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1.  ローズヒルの女 《ネタバレ》 
この監督作品は芸術路線のようでいて社会派の面もあり、その融合がちょっとギクシャクに感じることが多かったんだけど、これはなんかすんなり入っていけた。見知らぬ町でさすらうってとこは同じなんだけど。霧・道・車。けっこう複雑な、それでいて滑らかな動きをするカメラ。昔はレナート・ベルタだったが、今回は違う人(ユーグ・リフェルって人)。すると同じように動いたカメラは監督の指示なのか。登場する人はみんな傷つくの。年いった農夫、嫁不足の孤独を共感しあえるはずだったのに、うまくいかない。母も息子の不幸を目撃させられ続ける。若者の伯母も疎外を共感しあえるはずだった。父は息子を失ってしまい、息子は死んでしまう。そしておそらくこの村では、あんな黒人女が来なければ良かったんだ、とささやかれることになるだろう。みんなして不幸へ不幸へと傾いていく。「社会派映画」と限定して見られることは監督は不満だろうが、人々のささやかな夢が潰れていく過程を記録する姿勢には、社会派の視線がある。これから「魔女狩り」の誕生まで、ほんの一歩なのじゃないか。
[映画館(字幕)] 8点(2014-02-10 09:48:52)
2.  ロイドの要心無用
若いころリバイバルが盛んで、キートンに狂喜し、以後の公開予定のリストの新聞広告を切り抜いて眺めてはニコニコしていたものだが、全部は上映されなかった。客足がそれほど伸びなかったらしい。途中で立ち消えた。ロイドはもっと悲惨で、たしかこの一本だけだったんじゃないか。たしかにロードショー料金でリバイバルされるのは、映画好きにとってもかなり悩める状況で、評価の定まった古い名作より同時代の新作を見るべきじゃないか、と迷わされたものだ。そんなこんなで大型スクリーンで観た唯一のロイド作品(ビデオ・DVDで気軽に見られる時代が来るとは想像も出来なかった)。しかしこれに関しては、見てよかったと思っている。あの「とりあえず一階分だけのぼろう」という姿勢、その後の人生でしばしば思い返したなあ。ちょっと始めればなんかやれるもんなんだ、ということ。ほとんど座右の銘として心に残っちゃった。それも大スクリーンで観賞できたからかもしれない。コメディとしても、各階ごとに趣向があって、最後の風力計まで引き込まれること必定(ここで場内に拍手が湧き起こった喜びも映画館ならではの味)。都市が上を目指しだしたデパートメントストアの時代を告げているし、また広告の時代の到来でもあった。人集めが金になる時代になったのだ。スラプスティックとしても一級の作品だが、それらもろもろの時代の記録としても見事な傑作だったと言えるだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2014-02-02 09:13:26)(良:2票)
3.  牢獄
これはベルイマン初めてのオリジナル脚本、原作を持たない好き勝手に作った映画で、もう彼のモチーフの展覧会のようで壮観です。精神病・神と悪魔・原子爆弾の恐怖(のちの『冬の光』)・性と出産・自殺・子どもの遊び・夢・鐘の響き(時計好み)・白夜・映画撮影(舞台好み)…それらがちゃんと化合し切れないでゴタゴタと並んでいるのが展覧会としての楽しみ。冒頭の荒野を歩いてくるところでまず引き締まる。どこからがこの映画の芯なのかが分からない作りで、「ここまでは枠でこれからが本題」とクッキリせずにややこしくなっていってしまう。煙や霧がたなびき、無声映画が挿入され、悪魔も出てくるし、森が人になっている夢もあるし、不幸を一身に受ける売春婦と脚本家の苦悩とが、助け合えない世界ってことなのか。実質上ベルイマンワールドの出発点となった作品と思えば、分からないながら、なにやらありがたい。
[映画館(字幕)] 5点(2013-10-05 10:19:50)
4.  ロシア・ハウス
ソ連がらみのスパイものだがKGBが悪役でなく、西側の情報局がもっぱら悪役という珍品。ソ連のひんやりとした街のたたずまいが美しい。たまたまなのか狙ったのか、それともいつもこうなのか、ほとんど曇天で、リスボンと対照される。あとダンテ役のクラウス・マリア・ブランダウアー、臭みギリギリのところもあるんだけど、うつろな感じがいい。でもスパイサスペンス映画としてはもっと単純なほうが好きだな。イスラム過激派という次代の悪役が登場するまでの過渡期の手探り状態を映画史的に確認することは出来る。S・コネリーがCIAの尋問に対しておちょくるあたり楽しい。M・ファイファーがレニングラード攻防戦の説明をしているときに、コネリーがアイラヴユーと言いつつ寄っていき、彼女が無視して説明し続けるところとか。ジェリー・ゴールドスミスのひんやりとしたジャズっぽい音楽はいい。
[映画館(字幕)] 5点(2013-09-02 10:00:01)
5.  ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ
「ハムレット」に登場する二人の端役、ストーリーの展開のためだけに登場して無意味に殺されていく二人。シェイクスピアの時代はそういうものだったが、20世紀は彼らのような人間こそが主人公になる時代だ。投げたコインがいつも表になってしまう世界。限りなく微少にされていく確率の中にのみ存在し得る世界でもある。この二人からハムレットの悲劇を眺め直してみると、エルシノア城はカフカの城になり、悲劇はブラックユーモアの喜劇に姿を変える。この二人コミで“ローゼンクランツとギルデンスターン”で、どっちがどっちでもいい存在だった。G・オールドマンは作品を通して科学発達史を演じており、もうちょっとで歴史上の発明家として名を残したかもしれないが、王の使い走りに潰されていく。そういう理不尽さ。荘重な死を与えられる主役と、馬鹿馬鹿しく死んでいく小物たち。オールドマンとロスを本作で、コミで覚えたような気がする。さて、これを観たころラップに凝っていて、以下のようなものを作っていた。ローゼンクランツ生まれはフランス?/いやいやスイス?それともドイツ?/マインツ?グラーツ?はたまたリンツ?/どこでもかまわぬ架空の人物』怪しい一座の座長はサターン/操られるはギルデンスターン/芝居の幕が上がった途端/どっこい元へはノーリターン』コイン投げてるローゼンクランツ/確率論など所詮へりくつ/「表」「表」と賭けてまた打つ/馬はお城へ一歩ずつ』一人のせりふを二人で分担/ローゼンクランツ・ギルデンスターン/どちらがブオトコ?どちらが美男?/見分けは困難なんでも半々』たそがれてゆく時は暮れ六つ/狂った王子は何やらブツブツ/気分は鬱屈とにかく憂鬱/何すりゃいいのかローゼンクランツ』何を目にするギルデンスターン/無惨凄惨阿鼻叫喚/人の本性所詮は野蛮/悲劇のもとは一つの王冠』前の王様とっくに成仏/幽霊よりも城こそ怪物/迷い込んだるローゼンクランツ/さながら二人は不思議のアリス』ギルデンスターンどうにも不安/波に揺られて処刑の予感/気分は暗澹将来悲観/こんな人生もういや~ん』もうあと一歩で科学の理屈/見いだし損ねるローゼンクランツ/落下の法則飛行のバランス/発見できずに立たない面子』すちゃらかちゃんちゃん、すちゃらかちゃん。
[映画館(字幕)] 7点(2013-08-07 09:39:20)
6.  ロビン・フッド(1991・ケビン・レイノルズ監督作品)
車も銃も出ない活劇の基本を楽しんだ。人物造形がちゃんとしてることね。複雑な内面の個性は持たせないが、特色は持たせる。悪役(『ダイハード』のA・リックマン)をちょいと三枚目にしたのもいい。ナイフをカカカカってやるところなんか。混乱の中でまず結婚式を挙げようとする律儀さとか。C・スレイターの翳りもポイント。これが実は…ってあたりも嬉しい。まとまって吊るされてた人々を台を倒して助けちゃう、とか。活劇にいちいち工夫があって、ただ火薬を多くすればいい、ではないの。盗賊の息子が、父と命の恩人との戦いを楽しげに眺めてるような気のいい連中、ってのも大事だね。リチャード王の特別出演S・コネリーは、昔ロビンをやったことがあるってだけじゃなく、K・コスナー(『アンタッチャブル』)、C・スレイター(『薔薇の名前』)二人の師をやったことがある、ってのも響いていそうだ。
[映画館(字幕)] 8点(2013-05-16 09:54:19)
7.  ロケッティア
主人公が本職の「正義の味方」でないところはいい。ヘルメットもあくまで頭を保護する目的に舵が付いたってことで、これを見て主人公がトホホとなるところがあって。あとは本当に定型で、老科学者に、憎まれ役のFBI、異形の殺し屋と揃っている。主人公カップルを土壇場で救って自分が代わりに犠牲になる悪漢の情婦ってのが出てこなかったぐらいか。ナチ、あれだけ兵隊を送り込んでるんなら何もギャングに仕事依頼しなくてもいいのに。ギャングのほうも、ナチの世界になったら俺たち仕事が出来なくなっちまう、ぐらい斜に構えててもらいたいのに。小道具としてのガム、写真の使い方は正しい。悪漢ティモシー・ダルトンは三枚目になり切るべきだったのではないか。
[映画館(字幕)] 6点(2012-12-01 09:43:38)
8.  ロイドの人気者
アメリカの最も良質の理想主義がある。チャップリンやキートンは最初から普遍性を持っているが、ロイドは「アメリカ的」ということを突き詰めて普遍性に至ったよう。上級生たちの残酷さに気づかぬロイド、状況を知らずに有頂天になっているロイド、しかしわずかのチャンスを生かして栄光に至る。アメリカではすべての人にチャンスが与えられているはずだ、というあの国の自負と、しかしそのチャンスを生かすのはおまえ自身だぞ、というあの国の教訓。個人主義の国の良さと厳しさ。仮縫いのままのパーティなど笑った。タップはやがて小津が真似するのではないか。ラストの試合が思ったほどじゃなかったけど、キックした球が風船と混ざって分からなくなっちゃうのがおかしい。自分が馬鹿にされていたと知ったときのあたりは、ホロッとさせられた。やっぱり人間努力だ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-11-11 09:52:48)
9.  ローマの休日 《ネタバレ》 
「公人」としての王女と「私人」としてのアンの葛藤を底に秘めつつ、初デートのういういしさを描いたロマンスや、逆シンデレラ(最初の謁見シーンで靴を脱いだ)としてのおとぎ話の要素も織り込んだ豊かな映画。ラストの記者会見で泣けてしまうのは、やはり公人と私人のテーマが生きてるからだろう。王女は公人の窮屈さから逃亡し、休日を得る。でも彼女は責任は捨てられず、自分の義務に戻っていく。ここに彼女の人としての成長がある。それは痛ましくもあるが、人として大きくなったことを描く記者会見が付く。あくまで公の会見でありながら、そのなかに恋人同士の「対話」を織り込んだシナリオが秀逸で、一番思い出深い都市はローマときっぱり宣言する晴れ晴れしさ、公人に戻っても私人は消えていないことを告げる輝かしさがいい。会見の始まりで、二人の視線が合った瞬間にあたりのざわめきが消え完全な静寂が訪れ、「公」の場に「私」の回路が生まれたことを知らせる優れた音響演出も忘れてはならない。それにしてもオードリーはモノクロからカラーに変わる絶妙のタイミングでスクリーンにやってきた。本作や『麗しのサブリナ』や『昼下りの情事』がもしカラーだったら、彼女は妖精とは呼ばれなかったのではないか。カラーのオードリーも美しいが、あくまで地上の美女であり、色でなく光で描かれた彼女こそ妖精と呼ばれるにふさわしい。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-09-09 09:15:07)(良:4票)
10.  ロングタイム・コンパニオン
エイズへの偏見撲滅キャンペーン映画とでも言うか。このころはエイズ映画が多かったけど、最近ないな、今だってまだ蔓延してるんだろ? あの国はときにこういう野暮ぎりぎりのキマジメな映画を作り、それが主流になっては困るけど、こうやって地固めをしている部分もあるのが、あちらの映画産業の丈夫さなんだろう。ゲイ社会たって普通なんだ普通なんだ、と脅迫されているような気がちょっとした。エイズに関して言えば、彼らが人類全体の尖兵となって感知してくれてるようなところがあるわけで、だからと感謝を強要されてるような。みんなで昼メロ見ている和気あいあいの感じが印象的だった。それが仲間でさえキスの後では神経質に口を濯がねばならなくなる病いが、エイズなんだ。ここらへんをもっと突っ込めば普遍性のある映画になっただろう。私のノートの最後に「YMCAは笑えた」と書かれているのだが、なんだったか思い出せなく気になる。
[映画館(字幕)] 5点(2012-06-03 09:41:51)
11.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 
スモールタウンの日常にうんざりしている少女が、母と来た店でふと店先を振り返ると、ローラーガールズがなめらかに滑り込んできてチラシを置いていく。あのなめらかさに憧れないはずはない、と納得させられる一瞬。ましてガールズは、髪の一部を青く染めている。少女はこっそりとオーディションに向かうバスに乗り込む。隣に座った白髪の老女が、また髪の一部をうっすらと青く染めている。窓の外では自分がバイトしている店で友人が働いている姿が流れていく。決定的な別離なり旅立ちではまだないが、心理的な旅立ちがここで始まったことを告げている。この手の物語では、内気だった主人公が急にヤル気になるのに無理が感じられることが多いのだが、冒頭の「青く染めた髪」ですでに「環境への違和」が育っていることを暗示しており、順に青い髪によって導かれていく段取りがよろしい。オリヴァー君てのがあんまり面白くないな、と思ってたら、そういう役柄なのだった。ジュリエット・ルイスがおっかない人になってた。演出にソツなく、友人との和解をさらりと示すバイト先のゴミ捨てのシーンなんか、うまいよ。
[DVD(字幕)] 7点(2011-08-20 09:38:38)(良:3票)
12.  ロボコップ3
最終的に何が善玉になり何が悪玉になるかで、その文化圏の気分がわかる。ホームレス・警官は善玉で、パンク・日系企業は悪玉と配置された。そうか。ホームレスは日系企業によって生み出された被害者であり、日系企業など外部に対抗して一致団結せねばならぬときに、パンクのようにすさんでいてはいけないのだな。ロボットの弱点、あらかじめインプットされたものには逆らえない、ってのが、今回はあんまり生きてなかった。記憶を消されかけるってのはあったけど。なんとはないコミュニティー志向ってとこに60年代っぽいもんを感じたが、微妙にナショナリズムと続いているような気分もあって、嫌な感じ。日本刀が振り回される。オートモってのは大友克洋へのオマージュか。反・日系企業映画だったがソニーの配給だった。
[映画館(字幕)] 5点(2011-08-02 10:20:26)
13.  ロープ 《ネタバレ》 
むかしスクリーンで観たときは気がつかなかったが、カット割りあるのね。気がついたのは3ヶ所、もっとあったかもしれない。鶏を絞める話題でフィリップが神経質になったところで教授の疑惑顔に移るとこ、犯人らが言い合ってる背後に教授が来たところで部屋に入ってきた家政婦に移るとこ(このあと家政婦が部屋の片づけを始めるのがヒッチらしい名シーン)、カメラが無人の家具を順に眺めながら犯行の再現をし(これは舞台劇では表現できまい)ブランドンがポケットに手を忍ばせたところで教授に移るとこ。この3ヶ所ではっきりカットを替えていた。どこも緊張の場でその効果は生きてるが、どうしてもカット内でつなげられないというとこでもなく、パンやズームアップ使えば似た効果は出せそうだ。でもそれだと品はなくなるな。映画をワンカットに収めるという趣向より、どうしてもカットを割りたいところでは割る、という判断を優先したのか(単に何度撮り直してもトチる俳優がいたってだけだったりして)、気になるところ。それよりも以前には気がつかなかったことのほうに驚いた。人間、朝起きてから寝るまで毎日ワンカットで世界を見ているわけだが、もしその最中にカット割りがあったら相当びっくりするだろう。でも映像世界では「ワンカット映画」と思い込んで観てたら、けっこう気づかない。今回だってアレッと思ったあと何度か繰り返してみて(上映中の時間を左右するのは映画の神を冒涜する気がするもんだがあえて)、やっと速いパンではないと得心できた。映画って普通の視界とは全然心理的に違う心構えで観てるんだなあ、と思った。その趣向を離れたところでは、ラスト、外の正常な世界の音が流れ込んでくる効果がいい。それは犯人が軽蔑してやまなかった世界だが、それが彼らを裁きにこれからやってくるのだ。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-07-17 12:13:44)
14.  路上の霊魂
演技法はやはり映画黎明期特有の大振りで、顔を手で覆って回顧したりする。本作は「低俗娯楽でない芸術映画を創るんだ」という意気込みで製作されたフィルムだから、とりわけ新劇臭が濃いのかもしれない(クリスマスのシーンなんかがある)。しかし姪にバイオリンを聞かせている樹に寄りかかっているカットの美しさ、なぞは普遍的な映画の「美しさ」に至っている。運命の分かれ道のカット、八木節の兄妹が去っていこうとしている道、伝明ら親子の帰郷の丘の上から見た道など、画面の奥に伸びていくカットに映画ならではの新鮮さが感じられる。あのお爺さんが小山内薫だそうで、太郎がこの監督の村田実、じいやの役がシナリオを担当した牛原虚彦とのこと。関係者一同がスタッフキャストを兼ねワイワイやっている自主制作的な手作り感に時代の息吹が感じられ、現在の我々には歴史的人物を動画で見られる興奮がある。オバサンでしか知らない英百合子が令嬢役。テーマは寛容と非寛容の対比で『イントレランス』の線。大正10年とはそういう時代だったんだろう。関東大震災より前だ。令嬢の想いが駅の太郎のとこに現われ、父のとこに息子(?)が、また落ちぶれた主人公のとこに若き主人公がバイオリン持って現われ、なんてトリック映像が当時の観客にはびっくりだったんだろうね。いやそうでもないか、目玉の松っちゃんの忍術映画など、彼らが目の仇にした「低俗娯楽映画」でもうその手の映像はさんざん見て、観客の目は新劇人より肥えていたはずだ。
[映画館(邦画)] 6点(2011-06-06 09:57:30)
15.  ロシュフォールの恋人たち
冒頭、狭い車から出てきた若者たちが、ウーンと手をのばして伸びをする。最初はバラバラだったのが何となく揃ってきて、モダンダンスめいてくる。これこれ、ミュージカル映画の醍醐味はこれである。ところがこれが作られたのは1966年、アメリカではこういう型のミュージカルは没落していた時期だ。50年代前半に黄金期を迎え、65年はもう『サウンド・オブ・ミュージック』のような「音楽付き物語」に移っていて、ジーン・ケリー型のラブ・コメディは完全に時代遅れという感じだっただろう。その時代遅れのジーン・ケリーをフランスにまで呼んで本作は作られた。ハリウッド型ミュージカルの最期を、このフランスで看取ってやろうという愛惜を込めた衝動から生まれたのだろうか。もちろん完全なハリウッドのコピーではない。あちらは緊張が高まった場面で歌になり踊りになるが、こちらは簡単に歌いだす。オペラの伝統か。いくつかの見せ場に集中していく種類の波打つ時間ではなく、ミュージカル的な気分が瀰漫した時間なのである。踊りもそう。多くのナンバーが街の通りや広場で踊られる。屋外のダンスシーンてのは、普通どうも気分が拡散してあんまりノレないことが多いんだけど、面白い味が出ているとこもある。広場で溌剌とダンスを見せるシーンとは別に、この映画で印象に残るのは、カメラのピントから外れたところで踊っている連中の存在だ。こちら側でリアルな演技が進行しているとき、その道の奥のほうで若者たちが踊っているのがボンヤリと見えたりしている。これが実に面白い効果で、この街全体がミュージカル的気分に息づいている弾んだ楽しさがある。ハリウッド・ミュージカルでは、日常の世界が不意に特殊なハレの場に転換するところにサスペンスがあったのだが、この映画では、歌ったり踊ったりするのは何も特殊なことである必要はなく、日常そのものがそうであっても構わないじゃないか、と開き直っている。幕がパッと切り落とされるようなスリルがない代わりに、日常と非日常が馴染みあってしまっている蒸気のようなものが立ち込めている。ミュージカルに殉じようとしたドゥミ監督はそういう理想郷を夢見ていたらしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-04-25 12:21:06)
16.  ロビン・フッド/キング・オブ・タイツ
クスグリばかりの弛緩した笑いの世界であったなあ。ギャグのほとんどが中世に現代を入れ込むパターンで、それに笑えないと悲惨。城の宴会でのどんちゃん騒ぎでこそ、映画ならではの笑いを引き出せるはずなのに不発。シャンデリアのロープを切ると、自分の上に落ちてきちゃうとか(メル・ブルックスでロープと言うと『サイレント・ムービー』が懐かしく思い出され)。ぐるっと360度回転のドミノ倒しはまあまあ。ミュージカルに入るあたりも、もっと何か出来そうなのに、ただの「ミュージカル・パロディ」の枠内に留まってしまう。
[映画館(字幕)] 5点(2011-03-18 09:49:28)
17.  倫敦から来た男
ワンカットの中で、しばしば「近いアップ映像」と「遠いロング映像」が入れ替わる。とりわけ浮き輪を投げて始まる、刑事が来たときのカットが面白かった。その舞台の広さが実感として伝わる。そういう何事かが展開している長回しもあるんだけど、ただカット尻を引き伸ばしただけのようなのもあって(娘の食事とか、妻の嘆きとか)、映画全体のリズムとして、ラルゴの曲の調べを聴いているような味わいの統一は出るものの、よくわかんない(『ヴェルクマイスター・ハーモニー』でも、延々と暴徒の行進を何分間かただ映してたとこがあったけど、それはちゃんと圧迫感として迫ってきてた)。それを補うためか、ときに音楽が鳴り続け、これはちょっとうるさい。同じ曲想を延々と繰り返してるんだから、まあ時間の停滞感は画面とフィットしてるんだけど。(たぶん)そういう音楽のように時間を味わう映画なのであって、物語を理解させるのには不向きな手法。はっきり言って、理屈で展開すべき推理系ドラマとしては無理がある。こちらは漠然と、そういう話なんだろうと、理解したつもりになっただけ。いかにもシムノン的なすがれた感じは満ちているし、白黒の画面は美しい。ラストのブラウンの妻は、監督の指示か本人の体質か知らないけど、長いアップで一度もまたたきしなかったんじゃないか。『サイコ』のジャネット・リーより大変そう。
[DVD(字幕)] 6点(2011-02-06 09:45:05)
18.  ロング・ウォーク・ホーム
アメリカ映画では、いつも正義と勇気がワンセットになっている。正義を行なう勇気を賞揚する。正義の教育的発展とでも言いましょうか。頭だけの正義派だったシシー・スペイセクが、ナマの現実の中で地に足をつけるまで。「たとえ子どもの教師や隣人が黒人になっても大丈夫ですか」とウーピーが彼女に問う。公園で追い出されたウーピーについて、スペイセクは「何も彼女の子どもを連れてったわけじゃないのに」と言っていたのだった。こういう描きかた、うまいね。さて、正直に告白すると、迫害する側の集団を見てると、変にワクワクしてきてしまったんだ。彼らの意見にまったく同意しないにもかかわらず、会場のシーンなんか、シンボルの旗が垂れてて皆が高揚してて、なんか『意志の勝利』を観たときのワクワク感と似たものが生まれてくる。人間の集団ってものの基本がきっとここにあるんだろう。攻撃すべき他者がはっきりとあって、皆の気分が一つになっていると、その集団の意見とは関係なく魅力的に感じられ興奮できてしまうんだな。本当に恐ろしいことだが、それを体験できたことが私にとってのこの映画の価値。
[映画館(字幕)] 6点(2010-09-23 10:51:12)
19.  ロボゲイシャ 《ネタバレ》 
『愛のむきだし』における渡部篤郎が、どこか演技に自信なげで、こんな感じでいいのだろうか、と自問しながらラジオ体操をしていたのに比べ、こちらの志垣太郎はさすが、堂々と悪役を迷いなく演じきり、年季の違いを見せつけた。そして生田悦子、私は随分久しぶりにお会いしたが、ほとんど草笛光子になっていて粛然とさせられた。で作品内容ですか。んー、竹林で看護婦が唐突に迫ってきたあたりなどに、この監督の匂いを嗅いだな。とりわけ看護婦がやられた後で肩車して二段になった天狗女らがゆっくりと手を水平に広げていくあたり(観てない人には何のことか分かるまい)。芸者カツラのヒロインが三味線をジャジャ弾きしながら戦車になって走り出すあたり(観てない人には何のことか分かるまい。観てたってよく分からないのだ)。まあそういう映画なのだが、前作のセーラー服には監督の熱烈な執着を感じたのに対し、こちらの芸者は取り敢えずの題材という気配で、もひとつ製作者側のノメリコミが欠けていたような気がする。さして必然性なくヒロインたちにルーズソックスのセーラー服シーンを与えていたっけ。まあほとんどのシーンに必然性はないんだけど。
[DVD(邦画)] 4点(2010-07-22 10:06:34)
20.  ロブ・ロイ/ロマンに生きた男 《ネタバレ》 
もっと城壁によじ登ったりシャンデリアにぶら下がったりする血沸き肉躍る話かと思っていたら、女のみさおの話であった。男気のロブ・ロイが臥薪嘗胆した果てに、という仁侠映画的展開。血気にはやる馬鹿な若者がウロチョロして死んじゃうのも定型どおり。ラストが決闘というのはちと弱い。剣を手でつかむ、いう伏線はあるんだけど。ティム・ロスやジョン・ハートといったイギリス系役者が画面に映ると、映画が締まる。ロブ・ロイがティム・ロスの首に縄を引っかけてぶら下がり逃げるってのが気に入った。でも、どうのこうの言いながら一応見せてしまうってのは馬鹿にできない。商品としての最低線を確保するハリウッド映画産業のセーフティ・ネット(?)が、ときに生まれる傑作の地面を固めているんだと思う。
[映画館(字幕)] 6点(2010-03-27 12:01:29)
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