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かっぱ堰さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 1246
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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【製作国 : エストニア 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  ノベンバー 《ネタバレ》 
昔のエストニアの農村を舞台にした映画で、原作者と脚本・監督がエストニア人、演者もほとんどエストニア人である。 登場人物がベートーベンの月光(1801年)を弾く場面があるので19世紀なのは間違いないが、これで本当に19世紀なのかと思わせるファンタジックな劇中世界ができている。「クラット」なるものや悪魔や魔女や狼女(犬女?)が普通にいて、毎年11月に死者が帰るのを迎え、また時々は疫病神が巡って来るといった俗習俗信が現実のものとして存在している。キリスト教はイエス様だけが現世利益の神様のように扱われていたが一神教としての存在感はなく、いまだに古来のオカルト的存在の跳梁跋扈を許していた。なお別に怖くはないのでホラーではない。  歴史的背景としては台詞にあったように、エストニアは13世紀の十字軍の侵攻によりドイツ人領主とキリスト教会に支配され、さらに17世紀までにスウェーデン、18世紀にはロシアの支配が及んだが、在地領主のバルト・ドイツ人と領民のエストニア人の関係はそのままだった。この映画は帝政ロシアの時代のはずだが、それを思わせるのは一瞬見えた硬貨だけのようで、出るのは基本的にエストニア人とドイツ人である。 この映画で変だったのは、支配者のはずの領主と教会が領民に侮られ貶められて財物を奪われる存在だったことである。これは当時の社会変化の反映かも知れないが誇張されているようでもあり、倒錯的なこと自体がダークファンタジーのようでもある。領民が「クラット」を下僕にして使い倒して不要になると捨てていたのは、単に下には下がいるということか、あるいはこれが本来の領主と領民の関係だったと思えばいいのか。悪魔に魂を売らなければ他者を支配できないという皮肉だったとか?  ドラマ部分は恋愛物語のようだったが、登場人物が信用できない奴ばかりで全く共感できない。ただもしかすると、住民同士や領主や教会からも盗み奪い、悪魔や疫病神まで騙す悪と欺瞞だらけの世界の中で、若い者の恋心だけが真実だという真面目な純愛モノだったのか?? 雪だるまは恋の成就より、美しい恋愛の形が見られれば満足だったようでもある。結果として、面白くないことはないが心情的には乗り切れない映画だった。 その他雑記として、村人総出でやっていた作業は焼畑農業のようで、これは領主の課す賦役だったと思われる。また隣接地域に住むラトビア人を貶める発言があったが、こういうことを互いに言い合っていたのか。
[インターネット(字幕)] 5点(2023-12-30 16:45:52)
2.  コンパートメントNo.6 《ネタバレ》 
寝台列車でモスクワからムルマンスクへ行く映画で、列車内外の冬の風景やムルマンスクの都市景観らしいものも見える。映画評では「世界の見方が変わるような映画」と言われていたが個人的には何も変わらなかった。 原作付きの映画だそうだが、短縮のためか説明不足になっている気がする。主人公には特に共感できないので同室の男に関していえば、最初は粗野なだけに見えて実はけっこう愛嬌のある奴だったが、精神年齢的にはガキのようでもある。これはここの国民がこれで普通というよりも、この男個人として人格形成の過程に特殊事情があったのではと思わせる。しかし男の出自をはっきり示すものはなかったようで、ペトロザヴォーツクのガガーリンは何だったのか、住所交換を嫌うのはなぜかといったことが不明点として残る。 ただ少なくとも食堂車から戻ってからの主人公は男にとっての母親のようで、その後の行動はいわば愛する母への献身なのかと思った。いわば不良少年と母親の関係とすれば男女のラブストーリーではなかったことになる。男が言った「みんな死ねばいい」は絶望の表現だろうが(ガキっぽいが)、その心は主人公も共有できていたかも知れない。ラストで車内に陽がさして来たのは悪くなかった。 点数は普通につければ無難に5点くらいだろうが、製作国4つの中に個人的に嫌悪する国が入っているので採点放棄で0点とする。映画に罪はないだろうが感情問題ということで。 ついでに書くと自己紹介で名前を言われたのにアロハと答える奴の無神経さを憎む。隣国であるのにЛёхаが人名ということも知らないのか。
[インターネット(字幕)] 0点(2023-12-30 16:45:47)
3.  ゼロポイント 《ネタバレ》 
高校生(男)を主人公にした若者向けの物語で、同名の原作小説がある。劇中高校は仮名だろうが原作者の母校がモデルのようで(Gustav Adolfi Gümnaasium)、原作者の実体験を反映しているらしいが、本人は映画公開後の2017年に32歳で死去したというのが悼まれる。 映像的にはわりと現代的であか抜けた感じで、登場人物の心理を明暗で表していたのはわかりやすい。題名は高層住宅の窓から身を乗り出した時点のことだと思えばいいか。  主人公はもともと家庭に問題があったのに加え、転入した学校では同級生に迫害され、さらに学校外でも踏んだり蹴ったりの目に遭わされるので、見ている方も嫌になって途中でやめたくなる。それでも我慢して見ていると、終盤に至って事態が次々好転していくのは都合良すぎだったが、そこにこの映画のメッセージが詰まっていたらしい。 まずは言うべきことを言って自分の意思を示すとともに、周囲に理解者を作ることが重要になる。一方で攻撃に対しては適切な反撃が必須であって、暴力に対しては実力行使で、悪意ある虚言には公明正大な反論で対抗するが、陰湿な相手には悪をもって悪を制する手もある。さらに違法なことには法的な対処もありうるるわけで、そのようにして自分の立場を確保することで、自分で自分を支える自信が持てるということだと思われる。 当初は学校内のいじめがテーマかと思ったが、最終的には今後の人生を賢く生きるにはどうするか、主に若年層向けの処世訓を語る映画のようになっていた。極めて真面目な映画で結構だったが、ただし最後の一言は言い過ぎかと思った。あるべき姿を示すというよりは、自分ならどうするかを考えるきっかけにするための映画かも知れない。 ほか「エリート学校」の実態(卒業生含む)などこんなものなので信用するな、という皮肉もあったように見える。また終盤で差別的な発言(恐らく現地感覚で最高度の)があったのは必然性が不明だったが、世界に蔓延するポリコレに対抗しようとする反骨精神の表れかと思ったりした。  登場人物に関しては、主人公が走ることで精神状態の更新を図っていたようなのはいい習慣かも知れない。また主人公の仇敵(嫌な顔だ)が、多数派工作で主人公を孤立させ攻撃を集中させようとした卑劣な行動は嫌悪するしかない(よくあることだが)。 ほかどうでもいいことだが、スウェーデン語のjagのgは発音しないことを思い知らされた。また字幕に関して、舞台になったエストニアの首都Tallinnは「タリン」と書くのが普通だろうが、字幕ではそのほか「タルリン」「タリーン」などと書いて一定しないのは間抜けな印象だった。翻訳ソフトにでもやらせたのか。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-02-27 11:05:10)
4.  みかんの丘 《ネタバレ》 
製作国はエストニアとグルジア(今でいうジョージア)とのことである。エストニア人の登場人物はエストニアの役者が演じており、エストニア人同士ではエストニア語だったらしいが、他の民族と話すときは、いわば広域の共通語としてロシア語を使っていたように聞こえた。  この周辺については馴染みがないので、劇中の紛争に関しても、例えばグルジア対ロシアの関係と、アブハジア対グルジアの関係は相似形ではないのかといったことはよくわからない。しかしこの映画の立場として、要はロシアが背後で煽ったから紛争が起きたのだという前提なら、とりあえずロシアを悪者にすればいいのでアブハジアは敵扱いしなくて済む。登場人物としてアブハジア人も出て来ていたが、危険人物のようで実は何気に話の通じる地元民らしかった。一方でロシアに対しても、あからさまに名指しで反感を煽る形には見えなかったので、基本は融和的な姿勢の映画だったらしい。 それにしてもいまだに紛争が解決しない状況で、グルジア政府も支援してこういう映画ができたということは、グルジアとしてアブハジアを奪還する意志はもうないということなのか。紛争の頃には金がなくて映画も作れなかったそうだが、この映画は今やEU加盟国(NATOも)になったエストニアと共同で、欧州評議会の文化支援基金の支援なども受けて作られており、ロシアなどはさておいて、今後はそういう方面との関係を当てにしていける情勢なのかも知れない。 以上に関して、別に現地情勢に詳しくはないのでこの映画から勝手に思っただけである。  映画自体のテーマとしては、国家や民族に関わりなく人間同士はわかりあえる、ということだろうが、基本的に素直でストレートな作りのため、あらかじめ思っていたことを再確認して終わりという印象だった。新しい発見があるかどうかという面からすれば、今までこういうことを考えたこともない素朴な人々(登場人物の若者のような)向けに、西欧感覚で教え諭す啓蒙映画のようでもある(または西側への勧誘映画とか)。ちなみに歴史教育の害悪などは嫌になるほど思い知らされている。 なお主人公が現地を離れないでいた理由ははっきり言わなかったが、「自分たちの土地を守る」と言った息子のために、その土地に縛られてしまった状態だったのか。誰かが埋まった場所からはもう離れられないという感覚が、当事者にはあるのかも知れないがよくわからなかった。ほか「全部作り物だ」という台詞は一般的な戦争映画への皮肉だったかも知れない。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-02-13 08:58:07)
5.  17 SEVENTEEN 《ネタバレ》 
家庭環境に恵まれない素行不良の高校生が、覚醒剤の販売に関わってしまって後戻りできなくなり、それが転落の第一歩になったという話である。英題とエストニア語の原題は同じ意味で、主人公の回想による物語であることを示している。原作小説の題名は”Mina olin siin. Esimene arrest”だったようだが、後半の部分は「最初の逮捕」という意味なので、主人公の先行きが暗いことも示唆されている。薬物以外の犯罪描写もあり、犯罪体験記というか犯罪指南のように見えるところがある。 ちなみに2001年(多分)に、エストニアで麻薬が蔓延して大人だけでなく少年少女にも被害が及んでいるという内容のNHKの番組を見たことがある(故・後藤健二氏の取材によるもの)。それはエストニアに多く居住するロシア人の話だったが、この映画の登場人物はエストニア人だけらしい。  この映画で問題だと思うのは、観客に何を感じてもらいたいのか全くわからないことである。主人公が高校生に見えない(役者は当時27歳くらい)のはいいとしても、観客が共感を寄せたくなる人物像ではなく、また医者志望とのことだが頭がよさそうでもなく、できもしないことを勝手に妄想しているガキのように見えるので、その後の転落人生に心が痛むこともない。 また社会的な面では薬物の乱用や犯罪組織の存在、家族の性的虐待といった未成年を取りまく有害な環境を告発しているとも取れるが、しかしその手のことは他の先進諸国でも当然あるだろうし、程度の差はあれ日本でもあると思われる。自国内向けならともかく外国人にとっては今さらという感じで、ここでもそうなのかと聞き置く程度のものでしかない。 そもそもエストニアが他の欧州諸国と比べて社会問題が深刻だというようなことがあるのかどうか不明だが、もしかするとその辺で目につく悪事を殊更にあげつらってこれが世間のリアルだと騒ぎ立てる中二病的露悪趣味の映画なのか。または、みんな幸せに暮らしていると思っているエストニアでも、こういうinvisible peopleが存在すると告発して国際社会の歓心を買おうとしているのか。 何にせよ自分にとっては受け取れるものが乏しい映画だったが、しかし原作あっての映画なので、映画だけでは読み取りにくい部分があるのかも知れない。事情のわからない外国人がどうこういうのも何なので、現地の人々がどう思ったのか知りたいとは思った(ネット上で少し探したがエストニア語のGoogle翻訳がわかりにくい)。
[DVD(字幕)] 3点(2019-04-27 10:23:54)
6.  こころに剣士を 《ネタバレ》 
戦後にエストニアでフェンシングの指導をした人物の伝記物語のようなもので、年代は終盤の大会の時点で1953/2/25とされている。 フィンランドとエストニアの合作とのことで、監督はフィンランド人だが出演者は基本的にエストニア人らしい。言葉も基本的にはエストニア語で、ロシア人と話すときはロシア語だったように聞こえる。ちなみに言葉が何か聞き取れないかと頑張って聞いていたが、かろうじて“isa”というのがわかった程度だった(フィンランド語が話せればもっとわかるはずだが)。撮影は劇中のハープサルのほか基本的にエストニア国内だったらしい。  映画としては時間が短くシンプルでストレートなお話になっている。特に終盤はかなり都合のいい展開だが、実在の人物の業績を極端に圧縮するとこうなると思うしかない。物語の表現としてもわりと淡々とした感じで、かえって景観映像の方が雄弁に見えるところもあった。 印象的な場面としては、劇中の女性教員がいわば母親の立場だとすると(長い台詞を一気に吐き出していた)主人公がいわば父親の立場として、子どもらにしっかり伝えるべきものがあるという決意を見せたところだった。またラストの駅の場面では、主人公と女性教員を中心とした大きな家族ができていたように見えて和む。 登場人物では主人公の風貌やたたずまいが好印象だった。また補欠の少女の面構えが非常に良好で、基本的に我の強い頑固者のようでいながらいざとなると怖気づいていたのが可笑しい。これが極端に都合のいい展開の中でのささやかな波乱要因になっていた。  ほか余談になるが、屋台で物売りしていたおばちゃんのような人物はなぜかロシア語だったようで、庶民レベルでロシアの影響が浸透していたことの反映かと思われる(現在もロシア人はエストニアに多く住んでいる)。 また主人公の学校が「第2中学」だったのに対してレニングラードが「第148中学」、モスクワが「第117中学」だったのは圧倒的な人口規模の差を示していたようである。最後にうなだれていた少年には悪いが、小国エストニアの小都市ハープサルの弱小チームが大モスクワを下したのは正直痛快だった。ちなみに会場で用具を貸してくれたのは、エストニアとは別の連邦構成共和国であるアルメニアの代表だったようで、ハープサルの勝利を一緒に喜んでくれていた。
[DVD(字幕)] 6点(2018-05-12 10:56:05)
7.  バルト大攻防戦 《ネタバレ》 
宣伝によれば「エストニア独立の闘いを描いたベストセラー小説を完全迫力映像化」だそうだが、できた映画が1時間半しかないというのは大胆に省略しているのかと思われる。その割に、原作になかった部分を大衆映画向けに大きく加えてあるとの噂もあるが、しかし例えば主人公の兄の背景事情くらいは推察できるようにしてもらわないと、原作を知らない人間には不親切に見える。  基本的にこの映画のいいたいことは(勝手に決めつけてしまって何だが)、第一次大戦後には義勇兵が頑張ったおかげで独立が得られたが、第二次大戦ではそんな気概もないままソビエト連邦に併合されてしまい、かつての義勇兵の犠牲が無駄になったので、今後はそういうことがあってはならない(フィンランドを見習え)ということと思われる。ちなみに日本でいう反戦映画では全くない。 義勇兵といっても高校生であるからガキでヘタレなところを見せつけてくれるが、主人公に関していえば、一目ぼれの彼女(清い関係)を守るために初めて本気で戦う決心がついたということらしい。それだけなら単なる個人的事情でしかないわけだが、実際はそういう類のことが無数に起きるので、これを総体として防ぐのが義勇兵(エストニアの民衆)の戦いだ、という本質論を語っていたのかも知れない。 しかし、とにかくこの恋物語の付け足し感が非常に大きく、青春ラブストーリーとしても話が飛びすぎで都合も良すぎで、これで真面目に見る気がかなり失われた。その後の戦闘にしても緊迫感がなく、登場人物が物語の都合で順次死んでいくだけで心が痛いと思うこともない。個人的にエストニアの悪口はいいたくないが、いい映画かどうかとは別問題というしかない。 ちなみに外国人としてわかりにくかったのは、主な敵としてラトビア人の赤軍部隊が出る理由(単に実態がそうだったから?)と、白服の兵隊はフィンランド人だったのか??ということである。領主館にいた東洋人(吹替えでは中国人)は何だったのかも気になる。  なお邦題は実態を全く表していないが、こうでもしなければ邦訳付きのDVDが見られないのだろうから仕方ない。英題の“大理石の名前”というのも意味不明だが、エストニア語とフィンランド語の題名には大理石とともに“黒板”を表す言葉が含まれているので、要はラストで黒板に書かれていた名前のことだと思っておく。それ以上の深い意味があるかはわからない。
[DVD(字幕)] 3点(2018-05-12 10:56:02)
8.  1944 独ソ・エストニア戦線 《ネタバレ》 
第二次大戦中のエストニアに関する映画である。 エストニアは1939年の独ソ不可侵条約と密約に基づいて1940年にソビエト連邦に併合され、ソビエト体制に不適格とみなされた多くの人々が殺害あるいは収容所送りになった。1941年の独ソ戦の開始後、今度はドイツ軍がエストニアを占領したが、戦況の悪化に伴い(連合国がソ連を支援したこともあり)、1944年にドイツ軍は撤退してソビエト軍が再度エストニアを制圧した。 この映画はその最終段階に関わるもので、ロシアとの国境にあるナルヴァ市近郊での戦闘(1944年7月)から、サーレマー島南部ソルベ半島での最後の戦闘(11月)までを扱った上で後日談を加えている。ちなみに前半の主人公が冗談で言及していたカール12世とは、1700年にナルヴァの戦いでロシアのピョートル1世の軍勢を撃退したスウェーデン王の名前である。  この時期の現地状況についてはよく知らないが、1940年にソビエト軍が現地を占領した際、当時のエストニア国軍が抵抗しなかったのは事実らしく、これに関する悔恨と取れるところが劇中にもあった。それで国軍は解体されたのだろうが、その後は現地で編成されたナチス親衛隊に志願したりソビエト軍に編入されたりして、同じ国民が敵味方に分かれて戦う事態になったことがこの映画で描かれている。戦争が終われば元の暮らしに戻れるとみな思っていたらしいのが気の毒で、そのほか細かいエピソードで描かれた人々の思いも切ない。 また微妙なことだが、劇中ではナチス親衛隊よりソビエト体制の方がはるかに過酷で非人間的に見える。もともと現地では何百年もドイツ人が根付いて来た事情があってのことかも知れないが、もしかすると当時の一般人(ユダヤ人を除く)にとってもドイツの支配の方が寛容だったという感覚が残っていて、それがこの映画にも反映されているのではないかという気がした…そう思うのは、同時期のラトビアについて書かれた本で同様の印象を受けたことがあったからである。 これに関する国民感情として、映画を見る限りは「罪なき人が罪を感じ、罪深い人は感じない」という思いがその後も尾を引いていたのかと思わせるものがある。劇中でも罪なき人への赦しの言葉が出ていたが、戦後70年を機に、そうした思いを受け止めた上で一定の収まりをつけようとしたようにも思われる映画だった。恐らくはソビエト側に協力した人々への感情整理の意味が大きいのだろうと想像するが、シベリア出身でロシア語を話す人物の存在をどう取ればいいのかはわからなかった。まだ読込み不足のところが多いと思われる。 ほか戦争映画としての的確な評価はできないが、少なくとも一兵卒の視点からの迫力は感じられた。当初から出ていたソビエト戦車はT34のようである(T34-85?)。また洋上から艦砲射撃していたのはドイツ装甲艦アドミラル・シェーアか重巡洋艦プリンツ・オイゲンだったらしい(恐らく後者)。
[DVD(字幕)] 8点(2016-08-05 00:55:45)(良:1票)
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