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自己紹介 映画を観る楽しみ方の一つとして、主演のスター俳優・演技派俳優、渋い脇役俳優などに注目して、胸をワクワクさせながら観るという事があります。このレビューでは、極力、その出演俳優に着目して、映画への限りなき愛も含めてコメントしていきたいと思っています。

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1.  将軍たちの夜 《ネタバレ》 
1942年の冬、ナチス占領下のワルシャワで一人の女が惨殺される。捜査にあたったドイツ軍の少佐は、証人への尋問などから容疑者を三人のナチス将軍に絞り込むが、犯人を特定する前に、パリへと飛ばされてしまう。  それから二年後、ドイツ軍が占領したパリで、またもや娼婦が惨殺された。二年前に捜査を担当したオマー・シャリフ扮するドイツ軍少佐は、いっそう闘志を燃やし、連続殺人犯を追っていくが-----。  この物語の舞台は、ポーランド、フランス、ドイツと拡がり、時間的な流れも含めてスケールも大きく、それに伴って登場人物も実に多彩で、この忌まわしき時代の混沌が迫真性を持って描かれ、緊迫感に満ちている。  そして、この映画で描かれるのは、容疑者の将軍の一人であるタンツ将軍(ピーター・オトゥール)の異常ぶりを示す"恐怖の人間像"だ。  戦場にありながら、部下の手袋の染みさえ許さない、この男の世界観においては、隣国の人々もユダヤ人も娼婦もゴミでしかないのだ。そして、ゴミは一掃されるべきだと妄信している、サイコ的な恐ろしさ-----。  戦争は、そんな彼の異常性を解き放つ舞台になるのだ。将軍という地位を利用して、街という街を破壊し、敵を無残にも殺戮し、なおそれでも足りずに、深夜ひそかに女性を求め、惨殺していく。  このサディスト的なタンツ将軍が、パリのルーヴル美術館でゴッホの自画像と対峙するシーンは、まさに背筋も凍るほどの凄さだ。狂気にかられて自分の耳を削ぎ落とした直後のゴッホ像は、まるで彼の内面と共鳴しているかのようで、底知れぬ怖さが私の心を射抜いていく-----。  ピーター・オトゥールの舞台で鍛え抜かれた、鬼気迫る演技は、私の心をつかんで離しません。  そして、この映画の複合的で奇妙な面白さの要因になっているのは、この事件を追うドイツ軍少佐の異様なほどの執拗さだと思う。  彼は上官である将軍たちを少しも恐れず、是が非でも殺人罪で検挙したいとの一念に凝り固まっていて、戦況が自国であるドイツに不利になってきても、意に介さないどころか、国防軍によるヒトラー暗殺未遂事件が起こっても、全く関心を示そうとはしないのだ。  そこには、正義を追求するという以上の何かしら尋常ならざるもの、犯人の異常さとも通底する、ある種の不気味さが感じられるのだ。  このように、この映画は観る角度を変えることで色々な見方の出来る、そんなスリリングな作品でもあるのです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2022-01-09 11:57:03)
2.  アバウト・ア・ボーイ 《ネタバレ》 
人と人が接する時に感じる、内心の不安や自分の弱い部分を見透かされないだろうかという不安を、等身大の人間の姿で描いた、ライト・コメディの傑作「アバウト・ア・ボーイ」  この映画「アバウト・ア・ボーイ」の主人公の38歳の独身男ウィル(ヒュー・グラント)は、亡くなった父親が一発ヒットさせたクリスマス・ソングの印税で、優雅に暮らすリッチな身分。  一度も働いた事がなく、TVのクイズ番組とネット・サーフインで暇をつぶし、適当に付き合える相手と恋愛を楽しむ、悠々自適の日々を送っています。  ところが、情緒不安定な母親と暮らすマーカス少年(ニコラス・ホルト)との出会いが、彼の生活をかき乱していく----という、非常に興味深い設定でのドラマが展開していきます。  まさに、現代ならではのテーマをうまく消化して、ユーモラスで、なおかつ、ハートウォーミングにまとめ上げた脚本が、本当にうまいなと唸らされます。  30代後半の独身男の本音と12歳の少年の本音を、それぞれ一人称で描きながら、それを巧みに交錯させていくという構成になっています。  それが、二人の男性、ウィルとマーカスがいかにして心を通わせていくのかが、このドラマに説得力を持たせる上で重要になってくるのです。 そして、これが実にうまくいっているから感心してしまいます。  表面を取り繕う事に長けたウィルは、今時の小学生が歓迎すると思われる、クールなスタイルを本能的に知っています。  マーカスはそんなウィルを慕っていきますが、それだけではなく、ウィルの人間的に未熟な部分が、結果として二人の年齢差を埋める事に繋がり、マーカスはウィルを自分の友達の延長戦上の存在として見る事が出来るようになるのです。  マーカスは彼の持つ性格的な強引さの甲斐もあって、ウィルという良き兄貴を得る事が出来、一方のウィルは、自分だけの時間にズケズケと土足で踏み込んで来たマーカスを、最初こそ煙たがっていましたが、彼と深く接していく中で、次第に"自分の人生に欠けていたもの"に気付かされていくのです。  この映画は、そんな二人の交流の進展に歩を合わせるように、"人間同士の絆や家族"といったテーマを浮き彫りにしていくのです。  日本でも最近は、"シングルライフ"というものが、新しいライフスタイルでもあるかのように市民権を得つつありますが、確かに、お金さえ払えば、ありとあらゆる娯楽やサービスが手に入る時代になって来ました。 個人が個人だけで、あたかも生きていけるというような錯覚に陥ってしまいがちな現代------。  もっとも、この映画は、そんな現代人に偉そうにお説教を垂れているのではなく、むしろ、大半の人間はそんな現代というものに、"不安と寂しさ"を感じ始めているのではないかと問いかけているのです。  だからこそ、この映画は多くの人々が共感を覚え、ヒットしたのだと思います。  そこにきて、ウィルを飄々と自然体で演じたヒュー・グラントという俳優の存在です。 ウィルは、ある意味、"究極の軽薄な人間"として描かれていて、本来ならば、決して共感したくないようなキャラクターのはずなのですが、ヒュー・グラントが演じると、何の嫌悪感もなく観る事が出来るので、本当に不思議な気がします。  ヒュー・グラントは、このような毒気のあるライト・コメディを演じさせれば、本当に天下一品で、彼の右に出る者などいません。 余りにも自然で、演技をしているというのを忘れさせてしまう程の素晴らしさです。  そして、困った時に見せる微妙にゆがんだ何ともいえない表情といったら、他に比べる俳優がいないくらいに、まさしくヒュー・グラントの独壇場で、もう最高としか言いようがありません。  かつての"洗練された都会的なコメディ"の帝王と言われた、ケーリー・グラントの再来だと、ヒュー・グラントが騒がれた理由が良くわかります。  この映画は、そんなヒュー・グラントの持ち味を最大限に活かして、誰もが表だっては認めたくないような人間らしさに踏み込んでみせるのです。  そして、人と人が接する時に感じる、内心の不安や自分の弱い部分を見透かされないだろうかという不安を、等身大の人間の姿を通して映し出す事に成功しているのだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2021-06-04 10:52:55)
3.  シャーロック・ホームズの冒険 《ネタバレ》 
全世界の少年少女が、生まれて初めて読む本格推理小説は、"シャーロック・ホームズ"だと言われている。 この映画「シャーロック・ホームズの冒険」の監督であるビリー・ワイルダーも、少年の頃からホームズファンで、いつの日か自分の映画に登場させたいと考えていたそうだ。  サー・アーサー・コナン・ドイルが創造した、世界一有名なこの探偵とワトスン博士を、ビリー・ワイルダーと名コンビのI・A・L・ダイアモンドが、どうこのホームズものを描くか、大いに期待しながら観ました。  名探偵ホームズとその助手のワトスン博士は、コナン・ドイルが創作した人物だが、世界中のホームズマニアは、彼らが実在した人物のように扱って色々と研究し、なかにはワトスンが女性だったり、はては二人は、同性愛だったなんていう説もあらわれる始末だ。  だからこそ、ビリー・ワイルダー監督も、この映画の題名に"THE PRIVATE LIFE OF SHERLOCK HOLMES"と、"私生活"と謳って、ひねくった面白さを狙ったわけで、こういう事情を知っておいて観ると、この映画の面白さは、一段と増すのではないかと思います。  そして、そこは、さすがにビリー・ワイルダー監督、コナン・ドイルの原作の小説を、ただそのまま映画化するわけがありません。 小説と現実をごっちゃまぜにしたトボけたおかし味を狙って、ホームズの助手兼記録者の、ワトスン博士の孫なる人物が、銀行の保護金庫にあった50年前のワトスン博士の記録を発見。 それによって、ベーカー街におけるホームズとワトスンの私生活や、今まで知られていなかった冒険の一つを再現しようとしたのだ。  そのため、時代考証も凝りに凝って、実にいい雰囲気を醸し出している上に、エピソードの趣向も面白く、特にロシア・バレエの女王からの命令的な求婚を逃れるためにホームズが、デタラメを言ったのがもとで、ワトスンが同性愛者扱いされるあたりは、大いに笑わせられる。  そして、事件は美人のジュヌヴィエーヴ・パージュと共に舞い込んで来る。 このホームズのお色気シーンというのも実に珍しくて、思わずニヤニヤしてしまいます。  彼女の夫の行方を突き止める仕事に取り掛かり、倉庫に隠されていた大量のカナリヤを発端に、次々と手掛かりをたどってネス湖に達するまでの演出も、ワイルダー監督は、悠々たるクラシック調でいい味わいを出していると思う。  だが、ネス湖の怪獣とその正体は、ジュール・ヴェルヌのSF的で、意外と平凡だったのは少し残念。 創作するなら、もっと奇想天外な事件にして欲しかったなと思う。  しかし、そうは言っても、この事件のおかげで、ホームズが背負い投げをくって、照れくさい顔をする光景が見られるし、女スパイの古典的なロマンス・ムードも生まれたのだから、結果的には良かったのかもしれませんが------。  いずれにしろ、いわゆる楽屋オチ的な面白さだけではなく、第一、第二、第三と、いくつもの手掛かりを探って、謎の事件に迫っていく、古き良き探偵小説の面白さと、冒険の楽しさがいっぱい詰まった作品になっていると思います。  出演俳優に目をやると、この映画でホームズを演じたロバート・スティーヴンスは、イギリス演劇界で活躍する役者だし、ワトスン博士を演じたコリン・ブレークリーも、元々演劇界の役者なので、渋くて地味すぎる感じもしますが、しかし、今まで登場したカッコいい英雄的なホームズのイメージをぶち壊して、人間的な魅力と親近感のあるキャラクターになっていたと思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2021-06-02 20:00:02)(良:1票)
4.  さすらいの航海 《ネタバレ》 
国際政治のエゴに翻弄される、ユダヤ難民の悲劇を淡々とドラマティックに描いた「さすらいの航海」  この映画「さすらいの航海」は、第二次世界大戦の直前に、各国の冷酷な政治エゴに弄ばれる、ユダヤ難民の一団の絶望的な実話を、淡々と、しかもドラマティックに描いた作品で、監督は、「暴力脱獄」、「ブルベイカー」の反骨精神の持ち主のユダヤ系のスチュアート・ローゼンバーグ監督です。  1939年5月13日、ドイツの客船セントルイス号は、国外への移住を希望するユダヤ人937人を乗せて、ドイツのハンブルク港を出港し、キューバのハバナ港に向かいました。  しかし、それは海外移住を許す事によって、ユダヤ人への寛容を示すと共に、各国がユダヤ人の受け入れを断る事を見越して、ユダヤ人問題はドイツだけの問題ではない事を、世界に宣伝しようとするナチス・ドイツの策略だったのです。  この出港に先立つ5月5日に、難民の受け入れを拒否する事が出来る、大統領令をキューバ政府が発布していた事を、ナチスは事前に承知しての事でした。 そして、更にキューバ駐在のナチス諜報員は、反ユダヤ宣伝を行なって、キューバ国民に難民の受け入れ反対を煽っていたのです。  迫害を逃れ、自由を求めて、嬉々として船に乗り込むユダヤ人達は、初めから上陸出来ない運命にあったのです。  一方、キューバにおいても、政治的な駆け引きが激化していて、時のキューバの大統領フレデリコ・ラレド・ブルーは、陰の実力者である陸軍参謀総長バチスタの力で大統領になっただけに、自らの指導力を確立する事に腐心していました。  そして、大統領フレデリコ・ラレド・ブルーのバチスタへの反撃は、バチスタの腹心であり、その資金源である移民局長官のマヌエル・ベニテス(名優ホセ・フェラー)に向けられたのです。  ベニテスは、私的な上陸許可証を査証とは別に発行して荒稼ぎをしていましたが、今回の大統領令は、この上陸許可証を禁止し、賄賂を閉ざすためのものでした。 これに対して、ベニテスは、セントルイス号の難民を人質に船会社から巨額の賄賂を出させ、その半分を大統領に渡せば事は収まるものと、甘く考えていました。  しかし、大統領とレモス外務長官は、バチスタを見逃さず、政府の威信を示そうと強行に難民の受け入れを拒否するのでした。 また、労働長官も、これ以上の難民の入国は、キューバ人の失業を悪化させると進言してもいました。  5月27日、ハバナ入港。しかし、上陸出来ないまま6月2日出向。 この間、先にキューバに入国して、身を売って稼いだお金を船内の両親に届ける娼婦(キャサリン・ロス)、それを怒り嘆く母親(マリア・シェル)。 三分間に限られた、その再会シーンは哀切で言葉もありません。  そして、セントルイス号は、マイアミ沖のアメリカ領海を徘徊しますが、ユダヤ人が最終的に行きたかったアメリカも、その難民の受け入れを巡って政治的な事情が優先されました。 というのは、時のフランクリン・ルーズペルト大統領は、欧州の紛争には関わりたくないという、いわゆる"モンロー主義"を国の政策としてとっており、また、ニューディール政策の行き詰まりによる失業者の増加のため、移民受け入れ反対の運動が盛り上がっていて、大統領の三選を控えていて、これらの状況を無視する事が出来ないという状況にありました。  このような状況の中、セントルイス号は、再びドイツに向かいますが、絶望したユダヤ人の中には、船のハイジャックを試みて失敗する一団もいれば、ユダヤ系船員(マルコム・マクダウェル)と痛ましい心中を遂げる可憐な娘(リン・フレデリック)もいました。  しかし、元ベルリン大学医学部教授のクライスラー(オス・ウェルナー)と、その気品の高い妻(フェイ・ダナウェイ)は、終始、ユダヤ人の誇りを失わず、毅然とした対応を示すというような、いわゆるグランド・ホテル形式で、様々な人々の人間模様を映画は描いていきます。  そして、欧州各国もヒトラーを恐れてユダヤ人を受け入れようとはしません。 ドイツ人だが、船乗りとして乗客の事を第一に考えるシュレーダー船長(名優マックス・フォン・シドー)は、この状況を打破するための窮余の一策として、イギリスのサセックス沖でわざと船を座礁して、乗客を上陸させようとしますが、その最後の瞬間にベルギーのアントワープへの寄港が許可される事になったのです。  6月17日にアントワープ港へ入港の2カ月後に、第二次世界大戦が勃発し、乗客の内、600人以上がナチス占領下の国々で死んだと歴史は伝えています。 尚、このシュレーダー船長は、戦後の1956年に、時の西ドイツ政府から人道功労賞が授与されています。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2021-06-02 09:20:20)
5.  ジャーヘッド 《ネタバレ》 
かつて、テレビのニュースが伝えた湾岸戦争は、空を飛ぶミサイルを捉えても、そこにいた人々の顔は見えなかった。  この映画「ジャーヘッド」は、あの時、あの場所にいた、アメリカの海兵隊の若者の目線で見た、戦場の現実を描き出す。  原作は、アメリカでベストセラー小説となった「ジャーヘッド/アメリカ海兵隊員の告白」。 タイトルは、お湯を入れるジャーの形をした、ヘアスタイルから海兵隊員の事を指すということだ。  海兵隊に志願したアンソニー・スオフォード(ジェイク・ギレンホール)が主人公。 厳しい試練や新人いじめを乗り越えたが、配属先のサイクス三等曹長(ジェイミー・フォックス)の訓練も過酷だった。  プレッシャーに耐えかねた、仲間の死亡事故まで起きてしまう。 そして、ようやくスオフォードらの隊は、サウジアラビアへと派遣されることになる。  しかし、狙撃兵として現地入りしたものの、当面の任務は油田の警備。 若い兵士らの士気は上がっているのに、目に見える敵のいない毎日は、待つ事が仕事なのだ。  兵士同士で、恋人から人生についてまで語り合うが、スオフォードの退屈で孤独な気持ちは強くなるばかり。 気持ちははやるが、やることがなく鬱屈していく若者の姿は、戦場特有のものというより、どこか普遍的だ。  手に汗握る銃撃戦のないスオフォードの戦争は、燃え上がる油田の幻想的な光景で最高潮を迎える。  恐怖と退屈、そして絶望的に変わらない日々。 画面の中では誰もが見たことのなかった戦争の風景を、サム・メンデス監督がくっきりと浮かび上がらせている。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2021-06-01 11:49:13)
6.  1000日のアン 《ネタバレ》 
英国チューダー王朝のヘンリー8世は、一目惚れした若い娘アン・ブリンを手に入れるため、世継ぎを生まない王妃キャサリンと強引に離婚してしまう。 正室に迎えられたアンにも王子ができないまま、あんなにも情熱的だった王の心は、遠のいてしまった。 そして、離婚を拒んだアン・ブリンは、奸計をもって断頭台へと送られてしまう-----。  16世紀の英国チューダー王朝の悲劇を描いたチャールズ・ジャロット監督の「1000日のアン」は、絶対的な権力をふるった、リチャード・バートン扮するヘンリー8世とジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド扮するアン・ブリンの愛憎の葛藤を、舞台の格調そのままに映画化した作品だ。  リチャード・バートンをはじめ、並みいる古典舞台劇の名優たちを相手に、当時、新人だったジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドが、女の意地、喜び、悲しみを朗々と謳い上げ、オスカーにノミネートされるほどの演技を披露している。  世継ぎの男子を生まない女に用はない、欲しい女はどんなことをしてもモノにする。そして手に入れたら飽きる、男の幼さ、男のずるさをシェークスピア劇で鍛え抜かれた、名優リチャード・バートンが実に巧みに演じていて素晴らしい。  この名優に対して、ビュジョルドは一歩もひけをとらず、出会いの時の愛苦しさから、命を懸けて王の横暴に抵抗し、するべきことをなして泰然と運命を受け入れ、断頭台の露と消える王妃の誇りを演じて、これまた素晴らしい。 小柄で童顔のビュジョルドが、膨大な量のセリフをこなし、アン・ブリンを演じ尽くすさまに、ほとほと感心してしまう。  彼女が死を賭して、王位継承権を残してくれたとも知らぬ幼い娘が、宮廷の庭で、教えられたとおりの歩き方を練習しているラストも、切ない印象を残してくれます。
[DVD(字幕)] 8点(2020-09-27 10:01:59)(良:1票)
7.  ドラブル 《ネタバレ》 
誘拐、ドラブルという名前の破壊工作員たちの秘密組織、黒い風車、まるでスリラーの神様・アルフレッド・ヒッチコック監督のスパイ・スリラーを思わせるような、映画好きの心をワクワクさせる、実に良いムードの映画だ。  沈んで暗い色調の英国の風景も、優しくてノスタルジックな雰囲気を湛えている。  小さな一人息子を誘拐された夫婦。夫のマイケル・ケインは、秘密情報部員だが、情報部の協力を得られず、たった一人で敢然と、可愛い息子の救出のために、事件の渦中へと飛び込んで行く。  夫は外から妻に電話をかけて、情報部にも警察にも知られずに、ひとりで会いに来てくれと伝える。 その伝え方が実に面白くて、洒落ている。  と言うのも、もちろん電話は盗聴されているので、夫は妻に約束の場所を口で言う代わりに、電話でミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽を聞かせるのだ。 息子にせがまれて、夫婦が何回となく見に行った映画なのだ。  この映画の最大の見せ場とも言える、風車小屋の中の撃ち合いは、この静かなスパイ・スリラーの数少ないアクション・シーンの一つだが、職人肌のドン・シーゲル監督ならではの、スピーディーでダイナミックな演出で、見応えのある素晴らしいクライマックス・シーンになっていると思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2020-09-13 15:31:59)
8.  雨の午後の降霊祭 《ネタバレ》 
英国映画「雨の午後の降霊祭」は、役者として「大脱走」、監督としても「ガンジー」や「遠すぎた橋」で有名なリチャード・アテンボローがプロデュースしつつ主演もしている映画です。  いかにも英国映画らしい、モノクロームでなくては作れないお芝居です。 テーマは誘拐。犯人夫婦の妻の方が霊媒で、僅かな信者を集めては降霊会を開きます。  リチャード・アッテンボロー扮する夫が、子供を誘拐し、妻が霊媒としてその家に乗り込んで、子供が自分の夢に現われたなどと話します。  身代金をうまく手にいれる場面の疾走感が、とてもいいんですね。 これで犯罪としては成功なのですが、結局は誘拐された子が殺され、やがて実に意外な方法で真実が暴露される。  ここでは、ミステリーという言葉も推理ではなく、神秘という本来の意味に取ったほうがいいのかもしれません。  抑制されたリアリズムで作ってゆくから、最後の超自然的な展開が冴えわたります。 英国以外の国では絶対に作られない種類の映画だと思いますね。
[DVD(字幕)] 7点(2019-12-17 09:24:03)
9.  舞台恐怖症 《ネタバレ》 
ハリウッドに渡ったアルフレッド・ヒッチコック監督が、イギリスに戻って撮った映画「舞台恐怖症」は、いろいろといわくつきの映画のようで、ヒッチコキアンからの評判はよくないようですが、私はそこそこ楽しめましたね。  何と言っても一番の見どころは、「マレーネ・ディートリッヒ」ですよね。この女優の代名詞のような大女優が、この映画でも実に妖艶な魅力を振りまいています。 役柄も舞台女優ということで、なおさら臨場感がありますしね。短いですが、歌を歌うシーンまであります。  この映画は「嘘」について考えさせられる部分があります。冒頭で、主人公のイヴ(ジェーン・ワイマン)の恋人ジョナサン(リチャード・トッド)が、人を殺してきたと告白し、その再現映像が出てきます。 この告白に嘘があるわけなのですが、それをそのまま映像として、我々観る者に見せてしまったのはヒッチコック監督の失敗だと言われていて、なるほどなと思いました。  登場人物のつく嘘はいいけれど映像の嘘はいけない、ということなんですね。 確かに、そうなのかもしれませんが、ただそれだけの理由で、この映画を失敗作だと言うのは少し言い過ぎではないかと思います。 ヒッチコック監督自身も、冒頭の回想シーンについては反省していたそうで、そこは弘法も筆の誤りということもあるわけなので、大目にみたいと思いますね。  いわくのもうひとつは、ジェーン・ワイマンです。ディートリッヒのあまりの美しさに嫉妬して、自分も途中からどんどん綺麗な格好をして画面に出てくるようになってしまった、という撮影裏話には思わず笑ってしまいます。 いくら頑張っても、大女優には勝てないと思いますけど、ヒッチコック監督は、ワイマンの我儘を聞いてあげたということなんですね。  ヒッチコック監督の映画には、そこはかとなく漂うユーモアのセンスがあって、それがたまらない魅力になっていると思います。 ただ、彼の映画が全部、目も覚めるような傑作ばかりというわけではないことを、この映画が教えてくれているような気がします。  しかし、ディートリッヒの美しさ、冒頭のいわくつきの回想シーン、射的で人形を取るシーン、隠しマイクを仕込んで劇場全体に声を響き渡らせてしまうシーンなど、見どころもたくさんある映画だと思います。
[DVD(字幕)] 6点(2019-04-12 14:47:37)
10.  砂漠のライオン 《ネタバレ》 
大まかな目鼻立ちの大きな馬ヅラ、こもった大きなダミ声、逞しい体、そして何よりも従来の俳優にはない国籍不明の図太いエキゾチシズムの持ち主の俳優アンソニー・クインは、「革命児サパタ」「道」「その男ゾルバ」「サンタ・ビットリアの秘密」などでの強烈な演技で、私の印象に強く残っていて、彼が脇役の時は主演俳優を食ってしまうし、主役の時はその独特の個性でひと際光る演技を見せてくれました。  彼の晩年の出演映画「砂漠のライオン」は、シリア生まれのムスターファ・アッカド監督が、スペクタクルに民族の悲劇を描いた作品です。 イタリアの独裁者ムッソリーニは、北アフリカのリビアにローマ帝国を再建する野望に燃えていた。  そして、1929年、近代装備で固めた大軍を現地へ派遣する。アンソニー・クイン演じる、老いたベドウィンの指導者オマール・ムクターは、勇敢なる砂漠の戦士たちを率い、民族の誇りをかけた不屈の闘志で徹底抗戦を繰り広げるのだった-----。  この映画の撮影のために5万人ものエキストラが動員されたという戦闘シーンは、上映時間の実に8割近くを占めていて、そのひたすらな戦いをアンソニー・クインの個性あふれる名演が、引き締めていたと思います。  それまで、どちらかと言うと、あまりにも強烈すぎる個性で、クサイほどだった彼が、この映画で示した"枯淡の境地"には、目を瞠らされました。 砂漠の聖戦の先頭に立って闘う勇猛果敢な労将が、ひとたび銃を置いて子供たちにコーランを教える時の、慈父のごとき穏やかさ。  そして、従容として死につく時の、威風あたりをはらう静けさ。魅入るばかりのカリスマ性を、アンソニー・クインは見事に体現していたと思います。  近代兵器何するものぞ、砂漠の自由こそ民族の命と、ひるむことを知らない男たち。哀調を帯びた独特の叫びをあげて彼らを讃える、黒いベールの女たち。 イスラム世界のエキゾチシズムとパワーに、あらためて圧倒された映画でした。
[DVD(字幕)] 7点(2019-04-06 11:22:08)(良:1票)
11.  007/死ぬのは奴らだ 《ネタバレ》 
「007/死ぬのは奴らだ」は、ジエームズ・ボンド役としては、初代のショーン・コネリー、二代目のジョージ・レーゼンビーに次ぐ三代目ロジャー・ムーアの記念すべき1作目の作品。  ジェームズ・ボンドのイメージは、硬派のショーン・コネリーで確立されていたので、軟派のロジャー・ムーアではどうかと思っていましたが、私はムーアはムーアなりの個性、キャラクターで見せていて、かなり面白く観ました。ただ、映画としての欠点、突っ込みどころは山ほどありましたが。  この007シリーズは、大人向けの漫画というか、西洋忍者もので、もともと荒唐無稽なので、スリルとサスペンスがあればいいわけです。 この映画はシリーズとしては8本目ですが、この作品が発表されたのはかなり前で、確か「カジノ・ロワイヤル」の次だと思いますが、このイアン・フレミングの原作の小説には、ボンド映画の原型的なものがいっぱい詰まっていて、007の原点だと言えると思います。  映画のほうは必ずしも、原作の執筆順に作られたわけではないので、さてこの映画を作ろうと思ったら、新兵器も、意表をついたアイディアも、それまでの7本の映画でかなり紹介されてしまっていた。そこで、原作をいろいろといじらざるを得なかったのではないかと思います。  ミスター・ビッグが島で麻薬を栽培していましたが、原作では海底に沈んだスペインの海賊船の財宝を島に隠しておいて、やがて、これをアメリカに持ち込んで、経済を破壊しようと計画しているのを、ボンドが海底から襲撃。タコに襲われたり、鮫に食いちぎられたり、とくにあのラストシーン。本当はもっと迫力があるのです。  映画自体は、確かに子どもだましのところが多く、あんな強力なシンジケートの大ボスが、ガス圧縮弾なんか口にくわえさせられて、バーンと破裂するのだから、これではボス役のヤフェット・コットーがかわいそうでなりません。 そして、ボスに捕まったボンドとソリティアが裸にされて、船の横に張った網の上をいくわけですから傷ついて血がでます。  当然、臭いを嗅ぎつけて鮫がやってくる。そのままなら、全身食い荒らされて大怪我をするのだが、この船にボンドは爆薬を仕掛けている。 駆逐艦の機雷掃海艇、あれと同じに機雷に触れると、船が爆発する仕掛けです。 爆発が先か、鮫が先か、ボンドはそのタイミングを計るわけです。 原作通りにやれば、もっとラストの危機感も盛り上げられたと思うと残念でなりません。  全体として言えることは、主役がロジャー・ムーアに替わったことで、映画も今までみたいなスリルとアクションだけのボンド映画から、更に笑いの要素が入ったニュー・ボンド映画の誕生にはなっていると思います。  ただ、嘘でもいいから、もっと緊迫感が欲しかったと思います。オープニングの滑り出しは快調で、特にお葬式のシーンなど抜群に良かったのですが、どうも先細りになってしまって-----。 ともかく、新しい兵器がまるでなくて、結局は人間凧くらい。敵に見つからないように空から降りたというだけの話。 あとは磁石時計。だが、このアイディアは、確か前にも使っていたようだし-----。  いささかアイディアも枯れて、スケールも小ぶりになった感じで、我々観る側からすれば、どうしても今までのショーン・コネリーの、あの逞しい、男くさいイメージが固定しているから、甘いソフト型のロジャー・ムーアのほうがどうしても分が悪くなるのは致し方ないのかもしれません。 だから、余計、アイディアでもプロットでも、お色気でも、そのへんをカバーする強力な何かが欲しかったと思います。  ワニ圏での脱出も、面白いと言えば面白いのですが、イナバの白兎みたいな発想でどうかと思うし、ボートでの追っかけも、ああ延々と見せられては冗長すぎると思います。どうも演出にメリハリがないのです。  そして、悪が黒人という発想は、迫力はありましたが、その割には強大な感じがしないし、それから、あのタロット、カード占い。ソリティアは物凄い超能力を持った女性なのですが、もう少し面白く描けたのではないかと思えてなりません。  ポール・マッカートニーが作曲したテーマ曲が素晴らしかったので、そこを考慮して6点としておきます。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-03-19 00:18:36)
12.  探偵[スルース](1972) 《ネタバレ》 
ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「探偵〈スルース〉」は、あらゆる意味で"芸"を堪能する映画だと思います。  まず、アンソニー・シェーファーの原作の戯曲及び脚色が持つ、ストーリー展開の"芸"。 それから、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の熟練の演出が見せる、語り口の"芸"。 そして、最も重要なのは、二人の主人公を演じる名優ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインの演技の"芸"。  ローレンス・オリヴィエが扮するアンドリュー・ワイクは、ロンドン郊外の豪壮な邸宅に住み、推理小説の執筆をなりわいとしているが、作家といっても日本の流行作家などとはだいぶ感じが違います。 原稿の締め切りに追い立てられて必死になっているといったところは、全くなくて、それどころか、自分の優雅な生活のペースをたっぷり味わいながら、その間に悠々と執筆をしているような余裕が、何よりも印象的なのです。  このアンドリュー・ワイクが、イギリスの上流階級を絵で描いたような人物であるのに対して、マイケル・ケインが演じるマイロ・ティンドルは、これまた典型的なほどワイクとは対照的な人物なのです。 父はイタリア移民の時計職人で、その息子のマイロは美容師として成功し、現在では美容院の経営者になるまで出世したのです。  つまり、アンドリュー・ワイクはサラブレッドであり、マイロ・ティンドルはハイブリッドなのです。 しかも、血筋が違うだけではなく、育ちも違う。 こうした違いは、イギリスの社会では、日本人の我々が自分たちの社会の構造を当てはめてみて体験的に想像するよりも、遥かに厳しいもののような気がします。  この二つの役にローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインが配役されたのは、二人の俳優の個性をうまくつかんだ、絶妙の選択だったと思います。 これだけタイプがぴったりならば、あとは二人の演技の"芸"の対決をじっくり味わえばいいということになりますね。  それではこの二人、どちらが演技的にうまいか? あるいは少なくとも、この映画ではどちらが優れていたか? この二人は、1972年度のアカデミー賞の最優秀主演男優賞の候補になりましたが、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドが受賞し、惜しくも受賞を逃しています。 マーロン・ブランドという最強のライバルがいたことと、二人の間でアカデミー会員の票が分散されたため、受賞には至りませんでした。  キャリアと実力から言えば、どう見てもオリヴィエに歩があるのは明らかです。 オリヴィエの演技には、舞台のシェイクスピア劇で鍛えられ、最高のシェイクスピア役者と謳われた、円熟の妙味が豊かに脈うっています。 とりわけ、ちょっとした目の表情の変化などに、イギリスの上流階級だけが持っている"尊大さと傲慢さ"と、そして"冷たいずるさ"を感じさせるあたりが、オリヴィエの"芸"の見どころだと言えると思います。  この映画でのオリヴィエの演技は、歴史上の英雄だとか大人物だとかを正面切った芝居で見せるというものではなく、イギリスの上流階級の人種を絡め手の方から浮き彫りにして見せるといったものです。 そして、それだけに、小さな演技に見どころがあり、味があるのだと思います。 実際、オリヴィエは、この役を演じるにあたり、舞台的な演技ではなく、映画的なそういった細かい"芸"の工夫を、何か悠々と楽しんでやっているように感じられました。  これに対して、マイケル・ケインは、チャンピオンに立ち向かう挑戦者のように、全身全力を傾注して、老獪なローレンス・オリヴィエという名優に、健気にも対抗しているといった風情だなと感じました。 この映画は、かなり手の込んだ構成を持っていて、オリヴィエと堂々と互角の演技合戦を展開していたなと思います。  このマイロ・ティンドルは、立派な成功者なのですが、なぜかアンドリュー・ワイクと対等の立場に自分を置くことができません。 それは、イギリス社会が生んだ階級の格差のせいで、その格差がマイロの人格に影響を及ぼしてしまっているからなのですが、マイケル・ケインは、そういう劣等感をわざとらしくなく表現しきっているのが、実にいいなと思います。  この両者の"芸"のいずれに軍配が上がるのか?  私は、オリヴィエの余裕と貫禄、ケインの積極演技を引き分けと見ました。  それにしても、うまい役者のうまいお芝居を観るのが、こんなにも楽しいものだということを、再認識させられた映画でした。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2019-03-16 15:39:20)
13.  危険な関係(1988) 《ネタバレ》 
「危険な関係」に出演しているミシェル・ファイファーは、何とも言えない不思議な魅力を持った、面白い女優だと思います。 その彼女の魅力が十二分に発揮されたのが、この映画「危険な関係」だと思います。  この映画は、18世紀のラクロによって書かれた書簡体形式の小説が元になっており、このむせかえるようなエロティシズムの香りを放つ小説を映像化するのは並大抵のことではなかったと思います。  ~メルトゥイユ侯爵夫人は、自分から心が離れた愛人への腹いせのために、その愛人が恋慕している人妻を、これも自分の元愛人であるヴァルモン子爵を使って、その虜にさせようとする。ヴァルモンは、その意を受け、奸智をめぐらせて、この誘惑に乗り出すのだった~  メルトゥイユ侯爵夫人とヴァルモン子爵が企む誘惑の綾が、目に見えない関係の糸を結び、解き、切断する、狂おしいほどの小説世界を構築していると思います。 何でもこの小説は、発表当時は禁書とされたが密かに読み継がれ、18世紀のフランスを代表する作品になったと言われています。  しかし、この映画化された作品では、永遠のオスカー無冠女優である主演のグレン・クローズの見事さと相まって、ラクロの世界とはまたひと味違う肌触りをもつ世界を作り出すことに成功していると思います。  18世紀フランスの貴族の社交界の窒息するような優雅さとエロスの香りは、多少、犠牲にされていますが、性の悦楽を秘めた記号性と心理描写の綾は、このラクロの原作を見事に現代に蘇らせていると思います。  それは確かにグレン・クローズの快楽とサディズムがないまぜになった演技によるところが大きいのですが、ミシェル・ファイファーが発するアンビバレントな魅力にも寄っている点は見逃せないと思います。  あの輪郭がはっきりし過ぎている正面から見た顔。意志が強烈で、自我が強く、他者の介在を許さない顔。 ここには疑いもなく、現代の女性としてのストレートな強さが存在している。  しかし、横顔は、さながらギリシャ彫刻のように理性とエロスが融合し、その視線が観る者を目指さないだけに、遠くの世界の果てを指し示してくれるのです。 つまり、ミシェル・ファイファーの顏は、永遠のエロティシズムと現代性とが奇跡的に折り合いを見つけた顔なのだと思います。 その顔が、メルトゥイユ侯爵夫人の差し金とは知らず、ヴァルモン子爵に誘惑される人妻を演じているのです。  最初は誘惑を断り続けていますが、次第に傾き、ついにはそのヴァルモン伯爵の手に落ち、彼にのめりこみ、そして裏切られ、絶望し、最後に死に絶えるこの人妻は、18世紀においてはありふれた出来事だった、このような事件の中で、一方で、そのエロティシズムを失わず、他方、現代の男女の恋の綾までも表現してみせたのです。
[DVD(字幕)] 7点(2019-03-16 10:47:25)
14.  午後の曳航 《ネタバレ》 
三島由紀夫の小説「午後の曳航」の映画化作品を先に観てから、その後で原作の小説を読んでみました。 そのことにより、映画と原作の小説について、いろいろと面白いことに気がつきました。  ルイス・ジョン・カルリーノ監督の「午後の曳航」は、映画それ自体としての出来栄えは、かなり良い作品だと思いました。 英国のデヴォンの港をメインにした撮影がとても美しく、雄大な海や白い崖と緑の野、そして落ち着いた古風な港町。  そして、それらとは対照的な少年たちの反抗的な行動、満たされない未亡人の生活、彼女と一人息子の生活の中に、不意に飛び込んできた海の男によって惑乱された母と子の関係、そして最後には少年たちによって、憧れの人から普通の人になり下がった海の男は処刑される-----。  このストーリーは、一歩間違えば、ひと昔前の港町を舞台にしたメロドラマになりかねないのですが、それを救ったのが、ごく控え目な、激しさを抑制したルイス・ジョン・カルリーノ監督の演出と、美しい自然の悪魔祓いにも似た作用だったと思います。  そして、海の男の英雄ぶりの失墜に対する少年たちの断罪こそ、原作者・三島由紀夫の観念に実に忠実なのですが、映画の表現としては、カルリーノ監督独自の解釈が表われていたのではないかと思います。  カルリーノ監督が、三島文学の愛好者であり理解者であることは、映画の中のいたるところによく表われていましたが、映画作家としての彼は、三島に忠実である以上に自分自身に忠実であったからこそ、そういう結果を生んだのだと思います。  それから、私は三島由紀夫の原作を読んで、やはり三島文学の忠実な映画化は、もともと無理だったのだということをつくづく感じました。 少年たちの秘密結社の行動は、確かに三島の小説の核心をなしているとは思いますが、それを三島の非現実的な理想主義的観念論で押し通すことは、はなから映画では浮き上がる恐れがある以上、これは、過去の例で言えば、リンゼイ・アンダーソン監督の「もしも---」に似た感じになるのも当然だったのではないかと思います。  海の男の凡俗化、堕落を処罰するという完全主義は、三島文学の信奉者でないかぎり、観る人を納得させることは難しいのではないかと思います。 むしろ、嫉妬からだと見るほうが、わかりがいいように思います。  いずれにしろ、三島の原作は派手な言葉の洪水に満ちています。絢爛という言葉が、まさにふさわしい小説なのです。 映画では、これはバッサリ切らなければなりませんが、切っただけでは通俗的なロマンスものになってしまいます。 映画は映画で独自の工夫というものをしなければなりません。  この点、脚色もしているカルリーノ監督は、なかなか巧みにアレンジしていると思います。 言葉と同じ価値のものは、あっさりと捨て去り、彼はそこに視覚的な世界を繰り広げてみせたのです。  彼も、三島の凝りに凝ったディテール描写の魔術をよく理解していたに違いないし、それを映画でも尊重していますが、もともと映画はそれを時間をかけずに一挙に映し出す特性を持っている以上、時間をかける三島の筆致を映画で踏襲することは、初めから無理なのだと思います。  そのため、カルリーノ監督はそういうことよりも、かなり質は違っても、街の風景や港の光景、特に海の景観の描写に重きを置いたのだと思います。 したがって、ここには、刺戟の強い三島の描写とは別の静かな情感にあふれた光景が表われている。  これが、原作に忠実な映画化かどうかには疑念があるかも知れませんが、少なくとも原作に忠実な映画作家の、映画に忠実な映画化であることは確かであると思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2019-03-11 14:47:27)
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