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自己紹介 映画を観る楽しみ方の一つとして、主演のスター俳優・演技派俳優、渋い脇役俳優などに注目して、胸をワクワクさせながら観るという事があります。このレビューでは、極力、その出演俳優に着目して、映画への限りなき愛も含めてコメントしていきたいと思っています。

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1.  ラスベガスをやっつけろ 《ネタバレ》 
「ラスベガスをやっつけろ」は、天才映像作家テリー・ギリアムが、失われたアメリカン・ドリームの末路をシニカルに皮肉り、笑い飛ばすブラック・ユーモアの快作だと思います。  この映画「ラスベガスをやっつけろ」の原作は、1971年に発表された歴史に名を残す悪名高きジャーナリストのハンター・S・トンプソンの、"カウンター・カルチャーのバイブルとも言われている、自伝的なドキュメント「ラスベガス★71」で、その破天荒で独創的な毒気のある内容から、映画化は到底、不可能と言われてきましたが、鬼才・テリー・ギリアム監督が見事に映像化した作品だと思います。  テリー・ギリアム監督は、反体制のスピリットを持つ映画作家で、イギリス最高のブラック・ユーモア集団の"モンティ・パイソン"の創立メンバーの一人で、彼の怪物的ともいえるイマジネーションの世界観、映像の魔術は、我々、観る者を圧倒してやみません。  特に彼の代表作である、「未来世紀ブラジル」でこの悪魔的な映像魔術の世界が最高度に発揮されていたと思います。  "ありとあらゆるドラッグをトランクに詰め、一路ラスベガスへと向かったふたり----いったい何処だ、アメリカン・ドリーム!?"と謳われているこの原作は、ラルフ・ステッドマンの狂気的な挿絵が満載で、"ゴンゾー・ジャーナリズムの金字塔"とも言われ、原作を読み終わった今でも、この強烈なインパクトは私の脳裏にいつまでも長く、残照のように残っています。  ジョニー・デップ演じる、原作者のハンター・S・トンプソンの分身であるジャーナリストのラウル・デュークとベニチオ・デル・トロ演じるサモア人の弁護士のドクター・ゴンゾーの二人は、真っ赤なスポーツカーに"治療薬"と称して、あらゆるドラッグを大量に詰め込んでラスベガスで開催されるバギー・レースの取材に向かいます。  カメレオン俳優としても有名なこの二人の俳優は、ジョニー・デップが原作者のハンター・S・トンプソンの家に長期間泊まり込み、完璧に彼の一挙手一投足を自分のものにして彼になりきり、頭髪も禿げ頭にしました。  また、ベニチオ・デル・トロは、役作りのために20kg体重を増やして撮影に臨んだというエピソードが残っており、この映画の役作りに賭ける二人の強い執念が感じられます。  怪獣の尻尾を付けたり、ガニ股でラリッてヨタヨタとだらしなく歩くデップと不気味なふてぶてしさを体中から発散させるデル・トロ、本当にこの二人の演技の凄さに圧倒されます。  二人はホテルへ到着早々、取材をせずにドラッグ三昧、もうやりたい放題し放題、無茶苦茶な騒動を次から次へと引き起こす彼等の真の目的は?----という展開になっていきます。  とにかくこの二人、ラリッて頭の中が完全にトリップした人間が見るような、幻覚に満ち溢れた映像の魔術的な強烈なインパクト。  奇妙奇天烈にグニャグニャと歪んで変形するホテルのフロントの顔、突然、動き出す床の絨毯の模様、爬虫類に変化して暴れ回るバーの客など、とにかくケバケバしい極彩色に彩られた、奔放で怪物的なイマジネーションの世界が、これでもか、これでもかという具合に繰り広げられ、それらは笑いを通り越して、もはや"醜悪そのものの世界"になっていきます。  このテリー・ギリアムの世界観についていけない人はこの段階で、もうギブ・アップでしょう。 テリー・ギリアムの映画はいつも観る人を選ぶんですね。  そして彼はいつも、"夢想や幻想の力だけを頼りに、現実と切り結び、今ここにある現実を変革しようとまでする無謀な人間を好んで描き、夢想や幻想を現実化してみせ、自らも自由の羽を付けて飛翔する事を願い、既存の体制的な社会に反旗を翻している"のだと思います。  この狂ったような破天荒な行動を繰り広げる二人の大義名分、つまり、原作者のハンター・S・トンプソンが、原作で訴えたかったテーマは、"失われたアメリカン・ドリームを求めての旅"だと思います。  そして、この映画の最大の魅力は、1960年代から1970年代へかけての時代の大きな変革期に、アメリカ人が追い求めてきた"アメリカン・ドリーム"の末路をシニカルに皮肉り、笑い飛ばし、来たる次の世代への警鐘を鳴らした事だと思います。  尚、この映画にはブレークする前の現在のトビー・マグワイアからは考えられない意表をつく役で出演しており、キャメロン・ディアス、クリスティーナ・リッチもカメオ的な出演をしていて、映画ファンとしては思わずニヤッとするお楽しみもあります。
[DVD(字幕)] 9点(2023-11-16 15:40:33)
2.  スリーピー・ホロウ 《ネタバレ》 
この映画「スリーピー・ホロウ」は、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールド全開のゴシック・ホラーの大傑作だ。  とにかく、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールドに魅せられる素敵な映画です。  この「スリーピー・ホロウ」は、ワシントン・アーヴィング原作の「スリーピー・ホローの伝説」の映画化作品で、ティム・バートンが当時、「シザー・ハンズ」、「エド・ウッド」に引き続き、盟友のジョニー・デップとタッグを組んだゴシック・ホラーです。  18世紀のニューヨーク郊外の村、スリーピー・ホロウでは夜な夜な馬に乗って現われては住人の首を掻き切る首なし騎士が人々を恐怖のどん底に陥れていました。  斧を振りかざした首なし騎士が、漆黒の馬にまたがり、闇夜を疾走する場面の絵になる事といったらありません。 村を丸ごと作ってしまったというセットも素晴らしい雰囲気を醸し出していますし、霧が立ち込める不気味な夜は、色彩も美しく、優れて絵画的でもあります。  つまり、この映画はまさしく、現代の映画作家の中で、最も寓話的な作家であるティム・バートン監督によるファンタジーな絵本の世界を映像化したものだと思います。  そして、これらの幻想的でダークな、鳥肌が立つくらいに綺麗で美しい映像を撮影しているのが、何と「ゼロ・グラビティ」、「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、「レヴェナント:蘇えりし者」で3年連続でアカデミー賞の最優秀撮影賞を受賞という快挙を成し遂げた、メキシコ出身の天才撮影監督のエマニュエル・ルベツキ。  初めてこの映画を観た時、この撮影は何と凄いのだろうと衝撃を受けた時の記憶が甦り、当時からルベツキの撮影技術が素晴らしかったという事がわかります。  この映画にはかつて、バートン監督が偏愛した1960年代のハマー・フィルム社の"怪奇映画"に対するバートン監督のリスペクト、オマージュに満ち溢れています。  バートン監督は、「当時の怪奇映画は映像的には美しかったが、スタジオ撮影のシーンとロケ撮影のシーンとの間に大きな隔たりがあった。 その隔たりを埋めようとして、セットはもっと現実っぽく、実際の風景は作り物っぽくなるようにした」と語っていて、バートン監督のこの狙いが見事に成功していると思います。  更に、首なし騎士の造形に見られるように、バートン監督が、「シザーハンズ」、「バットマン」、「バットマン・リターンズ」で描いてきた"異形の者"への偏愛も健在で、それまでに磨いてきた映像テクニックを縦横無尽に使い分け、自分の創造性を"さらり"と表現してみせる技を習得した彼は、まさに円熟の境地に達した感があります。  そして、この映画の最大の見どころはやはり、ヘンテコで奇妙な器具をこねくり回して、頑固な程に科学的な捜査を試みるジョニー・デップと村の迷信的な存在である"首なし騎士"との対決です。  科学的な合理性と超自然的な怪談の激突を、頭でっかちな男VS首なし騎士の対決として象徴的に描いているのが面白くてたまりません。  この首なし騎士を演じるクリストファー・ウォーケンの唸り声以外、セリフが全くないにもかかわらず、あの"美しくも怖い顔"で、我々観る者を恐怖のどん底に落とし込む程、怖がらせてくれて見事の一語に尽きます。  デップが古い伝説的な迷信にとり憑かれた村人に囲まれて、ひとり大真面目に捜査を行なう様子はいささか滑稽で、いざという時に臆病風邪を吹かせてしまうというキャラクターにも愛着が持てます。  そして、バートン監督は、我々観る者に謎解きという知的ゲームを与えておきながら、全く考える余裕すら与えない程に衝撃的な首切り殺人や戦慄の映像を畳みかけ、観ている側を完全にパニック状態に陥らせてしまいます。  そして、苦悩する主人公のデップと同様に、我々観る者の、理性を保とうとする機能までも破綻させてしまいます。 この演出技法には全くお手上げで、本当に心憎い監督です、ティム・バートンは。  映画の終盤には、西部劇ばりのワクワクするような、血沸き肉躍る、騎馬チェイスが用意されていて、エンターテインメント性にも満ち溢れていて、カルト的なのに大娯楽映画。  これこそが、まさにバートン監督映画の魅力であり、彼のように鮮やかに自分の趣味とビジネスを両立させている監督は、長いハリウッド映画の歴史の中でも、極めて稀な存在だと思います。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2023-11-16 15:07:54)
3.  ハッド 《ネタバレ》 
この映画「ハッド」の監督マーティン・リットは、赤狩りで辛酸をなめた映画人の一人としてよく知られていますね。 その時、彼は才能ある人々の裏切りを目の当たりにして、人と社会への厳しい目を培ったのだろう。  そんな彼の体験が、以後も一貫して反骨精神を貫き、「寒い国から帰ったスパイ」「男の闘い」「サウンダー」「ノーマ・レイ」などの映画で、特定の時代における人間の孤立と闘争を描き続けてきた原動力になっているのだと思う。  このマーティン・リットが監督した「ハッド」は、アクターズ・スタジオの縁でポール・ニューマンと6本ものコンビ作を生み出したうちの1本なんですね。  近代化の波に押しやられた、テキサスの荒涼とした風景の西部で、牧場を営む三代の男家族の確執と離散を通じて、現代アメリカの荒廃を浮き彫りにする秀作だと思う。  ポール・ニューマンが演じるハッド・バノンは、酒と女以外、人生に興味を示さず、心の中に闇を抱えた虚無的な男だ。  そんなハッドが、15年ぶりに故郷のテキサスの牧場へ帰ってくる。 酔っ払い運転で兄を死なせたハッドは、兄の遺児ロンからは慕われるが、老いた父ホーマー(メルヴィン・ダグラス)との断絶は解消できず、反目し合ったままなのだ。  ここに、離婚をして中年にさしかかった流れ者のアルマ(パトリシア・ニール)が住み込みの家政婦として雇われ、束の間、男だけの家庭に安らぎが訪れるが---------。  この映画の原作は、西部小説の名手と言われているラリー・マートリーの短篇小説で、彼の描く人々は、いつも物憂げで、他者のみならず自らをも肯定出来ないのが常なんですね。  マーティン・リット監督は、この原作を映画的に膨らませることで、アメリカという国の未来を憂う、彼自身の心情を吐露しているのではないかと思う。  父の大事にしている牛の群れが、疫病を患い次々と倒れていく。 そこには、かつて西部劇が描いた開拓精神や男のロマンなど微塵も見られない。  ハッドは、アンモラルなエゴイストで、彼は病気が証明される前に、牛を売ることを提案するのだが、そんな彼の無情の背景には、父への憎しみがあるからなのだ。  父親はそれに耳を貸さず、結局、手塩にかけて育ててきた牛たちを屠殺処分せざるを得なくなり、生きる意欲を失ってしまう。  ハッドは、父ホーマーの開拓者としての誇りを踏みにじり、口論の末に荒れて、アルマを強姦しようとするが、アルマは身を許さない。 大人の女のぬくもりも男たちの崩壊を救うことはできなかったのだ。  こうして、アルマは去り、そしてホーマーは落馬して夜道に倒れ、「わしが長生きすると迷惑だろう」と言い残して息を引き取るのだった。  ハッドの哀れな本性に嫌気が差したロンは、「あんたが生きる力を奪った」と言い放ち、故郷を捨て、ハッドはひとり寂しく取り残されることに---------。  ポール・ニューマンの自己破壊性、メルヴィン・ダグラスの威厳と孤高、そして、パトリシア・ニールは、アルマの瞳に根を張ることの叶わぬ、女の諦念をにじませて官能的だ。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-11-08 00:13:04)(良:1票)
4.  チャイナ・シンドローム 《ネタバレ》 
チャイナ・シンドロームとは、原子力発電所で起こり得ると考えられる事故の最悪のものを言い、原子炉内部の高熱を事故でコントロール出来なくなり、発電所そのものがドロドロに溶解し、巨大なマグマの塊となって、それ自体の重量でどんどん地中に沈んでいき、地球を貫き、遂にはアメリカの反対側の中国に突き抜けてしまうだろうというところから来ているんですね。  この映画「チャイナ・シンドローム」の公開の前年には、我が日本でも黒木和雄監督の「原子力戦争」でも、ある原子力発電所で、それに至る可能性を含んだ事故が起こったことを、告発しようとした技術者が消されるというシチュエーションを扱っていましたが、このアメリカ映画もまた似たような着眼で作られていますね。  これは、偶然の一致というよりも、原子力発電の安全性に危惧を抱く者は誰でもそのことを考えるのだと思います。 ただ、日本では、それを余り評判にならないATG映画の低予算の小品でしか作れなかったが、アメリカでは、さすがに堂々たるメジャーのエンターテインメント作品として作り上げることに成功していると思います。  そこに、映画人の発想のスケールの違い、ひいては、民主主義の成熟度の違いがあり、また、それを支える原子力発電反対の層の厚さの違いもあるのだと思います。  もっとも、この映画がアメリカで大きな話題になり、興行的にも成功した要因として、封切り三週間後の1979年3月28日、ペンシルヴェニア州スリーマイル島の原子力発電所の二号機が事故を起こし、地域の住民が被曝するという、原発事故としては最大級の事件となり、大統領が自ら対策の指揮に当たるという事態になったからなんですね。  最悪の場合、穴が中国に届くというのはオーバーであるにしても、アメリカ国土の相当の部分が死の灰に覆われる可能性があったと言われ、人々は改めてこの映画に注目したのだと思います。  主演のジェーン・フォンダは、当時から反体制運動の活動家として有名ですが、この映画でも彼女自身がそうであるような役を演じていますね。  ロサンゼルスのテレビ局のニュース・キャスターのキンバリー・ウエルズ(ジェーン・フォンダ)は、ある日、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)と録音係を伴って、原子力発電所の取材に出かけたところ、突然、所内に振動が起こり、制御室が大騒ぎとなった。  放射能漏れがわかり、原子炉の運転が停止される。 キンバリーは、この騒ぎをフィルムに収めるが、局の上司に押さえられ放送されなかった。  不満なリチャードは、フィルムを密かに隠し持って物理学者に見せたところ、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと聞かされる。  一方、原子力発電所の技師ジャック・ゴーデル(ジャック・レモン)は、原子炉の運転が再開されたものの、なお不安を隠し切れず、調べたところ、事故の原因が建設当時、パイプ結合部を担当した業者の手抜きにあることを突き止め、真相を隠そうとする上役に反対して制御室を占拠し、言うことを聞かなければ、核物質を漏らすと脅し、キンバリーたちテレビの取材班に真相を発表する。  発電所側は、ジャックを騙して射殺し、真相を闇に葬ろうとするが、キンバリーたちは勇気を持ってそれを発表するのだった。  この映画は、こうした時代の核心を鋭く突いた、社会派映画の秀作だと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2023-11-07 18:30:55)
5.  コーマ 《ネタバレ》 
ジュヌビエーブ・ビュジョルドの健気な頑張りが楽しめる医学ミステリーの映画化作品。  この映画「コーマ」の原作は、ロビン・クックの医学ミステリーで、脚色と監督は、アクション小説を書き、SF小説も書き、医学ミステリーも書くベストセラー作家で医学博士でもある才人マイケル・クライトン。  ヒロインは、ボストン記念病院に勤める若い外科医(ジュヌビエーブ・ビュジョルド)で、高校時代からの親友が、簡単な手術なのに麻酔から醒めず、コーマ(昏睡)の状態のまま、死んでしまいます。 そして、次の日にも若いスポーツマンが、手術の原因不明の失敗でコーマに陥り、ジェファースン研究所という、植物人間の療養施設に送られます。  これらの事に不審の念を抱き、過去にコーマの患者が意外に多いのを知って、原因究明に乗り出す女医のジュヌビエーブ・ビュジョルド。 越権行為だと怒られたりしながら、それでも調査を続けると、命を狙われて、夜更けの病院内を必死で逃げ回ったり、換気口の長い梯子をよじ登ったり、果ては救急車の屋根に腹ばいになって逃走したりと、まるで女ジェームズ・ボンドといった大活躍をするので、楽しくてしかたありません。  しかも、このビュジョルドさん、小柄な体に思い込んだら命がけという、ヒステリックな目つきをして脅えながら走り回ったりするので、もうその健気で必死の頑張りには、手に汗を握ってハラハラしながら、応援したくなってきます。  彼女がほとんど出ずっぱりのひとり舞台なので、おかげで他の俳優さんたちは、演技のしどころがなくなって、気の毒になってきます。 彼女には同じ病院に勤める外科医の恋人(マイケル・ダグラス)がいて、彼女の引き立て役的な存在です。 そして、外科部長になるリチャード・ウィドマークが、なかなかいい味を出していて、老優、衰えず、さすがの存在感を示しています。  マイケル・クライトン監督の演出は、前半部分がかなり単調で、ラブシーンもどことなくぎこちない感じですが、さすがにスリラーとしての場面では、冴えた演出をしています。 ビュジョルドに情報を提供しようとした機械室の職員が、電流で殺されるシーンは、ハッタリが効いていて、なかなか凄まじいものがあります。  その犯人に追いかけられて、夜更けの病院内を逃げ回ったあげく、ビュジョルドが必死の反撃をするシークエンスが特に素晴らしい。 それが三分の二あたりまで進んだところで、次にジェファースン研究所へ入り込むシークエンスは、コーマの患者をワイア・ロープで吊って、宙に寝かしてある病室が、SF的風景で非常に面白いのですが、ここでの追いかけ回されるサスペンスは今一の感があります。  そこで、最後に真相がわかって、ボストン記念病院でのクライマックスになるわけですが、そこのサスペンスの演出もやはり今一なので、映画全体として尻すぼみの感じがします。 もし仮に、アルフレッド・ヒッチコック監督だったら、もっとうまく演出するのになあ---などと無いものねだりをしながら観ていました。  しかし、病院内をビュジョルドが逃げ回る場面では、拳銃を持った相手を、彼女が死人の応援でやっつけるというところは新手の手法で、一見の価値がありましたので、このようにもっと映画の細部にまで気を使って、小味なスリラーに徹すれば良かったのに、マイケル・クライトン監督のハッタリ性が、邪魔をしたような気がして残念でなりません。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2023-11-07 18:23:24)
6.  レベッカ(1940) 《ネタバレ》 
この映画「レベッカ」は、ハリウッドの大製作者デイヴィッド・O・セルズニックと契約したアルフレッド・ヒッチコックが、アメリカに渡って最初に手掛けた作品であり、1940年度の第13回アカデミー賞で、最優秀作品賞と最優秀撮影賞(白黒)を受賞して、アメリカ映画界へ華々しい登場となった作品でもあるのです。  イギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリアが1938年に書いたゴシック・ロマン小説の映画化で、女性が結婚して得る幸福の意味を追った小説ですね。  アルフレッド・ヒッチコック監督は、原作の持つ雰囲気描写を映像に置き替えながらも、内容の上ではヒロインの心理的不安、そして殊に、映画の後半に見られる謎解きと裁判のサスペンスに興味を移し替えてまとめあげていると思います。  この映画は一人称による原作の持ち味をそのまま使って進行しているため、ジョーン・フォンテーンが扮するヒロインの「私」で話が進むのも実にユニークですね。  金持ちの未亡人の秘書をしていたアメリカ娘のマリアンは、モンテカルロのホテルで、どこか翳のある金持ち貴族のマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と出会い、彼の二度目の妻としてイギリスの荘園マンダレイにやって来ます。  この映画のタイトルの「レベッカ」とは、今は亡き前妻の名前。 画面には一度も登場しないのですが、イギリスのコーンウォールの海岸に立つ由緒あるマンダレイ荘のあらゆるものに、美しかったというレベッカの痕跡が残っていて、その最たる存在が、レベッカの身の回りの世話をしていた召使いのダンバース夫人(ジュディス・アンダーソン)だった。  主人公の「私」は、決して心から打ち解けようとしない夫や、いつも自分を見張っているような黒づくめのダンバース夫人、そしてレベッカの痕跡などに小さな不安を抱きつつ、マンダレイの女主人としての務めを果たそうとするのですが、その一方、孤独で贅沢など知らずに生きてきた「私」にとって、ここでの生活は何から何まで新鮮で、夫への愛も揺るぎないものだった。  それにしても、この"ゴシック・ミステリー"は、描写のほとんどに"チラッとした不安"を誘う仕掛けが埋め込まれていて、観る側も、主人公の「私」と全く同じ条件に置かれているだけに、その一つひとつに落ち着かない気分にさせられてしまいます。  閉じられた部屋。窓をよぎる影。揺れる白いカーテン。レベッカの頭文字のRが浮き彫りになったアドレス帳。黒い犬。 そして、レベッカの呪縛に取り憑かれたような夫の不可解な振る舞い--------。  二階のフロアの壁に飾られている、夫がお気に入りだと言う、美しい女性の全身像の絵も何やらいわくありげだ。 そして、これらの妖しい雰囲気を醸し出すモノクロの映像がまた絶妙で神秘的なんですね。  そういえば、今やすっかり荒れ果てたマンダレイ荘の外門を、カメラがゆっくりとすり抜けて中へと入っていく冒頭のシーンからして、既に怪しい雰囲気でしたね。  そして、仮装パーティーを開くことにした「私」が、ダンバース夫人に勧められ、二階の絵の女性とそっくりのドレスで装い、夫に激怒される場面の身の置きどころの無さ--------。絵の女性はレベッカだったのだ。  映画の後半、ヨットで転覆死したというレベッカの死の真相が、二転三転するくだりも、実にスリリングだ。  「レベッカ」は、幾つもの謎や不安については確かにミステリアスだが、終わってみるとイギリスで玉の輿に乗ったアメリカ娘が、夫を絶対の愛で信じ続けるという、かなり通俗的なメロドラマになっていて、「私」というヒロインよりも、好き勝手に生きた"レベッカの真実"の方が、ずっとインパクトがあるのですが、ヒッチコック監督の巧みな語り口が、通俗性を絶妙にカモフラージュしているのだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-10-06 14:34:24)
7.  ブリキの太鼓 《ネタバレ》 
この映画「ブリキの太鼓」は、奇想天外で挑発的な映画的陶酔を味わえる珠玉の名作だと思います。  映画「ブリキの太鼓」は1979年のカンヌ国際映画祭でフランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録」と並んでグランプリ(現在のパルムドール賞)を獲得し、また同年の第51回アカデミー賞の最優秀外国語映画賞も受賞している名作です。  原作はギュンター・グラスの大河小説で二十か国語に翻訳されていますが、あとがきの中でグラスは、この小説を執筆した意図について「一つの時代全体をその狭い小市民階級のさまざまな矛盾と不条理を含め、その超次元的な犯罪も含めて文学形式で表現すること」と語っていて、ヒットラーのナチスを支持したドイツ中下層の社会をまるで悪漢小説と見紛うばかりの偏執狂的な猥雑さで克明に描き、その事がヒットラー体制の的確な叙事詩的な表現になっているという素晴らしい小説です。  この映画の監督は、フォルカー・シュレンドルフで、彼は脚本にも参加していて、また原作者のギュンター・グラスは、台詞を担当しています。  原作の映画化にあたってはかなり集約され、祖母を最初と最後のシーンに据えて全体を"大地の不変"というイメージでまとめられている気がします。  そして映画は1927年から1945年の第二次世界大戦の敗戦に至るナチス・ドイツを縦断して描くドイツ現代史が描かれています。  この映画の主要な舞台は、ポーランドのダンツィヒ(現在のグダニスク)という町であり、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画の名作「大理石の男」でも描かれていたひなびた港町で、この町は第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により国際連盟の保護のもと自由都市となり、そのためヒットラー・ナチスの最初の侵略目標となりました。 まさにこの映画に出てくるポーランド郵便局襲撃事件は、第二次世界大戦の発火点になります。  そしてこの映画の主人公であり、尚且つ歴史の目撃者となるのが、大人の世界の醜さを知って三歳で自ら1cmだって大きくならない事を決意して、大人になる事を止めてしまったオスカルは、成長を拒否する事によって、ナチスの時代を"子供特有の洞察するような感性と視線で、社会や人間を観察していきます。  オスカルは成長が止まると同時に、不思議な超能力ともいうものが備わり、太鼓を叩いて叫び声を発すると居間の柱時計や街灯のガラスが粉々に割れたりします。  この奇声を発しながらブリキの太鼓を叩き続けるオスカルの姿は、ナチスによる支配下のポーランドの歴史そのものを象徴していて、フォルカー・シュレンドルフ監督は、原作者のギュンター・グラスの意図する二重構造の世界を見事に具現化していると思います。  超能力などの非日常的な要素を加味しながら、ポーランドの暗黒の時代を的確に表現した映像が、我々観る者の脳裏に強烈な印象を与えてくれます。  その暗いイメージは、特に海岸のシーンで象徴的に表現していて、不気味な映像美に満ち溢れています。  オスカルは、ドイツ人の父親を父として認めず、ポーランド人の実の父をも母を奪う男として受け入れません。 この二人の父親は、オスカルが原因となって不慮の死を遂げ、また気品と卑猥さが同居する母親も女の業を背負って狂死します。  この映画の中での忘れられない印象的なシーンとして、第二次世界大戦下、オスカルの法律上のドイツ人の父親は、ナチスの党員になり、パレードに参加します。  そのパレードの最中に威勢のいいマーチがファシズムを讃え、歌いあげる時、演壇の下に潜り込んだオスカルが太鼓を叩くと、マーチがワルツに変わってしまい、ナチスの党員たちまでが楽しそうにワルツを踊り始めるというシーンになります。 この意表をつく映像的表現には、まさに息を飲むような映画的陶酔を覚えます。  このダンツィヒは、歴史的には自由都市でしたが、ポーランドの領土になりドイツ人の支配を受け、その後、ソ連軍によって占領される事になります。  オスカルは戦後、成長を始めましたが、若い義母と一緒に、列車で去って行く彼を郊外から一人で見送る祖母の姿に、ポーランドという国が抱える拒絶と抵抗と絶望との暗い時代を暗示しているように感じられました。  尚、主人公のオスカルという子供が成長を止めたというのは、第二次世界大戦下、ナチス・ヒットラーの暗黒時代をドイツ国民が過ごした事の象徴であり、撮影当時12歳だったダーヴィット・ベネントのまさに小悪魔的な驚くべき演技によって、見事に表現していたように思います。  とにかくこの映画は、全編を通して奇想天外で挑発的であり、映画的陶酔を味わえる、まさに珠玉の名作だと思います。
[DVD(字幕)] 10点(2023-08-28 08:59:54)
8.  八甲田山 《ネタバレ》 
指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性などと共に、大自然に対する畏敬の念の重要性をも考えさせられる映画が、この「八甲田山」だと思います。  この映画「八甲田山」は、「砂の器」に次ぐ第二作として、橋本プロダクションが東宝映画と製作提携した作品で、脚本は橋本忍、監督は「動乱」「海峡」の森谷司郎、原作は新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」。  昭和49年2月にクランクインしてから、3年余の歳月と7億円の製作費と30万フィートを超すフィルムを費やして完成された、当時の日本映画界にあっては未曾有の超大作です。  この映画のテーマについて、森谷司郎監督は、「厳しい自然と人間の葛藤を通して、人と人との出会い、その生と死の運命を描かなければならない。自然の思いがけない不意打ちと、それに対応しようとする人間の闘い、その強さと、胸にしみるような悲しさを八甲田山中の、人間を圧倒するような量感で迫ってくる雪の中で、アクティブに描きたい。それには映画のもつ表現力が、もっとも強く迫ることができるにちがいない」と語っています。  原作と映画を比較する事は、もともと芸術の分野が違っているので適当ではないかも知れませんが、雪におけるこの原作と映画の表現に差がある事を、原作者の新田次郎は認めています。  彼は、雪に対する"筆の甘さ"に対して、「この映画は、雪を完全にとらえることができたから、雪を背景として起こった人間ドラマを完全に映像化することに成功したのであろう」と率直に語っています。  地吹雪、雪崩、その雪の中の絶望的な彷徨を、厳しく、しかも美しく描き出した映像には、この映画に参加した人達の肉体の限界に迫る苦労が、そのままにじみ出ており、芥川也寸志の音楽をバックに映画のもつ圧倒的な表現力が生かされているように思います。  日露戦争直前の明治35年1月21日、弘前を出発した第31連隊の徳島大尉(高倉健、実名は福島泰蔵大尉)の率いる部隊は37名、その大半が士官であり、十和田湖を迂回して八甲田山に入る10泊11日間、240kmの行程は無謀に見えましたが、綿密で周到な準備と道案内によって万全が期せられていました。  一方、1月23日に青森を出発した第5連隊の神田大尉(北大路欣也、実名は神成文吉大尉)の率いる部隊は211名、2泊3日、50kmの行程は一見容易に見えましたが、混成の部隊であり、第二隊長山田少佐(三國連太郎、実名は山口勲少佐)らの大隊本部が同行しており、指揮命令系統に混乱があると共に、大部隊のため食糧、燃料の運搬のためのソリ隊が足手まといとなっていたし、案内人も雇っていませんでした。  この部隊は初日に目的地の田代まで、後2kmのところで道を見失っていて、零下22度、風速30m、体感温度零下50度という猛吹雪の中で、死の彷徨が続くのです。  1月27日に徳島隊が八甲田山に入った時には、神田隊は壊滅状態になっていましたが、徳島隊は全員無事に踏破に成功したのです。  神田隊の生存者は山田少佐以下12名、凍死199名。 映画はこの両隊の劇的な成否を交互に対比させながら描いていますが、もっと我々観る者にわかりやすくするために、随時、現在地を示す地図を入れるとか、隊名やそのルートを入れるというような工夫が必要だったのではないかと思います。  この映画を観終えて、指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性、そして、環境の急変に対する臨機応変な適切な対応、特に大自然に対する畏敬の念と慎重な行動の重要性と言う事をつくづく考えさせられました。  尚、八甲田山の踏破に成功した徳島(福島)大尉は、却って、その後、冷遇されたうえ、日露戦争では雪中行軍の生き残りと共に、酷寒の黒溝台の激戦で戦死しています。 この事から、八甲田山で起こった事実を隠蔽しようとする陸軍の陰謀の匂いを感じてしまいます。  また、事実として、その後、自決した山田(山口)少佐の実像は、映画のような悪役的な人ではなかったと言われています。 問題は、危機に耐える事が出来なかった神田(神成)大尉の弱さにあったように思われます。  最も困難な時点で、徳島(福島)大尉は、「吾人もし天に抗する気力なくんば、天は必ず吾人を亡ぼさん。諸子、それ天に勝てよ」と兵に告げているのに、神田(神成)大尉は、「天はわれ等を見放した。俺も死ぬから、全員枕を並べて死のう」と絶叫しているという事からも推察できるのです。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2023-08-28 08:53:39)
9.  救命士 《ネタバレ》 
NY・へルズキッチンで救命士として救急車を走らせる主人公の3日間。 しばらく前に、救うことができずに死なせてしまった少女に対する罪悪感を胸に、きわどいところで正気を保ちつつ、ドラッグや犯罪渦巻く街を走る主人公は、自身の救いを見つけることが出来るのか? --------。  出演はニコラス・ケイジ、パトリシア・アークエット、ジョン・グッドマン、ヴィング・レームス、トム・サイズモアら。  NYで実際に救命士を務めた経験のあるジョー・コネリーの原作を、ポール・シュレイダーが脚色し、・マーティン・スコセッシが監督している。 「タクシー・ドライバー」のコンビが久しぶりに組んで、ニューヨークを描くということで話題となった作品だ。  映画の始めに病院に担ぎ込まれ、植物状態で生かされ続けることになる男のエピソード、その男の娘と主人公を巡るエピソード、薬のせいで完全に正気を失い病院と街を繰り返し行き来している男のエピソード、途中で知り合うドラッグディーラーを巡るエピソード、同僚をめぐるエピソードなどが、緩く絡みあっていく。また、原作者が監修した救急現場の現実もひとつの見せ場になっている。  確かに、流石に一流の監督が撮った作品、という格の違いのようなものはある。映像的な面白さもある。 色調を押さえているようで、リッチな色を感じさせる撮影も素晴らしい。 細かいショットをリズミカルに繋いでいく編集も見事であるし、いかにもスコセッシと思わせる選曲による既成曲のパッチワークも、過剰気味ではあるが、耳に楽しい。  でも、作品としての強さは、作り手の名声から期待されるほどのものではない。 ひとつには、この映画が断片的なエピソードが繋ぎ合わさって、より大きなテーマを浮かび上がらせるというスタイルをとっていることにある。 描かれるエピソードの一つ一つに意味が付加されているものの、全体としてのドラマには力強さが欠けていると思う。  もう一つは、「今、この作品である意図」が見えてこないこと。 原作の、そして、映画の舞台は1990年代の初頭だというから、かれこれ30年が経過していることになる。  この30年というのが、意外や中途半端な距離感で、1980年代ほど「過去の歴史の一部」になってはいない生々しさはあるが、現代と言うには離れていて、「今」を捉えているというわけではない。 時代にとらわれず、普遍的なテーマを描いているにしろ、なんとも煮え切らない感じがするのだ。  最近では、完全にB級映画の出演者となり果てたニコラス・ケイジが「正気と狂気の境目にいて、かろうじて仕事をこなしている男」の眼にリアリティを与えている。 この映画がその「眼」で幕を明けることが象徴しているように、これは、彼の目が捉えた3日間、彼の目が捉えた世界の物語なのだ。  既成曲の合間をつなぐように流れるベテラン、エルマー・バーンスタインのスコアが、バラバラになりそうな作品全体に、一筋の統一感を与えていたのが印象的だった。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2023-08-28 08:47:32)
10.  小さな巨人 《ネタバレ》 
「小さな巨人」は、ダスティン・ホフマンが驚くべきメーキャップで演じた、101歳の老インディアン(?)のおしゃべりによって、この映画は始まります。  監督は、「俺たちに明日はない」で、"アメリカン・ニューシネマ"時代をリードする存在となったアーサー・ペン。  彼の思い出話によって展開されるこの西部劇は、カスター将軍、ワイルド・ビル・ヒコック、シッティング・ブル、クレイジー・ホースなどのお馴染みの人物たちが、賑やかに登場してくれます。  だが、カスター将軍の偏執狂的な描き方など、まさに西部劇というジャンルが、とてもシラケてしまった時代の産物という他ありません。  また、牧師の貞淑な妻が、欲求不満気味の浮気妻であったり、ビル・ヒコックも臆病な卑怯者であったりと、全く新しい視点で様々なエピソードを描いていくことで、"西部劇の神話"を次々と崩していくのです。  映画の夢、少年の夢の西部劇が、音を立てて崩壊していくような感傷的な気分になってしまいます。  奇妙な運命のいたずらによって、ダスティン・ホフマン演じる主人公は、白人社会と、インディアン社会を行ったり来たりしなくてはならなくなるのです。  白人でも、インディアンでもない、どちらでもない哀しみを生きる彼は、まるで場違いなところに放り込まれた"道化"といった感じです。  そのどちらでもない人間を通して、アメリカという国の矛盾が浮かび上がってくると思うのです。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2023-08-28 08:41:49)
11.  評決 《ネタバレ》 
第55回アカデミー賞で、この映画「評決」は、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞にノミネートされていましたが、何一つ受賞出来ませんでした。  特に、過去5回も主演男優賞にノミネートされながら、一度も受賞した事のないポール・ニューマンが、今回はきっと受賞するだろうとの下馬評が高かったのに、その力演も空しく、「ガンジー」で一世一代の名演技を披露したベン・キングスレーに敗れ去りました。  ポール・ニューマンが主演するこの「評決」を、オスカーが無視した背景として、彼が人権擁護に積極的な民主党員であり、1968年には同党のコネティカット州の代表に選ばれ、当時のカーター大統領の時代には国連軍縮特別総会の米国代表候補にされたという、反戦運動家としての政治的キャリアが災いしたとも言われています。  「核問題は全ての事より大切なんだ。非合法移民、インフレ、失業、レイオフの問題よりもだ。だって核の問題で読み違いをおかしたら、他の問題など吹き飛んでしまう」と、ある雑誌のインタビューに答えて、自分の政治的な信条をはっきりと表明するような彼は、華やかで、当時の保守的なハリウッドのアカデミー賞の会員にソッポを向かれ、アメリカ国内の既成の権力に対して反抗的な内容の「評決」が、同じ性格のコスタ・ガブラス監督、ジャック・レモン主演の「ミッシング」と同じ冷遇を受けたのは、アカデミー賞の限界を示すものだと言えるのかも知れません。  この映画「評決」は、陪審制下の"法廷もの"であり、また"医療ミス"を題材にした、弁護士出身のジョン・リードの原作の映画化作品です。  かつてはエリート弁護士でしたが、陪審員を買収した上司を内部告発しようとして失脚した、負け犬でアル中で女にも弱い弁護士のギャルヴィン(ポール・ニューマン)を立ち直らせたものは何なのか?  落魄したうつろな自分をそこに見るような、生命維持装置に繋がれた悲惨な患者の姿なのか? 真実を追求しようとせず、金だけで解決しようとする安易な法曹界への反発なのか? 支配階級であるWASPへの憎悪なのか? それとも謎の女ローラ(シャーロット・ランプリング)への愛情なのか? --------。  この映画は、自らを失っていた弁護士ギャルヴィンの"人間としての自己回復、魂の再生のドラマ"を静かに、しかし、熱く描いていくのです。  酒と人いきれにすえたような暗いパブ、その片隅で弾けるピンボールの虚しい響き、悲惨な状態で長期療養病院に横たわる植物人間と化した患者の姿、厚味のある色調のボストンの街並み、寒々しい法律事務所の雑然とした室内、重々しく緊張感に満ちた法廷----、これらを静かに、厳しく映していくポーランド生まれのアンドレイ・バートユウィアクのカメラには深い情感があり、デービッド・マメットの脚本には濃密な味わいがあります。  監督のニューヨーク派の名匠シドニー・ルメットは、「十二人の怒れる男」「狼たちの午後」「ネットワーク」で三度もアカデミー賞の監督賞の候補になりましたが、受賞しないままです。  ギャルヴィンの相棒に扮するジャック・ウォーデン、ギャルヴィンの法廷での強敵となる、被告側の弁護士コンキャノン役の名優ジェームズ・メイスンの演技は、共に白熱した演技を示しています。  そして、コンキャノンのスパイとして、ギャルヴィンを誘惑するローラを演じるシャーロット・ランプリングは、「愛の嵐」以上に神秘的な妖しい魅力を発散させています。 挫けそうになるギャルヴィンを叱咤する彼女の姿には、スパイではなく本当の愛がのぞいているように感じます。  この映画のラストで彼女がベッドからかける電話、それを取り上げようとしないギャルヴィンの思いは、複雑で切ない余情を感じさせてくれます。  法廷のシーンで自己の人間としての復権を賭け、絶望的に不利な状況の中で、ギャルヴィンが陪審員に向かって静かに訴えかける言葉------。  「正義を与えるためではなく、正義を我がものにする機会を与えるために法廷があるのです」  「法とは、法律書でもなければ、法律専門家でもなく、法廷でもありません。そういうものは、正しくありたいという私たちの願望のただの象徴にすぎないのです」  「金持ちは常に勝ち、貧しい者は無力。正義はあるのか? 私たちは自分の信念を疑い、法律を疑う。しかし正義を信じようとするなら、自分を信じることです。正義は、私たちの心の中にあるのです。あなたが今感じていることこそ正義なのです。」
[DVD(字幕)] 8点(2023-08-28 08:36:07)(良:1票)
12.  チャイナタウン 《ネタバレ》 
この映画「チャイナタウン」は、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドへのオマージュを込めたハードボイルド探偵映画の傑作だと思います。  この映画「チャイナタウン」の舞台となっている1930年代のロサンゼルスは、アメリカ社会が東海岸から西海岸へと発展の波を広げて行った時期に、太平洋岸最大の近代都市を形成しつつありました。  だが、そうした急速な膨張の反面には、かなりの無理がまかり通って来るもので、当然の事ながら、そこには不当な利権や醜い政治的な裏取引が蔓延して来ます。  この映画は、そのような時代背景の中に、それぞれの数奇で不条理な宿命とでも言うべき運命を背負って、哀しみの中で生きる人間たちの苦悩、葛藤をスリリングに、尚且つドラマティックに描いています。  レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドという二人のハードボイルド・ミステリー作家へのオマージュを込めて、しかも、ロバート・タウンのオリジナル脚本によって、それまでのどの映画よりも1930年代のロサンゼルスのハードボイルド探偵映画らしく映画化されていて、複雑で錯綜する話の内容をハードボイルド的なサスペンスでたたきこんでゆくので、一時たりとも画面から目が離せません。  ストーリーや当時の風俗やしぐさが、それらしいだけではなく、この映画製作に携わった人々は、"ハードボイルド的世界の精神"をきちんとつかんでいるし、主役の過去を秘めた虚無的な私立探偵ギテスを演じるジャック・ニコルソンの"シニシズムと人間臭さ"がまた映画好き、探偵小説好きにはたまらない魅力があります。  この映画は、1930年代のロサンゼルスの陽光きらめく太陽の底に淀む、退廃的なムードと虚無感に満ちた、陰湿な世界が展開されていますが、脚本のロバート・タウンは、そのレイモンド・チャンドラー的ハードボイルドの世界を見事に再構築していると思います。  監督は「戦場のピアニスト」、「ローズマリーの赤ちゃん」の名匠ロマン・ポランスキーで、彼は1933年生まれのポーランド系ユダヤ人で、第二次世界大戦中にその子供時代を過ごし、母親をナチスの強制収容所で失うという、悲惨で哀しいトラウマを抱えた過去を持っています。  この映画のラストの30分の思いがけない意表を衝く結末については、これは有名な話ですが、監督のポランスキーと脚本のロバート・タウンで意見が分かれ、ポランスキーの主張する不幸な結末でなければ、この映画のテーマが台無しになってしまうという意見が通り、この結末になったそうですが、やはりラストはこの結末以外には考えられません。  警察も手が出せない政財界の大物であるクロス(ジョン・ヒューストン)が、「時と所を得れば人間は何でも出来るのだよ」という神をも恐れぬセリフは、ポランスキー監督の人間不信の言葉でもあるような気がします。  このクロスを「マルタの鷹」等のハードボイルド映画の監督でもあるジョン・ヒューストンが、実に憎々しげでアクの強い人間像を演じて見事です。  そして、クロスの娘であり、また女でもあるという"複雑で哀しい宿命を背負い、妖気と虚無的で退廃感の漂う"人妻イブリンを演じるのが、フェイ・ダナウェイで、彼女が十字架として背負う哀しい宿命は、彼女の左の緑の瞳の中の小さな黒点として象徴されています。  彼女の瞳の中にその黒点を認めた時、共に暗く哀しい過去を持つギテスとイブリンは、宿命の糸で結ばれます。 しかし、その愛はほんの束の間で、急速に回転し出した運命の歯車は、一気にカタストロフィへ突き進んで行きます。  車でロサンゼルスから逃れ去ろうとするイブリンを背後から撃った警官の銃弾が撃ち抜いたのは、彼女の左目である事を我々観る者は見落としてはいけないと思います。  映画の題名である"チャイナタウン"が、この映画の舞台になるのは、この最後の10分程の短いラスト・シークェンスにすぎませんが、なぜ、このチャイナタウンを映画の題名にしたのかという事を考えると、"チャイナタウン"は、アメリカの街の中の異境であり、迷路のようなこの街の中に、ポランスキー監督は、ポーランドでのゲットーと同じ安らぎを見出し、併せて、自分の妻のおぞましい惨劇を引き起こしたアメリカへの批判をしているとしか思えてなりません。  紙屑が舞い、野次馬が去って行く薄汚いチャイナタウンの夜のシーンは、哀しさと怒りを込めた、静かな中にも深く、優しさに溢れた名ラストシーンだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2023-08-24 17:08:11)
13.  デストラップ/死の罠 《ネタバレ》 
推理小説好きなら、観ておきたい価値のある映画「デストラップ 死の罠」。  原作はアイラ・レビンで、ニューヨークのブロードウェイで、延々ロングランした舞台劇の映画化作品だ。  この舞台劇は、ロンドンで大ヒットした、アガサ・クリスティの「ねずみとり」に刺激され、触発されて、製作された気配が多分にあるのだが、イギリス的な本格ミステリの構成とムードを持ちながら、裏側にいかにもアメリカ人好みの乾いた感覚が秘められているのだ。  この映画の演出は、ニューヨーク派の名匠シドニー・ルメット監督。 二幕仕立てという舞台構成を、そのまま映画に持ち込む事で、その構成自体をサスペンスに利用したところは、ミステリ好きを喜ばせる演出だと思う。  才能の枯れたスリラー舞台作家。 若者の持ち込んだ脚本が、あまりにも見事なので、それを自分のものにしようと計画を立てる。 そして、妻をも計画に誘い込み、自分の家で、この若者を殺そうとするのだ。  登場人物は、この三人と近所の奇妙な老婦人だけ。 そして、主な舞台は、この家だけ。 陪審員の控室のみで、あれ程の緊張感と迫力を創り上げた「十二人の怒れる男」の監督だけあって、この限られた場所、その大道具を逆に生かして、二重三重のドンデン返しを語って見せるのだ。  作家のマイケル・ケインも、妻のダイアン・キャノンも、ベストの演技を示している。 そして、青年はあの「スーパーマン」でブレイクしたクリストファー・リーヴだが、複雑な性格の役を陰影を込めて演じていて、実に素晴らしい。  こうしてみると、舞台で練られたミステリの面白さを、単に映像化しただけだと思われがちだが、ところが実はさにあらず。  プロローグに映画ならではのトリックが、はめ込まれているのだ。 実のところ、私はこの部分で完全に騙されてしまった。 憎い人だ、シドニー・ルメット監督。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-08-24 16:59:08)
14.  不毛地帯 《ネタバレ》 
現在の日本映画で、ほとんど製作されなくなった社会派映画。 かつては、山本薩夫監督や、熊井啓監督など、数多くの気骨のある映画監督がいたものでしたが、現在の日本映画の衰退、凋落傾向の中、そのような気骨のある映画監督が全くいなくなりました。  この東宝映画「不毛地帯」は、昭和34年当時、二次防の第一次FX選定をめぐるロッキード対グラマンの"黒い商戦"を素材にした山崎豊子の原作の映画化作品です。  この映画は、その相当部分が主人公の元大本営参謀であった、壱岐正(仲代達矢)のシベリア抑留11年の描写に当てられています。 そして、この主人公の壱岐正のモデルは、元伊藤忠相談役の瀬島龍三氏であったのは言うまでもありません。  「白い巨塔」「華麗なる一族」に続くこの山崎豊子の原作は、高度経済成長下の熾烈な経済競争で荒廃してしまった"日本の精神的不毛地帯"と、厳しい自然と、全く自由を奪われた強制収容所という"シベリアの不毛地帯"を重ね合わせ、この二つの不毛地帯を、幼年学校以来、軍人精神をたたきこまれた主人公の壱岐正が、如何に生きていくか、その"人間的苦悩"に焦点を絞って描いている小説だと思います。  この映画の監督は社会派の作品を得意とする山本薩夫。 「戦争と人間」三部作、「華麗なる一族」「金環蝕」とその作風はある意味、一貫している監督です。  原作ではシベリアでの飢えと拷問の監獄、それに続く悲惨な収容所生活に多くのページを割いており、ソルジェニーツィンの「収容所群島」を連想させますが、この映画では、シベリアの部分はほとんどカットされており、ソ連内務省の取り調べも、天皇の戦争責任にポイントをおくためのものになっているように思います。  また、安保闘争をこの映画と切り離せない社会的背景とみて、原作にはないのを山本監督は意識的かつ重点的に付け加えています。 更に、自衛隊反対の自己の主張を壱岐の娘、直子(秋吉久美子)の口から繰り返し語らせているのです。  そして、当時、社会の関心が集中していた"ロッキード事件"を意識して、その徹底糾明のためのキャンペーン映画として作られており、山本監督は、それを抉るために彼の"政治的立場"に沿って、人間関係を明快に整理しているようにも思います。  原作者の山崎豊子は、「作者としては、どこまでも主人公、壱岐正が、その黒い翼の商戦の中で如何に苦悩し、傷つき、血を流したか、主人公の人間像、心の襞を克明に映像化してほしかった。この点、山本監督は、イデオロギー的な立場で、主人公を結論づけ、描いておられる。そこが小説と映画との根本的な相違であるといえる」と強い不満を語っていましたが、もっともな事だと思います。  山本監督は、「『金環蝕』も『不毛地帯』も、そのストーリーこそ違うものの、いずれも、本質的には日本の保守政治の構造が生んだ事件であり、今回のロッキード事件とその点で共通していると言える。私が『不毛地帯』を撮るにあたり、こうした保守政治の体質にいかに迫るかが、私にとって大きな課題となった」と、この映画「不毛地帯」の製作意図を語っており、このようにこの映画が、"政治的な意図"を持った映画である事を、我々映画を観る者は、よく認識しておく必要があると思います。  当時のロッキード事件というものと関連させて、なるほどと思わせる場面が多く、迫力もあり、映画的に面白く撮っているだけに、我々観る者が映像と現実をそのままゴッチャにしてしまう危険性もはらんでいるようにも思います。  ただ、山本監督は、「私は、映画はわかりやすく、面白いものでなければいけないと、常々考えている。健全な娯楽性の中に、その機能を生かせば、今度のような、いわば政治の陰の部分まで描き出せる」とも語っており、三時間という長さを全く退屈させない腕前はさすがで、その政治的な思想性は別にしても、これだけの社会派ドラマを撮れる監督が、現在の日本映画界に全くいなくなった現状を考えると、本当に凄い映画監督だったんだなとあらためて痛感させられます。  シベリア抑留の苛酷な体験もいつか薄れ、新鋭戦闘機に魅せられて、いつの間にか熾烈な商戦の渦中に巻き込まれ、作戦以上の策略を尽した結果が、心ならずも戦友の川又空将補(丹波哲郎)を死に追い込み、家族からも心が離反されてゆく、"旧職業軍人の業"といったものが切ない哀しみを持って、胸にしみてきます。  そして、自衛隊に入った旧軍人制服組の、警察出身で政治的な貝塚官房長(小沢栄太郎)に対する憎しみも非常にうまく描かれていたと思います。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2023-08-24 10:18:41)
15.  ミュージックボックス 《ネタバレ》 
"政治的実録映画「Z」「告白」「戒厳令」のコスタ・ガブラス監督によるベルリン国際映画祭で金熊賞に輝く、社会派法廷ドラマの秀作「ミュージック・ボックス」"  この映画「ミュージック・ボックス」のコスタ・ガヴラス監督は、もともと社会派の実録映画作家です。 ギリシャ生まれで、政治家ランプラスキー暗殺事件にヒントを得て、時のギリシャ軍事政権を痛烈に批判した「Z」(1968年)、スターリニズムの驚愕の実態をえぐった「告白」(1969年)、南米ウルグアイで実際に起こった事件を基にした「戒厳令」(1972年)など、政治的実録映画を次々と撮って来ました。  その後、アメリカでも映画を撮るようになり、1982年にはチリの軍事クーデターにアメリカ政府やCIAが関与していた事実を暴いた、ジャック・レモン主演の「ミッシング」で、カンヌ国際映画祭の最高賞のグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞しました。  そして、1988年には、アメリカ社会に根強く存在する人種差別のテロリストたちを軸に、FBIの女性捜査官とテロリストが対立する立場にいながら、恋に落ちるという「背信の日々」を撮りましたが、この映画「ミュージック・ボックス」は、ユダヤ人虐待の嫌疑をかけられた父の無実を晴らそうとする、女性弁護士の苦悩を描く社会派法廷ドラマで、ペルリン国際映画祭で、最高賞の金熊賞を受賞している作品です。  女性弁護士アン・タルボット(ジェシカ・ラング)は、第二次世界大戦後にハンガリーからアメリカへ移民し、平和な日々を送って来た父マイク・ラズタ(アーミン・ミューラー・スタール)が、突然、ハンガリー政府からユダヤ人虐待の容疑者として、彼の身柄の引き渡しを要求された事で、周囲の反対を押し切って、父の弁護をする事を決意しました。  そして、真相を調べていくうちに明かされる、過去の知られざる父の姿。 彼女は、父の無罪を証明するために、父の祖国ハンガリーへ飛ぶが----。 娘と弁護士という立場で揺れ動くアン・タルボットをジェシカ・ラングが熱演しています。  新たに浮かび上がった事実は、父が移民の際、自分の身分は警察官ではなく農民だと偽っていた事でした。 また、同じハンガリー移民のゾルダンという男に、なぜか送金していた事もわかって来ました。  そして、法廷では父がユダヤ人虐殺の先兵であった特殊部隊の"ミシュカ"と同一人物であるという証言が次々と行われ、状況は決定的に不利だと思われました。 しかし、父の無実を信じるアンは着実な反証によって、検察側の証人を切り崩す事に成功するのです。  検察側は遂に"ミシュカ"の知人だという男を証人として持ち出して来ますが、アンはハンガリーのブダベストまで行き、病床にあるその男を訪ね、そこで決定的とも言える反証の資料を手に入れるのです。  しかし、アンの胸中には、父が送金していたゾルダンという男の事故死についての疑念が晴れず、何かすっきりとした気持ちになれませんでした。 その時、アンはゾルダンの姉から唯一の手掛かりになると思われる質札を預かりました。  その後、アンがアメリカへ戻ると、新聞は父の有罪立証が不可能であるという事を一斉に報じていました。 しかし、アンはブダペストでユダヤ人虐殺の証拠である、顔に傷を持った男がゾルダンである事を見てしまっていたのです。  そして、質札から引き出されたミュージック・ボックス(オルゴール)が意外な真実を告げたのです。 その中には、ユダヤ人に銃を向けている若い頃の父の写真が入っていたのです----。  激しく問い詰めるアンに対して、父は私を信じてくれと言うばかりでしたが、もはやアンは父を愛する事が出来なくなっている自分の心に気づき、黙って父の有罪を告げる証拠写真を連邦警察へと送るのです----。  やはり、コスタ・ガプラスという、不当な権力による政治的犯罪に対する、燃えたぎる不屈の精神、抵抗、そして、人間の尊厳を踏みにじる諸々の行為に対する告発----、これらの彼の映画作家としての資質を抜きにしては、とうてい、この映画は製作されなかっただろうと思います。
[DVD(字幕)] 8点(2023-08-24 10:10:14)
16.  ウルフ 《ネタバレ》 
"巨大な企業が個人を飲み込んでしまうというプロットと、狼へと変身していく自己との葛藤を通して狼男の神話のファンタジーを描いた「ウルフ」"  怪奇映画の三大怪物のヒーローと言えば、"ドラキュラ"、"フランケンシュタイン"、"狼男"ですが、1990年代の前半は、フランシス・フォード・コッポラ監督、ゲイリー・オールドマン主演の「ドラキュラ」、ケネス・ブラナー監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「フランケンシュタイン」があらたな着想でリメイクされ、第3の怪物、"狼男"もマイク・ニコルズ監督、ジャック・ニコルソン主演で製作されました。  この映画は狼男への変身という題材を、ラブストーリーに仕立てた、"ロマンティック・ホラー"とでも言うべき作品で、ニューヨークの大手出版社に勤めるウィル(ジャック・ニコルソン)が、狼に噛まれた事から、会社で部下の野心家のスチュワート(ジェームズ・スペイダー)に足元をすくわれて、左遷人事で飛ばされそうになっていましたが、"野生に目覚め"たウィルは、仕事にも俄然、やる気を取り戻し、社長令嬢のローラ(ミシェル・ファイファー)と激しい恋に落ちたりします。  映画の前半部は、生き馬の目を抜くとも言われる熾烈で過酷なニューヨークのビシネス社会の中で、冴えない企業戦士が狼に噛まれ、野生の力に戸惑いながらも、スーパービジネスマンへと変貌していく過程は、コメディすれすれの状況で描かれていきますが、さすがにマイク・ニコルズ監督、丁寧な描写を積み重ねていく事で、シリアス・ドラマ風の展開へと持っていきます。  "巨大な企業が個人を飲み込んでしまう"というリアルなプロットと、"狼へと変身していく自己との葛藤"という、狼男という神話のファンタジー。  この"ウィルVSライバルとの外的な戦い"と"狼へ変身していく自己との葛藤"というものが、見事に二重構造となっていて、恐らく、マイク・ニコルズ監督もジャック・ニコルソンも、この映画を単なるホラーとしてではなく、その「ふたつの戦い」を描く事が狙いだったのではないかと思います。  ウィルは月夜の晩になると狼に変身し、セントラルパークを徘徊したりするのですが、朝になると記憶が全くないのです。 そんな折、ウィルの妻が獣のような生き物に惨殺されるという事件が発生します。  自分の仕業かもしれないという疑念にかられたウィルは、"理性と野性の間で苦悩"する事になります。 そして、理性で野性の行動を抑える事が出来なくなったウィルに警察は嫌疑の目を向けていきます。  そんなウィルの理解者は恋人のローラだけで、このローラとのロマンスは、まさに"美女と野獣"のようで、狼へ獣化していくウィルは、ローラを愛するがゆえに近付ける事が出来ません。  この映画は全編、ダークな色合いを基調とした映像がゴシック風の美しさを漂わせていて、オスカー受賞歴のある名手リック・ベイカーの特殊メイクが我々怪奇映画ファンを楽しませてくれます。  そして、この映画は名優ジャクニコルソンと、私の大好きな俳優ジェームズ・スペイダーの白熱した演技合戦がさすがに見応えがありましたし、現代の"お伽噺"としても、十分に楽しめる映画になっていたと思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2023-08-24 10:01:14)
17.  センチュリアン 《ネタバレ》 
この映画の監督は、「トラ! トラ! トラ!」「マンディンゴ」等のハリウッドの職人監督リチャード・フライシャー。 原作は、ロスアンゼルス警察の部長刑事ジョセフ・ウォンボー。 したがって、アメリカの警察活動を内部から的確に描き出している点でも、とても興味深い作品だ。  警察もの、刑事ものは、その活動の対象が、庶民的な犯罪、特に社会の底辺から生まれる、喧嘩、売春、麻薬、窃盗、不法入国といった、浜の真砂のような諸悪であり、それが貧困と人種問題とを温床としていることから、この映画のように社会性の強いドラマとなる。  この点、「ゴッドファーザー」は、犯罪閥と言えるマフィアの巨大悪の、優雅な豊かさを描いていて対照的と言える。 そして一方、これに立ち向かう警官自体も庶民であり、仕事一途であればあるほど、次第に家庭から遊離し、孤独化し、どうにもならない社会の壁の前に荒んでいく。  書かれた法律と生きた法との矛盾、そこに警官は、自らの法を打ち立てようとする。 この映画での老警官キルビンスキー(ジョージ・C・スコット)がそうであり、「ダーティ・ハリー」のハリー・キャラハン刑事がそうであった。 そして、西部劇に見る、保安官と同じ姿がそこに見られるのだ。  しかし、自らの正義感に生きたキルビンスキーも、退職後は、楽しみにしていた、フロリダの娘夫婦の家庭にも受け入れられず、虚脱の中に自殺する。  この映画が、西部の大都会を舞台にしていることは、非常に示唆的だ。 無法地帯で、法を執行しようとした、かつての西部の英雄の姿は、今日では、大都会のジャングルの中に消え去る、小さな悲劇としてしか描きようがないのだ。  貧民街での夫婦喧嘩をやめさせようとして、精神病の夫に、犬のように撃たれ、「こんな馬鹿な------」と呟やきながら死んでゆく警官ロイ(ステイシー・キーチ)。 その彼は、妻に去られて、黒人との新しい愛に希望を見出したばかりであった。  その彼を抱いて、階段の上から見下ろすヤジ馬に、「毛布ぐらい投げてくれよ!」と叫ぶ同僚のガス(スコット・ウィルソン)の姿から、アメリカ社会の底辺に挫折する警官の、もっていきようのない、空しい訴えが響いてくるようなラストだ。  尚、この映画の原題は、ローマ時代に治安を守った、百人衆からとったものだが、映画の中で、キルビンスキーがロイに、「ローマの最後の日までだよ」と、皮肉を込めて百人衆に言及するところに、本来の寓意があると思われますね。
[DVD(字幕)] 7点(2023-08-24 09:52:36)
18.  黒衣の花嫁 《ネタバレ》 
ヒッチコック心酔者のフランソワ・トリュフォー監督が挑んだミステリ映画「黒衣の花嫁」  フランソワ・トリュフォー監督は、アルフレッド・ヒッチコック監督の心酔者だけあって、この「黒衣の花嫁」の他にも、「暗くなるまでこの恋を」など、ミステリ映画を撮っている。  フランスは、コート・ダジュールのアパートで独身生活を楽しんでいる一人の男がいる。 友人宅のパーティーに訪れて、妖しいまでに美しい女性に出会う。  女性は、その男をテラスに誘う。その直後、その男は、テラスから落ちて死んでしまう--------。  そこから、ほど遠くない町に、銀行員が住んでいた。その銀行員の手元に、音楽会の切符が届く。 心を弾ませて銀行員は、音楽会に出かける。  桟敷には美貌の女性が待っていた。そして、彼女は、翌日、銀行員のアパートを訪れる約束をした。 約束どおり、その女は来る。  しかし、銀行員は、青酸カリで殺される--------。  三人目の男。若手政治家だ。この男も女の毒牙に。女は男の「なぜ?」という質問に答える。 その女の結婚式の日。五人の狩猟仲間が、ふざけて、教会の風見鶏を狙って撃つ。  その弾が、誤って新夫に--------。  思えば、似たような映画があった。日本映画の「五瓣の椿」だ。 似ているはずで、両作品とも原作が、コーネル・ウールリッチだからだ。 「五瓣の椿」は、コーネル・ウールリッチの小説を、実に巧妙に江戸の世界に、山本周五郎が移し替えたのだ。  私は、二度目に、この「黒衣の花嫁」を観た時、トリュフォーが、いかに、お師匠さんのヒッチコックの手法を、取り入れたか、という視点で入念に観ました。 そして、トリュフォーは、師匠を乗り越えたか、という視点でも観ました。  その答えは「NO」。ヒッチコックに及ばざること遠しだ。 ただ、この「黒衣の花嫁」でも「五瓣の椿」でも、主演女優の出来はなかなかのものだった。  ジャンヌ・モローの妖しい殺人者、演技開眼の力演が素晴らしかった岩下志麻。 そういう意味では、両作品とも成功作だろう。
[DVD(字幕)] 7点(2022-05-01 09:30:12)
19.  夕陽に向って走れ 《ネタバレ》 
この映画「夕陽に向って走れ」は、1909年に起きた実話を基にして描いた、アメリカン・ニューウエスタンの隠れた傑作で、かつて"赤狩り"の犠牲となった、エイブラハム・ポロンスキー監督が20年ぶりに撮ったカムバック作品でもある。  1909年ということは、西部開拓の英雄的な時代は既に過ぎ去り、生き残ったわずかなインディアンは、アメリカ政府の指定した居留地に押し込められ、しかも「シャイアン」のような勇敢な大脱走を試みる力も、もう持ってはいない時代、ということなのだ。  だから、インディアンと保安官の対決をクライマックスにしているアクションものではあるけれども、血沸き肉躍るといったような勇壮なものではない。  そこにかえって、"西部劇の挽歌"とでもいうか、あるいは、今日のアメリカの姿を現わす西部劇とでもいうような、独特の魅力が生じているような気がする。  インディアンの若者ウイリー(ロバート・ブレーク)が、親の許さぬ恋のもつれから、恋人の父親を殺してしまって、恋人のローラ(キャサリン・ロス)と駆け落ちする。  インディアンの考え方からすれば、これは一種の略奪結婚であるが、保安官のクーパー(ロバート・レッドフォード)は、彼を殺人犯として追わなければならない。  これに、クーパーの恋人でインディアン保護の任にあたっている、女性の人類学者エリザベス(スーザン・クラーク)や、久し振りにインディアン狩りをしているつもりの、地元のボスなどが絡んでくる。  ウイリーは、インディアンが先祖から伝えて来た、逃亡のための様々な知恵を働かせて、追手をまこうとするし、クーパーはまた、親譲りの知恵でこの先を読んでいく。  ローラは、ウイリーを逃がすために死に、クーパーは地元のボスたちの思惑などに悩まされながらもウイリーを追い詰め、そして、奇妙な形をした岩山での一対一の対決になる。  インディアンのウイリーに扮したロバート・ブレークは、「冷血」で、やはりアメリカの社会の秩序の枠の中では、楽しいことなど一つもないみたいな、貧しいチンピラのはみ出し者になりきっていたが、この映画でも、弱いインディアンの切ない意地をよく表現していたと思う。  これをウイリーに心情的にはシンパシーを覚えながらも、仕事として追跡しなければならないというジレンマを抱える、クーパー保安官に扮したロバート・レッドフォードの抑制された静かな演技が、より一層、この映画に深みと切なさを与えているように思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2022-04-30 14:40:32)
20.  チザム 《ネタバレ》 
この映画「チザム」は、西部劇の王者ジョン・ウェインが「勇気ある追跡」でアカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞後の初めての作品で、当時62歳のジョン・ウェインはすこぶる元気がいい。  西部史に名高いリンカーン郡戦争の中、ニューメキシコの広大な原野に牧畜王国を築き上げ、冒険と波乱の生涯を送ったチザム(ジョン・ウェイン)の実録の映画化作品だ。  チザムの親友のジェームズ・ペッパーにベン・ジョンソン、彼らと対立する黒幕の親分ローレンス・フィーにフォレスト・タッカー、連邦保安官パット・ギャレットにグレン・コーベット、無法者ビリー・ザ・キッドにジョフリー・デュエルという配役で、西部劇ファンとしては嬉しくなる顔ぶれだ。  この映画は銃撃戦やスタンピードという牛の大暴走などの見せ場も多く、西部開拓史上に名高い人物たち、特に、後に宿命の対決をすることになる無法者ビリー・ザ・キッドと名保安官パット・ギャレットの若き日の姿(といってもビリー・ザ・キッドは21歳でその生涯を閉じた)が、描かれているのも興味深い。  しかも、ビリー・ザ・キッドと言えば、左ききのガンマンとして有名だが、この映画では史上初めて右ききで登場してくる。 彼の写真が実は裏焼きだったので、ずっと左ききだとされてきたが、右ききが本当だったのだ。  かつて二挺拳銃のジョニー・マック・ブラウンをはじめ、ロバート・テイラー、オーディー・マーフィー、ポール・ニューマンと、歴代の左ききのビリーはみな魅力的だったが、それだけに、この映画の右ききのジョフリー・デュエルが扮しているビリーが少し見劣りするのは仕方がないだろうと思う。  この映画は実録とは謳っているが、実説とはかなり違っているものの、とにかく、牛の大暴走場面あり、ガン・プレイあり----と、西部劇ならではの見せ場を次々と盛り込むサービスぶりで、かなり爽快感が味わえるのは確かだ。  ベテランのアンドリュー・V・マクラグレン監督が悠々たるタッチで西部劇の楽しさ、面白さを詰め込んだ作品になっていると思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2022-04-21 15:41:54)
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