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自己紹介 [2010年8月23日]
か…かわも…

(゚Д゚;)ノ

…映画界は今日終わった…。


[2017年7月16日]
猛暑の夜、amazonで映画ではなく『幼女戦記』を寝ないで通し鑑賞。
大局的な戦略から入って行くという、かつてない架空戦記アニメでありながら、その悪夢性を出し切った感がすごかった。
最終話はテーマ的にポエニ戦争から対テロ戦争まで、膨大な戦争のイメージを深く広く全面爆撃して吹っ切れる展開に。
スピルバーグの『宇宙戦争』はバクテリアに仮託してその地獄自体を救いと説いたわけだけど、このアニメはそんな所まで引いて俯瞰する気がサラサラないってのがスゴイです。

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1.  キング・コング(2005)
まず最初に警告! この映画、絶対家族連れで観に行ってはいけません! 3時間もある超大作ですよ、子供の膀胱が持ちませんて(実際、そういう光景が多々ありました)。かくいうオイラも、舞台がNYに戻る後半戦では漏れそうな膀胱との戦いでした。大抵はドルビーマークが出るあたりまでエンドクレジットに付き合うオイラが、お約束の台詞「いや、美女が野獣を殺したんだ」が出たとたんに席を立ってましたわ(笑)。…余談はさておき。以前からジャック・ブラックの演じるデナムに不安があったんですが、見事的中しちゃってるー。元版のデナムの、あの強烈なマシンガントークが出ないと『キング・コング』って感じがしないんですよね。勢いに巻かれて、船に乗った全員が怪しい島に連れて行かれるという、あの人的迫力に圧倒されるシチュエーションが欲しかったんだよオイラは~(そうすっと30分以上は縮められたと思うし)。でも、他の人物はすごかったです。総じて人物描写が練り込まれ過ぎていて、オリジナルを知ってる観客には掘り下げ方がたまらないです。人物以外にも、元版ではインチキ感丸出しだった原住民の踊りがNYで再現されてるあたり、クーパー監督とオリジナル版の揶揄にもなってますね(ちなみに最初の代役探しのシーン、「フェイ・レイはRKOの映画に出演中です」「クーパー監督の?」の台詞で爆笑したの館内でオイラだけ…寂しかった…)。「オリジナル版っても所詮は見世物映画よ」なんて思ってるオイラとしては、ここまで掘り下げて描写してくれるのが嬉しいし、感動でもあります…オープニングに流れる曲の歌詞で、いやおうなく監督のコング映画への愛がわかってしまいますな。一瞬ではあるけれど、コングは世界のてっぺんに立つんですよね…。コングとアンの二者の愛情が、様々なシチュエーションを重ねるうち、徐々に深まっていくのも見事。「野獣と餌」から「王と道化」へ、そして対等の関係へ、それ以上の悲しい絆へ。アンを被弾させまいとして自分を盾にし、エンパイアステートビルの展望台をグルグルと回り続けるシーンでは涙が止まりませんでした。あれは、それまでの丁寧な描写が焦点を結んでオリジナルを超えた、素晴らしい瞬間だったかもしれない。映画そのものより、オリジナルへの溢れる愛/コングへの深い理解が素晴らしかった。そこにヤラレてしまったのかな。多少の不満は目を瞑り、9点で行きます。
[映画館(字幕)] 9点(2005-12-20 17:26:15)(良:5票)
2.  羊たちの沈黙
ここのジョナサン・デミ作品評をつらつら眺めていて気がついた。『羊たちの沈黙』以外はえらく評価が低い…この人、名監督だと思っていたけど違うようだ。そう思ったら、本作の評価がどうして高いのかわかってきた。 この映画の価値は「レクター博士」の発明にある。ほぼ全て檻の中で演技しなければならないレクター役は、俳優にとって厳しい試練だ。アメリカ式のメソッド演技では、何カットもこなす前に早晩限界が来るだろう。レクターはアクターズ・スタジオ風の「なりきり演技」では突破できない矛盾だらけの難物だからだ。そこでやってきたのがアンソニー・ホプキンス。シェイクスピアのたっぷり染み込んだ舞台俳優だ。彼はほぼ立ったままで、表情も変えず、人物を象徴する装飾品もなく、長い長い科白だけで演技した。この爺さんはアメリカ演劇を無礼なまでに無視して、シェイクスピアを持ち込んだのだ…多分これはデミ監督の発案じゃないだろう。ロジャー・コーマン門下生の彼に、こんな大胆な発想ができるわけがない。この映画の特色は「ハリウッド演技の否定」から始まったと言って過言じゃない。 レクターの演技を生かすにはカウンター側のサポートも必要だ。しかもレクターは作中ほとんど主人公クラリスとしか話さない。こちらもシェイクスピアで行くべきか? だが、キャスティングされたジョデイ・フォスターはホプキンスに、張り裂けんばかりの大声で「NO!」を叩きつける。彼女の演技は教科書的なメソッド演技だと思うが、素性は天才子役だ。中学時代にデ・ニーロやカイテルと対等に渡り合った怪物サラブレッドで、知能指数もめっちゃ高く、素の人間としてはコッチの方がよっぽどレクターだ。そんな彼女は、シェイクスピア劇風のセリフの抑揚ではなく目の演技で対抗する。ほとんど表情のみで、強気の中に潜む「弱い少女」を浮かび上がらせる。これこそサラブレッドならではの、神域メソッド演技だ。彼女はこの役を演じる事が、必然的に「イギリス演劇界VSハリウッド映画界」の構図になってしまう事を理解していただろうか? オイラはそうだったと思いたい。 長い歴史、多くの作品によって培われてきた2つの演技方法のガチンコ対決。これが本作の魅力の根底になっていると考えていい。もちろん勝者はない。オイラには、対決をフィルムに収めたデミ監督が不当にも《漁夫の利》を得たような気がしてならないんだ…。
[ビデオ(字幕)] 7点(2006-05-03 17:25:05)(良:5票)
3.  アンドリューNDR114 《ネタバレ》 
なんか違う。 映画そのものも明らかに違うんだけど、ここのレビューを見てても論点がピンと来ない。これって、考えながら読む「小説」と、目の前の映像をひたすら受け入れなければならない「映画」との決定的な差なのかもしれない。ここでは(他のレビュアーの方々の目の向け先が変わってくれる事を祈りつつ)原作を元に後半の展開を再整理してみます。 表面上は恋愛が主軸になる後半部ですが、本来強調されるべき面はアンドリューの「人類への奉仕」です。ただ一体で医学と工学の限界に挑み、人間の寿命を倍にまで伸ばしてしまった彼の行動は、「人間になりたい」というピノキオ願望に端を発しているワケです。ワケですが結果的には人類社会へ貢献し、人造物としてはおよそスーパークラスの奉仕をしている。恋愛的な側面は原作にはないのです。最終段階の彼は、世界最強の実業家であり、およそ望んで手に入らないモノはなく、不老不死で、多くの人から尊敬され、人格者でさえある(映画ではけっこう省略されてますが)。それでも彼は言わざるを得ない。真摯に、ジェントルに、だが不退転の態度で「私を人間にして下さい」と…。 結局この物語って地球規模の『アンクル・トムの小屋』なワケですが、アンドリューというキャラが、人類を凌駕する巨大な存在にまで成長し、成熟する所がミソなんですね。どれだけ富や知識や人徳や寿命を持っていても手に入れる事ができない、とてもとてもとても大事なものが、人間ひとりひとりの中に存在している。生まれながら人間である事はそれだけ重要なんだってコトですな。 アメリカ流に言えば、それが市民権というコトです。 アメリカ建国200年に際して発表されたこの物語は、もちろん愛の物語なんかではなく、黒人が奴隷から市民になるまでの歴史を綴ったアシモフのロボット物の集大成なのです。  ラストでガラテアがポーシャの生命維持装置を切るシーンは原作にはないのですが、素晴らしかった。ロボット3原則に違反しているのを明白に理解している。彼女の犯した間違いが、あのシーンの中では間違いと言い切れない深さを持って響いてきます。なぜならそこに、アンドリューの萌芽が見えるから…。 あの終幕を入れたいがために余計なキャラやエピソードを突っ込んだのだとすれば、罪は深いがそれなりに意義はあったのかも。今は減点せざるを得ないですが、いずれ10点にまで届くかもしれません。
[DVD(字幕)] 6点(2006-03-21 17:32:09)(良:4票)
4.  死霊の盆踊り
いちど、0点というものをつけてみたかったのれす。でも公開当時、目の色を変えてビデオ屋に走ったオイラも0点なのかもしれない…。
0点(2004-02-29 05:20:32)(笑:4票)
5.  CASSHERN
最高である。よって10点。これほど真摯なバカ映画がこれまであったろうか。これほどアングラな大作映画がほかにあるだろうか。これほどファン層をコケにした確信犯がいるだろうか。「もー世の中やってらんねーよ俺たち今こんぐらいぶっ壊れてんのよ」的、2004年時点の日本人の心の病巣を心地よく抉った勇気に、その止まる事を知らないパッションに、傍若無人な態度に乾杯だ。キャシャーンの実写化の演出に、誰が新劇×太宰治で行こうなんて考える? しかもシャレんならんほどガッポリ予算かけて? セットは『未来世紀ブラジル』のリスペクトで? 「ブライキング・ボスは唐沢寿明で行こう」なんて言ったのはどこのどいつだ? このスタッフは世紀のバカヤロウどもだよ。ここまで徹底してバカなら最高だよ。本作は、日本映画界に久々に咲いた大輪のあだ花だと思いますですだ。こんなのがあるから、低評価作品のチェックは手が抜けないのだ。
[DVD(字幕)] 10点(2005-09-08 09:37:22)(笑:2票) (良:2票)
6.  マーズ・アタック! 《ネタバレ》 
わあぉう! しまったあアァァー! こんな素ッ晴らしい馬ァ鹿映画を今まで見ないでいただなんてーッ! …って、ティム・バートンは私的にハズレが多いんで、避けてたのは事実ですけどね。トム・ジョーンズが本人役でストーリーに割り込んできた時にはもう、あまりのくだらなさにひっくり返っちゃったっすよ。あれだけ超豪華キャストで固めておいて、有名芸能人役がトム・ジョーンズだけなんかい~っ! 日本で言えばアレよ、高倉健&宇津井健の主演映画で根津甚八や緒方拳や役所広司も出てる中、尾藤イサオがただひとり有名人役でスターしてるって感じっすよ。火星人もお茶目さんでしたが、終盤で彼らを撃退してるシーンの脱力感がまた心地いいんだわぁ…。ぽわ~ん。脱力感満点のシリィムーヴィーッ。●追記:アネット・ベニングが断酒会でスピーチしてるシーンに脱力。『2999年異性への旅』のあのシーンはコレが元ネタかあ。●追記2:あれから3回繰り返して見ました。ラスト、議事堂の廃墟に立ってのリッチーの演説「I was thinking, maybe instead of houses we could live in tepees. Because it's better in many ways.(ボク思うんだけど、先住民の家に住むのもいいんじゃないかな、いい点が多いから)」…つまり、この映画のテーマは「アメリカ先住民に対してやってきたコト」を強烈に意識したもので、アメリカ史を逆視点で再現してたワケっすね。マジョリティとマイノリティの逆転。B級バカ映画のフリしながら、実はH.G.ウェルズの志を継ぐ正統的な『宇宙戦争』テーマです。さてさて、ティムならぬトム・クルーズはここまで迫れるか…?●2007/8/18、『火星人メルカーノ』を観る。こっちの点は下げざるを得まい。バートン、アンタの映画はメルカーノ度が足りない。
[DVD(字幕)] 9点(2005-06-11 00:41:00)(笑:1票) (良:3票)
7.  ブラックブック
さーて正式レビュー行きまっかー!  この映画、ホントに不思議な造りだよねえ。 (冒頭と最後に置かれた戦後シーンを除くと)いきなり途中から始まって、中間をすっとばし、「その後」をカットして進んでいる。主人公が平和に過ごしていた時期は、観客が違和感を持とうがどうだろうが「5ヵ月後」などのテロップひとつでジャンプしやがる。「平和」が全て削除されているじゃんよ(ついでに言えばバーホーベン映画だってのにベッドシーンもない!)。人物・伏線的には緻密な物語構成だけど、この「間隙」は相当クセモノだと思う。 本作はラヘル・シュタインという一人のユダヤ人の回想形式を取る。回想形式なのに「幸せ」がカットされているのはどういう事か。そこで何となく、一人称映画独特の「主観が物語までもねじ曲げる」という大トリックが仕掛けられている…てなコトに気付くのだ。 確かにラヘル・シュタインは、ナチス統治下で地獄のような目に遭った。だが多少とも幸福な時期はあったし、安全な時期もあった。彼女はそれを思い出せないのに相違ない。転じて、それが現代のイスラエルの駆動原理であり、もっと言えば旧約聖書で展開される出エジプト記の原理にもなっている(そこで聖書のエピソードがまた大量の間隙で構成されている事に留意すべきかもな)。 劇場で2回観たんだけど、この、怪しい奴だらけの人情迷路で、端役のクセに超重要である人間が2人ほどいた。全体構成を理解して、各キャラの腹の中を想像しつつ観ないと、その人物は浮かび上がって来ないので、最低2回は観る必要がある(断言)。 その人物たちが本作では端役になっちゃってるのは、主人公の心がそれを認めたくないから、だろう。彼女は戦争の被害者であって、あの戦争で、彼女と同じ虐げられた側にいながら彼女より幸福に生きた奴らがいるなんて、認めたくないわけだ。  物語の始まりが削除されているように、本作では物語の終りも削除されている(処理し残した伏線から考え、オイラはそう見ている)。 この嫌らしいトリックを、バーホーベン監督はわざとやっているはずだ。 なぜなら、現実のイスラエルの物語はまだ終っていないんだから。
[映画館(字幕)] 9点(2007-04-07 14:04:30)(良:4票)
8.  ミツバチのささやき 《ネタバレ》 
この映画最大の悪者は誰かって? そりゃもう、内戦で疲れ果てた時期の敬虔なカトリックの村に『フランケンシュタイン』なんか持ち込んだバカ興行師だよ。おかげでアナが、人間の闇ばかりを見つめるようになっちまったじゃねーか。心の闇(死への憧憬)、社会の闇(パルチザンへの憧憬)、自然の闇(毒キノコへの憧憬)。アナにとっては全部「フランケンシュタインのモンスター」って意味で同じモノなんだな。そしてそれが渾然一体となって現れる、深夜の森でのモンスターとの交流。弱い少女だったはずのアナが、実は(パルチザン兵士を死に追いやった時点で)マリーを川へ投げ込んだモンスターと同じだったと気付く時の衝撃。「無垢な心に悪は芽生えるか?」というカトリック的なテーマに、ここまで美しく、とことんネガティブな回答を出した芸術もないだろう(キリスト教圏では)。そう。悪は芽生えてしまったのだ。そして観客の誰もが無邪気だった子供時代を振り返り、いつの間にか行動の善悪をコントロールできるようになった自分に気付くわけだ。善悪を知る。それが大人になると言う事の、宗教的な意味なんだろう。映画は、アナが成長する前で終わっている。ラストショットの、重すぎる悪をダイレクトに受け止めてしまった少女の、壊れた姿は、大人たちの姿とは一線を画している。内戦で大量に垂れ流された「悪」で疲れきった大人たち。彼らに囲まれて、無垢な瞳をした次世代の悪が育っていく。そういう意味で、極めて反フランコ・反宗教色の強い終わり方だ。アナ・トレントの魅力を除外して、宗教的タブーや内戦経験の少ない日本でどこまで受けるものか…?(追記:それでも神様は許してくれる、ってのがカトリックの奥深さのような、アバウトさのような…西洋に犯罪映画の多いワケがちょっとわかったりして)
7点(2004-05-16 06:30:14)(良:4票)
9.  ルパン三世 カリオストロの城
人生の長きに渡って、その価値を全く見出す瞬間のなかった映画がある。『ブレードランナー』『マトリックス』がそうだったし、邦画ではこの作品がそれだ。三世よ、爺さんのリスペクトはカッコ悪いからやめとけ。宮崎、あんたはトトロやるまでポール・グリモーとフライシャーのリスペクトばっかだったな。だからあんたの作品は見なくなったし、多分、もう一生見ない。リスペクトの観せ方はモンキー・パンチの原作の方が大人だったし、宮崎監督が前半生でやってきた事より、ずっと大胆な踏み込みをしていた。あんたは自分のコントロールできなかった何かを、コントロールできないというそれだけの理由で殺してしまった。この作品以後、オリジナルのルパン三世は壊れて、跡形もなく消え去ったね…見事な巨大ヒットブランドにはなったがな。観客としてそれを許すほどの度量は、年食って少しは丸くなった今でも、ないだろう。だから、自分の中の宮崎駿は未来少年コナンで停止したままだ。悪いと責める気はないが、やはり0点は0点だ。
0点(2004-07-19 06:43:32)(良:4票)
10.  グレンとグレンダ
4週間、ビデオショップをひたすら回って、とうとうエド・ウッド・コレクションBOX買ってきましたよっ(←バカ)。しかしまいったなこりゃ…メチャメチャ面白いやんこれ。金がない上にテクニックもない上に内容もないんだけど、巷で「唐突なトンデモ映像」と言われてるシーンは演劇的にはアリですよ。ベラ・ルゴシなんかちゃんと異化効果の役割果たしてるし(あちこちで神様だの精霊だの言われてるけど、彼の役どころは科学と科学者の象徴・抽象表現ですね)。映画じゃなく舞台の骨法で組み立てられてますね。この時期のエド・ウッドは、映画人である前に演劇青年だったんだろうな。本作の後、彼がどうして盆踊りするまで落ちぶれてしまうのかは、『怪物の花嫁』を観てから考えてみようっと。とりあえずこの映画については「凡作」を満喫できたので、この点数で。 (追記:モノローグの多さや唐突さ・安っぽさはキューブリックの処女作を思わせました。格は全然違うけどね…間違った方向じゃないと思うなあ)
6点(2004-04-18 23:42:01)(良:3票)
11.  マッハ!!!!!!!! 《ネタバレ》 
ムエタイと言えば『破壊王ノリタカ』しか知らないオイラでも、「おおっ、ヒジ決まった! ヒザ決まった! カカト決まった!」ってな具合で大盛り上がりでした。とは言え、この点数をつけるのはムエタイアクションの素晴らしさだけではない。基本ができている(惚れ惚れするようないい絵がいっぱい)し、遊び心もいっぱい(チンピラ登場のシーン、フィルムが切れてるように見えるけど、監督はジャンピングカットのつもりなんだろうな…ちょっと微笑ましかった)。やはり映画として、他の映画先進国に負けないほど素晴らしいと思うからだ。 本作の場合は、冒頭の木登りの場面ももちろん美しい(あれを見て早々にアクション映画という先入観を捨てた)が、中盤に出現する、網にかけられ水中に沈められた巨大な仏像群、この画のインパクトに勝るものはなかった。そう、これは香港映画じゃない。タイの映画だ。倒すべき敵を作るために、老いた師匠を殺す必要はない。長い歴史のある敬虔な仏教国でありながら、盗掘によって国富を失っている国。麻薬三角地帯を抱えるがゆえに、国中に堂々と麻薬がはびこり手のつけようがなくなっている国。アジア最大規模の米軍基地を抱え、厄介な隣国・ミャンマーとバングラディシュに揺さぶられ続ける、南アジアの暴力の巣窟。この映画で語られる敵(対戦相手か否かに関わらず)は、全て現実にいる敵なのだ。あの、平穏な都会の水面下で網にからめ取られた仏像の画は、現代のタイのはまった政治的・宗教的・社会的な罠をこの上なく的確に示したカリカチュアじゃないのか。ああいう画をバックに、トニー・ジャーが暴れ回る事にこそ、この映画の意味があるんじゃないのか。これが、香港の生んだ虚構との決定的な差で、オイラがググググッとエンディングまでのめり込んでしまった決定打だった。 苦言としては、ムエの扱いが本筋にほとんど絡まない事かな(だからあの幸せそうなエンディングはちょっと虚しい)。「主人公を慕ってバンコクに出てきたもののいつも足手まといで…」とかいう紋切型な役の方が似合ってたように思う。逆立ちしたって薬を捌いてる女子大生には見えんですよ。あ、あとラストのお祭りシーンはもう少し長くてもいいと思うなあ。冒頭の木登りシーンとシンメトリックな構成になるよう、ジャーの乗る象を舐めるように移動撮影してくれたら、それだけで永遠に記憶するに値する映画になったと思う。
10点(2004-08-12 00:04:24)(良:3票)
12.  エクスカリバー(1981)
アーサー王つったらよ、5世紀の人間だぜ! そいつらに板金のフルアーマーかよ! ヤマトタケルが戦国の武者姿で旅するようなモンだぜ! あんな城攻兵器だってまだ発明されてねーよ! エクスカリバー引き抜こうとする度に、剣がビヨンビヨンって無様に揺れてるぞ! 「竜の息」ってなんだよ、ドライアイスじゃねーか! 足元の草を引き抜いたらマンドラゴラだなんて、そんなんありかーっ! …ごめんなさい、それでもこの映画に惚れ抜いてます。好きですアーサー、マーリン、ランスロット、モーゲン、モードレッド、パーシヴァル、ガウェイン、グウェネヴィア、イルグレイン、ペンドラゴン、そしてケイ。騎士であるための資格、王であるための資格を問う物語。これは騎士→郷士→紳士という統治構造の変節によって、現代人に「ジェントルマンとは何か」を問い掛けています。世界の開闢を見てきたマーリンの言葉は、イングランドの田舎騎士ども(失礼)だけに向けられてるわけじゃない。1500年の歴史をすっ飛ばして、現代人の心にじかに愛を、礼節を、道義を問い掛けて来ますね。それにグッと来たら、いつか自分の聖杯を求める姿に気付く事になるんでしょう…普通の映画と違って、「歴史を見る」のではなく「歴史に見られている」ような気分になる映画。見終わったらなぜか背筋がピンと伸びています。あ、未見の方、石に刺さったはずの剣が揺れるシーンだけは紳士的に目を逸らしてあげましょう(笑)。(追記:この映画を見たモンティパイソンの面々が「いまどきこんな権力志向の見るに耐えないモン作りやがって!」と怒りに駆られて短期間で撮ってしまったのが『モンティパイソンのホーリー・グレイル』。わざと『エクスカリバー』にかぶるシーンを撮って遊びまくっているので、正統派がお気に召さない方は続けてどうぞ…と書いたはいいが75年作品? オイラ都市伝説を信じてきたのか…?)
10点(2004-05-02 20:05:46)(良:3票)
13.  アタック・オブ・ザ・キラートマト
かつて、映像作品は神聖だった。どんなクズ映画だって作っている側は真剣そのものだった。エド・ウッドはシャレで『死霊の盆踊り』を製作した訳ではない(少なくとも酒代を儲けたかった)。石井輝男は遊びで『江戸川乱歩全集~恐怖奇形人間』を監督した訳ではない(彼はいつだって本気)。ハーシェル・ゴードン・ルイスは無為に『血の祝祭日』を撮った訳ではない(彼も生活がかかってた)。ラリー・ブキャナンは何の下心もなく『火星人地球大襲来』を企画したわけではない(あれはストリップ映画を撮るための口実)。若松孝二はドブに捨てるつもりで『天使の恍惚』を世に出した訳ではない(そのトンデモなさで評論界から睨まれはしたが)。etc,etc…。 だがしか~し! 70年代のある晴れた日の事(あくまで想像)である。我らがジョン・デ・ベロは映画を神聖だなんてこれっぽっちも思わなかった。創作行為が芸術だなんて、映画配給がビジネスだなんて、そんなセオリーぶったゴタクには耳も貸さなかった。代わりに、彼はかつてない手段で「映画」というメディアを処理した。ニヤニヤと笑いながら(あくまで想像)各地の大都会のパニックシーンをたった1カットで撮り上げ、ビーチでの凄惨なトメィトォ襲撃シーンは究極のリアリズムで挑む。彼はハリウッドが積み上げてきた伽藍の塔を、作中では事も無げに突き崩してしまった。 「ラクガキするな」と言われればデカい筆で大書してみたくなる。廊下だって走ってやりたい。みんながやらないのは、単に後ろ指をさされたくないからだ。だからオイラは今でも、こんなに楽しげに廊下を爆走する彼(あくまで想像だって)の姿に、分類不能のある種の感動と羨望を憶えるのだ。 こんな幸福な人物は滅多にいないと思う。 彼は世界で初めて、一点の曇りもない遊び心から、無為に、下心もなく、シャレで映画を作ってドブに捨てた。映画界にでっかくラクガキしたのだ。 
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-05-19 20:11:20)(良:3票)
14.  眼下の敵 《ネタバレ》 
ああこいつのレビューは大変かも…でもオイラ的には避けて通れないしなあ…。 いま名づけましたが「Uボート映画の原理」とでも言うべきモノがありますな。 1.潜水艦には頭脳派の名艦長が搭乗している。 2.いろいろあって駆逐艦に目をつけられる。 3.駆逐艦の艦長は猟犬なみにタフな野生派か頭脳派。 4.潜水艦1隻を沈めるために爆雷を出血大サービスするが、初手は爆発深度を予測されて失敗。 5.丁丁発止の駆け引きをするうちに潜水艦側が手詰まりになって、 6.耐圧深度ギリギリまで潜って難を逃れる一発勝負に出たり、 7.音をひそめて死んだフリしたりして、 8.一発必中の機会を待つ…。 この「駆逐艦」の部分を「軍事アナリスト」に変えたりすると、もうちょっと幅が広がりますね(苦笑)。さて、このうち8割くらいは、この映画で生まれた定石と言っていいんじゃないでしょうか。これは潜水艦映画が、他の多くの戦争映画とはジャンルのレベルから違うという事です。上記ルールを半分以上守ってる映画は、(沈むか、逃げ回って逃げ回って運がよければ一発逆転という展開しかない)潜水艦側に圧倒的に不利です。もう観客が、潜水艦の艦長に感情移入しないワケがない。これ、戦争というよりスポ根ドラマの枠組みなんですよね。本作以外にも『深く静かに潜行せよ』『レッドオクトーバーを追え』『U-571』…例の日韓2作は見てませんが…。 ところがこの原理に従わない潜水艦映画がふたつありまして、『Uボート』と『クリムゾン・タイド』ですな。潜水艦を舞台に「戦争」を描こうという勘違いをしたせいで(って言っても『Uボート』は潜水艦ファンへのメッセージでもあり確信犯でしょうけど)「別にミサイル基地の中でも塹壕の中でも撮れるやん」って感じの映画になっちゃってます。その他の例外はSF映画。『海底2万リーグ』『渚にて』『ミクロの決死圏』『復活の日』『アビス』…まあここでの潜水艦は戦闘目的ではなく冒険装置・人類生存装置みたいな役割ですから。敵はタコさんだしね。 というワケで「潜水艦映画」の規範を作り、ストーリーを戦争の本質から上手に切り離し、潜水艦という卑怯な弱者をヒーローに仕立て上げちゃった本作の功績は限りなく大きいのです。ただ本作には原作がありまして、原作ではもっと濃い駆け引き(『U-571』で使われる死んだフリ作戦もある)が展開されてます。ご参考までに。
[地上波(吹替)] 10点(2005-06-01 04:36:14)(良:3票)
15.  プラン9・フロム・アウター・スペース 《ネタバレ》 
今見終わった。まいったぜ。ショボいショボいと聞いてたからどんだけショボいのかと思ったら立派な映画じゃないかーっ! これは冤罪だッ(笑)! いま逆の意味で非常に腹を立てているぞっ! 少なくともオイラの愛してやまない『スーパージャイアンツ』と同格(つーかスーパージャイアンツでは円盤の操縦席なんて学習机どころか思いっきり影絵なんですけど)。そしてプラン9は1956年作品、スーパージャイアンツは1957年作品。もしかして宮川一郎と石井輝男、この作品をリアルタイムで見てたの? …と勘ぐりたくなるぐらい各シーンが似てます(第3~4部のカピア人編、第5~6部の黒い衛星編)。いや、彼らは見てたんだ。そうに違いない。石井輝男はその輝かしい経歴の初めに、エド・ウッドの映画魂とパワーを受け継いだんだー! などとバカな事まで考えてしまいました(おい石投げるな)。あと、頻繁に昼夜の入替わる墓地シーンですが、この場面を全て昼に統一したらモロ『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』になりますね。「宇宙からの怪光線で死体がゾンビ化」…ってプロットも一緒だったりして。意外とこの映画、ロメロへの影響がデカいのかも。石井輝男、そしてロメロ。「いかに低予算で撮るか」に心を砕いていた彼ら職人監督にとっては得るものがイッパイあったって事なんすかね。繰り返しますがオイラは本作の史上最低評価は冤罪だと思っとります。映画の奈落はまだまだ深いんだぜ。フッ。 (追記:今ページの上の方見たら1959年作品となってるんだけど…DVDの表記と違うぞ…)
7点(2004-04-19 01:46:02)(良:3票)
16.  知りすぎていた男 《ネタバレ》 
発声練習やった事のある方は、自分の最大の声量が出せる音程と、普段喋っている音程が違う事を知ってると思います。大声の時は普段の声より2~3度低音。なぜなら、声帯を締めつけるような無理な力がかからない時に一番大きな声が出るから。裏を返せば、声帯が筋肉のコントロールを受けていない状態なので、その声は感情に乏しくなります。音程のコントロールも当然難しい。そして息も無駄が増え、息継ぎの間隔は短くなる。「声が大きくてナンボ」の演劇ではこういう発声方法も(まあまあ)アリなんですけど、歌の場合にはマイクを奪われるばかりか二度と歌本を回してもらえない悲しい結果になります。  ところがクライマックスのドリス・デイはどうだ。音程はまさに大音量「オンチ」ラインにぴったりフォーカス、序盤で見せた感情豊かな歌声と真逆の軍歌調でケ・セラ・セラを大絶唱! 顔もこわばって表情が消え、室内のあらぬ一点を注視し続ける。 ここで、涙が止まらなくなった。 結婚してもステージ上で歌を歌い続けたかった人物だというのは、それまでの展開でしみじみわかっていた。歌いながらののベッドメイキング、周囲に混じって教会で歌えばつい大声になってしまい(ここはもちろんコーラス音程)、そして彼女にとって悪夢の巡り合わせであるコンサート会場では、歌えない事が一瞬の大絶叫になって破裂(音楽視点から解釈した場合)。演奏を中止させる…。 そんな彼女が、某国大使たちを前に披露する歌が、なぜ感情の消えたものになってしまうのか。彼女にとって、いまや聴衆はただ一人しかいないからだ。その耳に届くためには、この歌い方しかないからだ。だから、ほら、この息が短くなるのを計算したブレスの素晴らしさ! 最後まで揺れのない安定した声量! 歌手としての技術の全部を注ぎ込んだ、だがステージで聞く事は絶対にない、この物語の中でしかあり得ない、プロとしての歌声。 彼女はこの後も一生、たぶん、ただ一人の聴衆のためにしか歌わないんだと思う。彼女がいつその覚悟をしたのかはわからないけれど、それを感じさせるほどの揺るぎない安定感が、あのシーンを貫いている。  学生時代にテレビで見た時には「へへーん」と鼻クソほじりながら観ていた映画だけど、気がつけば今回は涙がボタボタ落ちてズボンを濡らしていました。よくここまで泣いたもんだ。しかも『アンデッド』を観た直後なんすけどね…。
[地上波(吹替)] 9点(2006-08-11 21:27:58)(良:3票)
17.  さびしんぼう 《ネタバレ》 
いろいろ書いたけど、消しました。やっぱこの映画の分析なんて無理だ。一日たっても涙が止まらん。公開時もそうだった。見終った後からボディブローのように効いてきた。一週間くらいはポスター見るだけで涙腺全開になった記憶がある。あの真っ黒い涙を流すさびしんぼうに、俺絶体レビューなんか書けんわ。
10点(2004-07-28 23:58:57)(良:3票)
18.  Mr.インクレディブル
序盤、スーパージャイアンツ以来と言ってもいいほどの正義っぷりに感動し、現代にシーンが移ってからはトルンカの魂が甦ったかのような一部キャラのデザイン&動きに涙しました。最も好きなシーンは、デザイナーのエドナと電話ごしに話すヘレンが、めっちゃ言いたくなさそうに「ほら…イラスティガールよ…」と言うシーンの表情。正義の味方やめちゃうと、やっぱ恥ずかしいんですかね(笑)。二番目に好きなのは、これも超母ちゃんがバイオレットとダッシュにマスクを渡して「スーパーパワーを使ってもいい」と言い渡すシーン。仮面の下でしか本当の自分になれないんですよね、この家族って。置かれた境遇の悲しさと、アイデンティティに目覚める悦びが同時に描かれるこの場面、オイラ的には全編で最大最高の泣き所でした。 …とはいえ、あらゆる点においてオリジナリティがゼロなんだよなあ…ある意味すごいんだけど…イラスティガールの描き方が素晴らしすぎたせいでファンタスティック・フォーもCGシーンが作り直しになってるらしいし…一部の場面では明らかに各々の本家を越えてますな。ここは微妙ですが、プラスに評価します。
[DVD(字幕)] 8点(2005-07-18 23:17:57)(良:3票)
19.  宇宙戦争(1953)
この時代、この時期、なぜ『宇宙戦争』を映画化しなければならなかったのか。もちろん大戦が終わり、誰もが宇宙開発競争を予期していただろう。原作者H.G.ウェルズが46年に死んで、どんな片寄った脚色でも文句をつける奴もいなくなった。そして何よりも世界一有名なSF小説だ。そこでジョージ・パルはこの映画がタイムリーであり、新時代の幕開けに相応しい正統的なSFである事を、こんなナレーションに託して冒頭に飾った。 「二つの世界大戦は人類に多大な被害を与えて終わった。その間にも兵器は発展し続けている。やがて第三次世界大戦が起こるだろうが、その前に我々は宇宙との戦争に巻き込まれるだろう…」 映画を観ていて、一番イヤになる瞬間だ。ウェルズが描きたかったのは他民族を人と思わない精神が虐殺や戦争を生んだという、その原理だったのだ。パルは、やっとそういう精神世界が崩れて落ち着こうとしていた時代に、新たな仮想敵を探すのに躍起になっていた。ショービズに骨まで染まったそんな根性、くだらなくて涙が出る。 どうしてこの時期にウェルズ最後のSF『解放された世界』を映画化できなかったのか、問い詰めてみたい。あれは半世紀前の時点で世界大戦を予測し、核戦争を予測し、そこからプリサーゴ国際会議によって平和になる道を描いた「20世紀のシナリオ」だったのに。彼は国際連盟を提唱し実現させた。人権宣言書簡を書き、それがやがて世界人権宣言になった。SF作家をやめた後の彼は平和に至るまでの世界史を直接「書いて」いた。 戦後、パルの手で復活したウェルズは、ハリウッドで望まぬ「第二の人生」を歩き始める事になる。パルの視野がもう少し広ければ、その後の映画史は変わったかも知れないし、歴史だって違っていたかもしれない。新たな戦争ではなく、最終的な平和を謳うべきだったと思う。それが夢でも構わない。そもそも映画ってそういうもんじゃないのか?
[地上波(吹替)] 0点(2006-05-05 11:43:20)(良:3票)
20.  ストーカー(1979)
極端に言えば命がけで散歩するだけの映画。当時、これだけ地味で金のかかってなさそうな、イベントに乏しい(というかこの映画では何も起こらないのが命)、暗い映画は初めてでした。なのに、この緊張感! 美しさ! 泣けてくる皮肉なエンディング! ただ車を運転するだけでも『恐怖の報酬』という名画が出来てしまうわけですが、『ストーカー』は散歩するだけで名画になってしまったっすね。子供時代には真剣にやってた秘密基地遊びを髣髴とさせる、あのドキドキ感はたまらなかったな~(←間違った観客かもしれない)。
8点(2004-04-01 01:32:54)(笑:1票) (良:2票)

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