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1.  楢山節考(1958)
これ貧乏ってことがポイントだ。貧乏ゆえの掟であって、食うこと(歯)が罪悪感を伴ってくる。その実感を出すために、この歌舞伎的な様式が必要になったのだろう。リアリズムで演出したのでは、実感が出なくなってしまうということ、これ映画の手法を考える上で大事なことだ。とにかく製作者の気迫が感じられる作品で、会社を説得させるために前年に『喜びも悲しみも幾歳月』を作ってヒットさせ、やっと本作を手がけることが出来たという。村の長老たちが並んでの、山送りの作法を伝える儀式の重苦しさなど素晴らしい。監督のフィルモグラフィーを眺めると、深沢七郎による本作と『笛吹川』の二作が質感の異なる岩として浮き出て感じられる。木下のこういう深沢七郎の残酷と共鳴する部分をどう捉えるか、ってのが監督について考えるとき避けては通れない気がする。
[映画館(邦画)] 8点(2013-11-20 09:47:50)
2.  ナサリン
裏切られる善意、報われない慈悲。予定調和を引っくり返していく。被害者が加害者に変わっていく。それをキリストが大口開けて笑って見ている。弱者を救うことが、虐げることになってしまう。タダ働きさえ、低賃金労働者への嫌がらせになってしまう。厳しいですな(この前の日本の震災でも、援助物資がだぶついて商店の復興を妨げてしまった)。その厳しさも苦渋として描くのではなく、ほとんどギャグとして描く。そして巡礼ということ。何かに憧れて、しかしそれにたどり着けるかどうか分からず歩み続けることなのか。後半の補導されていく人々は巡礼のようでもあり、ブニュエル映画でしばしば見た光景のようでもある。引きずること。ペストの町で少女がシーツを引きずって歩いていく。牢屋でナサリンが引きずり回される。思えば『アンダルシアの犬』でもロバの死骸を乗せたピアノを坊さんが引きずってたなど、彼の作品でよく見かけるモチーフ。ラストに鳴り響くのがカランダの太鼓。異様に晴れた道でパイナップルの施しを受けるナサリンに、神はありやなしや。
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-30 10:04:51)
3.  楢山節考(1983) 《ネタバレ》 
「万世一系」のとうとうたる流れがまず本流としてある。それは死に臨んで聖化され、生まれ変わることの出来る者たち。この今村版でいいのは、それに「東北の神武たち」のエピソードを対比させているところ。子孫を残せず、生まれ変わりの夢も持てない者たちの存在。虫や獣でさえ持っている「血の流れ」を断たれてしまっている者たち。彼らはこの共同体の否定者となる資格があるのに、対立していなく、ただただ地を這うように生活している。そして村の掟を破った者たちの「血を絶やす」リンチに加わっていく。ここらへんの無惨でありながら生命力だけは感じさせるところが今村の世界。この監督は理性では共同体を否定しようと思いつつ、そのメカニズムに魅了されてしまっているようなところがあり、その屈折が魅力になっている。嫌悪と讃仰が入り混じっている。そして多くの近代日本人にとって、そのテーマがずっと「問題」として頭上にあり続けていたのだな。いくつかの怪異が印象に残る。二度噂に現われる父の亡霊。銃を撃つと木精が揺れ騒ぐところ。そして楢山まいりの途中でおりんが一度ふっと消えるところ。山を登るにつれて次第に神聖さが増していくところが見事。
[映画館(邦画)] 8点(2012-06-28 12:33:34)
4.  流れる 《ネタバレ》 
ヨーロッパとはまったく違う没落の様式とでも申しましょうか。女性的なのよね。映画としても女優展覧会のおもむき。でもやっぱ杉村が光る。電話で三味線の手を習うとことか、「芸者稼業はいいねえ」と言って、ジャジャンガジャンと岡田茉莉子と踊って吐きそうになったりするとことか、いい。あそこでふっと泣いた感じを出したりしちゃいけないのよね。あくまで生理的な吐き気だから、かえって無惨なの。田中はじっとしている役で、山田んとこに伺いに来て返事がないので立ちかけて、なんてあたりがいいね。山田はこういうのやらせると間違いがないし。元の旦那と会えなかったとこや、あの十万は手切れ金のつもりだったのよ、と言われるとこなど。シッカリ女のちょっと弱いとこをうまく突いてくれる。栗島は貫禄だけで見せているようでいて、面倒見のいいような・後半あっさり見捨てていくようなとこを嫌味なくやってのけるのだから、やはり大したものなのだろう。と、女優展覧会でありながら、ぜんぜん「ケンランと」ではなく、じっと沈澱してくるような手応えが成瀬の味わい。そこに、ヴィスコンティなんかとはまた全然違った、しかし日本ならではの没落の歌が流れている。
[映画館(邦画)] 8点(2011-01-11 10:12:57)
5.  ナチュラル・ボーン・キラーズ
70年代ふうニューシネマのパロディとも見られる。あの新しさとテレビの退屈さとが同じものであった、っていうか。二人の出会いの場が「ルーシー・ショー」ふうのコメディにされて出てくるあたりは実にワクワクした。あとアニメあり、ニュースふう事件再現あり、とごちゃまぜの文体で「テレビの国のユリシーズ」といった面白さ。二人は社会に対して特別に恨みつらみがあったわけじゃない、あったのは家族に対してだけ。この世はゲームの場となり、イノセントに殺人を続けていく。そこにリアルな感じがあった。マスコミ批判は戯画的になりすぎて、それほど印象に残らず。インディアンの場は、これだけ「裁き手」になってしまうのでつまらない。ナチの悪もアニメの悪も、ブラウン管の中では同質になってしまうって視点が大事なんだ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-07-03 11:45:03)(良:1票)
6.  ナイトメアー・ビフォア・クリスマス 《ネタバレ》 
人形アニメとしての丁寧さもいいが、設定もいい。「怖がらす」ことを極めてしまって、なんとはないウツロに捉えられているジャック、ふとクリスマスを覗いてしまって、今度は「喜ばす」ってことをやろうとする。一生懸命科学的に分析しようとしたりして。何ら悪意がないところに、「フランケンシュタインの怪物」的哀しみが潜んでいる。これは下手すると「己れの分際を知れ」って反動的なメッセージになってしまいかねないところ、ジャックが「とにかく俺はやったんだ」ってな歌を朗々と歌い上げて、そうはならない。ここが大事。キャラクターもよくできていて、市長は二つの顔がクルクル替わるし、ヒロインは体が分解する。手だけでサンタを助けたり。何か頭部がドロドロネバネバのやつもいたなあ。トランプのキング。中身が虫のカタマリのやつ。人を怖がらせる国に比べてクリスマスの国の退屈な暖色、これは日本でも地獄絵の豊穣と極楽絵の退屈と、どんな文化圏でも同じ傾向があるな。ハロウィン・クリスマス文化の浸透している国だともっと楽しめるのだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2010-06-06 12:04:54)(良:1票)
7.  浪華悲歌
考えてみればこれ完全に「傾向映画」というジャンルに含まれる作品なんだなあ。題名「何が彼女をさうさせたか」だっていいんだ。ただヒロインが一方的に受難するのではなく、彼女なりに企て、対決しようとする。そこらへんで「傾向映画」というジャンルから抜け出たか。ヒロインが決断するところを飛ばすのがいい。会社からも家からもいなくなって、モダンなアパートに移る。昔の恋人がアパートを訪れるシーン、カーテンの外から山田を捉えていたカメラが下がり入り口の男、そのまま階段を上がっていくのを追い、もとの窓までワンカット。『祇園の姉妹』では、ちょっとラストが取って付けた気分になるんだけど、こっちのラストはしっくりくる。署に引っ張られ、情けない男は逃げ、家に帰れば、自分が金を工面してやった兄、妹にうとまれ、実情を知っている父も黙ったまま。社会も家庭も大きく壁として立ち塞がってきて、それと拮抗するぐらいにヒロインは不貞腐れる。それまでヒロインの“闘争”を観てきた者にとって、戦いに敗れた後に彼女ができることは「不貞腐れること」しかないと納得できる。ぜんぜん「いじけ」た気分のない不貞腐れ。こうならねばならない、という道を突き進む迫力。転落することのエネルギーが満ちている。これって面白いことに、がむしゃらに成り上がる話とどこか気分が似ているんだ。
[映画館(邦画)] 8点(2010-01-10 12:11:09)
8.  ナイト・オン・ザ・プラネット
同時刻の地球の異なる場所をつなげるってアイデアで、それを夜に設定したのが洒落てる。せっかくいろいろな国を回るのに、昼の風景を見せない。そのために観光映画になってしまう危険から逃れられた。昼を陸とするなら、夜は海だろう。夜は一つの大いなるものの顔をいろいろな角度から見せてくれる。昼の会話がつまるところ社会の会話になってしまうのに対して、夜は人が組織を離れてしゃべり出す。人間という大いなるものが、会話を始める。一番ジャームッシュらしさが出ていたのはNY篇だろうが、パリ篇のリリシズムが、彼の別の世界の発見として嬉しかった。差別の問題を微妙に隠しながら、夜のせいでちょっと饒舌になっている運転手と客の会話。たぶん昼だったら遠慮してしまうような話題にも触れ、しかし別に偏見に関する論議が始まるわけでもなく、被差別者同士で共感し合うわけでもなく、あくまで運転手と客の距離が節度を持って保たれながら、そのちょっと饒舌になってる気配がいい。べたつかないんだけど不誠実ではない会話。そこでこの車内に満ちてくるのが、これが面白いんだけども、もう一振れすれば怪談にでもなりそうな神秘的な雰囲気なのだ。運転手にとって後部座席ってのは、密室で後ろから見られ続けていてもともと気味の悪いものだろう。しかもこの盲人の客は、見られている以上に何かを見ているようなのだ。NY篇が不完全な言葉を通してのコミュニケーションの物語だったとすれば、このパリ篇は妨げられた視線を超えてのコミュニケーションの物語ということになる。これを怪談めいた雰囲気を通して叙情性に持っていったあたりがツボ。楽しかった。そしてヘルシンキ篇で夜明けを迎え、個人の時間が消え、時計の針がただ時を消化していく退屈な昼の半球に入っていく。そう、この時間日本では昼の12:07というリリシズムのかけらもない時間なのだ。せめてその時刻に合わせてレビューを登録するのが、この映画に対する敬意の表明になるだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-27 12:07:20)(良:1票)
9.  嘆きのテレーズ 《ネタバレ》 
殺人ありユスリありの犯罪ドラマだが、極悪人がいない。みんなささやかなレベルアップを求めているだけで、ちょっとした自由や安定に手を伸ばし、破滅を引き寄せてしまう。印象深いのがユスリ、ネチネチした悪党の振る舞いはしていても、けっこう義理堅い奴で、自分が瀕死の状態でも密告手紙の心配をしてる。古自転車屋を営めたらたぶん更なるユスリはしなかっただろうと思われる。戦争で裏切りを含む幾多の苦難を渡ってきて、これからは穏やかに生きたいと思ってたんだろう。値切られた金額でも満足していた。その希望のささやかさが、この人物を立体的にしていた。テレーズの旦那はすごろく遊びで満足する、その母は息子さえ元気ならいい。主人公の二人は、ダンスホールで大っぴらにダンスできなくても、ひそやかに密会を続けていた。それだけで満足できなかったちょっとした夢、レベルアップの希望が、登場する全員を破滅に導く。ことさら宿命などと呼ばなくても、こういう「意のままにならない進行」で世の中は動いていくんだな、だからと言って死んだように生きてても仕方ないしなあ、などとしみじみ考えさせられる。その事実だけを淡々と記録する映画の静けさがいい。寡黙なテレーズ、病後の姑の目だけの無言、そして破滅を告げるラストのユスリ屋の永遠の沈黙。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-10-06 11:02:58)
10.  夏の嵐(1954) 《ネタバレ》 
この監督は、異世界の闖入で始まる映画が多い。『山猫』は祈りの場に兵士の死体、『地獄に堕ちた…』はブルジョワの誕生パーティーにナチの兵士、『家族の肖像』はもう闖入そのものが主要なモチーフで、本作はオペラ劇場に解放を呼びかけるビラ、となる。緊張で張りつめ、静けさ・秩序を保っていた世界が、崩れ始める予兆。劇的効果満点で、下り坂にかかって、ぎりぎりに保っていたものをプツンと切るところから、ドラマが始まるわけ。そして全体が没落の傾斜を演じていく。軽蔑していた密告者への没落。しかしラストの処刑によって、男を「オトコ」にしてやった最後の愛情とも取れるわけで、すべてがみじめに没落していく中でそこだけ高貴なものを輝かせようとした女の凄みみたいなものを、アリダ・ヴァリが演じきった。というかもうこれは監督の資質なんだろうな。売春婦一人を画面中央で捉えるところでも、実に格調があって堂々としている。生まれながらの貴族ってこういうものか。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-30 09:48:35)(良:1票)
11.  南無一病息災 《ネタバレ》 
木の木目を生かしているのは、なんとなく絵馬のイメージにつながり、「願掛け」→「願い」といった話の設定を補強する。病んでいる少女に「心配しなくていいんだよ」と慰めている、という枠があるのがミソ。民話のような話を語る設定として、いい趣向だ。ホラあそこのお堂の絵馬を見てご覧、昔からそういうことになってるんだよ、という語りかけの調子が出る。青鬼が住み着いたほうは長生きし、赤鬼に急に飛び込まれた元気者のほうは血へど吐いて死んじゃうの。妻も子も。というギラリとしたものを含んだお話。民話ってのは、こういう無慈悲なギラリが平気で入っているから怖い。紙人形のような動きが面白い。ただフォークソング調の歌は、ちょっと違うんじゃないの。
[映画館(邦画)] 7点(2012-04-19 10:10:18)
12.  ナイルの宝石
こういうジャンルって日本には生まれないな。お笑い活劇。日本だと、笑いを重点的にすると活劇がお粗末になり、活劇っていうとみんなマジメ。これ目新しいギャグはほとんどないんだけど、でも楽しかった。時間の長さもちょうどいい。飛ばないジェット機がごとごと走ってるってのはかなりおかしい。この時代アメリカの公的な悪役はカダフィ大佐だったころで、ヒトラーに見立てて、ちゃんとアメリカの言い分も織り込んである。というか、こういう娯楽作品のためにいつも「公的な悪役」を用意しておく国柄なのか。キャスリン・ターナーって、はっきり三の線の人で、こういう人材も日本にはないな。そもそもここらへんのおばさんが主役になることが、二にしろ三にしろまずない。若くなくなると、もう母親役の脇が振られるだけ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-11-22 10:09:57)
13.  南極料理人 《ネタバレ》 
ちょっと『刑務所の中』を思った。ルポルタージュ的作りもそうだが、「拘束された男たちのかすかな自由を求めての退屈消化の日々」といった内容も似ている。エピソードの並列になるので、一本の物語としての印象は弱まってしまうが、面白いエピソードは面白い。南極に行くことになった経過をササッと描いた部分、強引な「おめでとう」に対して「家族と、相談させてください」と反復する場は笑った。中盤はダレ気味で、このままいくと低評価になるかというとこで、屋根の上に上げるべき娘の歯を地球の奥深くに落としてしまうエピソードがいい。家庭的なものが非家庭的・極地的な穴に吸い込まれ、ベトベトのカラアゲという着地点にきれいに決まり、ノスタルジーがやるせなく立ちのぼってくる。ラーメンの話もいい。家族と離れ、男だけで暮らしている若干切なさの混じった滑稽。画面の中の体操の、女性のかすかな背中におおーっとどよめきが起こる。逆に自分たちも画面の中に納まり、ぎごちなく家族に姿を見せる。日常から遠く離れた極地での日常的な調理という視点が、遠く離れた二つの世界を暖かくつないでいる。観終わって伊勢海老のフライは食べたくならないが、ラーメンは食べたくなった。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-13 12:01:26)(良:1票)
14.  夏物語(1996) 《ネタバレ》 
この人の映画は見ていてごく自然に口もとがほころんできて、その気分が好きだな。どう見てもかわいいマルゴから声をかけられても、最初のうちのガスパールはレナのことしか頭にないから焦点を結ばない。お互いに恋人を待っている男女がえんえんと日を待ちつつ、毎日一緒に過ごす。この前半の設定が最高で、つまり口もとがほころぶいい感じ。ソレーヌが絡んできてややこしくなり、さらに不意にレナが訪れ、後半はこのややこしさのコメディになっていく。これはこれで楽しい。優柔不断のゆえによりややこしい状況を選んでしまう男。でもこれは結局ガスパールがマルゴを発見する話と見ていいんだろうな。代役がいつのまにか主役になっていた、って。恋の報告をする相手のほうが大事になっていく、恋のおかしさ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-07-15 11:59:29)
15.  ナージャの村
チェルノブイリの被害を受けた村の、リンゴの収穫から冬を経てまた春までの一年。こういう四季ものってのは、だいたい時間の循環を描くものだが、隔離され滅びるのを待たれている村なので、その循環がかえって直線的に滅亡へ向かう現状の厳しさを際立たせる。生活の営みはあるけれども、着実に人は減り、死者となって帰ってくる。バス停も店も草に覆われ、終末のイメージは隠せない。村に残っているのは老人ばかりでなく、タイトルのナージャという女の子もいれば、ボクサーという名のうさんくさい男もいる。屋根のスレートを剥がしては売りにいき、あとは釣りをしてブラブラしている。そういった豊かなキャラクターがありつつも、着実に村は衰亡に向かっている。ヤギのシロも死ぬ。ナチの侵攻に耐えた村だったが、「今度のやつは…」と村人は言う。それでもおばあちゃんは種を植え「外はいいぞ、早く芽を出せよ」と唱えるの。希望を見いだしづらい映画だが、現実がそうなのだから仕方ない。編集に佐藤真。
[映画館(字幕)] 7点(2009-02-05 12:11:29)(良:1票)
16.  ナバロンの要塞 《ネタバレ》 
ずっと担架で運んできた怪我をした仲間に偽の情報を吹き込んでおいて、やがて自白剤を使うであろうドイツ軍を混乱させようと考えるG・ペックを、D・ニーヴンが非情すぎると非難する。ここらへんもっと突っ込めば「戦争における非情さ」で芯のテーマになれる問題だろうが、エンタテイメント映画を逸脱するのでサラリと描き、怪我人の内心の屈曲には触れずに、彼はチームの成果をベッドから見て喜ぶだけ。女性スパイの処分の場も「軍人は抵抗できぬ女性を射殺できるか」という戦場における非常さの問題に突っ込みかけるが、ここもなんとなく「戦争とはやり切れぬものだ」という詠嘆どまり。エンタテイメント作品ですから、という言い訳でずいぶん逃げてるなと思ったけど、「エンタテイメントをそれだけで終わらせない姿勢」と思えばよいのか。ただ各エピソードが寸断されてる印象があり「話を膨らます」展開に乏しかった。ペックとA・クインの軋轢は、最期の海で銛で救助する場面でうまく生かしてまとめた。第二次世界大戦ではギリシャものってのがあるんだな。最近ではニコラス・ケイジの『コレリ大尉のマンドリン』てのがあった。ノンキというのとは違うけど、独特の色調が加わる。地中海的おおらかさ?
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-07-11 09:22:27)(良:1票)
17.  ナック
ポップだなあ。怒れる若者たちの時代、大人たちの視線を折り込みつつ、老大国イギリスの自意識でもあろうけれど、若者たちを街に走らせる。ベッドを走らせるあたり、イキイキしてる。いつもどこか開いてしまうコインロッカーのドア、コーヒー販売機のボタンで閉まる。あと路地の出入り、とかギャグもいろいろ。この監督アメリカ生まれなのね(たしかJ・アイヴォリーもそう)。根っからの英国人でないことも、この視点に関係しているか。伝統を背負う責任がない。若者たちの子どもっぽさを肯定する空気がある(いや、それこそイギリス的なのかも)。ジョン・バリーのジャズっぽい音楽が(つまり大人っぽいってこと)、若者たちとの間に距離を作ってる。彼らの明るさに対する翳り、この世は無常ですぞ、といった雰囲気。
[映画館(字幕)] 6点(2013-05-11 09:15:32)
18.  ナイト・アンド・ザ・シティ
だいたいの人は「いまの俺は世を忍ぶ仮の姿だ」と思いながら生きて、そのまま年取っていっちゃうわけだけど、ときに一寸の虫の五分の魂が爆発する人もいる。人っていじらしい、それにひきかえ社会っていじらしくない。やくざな弁護士がボクシング興行に唐突に夢をかける。もう夢を持つ年齢でもないか、という照れを越え、もう夢をかなえるなら最後だ、という焦りに乗って。デ・ニーロのセリフ量の多さでは出演作中一番かもしれない。それがちょっとモタれる。それと彼だと陰影がなにか高尚に出すぎちゃって、惨めたらしさにまでいってくれない。深みがついちゃって。J・ダッシンのオリジナル(未見)ではR・ウィドマークが演じたそう。彼の夢とJ・ラングの店の夢が対になり、あと老ボクサーの夢もあり、そういった構図。らせん階段を延々と下りて外に出て行くまでの長回しがあった。
[映画館(字幕)] 6点(2011-11-27 09:42:36)
19.  ナイト&デイ 《ネタバレ》 
1年後には細部をほとんど思い出せなくなっていることが確実な映画。でもね、最近のハリウッド映画は変に思わせぶりなシーンを入れたり、曖昧な決着にしたりして、モヤーッとした後味を残すのがけっこうあって、こういうきれいに忘れ去られるように作られてる潔さは貴重じゃないか。悪漢の手下ってのは、ただ撃たれて退場するのが多いけど、これではちょっと使い回ししてる。最初の飛行機内で撃たれた悪漢どもは、あとで機体の傾きとともにユラリと通路に倒れてキャメロンに状況を悟らせる役割りを持たされる。スペインでの手下どもが順々にヒョイヒョイと吊り去られていくのは、ただ撃たれて退場するよりは楽しい。こういうところが嬉しかったが、1年後まで覚えているかどうかは微妙。おそらく作品のポイントとして一番記憶されやすいのは、バイクでトムに後ろ向きにまたがったキャメロンの銃撃ポーズだろうが、監督はスピード感出すためのCGに夢中で、このポーズを観客にしっかり記憶させるような明確なカットを残さなかった。CGよりそっちのほうが大事でしょうが。惜しいかな。ずっと薬のモチーフでつなげてきて、このシーンの直前にエロくなる薬を飲まされてて、そしてあのポーズになる、と段取りはいいのに。悪漢につかまればトムが助けに現われてくれる、という確信なんか、アクション映画のヒロインとしてキャメロンは正しい判断をしているのに。
[DVD(字幕)] 6点(2011-08-05 10:12:56)(良:1票)
20.  NINE(2009)
これは映画のミュージカルじゃないな。舞台のミュージカルを移設しただけだ(たって舞台は観てないけど)。現実と幻想とがはっきりステージによって分離されている。女たちのアピールはステージから歌われる(それは彼が作れない映画「イタリア」のセットで、つまり彼は「彼の次回作」から女たちの攻撃・復讐を受けているわけ)。ミュージカル映画の楽しみは、現実が非現実に移る瞬間にあると思っているので、こうはっきり別々のもんと分かれてしまってると物足りない。浜辺の大女のナンバーでの「砂」の使い方なんか舞台だと異物として生きるとこだと思うが、映画だと「ステージ」も「砂」も同列の被写体としてスクリーンに映写されてしまうだけだ。振り付けに映画としての作戦が見られないのだ。だからダンスシーンだけ取り出して見直したときのほうが楽しめた。そもそもフェリーニの映画がもともとN・ロータと合作の音楽劇ってとこがあるから、あんまりミュージカル化しても「めざましさ」がないんだよな(ラストなんかオリジナルのほうがよっぽどミュージカルだった。全女性が集まってくる感じはいいんだけど。ついでに言っとくと、あれフェリーニってよりゴダールだね)。もっと異質なものを持ってくる冒険しても、あのジャンルは輝くんじゃないか。「ミュージカル・仁義なき戦い」なんてのをつい空想してしまった。「広能が歌う! 山守が踊る! 血の抗争を華麗なダンスに変貌させた今夏最大の問題作! 近日上映!!」だったらすっごく期待して行っちゃうな。
[DVD(字幕)] 6点(2011-04-24 12:14:17)
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