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1.  ドン・サバティーニ
たしかにどうってことないけど、怒って引退するっていうほどでもないんじゃない? 『スーパーマン』のとき引退しなかったんだから。良くも悪くもマーロン・ブランドの映画だ。M・Bがコメディをやる、『ゴッド・ファーザー』のパロディをやる、ってのが唯一の見どころ。けっきょくこの映画心から笑えないってのも、M・Bが出てるために、こちらがややビビッてしまってるところがあるわけで、とにかく偉大な役者ですわな。アップのシーンよりか、スケートをするロングのシーンで凄味を感じたけど、あのふてぶてしい男が滑っていく、ってのがおかしい。息子としたい男クラークをケントと呼び間違えるギャグ。途中ちらっと『42番街』。
[映画館(字幕)] 6点(2014-02-28 10:00:27)(良:1票)
2.  トータル・リコール(1990)
直訳すると「全面想起」だそうな。邦画とアメリカ映画とで題名の付け方の違いについて考えようかと思ったが、悲しいのでよす。それにこの映画、題名ほどいいわけではない。せっかくの面白い設定なのに、生かしきってないんじゃないの。火星にいったクエイド君のところにリコール社の男が出てきて、これは君の夢なんだよ、というあたりで、本題に入ってきたなと身を乗り出したが、あそこで打ち止め。あそこで薬を吐き出したことによって、クエイド君がリコール社の夢から抜け出せなくなったって、もう一つの可能性が出てきたわけでしょ。その不安を主人公は抱き続けるべきだったんじゃないの。まるで仕組まれているような諜報部員の活躍で、うまくいけばいくほど「怪しいぞ」と不安になっていく展開か、と思ってたらそういうのはナシなのね。そういう複雑な役柄は得意でない俳優なのだった。観客のほうで勝手にこれは全部夢かもしれないという余地は残されてはいたけど。星の植民地のガラスがあんなに弱いのは、そもそも全部夢だってことなのか。ミュータントメイクも再考の余地あり。酸素を独占している独裁者って発想はいい。空気の流入に独裁消滅の爽やかさが素直に重なる。テレビのニュースでトウキョウのサムライがどうのこうの言ってたのが気になったが。
[映画館(字幕)] 6点(2014-02-20 09:24:41)
3.  どっちもどっち
松田聖子は喜劇やれる人じゃないんだ。とりわけはしゃぐシーンは、バラエティ番組のおふざけコントになってしまい無惨。沢口靖子は、お嬢さんでかまわない役どころだけど、やり直しが利くと思っていた若さで不意に死んじゃって、その恨みを多食で晴らすというやりがいのある設定なのに、惜しい。なら代わりに誰が出来るか、となると、ま難しいんですけど(当時の日記には、もう少し若ければ石田えりあたりでどうか、と記している)。各種スポーツ中継をめぐる趣向。飛んでるときの東京の夜景が美しい。沢口靖子がさんまの部屋で、でぶでぶと言うとこがおかしい。隣室の夫婦はただ目撃するだけじゃなくて、もっと積極的に関わってきてもよかったんじゃないか。
[映画館(邦画)] 5点(2014-01-08 08:48:04)
4.  東京流れ者
小津映画の同窓会メンバーの常連、北龍二がやくざの親分だ。ただし気が弱い。そういえばあっちでも若い細君を気にしすぎてたりして、そんなキャラクターだった。異様に清潔なセット。原色で。この監督の、というか美術の木村威夫の好みを表わすのに、「ステージ性」って言葉はどうか。活劇のステージとしての簡潔な清潔さ。日本の家屋でも格子などが強調されていて、演歌の舞台背景のようになっている。佐世保のドンチャン騒ぎでも、どこかステージ性が意識されている。この人のセットの特徴として「ステージっぽさ」という言葉を当てはめてみた。本来記録するものだったフィルムに、舞台の不自然さを強引に持ち込んでみた、ということか。
[DVD(邦画)] 7点(2014-01-05 09:52:49)
5.  ドイツ零年
廃墟のベルリンをそのままセットで使うって、考えてみればずいぶん贅沢な映画です。露出の不安定さが変にリアル。ニュースみたいだからだろうか。突然カッと光があふれるショック。狭い室内ではカメラが人物を追いまわし、目まぐるしく往復する。父殺し以降の充実感がすごい。社会派ドキュメンタリーだったものに、不意に神話的な風が吹き込んできて、罪と救済のテーマが躍り出てくる。さらに子どもの孤独の描写、これは敗戦国に限らないかもしれない。いままでの登場人物たちに少年を拒絶させていくの。突如鳴り響くオルガン、ヘンデルのラルゴ。町並みにたたずむ人々。前半のヒットラーの演説と対照させる。しかし教会も救済してくれない。このラストの少年への密着がすごくて、淡々と戦後風景のルポやってたのが、グッと奔流に飲み込まれる。社会が悪いんだ、とは言えるが、なぜその報いがこの少年に集中するのか? そのシステムの由来は? なんてことを考えてると、神の問題に近づいてしまうのだった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-12-18 12:33:14)
6.  逃亡者(1990)
M・ロークが何のいいところもないイヤーな悪人で(ひたすら恋人の到着を待ってるあたりに人間味を感じるべきだったのかな)ただのわがままというか、自分勝手。このイヤーな男が、イヤーな感じになってる一家に飛び込んでくる。この監督は女より男ね。女の描写は刑事も含めてつまらない。男は、ただカッカするだけの脇の役と思ってたのが、途中で異様に膨らんできたりする。リーダーと別れて自由になった途端に、バラバラと分解していっちゃう感じがある。狭いところから広すぎるところへ出て拡散しちゃうような。血だらけになってガソリンスタンドをうろつく。でも女子大生を人質にとって立て籠もろうとはしない。流れのあるところへ誘い出されていくの。もう停滞するのはこりごり。そこらへんに不思議な哀感が漂った。西部劇の時代ならもっとかっこよく死ねたのに、とか。コロラドの風景や、“保安官”というあたりに、開拓時代への・失われたものへの気分があるような。
[映画館(字幕)] 8点(2013-12-02 09:52:45)
7.  東京オリンピック
これはいろんなカメラマンが撮影したものを編集したそうだから、画づらに監督のタッチを見てもあんまり意味はないかもしれないが、聖火リレーのときの屋根瓦の構図はあれはどう見ても崑タッチだよね。800mをずっと回しながらワンカットで捉えたのもいい。とにかくスポーツ競技の結果への「興味のなさ」がよく、試合前の選手の表情や敗者の表情など、スポーツをする人間そのものへの興味に絞られているのが潔い。自転車競技の八王子あたりの牧歌的な風景、マラソンの甲州街道沿道も貴重な記録だろう。開会式はこのころはまだ簡素なものだった。これ以後テレビの時代になって記録映画というものも次第に意味をなさなくなり作られなくなったかわりに、式は次第にテレビ向きのウルサイものになっていってしまった。まだオリンピックが「スポーツの祭典」でしかなかった良き時代の記録にもなっているだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2013-10-12 09:21:59)(良:1票)
8.  ドアーズ
ヒッピーにサイケの60年代後半。ドアーズってよく知らなくて、“タッチ・ミー”は知ってる、あと“ジ・エンド”を『地獄の黙示録』で知ってるぐらい。あんまりピンと来ないんですが、群衆としての聴衆ってのをポイントに観てた。冒頭、映画学校でのナチの群衆が提示され、当時ベトナム戦争への興奮と、それの裏返しのようなラブ&ピース運動への興奮とがきれいに吊りあってしまっている「興奮する群衆」の気味悪さみたいのがあった。少年時代に目撃したインディアンの交通事故がトラウマになってる。土着の原住民がよそから来た文明に殺されるアメリカの原罪みたいなものが、同じ東洋人顔のベトナム人に通じていく。世界は傷ましさで満ちていて、その傷ましさを拒絶しきろうとして生きていかねばならない現代の傷ましさ、みたいなものがあった。メグ・ライアンは付属品だった。コンサートシーンに気合いがあり、それも駄目になっていくほどいい。
[映画館(字幕)] 6点(2013-07-02 09:17:53)
9.  トイ・ソルジャー
だいたい立て籠もる話はその設定だけで好きになっちゃうんで、『わらの犬』あり『狼たちの午後』あり『ダイハード』ありと、永の年月見てきたもんだが、これはあんまり立て籠もった甲斐がなかった方。ワルモノがコロンビアから逃げ出して来るんだけど、ずっと追跡されててヒョッコリ学園にやってこられるもんかな。あるいはラスト、軍の突入となれば犯人側はまず人質を固めると思うんだけど、外を走り回って死んでっちゃうのがトンマ。そういうのはいいとしても、不純な要素が死んでいって、アメリカの純潔な部分が残るように見え、古めかしいヒロイズム讃歌が聞こえてくる。ま、黒人が残っただけでもヨシとするか。こういうので多いのが、有色人種がしばしば尊い犠牲になってみんなに哀悼されつつ消えていくパターン。それはなかった。内部情報を伝えに外に出た主人公が、軍隊にとどめられるあたりちょっとハラハラした。ああいう仕掛けをもっと欲しかった。
[映画館(字幕)] 6点(2013-05-24 10:37:55)
10.  道成寺(1976)
これより前に『鬼』という作品があり、こちらの習作の感じ。繁みの中を歩いていくとき、太棹三味線に合わせたり、人形浄瑠璃のノリ。画面の手前に金粉散らしたりしてるのはガラス越しに撮ってるのか。同じように物狂いに至る女の話だが、まだ「日本的な美」に寄りかかったものを感じた。しかしこちら『道成寺』はそういう日本的なものを使いながらも、それを越えられたという気がする。たしかに絵巻物風の構図はあるが、清姫が日高川に飛び込んで波に炎がチラつき出すあたりのリズムは人形浄瑠璃ではなく「映画」だ。ベッタリとした平面で蛇が鐘へ向かう図も面白い。情熱を抑えに抑えている気配が生きてくる。おそらく監督ピークの作品。
[映画館(邦画)] 8点(2013-05-17 09:42:42)
11.  トゥルー・グリット 《ネタバレ》 
世の東西を問わず、父親の仇を討つのはもっぱら息子の役割りだった。その姉なり妹なりが、留守の間の家を守っていた。しかし娘が仇討ちに出たっていいだろう。男の時代だった西部劇の中に家長意識の強い少女を投げ込んでみた旧作(私は未見)のリメイク。少女の「けなげ」は、もっぱら家の中で描かれていたのが、ここではほとんど「したたか」と紙一重に社会の中で描かれる。縛り首の罪人が揺れる町で、大人と同等に権利を主張する。父のような大人を雇い、仇捜しの旅に出て行く。その一種のロードムービーで、旅の途上のあれこれに、西部劇時代末期の、無法者の時代が終わろうとし、同時に自由な時代の終わりでもある索漠とした空気がある。少女は父の仇を撃ち、その反動で穴に落ち込むという、初めて子どもらしいしくじりを経験する。それまで家長代理として気張ってきた彼女が、無力な子どもとなって穴ぼこの中で助けを求め、ジェフ・ブリッジスが父のように救出する。蛇に咬まれていた彼女を運ぶシーンが、本来あるべき西部劇の本当の父娘の幻想のように美しい。ずっと旅を共にしてきた馬は、西部劇の時代が終わったのを告げるかのように力尽きて倒れ、鉄道の走る味気ない近代に入る。そんな段取りの映画だからアクションの陶酔はあまりないが、女子どもをはなから脇役にイメージしがちな西部劇ってものに疑問を呈してみたみたい。
[DVD(字幕)] 6点(2013-03-13 10:09:55)(良:2票)
12.  ドク・ハリウッド
設定だけ見ると「砂の女」で、ビバリーヒルズを目指した高給取りの医者が田舎に捕まってしまう話。ところが内容はノーテンキな田舎・純朴讃歌で全然棘がない。「田舎=昔」の構図があり、けっきょく保守讃歌なんだ。現代ならではの問題を抱えている現代の田舎に対して失礼であろう、カボチャ祭りで代表させちゃ。祭りにかかっていた映画は『キートン将軍』で、ちょっとこの作品とは合ってなかった気がする。旅立ちの日、みなが見送るパターンね。戻ったらそんな町はなかった、って手もあると思うんだけど。
[映画館(字幕)] 5点(2013-01-31 09:58:25)
13.  トライアングル(2009) 《ネタバレ》 
反復や回帰があるとドキドキするのは、時間芸術のけっこう根源にある問題なんじゃないか。音楽がそうでしょ。ソナタ形式では提示された主題が展開部を経て再現部に至ったとき「いわく言い難い感興」をもたらす。ジャズだってテーマが即興によってどんどん変形されたのちに最初の形で登場するとやはり「いわく言い難い感興」をもたらす。反復・回帰ってのは時間芸術のキモなんだ。で映画だと、『羅生門』みたいのもあるけど、主にコメディとスリラーで反復がよく使用される。本作で反復が確認されるあたりのドキドキワクワクは「たかがスリラー」かもしれないが、時間芸術のキモに連なっているんだ。別の新しい角度から反復を見ることになる感興、そしてその反復がどうも何度も繰り返されてきたようだと次第に分かってくる怖さ。落としたペンダント、走り書き、デッキに蓄積している「我々」の死体(これは笑いと紙一重だったが)。そして「錨を上げて」のメロディが、レコードと屋外のブラスバンドでつながって、ループの端と端とを留めている。ほっておくと映画そのものも永遠に循環していきかねない怖さが最後に残る。
[DVD(字幕)] 8点(2012-12-06 09:59:42)(良:1票)
14.  トト・ザ・ヒーロー
社会学的に見ると、アイデンティティの不安とか何とか、人生論的に見ると、他人への妬みや呪いを支えにして生きることの不幸とか何とか、心理学的に見ると、ユングの影とか何とか、いろいろ出そう。面白いのよ、一応面白いんだけど、なんちゅうか、作者の設計図が見えすぎちゃってるというか、醒めすぎてるところがあって、酔わせてくれない。ちょっと窮屈。若い監督なんだから(当時)、もっと破綻ぎりぎりの冒険もあってほしいところ。ラストの笑いはなんだったんだろう。他人を呪うことで支えられていた自分の人生の空しさを知ってしまった絶望に裏打ちされた笑い? 人生ってものを哄笑するような、ドロッとしたような、他人に対する呪いがもう社会を超えて神にまで向かったような。自分の人生を他人に奪われたと思い込む人間ってのにピンと来るか来ないかが、本作を楽しめるか否かの分かれ目のよう。
[映画館(字幕)] 7点(2012-12-02 09:42:03)
15.  どっこい生きてる
河原崎長十郎は映画俳優としてさしてうまい人じゃないと思うんだけど、その不器用さが主人公の不器用さと重なって面白い効果になっていた。ボーッとした表情。一番いいのは仲間のカンパを盗まれちゃって飯田蝶子にやりこめられるとこ。カンパシーンはややしらけたが、ちゃんと理想だけではない厚みを描いたのね。そして飯田蝶子の、優しさと厳しさを合わせ持つうまさ。「こんなことだろうと思ってた」と仲間に呟かれるつらさ。理想を謳うだけじゃなく、たえず現実とのギャップを提示している。だからといってどうすればいいという案はないのだが、声援を送る姿勢だけは続けようという決意を感じる。ラストの子を助けるシーンは、社会の問題をこういう形で結論づけてしまってはいけないだろうとは思いつつ、けっこう感動してしまった。ブランコをこぎまくる部分の怖さ・やりきれなさが出てるからいいんでしょうね。ロケシーンに時代の空気が匂い立っている。イタリアのネオリアリズムに触発されたのはアリアリだが、こなれているし、戦前からこういった路線は日本にも『綴方教室』などあったはずだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-10 09:44:10)
16.  どん底(1936) 《ネタバレ》 
普通なら理解し合えないはずの者たちが・理解し合えっこないはずと信じ込まされていた者たちが、コロッと意気投合してしまう。会った瞬間に友だちになれてしまう。なんという人生肯定。この作品で一番印象深いのは男爵だろう。「身を落とした」などという意識は微塵もない。草原に寝転がる自由を心の底から満喫し、自分の選択を全然後悔していない。理想主義的すぎるとも思えるけど、でもいい。フランス映画でよく感じる「のんき」の尊重。けっきょく今まで自分は衣装を替えていただけだ、という述懐もあった。自殺してしまう役者とペペルの対比もある。遠い夢の病院と、現実の地道な生活への一歩の違いということか。マドンナが役人に口説かれてしまいそうになるときの陽の光の美しさは、親父譲りだな。というわけで黒澤版の暗~い『どん底』とはずいぶん印象が違うが、本家ロシア人が見るとそれぞれどんな感想を持つのか、ちょっと興味がある。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-26 10:04:26)
17.  東京キッド
サトウ・ハチローがゲテモノと評した子どものころの美空ひばりのゲテモノぶりが如実に味わえる。「おばちゃん、死んじゃいや」と泣きじゃくるあたりや、「さんちゃん、おじちゃん」と粘っこく川田晴久をを探し求めるあたり。だいたい「達者な子役」ってのは総じて気持ち悪いものだが、彼女の場合、それが煮詰まっている。このベトベトした気持ち悪さは「悲しい酒」のようなしみじみした歌や、「柔」や晩年の“人生の応援歌”ものなどの底にも生き続けていた気がする。だから彼女の歌で好きなのはそういうベトベトがない「お祭りマンボ」などのコミックソングだ(「車屋さん」も入れてもいいかもしれない、あと『七変化狸御殿』の中で歌ってた「日和下駄」ってのもいいの)。しかしちょっと前まで戦争協力の歌を量産していたサトウ・ハチローにどうこう言われたくない、という思いはひばり側にあっただろし、ゲテモノとして簡単に片づけてしまえる存在でもなかった。時代がゲテモノを要請していたのか、それとも日本文化の根っこにゲテモノ的なものが存在しているのか、そんなことを考えさせられる彼女の媚態ではあった(歌舞伎の子役ってのも、だいたいこういう哀れさ・けなげさを強調する役だが、あちらではわざとゆっくりとした棒読みをさせ、様式に閉じ込めてリアルにしない工夫がある)。終盤のアチャコが身の上を語る長ゼリフは、フレーム外の膝元のカンニングペーパーをしっかり読んでたな。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2012-10-03 10:01:11)
18.  ドクター 《ネタバレ》 
この女流監督は『愛は静けさの中に』の人で、喋れなくなることに関心を持っているのか、これではウィリアム・ハートの外科医が喉頭ガンになる。自分が患者になることで正しい医者になる、って話。でもどうだろう、医者なら習慣の中ですでに納得しているようなことを、今さら新鮮に驚かれても困る。患者をいちいち人間として捉えていたんじゃやっていけないのは想像できるし、患者だって煩わしい。病気の患部という部分に解体して付き合うことで、互いにある程度気安さも感じられてたんじゃないか。それをことさら新鮮に怒ったりして、なんだこいつ、と思ってしまう。颯爽と廊下を行く医者のときの眺めと、患者になっての寝台車からの眺めの対比、なんかがある。仲の悪かった同僚に手術を頼むと、「あなたの喉を切りたかったんだ」と言うユーモアが良かった。全体、ツルッとした「いい話」で面白味に乏しい。
[映画館(字幕)] 5点(2012-09-25 09:25:33)
19.  隣の女
感情のシーソーゲーム。どちらも相手に対して完全には優位に立てない。男は招待パーティから逃げてしまい、友だちとしてやっていく可能性を封じてしまう。夫の留守に逢引するのは乗ずるようでいやと言っていた女も、その禁を破ってしまう。ひとつひとつ障害となるべき葛藤を破りつつ越えて、破局へ歩んでいく、その道行きの味わい。ひそやかな不倫の緊張が、パーティの席で解き放たれるのは、破局でもあるが快感でもあった。偶然の出会いまでは、それぞれどうにかやっていたわけで、別に死んだような人生だったわけじゃないのに、もうダメ、こうなってから振り返ると、もう後戻りは不可能。この情熱の不合理、心の奥に潜んでいるものの不気味さ。こういう破局の快感でしか、解き放たれない魔があるんですなあ。「隣」と言う曖昧な関係の設定がいいんだな。友人のように深くは立ち入らないが、微妙に付き合っていかねばならない。赤の他人より、他人を意識する関係。そこに最も深く心が関わる人間が据えられてしまったことによる、ひずみ。ヒロインを神経衰弱にしたことは、トリュフォーの好みなんだろうが、ラストを弱めてはいなかったか。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-23 10:05:21)
20.  東京裁判
ドキュメンタリーの興奮は感じられないが、ホンモノなんだなあ、と有名人たちを眺める感動はある。大川周明に頭叩かれた後の、東条さんの表情なんか良かった。広田弘毅が傍聴席を見上げるシーンは、ちょっとジーンとしてしまう。東条さんの「陛下の忠良な臣」としての発言が天皇の立場を危うくしていくあたりも、あの時代の愚かしさが凝縮して感じられる。しかし全体として茶番っぽい。戦場から遠く離れてしまってると言うか、抽象の出来事を抽象で処理している感じ。この戦争のタテマエ的な「あちら」の部分を「あちら」で裁いているだけで、現実の死が満ちていたアジアの諸地域や南の島や空襲下の日本など「こちら」の悲惨とはあまりにもかけ離れてしまっている、というシラけた感じ。ぜんぜん死臭が漂ってこない。裁判ってのはつまりこういうことなんだ、ということは納得できた。不完全な人間が不完全な人間を裁くことの無理。弁護側と検事側のゲームのような駆け引きに、いい気なものだと思わされる。国という単位を脱して、「こちら」連合が「あちら」連合を訴える裁判はできないものか、という夢を持ってもみるが、「こちら」だってそう罪がなかったわけではなく、「あちら」を弱腰だと煽ったりけしかけたりした歴史が厳として存在したわけで…。などとネチネチ考え込まされ、そういうものを導くのもドキュメンタリー映画の成果ではあろう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-08-28 10:11:59)
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