21. 洗濯機は俺にまかせろ
《ネタバレ》 80年代を背景とした作品だという。そのころ確か、世の中はバブリーな景気にあふれていた、ように記憶している。「新しければ新しいほど良し」「高価なものほど良し」という価値観が、乱立する各種新店舗や、ビルや、都内にあふれる外車にもあらわれていた。と思う。 この映画には、ツルピカした新しいものや、ゴージャスなものが、全く出てこないし、人間もそうだ。そういう確かな美意識に裏打ちされ、新しいものを慎重に排除して、作られている。 で、出てくる人は誰も彼もなんとなく貧乏な雰囲気で、「バブルはどうなっていたのか?」とも思うのだが、そういうリアリティを求めた映画ではないんだろうたぶん。 富田靖子も「きれいな人だから」では全然なかったし、ラブシーンとて不発。各登場人物も、裏ビデオで拘留とか借金まみれとか不景気な話が続く。 では「ツルピカしたものやゴージャスなものが無い状態を楽しむ」以外に何かいいところがあるのかというと…なんていうか筒井道隆の木崎を見ていると、「過去に自分の知っていたいろんな男性(恋愛感情の有無問わず)」のことを、筒井が何かするたんびに思い出してしまった。「そうそう、こういうこと言う(男って)」「そうそう、こういう態度とるよね(男って)」。 木崎っていうのは、「次にこうする(言う)だろう」という予想をことごとく裏切らないやつなんです。木崎ってのは、いわば「男の最大公約数」なヤツ。「ザ・普通の男」。 ほのぼのしてていいんだけれど、私はこれはわざわざ映画にしなくても、という気もする。TVドラマで充分な内容ではないだろうか。なぜ映画化したんだろう…?というくらいドキドキも発見もない映画。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2007-11-10 20:17:36) |
22. きょうのできごと a day on the planet
《ネタバレ》 最初のほうを見ていたらあまりにつまらなくて〝努力忍耐〟とひたすら念じながら先へ進む。すると、途中から面白くなってきた。3人が帰って、西山が暴れだすあたりから…。「おっこれは」と思っていると、正道は何気に当て逃げされるし、スキマ男はどんどん悲惨になるし、かわち君は性格面白いし、話の展開がやっとわかってきて、〝この映画〟の面白さ、もやっとわかった気がした。 確かに、この話の人間関係が全く把握できていない状態で、時間をシャッフルしたうえ、けいとがクダをまいている(卵の話は本当につまらない)ところとか、真紀が酔って他人の髪の毛を切っているところを見ても全然面白くないのに、そこらへんを長く見せすぎる…。2回目に見ればわかるけど、やっぱり女2人が酔っ払っているところは何度見てもあんまり面白くない。監督は、女どうしのシーンで笑いを取るのが下手だと思う。(男ばかりでモメているシーンは大変よいのに。) 小説の原作ものということだが、私はそれを知らずに見ていてまず「これはまさに少女漫画の間の取り方だ」と感じた。吉田秋生あたりが一番近いと思う。もしもこの映画を吉田に漫画化してもらったら、すごく自然な感じになると思う。正道のキャラなど、見た目も言動も本当に吉田秋生の漫画から抜け出してきたようだ。 で、この話は出てくる人間がほとんど「モラトリアムな奴」なのだ。自分で稼いでいる人間はチョイ役でしかない。働いているやつは、スキマ男だけだ。北村のサーファーだって、どうもマトモな勤め人らしくない。 そういう男も女もモラトリアムなやつらが、ある日集まって勝手気ままに騒ぐ。過ごす。それをダラダラとコミカルにさんざん見せたうえ、クジラが帰った海辺で終わる。クジラとは、何の意味だろう。 クジラと同じように身動きが取れなくなって、己の命を他人まかせにしなくてはならなかったのは誰か。違法な賭博喫茶で働くスキマ男だ。クジラはスキマ男だ。スキマ男は、中沢たちと違ってモラトリアムに生きていない。 世の中に出て、自分で食い扶持を稼いでいくということは、座礁した瀕死のクジラのようなもの…そんな大変なこと、できるだろうか。できればこのままいつまでも、京都の古民家という通好みのおしゃれスポットで、ダラダラとモラトリアムに仲間とじゃれていたい…。そういう気分を描写したのが本作だと思うなあ。やっぱり昔の吉田秋生の気分。 [CS・衛星(邦画)] 8点(2007-10-23 19:55:47) |
23. Jam Films
《ネタバレ》 15分程度で観客の心に何かを残すにはどうする。競作なので、各作り手はいろいろ趣向をこらしています。 「けん玉」、両手包丁で肉を叩いてミンチを作る。一心不乱な篠原涼子の表情もなんとなくこわい。見ているほうの頭には〝危〟の字が浮かぶ。これと、山崎まさよしという役者でないボケキャラを絡ませたことで、大した話じゃないのになんともいえぬ味わいが出た。インテリアも個性的でかわいい。ちゃんとオチをつけていながら、プロットで凝りすぎず自然に仕上げたところが勝利。 「JUSTICE」、これって、行定監督が、西洋的な論理的思考様式(文字や言葉を信頼する文化というもの)に対してケツをまくって見せたもしくはおもいっきり舌を出したと思っていいのだろうか。たぶん、それでいいんだろう。なんたって、キンパツで蝶ネクタイのセンセが、「ポツダム宣言」を「読んでやっている」んだぜ。ポツダム宣言だよポツダム宣言!負けの込んだ日本人の知らないところでパイの取り合いをし、「今後はこうするべき」「ああするべき」そして「もしこれをしなかった場合は」「もしも最悪の事態になった場合は」ほとんど、自分の知らないうちに勝手に結ばれた結婚契約書?…ポツダム宣言に対して〝ブルマー〟で返すというのは、なんていうか、やっぱり「文字や言葉を信頼する文化」に対するアンチ、揶揄、「キミたちとはステージが違うのよ」って感じだな。ボクシングに対して寝技で立ち向かう、というような。…たぶん外人(とくに西洋人)に見せたら、作り手の意図はすぐバレるフィルムなんだろうが、ブルマーばかりが注目されて、そこんところが無視されてしまっているのでは、とちょっと気がかりだ。私自身は、「ポツダム宣言的な文化」に対して舌を出したいかというと…保留。 エンディングのワケわからん激しい曲も、ケムにまいた感を出してうまくマッチしている。あっほかの作品のことはどうでもいいや。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2007-10-17 21:14:17) |
24. イン・ザ・プール
《ネタバレ》 普通に楽しめる映画かな。 私には松尾スズキの演技はいまいち印象に残るものではなかったが。あと、市川の強迫神経症ぶりは、かなり甘すぎる気がする。悲壮感が全くなくて、「そういえば、強迫神経症だったっけな」という程度である。市川の責任ではなく、脚本演出だけれども、実際の患者とはかなり違うのではないだろうか。たとえば中森明菜を思い浮かべれば、本作の市川との違いは明らかであろう。 患者のうち、私が最も面白いと思ったのは田辺誠だった。自分ではストレス社会をうまく泳いでいるつもりの彼が終始クールなモノローグ。これをオダギリや市川のドタバタの合間にはさむところがおもしろい。編集にセンスを感じるし、田辺自身のコメディセンスも感じる。 さて監督はオダギリのような美男子にこれでもかの情けない演出を加えまくったところ、なんとなくいじめ感がありますね。おそらく多くの〝オダギリほどかっこよくない〟男性は溜飲を下げたことでしょう。…が、ここまでみじめな演技をさせられても、〝やっぱりオダギリジョーはかっこよ〟かったのでした。かっこいい人は何をしてもかっこよくなってしまうのですね…。という実験だったような気もする。 私的にはオダギリと市川の部屋のインテリアが興味深かった。最近は邦画もインテリアに手を抜かなくなって喜ばしいことだ。 難をいえばやっぱり、悲壮感を排除したことにより〝心の病気〟のワリには各キャラクターに深刻さが欠けていること、「ハメをはずせ」というメッセージをあからさまに出しすぎたことでしょうか。大変お気楽な作品になっています。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2007-10-13 16:19:10) |
25. ひまわり(2000)
《ネタバレ》 個人的にはラストのシーンを深読みする必要はないのじゃないかと思っていますが。行定作品というのは…どうにも見た後に気分が暗くなりますね。 行定作品(除く春の雪)を見るにつけ、この果てしないローテンション、「渡る世間は鬼ばかり」的なものに対するアンチ、というふうに私には感じられてきた。勝手にそう思ってしまうけれど、渡鬼的なものを憎んでいるからといって、ここまでのローテンションというのは…やっぱり私はヤだ。なんだか、うつ病の人しか住んでいない世界、のように感じられる。 で、監督お気に女優の麻生久美子、私には広末涼子との見分けがつかない。どっちにしても、女に好かれないキャラである。私も好かない。そして、「ひまわり」でもほとんどの女性に総スカンを食らうに足る嫌われ女ぶりを発散しまくる。 どういうところがそうなのかというのは女の人には言わなくてもわかると思うけど、ルックスもファッションも朋美の行動もそのすべてが、男性にしかウケないものであって、同時に女性に嫌がられる要素充分なんである。「ひまわり」は、男にウケて女に嫌われる朋美なる女性について、本人不在のところでストーキングしている作品…といった味わいだ。 ところで袴田演じる輝明なる青年であるが、なんと私は見始めて1時間以上経過しないと〝輝明〟が〝モテ夫〟を演じていることに気がつかなかった。…。モテ夫だったのか。しかし袴田って。袴田=モテ夫という役どころに、何%くらいの観客が気がついてくれるのだろうか。私の場合は、輝明=オダギリジョーかキムタクでもなければ、この脚本では気がつけない。 身長があるからといって、袴田が輝明であることはもともと無理だと思うのであるが、実は小学校時代の輝明を演じた少年というのが優れもので、どっからどうみても〝クラスで一番モテそうな子〟であった。いいなあ、この子。 音声が非常に良くない。意図的とは思えないほどの悪さだ。ヘッドフォン装着でも大変苦労した。なんだかとても長く感じてしまった一品だった。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2007-10-12 20:56:58) |
26. ドッペルゲンガー
《ネタバレ》 興行的にはどうだったんだろうか。レンタル屋で発見できなかったということは、お寒いことになっていたのだろうか。 が、それも頷けるような出来ではないか。私は黒沢清では今のところ「回路」が最も傑作だったのではないかと思っている。 「LOFT」を先に見てしまっていたのだが…なんだ、「研究に没頭する孤独な中年男(しかもカッコいい)」とか「妙齢のうえ孤独な美女」とか「何を言っているかセリフが聞き取れない怪しすぎる同僚」とか「主人公より年下で要領のいい割り切れた若い男」とか、なんか、人物がほとんど同じなんじゃないかなあ。 これって、普通に考えたら、黒沢さんの個人的な状況から編み出されたもの、という風にしか想像できぬ。より「純文学」の世界に近いということか。 黒沢はよくよく「落下」にこだわっているんだな、とか、ドッペルゲンガーの初登場シーンと、永作の電話中に弟が登場、とかいうシーンには「日常の中の…」という例の黒沢らしさを感じた。 私は、早崎のドッペルゲンガーが人殺しをする場面をカットしなかったとこから、破綻していると思うけどなあ。途中からリアリティを完全に無視し、スラップスティックコメディになり絆創膏に血だらけの役所が「好きなことをやって」終わる。非常にむなしい。せっかくの黒沢作品なのに、「この先どうなるんだ」というワクワク感を持てたのは、やっぱりドッペルゲンガーが永作弟を殺す前まで。 ああ欲求不満だあ。どうしてくれる黒沢。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2007-10-06 12:16:53) |
27. 贅沢な骨
《ネタバレ》 これはまさに…私は岡崎京子「Pink」を思い出しちゃった。 けど、「Pink」は「資本主義対個人の戦い」が狙いだったのだが、「贅沢な骨」は違う。 ホテトルやってても平気なふりをしている、という点は同じだが、「Pink」の主人公は本当に罪悪感が無かったし、「自分の持ち物のうち、売れるものを売る」という形で資本主義を攻略しようとしていたのだった。対して、「贅沢な骨」のみやこは…「あたしは不感症だから体売っても平気だからいいの」だ。 「不感症の女がセックスしても、セックスしたことにはならないから、していないのと同じだから、売春したって平気」。そこに、さきこを養ってやるという義務を追加して、彼女がホテトル稼業を営む状況が成立している。よって、新谷による開眼後の売春は苦痛を伴うものになり、営業後の口直しに新谷にまとわりつく…ということになっていく。 「Pink」にも3人の共同生活が描かれ、メンバーはホテトル嬢と腹違いの妹と作家志望の青年である。そして…彼氏の作品が受賞して金が入るという「偶然の幸運」という動機によって売春をやめ、お約束のように「南の島へ旅に」出ようと水着を選ぶが、出発当日彼氏は車にはねられ死亡。知らずに空港で待つ元ホテトル嬢。 が、行定監督が犠牲者に選んだのは、ホテトル嬢のほうだった。変態電車男に首を絞められて死んだのだろう。もちろん、自分から「締めてくれ」と要求したに違いない。 どうも監督は「汚れているとはどういうことなのか」ということを言いたかったらしいのだが、そうであるならば、性描写がちとしつこすぎたように思った。エロシーンが映画の邪魔をしている…と私には思えるくらいだ。 この3人を見るかぎり、日本はなんてひねくれた希望のない国なのか…という気がする。ここにいるのは「法」とか「奉仕」とか「道徳」とか「理想」とは無縁な若者たちだ。それが、今の日本の若者の雰囲気である、というふうには…私は認めたくない。20何年生きてきて、共通の話題が古いバンドの曲のことだけとか、3人同時に楽しめるのは他人に花火を投げつける時だけ、とか、あんまりにも情けないと思うなあ。それでいいのか。それが〝時代の空気〟か。 私は「Pink」は認めるけど、「贅沢な骨」の空気感は支持しない。この映画は、外国の人には見てほしくない。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2007-10-04 13:49:08) |
28. DISTANCE/ディスタンス
《ネタバレ》 敦の視点でちょっとこのストーリーを眺めてみよう。 何を生業としていたかわからないが、お父さんとお母さんと兄弟が居て普通の家庭があった。なぜか父は百合の花が好きで、いつも玄関に飾っていた。 その家庭に異変が起こり、母は「私と結婚したこと後悔しているんでしょう。子供は可愛くないんですか。」(ここのセリフめっちゃ音が小さい)と父を責め、父は言い訳しながらも、ある日家を出て行く。その後敦は花屋で働き、同僚の夕子と付き合って川に遊びに行ったり、夜明けの街で深遠な会話を交わしたりする。が、弟に自殺されたトラウマをもつ夕子はよりによって父の作った宗教団体にハマって、出家したどころか、テロの実行犯となって、自決してしまう。敦の父も、追い詰められて自殺した。ショックを受けた敦は、庭で家族の写真を焼く。 その後敦は、教祖の息子としての罪悪感から、実行犯の親族と思われる病人を訪問したりしてせめてもの奉仕に励んでいたが、夕子への思慕が消えず、実行犯の気持ちなどを知りたいと思い加害者遺族と偽って、湖への墓参に同行することを思いつく。 過去の映像が群像劇風に入るのでわかりにくいが、この話は敦を中心に考えるとすっきり整理できる。というか、〝教祖の息子〟という主人公が最初に存在して、後から周辺の肉付けがされたストーリーなのだ。 〝その後のユダ〟としての坂田(浅野)の有り様は、なかなか興味深かった。エリートでもないのに実行犯に選ばれた理由は、「忠義心」が突出していたからでしか有り得ない。けれど、それは本物じゃなかった。そして、〝その後〟の人生においては、己の存在がいかに小さかったかということに弁明これ努める。彼は悪人にすらなれない。なんという、人間臭さだろう。ユダ本人を髣髴とさせるに充分だ。「人間とはこういうもの」是枝監督のつぶやきが伝わってくる。 百合の花は〝死んだ人の花〟である。百合は強烈に線香の香りがする。そんなものを常に玄関に飾るなんて奇妙だが、監督はそれを教団のシンボルとしている。最初から〝死〟を背負っていた団体だったという意味だと思う。 リアリティを追求したアドリブ風の撮り方は見づらかったが、そんな空気の中では比較的〝浮いていた〟夏川、寺島の存在が、最後まで見させてくれた。 社会問題と謎解きの両要素が盛り込まれ、映画としては大変面白かった。 [CS・衛星(邦画)] 9点(2007-09-19 13:39:25)(良:1票) |
29. 美しい夜、残酷な朝
《ネタバレ》 以前「THREE」というオムニバスを見た。韓国、香港、タイのホラー監督が競作していて、香港版はピーター・チャン監督で、香港版にはエラく感心した。しかし、3作品とも、それなりのクオリティを感じたし、どれがいいかは好みの問題と言えなくもない。 …しかし、この「美しい夜、残酷な朝」は…いかにも真ん中が低い印象がぬぐえないではないかあ。 私は三池という人はカタカナの「ゲージュツ」家だと思う。「ゲージュツ」の人は、自分にだけ分かればいいと思っている。「IZO」でもひどい目にあったし、もうこの人の作ったものは無視することにする。 で、やっぱり「餃子」です。これはよくまとまっているし、説明が少なく見せ方も凝っている割には、ストーリーが分かりやすい。またしても、競演で香港作品に軍配を挙げてしまうのだが、そう思ってしまうのだから仕方ない。 私は、香港映画で見る建物とかインテリアがけっこう好き。天井が高くて、洋風のハコモノに東西文化がセンスよくミックスされていて、かっこいいと思う。今回も、怪しい餃子女の部屋のインテリアなど、とても面白い。黒いオーガンジー風のカーテンを窓にかけるとか、日本だったらまずしない。 そしてこれはグロい。このグロさというのは、韓国映画「四人の食卓」を見た時と同じグロさである。 なんていうか…胎児経由カニバリズム系のグロさ…というのだろうか。 「美の追求」が「カニバリズム」に発展し、「近親相姦」をも踏み台にする…という、よくこれだけ濃いものを集めてまとめたというような陰惨な話だ。しかし、不思議に視聴後感はそんなに悪くない。 小物の使い方がうまいからだ。セピア色の写真立て、エキゾチックなインテリア、金満趣味の人妻の隙のないメイクとファッション、金満インテリアにぶちまけられたバラのポプリ。 これらの小道具と、例の「餃子」を違和感無く組み合わせ、観客を飽きさせず見せる。うまい。しかし、食前に見てはいけないのは言うまでもない。 「CUT」については、私には良さがよくわからない…「餃子」とは別のグロさで、SM系のグロとでもいうのか。下手の横好きながらピアノを弾くので、こういうシーンはあんまり見たくない。舞台チックな感じも好きじゃない。どっちかというと…(映画)関係者ウケを狙ったという気がしないでもない。やはり「餃子」である。8点は「餃子」のみの点数です。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2007-09-05 16:14:46) |
30. 日本以外全部沈没
《ネタバレ》 すごく残念な感じがする。 部分的にいいところもあるのに、冗長な演出と編集がブチ壊しにしている。監督にセンスが無いのだろう。 これを失敗作にしている決定的な原因は、日本人青年3人のキャストミス。 こいつらは日本男児の最大公約数的なキャラクターでなければならないわけだ。 小橋とか柏原とか、どっからどうみても疲れた日本のサラリーマンではないだろうが。 小橋のジャニーズ顔に細っこい首だとか、柏原の通り過ぎた鼻筋に日本人離れした彫りの深さが、「こいつら」を遠いものに感じさせる。ダメだ。何を考えているんだキャスティングでー。 たぶん、尺に比べて脚本が薄いといった事情で、演出編集はひたすら冗長、だから最初のうちは笑ってしまうが、次第に「次行けよ、次」という気持ちになる。 誉めたい箇所。冒頭のプレスリー衣装の白人男性の腰の振りと歌の滅茶苦茶加減が爆笑、村野武範は意外にも食いしん坊なだけでなくコメディセンスもあった(この人は間の取り方がよい)、藤岡弘が村野との電話で条件提示をたたみかけるテンポが絶妙で爆笑、デーブ・スペクターはいつものように笑えた(私はけっこう好き)、キッチュの「外人予報」が面白かった(でも、ちょっと長すぎる)など。 柏原が嫁の妊娠に「また日本人が一人増えるんだな」と言うが、その瞬間私は村上龍「五分後の世界」を連想してしまった。…あそこでは純血日本人が最も珍重されることになっている。 失敗作なのだが…不法滞在している外国人を強制送還する前に、嫌がらせに見せる、ぐらいの利用はしてもいいのではないだろうか。…二度と来るまい。 [CS・衛星(邦画)] 4点(2007-08-29 15:19:58) |
31. 予言
《ネタバレ》 必ず誰か一人が死んでしまう状況、何度やり直しても家族全員が生き残ることはできない。こっちを足せばあっちが減る、という数学的なものを感じるし、萩尾望都や映画「バタフライエフェクト」をはじめSF各ジャンルで追求されてきたテーマですね。 そこに、お告げを聞いてしまう人間の存在と新聞をからめ、うまくまとめていると思う。ホラーとしては、なかなかの仕上がりと思う。 あと、この作品は、極端にセリフが少ない。…まさか酒井法子になるべくボロを出させないため、ではないだろうが、本当にセリフが、無いといっていいくらいに少ない。 ほとんどすべて、シーンそのものや、人物の目配せや身振り手振りで観客に伝えようとしているのだ。かなり意図的にセリフを省いていると思う。だから、終盤の「この電車に乗らないくれ」の一言が、「アレ、久々にセリフらしいセリフを聞いたな」と強調されてくる。 キャストについて。三上にとっては、十八番といえる役柄であったろうし、特に異論はない。そしてなぜ酒井法子…。 離婚して、バリバリ働いて車を乗り回すキャリアウーマン、という役どころだというのに、これほどノリピーに合わない役も無いし、…演技というほどのことは何もできてない…。セリフを棒読みして、あとは三上とのラブシーンを嫌々こなしているだけ(本当にイヤそうだったなあ。)。 女優落ちした元アイドルの中でも、ダントツで一位を献上したい大根である。や、大根とも言いたくないような気がする。大根のあとには少なくとも役者がつくから。酒井法子。この演技力で映画に出るとはある意味すごい鉄面皮。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2007-08-17 11:46:07) |
32. 感染
《ネタバレ》 「恐怖」について誠に的を得た説明をされていたのはザ・チャンバラさんだったと思うが、日常の中に潜む非日常が徐々に日常を侵食していくさま、というのがやっぱりホラーの醍醐味かなあ、と私なんかも思う。多くのホラー作品も、それを心得て作られるのが常である。 でこの「感染」というやつは、いきなり「非日常」から始まっちまう。「平和で健全な病院ライフ」というのが、もう、最初っから存在してないとこにもって、もうひとつの「非日常」をぶち込む、という離れ業に出るのだ。ある意味すごいのかもしれないし、「実験」という言葉も浮かぶ。 院長が逃げて、病院経営が立ち行かなくなり、もう明日をも知れない、という低空飛行から始まって、「もっともっと」低いところまで観客を引き摺っていかなければいけないのである。「落差」が作りにくい状況なのである。 まあ、最初から低空飛行しなければいけなかった理由は、医療ミスの発生し易い状況を作りたかったとか、なおかつそれを隠匿しなければならない状況にしたかったから、というふうに考えられるが、しかし、「平和で健全な病院ライフ」からスタートしたとしても、別の演出でそれは可能だったんじゃないかな…と私は思う。…「明」から「暗」ではなく、「暗」から「特暗」へ、という、作り手の目途したところは「通好み」というか、なんというのか。そのへんに特殊なものを感じた。 ホラー映画としては、急に後ろに人が立っているとかを何回も使うのはもう勘弁してほしいと思うが、全体としては話の省略の仕方とか、秋葉医師の時計など小物の使い方は悪くない。俳優陣も高嶋弟以外はまずまずの出来と思う。私は南果歩のブキミさが結構気に入った。 オチへの突然の持って行き方も、悪くない。「アザーズ」と似ているな、と思ったけども。 なんというか邦画ホラーのレベルアップを感じた作品。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2007-08-13 17:53:41) |
33. 嫌われ松子の一生
《ネタバレ》 (プルートで朝食を+親切なクムジャさん)×ミュージカル=映画「嫌われ松子の一生」、と思う。 映像的には、「クムジャさん」に似たものを強く感じたし、「殺人→刑務所→出所」とか「美容師」、ってのもそのまんまだし(ただしテーマは全然違う)、「哲学的思考への恐るべき無関心」(ニール・ジョーダンがパトリックを評して)により、「悩むことなく幾多の困難をかいくぐる」ってとこは、松子という人は「プルート」のパトリックに酷似している。 よって、ミュージカルが苦手で「プルート」のパトリックに辛抱ならぬものを感じる私などは、全く楽しめない。どころか、ものすごい我慢を重ねてラストを迎えなければならなかったのだった(長い)。 エンディングの階段のとこはあれでいいと思うけどさ。でも遅れてると言われようが、基本的に私はこういうの受け付けられない。心の底から面白いという人だけが楽しんで見たらいい。 [DVD(邦画)] 2点(2007-06-26 21:25:59)(良:1票) |
34. ヨコハマメリー
《ネタバレ》 ドキュメンタリー映画というものは、途中でボツになり日の目を見ないことが多いらしいですね。だいたい理由は内輪モメであるが(森達也の下山事件とか)。この作品中にもボツ作品のことが出てくる。しかも、往時のメリーさんを撮った貴重なフィルムが行方不明とはどういうことやねん(怒)。 そういう意味で、これがきちんと映画に仕上がって、観客の目に触れたというのは奇跡である。 もちろん、戦後60年にわたる横浜の歴史を、証言者が生存しているうちに記録したという意味でも、非常に価値がある。作り手の執念を讃えたい。 永登元次郎をはじめとして、ここに出てくる伊勢崎町周辺の人々の「濃さ」といったら。全員ものすごく濃いのさ。 この「濃さ」というのは、「戦争に負けた」を肌身で経験し、成長してきた横浜の「アク」のようなものなのであろう。だいたい、肩書きが「元愚連隊」ってどうなのよ。思わず突っ込みを入れずにいられないじゃん。 それでまあ、私は小学校5年生からずっと横浜に住んでいる。(両親は流れ者ゆえ、横浜の戦後史を子供たちに教えることはなかった。) で、メリーさんを目撃したことも、当然ある。職場が関内だった時期もある。この映画に出てくる場所も、ほとんど自分の足で歩いた馴染みのとこばっかりだ(伊勢崎町通りから南側を除いて。そこはあんまり行ってはいけないとこなのだ)。 「メリーさん遭遇」というのは、職場の世間話のあいまに語られる、ほとんど「風景」のようなものだった。「男」説も、もちろんあった。高島屋のエレベーターのドアが開いたら、いきなりメリーさんが居た、という先輩もいた。 アート宝飾の前のベンチ、今はもうないけど、メリーさんはよくそこに居た。ディスクユニオンに中古品を漁りに行くとき、あっ今日は見ちゃった。って思った。 私は、今回コレを見て、仮説を立てた。メリーさんは肉体的にはやっぱり男性だろう。だって、生理用品と常時使用可のトイレを確保しないで、あんな着飾ったホームレスができますか? なぜ故郷を捨てて、女の成りをするようになったのか。それはつまり兵役逃れか、逃亡兵だったとしか考えられない。…単なる仮説だけど。 いろいろ言いたいことはあるが…とにかく、これは非常に貴重な記録である。老人ホームにおさまったメリーさんの姿を公表することの意味については、個人的には疑問が残る。と言っておく。 [DVD(邦画)] 10点(2007-06-23 11:55:05) |
35. ゆれる
《ネタバレ》 あまり期待せず見たのだが、なかなかどうして、見ごたえがあった。 この脚本・監督の西川さんという女性は、とても才能ある方だと思う。 この映画に説得力を持たせているのは、何よりも、稔と猛兄弟のそれぞれのキャラの描き方である。…非常にリアリティがある。「いるいる、こういう人」である。私はそこに、はっきりと「女性の視点」を感じた。 稔については、「キモい」を念頭に、女性から見て「どういう人がキモいか」を余すところ無く表現。そうそう、この髪型、その白い靴下、正座して洗濯物を畳む丸い背中、ぺこぺこ謝るその角度、どことなく女っぽいしゃべり方…キモい。 そして女たらしの猛。そうそう、この危ない感じ、ハンサムがわざと汚なづくりしている感じ、土足で女性の心にズカズカ入りこむこのずうずうしい感じ…いるよねー、こういう遊び人。女性の目から見て、「つい寝てしまう」ような男である。 しかし、これはオダギリジョーだからそう見えるのであって、そこらの男性が真似をすると容易に化けの皮がはがれて笑われる対象になるだけです。だから、真似してはいけない。 真木よう子とのラブシーンにも、すごくリアリティがありましたね。本当はそのつもりだったくせに、「私はそんなつもりじゃ…」とかいう顔をずっとしているところね。そのくせしっかり料理を食べさせてこっちのものにしようなんて、そうそう、こういう女っているよね。当然遊び人の猛はそんなこと読めてるから、食わずにヤリ逃げするわけだが。こういう女は女受けしないんだよな。 そしてまた、監督は智恵子を使って、非情なまでの女性の残酷さを描く。つまり、「好きな男」と「嫌いな男」に対するこの態度の違い、です。男性の皆さんは、身に詰まされて辛いかもしれない。 しかし、これが真実なんです。好きな男なら、避妊もしないで突然のHもOK、ヤリ逃げされても恨むどころか追いすがる、片や、嫌いな男には、指一本触られたくない。…本当に勝手なもんです、女って。 という、女性ならではの視点が、余すところ無く人物描写に生かされている。ある意味、男性にも女性にも勉強になる映画だ。 キモさを演じきった香川照之は、「地」という言葉すら浮かぶ。もし香川がどっちかというと「猛」的な男性だったとしたら、その演技力は大したものだ。 ラストの場面は、この兄弟の邂逅と見るべきと思う。希望を示して終わるラストは良い。 [DVD(邦画)] 8点(2007-06-22 12:49:37)(良:5票) |
36. 輪廻(2005)
《ネタバレ》 これがあの「呪怨」と同じ監督さんの作品? 個人的には期待はずれと言っていい出来だった。私は「呪怨」には感心していたんだ…。 何が決定的に違うかといったら、強いていえば「語りすぎ」であろうか。 「サービス過剰」が顔を出して来た。 この映画の中で、観客の想像力で「その先」「その裏」を読ませる場面がどれだけあっただろうか。 「見せすぎ」である。 パン兄弟といい、ホラーでメジャーになった後の作品というのは、「見せすぎ」に流れがちなのか。 ともかく、「呪怨」の監督さんの作品としては、がっかりする作品であった。 キャストでは、意外にも出番もセリフも少ない椎名が存在感あり。この人はセリフが少ないほうが目立つようだ。あんまりしゃべらせないで、置いておくだけで「目力」を発揮するという、おもしろい俳優さんだ。 さて、問題の優香であるが、清水監督が本作に優香を使ったというその意味を考えてみたい。 事務所力とか業界政治とかいうものがもし無かったとしたなら、優香を主役に据える意味はひとつしかない。「鈍重」である。「鈍重」の効果は、「主人公の感情が観客に容易に伝わらない」である。私はずばり監督はこれを狙って優香を配したと思う。 演技巧者でない、という特色はもちろんであるが、優香という人の「鈍重」さは、なにより皮膚の厚みにある。 どんなに撮影用の特殊なメークをしていても、主役を張るような女優さんの肌というのは、普通はもっと薄く、興奮すれば容易に顔が赤くなるのが普通だ。優香はそうではない。 優香の皮膚は、厚い。興奮しても、決して顔や首に血管が浮き出たり透けて見えたりしないくらいに厚い。よって普通は主役を張る女優さんではない。 が、本作で優香を使ったことにより、清水監督は、一個しかないオチへ観客をミスリードするためのある程度の効果は上げた。あくまでも「ある程度」。次作に期待。 [DVD(邦画)] 5点(2007-06-22 12:42:18)(良:2票) |
37. やわらかい生活
《ネタバレ》 なぜ2名の方のレビューしかないのであろう。 さて、この映画の最も有益な鑑賞法を説明します。それは、ブスではなくても美人とはいえない女が、ウルトラかっこいい男に散々に奉仕させる様子を、自分に置き換えて満足感を味わうのです。(でもこれは、Mの方には向かないかも。) そういう意味で、優子役が寺島というのは、必然であった(決して美人であってはならない)。祥一役がトヨエツというのも、絶対条件であった。(見てるうちに、及川光博でもいいような気もしてきた。彼も40に近いし。でも演技力が足りないか。) 私は別にトヨエツのファンではないがー、本作では本当に彼を褒め称えるしかない。トヨエツってきっと役者バカなんだろう。 顔面が端正で、身長も高くスタイルも良い場合、暗めの2の線を演じるというのは、なんの驚きも与えない。流れる方に流れた、というだけだ。「LOFT」でもトヨエツの使い方はまさしくそれだった。なんの面白みもない。 本作では、トヨエツの魅力が余すところなく大爆発だ。 頭カラッポな地方のボンボンで九州弁をしゃべるトヨエツ。寺島の頭を洗ってやるトヨエツ。濡れた床を掃除するトヨエツ。寺島におかゆをよそってやるトヨエツ。腰に手を当ててトマトジュースを飲むトヨエツ。…こんなものが見られるとは思わなかった。非常に眼福な気がする。 これだこれだったんだよなー、「かっこよすぎる」男性の魅力の引き出し方って。 原作者が女性というだけで、監督も脚本も男性であるのに、トヨエツのかっこよさがあまりにもうまく引き出されているところを見ると、監督にはそっちの気もあるのでは、という気もする。べつにいいけど。 「お姫様抱っこ」といえばトヨエツ、ということになってしまったなあ。身長180cm以上の男優さんでないと、キマらないし。「LOFT」では中谷美紀を、安達祐実を、本作では寺島を。 私が今までトヨエツを無視してきたのは、「面白くない」「つまらない」が原因だったことに気付いた。考えてみれば、「面白い顔で面白いことを言う」よりも「端正な顔で面白いことを言う」方がいいに決まっているではないか。…とにかくこの映画はトヨエツ。しかし、純日本人であろうに、なんであんな日本人離れした体型なのかなあ。(内容のことが全然書けなくなっちゃった。) [DVD(邦画)] 9点(2007-06-17 20:05:24)(良:2票) |
38. 春の雪
《ネタバレ》 映画としては、充分及第点をつけられる作品だったと思う。監督の力量に安定感を感じる。 決定的な不満は残ったが…橋本治の三島由紀夫論によると、この話の白眉は第四部のラストにあるという。 数十年後、出家して門跡となった聡子を訪ねる本多が、「松枝など知らぬ」と言われることで、無常感極まるのだという。「豊饒の海」である。月のクレーター。不毛の地。 「春の雪」だけを映画にされてしまうと、一見「純愛」のように幕を閉じてしまう。やっぱり不満だ。 で、なにはともかく大正ロマンを満喫できる。大正ロマンとは何か。私は「富の錯覚」と評したい。 もともと日本は貧乏な国なのであり、今もそうで、日本史を振り返って見たところで、天皇になったって、将軍になったって、大した贅沢ができたわけでもなく、日本人は贅沢に慣れてないどころか本当の贅沢の意味も知らぬ。大正元年当時の日本人だってそうで、おそらく松枝侯爵のやっていることなど西洋の貴族から見たら「貧乏人のままごと」でしかないに違いない。プチ松枝侯爵がうようよ発生した時代、それが大正ロマンの時代と思う。 「春の雪」それは、男対女の純愛…などではない。なんたってあの三島由紀夫が考えた話だもの。 S男とM子が見事にめぐりあい、これ以上ないという絶好のシチュエーションで、〝プレー〟を楽しんでいる…そして、S男の脇には「友達」ではなく〝ホ〟で始まる美男子もセットされている…なんと三島好みの構成。それが「春の雪」だ。 映画「春の雪」を見ながら、行定監督の手腕よりも、原作者三島の意地悪さのほうに、「うーん、やるな」と唸ってしまう。 キャストについては、まず竹内結子に「首の短さ」という救いがたい難がある(そして意外に太い)。 なおかつ、聡子を演じるにあたって、おそらくは美智子皇后や紀子妃の立ち振る舞いを真似たと思われるのだが、これがいけなかった。常に前傾姿勢でいることによって、首の短さが強調され、着物も洋服も似合わない。…竹内には可哀想だが、私としては若い頃の鷲尾いさ子にやらせたかった(でも鷲尾はSの系統だ…)。 妻夫木はなかなか驚かせてくれた。人をアゴでこき使う性格の悪いお坊ちゃんを、よくここまで再現できたと思う。今は亡き岸田今日子はやはりすばらしい。宇多田のエンディング曲も良い。 最後に…及川光博はやはり決定的に軍服が似合わない。お願いだからもうやめて。 [DVD(邦画)] 8点(2007-06-12 18:09:59) |
39. LOFT ロフト(2005)
《ネタバレ》 黒いワンピースを着て、ダラリと腕をたらした髪の長い女。怖い…と思う前に、「あっ安達祐実じゃん」。 台無し。 や、台無しの理由はそれだけでもないのだが、やっぱりこれに尽きるなあ。 なぜここに安達を使うかなあ。ダメじゃん。まあ、あんまり怖がらせよう、と思ってないってことだな。 全編通じて、セリフが聞き取りづらく、トヨエツなどは何を言っているかわからない。ヘッドフォンを装着して、聞きなおしてみる。重要なセリフを、小さな声でつぶやいていた。こんなことでいいのか。 邦画の苦手なところは、字幕がないので聴覚に集中しなければならないところ。舞台じゃないんだから、全部の日本語が聞き取れるとは限らん。字幕つけてくれないかなあ(私は聴覚より視覚が優性なので)。 中谷美紀。ほとんど浅野温子のコピーと化してきた。花柄のノースリーブを着て、髪の毛ワンレン(死語か)でさあ。しかし、私は浅野に比べたら彼女が結構好き。 中谷は、なんていうか、男に媚びないことを全身で表現している。まあそれが、突如発生させられたトヨエツとの純愛にそぐわないわけでもあるが。 いつもながら西島のセリフまわしの異様さには驚く。「大奥」でもヘンだったが、最初っから「怪しいものです」と主張しているかのようだ。西島一人が、何を言っているかはっきりききとれるという、ヘンさだ。しかも、セリフが全部キザである。脚本も書いたのだから、黒沢というのは、自分でもこういう会話をするのだろうか。だとしたら、かなりブキミな男性だ。会話はしたくないなあ。 この映画はさ、話がどうとかもうくだらないので、「都会の喧騒を離れてひなびた洋館で孤独を楽しむ妙齢のインテリ美女と、その周辺のヘンな男たち」を鑑賞するつもりになったほうが、楽しめる。あなたが女性なら、「長い休み」をとって、田舎にこもったつもりにでもなってみる。 実際、洋館のインテリアとか今風のユーズド感がとても味あるし、中谷はキレイだし、自然は美しいし、余計な人間があんまり出てこないし。たぶん、田舎に住んでる人が見たら、あんまり面白くないだろう。人はいつも、無いものを求める。 あと、トヨエツの足の長さを再確認できる。 それにしても、鈴木砂羽はいつでもどこでも「お友達キャラ」が定着。役には困らなくても、この先どうするのか。これでいいのか。 [DVD(邦画)] 5点(2007-06-12 12:46:03)(良:1票) |
40. トゥモロー・ワールド
《ネタバレ》 夢を壊すようで悪いけどコレについては、「男であることの限界」と言い切ってしまうぞ。 「個を捨てよ。種に生きよ。」なのだ。映画が進むにつれ、この言葉が画面いっぱいに書いてあるような気すらしてくる。 たった一人の赤ん坊のために、関わり合った人々が進んで命を投げ出す。 「新しい命」のために、「比較的新しくない命」が捨て石になるのが当然、というのがヒューマニズムなのか。そう言い切っていいのか。それとも「死んだら天国」の宗教的背景か。 これが「個を捨てよ。種に生きよ。」でないなら、いったいなんだというのか。 そして、キーは「誰だか覚えていない」ような相手の子供を喜んで産むことになっている、というこの無理。 産んだ瞬間から母性愛に目覚め、母親然としているという、この無理。 はっきり言うがこういうところが男であることの限界なんだわさ。 女に生まれた人にとって、産む性であるということは、そーんなおとぎ話のようなものではないのさ。 じゃなんなのかというと、それは、ローティーンからはじまり50歳代までえんえん続くうっとうしい月経であり、妊娠の恐怖であり、子宮筋腫をはじめとする婦人病の恐怖との闘い、出産のプレッシャーとの闘い…の連続である。 今回のクライブ・オーウェンには別に文句はないし、臨場感あふれる戦場シーンや、狭いところをぐるぐる撮ってる映像テクなどもきっと素晴らしいのであろう。 しかし「難民排除」の問題を持ってくるとか、キーが黒人でありその子供も当然黒人、という設定に「しょせん僕らは同じ〝種〟ではないか」「肌の色とか関係ないよね」(題名もまさにそんなことだし)という作り手の声があまりにもはっきりと聞こえてきて、かえってあざとく感じる。 それに、赤ん坊を抱えた母親の前では、どんな兵士も銃を背ける、なんて、あまりにもイージーなヒューマニズムじゃないか?旧日本軍が大陸でそんなことをしたか?ナチスはどうだったか?もっともっと人類の歴史をさかのぼればどうなのか?人間って、そんなものだったか? もうひとつ、「せっかく機能があるなら、使えよ」という声も聞こえてきて、うんざり。負け犬などは、「捨て石」程度にしか利用価値が無いということだな。 もしかすると、この映画はすごく危険な思想を孕んでいるかもしれないと思う。「産む機械」とか言っているどっかの大臣と、あまり変わらない考え方じゃあないのか。 [DVD(字幕)] 5点(2007-05-27 00:41:42)(笑:1票) (良:4票) |