鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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プロフィール
口コミ数 2658
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  マッシブ・タレント
映画の“ジャンル”には、数多くの種別やゾーニングが存在する。アクション映画、サスペンス映画、SF映画といった大きな区分もあれば、スパイ映画、ゾンビ映画、動物映画、乗り物映画といった、より細分化されたジャンルもあるだろう。 その細分化されたジャンルの末端に、明確に存在しているものがある。
それが、“ニコラス・ケイジ映画”である。  本作は、究極の“ニコラス・ケイジ映画”であり、唯一無二のハリウッドスターである彼の矜持と魅力が詰まり、溢れ、爆発している。そんな熱狂的な娯楽映画であった。  「ニコラス・ケイジが、ニコラス・ケイジとして登場する」という大前提のプロットだけで、「ああ、これはおかしな映画に違いない」と、映画ファンなら容易に“感づく”ことができるだろう。
れっきとしたハリウッドスターでありながら、金策と仕事選びに日々悩み続ける主人公――というか本人そのものの設定が、すでに面白い。  プロデューサーやエージェント、そして家族からも、半ば愛想を尽かされ、呆れられているこのハリウッドスターの悲哀が、冒頭から“ダダ漏れている”。
ニコラス・ケイジ本人が、本人を演じているのだから、それは当たり前のようにも思えるが、実はそう単純ではない。 他人が創造したキャラクターを演じたり、実在の人物を演じることは、多くの俳優にとって「仕事」として容易なことかもしれない。
でも、うらぶれた“自分自身”を映画の主人公に据え、それを当たり前のように演じきるという行為は、実のところとんでもなく難しいことではないだろうか。
劇中では、飄々と楽しんで演じているように見えるが、そこには(曲がりなりにも)アカデミー主演男優賞を受賞した俳優、ニコラス・ケイジの「俳優力」がほとばしっていたと思える。  「営業仕事」として、とある大富豪の誕生日パーティーに参加するという設定も、非常にリアルである。
日本の映画ファンには強烈な記憶があるかもしれないが、かつて彼は日本のパチンコ屋の、ややイカれたCMに出演していた。彼なら報酬次第でどんな仕事にも応じるに違いないと確信してしまう。  さらに本作の魅力を高めているのが、その誕生日パーティーで待ち受ける大富豪“ハビ”の存在。
彼は筋金入りの“ニコラス・ケイジ・マニア”であり、その異様なキャラクター性を、演じるペドロ・パスカルがこれまた爆発させている。
世界的なハリウッドスターでありながら、小馬鹿にされ、侮られることに苦悩するニコラス・ケイジにとって、ハビはまさに“世界一の理解者”であり、一夜にして「親友」となる。 俳優としての“異様さ”を体現するニコラス・ケイジと、ファンとしての“異様さ”を発揮するハビ。
そのふたりが入り混じり、意気投合し、関係性を深めていく様は、あまりのも滑稽でありながらも、どこか感動的ですらあった。  この“スター✗ファン”の構図にこそ、ニコラス・ケイジがなぜ唯一無二なのかという“理由”が明確に示されていたと思う。
フランシス・F・コッポラを叔父に持つ名門に生まれ、アカデミー賞を獲得しながらもギャンブルに溺れ、借金苦に陥り、結婚と離婚を繰り返す――そんな人生の中で、節操なくB級・C級作品にも出演し続けた彼。 一部からは嘲笑されながらも、30年以上にわたりフィルモグラフィーを積み重ねてきたその姿には、一種の「中毒性」がある。
たとえどんなに退屈で、明確に面白くないC級映画でも、主演がニコラス・ケイジであることで、「何か普通じゃない映画」に見えてしまうという或る種のマジック。
結果的に映画作品に満足できなかったとしても、「ああ、ニコラス・ケイジは今回もニコラス・ケイジだったな」と、不思議な安心感を覚えてしまう――この中毒性こそが、彼の絶対的な魅力なのだ。  ペドロ・パスカル演じる“ハビ”が、ついにニコラス・ケイジと邂逅し親睦を深める過程に見せる“ラリったような表情”こそが、その中毒性を雄弁に物語っていた。  こんな「中毒者=ファン」が世界中に存在する限り、ニコラス・ケイジはニコラス・ケイジであり続けるだろう。そして、これからも“ニコラス・ケイジ映画”というジャンルは、その異様な作品群を生み出していくことだろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2025-05-11 13:33:24)
2.  マインクラフト/ザ・ムービー
久しぶりに子どもたち二人を連れたって観に行った『マインクラフト』は、姉弟にとっては初めての実写映画の劇場鑑賞作品となった。 もちろん日本語吹替版での鑑賞を選んだが、一映画ファンの父親としては、子どもたちと共に、ジェイソン・モモアやジャック・ブラックが出演するハリウッド映画を鑑賞できたことは重要なトピックスであり、嬉しい体験だった。  私自身は、『マインクラフト』というゲームをほぼプレイしたことはなかったけれど、中2と小5の姉弟は、数年前からこのゲーム世界のプレイを楽しんでいた。特にゲーム世界の中での“モノづくり”に興味関心が高い息子は、一時期すごくハマっていた印象がある。 私は、一度どんなものかとプレイしてみたことはあったけれど、他のビギナー向けゲームと比較して、プログラミング言語が表層に露出する独特なゲーム構造に対して、うまく馴染めず、没入することができなかった。  “ゲーム”というものに対してどのように関わってきたかによって、『マインクラフト』の世界にのめり込むかどうかできるかどうかの“線引”があるように思えた。 そして、その境界線は、この映画化作品にもおいても明確に存在していたと感じる。  結論を言うと、私自身はこの映画作品に対して「満足」を得ることはできなかった。 “マイクラ”のゲーム世界を再現して、キャラクターたちが奇想天外なアドベンチャーを繰り広げる楽しい映画だとは思うが、ストーリーテリングにおいてはあまりにも工夫が無く、整合性の乏しいチープなストーリー展開だったと言わざるを得ない。 映画オリジナルで登場する“人間”のキャラクターたちに、あまり魅力がなく、取ってつけたようなドラマ性と、彼らの言動が、想定以上にゲーム世界の中の“異物”として目に余った印象だ。  特異なゲーム世界を舞台にした、“負け犬たちのワンスアゲイン”を描きたかったのは重々承知だが、そのためにはもっと真っ当な成長譚や、キャラクターたちの本質的な魅力が必要だったと思う。 特に問題だったのは、スターキャスティングのジェイソン・モモアとジャック・ブラックのキャラクター描写だろう。彼らのスター俳優としての華や、ビジュアル的なインパクトは、この映画を彩る娯楽性の一つだったけれど、この二人の言動やそのプロセスの描かれ方があまりにも軽薄でチープだった。 文字通りの“客寄せパンダ”としてしか機能しておらず、映画ファンとして落胆したことは否めない。  主人公の姉弟のキャラクター的な雰囲気や立ち位置はまだ良かったので、この姉弟を軸にしたもっと真っ当な家族ドラマが展開されていたならば、個人的には、隣で共に鑑賞する我が子たち(姉弟)とも重なって、感動できたのではないかと思えた。   ただし、だ。 その一方で、一緒に鑑賞した子どもたちは存外に満足した様子で、やや驚いた。 二人が言うところでは、ゲーム世界のギミックや設定が上手く反映されていて面白かった、とのこと。 なるほど、それならば“ゲームの映画化”として充分に「成功」と言えるのかとも思う。 プログラム言語をダイレクトに触り、作り込むゲーム世界同様に、この映画世界自体が、粗削りで、ナンデモアリの世界観を表現していたのかもしれない。  “ゲーム”の世界観に対してどう対峙し、“ゲームの映画化”という題材をどう捉えるか。 そこがこの手の映画を判別する大きなポイントであり、映画作品としての満足感の可否に直結する要因だと思う。
[映画館(吹替)] 5点(2025-05-11 13:31:51)
3.  マッドマックス:フュリオサ
衝撃の“Fury Road”からはや9年。究極の“行きて帰りし物語”を文字通り牽引したキャラクター“フュリオサ”の前日譚は、世界中の映画ファンが待望していたことだろう。 前作でシャーリーズ・セロンが演じた、この映画史上に残る女性キャラの若かりし時代を、今度は、現在のハリウッドを代表する“ミューズ”の一人と言って間違いないアニャ・テイラー=ジョイが演じる。そりゃあ、高揚感は是が非でも高まるというもの。  結論から言ってしまうと、ずばり主演女優アニャ・テイラー=ジョイの“眼力”で押し通した映画だった。 前作に引き続き圧倒的に破天荒な終末世界が展開されるけれど、最終的に印象に残ったのは、各シーンにおける彼女の“眼差し”のみだったと言っても過言ではない。だが、それで良いし、それが良かったと思える。  前作がただただシンプルに行って帰ってくるストーリーだったように、本作はその表題に相応しく、あらゆるものを奪われ失った一人の少女“フュリオサ”の「復讐心」のみを表現した映画だったと思う。 故郷から引き離され、母を奪われ、人生を奪われ、そして腕を奪われたフュリオサが、復讐心の一念のみで生き続け、仇とこの世界に対して逆襲をしかける。そのシンプルで、ある意味純粋な感情が、主演女優の眼差しに宿り、明確なエンターテイメントして確立されていた。 アニャ・テイラー=ジョイは、全世界のボンクラ映画ファンが期待を最大限高めた役柄に対して、その眼差し一つで見事に応えてみせたと思う。     彼女のファンとして、とても満足度の高い映画であったことは間違いない。そして、「マッドマックス 怒りのデスロード」の前日譚としても申し分ない作品だった、とは思う。 ただその一方で、「ああ、紛れもない前日譚だったな」という印象は拭えない。それはこの作品の立ち位置として全く問題無いことではあるけれど、前作以上の映画的パワーがあったかというと、そこは当然ながら「NO」と言わざるを得ない。  本作をIMAXシアターで鑑賞したその日の夜、前作「マッドマックス 怒りのデスロード」を自宅で再鑑賞した。 劇場鑑賞以来9年ぶりの鑑賞だったが、やっぱりその強烈すぎる映画世界に改めて驚愕した。 ああ、そうだ、こんなにもイカれた映画だったと思い出した。 すると、昼間に観たこの最新作の印象が極端に薄まってしまっていることに気づいた。  前作と同じくジョージ・ミラー監督が手掛けた同じ世界観の映画作品のはずだし、製作規模的にも極端に目減りしている印象はないのだが、何か絶対的な“物足りなさ”を覚えていた。 それが具体的に何なのか明確には言語化できないけれど、前作と直接比較した所感としては、作品に対するもう一歩踏み込んだ「情念」や、ディティールに対する偏執的な「執着」が、ほんの少しだけ希薄に感じられた。 そう、詰まる所、前述の“イカれ”具合そのものが足りていなかったということなのかもしれない。  自宅で鑑賞した前作のBlu-rayに収録されていた特典映像を観ていくと、ジョージ・ミラー監督をはじめとする製作陣が、本当に嬉々として、自分たちが大好きな世界観の創造に没頭していることがよく分かる。 無論、本作においてもその情熱に陰りは無かっただろうけれど、全世界でカルト的人気を築いたオリジナルシリーズから30年の時を経て、製作された前作には、もっと無謀で、もっと純粋なチャレンジ精神が溢れかえっていたのだろう。  とはいえ、繰り返しになるが、「前日譚」として本作のテイストと仕上がり自体は、正解であり、成功していると思う。 御大シャーリーズ・セロンに負けず劣らず、若かりしフュリオサを体現してみせたアニャ・テイラー=ジョイは見事だったし、もっと彼女のフュリオサを見たいという気持ちは強い。 前日譚に続編があっても全然問題ないと思うので、引き続き彼女がこの先どう人生を送り、闘い続け、“Fury Road”へ向かう「決心」へと繋がっていくのか。是非観てみたい。
[映画館(字幕)] 8点(2024-06-02 18:37:48)
4.  マーベルズ
MCUのドラマシリーズを追えておらず、必然的にフェーズ4以降の映画作品も劇場へ二の足を踏むことが続いている。本作も、公開時に思案したものの、結局劇場鑑賞はスルーしてしまっていた。 フェーズ4から現在進行中のフェーズ5まで、映画作品はなんとか全作観てきているけれど、本作を鑑賞して、さすがにドラマシリーズの各作品をまったく観ていないことに限界を感じた。 特に冒頭の各シーンにおいては、ドラマの「ワンダヴィジョン」や「ミズ・マーベル」は最低限観ておかないと、正直“しんどいな”という印象は拭えない。  それも当然で、本作は「マーベルズ」というタイトルの通り、ブリー・ラーソンが演じるキャロル・ダンヴァースが主人公の「キャプテン・マーベル」の続編というよりは、モニカ・ランボー、“ミズ・マーベル”ことカマラ・カーンを含めた3人組の物語だったからだ。したがって、モニカ・ランボーやカマラ・カーンが登場する前述の各ドラマを観ていないと、とてもじゃないけれど“置いてけぼり”を食らってしまった。  MCUの娯楽映画として全く面白くなかったということはなく、随所に本作ならではのエンターテイメントは確実に存在していたし、ヒーロー映画としてアガる要素がある映画であったことは否定しない。ただやはり、ドラマシリーズとのクロスオーバー要素が大き過ぎることもあり、彼女たちの活躍に対して終始のめり込めない。 のめり込めない大きな要因はもう一つあって、“主人公たち”の中心であるキャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)にまつわる描くべきストーリーがおざなりになりすぎていたことだ。  “キャプテン・マーベル”自体が、フェーズ3の最終盤において突如描き出されたスーパーヒーローである。演じるブリー・ラーソンの想像以上のマッチングぶりと、「エンドゲーム」においてサノスすらも圧倒する無双ぶりによって、キャラクター的には短期間でその地位を確立した感があるけれど、前作「キャプテン・マーベル」では描ききれていない要素や真相が謎の部分も多々あった。 キャプテン・マーベルのキャラクターそのものに対しての深堀りや、彼女の出自の詳細がこの続編ではもう少しきちんと明確に描き出されるべきだったと思う。  そういったくだりがなく、いきなり“私たちはマーベルズよ”と言われても、ちょっと同調しづらかった。 実際本作のヴィランの“怨み”の発端は、キャプテン・マーベルによる過去の功罪によるものなのだから、その部分は本作内でもう少し丁寧に描くべきだったろう。 そして、さらに苦言を加えると、「エンドゲーム」におけるキャプテン・マーベルの無双感を経たあとでは、モブキャラ相手にドタバタと格闘を繰り広げるシーンも違和感を禁じ得なかった。本作のヴィランもそれほど圧倒的な強者というわけではないので、やはり鼻白んでしまったことは否めない。  ただその一方で、“ミズ・マーベル”ことカマラ・カーンのキャラクター性は抜群にユニークでキュートで娯楽性に溢れていたと思える。 キャプテン・マーベルのことを完全に“推し”目線で捉えて、「新人」ヒーローとして奮闘する姿は、終始観ていて楽しかった。そのさまは、「シビルウォー」で初登場した“スパイダーマン”を彷彿とさせた。 光を具現化して戦う彼女の能力とそのビジュアルも、良い意味でマンガ的で面白かった。何よりも演じるイアン・ヴェラーニによるザ・ハイティーンな風貌や言動が魅力的だったと。後追いになってしまうが、「ミズ・マーベル」はいの一番に観てみようと思う。  さて、“マルチバース”の裾野を四方八方に広げたフェーズ4を経て、フェーズ5ではいよいよあらゆる“次元”と“世界”が入り交じることは必至なようだ。(今年公開の「デッドプール&ウルヴァリン」によってその“タガ”は更に遠慮なく外れていくことだろう) “インフィニティ・サーガ”までの統合性とそれに伴うクオリティの安定性はもはや期待できないかもしれないけれど、可能な範囲でドラマも後追いしつつ楽しんでいこう。(Disney+を契約しているうちに……)
[インターネット(字幕)] 6点(2024-02-24 23:54:38)
5.  マイマイ新子と千年の魔法
「この世界の片隅に」の衝撃的な感動から6年あまり、片渕須直監督のアニメーションの真髄は、そのさらに7年前に製作された本作の中に既に息づいていたことを、今更ながら思い知った。ある平日の深夜に気軽に鑑賞したのだが、想像以上に傑作だった。  山口県防府市の農村に生まれ育った主人公の新子と、東京から転校してきた貴伊子との出会いと育まれた友情。 共に過ごしたその日々は、一年にも満たない短い期間のできごとではあるけれど、深く、瑞々しく描き出される。 不可思議ながらも安らぐアニメ世界。澄み渡るように深い情感と、膨大な時間を超えた邂逅が、ちょっと味わったことの無い感動を生んでいる。  何やらファンタジックなタイトルではあるけれど、実際に描き出されるできごとは、実は決して特別なものではない。 この時代の日本のどこにでも存在していたであろう少年少女たちの他愛もない日々と、時代がもたらす普遍的な悲しみや苦労、そしてすべての子供たちが一度は巡らせたであろう“空想”によって、本作の物語は紡がれている。  ただ、描かれるできごとが普遍的であるからこそ、本作は形容しがたい情感を生み出しているのだと思える。 決して誰もが裕福ではない時代の中で、子どもたちは時に寂しさや悲しさを覚えつつも、それでも笑って、明日もまた会う“約束”をする。 その一日一日の積み重ねが、間違いなく「今」に繋がっているということを、千年という膨大な時の流れを引用しつつ、本作は雄弁に物語っている。  それはまさに「この世界の片隅に」で描かれた“すずさん”の人生模様に通じるアプローチだった。 そして、“すずさん”が生き抜き、命を継いだその先に、本作の時代と少女たちの人生が存在するのだということを“空想”すると、より一層芳醇な感慨を覚えた。   空想する喜びを既に知っていた新子は、生活の傍らにあった「現実」の悲しみを知る。 現実の悲しみを既に知っていた貴伊子は、新たな環境の中で「空想」する喜びを知る。 そこには時代に対する真摯な視点と共に、少女たちの成長に対する慈愛が満ち溢れていたように思う。  エンディング、コトリンゴが奏でる楽曲に包み込まれながら、「ああ、いい映画だ」と確信した。
[インターネット(邦画)] 9点(2023-01-30 23:14:22)
6.  マトリックス レザレクションズ ネタバレ 
20年越しの「復活(Resurrections)」という名の「強制再起動」。 昨今90年代前後の大ヒット映画のリメイクや続編製作が連発される映画界において、本作もプロジェクトの発端そのものはその例に漏れるものではないだろう。 ただ、本作には、そういった現在の映画界に蔓延するネタ不足と、マンネリ化を超越して、「マトリックス」という映画世界そのものとそれがもたらした文化を俯瞰して再構築するという“メタ視点”と“反則技”が満ち溢れていた。 そこには、単なる“アイデア不足”にはとどまらない意欲と、本作単体としてのアイデンティティがあったと思う。  1999年と同じく、主人公ネオ(=アンダーソン)を演じるキアヌ・リーブスが、かつて「マトリックス」という大ヒットゲームを生み出した伝説的クリエイターとして登場し、ゲーム会社に囲われるようにして、惰性の日々を貪っているというメタ的設定がまず面白い。 マトリックストリロジーの顛末を経て、「救世主」としての“役割”を全うし、機械支配からの解放を促したはずの彼が、再び囚われの身になっているという状況が、何を表しているのか。 映画史の文脈を超えて、文化的、社会的な革命の象徴となった「マトリックス」という映画世界が生み出した価値は、何を生み出し、その後時代の変遷と共にどのような位置づけに変わっていってしまったのか。  そこには様々な要素と解釈が入り混じり、我々映画ファンを再び“鏡の世界”へと誘っていた。 週末の深夜、眠気と戦いながら動画配信サービスで一度観ただけでは、正直理解しきれない部分は多いし、正確な解釈をしきれていないことは我ながら明らかだ。 やっぱり出来栄えに訝しがることなく公開時に映画館で観るべきだった、と後悔は否定できない。  ただ一つ強く感じたことは、本作はオリジナルに引き続き監督を務めるラナ・ウォシャウスキー監督の極めてパーソナルな感情や心情、人生模様が如実に反映された作品として仕上がっていたということ。 マトリックストリロジーよって「自由」を掴み取ることの真意を文字通り革命的な映画世界の中で追求し、自分自身、映画人として、そして人間として、「自由」を追い続ける彼女の生き様とその強い思いが、この映画には満ち溢れている。 そう言うなれば本作は、「マトリックス」を生み出した一人であるウォシャウスキー監督だからこそ許されるセルフパロディであり、壮大な「個人映画」だったのではないかと思えるのだ。  1999年の「マトリックス」第一作のラストシーンを模した主人公たちの飛翔には、あの時と同じ高揚感を覚えた。 この後の続編がまた生み出されるのかは知らないけれど、時代が変わり、価値観が変わっても、「自由」を追求するための可能性は無限に広がり続ける。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-05-16 00:33:06)
7.  まともじゃないのは君も一緒
「普通」に生きることの難しさと、それを同調圧力で押し付けられるこの世界の愚かしさ。 そんな普遍的な社会のいびつさの中で、“フツー”じゃない二人が繰り広げる全く噛み合わない会話劇が絶妙なラブコメだった。 ストーリー的に練り込まれた工夫や発見があるわけではないけれど、ベタなコント劇のような展開の中で、「人間」としての在り方そのものが不器用な二人が、ドタバタと滑稽な恋模様を交錯させる。 ただその不器用な恋模様と人間模様は、彼らと同じように“フツー”に生きることが下手くそな人間にとっては、事程左様に突き刺さり、終始笑いっぱなしだった。  かく言う自分も、決して人間的に器用ではなく、上手ではない生き方をしているとしばしば感じる。 他人と同調することや、強要されることを嫌い、そのことで周囲を不快にし、自分自身も抱え込まなくてもいいフラストレーションを溜めている。 もっと割り切って、「普通」に合わせて、「常識」に従順に生きられたなら、もっと楽になるのかもしれない。  でも、自分自身誤解してはならないのは、そういう生き方をしているのは、他の誰でもない自分であり、誰のせいでもないということ。 「普通」に生きることがどんなに滑稽で、愚かしく思えたとしても、それがこの世界で生きていく上で求められる常識であるならば、それは理解しなければならないし、それに反して我を通すのならば、それなりの「覚悟」を持たなければならない。  そういうことを、この映画の二人の主人公も充分に理解していて、だからこそ「普通」になってみようと彼らなりの努力をしてみるし、その上で、自分たちはどういうふうに生きていこうかと、道筋を見出していく。 果たして、普通でもなく、まともでもない彼らは、望んでいた何か、憧れていた何かを失ってしまうけれど、ものすごく狭小だったその視界は、確実に広がっている。  昔のアニメ映画の台詞にもあったように、普通じゃない生き方、人と違う生き方は、それなりにしんどい。 でも、そんな“自分”を無かったものにして、誤魔化して、妥協して生きていくことも同じようにしんどい。 どちらの“しんどさ”を選ぶことも自由だし、避けられないことならば、せめて自分自身だけは自分に対して「納得」して生きていきたい。 そんなふうに、鑑賞者の「視界」も広げてくれる映画だった。   主演は、清原果耶+成田凌。奇しくも今年見通した朝ドラ「おかえりモネ」+「おちょやん」コンビ。 成田凌は、良い意味でアニメのキャラクターのようなまるで実在感のない存在感が独特で良い。 そして、清原果耶。めくるめく季節のように切り替わる表情と感情表現は、女優として唯一無二のものを感じる。 この若き女優の天性は、まだまだ計り知れない。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-11-14 00:17:09)(良:1票)
8.  マ・レイニーのブラックボトム ネタバレ 
二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。 そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。 しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。 多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。 ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。 時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。  人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。 登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。 その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。  テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。 前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。 あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。 そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。  今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。 特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。  主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。 二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。 そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。  行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。  ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。 若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。  そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。 交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。  アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。 この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。   最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。 この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。 がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。 この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-16 23:43:41)(良:1票)
9.  Mank マンク
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」  これは、映画「エド・ウッド」の劇中で、実在の悪役俳優ベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーの台詞だ。 エド・ウッドは、奇しくもオーソン・ウェルズと同時代に“史上最低監督”として悪名を馳せ、ウェルズとは対照的な立ち位置で、今もなおカルト的な人気を博している映画監督である。  ティム・バートン監督作の「エド・ウッド」は個人的なオールタイムベストの上位に長年入り続けている大好きな作品なのだが、今作を観ていて、その“悪役俳優役”の台詞を思い出さずにはいられなかった。  それは、この映画が、時代を超えて、業界や、社会や、もしくはもっと大きな“仕組み”の中で使い捨てられる人々の苦闘と反抗を描いているからに他ならない。 今、このタイミングで、今作がWeb配信主体で全世界公開された「意図」は明らかであり、現代社会に対する社会風刺的かつ政治的なメッセージも強い作品だったと思う。  まさに今の時代も、ハリウッドの内幕に留まらず、社会全体が人を噛んで吐き捨てている。  巨大な組織、社会、国家に対して、「個」の力は小さい。そして、脆弱な「個」は、この世界の傲慢さに都合よくないがしろにされ、“消費”されている。 でも、だからと言って、「会社が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」などと、ただ愚痴を並べたところで何も好転はしない。 状況を打開するのは、いつの時代も、小さくも強かな「個」の力なのだ、と思う。  「市民ケーン」の共同脚本を担った主人公ハーマン・J・マンキーウィッツ(マンク)は、業界に対する失望とアルコール依存に押し潰されそうになりつつも、後に映画史の頂点に立つ作品の脚本を書き上げる。 それはまさしく、業界に使い捨てられた者の意地と抗いだった。    80年前の時代を懐古的な映像表現で精巧に描き出しつつも、前述の通り、そのテーマ性は極めてタイムリーな作品だった。 Netflix配信の映画らしく、忖度しない踏み込んだ表現ができたことは、デヴィッド・フィンチャーとしても監督冥利につきたことだろう。 デヴィッド・フィンチャー監督に限らず、マーティン・スコセッシやスパイク・リーなど、多くの巨匠が「Web配信」へと映画表現のフィールドを変えていっていることはある意味致し方ないことだろうと思える。 作家性が強い映画監督であればあるほど、その主戦場を「劇場公開」から「Web配信」へ移行しようとする潮流は、もはや止められないとも思う。  ただ、その一方で、今作が映画作品として完璧に「面白い!」と思える「作品力」を備えているかというと、一概にそうは言えないと思う。 その他のWeb配信映画にも総じて言えることだが、作り手の作家性やメッセージ性が強くなる半面、ともすれば独りよがりになっていたり、作品時間が長すぎるなど、小さくないマイナス要因も見え隠れする。  新作映画のWeb配信が活性化することで、映画表現の幅が広がることは、映画ファンの一人として複雑ではあるが、喜ぶべきことだろう。 しかし、何事においても、“「自由」になればなるほど「自由」ではなくなる”、という矛盾した真理を孕んでいるものだ。 「自由に作ってくれ」と言われて、喜ばない映画監督はいないと思うが、その上で、結果として万人が面白い映画を生み出すことができる映画人は相当限られるだろう。 映画表現の幅が広がるということは、同時に、これまで「制限」の中で才能を発揮してきた映画人たちの新たな資質を問われるということなのだと思う。  「映画」という表現が、その形態を変えざるを得ない時代において、この先どのように進化していくのか。 それこそ、80年前にオーソン・ウェルズが成したような「革新」が今まさに求められているのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-12-13 00:25:22)(良:1票)
10.  マリッジ・ストーリー
「いやあ、ちょっと、ぐうの音も出ない。」  と、鑑賞直後に呟いてから一週間が経とうとしているが、その後も紡ぐべき言葉が中々出てこなかった。 “ブラック・ウィドウ”と“カイロ・レン”の「リアル」なバトルを目の当たりにして、只々身につまされ、ひたすらに打ちのめされた感覚のまま、数日間、思考が止まっている。  もう軽く受け流して、目を背けたい気持ちでいっぱいだけれど、なんとか“鑑みてみよう”と思う。  主人公夫婦と、僕たち夫婦の境遇はとても良く似ている。 結婚して10年、共に働き、長子は8歳。(そして、妻はダンスが上手く、腕っぷしが強い。)  どうにかこうにか今のところ「離婚」というプロセスは辿ってはいないけれど、喧嘩はしょっちゅうするし、甲斐性のない僕に対する妻の不満の蓄積は認めざるを得ない。  勿論、僕は妻を愛しているし、たぶん…、おそらく…、願わくば…、彼女もそうであることは変わりないと思うけれど、だからと言って、最初の「約束」通りに、連れ添い続けることが「絶対」ではない。 ある意味ひどく“曖昧”で、とても“脆い”関係性が「夫婦」というものだろう。  この映画の「夫婦」にしたって、最後の最後まで、互いに思い合い、愛していることは明らかだ。 それでも、ささいなすれ違いは極限まで広がり続け、「離婚」という選択を避けられなくなっている。 滑稽で、愚かしくもあるけれど、それはあまりにも普遍的な悲哀だろう。 世界中の何千、何万、何億という夫婦が、まったく同じようなプロセスを日々歩んでいる。  描き出される“ストーリー”が、現実世界でありふれているからこそ、「夫婦」というものの当事者である僕たちは、胸が痛くて痛くてたまらなくなる。  そして、「夫婦」として連れ添い続ける以上、その不安や恐れは、ずうっと無くなったりせず、この道の真ん中に常に在り続けるのだ。  そのことを考えると、まあ面倒であり、心細くもあるけれど、同時にエキサイティングでもあるし、そういった諸々の感情を含めて、豊かで芳醇な人生というものなのだろうとも思える。  兎にも角にも本作は、「アベンジャーズ」や「スター・ウォーズ」とは全く別のベクトルではあるが、同等、いやそれ以上に圧倒的な“バトル映画”であった。  スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーによる、“怒り”と“悲しみ”と“愛”に満ちた感情の応酬の様は、白眉の名シーンであり、同じように“夫婦喧嘩”で感情をむき出しにしてしまった経験が少しでもある人であれば、グッサリと大きな棘が胸に突き刺さることであろう。  果たして、どこまで続いているのか分からないけれど、僕は僕で、このストーリーが紡ぐ道をこれからも歩んでみようと思う。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-02-09 00:50:58)(良:1票)
11.  マスカレード・ホテル
オープニング、チープなCGによるホテルの外観から、狭いエントランスを通り抜け、やけに古くさくゴージャスなロビーを映しこみつつ、フロントに辿り着く。 その一連の描写を見て、“「有頂天ホテル」みたいだな”と半笑いで思った観客は少なくないだろう。  由緒正しいクラシックホテルのビジュアルを表現したかったのだろうけれど、メインステージとして描き出されるエントランス、フロントを含めたホテルのロビーの空間設計とセットが酷い。映画のセットとしての作りこみ自体は精魂こめて仕事がなされているのだろう。だからこそ、酷いのだ。 首都圏の一流ホテルという舞台設定に対して、空間のサイズ感から、距離感、インテリアの美術センスに至るまで、あまりにもリアリティが無かった。 物語の特性上、様々な人間が行き交うホテルのロビーこそが、この映画の「主人公」だとも言え、その空間の奥行きや距離感が、本来映し出すべきビジュアルとあれほど乖離していては話にならない。   “フジテレビ映画”というクレジットが無くとも、冒頭の印象通り、三谷幸喜の「THE 有頂天ホテル」の使いまわしなんじゃないかと揶揄してしまうことは必至で、実際、空間プランとしてはその通りなんだと思わざるを得ない。(よくよく見れば、キャスト的にも“三谷組”の要素は強い) そのまさしくシチュエーションコメディのような空間の中で、登場人物たちがあくまでも大真面目に、格好をつけて、奇妙な連続殺人事件の犯人を追う様が、アンバランスで、ダサくて、センスが無いなと思った。  全編通して前述の喜劇作家がちらついたからではないが、それこそコメディやパロディに振り切るのであれば、それも“全然アリ”だったのではないかと思う。  そもそも、東野圭吾の原作自体、決してミステリとして完成度の高いストーリー構成だったとは言い難く、随所に使い古された手法や、ベタなストーリー展開が目に付いた。計画的な連続殺人を描いたミステリだとはいえ、メインストーリーのテイストとしては異業種間(+男女間)のユニークな「バディもの」の要素が強く、随所にコメディ要素も散りばめられている。 著者自身、自らの過去作も踏まえて、ミステリに対するある種“メタ視点”を含めた娯楽としてストーリーやキャラクターを構築した部分も多分にあったのではないかと思える。  三谷幸喜が手掛けたら良かったとまでは言わないけれど、いっそのこと大幅に脚色して、コメディ映画として仕上げた方が、原作の本質を捉えた上で、映画作品としても完成度は高まったのではないか。  そして、その“コメディ映画”に、主演俳優として木村拓哉が挑めたならば、映画にとっても、彼自身にとっても、新しい可能性を創出する作品になったのではないか、と思えてならない。  もしかしたら、そういう目論見は存在したのかもしれない。だからこそのあのリアリティの無いセットであり、喜劇俳優の多用であり、大仰でベタな演出プランだったのかもしれない。 ただ、残念ながらそういうユニークでチャレンジングな変化を成しえた映画には当然仕上がっておらず、ただただ中途半端で盛り上がりに欠ける残念なサスペンス映画に終始している。   あと、作品の低い仕上がり的にはもはやどうでもいいことだが、某有名女優の出演情報は、予告編、宣伝ポスター、あらゆる事前情報から除外し、隠し通すべきだったことは、言うまでもない。
[ブルーレイ(邦画)] 3点(2019-10-27 00:47:30)(良:1票)
12.  マリアンヌ ネタバレ 
戦争の狂気と愚かさの中で生まれた儚くも本物の愛。 諜報員としての「業」を背負った彼らは、おそらくはじめからこの平穏が永く続かないことを、心の奥底では覚悟していたのだろう。 冒頭から二人の瞳には深い闇が宿っていて、それは戦火の混沌の中を生き抜くために、彼らがそれぞれに犯してきたであろう「罪」を暗に示していた。 そんな彼らが、共に生存する可能性はほぼ皆無だったあの“出会いの作戦”で、必死に手繰り寄せた安息の日々。 それは、モロッコの砂嵐の中で愛し合った二人による、己の運命に対する抗いだったのだ。  極めて古典的なプロットを敢えて今の時代に映し出したロバート・ゼメキスの巨匠ぶりが冴え渡っている。 当初はおおよそゼメキスらしくない作品のチョイスに思えたが、近年の監督作品の系譜を振り返ってみれば、そのテーマ性は一貫している。 「フライト(2012)」にしても、「ザ・ウォーク(2015)」にしても、主人公が自らの人生の業と向き合い、運命に挑む様を描いた力作だった。 決して清廉潔白ではない主人公の生き様を、卓越した画作りと共に映し出し、見事な映画世界を構築し続けている。  主人公の夫婦を演じるブラッド・ピット、マリオン・コティヤールの演技も素晴らしい。 自らの運命に対する抗いを内に秘め、終始疑心と不安を携えつつも、それらをすべてひた隠し、必死に平穏を追い求める悲しき夫婦像を演じきっている。  サスペンスとラブロマンスを巧みに散りばめたストーリーテリングは、映画という娯楽の極みのようであり、「いい映画を観たな」という率直な満足感に満たされた。  物語は悲劇的な終焉を見せるけれど、マリアンヌが死の間際に思い描いた父娘の姿は、きっと深い愛を噛み締めて「生」を紡いでいたと思う。 彼女は、その充足感と多幸感に包み込まれながら、引き鉄を引いた。そう信じたい。
[インターネット(字幕)] 9点(2018-09-16 13:15:31)
13.  マイティ・ソー/バトルロイヤル
詰まるところ、「マイティ・ソー」シリーズは、神々たちの壮大な「家庭崩壊劇」だったわけで。 ただ、古今東西、「神話」と名がつくものは、大概、親子同士だったり、兄弟同士だったりの諍いを表したものが大半である。そういう意味でこのシリーズのストーリーラインは、ベタと言えばベタに違いないが、まさしく王道的だったと言えよう。 そして、どんなにベタでありきたりな話運びであったとしても、この最新作くらい「馬鹿」に振り切ってくれれば、否が応でも楽しめるというもの。  もはや大フランチャイズと化したマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品群の中においても、この「マイティ・ソー」シリーズは最初から「異質」だった。 その理由は明らかだ。主人公が「神」であることに他ならない。 “ソー”という圧倒的に異次元の存在感を放つスーパーヒーローのキャラクター性が、アイアンマン、キャプテン・アメリカらその他の“地球在住”ヒーローとは、元来一線を画している。 逆に言えば、この特異なヒーローの立ち位置をしっかりと確立し、“アベンジャーズ”の一員としてすんなりとまかり通したことが、MCU全体の大成功の大きな要因の一つであることは間違いない。  そういう意味では、決して輝かしいヒット作となったわけではなかったけれど、ケネス・ブラナーが監督したシリーズ第一作が残した功績は実は大きいと、今となっては確信する。 前述の通り、主人公のキャラクター性の異質さを踏まえると、そもそもリスキーな企画であったことは容易に想像できる。 にも関わらず、ヒロイン役にアカデミー賞を獲ったばかりのナタリー・ポートマンを呼び寄せ、アンソニー・ホプキンス、レネ・ルッソら大御所をキャスティング出来たことは、映画人ケネス・ブラナーの人脈の確かさが大いに影響しているに違いない。 そして、今やれっきとしたハリウッドスターとして輝きを放っている主演のクリス・ヘムズワース、更にはその弟役として“兄”以上の成功を遂げたと言っていいトム・ヒドルストンを抜擢したことこそが、第一作「マイティ・ソー」の最大の功績だろう。 (勿論、日本人映画ファンとしては、日本人俳優唯一のMCU参戦となっている浅野忠信のキャスティングも嬉しかった)   シリーズとしては「最終作」と銘打たれているこの第三弾は、前二作とは完全にテイストを違えた最新作として仕上がっている。 前二作は、神々たちの戦いという神話的な世界観が先行するあまり、良く言えば厳かだが、悪く言えば古臭くて鈍重な雰囲気が、今ひとつ乗り切れない要因だったとも言える。 しかし、テイストが刷新された今作では、神々たちの戦いにおける文字通りの神々しさを際立たさせつつも、もはやしっかりと周知された主人公の“脳筋キャラ”を全面に押し出した愛すべき馬鹿っぷりが、そのまま愛すべき映画世界を構築している。 その指揮官に、殆ど目立った監督実績のないタイカ・ワイティティなる人物を大抜擢しちゃうMCUの豪胆さと先見の明の確かさには、毎度のことながら感服する。  “ゲストスター”として降臨したハルクは、問答無用にエンターテイメント性を高めてくれている。ハルクの暴れっぷりに“トラウマ”で顔面蒼白となるロキの様なんてMCUファンとしては最高である。 ソーと「別れた」らしいナタリー・ポートマンのヒロイン降板は残念に思うが、そのかわりに女王・ケイト・ブランシェットを“最凶の姉”として召喚するとは、まったくもってあまりに抜け目がない。   華々しい馬鹿馬鹿しさと神々しさに満ち溢れた映画世界ではあるが、最終的に紡がれたストーリーは実は極めて暗く重い。 偉大な親父は最後の最後で闇の遺産を残して死に、骨肉の争いの果てに、母星は木っ端微塵に消え去る。 ヒーロー自身、髪の毛と片目を失う。 だがしかし、その救いの無い顛末を「何とかなるさ」とニカッと笑ってやり過ごし、流浪する“脳筋ヒーロー”。 あらゆる意味で「異質」なヒーローに対する愛着が益々深まるシリーズ最終作だった。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-23 17:46:35)(良:1票)
14.  マッドマックス2
荒廃した地球、入り乱れる暴力と狂気。 「映画」のみならず、漫画、小説、様々な表現において、その後デフォルトとなったこの「イメージ」を発明し、創り上げたこの映画の価値と衝撃は、如何なるものだったのだろう。 今作の製作年と同じ1981年生まれの映画ファンにとっては、伝え聞くその衝撃は、言葉通り“伝説”の範疇を出ず、非常に口惜しく思う。  2015年の大衝撃作「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)」が、“マッドマックス”初体験だった。 その直後に第一作「マッドマックス」を観て、今回ようやく「2」の鑑賞に至った。 ある意味必然的なことなのかもしれないが、伝説的なこの2作に対して、伝説通りの衝撃を受けることは出来なかった。  “カルト”であることは理解できる。いろいろと、どうかしている映画である。 だからこそ、レジェンド化され過ぎなんじゃないかとも思う。 非常に実験的でもあり、破れかぶれの映画であり、だからこそ世界中のボンクラ映画ファンの心を掴んで離さなかったのだろう。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-06-19 22:40:37)
15.  マッドマックス
何というアタマの悪い映画だろうか。 登場するキャラクターも、製作チームも、この映画を愛する観客たちも、揃いも揃って「なんてアタマが悪いんだ!」と思わざるをえない。良い意味でも悪い意味でも。  バイオレンスアクションの金字塔としてあまりにも有名な映画だと思うが、世代的な要因もありこれまで未見。今夏の最新作“怒りのデスロード”を観てから初めての鑑賞に至った。 全世界においてカルト的な人気を誇るこの映画を初めて観た率直な印象を先ず一言で述べたい。  「クソ映画」だなと思った。  はっきり言って、支離滅裂でいたたまれない愚鈍な映画世界に対して、居心地の悪さしか感じなかった。 何と言っても我慢ならなかったのは、傍若無人・極悪非道の悪党どもよりも誰よりも、主人公とその妻の著しく生存本能に欠けた馬鹿さ加減に辟易してしまい、冷めてしまった。  満を持して観た映画史上に残る傑作に、全くハマることが出来なかったことは、至極残念に思う。 ただ、それは映画を観るという行為において致し方ないことだとも思うし、だからと言って、この映画が世界中から愛され続けていることに対して疑問を感じることはない。 自分なりに長らく映画を観てきて思うことは、「カルト映画」と「クソ映画」の差は紙一重というか、むしろ同義だと言ってしまっていいのだろうということ。  公開された1979年において、全く新しく、暴力的で破天荒な映画世界に世界中の映画ファンが心酔したこともよく理解できる。 同時に、当時においてもこの映画を全否定した映画ファンも決して少なくなかったことだろう。 是と非がせめぎ合うほど、映画のカルト性は深まり、伝説化していくものだ。  すべての映画を楽しむことが出来たならばそれに越したことはないのかもしれないが、やはりそれでは映画を観るという行為の価値が薄れてしまうようにも思う。 一つの作品に対して、「面白い」か「つまらない」か、それぞれの反応が等しく存在することが許されることこそが、映画というものの醍醐味だろう。  とまあ、「クソ映画だ!」と断言しつつも、無意識的に各シーンを思い返もしている。 まったくもって変な映画である。 アタマの悪い映画ファンに愛されるわけだ。と、口角が上がる。
[DVD(字幕)] 5点(2015-07-03 00:05:02)
16.  マッドマックス 怒りのデス・ロード
「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。  公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。   映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。  実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。  今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。   随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。  “激アツ”  あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。   終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。  手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票)
17.  マイティ・ソー/ダーク・ワールド ネタバレ 
前作は、まさに「神話」そのものの、このアメコミヒーローの特異性と必然的なに仰々しい世界観に対して戸惑ってしまった。 “神々の闘い”を一介のスーパーヒーロー映画の一つとして、そのまま並列で観ることに対しての違和感もあった。  ただ、前作そして「アベンジャーズ」を経た今となっては、“ソー”と彼にまつわるキャラクターへの愛着も深まり、この続編は率直に「楽しかった」と言える。  “愛着”という要因においては、主人公のソー以上に、“ロキ”のキャラクター性に対するそれが抜群に深まっている。 前作で暗躍し、「アベンジャーズ」で完全な悪役としてスーパーヒーローたちと渡り合ったこのキャラクターの魅力の深まりこそが、今作の“キモ”だったように思う。 そりゃあ……簡単に死なせるわけにはいかないよね。  “神々の世界”という良い意味での大味感こそがこのシリーズ醍醐味だと思う。 もはや意味不明な宇宙理論や、“マクガフィン”として存在する超エネルギーなどの使い古された諸々の設定ももはや許せる。  日本人としては浅野忠信の登場が少なかったのは残念だったが、ちゃんと登場が少ない理由のためにわざわざシーンを用意してくれていたのは逆に嬉しかったり。  そして、“コレクター”登場のおまけは、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」観賞後のタイミングだと殊更に驚きだった。  そしてそして、ナイスなカメオ出演ありがとうございました!キャプテン!!
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2014-10-18 00:26:40)(良:1票)
18.  マン・オブ・スティール ネタバレ 
プロローグ、“父親役”のアカデミー賞俳優が、ドラゴンにまたがり、過剰なまでのスペクタクルシーンを画面いっぱいに目の当たりにした時点で、“一抹の不安”は生じていた。 以降、「あれ?なんだかノリキレナイ?」という感覚が確実に蓄積し、結局そのままエンドロールを迎えてしまった。  ザック・スナイダーが描き出したビジュアルは流石に凝りに凝られている。 タイトルからもストーリーテリングからも“スーパーマン”という名詞を極力排した新しい世界観に対して、期待感と高揚感が溢れた。  “ノリキレナイ”この映画に足り得なかったことは単純。それはずばり「娯楽性」だと思う。  「ウォッチマン」の監督と「ダークナイト」の監督とが組んで生み出されたヒーロー映画において、分かりやすい娯楽性が強調されないであろうことは必然であり、観客としてもダークで新しい世界観を期待した部分は大いにある。  実際、映画は、主人公の「出自」と「能力」、そして「運命」を軸にして、「どう生きるべきか?」ということに延々と焦点を当て続ける。引き込まれる要素は多分にあったし、概ね製作者の意図通りの映画に仕上がっているのだろうとも思える。  しかし、圧倒的に物足りない。 結論として辿り着いたことは、他のヒーローならいざ知らず、「スーパーマン」にだけは突き抜けた「娯楽性」が必要不可欠だったのではないかということだ。  過去作に対して、まったく異なる設定やストーリー展開を見せるのであれば、センシティブでリアリティ重視な表現に対してもう少し納得が出来たかもしれない。 しかし、何だか込み入った描き方はしているが、根本的な描写は、1978年のオリジナルと結局のところ同じであり、それであれば過剰な現実主義は、ただまどろこしく感じるばかりである。   ヒロインをはじめとする市井の人々が絶体絶命のピンチに陥る。 そこに弾丸よりも速く強いスーパーヒーローが颯爽と現れて問答無用に彼らを助ける。 「スーパーマン」は、彼だけは、それでいいのだと思った。   最後にもう一つだけ。 冒頭から大立ち回りをするスーパーマンの実父役のラッセル・クロウだが、こんなに露出が多いのなら、むしろ、彼を悪役に配した方が良かったように思う。 久々に見たケビン・コスナーが育ての親役を好演していただけに、わざわざ新旧スター俳優同士で“父性対決”を見せる必要はなかったと思う。
[映画館(字幕)] 5点(2013-09-18 00:03:17)(良:5票)
19.  舞妓と暗殺者
若き長州の脱藩浪士の主人公を演じる津川雅彦は当時23歳。 この俳優は、こんな大昔から女性の体をまさぐっていたんだなあと、この映画のラストシーンを観ながら呆れてしまった。  立身出世を夢見て幕末の混乱の中に身を投じ、終始フラフラと自分の行動に対して葛藤を繰り広げつつ、女に走る主人公のキャラクター性は、主演俳優の性格に合致していたと思う。 そのことが、映画そのものの立ち位置を明確にしていて、物語自体に大した魅力があるわけではないにも関わらず、オリジナリティーに繋がっていたとは思う。  三隅研次による映像世界は流石に卓越していて、殺陣シーンのスピーディーさが作品にメリハリを与えている。 ただ同時に、この人の監督作品にしては登場人物のそれぞれに深みがなく、全体的に平坦な印象も拭えなかったと言える。  どんな時代にも大義名分のすぐ後ろ側には、個々人の思惑が存在し、結局すべてのことはそういうものの連なりで動いている。 主人公は、自分自身の行動原理に、そういった人間としての根本的な愚かさが存在していることに気づき、葛藤が深まっていく。  一風変わった青春時代劇と言えなくはなく、製作された時代感も含めて味わうべき要素はある作品ではあるが、全体的に中途半端に終わってしまった感も拭えず、満足感はそれ程高くない。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2012-07-13 16:30:27)
20.  満員電車
みんなどこかが狂ってる! と、映画全編を通して延々と映し出される密集する雑踏の中で思わず叫びたくなる。 鋭い社会風刺を強烈なブラックユーモアをもって描きつけている「問題作」と言っていい。 1957年当時に、これほどまでに冷ややかなエグさで埋め尽くした映画を描き出した市川崑という映画監督は、やはりとんでもない人物だったのだと思わずにはいられない。  一流大学を卒業しながらも、将来に対する望み薄な展望をドライに割り切り、無表情のまま現代社会の荒波に飛び込んでいく主人公。 映画のタイトルを指し示すように、彼は「日本には我々が希望をもって坐れる席は空いていない 訳もなくはりきらなくては」と冷め切った持論を展開する。  どこに行っても人間が混み合い、すべての人間が杓子定規に生きるしかない明らかに狂った社会。 そのすべてを割り切って生きてきた筈の主人公だが、父親からは母親が狂ったと聞かされ、母親からは父親が狂ったと聞かされ、まわりの同僚たちも何だかどこかが狂っている。 次第に、本当に狂っているのは、社会なのか自分自身なのか分からなくなってくる。  50年以上前の映画でありながら、この作品が映し出す社会の本質とその病理性は、まさに現代のそれに直結するものであり、登場人物たちの妙な言動は可笑しさから次第に恐ろしさとなって観る者に迫ってくる。  主人公は紆余曲折を経て路頭に迷う。ラスト、自ら建てたあまりに粗末な掘建て小屋を強風にさらされながら、主人公はそれでも柱にしがみつき、未来に対する諦観か覚悟が判別のつけづらい感情の中で、生きていかなければならないと宣言する。 その直後には、小学校の入学式に臨む子供たちが、校長から「将来は前途洋々」と訓辞を受けているシーンが映し出され映画は締められる。  いやあ、この皮肉さはもの凄い。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-07-05 16:19:22)
0160.60%
1592.22%
2762.86%
31425.34%
41736.51%
52459.22%
637914.26%
754320.43%
854820.62%
930411.44%
101736.51%

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