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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  ロッキー・ザ・ファイナル 《ネタバレ》 
実は、『ロッキー・ザ・ファイナル』こそは『ロッキー』の30年ぶりの続編として捉えるのが妥当なのではないだろうか。この映画では冒頭から『ロッキー』の名場面がその所縁の場所とともになぞられ、ロッキー自らの口からその思い出話が語られる。『ロッキー』の端役であったスパイダー(ロッキーにバッティングを食らわせ、逆にKOされる作品最初の対戦相手)やリトル・マリー(酒場からロッキーに連れ戻され、道すがら説教を受ける不良少女)が印象的な役として30年を隔てて蘇る。まさに『ロッキー・ザ・ファイナル』は『ロッキー』へのオマージュとして作られた作品であることが僕らに示されるのであるが、それはまた30年ぶりの『ロッキー』の焼き直しでもあった。確かに30年の年月は鈍重で長い。60歳のスタローンがもう一度『ロッキー』の世界を再現する、そのことに対する世間の手放しの賞賛もよく理解できるが、やはりボクシングはそんなに甘くない。本来それは自分自身に対する大きな投企であり、そこから湧き上がる歓喜であり、それを飲み込む恐怖であるべきものである。当然のことながら60歳のロッキーは若くないし、ある種の生き難さ、もどかしさ、焦燥感、人生に対するラディカルな切実感も30年前に比べて薄い。(そういうものを全て包んでくれたエイドリアンもいない)しかし、まぁそれはそれでいいのかもしれないと僕は思っている。それが今回の60歳のロッキーなのだから。 僕らが『ロッキー・ザ・ファイナル』にベビーブーマー達の人生の岐路、第2の人生とでも言うべきイメージを重ね合わせてみてしまうのは致し方ない。もちろん、ロッキーの言葉はとても説得的なので世代を超えた共感も得られるだろう。しかし、逆に言えば、それが『ロッキー』から30年という年輪を経た現代の教訓的な教条主義(お説教)でしかなく、この物語は結局のところ、(60歳のプロボクサーと世界チャンプとの接戦という破天荒さとは別に)そんな教科書的な感動話の枠組みに行儀よく収まってしまうように思える。また別の見方として、この映画は、60歳のロッキーが30年前の自分の姿をなぞってみせたものの、そこにかつての切実感はもうなく、失われた熱情だけがあった、というように僕には思えた。確かにそれが年をとるということであり、それは否応なく受け入れざるを得ないことなのだ。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-05-01 23:43:47)(良:1票)
2.  ロスト・イン・トランスレーション 《ネタバレ》 
この映画、実は現代版の「東京物語」とも呼べる。元々、ソフィア・コッポラは東京という街をアメリカ人が迷い込む異国の地、自発的な孤独を生み出す環境として捉えているように思うが、それは正に小津の『東京物語』の主題でもあったはずである。これはある意味で外国人を主人公にすえたからこそ描かれ得る、本来的な「東京」の姿なのであるが、僕らはもうそういった見立てというか作為なしに、都市としての東京に現代的な物語としてのリアリティを感じないのかもしれない。確かに東京という物語は矮小化し、偏在化しつつあり、それはもう「東京」でなくても全く構わないとも思える。 本当の『東京物語』であれば、東京という場所における笠智衆と原節子の立ち位置が小津の世界観として一番しっくりくるが、それがこの映画では逆転<笠智衆がスカーレットで、原節子が都市生活に疲れたビル・マーレイ>しているところがアメリカらしい彼らの基本的なイノセンスの構図<子供こそが穢れなき存在であること>なのだと言える。そう考えれば、スカーレットの異様な子供っぽさも理解できるような気がするが、それを現代社会というタームに照らし合わせてみれば、また別の意味での新しさをも想起させる。 『ロスト・イン・トランスレーション』は都市という孤独を鮮明に描こうとするが、孤独は現代という空間であまりにも無自覚に受け入れられている為にその悲哀の輪郭はとてもぼやけている。抵抗しつつもそれを受け入れざるを得ないこと。それがたぶんビル・マーレイの悲劇であり、スカーレットの常態なのだろう。その受け入れ方の違いはある意味でとても切実である。 
[DVD(字幕)] 8点(2007-04-20 23:02:48)
3.  ロング・エンゲージメント
『シンデレラの罠』のジャプリゾが描く第一次世界大戦期の歴史ミステリー。これをジュネ&オドレイのアメリコンビで映像化。僕は映画を先に観てから原作を読むという幸福な関係でこの作品に接したので、映画自体もとても楽しめた。ジャプリゾは映画の脚本も書いている人なので、原作自体も映画的なスピード感覚に溢れ、場面展開も小気味よい。相手からの手紙を挿入することによって、周りに状況を語らせ、主人公の語らなさ(レティセンス)を補完する手法も読み手の好奇心を煽り、ついつい読みを走らされる。また、ジャプリゾは、フランスで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した人でもある。サリンジャーが戦争を直接描かないことによって、戦争という心的状況を突き詰めた作家であることを思えば、この小説に戦闘シーンの直接的描写が一切ないのも納得できる。ミステリーは、謎解きによって真相を追い求めていくものであるが、今では、事件の真相とそこに本当の真実がないというアンビバレンツな感覚こそが現代的なリアリティでもあり、そこからどう一歩進めるか、どう結末を付けるのかが今僕らの読む物語に求められているのではないだろうか。さて、映画であるが、この作品は基本的にミステリーだが、主人公が恋人を思い続ける恋愛映画でもあり、そこにアメリ的な「生きることそのものが、希望であり可能性であること」という思想が全面的に押し出されていく。主人公が事件の謎解きをしていく中で、事件に関わった人々の様々な人生と事件に対峙することで自らに問い掛けざるを得なかった生きることに対する戸惑いが次第に露呈されて、それは僕らの中にも沈殿していくのである。しかし、主人公は決して希望の芽を摘むことなく、謎解きこそを自らの生きる希望に変えるのである。偶然に頼る主人公の心情は余りにも乙女チックすぎる気もするが、彼女の楽観的意思の切実さは、逆にこの作品に時代的なリアリティを与えることに成功していると僕は感じた。人は様々な人達の様々の物語に翻弄され、いつでも間違え得る状況にいるが、その中でも適切に綱引きを行いながら、常に真っ当さを信じて生きていくべきなのだろう。この映画は遠い過去を描いていながら、そんな現代的な歴史性をとても素直に描いてみせる。あと、戦闘描写のリアリティについては、あまりここで語るべきものでもないと僕は思う。そこには客観的描写以外の何もないからである。
[映画館(字幕)] 9点(2005-03-21 21:06:36)
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