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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  おとなのけんか 《ネタバレ》 
メチャメチャ笑えた。4人の関係が徐々に険悪化していき、エゴ剥きだしで体裁も何もなく、ハチャメチャになっていくのに、笑いは止まらない。但し、ポランスキーにしては珍しく、ただそれだけのコメディ作品とも思える。。。いや、この監督だからこその、ある意味で現代人の本質を醜悪に捉えた秀逸なブラック・コメディか。  題材的には、三谷幸喜あたりの舞台劇にもなりそうだが、日本ならば、喧嘩両成敗で、最後は全て水に流して、丸く収まるというのが落としどころで、あんな収拾がつかない終わり方にはしないだろう。さらに現実には、日本のこども同士の関係性って、おとなの世界の縮図だから、こどもの方がおとなを差し置いて先に仲直りしているということもないだろう。  おとながこどもみたいに自分や自分の周りだけを優先して自己保身と責任追及(転嫁)に執心する世の中で、こどもはそんなおとなに倣うわけだから、いつまでたっても日本に「いじめ」なんかなくならないよ。  ※日本でも『大人は、かく戦えり』のタイトルで2011年に舞台上演されているようです。大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実出演。。。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:41:52)(良:1票)
2.  シャーロック・ホームズ(2009) 《ネタバレ》 
小さい頃、シャーロック・ホームズと言えば、両つば帽子にフロックコート、又はシルクハットにタキシードを身に着け、スマートでパリッとした外見に、常にパイプを咥えている壮年の紳士というようなイメージを持っていた。おそらく、それは小学校の頃によく読んだ『シャーロック・ホームズの冒険』の抄訳版の挿絵や英国のドラマからの影響だと思う。 その後、ホームズの長編モノ『緋色の研究』や『四つの署名』、『バスカヴィル家の犬』を読んでみると、そのイメージが全然違うということに気が付く。まず、先に挙げた小説のホームズは若い。未だ世間に名の知れない自称探偵の若造でしかない。紳士というよりも外見的には少しだらしない研究者然とした感じで、それでいてボクシングの元ランカーなので体格がよく、背が高い。性格的には極端に意地っ張りで、子供っぽく、かなり偏狂的。重度のジャンキーでもある。 実は小説に描写されているホームズとワトソンのイメージでみれば、映画『シャーロック・ホームズ』の主役2人はわりと原作に近いのではないかと思える。難を言えば、ロバート・ダウニー・Jr、ちょっと背が低いことか。。 ホームズの長編モノって実は推理小説というよりも冒険小説、アクション小説と言っていいものだと僕は思う。小説の最大の見せ場は、探偵による推理の披露よりも、手に汗握る犯人追跡劇だったりして、だから、この映画のあり方は何ら間違っていない。  映画で描かれる19世紀末のロンドンの雰囲気がよかった。古き良き時代末期のロンドン。これから20年も経つと車の登場でロンドンはガラッと変わる。その古き良きロンドンを舞台にしたアクションヒーローたるシャーロック・ホームズのスタイリッシュな冒険譚。そういう映画として僕はとても楽しめた。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:14:27)(良:2票)
3.  善き人のためのソナタ 《ネタバレ》 
彼は何故、監視対象者を幇助するような行動を取ったのか?その答えを同時進行的に辿る、そういう映画なのだと思った。  彼女に恋をしたからだろうか? 最初のきっかけはおそらくそうなのだろう。そして、原題にあるように、彼が自分と違う「他者の人生」に深く感銘してしまったこと。それが実際の理由なのだろう。  監視していた劇作家が恋人の裏切りを知りながら、彼女を許したこと。それは何故なのか。人を許すとはどのようなことなのか?彼はその答えを知りたいと切望した。劇作家が弾く音楽を聴き、その読む本を読み、その佇まいを想像し、彼はその本質に触れたのだと思う。彼は「他者」を発見したのである。そして、彼は二人の他者の人生に実際に触れる。  最後に彼は劇作家の本の謝辞に自分を発見し、それを「私のための本」と言う。それが彼にとって「他者の人生」を「そうありたい自分の人生」と重ねられた瞬間だった。彼の微かに誇らしげな笑顔がとても印象に残った。   ※各自の点数評価のことなので僕にはどうでもいいことですが、邦題でこの映画の内容を判断するのはちょっと可哀そうな気がします。。。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:13:45)(良:2票)
4.  愛を読むひと 《ネタバレ》 
ケイト・ウィンスレットの演技に脱帽。原作のハンナのイメージそのままに、物語る身体を忠実に再現してみせる。出来れば、原語であるドイツ語の台詞だったらどんなにか良かっただろう。(あと、タイトルは何故『朗読者』でなかったのだろう?) この物語は、そして彼女の演技は、語られないハンナの生き様を否応なく想像させる。少年と同じように、僕らは強く惹きつけられる。 ハンナの立ち姿とその因果を見るにつけ、悪とは?善とは何だろう?ということを深く思う。『1Q84』ではないけれど、この世の中に絶対的な悪がないように、絶対的な善もない。善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。 ハンナは親衛隊であり、ユダヤ人収容所の看守だったことが大罪であった。戦後20年が過ぎ、彼女はナチ狩りの裁判によって断罪される。戦後20年の視点により、同じドイツ国民の名において、戦時の彼女が断罪されるのである。しかし、彼女が罪を認めたのは、「文盲」であり、そのことを自らに恥じていたからだった。彼女には物事の「ほんとう」を知るすべがなかった。そういう意味でこそ、彼女は真の悪人だったのだろう。  善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。 – 『歎異抄』第3章  悪人  衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。  阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。   善人  「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。  また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。  出典: Wikipedia  僕らも本来的に救われようがない悪人なのだろう。それは共同性を超えて、私というものの避けがたい在り方を直視させる。しかし、下記のような言葉もある。実は、ここにこそ僕らにとっての生きる「救い」があるのではないだろうか。  「君は悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだから」(ロバート・P・ウォーレン 『ストーカー』題辞)
[映画館(字幕)] 9点(2009-08-09 21:26:37)
5.  TOKYO! 《ネタバレ》 
池袋の新文芸坐で『トウキョウソナタ』(こっちが本命!)との2本立てで鑑賞。東京シリーズか。。 『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー、『ポンヌフの恋人』のレオス・カラックス、『グエムル/漢江の怪物』のポン・ジュノ。3人の作家が描くオムニバス形式のTOKYOの物語である。 人々の想像の裏側から描く東京というファンタジー。椅子女。下水道の怪人。ボタン少女。ある種の「東京奇譚集」だろうか。 予備知識がなかった分、それぞれに意外な展開が面白かった。唐突に椅子に変身し、そのことに充足し依存していく女の仄かな孤独。都市への安住を否定する存在、下水道の怪人メルド(糞)という潜在的恐怖とその捩れた存在の奇怪さへの戸惑いと怒り。そして、恋と地震によって揺りだされる引きこもり達の生への欲求と畏れ。 新しい東京物語は、現代的な心情が紡ぐ都市伝説とでも言うべきものだろうか。そこには悲壮感がそこはかとなく漂うのみで、全体的にアカルイ映像が印象的だった。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:38:21)
6.  パフューム/ある人殺しの物語 《ネタバレ》 
この物語、副題には『ある人殺しの物語』とあるが、実はそこに「物語」がない。主人公は匂いをもたない人間であり、それは同時に自己が希薄で「こころ」がないことを示す。故に、彼には自分のための物語、自己と他者を繋ぐ物語が一切ない。映画は、主人公が次々と殺人を犯していくのと同時に、13人目の被害者となる女性の日常をも映し、その接点ともいうべき二人の邂逅の過程をドラマチックに描いていくが、その邂逅自体のドラマ性をあっさりと否定してみせる。  では、彼は何を目指していたのだろうか?彼は世界を動かしてみせる。その現実性うんぬんは別にして、非物語的で即物的な「パフューム」によって人心を把握する(「愛情」ともいうべき)幻想を顕現してみせるのである。 彼は「パフューム」によって世界を動かすが、最終的にそれを受け入れることができない自分を発見するに至る。それこそがこの映画の救いなのであろうか。しかし、主人公が群集を前にして流す「涙」に僕は全くと言っていいほどリアリティを感じなかった。僕らの世は無知にあえぐ18世紀のパリではない。情報過多の21世紀の日本である。同じような非物語で貫かれた世界でありながら、そのバックグラウンドとなるべき現実感には決定的な違いがあるような気がした。 主人公が流す涙のリアリティをそれを誰もが理解しないという現代性に通じる現実によって否定してみせる。もし、そうであれば、僕はこの映画のすごさを感じるが、その辺りの意図はよく分からない。いずれにしろ、そういった構造分析的な意匠では僕らの「こころ」を響かすことができないことだけは確かである。  最近、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んで、同じように「どんより」とした気持ちになったが、彼が提唱する「物語の死」とか「物語の衰退」と呼ばれるポストモダン的な状況やデータベース化した環境下での新しいコミュニケーション社会とそれを前提とせざるを得ない新しい批評体系というのはとても理解できるが、そこには全くと言っていいほど、「こころ」に響くものがない。 この「どんより」感はもう自明であり、仕方のないものなのかもしれないが、僕らはいつかその「どんより」感の中でもゲーム的リアリズムによって「こころ」をふるわせる日がくるのであろうか。そういうことを想起すると、また「どんより」としてくる。。。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-04-20 22:55:10)
7.  シカゴ(2002)
この映画は、現実とミュージカルシーンとの2重性により展開していくが、最終的に、その2つの展開を別々に捉えては理解できない部分が見えてくる。ミュージカルシーンでの心情の吐露や妄想が全くの装飾であり、嘘ではないか?と感じさせるシーンもあり、ミュージカルシーンのリアリティそのものが宙吊りされるような感覚に襲われるのである。しかし、この映画が図らずも表現し得たのは、実は現実とミュージカルシーンとの2重性、この2つ展開の擦れから地下水のように滲み出てきたある種の違和感、その断絶線から沸き出でる本質的な感情なのである。 最後の裁判シーンで、リチャード・ギア演じる弁護士がロキシーの日記についての弁明を行う。その際、彼はずっとタップを踊り続けている。彼はステップを刻み続けるが、それは、何というか、彼にとっての脅迫観念のようなものだったと僕は思う。『とにかく踊り続けるんだ。。。』 そういう声が彼の最も深いところから聞こえているということが、場面の擦れから、その断絶線から僕らに伝えられる。この映画がミュージカルというエンターテイメント性からハッキリと零れ落ちた場面である。(その後、ギアに言い訳を言わせるが。。)  結局のところ、この映画は、ミュージカルシーンによって心情と現実という区分を明確化するのだが、実際はそれによって明確化され得ないもの、2つ場面展開の擦れや捩れを克明に捉えることである種の表現を達成し得たのではないだろうか。その方法論こそ、これからの映画が目指すべきひとつの方向性ではないかとさえ僕は思う。  最後に、、キャサリン・ゼタ=ジョーンズの迫力ある歌声と踊りは素晴らしかったが、やっぱりレニー・ゼルウィガーの存在感もすごいナ。そういう愛すべき映画でもある。まぁ当然のことながら。。 
[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-02 13:30:11)
8.  ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。
8点(2004-09-04 00:32:33)
9.  ラン・ローラ・ラン
『ラン・ローラ・ラン』は、ハイゼンベルグの不確定性原理によって見出され、シュレディンガー方程式により導き出された世界の確率論的存在、多世界解釈論に基づいている。さすがドイツ映画である。この映画は、スタートからローラという電子を発射させ、観測によって3つの違った結末(位置)を用意する。これはまさしく量子論の基礎となる「2重スリット実験」そのものではないか。。。 この実験により、電子は粒子であると同時に確率論的に存在する波であり、観測前の電子は確率としてしか存在し得ないということが明らかとなったのである。観測前のローラの世界には幾多の行き方が確率論的に存在するが、それは観測と同時に収縮する。結局、ローラは最後にどうなるのか? 生きているのか、死んでいるのか。この映画は、3つの収縮の可能性を提示したのみで、どれを選択しているとははっきり言っていない。シュレディンガーの猫は、生きているのか?死んでいるのか? 生きている状態も死んでいる状態も量子論的には同時に在りえて、そしてその状態は確率としてしか存在し得ない。あぁ、つまり、彼女(世界)は生きていながら、同時に死んでいるという、「確率」という存在でしかないのだ。。。あぁぁぁ、それを否定するには、彼女が生きている世界と死んでいる世界が同時に存在しなければならず、それは観測者である僕らが既にパラレル(多世界)に存在しているということになるのだぁ!! と、別に感嘆するまでもなく、この映画はパラレルワールドをさらりと描いているので、あまり考えすぎずにパンクに楽しむのが正しい鑑賞方法だろう。
[ビデオ(字幕)] 7点(2004-08-29 16:51:56)(笑:1票)
10.  スクール・オブ・ロック
遂に登場!「ハイ・フィデリティ」で変態的ロックおたく&ソウルシンガーを見事に演じたジャック・ブラックが、本職のロッケンローラーに戻って、その本物のロック魂を思う存分発揮した正真正銘のロック映画「スクール・オブ・ロック」! この映画は日本ではGW公開なので、まだ多くの人は観てないと思うけど、いやー面白かったなぁ。ジャック先生、最高です。落ちぶれたロックミュージシャンが代理教師を偽って小学校に潜り込み、なんと小学生とロックバンドを組んで地元のロックコンテストを目指す、という破天荒なストーリーなんだけど、まぁそんなストーリーはとりあえず置いておいて、とにかくジャック先生の一見狂犬のような容貌と躍動感溢れるボディアクションから繰り出されるパワフルなロックスピリットには圧倒されましたねー。笑えたし。やっぱりジャック・ブラックは「愛しのローズマリー」のさえないヤッピーなんかよりもロックが関わるこっちの映画の方がそのキャラクターを100%発揮できるんだろうな。まぁ、この映画はジャック・ブラックのオンステージですよ。そのアクの強いキャラクターにウンザリする人もいるだろうけど、僕は完全にハマリましたね。改めてロックって様式というかスタイルが重要なんだなぁって感じましたよ。ジャック先生も案外と趣味が幅広くって、AC/DCからザ・フー<ジャック先生のロック講義の中ではハードロックにジャンル分けされてましたねー>、ピンク・フロイドにブロンディ、ときたもんだ。ジェーン校長のスティービー・ニックス好きにも笑えたしね。ギターを使った授業は、なんか月亭可朝みたいだったよw。最後にステージでの演奏が盛り上がって、念願叶って観客へのダイブを受け止めてもらえたジャック先生。なんだ、これがやりたかっただけなの?? なんて、思っちゃったりしたけど、まぁご愛嬌。これもロックのスタイルなのだ。いやーとにかく面白い映画でしたぁ。
[映画館(字幕)] 9点(2004-03-27 23:26:21)(良:1票)
11.  戦場のピアニスト
不条理下における芸術性のあり方については、これまで否定的な考え方を幾つも目にしてきた。戦争による芸術の無力化。芸術的抵抗の挫折。しかし、そもそも芸術とは抵抗する力をもつものなのだろうか。戦争が個人のもつあらゆる社会性を崩壊させた時、己を生かしめているものは狂気より他ない。闘争は正義をも崩壊させるのだ。この映画は、主人公のピアニストが戦争によって社会的自我や人道的正義を喪失していく様を克明に描いていく。では彼の芸術的内面はどうだったのだろうか。絶望的飢餓状態の中で狂気を彷徨う主人公にピアノの旋律は聴こえていたのだろうか。その答えが瓦礫の廃屋でピアノを弾く主人公の姿なのである。実はポランスキーがこの映画に込めたメッセージとは、この一点に集約されているのではないか。間違ってはならないのは、芸術的内面というのが決してヒューマンなものではないということだ。それは人が全てを失った地平においても、生きていく狂気とともにあり続けるものであり、誰からも(己からも)アンタッチャブルなものとして個人を吸い込んでいく領域なのである。そもそも芸術的内面とは、哀しみによって熟成していくものではなく、哀しみそのもの(をのみ込んだもの)なのだ。瓦礫の廃屋で主人公を助けるドイツ軍将校は、自らの持つ民族的国家的正義に支えられながらも芸術への理解を示す人物像として描かれている。彼にとって芸術への理解とは、一人の優秀なピアニストを守るということによって自らの正義へと直結している。その彼が捕虜となり、逆に主人公に助けを求める姿は、その個人的な正義すら、狂気により脆くも崩壊してしまうという現実を見事に描いていると言えよう。戦争と芸術、この映画は、二つの喪失の狂気を対比させながら、正義なき、神なき時代の絶対的根源的な魂のあり方を描いている。それは芸術的内面の崇高性を描いていると言えるかもしれないが、ある意味でそれは絶望に変わりない。そして、芸術的内面という喪失感すら喪失している僕らにとってそれは悲劇の極致なのである。
9点(2004-03-27 23:24:14)
12.  15ミニッツ
TVで流れていたので何気なく観ていて、もしや?まさか?と思っていたけど、最後のクレジットで確認したら、本当にそうだった。オレッグ・タクタロフ! いやー、こんなところにいたとはー;最近見ないと思ったら、いつの間に役者になったんだ? それだけが気になる。
6点(2004-01-30 23:27:06)
13.  ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
キューバ音楽に興味がない人<普通の人はあまりないよね>でもお薦めです。音楽って素晴らしいなぁって単純に思える。忘れられたキューバ音楽の巨人達<おじいちゃん達>が演奏する姿は本当に感動的です。なぜだろうか?本来、音楽って世代を超えた根源的なものなのに今ではなかなかそう言えない部分がありますよね。おじいちゃん達の演奏は音楽が魂を揺さぶるものだってことを、キューバ音楽に限らずいいものは流行り廃りに関係なくやっぱりいいんだっていう当たり前のことを改めて感じさせるのでしょうね。あらゆるしがらみを超越した老フラミンゴ達がそれぞれ自慢の楽器を持って集う楽しい音楽パーティって感じでとても心が和みました。音楽ドキュメンタリー風映画としては、スコセッシ/ザ・バンドの「ラストワルツ」もお薦めなんだけどね~。
10点(2002-03-24 16:04:52)
14.  未来は今
ジェニファージェイソンリーを決定的に好きになった作品です。彼女が持っている違和感と作品が妙にマッチしていました。あの登場シーンは良かったですね。あと、まぁとにかく笑えました。コーエン兄弟の作品の中では一番。。。笑えた。
10点(2002-03-01 02:36:13)
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