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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  ザ・ローリング・ストーンズ/シャイン・ア・ライト
高校生の頃(85-7年頃)、僕はストーンズに夢中だった。ロックと言えばストーンズ、ストーンズこそがロックだと思っていた。但し、それは60年代後半から70年代のストーンズ。その頃のアルバムは何度も繰り返し聴いた。当時のライブやスタジオ演奏の映像でみるミックとキースのなんと精悍でカッコよかったことか。。。  80年代に入り、ストーンズは僕らに急激な老いを感じさせるようになる。それを打ち消すようなパフォーマンスをみせた81年のライブ映像。ミックのフットボーラー姿は今でこそミックらしいエンターテイメントを十分に感じさせる微笑ましいものであるが、当時は何か間違った歌謡曲的な演出を見せられたような気がした。キースはシャープさが失われ、急激に老けこんでいた。  そして、2006年のストーンズ。それはまさに"The Kids are Alright"で33歳のピート・タウンゼントが叫んだ「オヤジのロック」を通り越して、「おじいちゃんのロック」である。ミックとキースは還暦をとっくに越えた63歳である。  皺皺のミックは以前と変わらない身のこなしでロックを歌い続ける。20代も30代も60代も変わらないロックというのはミックの思想そのもの。彼の中では全く違和感のないロックのあり方なのである。健康的でセクシー。バディ・ガイを前に悪ガキっぽさをアピールしつつ、若い女性シンガーに対してはセクシーに迫ってみせる。年齢を感じさせない、中性的でとても現代的なセクスである。  60年代から変わらず発散しているミックの魅力がそこにある。63歳になってもそのロックは死なない。健康的な生活を感じさせる見事にシェイプアップされた体。長いステージでも疲れを感じさせないエンターテイナー。  でも、僕の心は死んだロックの方に今でも引き寄せられる。60年代、70年代という時代にとり残され、囚われの身となったロックの魂たち。ミックを見ているとそういう魂はもう過去の遺物にすぎないように感じられる。彼にとっては子供や孫の代にあたるような若いオーディエンスと見事に一体化したステージパフォーマンス。笑顔の絶えないキースの立ち姿。彼は本来、70年代にドラッグで死んでいたはずの男である。  僕の中で80年代と共に死んだストーンズは、2006年、まだまだ健在だった。彼らは70歳になってもストーンズでありつづけるだろう。そのスタイル故に、彼らのロックは永遠なのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-03-18 20:11:43)(良:1票)
2.  ザ・マジックアワー 《ネタバレ》 
冒頭、映画のセットのような街の風景から始まる。住人達もまるで映画的な個性、映画的なリアリティを体現する人物達で、ギャングの親玉にその情婦、情婦の恋人、怪しげなバーのウェイター、ホテルのマダムなどなど。彼らは映画の中のフィクション的な存在を実に自然に演じており、そういう意味でまさに非現実的な映画の街の住人なのである。 そこに売れない役者、佐藤浩市が殺し屋役で現れる。彼は現実の人間であるが、その独特の演技によってあっさりと非現実的な映画の街に溶け込む。彼は、妻夫木聡に映画の撮影などと騙されながらも、冴えない現実から飛躍し、映画的な予定調和の世界の中で活き活きとした手応えを得るのである。  そんな状況もラストを前に当然の如く破錠する。佐藤浩市は騙されていたことを知り、ギャングのボスである西田敏行も裏切られていたことを知る。その後、唐突にギャングのボスに対する「仕掛け」というクライマックスを迎えることになる。  ギャングの親玉への仕掛けといえばジョージ・ロイ・ヒルの名作『スティング』である。『ザ・マジックアワー』は、『スティング』をなぞるように最後の仕掛けへと展開していくが、僕等はその展開の行方を知っている。。。故に騙されない。けど、そのあからさまな仕掛けぶりがこれまでの徹底した非現実の中にある種の現実性として僕らに印象づけられる。これまでの映画的な架空性が一気に現実の、身近な感覚としての、映画的な日常性に還元されるのである。  映画的日常とは何か。映画とはフィクションでありながら、そこにはフィクションを越えた可能性の発露がある。叶わない、届かない思いながら、僕らは映画を観ている間だけは作品の世界に入り込み、ある種の可能性を手にすることができる。それが映画的日常、映画を愛するが故のポジティブな日常性で、人が生きる優しさの源泉となる。映画的日常を生き、演じること。そこに見出される生きることのささやかな肯定と、ある種の暖かさこそがこの作品のモチーフであること。僕らはラストシーンに至りそのことにようやく気付く。映画的日常、優しさ。それ故に場面の楽しさの中にも僕らは思いがけず胸がジーンとなるのだ。 
[映画館(邦画)] 9点(2008-08-15 15:18:27)
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