは私の脳裏にいつまでも長く、残照のように残っています。  ジョニー・デップ演じる、原作者のハンター・S・トンプソンの分身であるジャーナリストのラウル・デュークとベニチオ・デル・トロ演じるサモア人の弁護士のドクター・ゴンゾーの二人は、真っ赤なスポーツカーに"治療薬"と称して、あらゆるドラッグを大量に詰め込んでラスベガスで開催されるバギー・レースの取材に向かいます。  カメレオン俳優としても有名なこの二人の俳優は、ジョニー・デップが原作者のハンター・S・トンプソンの家に長期間泊まり込み、完璧に彼の一挙手一投足を自分のものにして彼になりきり、頭髪も禿げ頭にしました。  また、ベニチオ・デル・トロは、役作りのために20kg体重を増やして撮影に臨んだというエピソードが残っており、この映画の役作りに賭ける二人の強い執念が感じられます。  怪獣の尻尾を付けたり、ガニ股でラリッてヨタヨタとだらしなく歩くデップと不気味なふてぶてしさを体中から発散させるデル・トロ、本当にこの二人の演技の凄さに圧倒されます。  二人はホテルへ到着早々、取材をせずにドラッグ三昧、もうやりたい放題し放題、無茶苦茶な騒動を次から次へと引き起こす彼等の真の目的は?----という展開になっていきます。  とにかくこの二人、ラリッて頭の中が完全にトリップした人間が見るような、幻覚に満ち溢れた映像の魔術的な強烈なインパクト。  奇妙奇天烈にグニャグニャと歪んで変形するホテルのフロントの顔、突然、動き出す床の絨毯の模様、爬虫類に変化して暴れ回るバーの客など、とにかくケバケバしい極彩色に彩られた、奔放で怪物的なイマジネーションの世界が、これでもか、これでもかという具合に繰り広げられ、それらは笑いを通り越して、もはや"醜悪そのものの世界"になっていきます。  このテリー・ギリアムの世界観についていけない人はこの段階で、もうギブ・アップでしょう。 テリー・ギリアムの映画はいつも観る人を選ぶんですね。  そして彼はいつも、"夢想や幻想の力だけを頼りに、現実と切り結び、今ここにある現実を変革しようとまでする無謀な人間を好んで描き、夢想や幻想を現実化してみせ、自らも自由の羽を付けて飛翔する事を願い、既存の体制的な社会に反旗を翻している"のだと思います。  この狂ったような破天荒な行動を繰り広げる二人の大義名分、つまり、原作者のハンター・S・トンプソンが、原作で訴えたかったテーマは、"失われたアメリカン・ドリームを求めての旅"だと思います。  そして、この映画の最大の魅力は、1960年代から1970年代へかけての時代の大きな変革期に、アメリカ人が追い求めてきた"アメリカン・ドリーム"の末路をシニカルに皮肉り、笑い飛ばし、来たる次の世代への警鐘を鳴らした事だと思います。  尚、この映画にはブレークする前の現在のトビー・マグワイアからは考えられない意表をつく役で出演しており、キャメロン・ディアス、クリスティーナ・リッチもカメオ的な出演をしていて、映画ファンとしては思わずニヤッとするお楽しみもあります。
[DVD(字幕)] 9点(2023-11-16 15:40:33)
2.  スリーピー・ホロウ 《ネタバレ》 
この映画「スリーピー・ホロウ」は、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールド全開のゴシック・ホラーの大傑作だ。  とにかく、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールドに魅せられる素敵な映画です。  この「スリーピー・ホロウ」は、ワシントン・アーヴィング原作の「スリーピー・ホローの伝説」の映画化作品で、ティム・バートンが当時、「シザー・ハンズ」、「エド・ウッド」に引き続き、盟友のジョニー・デップとタッグを組んだゴシック・ホラーです。  18世紀のニューヨーク郊外の村、スリーピー・ホロウでは夜な夜な馬に乗って現われては住人の首を掻き切る首なし騎士が人々を恐怖のどん底に陥れていました。  斧を振りかざした首なし騎士が、漆黒の馬にまたがり、闇夜を疾走する場面の絵になる事といったらありません。 村を丸ごと作ってしまったというセットも素晴らしい雰囲気を醸し出していますし、霧が立ち込める不気味な夜は、色彩も美しく、優れて絵画的でもあります。  つまり、この映画はまさしく、現代の映画作家の中で、最も寓話的な作家であるティム・バートン監督によるファンタジーな絵本の世界を映像化したものだと思います。  そして、これらの幻想的でダークな、鳥肌が立つくらいに綺麗で美しい映像を撮影しているのが、何と「ゼロ・グラビティ」、「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、「レヴェナント:蘇えりし者」で3年連続でアカデミー賞の最優秀撮影賞を受賞という快挙を成し遂げた、メキシコ出身の天才撮影監督のエマニュエル・ルベツキ。  初めてこの映画を観た時、この撮影は何と凄いのだろうと衝撃を受けた時の記憶が甦り、当時からルベツキの撮影技術が素晴らしかったという事がわかります。  この映画にはかつて、バートン監督が偏愛した1960年代のハマー・フィルム社の"怪奇映画"に対するバートン監督のリスペクト、オマージュに満ち溢れています。  バートン監督は、「当時の怪奇映画は映像的には美しかったが、スタジオ撮影のシーンとロケ撮影のシーンとの間に大きな隔たりがあった。 その隔たりを埋めようとして、セットはもっと現実っぽく、実際の風景は作り物っぽくなるようにした」と語っていて、バートン監督のこの狙いが見事に成功していると思います。  更に、首なし騎士の造形に見られるように、バートン監督が、「シザーハンズ」、「バットマン」、「バットマン・リターンズ」で描いてきた"異形の者"への偏愛も健在で、それまでに磨いてきた映像テクニックを縦横無尽に使い分け、自分の創造性を"さらり"と表現してみせる技を習得した彼は、まさに円熟の境地に達した感があります。  そして、この映画の最大の見どころはやはり、ヘンテコで奇妙な器具をこねくり回して、頑固な程に科学的な捜査を試みるジョニー・デップと村の迷信的な存在である"首なし騎士"との対決です。  科学的な合理性と超自然的な怪談の激突を、頭でっかちな男VS首なし騎士の対決として象徴的に描いているのが面白くてたまりません。  この首なし騎士を演じるクリストファー・ウォーケンの唸り声以外、セリフが全くないにもかかわらず、あの"美しくも怖い顔"で、我々観る者を恐怖のどん底に落とし込む程、怖がらせてくれて見事の一語に尽きます。  デップが古い伝説的な迷信にとり憑かれた村人に囲まれて、ひとり大真面目に捜査を行なう様子はいささか滑稽で、いざという時に臆病風邪を吹かせてしまうというキャラクターにも愛着が持てます。  そして、バートン監督は、我々観る者に謎解きという知的ゲームを与えておきながら、全く考える余裕すら与えない程に衝撃的な首切り殺人や戦慄の映像を畳みかけ、観ている側を完全にパニック状態に陥らせてしまいます。  そして、苦悩する主人公のデップと同様に、我々観る者の、理性を保とうとする機能までも破綻させてしまいます。 この演出技法には全くお手上げで、本当に心憎い監督です、ティム・バートンは。  映画の終盤には、西部劇ばりのワクワクするような、血沸き肉躍る、騎馬チェイスが用意されていて、エンターテインメント性にも満ち溢れていて、カルト的なのに大娯楽映画。  これこそが、まさにバートン監督映画の魅力であり、彼のように鮮やかに自分の趣味とビジネスを両立させている監督は、長いハリウッド映画の歴史の中でも、極めて稀な存在だと思います。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2023-11-16 15:07:54)
3.  ハッド 《ネタバレ》 
この映画「ハッド」の監督マーティン・リットは、赤狩りで辛酸をなめた映画人の一人としてよく知られていますね。 その時、彼は才能ある人々の裏切りを目の当たりにして、人と社会への厳しい目を培ったのだろう。  そんな彼の体験が、以後も一貫して反骨精神を貫き、「寒い国から帰ったスパイ」「男の闘い」「サウンダー」「ノーマ・レイ」などの映画で、特定の時代における人間の孤立と闘争を描き続けてきた原動力になっているのだと思う。  このマーティン・リットが監督した「ハッド」は、アクターズ・スタジオの縁でポール・ニューマンと6本ものコンビ作を生み出したうちの1本なんですね。  近代化の波に押しやられた、テキサスの荒涼とした風景の西部で、牧場を営む三代の男家族の確執と離散を通じて、現代アメリカの荒廃を浮き彫りにする秀作だと思う。  ポール・ニューマンが演じるハッド・バノンは、酒と女以外、人生に興味を示さず、心の中に闇を抱えた虚無的な男だ。  そんなハッドが、15年ぶりに故郷のテキサスの牧場へ帰ってくる。 酔っ払い運転で兄を死なせたハッドは、兄の遺児ロンからは慕われるが、老いた父ホーマー(メルヴィン・ダグラス)との断絶は解消できず、反目し合ったままなのだ。  ここに、離婚をして中年にさしかかった流れ者のアルマ(パトリシア・ニール)が住み込みの家政婦として雇われ、束の間、男だけの家庭に安らぎが訪れるが---------。  この映画の原作は、西部小説の名手と言われているラリー・マートリーの短篇小説で、彼の描く人々は、いつも物憂げで、他者のみならず自らをも肯定出来ないのが常なんですね。  マーティン・リット監督は、この原作を映画的に膨らませることで、アメリカという国の未来を憂う、彼自身の心情を吐露しているのではないかと思う。  父の大事にしている牛の群れが、疫病を患い次々と倒れていく。 そこには、かつて西部劇が描いた開拓精神や男のロマンなど微塵も見られない。  ハッドは、アンモラルなエゴイストで、彼は病気が証明される前に、牛を売ることを提案するのだが、そんな彼の無情の背景には、父への憎しみがあるからなのだ。  父親はそれに耳を貸さず、結局、手塩にかけて育ててきた牛たちを屠殺処分せざるを得なくなり、生きる意欲を失ってしまう。  ハッドは、父ホーマーの開拓者としての誇りを踏みにじり、口論の末に荒れて、アルマを強姦しようとするが、アルマは身を許さない。 大人の女のぬくもりも男たちの崩壊を救うことはできなかったのだ。  こうして、アルマは去り、そしてホーマーは落馬して夜道に倒れ、「わしが長生きすると迷惑だろう」と言い残して息を引き取るのだった。  ハッドの哀れな本性に嫌気が差したロンは、「あんたが生きる力を奪った」と言い放ち、故郷を捨て、ハッドはひとり寂しく取り残されることに---------。  ポール・ニューマンの自己破壊性、メルヴィン・ダグラスの威厳と孤高、そして、パトリシア・ニールは、アルマの瞳に根を張ることの叶わぬ、女の諦念をにじませて官能的だ。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-11-08 00:13:04)(良:1票)
4.  チャイナ・シンドローム 《ネタバレ》 
チャイナ・シンドロームとは、原子力発電所で起こり得ると考えられる事故の最悪のものを言い、原子炉内部の高熱を事故でコントロール出来なくなり、発電所そのものがドロドロに溶解し、巨大なマグマの塊となって、それ自体の重量でどんどん地中に沈んでいき、地球を貫き、遂にはアメリカの反対側の中国に突き抜けてしまうだろうというところから来ているんですね。  この映画「チャイナ・シンドローム」の公開の前年には、我が日本でも黒木和雄監督の「原子力戦争」でも、ある原子力発電所で、それに至る可能性を含んだ事故が起こったことを、告発しようとした技術者が消されるというシチュエーションを扱っていましたが、このアメリカ映画もまた似たような着眼で作られていますね。  これは、偶然の一致というよりも、原子力発電の安全性に危惧を抱く者は誰でもそのことを考えるのだと思います。 ただ、日本では、それを余り評判にならないATG映画の低予算の小品でしか作れなかったが、アメリカでは、さすがに堂々たるメジャーのエンターテインメント作品として作り上げることに成功していると思います。  そこに、映画人の発想のスケールの違い、ひいては、民主主義の成熟度の違いがあり、また、それを支える原子力発電反対の層の厚さの違いもあるのだと思います。  もっとも、この映画がアメリカで大きな話題になり、興行的にも成功した要因として、封切り三週間後の1979年3月28日、ペンシルヴェニア州スリーマイル島の原子力発電所の二号機が事故を起こし、地域の住民が被曝するという、原発事故としては最大級の事件となり、大統領が自ら対策の指揮に当たるという事態になったからなんですね。  最悪の場合、穴が中国に届くというのはオーバーであるにしても、アメリカ国土の相当の部分が死の灰に覆われる可能性があったと言われ、人々は改めてこの映画に注目したのだと思います。  主演のジェーン・フォンダは、当時から反体制運動の活動家として有名ですが、この映画でも彼女自身がそうであるような役を演じていますね。  ロサンゼルスのテレビ局のニュース・キャスターのキンバリー・ウエルズ(ジェーン・フォンダ)は、ある日、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)と録音係を伴って、原子力発電所の取材に出かけたところ、突然、所内に振動が起こり、制御室が大騒ぎとなった。  放射能漏れがわかり、原子炉の運転が停止される。 キンバリーは、この騒ぎをフィルムに収めるが、局の上司に押さえられ放送されなかった。  不満なリチャードは、フィルムを密かに隠し持って物理学者に見せたところ、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと聞かされる。  一方、原子力発電所の技師ジャック・ゴーデル(ジャック・レモン)は、原子炉の運転が再開されたものの、なお不安を隠し切れず、調べたところ、事故の原因が建設当時、パイプ結合部を担当した業者の手抜きにあることを突き止め、真相を隠そうとする上役に反対して制御室を占拠し、言うことを聞かなければ、核物質を漏らすと脅し、キンバリーたちテレビの取材班に真相を発表する。  発電所側は、ジャックを騙して射殺し、真相を闇に葬ろうとするが、キンバリーたちは勇気を持ってそれを発表するのだった。  この映画は、こうした時代の核心を鋭く突いた、社会派映画の秀作だと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2023-11-07 18:30:55)
5.  コーマ 《ネタバレ》 
ジュヌビエーブ・ビュジョルドの健気な頑張りが楽しめる医学ミステリーの映画化作品。  この映画「コーマ」の原作は、ロビン・クックの医学ミステリーで、脚色と監督は、アクション小説を書き、SF小説も書き、医学ミステリーも書くベストセラー作家で医学博士でもある才人マイケル・クライトン。  ヒロインは、ボストン記念病院に勤める若い外科医(ジュヌビエーブ・ビュジョルド)で、高校時代からの親友が、簡単な手術なのに麻酔から醒めず、コーマ(昏睡)の状態のまま、死んでしまいます。 そして、次の日にも若いスポーツマンが、手術の原因不明の失敗でコーマに陥り、ジェファースン研究所という、植物人間の療養施設に送られます。  これらの事に不審の念を抱き、過去にコーマの患者が意外に多いのを知って、原因究明に乗り出す女医のジュヌビエーブ・ビュジョルド。 越権行為だと怒られたりしながら、それでも調査を続けると、命を狙われて、夜更けの病院内を必死で逃げ回ったり、換気口の長い梯子をよじ登ったり、果ては救急車の屋根に腹ばいになって逃走したりと、まるで女ジェームズ・ボンドといった大活躍をするので、楽しくてしかたありません。  しかも、このビュジョルドさん、小柄な体に思い込んだら命がけという、ヒステリックな目つきをして脅えながら走り回ったりするので、もうその健気で必死の頑張りには、手に汗を握ってハラハラしながら、応援したくなってきます。  彼女がほとんど出ずっぱりのひとり舞台なので、おかげで他の俳優さんたちは、演技のしどころがなくなって、気の毒になってきます。 彼女には同じ病院に勤める外科医の恋人(マイケル・ダグラス)がいて、彼女の引き立て役的な存在です。 そして、外科部長になるリチャード・ウィドマークが、なかなかいい味を出していて、老優、衰えず、さすがの存在感を示しています。  マイケル・クライトン監督の演出は、前半部分がかなり単調で、ラブシーンもどことなくぎこちない感じですが、さすがにスリラーとしての場面では、冴えた演出をしています。 ビュジョルドに情報を提供しようとした機械室の職員が、電流で殺されるシーンは、ハッタリが効いていて、なかなか凄まじいものがあります。  その犯人に追いかけられて、夜更けの病院内を逃げ回ったあげく、ビュジョルドが必死の反撃をするシークエンスが特に素晴らしい。 それが三分の二あたりまで進んだところで、次にジェファースン研究所へ入り込むシークエンスは、コーマの患者をワイア・ロープで吊って、宙に寝かしてある病室が、SF的風景で非常に面白いのですが、ここでの追いかけ回されるサスペンスは今一の感があります。  そこで、最後に真相がわかって、ボストン記念病院でのクライマックスになるわけですが、そこのサスペンスの演出もやはり今一なので、映画全体として尻すぼみの感じがします。 もし仮に、アルフレッド・ヒッチコック監督だったら、もっとうまく演出するのになあ---などと無いものねだりをしながら観ていました。  しかし、病院内をビュジョルドが逃げ回る場面では、拳銃を持った相手を、彼女が死人の応援でやっつけるというところは新手の手法で、一見の価値がありましたので、このようにもっと映画の細部にまで気を使って、小味なスリラーに徹すれば良かったのに、マイケル・クライトン監督のハッタリ性が、邪魔をしたような気がして残念でなりません。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2023-11-07 18:23:24)
6.  レベッカ(1940) 《ネタバレ》 
この映画「レベッカ」は、ハリウッドの大製作者デイヴィッド・O・セルズニックと契約したアルフレッド・ヒッチコックが、アメリカに渡って最初に手掛けた作品であり、1940年度の第13回アカデミー賞で、最優秀作品賞と最優秀撮影賞(白黒)を受賞して、アメリカ映画界へ華々しい登場となった作品でもあるのです。  イギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリアが1938年に書いたゴシック・ロマン小説の映画化で、女性が結婚して得る幸福の意味を追った小説ですね。  アルフレッド・ヒッチコック監督は、原作の持つ雰囲気描写を映像に置き替えながらも、内容の上ではヒロインの心理的不安、そして殊に、映画の後半に見られる謎解きと裁判のサスペンスに興味を移し替えてまとめあげていると思います。  この映画は一人称による原作の持ち味をそのまま使って進行しているため、ジョーン・フォンテーンが扮するヒロインの「私」で話が進むのも実にユニークですね。  金持ちの未亡人の秘書をしていたアメリカ娘のマリアンは、モンテカルロのホテルで、どこか翳のある金持ち貴族のマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と出会い、彼の二度目の妻としてイギリスの荘園マンダレイにやって来ます。  この映画のタイトルの「レベッカ」とは、今は亡き前妻の名前。 画面には一度も登場しないのですが、イギリスのコーンウォールの海岸に立つ由緒あるマンダレイ荘のあらゆるものに、美しかったというレベッカの痕跡が残っていて、その最たる存在が、レベッカの身の回りの世話をしていた召使いのダンバース夫人(ジュディス・アンダーソン)だった。  主人公の「私」は、決して心から打ち解けようとしない夫や、いつも自分を見張っているような黒づくめのダンバース夫人、そしてレベッカの痕跡などに小さな不安を抱きつつ、マンダレイの女主人としての務めを果たそうとするのですが、その一方、孤独で贅沢など知らずに生きてきた「私」にとって、ここでの生活は何から何まで新鮮で、夫への愛も揺るぎないものだった。  それにしても、この"ゴシック・ミステリー"は、描写のほとんどに"チラッとした不安"を誘う仕掛けが埋め込まれていて、観る側も、主人公の「私」と全く同じ条件に置かれているだけに、その一つひとつに落ち着かない気分にさせられてしまいます。  閉じられた部屋。窓をよぎる影。揺れる白いカーテン。レベッカの頭文字のRが浮き彫りになったアドレス帳。黒い犬。 そして、レベッカの呪縛に取り憑かれたような夫の不可解な振る舞い--------。  二階のフロアの壁に飾られている、夫がお気に入りだと言う、美しい女性の全身像の絵も何やらいわくありげだ。 そして、これらの妖しい雰囲気を醸し出すモノクロの映像がまた絶妙で神秘的なんですね。  そういえば、今やすっかり荒れ果てたマンダレイ荘の外門を、カメラがゆっくりとすり抜けて中へと入っていく冒頭のシーンからして、既に怪しい雰囲気でしたね。  そして、仮装パーティーを開くことにした「私」が、ダンバース夫人に勧められ、二階の絵の女性とそっくりのドレスで装い、夫に激怒される場面の身の置きどころの無さ--------。絵の女性はレベッカだったのだ。  映画の後半、ヨットで転覆死したというレベッカの死の真相が、二転三転するくだりも、実にスリリングだ。  「レベッカ」は、幾つもの謎や不安については確かにミステリアスだが、終わってみるとイギリスで玉の輿に乗ったアメリカ娘が、夫を絶対の愛で信じ続けるという、かなり通俗的なメロドラマになっていて、「私」というヒロインよりも、好き勝手に生きた"レベッカの真実"の方が、ずっとインパクトがあるのですが、ヒッチコック監督の巧みな語り口が、通俗性を絶妙にカモフラージュしているのだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-10-06 14:34:24)
7.  救命士 《ネタバレ》 
NY・へルズキッチンで救命士として救急車を走らせる主人公の3日間。 しばらく前に、救うことができずに死なせてしまった少女に対する罪悪感を胸に、きわどいところで正気を保ちつつ、ドラッグや犯罪渦巻く街を走る主人公は、自身の救いを見つけることが出来るのか? --------。  出演はニコラス・ケイジ、パトリシア・アークエット、ジョン・グッドマン、ヴィング・レームス、トム・サイズモアら。  NYで実際に救命士を務めた経験のあるジョー・コネリーの原作を、ポール・シュレイダーが脚色し、・マーティン・スコセッシが監督している。 「タクシー・ドライバー」のコンビが久しぶりに組んで、ニューヨークを描くということで話題となった作品だ。  映画の始めに病院に担ぎ込まれ、植物状態で生かされ続けることになる男のエピソード、その男の娘と主人公を巡るエピソード、薬のせいで完全に正気を失い病院と街を繰り返し行き来している男のエピソード、途中で知り合うドラッグディーラーを巡るエピソード、同僚をめぐるエピソードなどが、緩く絡みあっていく。また、原作者が監修した救急現場の現実もひとつの見せ場になっている。  確かに、流石に一流の監督が撮った作品、という格の違いのようなものはある。映像的な面白さもある。 色調を押さえているようで、リッチな色を感じさせる撮影も素晴らしい。 細かいショットをリズミカルに繋いでいく編集も見事であるし、いかにもスコセッシと思わせる選曲による既成曲のパッチワークも、過剰気味ではあるが、耳に楽しい。  でも、作品としての強さは、作り手の名声から期待されるほどのものではない。 ひとつには、この映画が断片的なエピソードが繋ぎ合わさって、より大きなテーマを浮かび上がらせるというスタイルをとっていることにある。 描かれるエピソードの一つ一つに意味が付加されているものの、全体としてのドラマには力強さが欠けていると思う。  もう一つは、「今、この作品である意図」が見えてこないこと。 原作の、そして、映画の舞台は1990年代の初頭だというから、かれこれ30年が経過していることになる。  この30年というのが、意外や中途半端な距離感で、1980年代ほど「過去の歴史の一部」になってはいない生々しさはあるが、現代と言うには離れていて、「今」を捉えているというわけではない。 時代にとらわれず、普遍的なテーマを描いているにしろ、なんとも煮え切らない感じがするのだ。  最近では、完全にB級映画の出演者となり果てたニコラス・ケイジが「正気と狂気の境目にいて、かろうじて仕事をこなしている男」の眼にリアリティを与えている。 この映画がその「眼」で幕を明けることが象徴しているように、これは、彼の目が捉えた3日間、彼の目が捉えた世界の物語なのだ。  既成曲の合間をつなぐように流れるベテラン、エルマー・バーンスタインのスコアが、バラバラになりそうな作品全体に、一筋の統一感を与えていたのが印象的だった。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2023-08-28 08:47:32)
8.  小さな巨人 《ネタバレ》 
「小さな巨人」は、ダスティン・ホフマンが驚くべきメーキャップで演じた、101歳の老インディアン(?)のおしゃべりによって、この映画は始まります。  監督は、「俺たちに明日はない」で、"アメリカン・ニューシネマ"時代をリードする存在となったアーサー・ペン。  彼の思い出話によって展開されるこの西部劇は、カスター将軍、ワイルド・ビル・ヒコック、シッティング・ブル、クレイジー・ホースなどのお馴染みの人物たちが、賑やかに登場してくれます。  だが、カスター将軍の偏執狂的な描き方など、まさに西部劇というジャンルが、とてもシラケてしまった時代の産物という他ありません。  また、牧師の貞淑な妻が、欲求不満気味の浮気妻であったり、ビル・ヒコックも臆病な卑怯者であったりと、全く新しい視点で様々なエピソードを描いていくことで、"西部劇の神話"を次々と崩していくのです。  映画の夢、少年の夢の西部劇が、音を立てて崩壊していくような感傷的な気分になってしまいます。  奇妙な運命のいたずらによって、ダスティン・ホフマン演じる主人公は、白人社会と、インディアン社会を行ったり来たりしなくてはならなくなるのです。  白人でも、インディアンでもない、どちらでもない哀しみを生きる彼は、まるで場違いなところに放り込まれた"道化"といった感じです。  そのどちらでもない人間を通して、アメリカという国の矛盾が浮かび上がってくると思うのです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2023-08-28 08:41:49)
9.  評決 《ネタバレ》 
第55回アカデミー賞で、この映画「評決」は、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞にノミネートされていましたが、何一つ受賞出来ませんでした。  特に、過去5回も主演男優賞にノミネートされながら、一度も受賞した事のないポール・ニューマンが、今回はきっと受賞するだろうとの下馬評が高かったのに、その力演も空しく、「ガンジー」で一世一代の名演技を披露したベン・キングスレーに敗れ去りました。  ポール・ニューマンが主演するこの「評決」を、オスカーが無視した背景として、彼が人権擁護に積極的な民主党員であり、1968年には同党のコネティカット州の代表に選ばれ、当時のカーター大統領の時代には国連軍縮特別総会の米国代表候補にされたという、反戦運動家としての政治的キャリアが災いしたとも言われています。  「核問題は全ての事より大切なんだ。非合法移民、インフレ、失業、レイオフの問題よりもだ。だって核の問題で読み違いをおかしたら、他の問題など吹き飛んでしまう」と、ある雑誌のインタビューに答えて、自分の政治的な信条をはっきりと表明するような彼は、華やかで、当時の保守的なハリウッドのアカデミー賞の会員にソッポを向かれ、アメリカ国内の既成の権力に対して反抗的な内容の「評決」が、同じ性格のコスタ・ガブラス監督、ジャック・レモン主演の「ミッシング」と同じ冷遇を受けたのは、アカデミー賞の限界を示すものだと言えるのかも知れません。  この映画「評決」は、陪審制下の"法廷もの"であり、また"医療ミス"を題材にした、弁護士出身のジョン・リードの原作の映画化作品です。  かつてはエリート弁護士でしたが、陪審員を買収した上司を内部告発しようとして失脚した、負け犬でアル中で女にも弱い弁護士のギャルヴィン(ポール・ニューマン)を立ち直らせたものは何なのか?  落魄したうつろな自分をそこに見るような、生命維持装置に繋がれた悲惨な患者の姿なのか? 真実を追求しようとせず、金だけで解決しようとする安易な法曹界への反発なのか? 支配階級であるWASPへの憎悪なのか? それとも謎の女ローラ(シャーロット・ランプリング)への愛情なのか? --------。  この映画は、自らを失っていた弁護士ギャルヴィンの"人間としての自己回復、魂の再生のドラマ"を静かに、しかし、熱く描いていくのです。  酒と人いきれにすえたような暗いパブ、その片隅で弾けるピンボールの虚しい響き、悲惨な状態で長期療養病院に横たわる植物人間と化した患者の姿、厚味のある色調のボストンの街並み、寒々しい法律事務所の雑然とした室内、重々しく緊張感に満ちた法廷----、これらを静かに、厳しく映していくポーランド生まれのアンドレイ・バートユウィアクのカメラには深い情感があり、デービッド・マメットの脚本には濃密な味わいがあります。  監督のニューヨーク派の名匠シドニー・ルメットは、「十二人の怒れる男」「狼たちの午後」「ネットワーク」で三度もアカデミー賞の監督賞の候補になりましたが、受賞しないままです。  ギャルヴィンの相棒に扮するジャック・ウォーデン、ギャルヴィンの法廷での強敵となる、被告側の弁護士コンキャノン役の名優ジェームズ・メイスンの演技は、共に白熱した演技を示しています。  そして、コンキャノンのスパイとして、ギャルヴィンを誘惑するローラを演じるシャーロット・ランプリングは、「愛の嵐」以上に神秘的な妖しい魅力を発散させています。 挫けそうになるギャルヴィンを叱咤する彼女の姿には、スパイではなく本当の愛がのぞいているように感じます。  この映画のラストで彼女がベッドからかける電話、それを取り上げようとしないギャルヴィンの思いは、複雑で切ない余情を感じさせてくれます。  法廷のシーンで自己の人間としての復権を賭け、絶望的に不利な状況の中で、ギャルヴィンが陪審員に向かって静かに訴えかける言葉------。  「正義を与えるためではなく、正義を我がものにする機会を与えるために法廷があるのです」  「法とは、法律書でもなければ、法律専門家でもなく、法廷でもありません。そういうものは、正しくありたいという私たちの願望のただの象徴にすぎないのです」  「金持ちは常に勝ち、貧しい者は無力。正義はあるのか? 私たちは自分の信念を疑い、法律を疑う。しかし正義を信じようとするなら、自分を信じることです。正義は、私たちの心の中にあるのです。あなたが今感じていることこそ正義なのです。」
[DVD(字幕)] 8点(2023-08-28 08:36:07)(良:1票)
10.  チャイナタウン 《ネタバレ》 
この映画「チャイナタウン」は、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドへのオマージュを込めたハードボイルド探偵映画の傑作だと思います。  この映画「チャイナタウン」の舞台となっている1930年代のロサンゼルスは、アメリカ社会が東海岸から西海岸へと発展の波を広げて行った時期に、太平洋岸最大の近代都市を形成しつつありました。  だが、そうした急速な膨張の反面には、かなりの無理がまかり通って来るもので、当然の事ながら、そこには不当な利権や醜い政治的な裏取引が蔓延して来ます。  この映画は、そのような時代背景の中に、それぞれの数奇で不条理な宿命とでも言うべき運命を背負って、哀しみの中で生きる人間たちの苦悩、葛藤をスリリングに、尚且つドラマティックに描いています。  レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドという二人のハードボイルド・ミステリー作家へのオマージュを込めて、しかも、ロバート・タウンのオリジナル脚本によって、それまでのどの映画よりも1930年代のロサンゼルスのハードボイルド探偵映画らしく映画化されていて、複雑で錯綜する話の内容をハードボイルド的なサスペンスでたたきこんでゆくので、一時たりとも画面から目が離せません。  ストーリーや当時の風俗やしぐさが、それらしいだけではなく、この映画製作に携わった人々は、"ハードボイルド的世界の精神"をきちんとつかんでいるし、主役の過去を秘めた虚無的な私立探偵ギテスを演じるジャック・ニコルソンの"シニシズムと人間臭さ"がまた映画好き、探偵小説好きにはたまらない魅力があります。  この映画は、1930年代のロサンゼルスの陽光きらめく太陽の底に淀む、退廃的なムードと虚無感に満ちた、陰湿な世界が展開されていますが、脚本のロバート・タウンは、そのレイモンド・チャンドラー的ハードボイルドの世界を見事に再構築していると思います。  監督は「戦場のピアニスト」、「ローズマリーの赤ちゃん」の名匠ロマン・ポランスキーで、彼は1933年生まれのポーランド系ユダヤ人で、第二次世界大戦中にその子供時代を過ごし、母親をナチスの強制収容所で失うという、悲惨で哀しいトラウマを抱えた過去を持っています。  この映画のラストの30分の思いがけない意表を衝く結末については、これは有名な話ですが、監督のポランスキーと脚本のロバート・タウンで意見が分かれ、ポランスキーの主張する不幸な結末でなければ、この映画のテーマが台無しになってしまうという意見が通り、この結末になったそうですが、やはりラストはこの結末以外には考えられません。  警察も手が出せない政財界の大物であるクロス(ジョン・ヒューストン)が、「時と所を得れば人間は何でも出来るのだよ」という神をも恐れぬセリフは、ポランスキー監督の人間不信の言葉でもあるような気がします。  このクロスを「マルタの鷹」等のハードボイルド映画の監督でもあるジョン・ヒューストンが、実に憎々しげでアクの強い人間像を演じて見事です。  そして、クロスの娘であり、また女でもあるという"複雑で哀しい宿命を背負い、妖気と虚無的で退廃感の漂う"人妻イブリンを演じるのが、フェイ・ダナウェイで、彼女が十字架として背負う哀しい宿命は、彼女の左の緑の瞳の中の小さな黒点として象徴されています。  彼女の瞳の中にその黒点を認めた時、共に暗く哀しい過去を持つギテスとイブリンは、宿命の糸で結ばれます。 しかし、その愛はほんの束の間で、急速に回転し出した運命の歯車は、一気にカタストロフィへ突き進んで行きます。  車でロサンゼルスから逃れ去ろうとするイブリンを背後から撃った警官の銃弾が撃ち抜いたのは、彼女の左目である事を我々観る者は見落としてはいけないと思います。  映画の題名である"チャイナタウン"が、この映画の舞台になるのは、この最後の10分程の短いラスト・シークェンスにすぎませんが、なぜ、このチャイナタウンを映画の題名にしたのかという事を考えると、"チャイナタウン"は、アメリカの街の中の異境であり、迷路のようなこの街の中に、ポランスキー監督は、ポーランドでのゲットーと同じ安らぎを見出し、併せて、自分の妻のおぞましい惨劇を引き起こしたアメリカへの批判をしているとしか思えてなりません。  紙屑が舞い、野次馬が去って行く薄汚いチャイナタウンの夜のシーンは、哀しさと怒りを込めた、静かな中にも深く、優しさに溢れた名ラストシーンだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2023-08-24 17:08:11)
11.  デストラップ/死の罠 《ネタバレ》 
推理小説好きなら、観ておきたい価値のある映画「デストラップ 死の罠」。  原作はアイラ・レビンで、ニューヨークのブロードウェイで、延々ロングランした舞台劇の映画化作品だ。  この舞台劇は、ロンドンで大ヒットした、アガサ・クリスティの「ねずみとり」に刺激され、触発されて、製作された気配が多分にあるのだが、イギリス的な本格ミステリの構成とムードを持ちながら、裏側にいかにもアメリカ人好みの乾いた感覚が秘められているのだ。  この映画の演出は、ニューヨーク派の名匠シドニー・ルメット監督。 二幕仕立てという舞台構成を、そのまま映画に持ち込む事で、その構成自体をサスペンスに利用したところは、ミステリ好きを喜ばせる演出だと思う。  才能の枯れたスリラー舞台作家。 若者の持ち込んだ脚本が、あまりにも見事なので、それを自分のものにしようと計画を立てる。 そして、妻をも計画に誘い込み、自分の家で、この若者を殺そうとするのだ。  登場人物は、この三人と近所の奇妙な老婦人だけ。 そして、主な舞台は、この家だけ。 陪審員の控室のみで、あれ程の緊張感と迫力を創り上げた「十二人の怒れる男」の監督だけあって、この限られた場所、その大道具を逆に生かして、二重三重のドンデン返しを語って見せるのだ。  作家のマイケル・ケインも、妻のダイアン・キャノンも、ベストの演技を示している。 そして、青年はあの「スーパーマン」でブレイクしたクリストファー・リーヴだが、複雑な性格の役を陰影を込めて演じていて、実に素晴らしい。  こうしてみると、舞台で練られたミステリの面白さを、単に映像化しただけだと思われがちだが、ところが実はさにあらず。  プロローグに映画ならではのトリックが、はめ込まれているのだ。 実のところ、私はこの部分で完全に騙されてしまった。 憎い人だ、シドニー・ルメット監督。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-08-24 16:59:08)
12.  ミュージックボックス 《ネタバレ》 
"政治的実録映画「Z」「告白」「戒厳令」のコスタ・ガブラス監督によるベルリン国際映画祭で金熊賞に輝く、社会派法廷ドラマの秀作「ミュージック・ボックス」"  この映画「ミュージック・ボックス」のコスタ・ガヴラス監督は、もともと社会派の実録映画作家です。 ギリシャ生まれで、政治家ランプラスキー暗殺事件にヒントを得て、時のギリシャ軍事政権を痛烈に批判した「Z」(1968年)、スターリニズムの驚愕の実態をえぐった「告白」(1969年)、南米ウルグアイで実際に起こった事件を基にした「戒厳令」(1972年)など、政治的実録映画を次々と撮って来ました。  その後、アメリカでも映画を撮るようになり、1982年にはチリの軍事クーデターにアメリカ政府やCIAが関与していた事実を暴いた、ジャック・レモン主演の「ミッシング」で、カンヌ国際映画祭の最高賞のグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞しました。  そして、1988年には、アメリカ社会に根強く存在する人種差別のテロリストたちを軸に、FBIの女性捜査官とテロリストが対立する立場にいながら、恋に落ちるという「背信の日々」を撮りましたが、この映画「ミュージック・ボックス」は、ユダヤ人虐待の嫌疑をかけられた父の無実を晴らそうとする、女性弁護士の苦悩を描く社会派法廷ドラマで、ペルリン国際映画祭で、最高賞の金熊賞を受賞している作品です。  女性弁護士アン・タルボット(ジェシカ・ラング)は、第二次世界大戦後にハンガリーからアメリカへ移民し、平和な日々を送って来た父マイク・ラズタ(アーミン・ミューラー・スタール)が、突然、ハンガリー政府からユダヤ人虐待の容疑者として、彼の身柄の引き渡しを要求された事で、周囲の反対を押し切って、父の弁護をする事を決意しました。  そして、真相を調べていくうちに明かされる、過去の知られざる父の姿。 彼女は、父の無罪を証明するために、父の祖国ハンガリーへ飛ぶが----。 娘と弁護士という立場で揺れ動くアン・タルボットをジェシカ・ラングが熱演しています。  新たに浮かび上がった事実は、父が移民の際、自分の身分は警察官ではなく農民だと偽っていた事でした。 また、同じハンガリー移民のゾルダンという男に、なぜか送金していた事もわかって来ました。  そして、法廷では父がユダヤ人虐殺の先兵であった特殊部隊の"ミシュカ"と同一人物であるという証言が次々と行われ、状況は決定的に不利だと思われました。 しかし、父の無実を信じるアンは着実な反証によって、検察側の証人を切り崩す事に成功するのです。  検察側は遂に"ミシュカ"の知人だという男を証人として持ち出して来ますが、アンはハンガリーのブダベストまで行き、病床にあるその男を訪ね、そこで決定的とも言える反証の資料を手に入れるのです。  しかし、アンの胸中には、父が送金していたゾルダンという男の事故死についての疑念が晴れず、何かすっきりとした気持ちになれませんでした。 その時、アンはゾルダンの姉から唯一の手掛かりになると思われる質札を預かりました。  その後、アンがアメリカへ戻ると、新聞は父の有罪立証が不可能であるという事を一斉に報じていました。 しかし、アンはブダペストでユダヤ人虐殺の証拠である、顔に傷を持った男がゾルダンである事を見てしまっていたのです。  そして、質札から引き出されたミュージック・ボックス(オルゴール)が意外な真実を告げたのです。 その中には、ユダヤ人に銃を向けている若い頃の父の写真が入っていたのです----。  激しく問い詰めるアンに対して、父は私を信じてくれと言うばかりでしたが、もはやアンは父を愛する事が出来なくなっている自分の心に気づき、黙って父の有罪を告げる証拠写真を連邦警察へと送るのです----。  やはり、コスタ・ガプラスという、不当な権力による政治的犯罪に対する、燃えたぎる不屈の精神、抵抗、そして、人間の尊厳を踏みにじる諸々の行為に対する告発----、これらの彼の映画作家としての資質を抜きにしては、とうてい、この映画は製作されなかっただろうと思います。
[DVD(字幕)] 8点(2023-08-24 10:10:14)
13.  ウルフ 《ネタバレ》 
"巨大な企業が個人を飲み込んでしまうというプロットと、狼へと変身していく自己との葛藤を通して狼男の神話のファンタジーを描いた「ウルフ」"  怪奇映画の三大怪物のヒーローと言えば、"ドラキュラ"、"フランケンシュタイン"、"狼男"ですが、1990年代の前半は、フランシス・フォード・コッポラ監督、ゲイリー・オールドマン主演の「ドラキュラ」、ケネス・ブラナー監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「フランケンシュタイン」があらたな着想でリメイクされ、第3の怪物、"狼男"もマイク・ニコルズ監督、ジャック・ニコルソン主演で製作されました。  この映画は狼男への変身という題材を、ラブストーリーに仕立てた、"ロマンティック・ホラー"とでも言うべき作品で、ニューヨークの大手出版社に勤めるウィル(ジャック・ニコルソン)が、狼に噛まれた事から、会社で部下の野心家のスチュワート(ジェームズ・スペイダー)に足元をすくわれて、左遷人事で飛ばされそうになっていましたが、"野生に目覚め"たウィルは、仕事にも俄然、やる気を取り戻し、社長令嬢のローラ(ミシェル・ファイファー)と激しい恋に落ちたりします。  映画の前半部は、生き馬の目を抜くとも言われる熾烈で過酷なニューヨークのビシネス社会の中で、冴えない企業戦士が狼に噛まれ、野生の力に戸惑いながらも、スーパービジネスマンへと変貌していく過程は、コメディすれすれの状況で描かれていきますが、さすがにマイク・ニコルズ監督、丁寧な描写を積み重ねていく事で、シリアス・ドラマ風の展開へと持っていきます。  "巨大な企業が個人を飲み込んでしまう"というリアルなプロットと、"狼へと変身していく自己との葛藤"という、狼男という神話のファンタジー。  この"ウィルVSライバルとの外的な戦い"と"狼へ変身していく自己との葛藤"というものが、見事に二重構造となっていて、恐らく、マイク・ニコルズ監督もジャック・ニコルソンも、この映画を単なるホラーとしてではなく、その「ふたつの戦い」を描く事が狙いだったのではないかと思います。  ウィルは月夜の晩になると狼に変身し、セントラルパークを徘徊したりするのですが、朝になると記憶が全くないのです。 そんな折、ウィルの妻が獣のような生き物に惨殺されるという事件が発生します。  自分の仕業かもしれないという疑念にかられたウィルは、"理性と野性の間で苦悩"する事になります。 そして、理性で野性の行動を抑える事が出来なくなったウィルに警察は嫌疑の目を向けていきます。  そんなウィルの理解者は恋人のローラだけで、このローラとのロマンスは、まさに"美女と野獣"のようで、狼へ獣化していくウィルは、ローラを愛するがゆえに近付ける事が出来ません。  この映画は全編、ダークな色合いを基調とした映像がゴシック風の美しさを漂わせていて、オスカー受賞歴のある名手リック・ベイカーの特殊メイクが我々怪奇映画ファンを楽しませてくれます。  そして、この映画は名優ジャクニコルソンと、私の大好きな俳優ジェームズ・スペイダーの白熱した演技合戦がさすがに見応えがありましたし、現代の"お伽噺"としても、十分に楽しめる映画になっていたと思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2023-08-24 10:01:14)
14.  センチュリアン 《ネタバレ》 
この映画の監督は、「トラ! トラ! トラ!」「マンディンゴ」等のハリウッドの職人監督リチャード・フライシャー。 原作は、ロスアンゼルス警察の部長刑事ジョセフ・ウォンボー。 したがって、アメリカの警察活動を内部から的確に描き出している点でも、とても興味深い作品だ。  警察もの、刑事ものは、その活動の対象が、庶民的な犯罪、特に社会の底辺から生まれる、喧嘩、売春、麻薬、窃盗、不法入国といった、浜の真砂のような諸悪であり、それが貧困と人種問題とを温床としていることから、この映画のように社会性の強いドラマとなる。  この点、「ゴッドファーザー」は、犯罪閥と言えるマフィアの巨大悪の、優雅な豊かさを描いていて対照的と言える。 そして一方、これに立ち向かう警官自体も庶民であり、仕事一途であればあるほど、次第に家庭から遊離し、孤独化し、どうにもならない社会の壁の前に荒んでいく。  書かれた法律と生きた法との矛盾、そこに警官は、自らの法を打ち立てようとする。 この映画での老警官キルビンスキー(ジョージ・C・スコット)がそうであり、「ダーティ・ハリー」のハリー・キャラハン刑事がそうであった。 そして、西部劇に見る、保安官と同じ姿がそこに見られるのだ。  しかし、自らの正義感に生きたキルビンスキーも、退職後は、楽しみにしていた、フロリダの娘夫婦の家庭にも受け入れられず、虚脱の中に自殺する。  この映画が、西部の大都会を舞台にしていることは、非常に示唆的だ。 無法地帯で、法を執行しようとした、かつての西部の英雄の姿は、今日では、大都会のジャングルの中に消え去る、小さな悲劇としてしか描きようがないのだ。  貧民街での夫婦喧嘩をやめさせようとして、精神病の夫に、犬のように撃たれ、「こんな馬鹿な------」と呟やきながら死んでゆく警官ロイ(ステイシー・キーチ)。 その彼は、妻に去られて、黒人との新しい愛に希望を見出したばかりであった。  その彼を抱いて、階段の上から見下ろすヤジ馬に、「毛布ぐらい投げてくれよ!」と叫ぶ同僚のガス(スコット・ウィルソン)の姿から、アメリカ社会の底辺に挫折する警官の、もっていきようのない、空しい訴えが響いてくるようなラストだ。  尚、この映画の原題は、ローマ時代に治安を守った、百人衆からとったものだが、映画の中で、キルビンスキーがロイに、「ローマの最後の日までだよ」と、皮肉を込めて百人衆に言及するところに、本来の寓意があると思われますね。
[DVD(字幕)] 7点(2023-08-24 09:52:36)
15.  夕陽に向って走れ 《ネタバレ》 
この映画「夕陽に向って走れ」は、1909年に起きた実話を基にして描いた、アメリカン・ニューウエスタンの隠れた傑作で、かつて"赤狩り"の犠牲となった、エイブラハム・ポロンスキー監督が20年ぶりに撮ったカムバック作品でもある。  1909年ということは、西部開拓の英雄的な時代は既に過ぎ去り、生き残ったわずかなインディアンは、アメリカ政府の指定した居留地に押し込められ、しかも「シャイアン」のような勇敢な大脱走を試みる力も、もう持ってはいない時代、ということなのだ。  だから、インディアンと保安官の対決をクライマックスにしているアクションものではあるけれども、血沸き肉躍るといったような勇壮なものではない。  そこにかえって、"西部劇の挽歌"とでもいうか、あるいは、今日のアメリカの姿を現わす西部劇とでもいうような、独特の魅力が生じているような気がする。  インディアンの若者ウイリー(ロバート・ブレーク)が、親の許さぬ恋のもつれから、恋人の父親を殺してしまって、恋人のローラ(キャサリン・ロス)と駆け落ちする。  インディアンの考え方からすれば、これは一種の略奪結婚であるが、保安官のクーパー(ロバート・レッドフォード)は、彼を殺人犯として追わなければならない。  これに、クーパーの恋人でインディアン保護の任にあたっている、女性の人類学者エリザベス(スーザン・クラーク)や、久し振りにインディアン狩りをしているつもりの、地元のボスなどが絡んでくる。  ウイリーは、インディアンが先祖から伝えて来た、逃亡のための様々な知恵を働かせて、追手をまこうとするし、クーパーはまた、親譲りの知恵でこの先を読んでいく。  ローラは、ウイリーを逃がすために死に、クーパーは地元のボスたちの思惑などに悩まされながらもウイリーを追い詰め、そして、奇妙な形をした岩山での一対一の対決になる。  インディアンのウイリーに扮したロバート・ブレークは、「冷血」で、やはりアメリカの社会の秩序の枠の中では、楽しいことなど一つもないみたいな、貧しいチンピラのはみ出し者になりきっていたが、この映画でも、弱いインディアンの切ない意地をよく表現していたと思う。  これをウイリーに心情的にはシンパシーを覚えながらも、仕事として追跡しなければならないというジレンマを抱える、クーパー保安官に扮したロバート・レッドフォードの抑制された静かな演技が、より一層、この映画に深みと切なさを与えているように思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2022-04-30 14:40:32)
16.  チザム 《ネタバレ》 
この映画「チザム」は、西部劇の王者ジョン・ウェインが「勇気ある追跡」でアカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞後の初めての作品で、当時62歳のジョン・ウェインはすこぶる元気がいい。  西部史に名高いリンカーン郡戦争の中、ニューメキシコの広大な原野に牧畜王国を築き上げ、冒険と波乱の生涯を送ったチザム(ジョン・ウェイン)の実録の映画化作品だ。  チザムの親友のジェームズ・ペッパーにベン・ジョンソン、彼らと対立する黒幕の親分ローレンス・フィーにフォレスト・タッカー、連邦保安官パット・ギャレットにグレン・コーベット、無法者ビリー・ザ・キッドにジョフリー・デュエルという配役で、西部劇ファンとしては嬉しくなる顔ぶれだ。  この映画は銃撃戦やスタンピードという牛の大暴走などの見せ場も多く、西部開拓史上に名高い人物たち、特に、後に宿命の対決をすることになる無法者ビリー・ザ・キッドと名保安官パット・ギャレットの若き日の姿(といってもビリー・ザ・キッドは21歳でその生涯を閉じた)が、描かれているのも興味深い。  しかも、ビリー・ザ・キッドと言えば、左ききのガンマンとして有名だが、この映画では史上初めて右ききで登場してくる。 彼の写真が実は裏焼きだったので、ずっと左ききだとされてきたが、右ききが本当だったのだ。  かつて二挺拳銃のジョニー・マック・ブラウンをはじめ、ロバート・テイラー、オーディー・マーフィー、ポール・ニューマンと、歴代の左ききのビリーはみな魅力的だったが、それだけに、この映画の右ききのジョフリー・デュエルが扮しているビリーが少し見劣りするのは仕方がないだろうと思う。  この映画は実録とは謳っているが、実説とはかなり違っているものの、とにかく、牛の大暴走場面あり、ガン・プレイあり----と、西部劇ならではの見せ場を次々と盛り込むサービスぶりで、かなり爽快感が味わえるのは確かだ。  ベテランのアンドリュー・V・マクラグレン監督が悠々たるタッチで西部劇の楽しさ、面白さを詰め込んだ作品になっていると思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2022-04-21 15:41:54)
17.  おもいでの夏 《ネタバレ》 
ロバート・マリガン監督の「おもいでの夏」は、優しく、美しい、青春映画の佳作だ。  ニューイングランド沖合いの小島が舞台の映画で、原題は「'42年の夏」。  その年、その夏、15歳の少年ハーミー(ゲーリー・グライムス)が、ふと、めぐりあった年上の女性の思慕と、思いがけない初体験とわ、切なさ溢れる、追想の形で綴られていく。  太陽と海と砂丘。ひなびた避暑地で休暇を過ごす、"わんぱく三人組"の少年たちは、もてあます若さの活力を、異性とセックスへの好奇心に集中する。 性の医学書に興奮し、町の映画館に女の子をナンパするために出掛け、薬局へ勇気をふるって、避妊具を買いにいく。  そんな、息苦しくて、切羽詰まって、だがなんとも無器用で、滑稽な思春期のあせりを、この映画はホロ苦い、愛しさで回想する。  主人公のハーミーが恋したのは、岬の一軒家に住む、美しい人妻ドロシー(ジェニファー・オニール)だ。  新婚の若妻の幸福に輝く、愛の風景を、出征する夫を船着き場に見送る、悲しみの彼女を、フランス戦線の夫に、手紙を書き続ける、遠いまなざしのドロシーの姿を、ハーミーは、どれほど憧れを込めて、見つめたことだろう。  買い物帰りの荷物運びを手伝ったことから、ハーミーは、ドロシーと親しくなる。 大人ぶって、背伸びする少年のおかしさ、いじらしさ。  やがて、クライマックス。ドロシーの家を訪れたハーミーが、夫の戦死公報を受けた、彼女に迎えられて、無言でベッドに誘われる夜の場面は、静かな美しさが、悲痛な情感を盛り上げる。  夜明けの別れ。そして、ドロシーの置き手紙が、涙にかすむラストに、ミシェル・ルグランのピアノ・ソロによる甘い旋律が、胸打つ余情を奏でる。  原作・脚本のハーマン・ローチャーと、「アラバマ物語」「レッド・ムーン」の名匠ロバート・マリガン監督は、彼等自身の"1942年夏"を、愛惜を込めて、懐かしみながら、同時にそれは、荒廃した時代に身を置く戦中派の、苦悩の懺悔とも受け取れるのだ。
[DVD(字幕)] 8点(2021-06-07 00:28:59)
18.  ジュリア 《ネタバレ》 
フレッド・ジンネマン監督の「ジュリア」は、知的に美しく、見事な深度と品格を持つ、映画史に残る秀作です。  アメリカの代表的な女流劇作家リリアン・ヘルマンは、"女流"という特別扱いを拒否し、また、かつて悪名高い"赤狩り"の時代における、勇気ある行動でも知られる、いわば最高のインテリ女性だが、その彼女の自伝的回想の物語だ。  一人の優れた、魅力的な女性リリアン(ジェーン・フォンダ)の、生き方に、人格に、精神形成に、少女時代から関わった、女友達ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)と、結婚の形をとらずに、三十余年の生活を共にした、愛人の探偵作家ダシェル・ハメット(ジェーソン・ロバーズ)の二人。  良き友情と、良き愛情に恵まれたヒロインの、いま老いて孤高の、だが寂寥の姿に、人生の重みが切々と迫って、深い感動に、目頭が熱くなってきます。  ユダヤ系の名門の大富豪の孫娘に生まれて、優雅と気品と理知と、勇気と感性で、幼い頃から、リリアンを心酔させた、親友のジュリアは、やがて、イギリスを経て、留学地のウィーンから姿を消す。  追われる反ナチ運動の闘士となったジュリアの、その潜伏先ベルリンに、今や売り出し中の劇作家リリアンが、命懸けで、反ナチ運動の資金五万ドルを運ぶことに--------。  全編のハイライトである、このヨーロッパ大陸横断列車の旅は、フレッド・ジンネマン監督の、ヒリヒリするような、息詰まるサスペンス醸成の演出が、実に見事だ。  この後、やつれ果てた、無惨な義足のジュリアとの再会のシーンは、ヴァネッサ・レッドグレーヴの名演技が、ある種の凄味さえ帯びて、圧倒されます。  そうした"ジュリア"とは、つまりは、リリアンという女性にとっての"幻の鏡"だ。 彼女の理念と情念の象徴なのだ。 そのリリアンが、ハメットの豊かな愛に包まれて見せる、女らしさが、とても愛おしい。  脚本のアルビン・サージェントと老匠フレッド・ジンネマン監督が、ジュリアを"心に抱く"リリアンに、透徹の眼差しを注ぐ、静かに熱い、女性讃歌が、痛いほどに私の胸を打ちました。
[DVD(字幕)] 9点(2021-06-06 08:45:41)
19.  アバウト・ア・ボーイ 《ネタバレ》 
人と人が接する時に感じる、内心の不安や自分の弱い部分を見透かされないだろうかという不安を、等身大の人間の姿で描いた、ライト・コメディの傑作「アバウト・ア・ボーイ」  この映画「アバウト・ア・ボーイ」の主人公の38歳の独身男ウィル(ヒュー・グラント)は、亡くなった父親が一発ヒットさせたクリスマス・ソングの印税で、優雅に暮らすリッチな身分。  一度も働いた事がなく、TVのクイズ番組とネット・サーフインで暇をつぶし、適当に付き合える相手と恋愛を楽しむ、悠々自適の日々を送っています。  ところが、情緒不安定な母親と暮らすマーカス少年(ニコラス・ホルト)との出会いが、彼の生活をかき乱していく----という、非常に興味深い設定でのドラマが展開していきます。  まさに、現代ならではのテーマをうまく消化して、ユーモラスで、なおかつ、ハートウォーミングにまとめ上げた脚本が、本当にうまいなと唸らされます。  30代後半の独身男の本音と12歳の少年の本音を、それぞれ一人称で描きながら、それを巧みに交錯させていくという構成になっています。  それが、二人の男性、ウィルとマーカスがいかにして心を通わせていくのかが、このドラマに説得力を持たせる上で重要になってくるのです。 そして、これが実にうまくいっているから感心してしまいます。  表面を取り繕う事に長けたウィルは、今時の小学生が歓迎すると思われる、クールなスタイルを本能的に知っています。  マーカスはそんなウィルを慕っていきますが、それだけではなく、ウィルの人間的に未熟な部分が、結果として二人の年齢差を埋める事に繋がり、マーカスはウィルを自分の友達の延長戦上の存在として見る事が出来るようになるのです。  マーカスは彼の持つ性格的な強引さの甲斐もあって、ウィルという良き兄貴を得る事が出来、一方のウィルは、自分だけの時間にズケズケと土足で踏み込んで来たマーカスを、最初こそ煙たがっていましたが、彼と深く接していく中で、次第に"自分の人生に欠けていたもの"に気付かされていくのです。  この映画は、そんな二人の交流の進展に歩を合わせるように、"人間同士の絆や家族"といったテーマを浮き彫りにしていくのです。  日本でも最近は、"シングルライフ"というものが、新しいライフスタイルでもあるかのように市民権を得つつありますが、確かに、お金さえ払えば、ありとあらゆる娯楽やサービスが手に入る時代になって来ました。 個人が個人だけで、あたかも生きていけるというような錯覚に陥ってしまいがちな現代------。  もっとも、この映画は、そんな現代人に偉そうにお説教を垂れているのではなく、むしろ、大半の人間はそんな現代というものに、"不安と寂しさ"を感じ始めているのではないかと問いかけているのです。  だからこそ、この映画は多くの人々が共感を覚え、ヒットしたのだと思います。  そこにきて、ウィルを飄々と自然体で演じたヒュー・グラントという俳優の存在です。 ウィルは、ある意味、"究極の軽薄な人間"として描かれていて、本来ならば、決して共感したくないようなキャラクターのはずなのですが、ヒュー・グラントが演じると、何の嫌悪感もなく観る事が出来るので、本当に不思議な気がします。  ヒュー・グラントは、このような毒気のあるライト・コメディを演じさせれば、本当に天下一品で、彼の右に出る者などいません。 余りにも自然で、演技をしているというのを忘れさせてしまう程の素晴らしさです。  そして、困った時に見せる微妙にゆがんだ何ともいえない表情といったら、他に比べる俳優がいないくらいに、まさしくヒュー・グラントの独壇場で、もう最高としか言いようがありません。  かつての"洗練された都会的なコメディ"の帝王と言われた、ケーリー・グラントの再来だと、ヒュー・グラントが騒がれた理由が良くわかります。  この映画は、そんなヒュー・グラントの持ち味を最大限に活かして、誰もが表だっては認めたくないような人間らしさに踏み込んでみせるのです。  そして、人と人が接する時に感じる、内心の不安や自分の弱い部分を見透かされないだろうかという不安を、等身大の人間の姿を通して映し出す事に成功しているのだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2021-06-04 10:52:55)
20.  追想(1956) 《ネタバレ》 
この映画「追想」はハリウッド映画界から追われていたイングリッド・バーグマンが、7年ぶりに復活を果たした作品で、彼女の演技の素晴らしさを堪能出来る、そんな作品です。  主人公のアナスタシアにイングリッド・バーグマン、山師のボーニンにユル・ブリンナーという凄い顔合わせで、ロシア帝国のロマノフ王朝のたった一人の生き残りのアナスタシア王女を巡って展開する、サスペンス・タッチの歴史ドラマだ。  ロシア革命から、辛くも逃げ延びたと伝えられる、ロマノフ王朝の王女アナスタシアに絡む、"恋と陰謀"を、「将軍たちの夜」の名匠アナトール・リトヴァク監督が情感たっぷりに描いた、見応えのあるドラマになっていると思う。  この映画の最大の魅力は、何と言っても、彼女は本当にアナスタシアなのか? ----というサスペンス・ミステリータッチの要素が強いところだろうと思う。 イングリッド・バーグマン演じる記憶喪失の女性の"ミステリアスな雰囲気"が、実に素晴らしい。  彼女は本物なのか、それとも偽物なのか、という謎を最後の最後まで持続させ、我々観る者をハラハラ、ドキドキさせるのが凄い。 これは、やはりバーグマンの演技が、この映画全体の善し悪しを決めているといっても、決して過言ではない。  そして、この映画はサスペンス・タッチの中にも、アナスタシアとボーニンの微妙なロマンスの隠し味も隠されていて、ロマンス映画的な興味でも、我々観る者をうっとりとさせてくれます。  また、見どころの一つでもある、アナスタシアが皇太后に会うシーンですが、最初は偽物だと決めつけている皇太后が、次第に心を開いていく姿に、ほろっとさせられます。 この皇太后を演じているヘレン・ヘイズの小柄ながらも、凄い迫力と貫禄で、他を圧倒する凄さには唸らされました。  一方、バーグマンの相手役のユル・ブリンナーは、武骨で冷淡だが、自己表現が苦手で不器用なタイプの役柄を、抑制された演技で、うまく演じていたと思う。  なお、この映画の演技で、イングリッド・バーグマンが、1956年度の第29回アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞しています。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2021-06-04 08:10:16)(良:1票)
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