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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  亡国のイージス
ガンダム世代によるガンダム的戦争小説。これが僕の原作評価である。戦争がテクノロジーとメカニックにより支えられたシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)であるのと同時に、そこで一瞬にして消え去る生命に対して、その大量死を否定し、生のリアリティを確かめずにはいられない、ある意味で非戦場的な感情劇こそが現代の戦争小説なのである。それがある種のヒューマニティとテロルの論理との葛藤によって支えられる安直な思想劇であること。イデオロギーや理想に支えられる世界という観念、革命という精神の観念劇は物語の浮間に露ほども顔を見せず、行動は私怨により支えられる復讐劇であって、全ては各個人の生きる意味と意志に還元される。これは良くも悪くも我々の世代の戦争観であり、現実である。つまり戦争が絶対的外圧として描ききれない、平和な時代の無精神な戦争観こそがこの戦争冒険ノベルズの核なのである。「これが戦争だ」という台詞に漂う不可思議で不明瞭な違和感、それはマンガ的な非現実感であると同時に湾岸戦争から9.11に至る現代の戦争で僕らが感じた現実感そのものでもあるのだ。 とはいえ、僕が原作をなかなか面白く読了したのは、自身もガンダム世代だからだろうか。原作者がガンダムから戦争を学んだという言説を僕らはリアリティをもって受け止めることができるのだ。 さて、映画であるが、まずこの映画化に際して注目すべきは、監督が阪本順治であることだろう。阪本順治と言えばやはり『トカレフ』である。あの奇妙な人間闘争劇、剥き出しの個人が放つ乾ききった殺意や愛憎は、この監督ならではの現代感覚であった。この妙にウェットな戦争大作を阪本がどう料理し、映像化するか、興味はその一点に尽きるとも言えたのである。 結果から言えば、この監督の味わいは完全に原作に飲み込まれてしまったというのが僕の感想である。この映画の中に『トカレフ』の「あの」主人公たちはいない。原作への忠実さにダイハード的な冒険色を前面にうち出した映像はなかなか見ごたえがあり、そういう意味では、原作の冗長さを的確に纏めた上手い映画だと思う。役者達の演技も素晴らしかった。それだけに、もっと乾いた視線で登場人物たちの人間性を抉り取り、僕らに切実なる違和を投げつけてもらいたかったというのが正直なところでもある。それだけの力量を持つ監督だけに少し残念であった。 
[映画館(字幕)] 8点(2005-08-27 08:23:41)(良:1票)
2.  ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。
8点(2004-09-04 00:32:33)
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