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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  エリ・エリ・レマ・サバクタニ 《ネタバレ》 
正体不明のウィルスによって自らの意思とは関係なく自殺してしまう"レミング病"が蔓延する近未来のお話。レミング病は視覚映像によって伝染し、確実に死に至るという。まさに死に至る病である。  レミング病とは何か?それは死に至る病である。 死に至る病とは何か?それは絶望である。  作中の浅野忠信演じるミズイが相棒アスハラの自殺を目の当たりにしてつぶやく。 「病気の自殺と本気の自殺とどうやったら区別がつく?」  『死に至る病』の作者キルケゴールによれば、その区別は様々あれど、やはりそれは同じ罪としての絶望である。絶望を知り、それを克服する意思があるとしても、自己自身を抱えている以上、それは同じように絶望なのだと。本当にそうだろうか?  ウィルスによる絶望というのは、外敵、非自己による自己化ともういうべき自己の病への囚われ、第5の絶望、現代という無自己を絶望と化した時代のメタファーだろう。『ユリイカ』の監督である青山真治は、この最新作でそういった新しい絶望も含めた全ての「死に至る病」に対する抵抗を試みている。僕にはそう思えた。 アスハラが自転車をこいでミズイに会いに行く短い映像。その音楽。生きること、死ぬことに根源的な意味がある以上、僕らは常に本気でいるべきなのだと。少ないセリフの中にも僕にはそういった輝きを感じることができた。映像の一つ一つに抵抗としての生を感じることができた。  絶望に囚われ、それでも自己自身であり続けようとする。 自らの生を受け入れ、自らで選択する。  恣意的のようでいてとても示唆的な映像。 素晴らしい映画。  絶望につけこまれ、、、腹いっぱいになっても、、、死に至るか。。。 
[DVD(邦画)] 10点(2007-01-27 01:15:50)
2.  A2
「A」と比べて「A2」がそのテーマを明確にしたことによって、出色のドキュメンタリーとなっているということに全く異論はない。そして、そのテーマとは、「オウムと世間との共存の可能性」である。オウムが日本各地に移転するたびに地域住民から排斥運動を受けて、結局追い出されてしまう、こういった構図は僕らも新聞報道等でよく見かける。しかし、映画の中では、オウムを監視していた地域住民ボランティアが監視を続けるうちにオウム信者達と仲良くなり、逆に地域内での一般住民たちの軋轢こそが浮き彫りになる、というケースを克明に描いてみせる。確かにそこで描かれるオウム信者はあまりにも普通の好青年であり、オウムでありながら地域社会に見事に溶け込んでいるように見える。彼らがその地域から引っ越す際には多くの地域住民たちに涙をもって見送られるのである。もちろん、このような例は数少ないに違いない。多くはオウムと地域住民たちとの滑稽なすれ違いの繰り返しなのだろうと思う。しかし、一部ではありながらこういった例が存在し、そんな現実をひとつの可能性として提示し得たことにこの作品の重要なテーマをみるのである。基本的に未だオウムというのが麻原への信仰を捨て切れない、世間から閉鎖した危険な思想団体であることに間違いはないだろう。それは彼らが世間から閉鎖された出家団体であり、世間とは根本的に対立する考えを持った人々の集団であることから既に自明なことである。一見するとそこに出口はないように思えるが、彼らが共存を求めており、僕らが社会としてそれを受け入れることを選択した以上、それが全く不可能ではないことをこの映画が指し示していることは重要である。人には信仰の自由があり、各人が別々の信仰を有しながらも共存共栄していくというのが正しい社会のあり方である。そんな当たり前の社会を不可能にしているとすれば、それは人と人との関係を強烈に捻じ曲げる偏見という名の人格無視だろうと僕は思う。お互いが分かり合える足場を失った状態でも人が人を理解する希望を失わないこと、そのためのシステムを作り上げること、それがこれからの社会の中で重要になっていくに違いない。無条件な憎しみの連鎖にだけは陥ってはいけないのだと僕は思う。
10点(2004-06-27 23:23:14)
3.  A.I.
「鉄腕アトム」には、成熟しない永遠の子供ロボットというモチーフがある。彼には元々家族が存在しなかった。<妹のウランはアトムが誕生日プレゼントにもらったものなのだ> 天馬博士からは成長しないことを理由に捨てられ、ロボットというだけで人間から疎外されながらも、愛情に飢え、逆に人類に対して無償の愛情を与え続ける、そういう存在がアトムの原型<原アトム>なのである。成熟の放棄は、人間のファンタジックな願望であるとともに人的異常さの象徴であり、心を持つアトムにとってそれは深い哀しみそのものだったのである。<「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」では宇宙人から大人の顔をプレゼントされて終わるらしいが> というわけで、この「A.I.」という映画、「火の鳥」のウーピーやロビタ、永遠に生き続ける未来編の男、それらの物語群を彷彿とさせると同時に、僕には原アトムの物語を思い出させた。手塚治虫は、ディズニーアニメを模倣することによって、日本マンガの技術的手法を確立したが、成熟しない主人公という日本マンガ普遍のモチーフは、実は「鉄腕アトム」から培われたものなのだ。そしてその未成熟ロボットが愛すべきキャラクターとして肯定されたことが、戦後日本空間を象徴する確信的意味合いをもつのである。<その辺りのことは大塚英志の評論に詳しい> キューブリックやスピルバーグが手塚治虫のマンガを意識したのかどうかは知らない。ディズニーの「ライオンキング」の例のようにあからさまではないが、「A.I.」も明らかに似ていると感じる。A.I.として蘇った苦悩する愛情ロボット<原アトム>の物語は、その根底に時代的モチーフを持ちながらも、ピノキオという西洋ファンタジーの真綿に包まれることによって、アメリカ的成長物語として<全く逆のベクトルをもって>再生した、というように僕には感じられた。「成熟と喪失」というテーマは本来、日本にこそ相応しいが、アトムの本来的苦悩など今の日本で忘れ去られているのが現実であろうか。
7点(2004-05-03 10:01:08)
4.  X-メン
最高です。とにかく面白い。これは「甲賀忍法帖」の世界ですね。まったく。わくわくしました。
8点(2002-03-01 22:38:10)
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