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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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281.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 
この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。  ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。  さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。  となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。  阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-04 17:25:54)(良:1票)
282.  ジオストーム
予告編からひしひしと伝わってくる愛すべき“B級感”から、「劇場鑑賞すべき」という嗅覚は利いていたのだけれど、結局見逃してしまったことを只々後悔。  90年代からの災害パニックムービー(ディザスター映画)ファンとして断言できるが、これは良い災害パニックムービーだ。 作り手は、この手のジャンル映画の何たるかをよく分かっている。と、思えば、監督はディーン・デヴリンか。 90年代にローランド・エメリッヒ監督とのコンビで、「インデペンデンス・デイ」「GODZILLA」を生み出したこの映画人であれば、今作の良い意味で馬鹿馬鹿しくて大仰な災害パニックの構築は激しく納得できる。  また、エド・ハリス、アンディ・ガルシアら90年代に活躍したスター俳優のキャスティングもツボを心得ている。 そして主演のジェラルド・バトラーが異常気象並みの熱波を発しつつ、剛健な主人公像を体現している。  ムンバイでの大寒波に始まり、地震、火山噴火、巨大竜巻、巨大雹害、雷災害、巨大津波、と世界中のあらゆる都市で、通常は気候的に起こりえない大災害のオンパレード。それはまさに、“天変地異”のオールスター映画である。 その一つ一つの災害シーンを決して手を緩めることなく、とことん大袈裟に、とことん絶望的に映し出してくれる。 その様を見ているだけで災害映画として満足するしかなく、更にはそこにアメリカ政府の陰謀論と、宇宙空間からの絶体絶命のサバイバル劇まで、ストーリーの具材を盛りに盛ってくる。  いやあ、これは頭を空っぽにして、映画館の大スクリーンで鑑賞すべきだったとつくづく思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-05-04 17:25:01)
283.  ランペイジ 巨獣大乱闘
「rampage」の意味は「大暴れ」。なんと端的で潔いタイトルだろうか。  ひねりも変化も無いドストレートなタイトルそのままに、巨大化した動物たちが、“主演俳優”と共に、大暴れする。 まさに“B級モンスター映画”の最前線。この系譜の最新作において、ドウェイン・ジョンソンの主人公へのキャスティングとそのハマりぶりは、豪華で、あまりに相応しい。 超高層ビル郡を所狭しと暴れまわる猛獣たちの間に割って入り、果敢に立ち向かう動物博士(&元特殊部隊員)なんて役どころを大真面目(?)に演じられるのは、今やロック様をおいて他にないだろう。  昔からビデオスルー(DVDスルー)される“Z級映画”のパッケージには、絶対に本編には映し出されることはない仰々しいイラストビジュアルがプリントされているものだが、今作はそれを地でいく馬鹿な大仰さが、モンスター映画ファンとしては嬉しい。  ただどうせならもっと馬鹿馬鹿しさ全開で、多数の巨大化猛獣たちの大乱闘を見たかったとは思う。 「巨獣大乱闘」という日本語サブタイトルに対して、登場する巨獣が計3頭なのは少々物足りない。  結局、味方の白ゴリラは巨獣のまま強引なハッピーエンドを迎えているので、是非ロック様とのバディを継続した続編を、ライオン、カバ、サイ、ヘビ、ワシ……の動物園猛獣オールスターでお送りして欲しい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-05-03 23:07:00)
284.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:3票)
285.  ブラック・クランズマン
愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。 もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。 映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。  こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。 スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。 「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。 対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。  映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。 教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。 なんて悲しいのだろう。 差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。  主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。 しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。 結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。   映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。 この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。 ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。 それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。 映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。  差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。 それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。 根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。  そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。
[映画館(字幕)] 8点(2019-04-18 09:45:24)
286.  64/ロクヨン 後編
“忘れたくない”のに、殺された娘の記憶は、哀しみと怒りのみをくっきりと残して、日に日に薄れていく。一方、“忘れたい”のに、怒りと憎しみの根源である犯人の声は、こびりつくように脳裏に残り続けた。 これは、あまりにも悲しく、あまりにも辛い、「父親」の物語であり、主要な登場人物たちと同様に、僕自身娘を持つ父親として、身につまされたことは間違いない。   或る誘拐殺人事件を主題としたサスペンスとして、通り一遍ではない様々な感情と思惑、そして実際の時代的背景が入り混じったストーリー構成からは、流石に横山秀夫の著作らしい原作の空気感を感じた。   原作は未読だけれど、そういった魅力的な題材を、国内のオールスターキャストを揃えた「大作」として映画化するにあたっての、精力的な気概そのものは十分に感じた。 が、しかし、いかんせん演出が「稚拙」の一言に尽きる。残念だ。   昔からだが、なぜ日本のサスペンス映画は、過剰な慟哭をさせたがるのか。 仰々しい演出で、これ見よがしな慟哭を映画のハイライトとして映し出す映画に、あまり傑作は無いように思う。 今作も「前編」の段階から、熱演を通り過ぎて、少々オーバーアクトに見えてしまう場面がいくつもあった。 まだ前編に関して言えば、過剰な演出・演技に対して、描き出されるストーリーの焦点が極めて普遍的な県警内における“内輪もめ”だったので、仰々しい表現と実際に進行する展開の小規模さのギャップが、興味深く描き出され楽しめた。   しかし後編は、いよいよサスペンスの本筋である過去の悲劇的な事件と、リアルタイムに展開される新たな事件が絡み合う様が大々的に描き出されるので、仰々しいだけの演出が逆に白けさせる結果となってしまった。 事の真相が、必要以上に振りかぶって繰り広げられるので、それを受け止める側としても身構えてしまい、的確に捉えられなかった印象を覚えた。 フィクションなのだから、導き出される「真相」が荒唐無稽だったり、非現実的だったりすること自体は許容できる。しかし、それならば映画上の「嘘」を、擬似的な「現実」として観客に許容させるための演出方法があるはずで、それこそが映画の醍醐味だろうと思う。   前編で構築した地味だけれど見応えのある人間模様を、ないがしろにし、甚だ強引で整合性の無い帰着に導いてしまったこの後編はとても残念な仕上がりだった。 ラストの顛末も大きく改変してしまっているようだが、おそらく横山秀夫の原作は、この物語が描き出す「事件」に関わる群像一人ひとりの心情をあぶり出し、多層的なドラマ性を生み出しているのだろう。機会があれば是非原作小説を読んでみようと思う。   最終的に残念な仕上がりではあったが、前後編通じてキャスト陣は、演出の良し悪しは別にして、“熱い”演技をして見せてくれている。 前述の通り、個人的には異なった「父親像」を演じた俳優たちがそれぞれ印象的だった。   主演の佐藤浩市は、刑事として、父親としてあらゆる側面で“板挟み”になり苦悩する男を熱演していた。 被害者父役の永瀬正敏は、心身ともに文字通りに“汚れ”苦しみ尽くす様を見事に体現していた。 吉岡秀隆は、警察官としての正義のあり方に振り回され葛藤と共に人生を狂わされた男を好演していた。 そして、「緒方直人っぽいけどコレ誰だ?」と思わせる程に、色々な意味で屈折した表現を見せた緒方直人の演技も凄かったと思う。   原作が持つストーリー性と、俳優たちの熱い演技がもっと噛み合っていれば、本当の意味で「大作」になり得ていただけに、演出面の稚拙さが重ね重ね残念だ。
[インターネット(邦画)] 5点(2019-04-02 17:03:37)(良:1票)
287.  64/ロクヨン 前編
もうすぐ「平成」が終わる。今作を観るにあたり、この頃合いはなかなか相応しかったのではないかと、冒頭のシークエンスで先ず思った。 昭和天皇の崩御により、昭和64年は7日間しかなかった。その僅かな期間に起きた少女誘拐殺人事件をめぐる群像サスペンス。たった7日間の昭和最後の年に取り残された人々の悲しみと傷みがドラマチックに描かれる。  佐藤浩市演じる主人公に与えられているキャラクター設定と人生模様が、創作とはいえ少々“都合よく”ハードモード過ぎるだろうと思ってしまったが、そういった物語の過剰さも含めて、この手のオールスター映画には相応しいとも思えた。 その主演俳優を筆頭に、錚々たる俳優陣の演技プランは皆判りやすい仰々しさで、決して自然な演技ではないけれど、そのあざとさも、この映画が求めたエンターテイメントの一貫だと思えば受け入れられたし、楽しめた。  前後編に分かれたサスペンス映画の前編は必然的に“尻切れトンボ”になってしまうもので、今作においてもそれは完全には否定できないけれど、物語の焦点を絞って前編として巧く纏めている方だと思う。 ストーリー展開の焦点を過去の事件のあらましと、主人公が公私において抱える苦悩、そして県警内部の極めて普遍的でだからこそ根深く、愚かで見苦しい“人間模様”に集約することで、“前振り”としては非常に興味深い物語を構築できていたと思える。 サスペンスの本筋に対して中途半端に踏み込むことなく前編の終幕を迎えるので、後編に対する興味は駆り立てられつつも、それほど宙ぶらりんな感覚は無かったと言える。  演技、撮影、編集、音楽、すべてをひっくるめた演出面は、前述の通り仰々しい“ベタさ”に溢れかえっており、「新鮮味」なんてものはまるでないけれど、好意的に見ればそれは王道的な安心感とも言え、これもまたこの手のオールスター映画には必要なことだと思う。  後編は、いよいよサスペンス映画としての展開が加速するような雰囲気だが、さてどういった帰着を見せるのか。横山秀夫の原作は未読なので、展開を素直に楽しみたい。 一つの映画を前後編に分ける映画製作の手法は特に国内大作映画において増えており、あまり好ましくは思っていないけれど、たまにはこういう楽しみ方も良い。
[インターネット(邦画)] 7点(2019-03-31 22:55:51)
288.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2019-03-23 13:18:42)(良:1票)
289.  ちはやふる 結び
結論から言うと、この映画は、青春映画としても、スポ根映画としても、漫画の実写化作品としても、確固たる「傑作」として、文字通りに“結んでいる”。 既定路線的に若手俳優たちをキャスティングした人気漫画の映画化企画が乱立し、お世辞にも良作とは言い難い作品が並ぶ中において、今作(三部作)が築き上げたクオリティーとエモーションは、ちょっと奇跡的と言っていい。  この映画が成功した要因はいくつもあるが、先ず挙げられるのは「競技かるた」という競技に対する真摯な姿勢だろう。 ニュースの一トピックスとして名人・クイーン戦の模様を伝え聞いたことはあるけれど、いまひとつ一般的な馴染みの無いこの競技に対して、決して表面的な要素をなぞるのではなく、その本質に存在する文化的な歴史や価値、スポーツとしてのシビアさや奥深さまで、しっかりと表現することに挑んでいる。 無論それは、原作漫画自体がきっちりと踏んでいるアプローチなのだろうが、見た目の迫力や俳優たちの美麗さに依存するのではなく、「競技かるた」と「百人一首」が持つディープな世界観に踏み込んで見せたことが、この映画の質を上げたポイントだと思う。  そして、そういった映画的なアプローチに呼応した若い俳優たちがみな素晴らしかった。 広瀬すずのヒロインとしての存在感は三作目にしてもはや言わずもがなだろう。 主人公「綾瀬千早」の「天性」こそが、この物語の肝であり、それを映画の中のキャラクターに感じることができなければ立ち行かなかったことは明白だ。 広瀬すずは、文字通り頭のてっぺんから指の先、更にはその先の弾いたかるた札に至るまで、一挙手一投足の総てでその「天性」を演じきり、体現(=アクション)して見せている。 正直なところ、その主演女優の“アクション”を見ているだけで、この青春映画は成立しているとさえ思える。 その主演女優の存在感に負けず劣らず、周囲のキャラクターを演じた俳優たちもみな魅力的だったと思う。   この「結び」は、「上の句」「下の句」で描き出された「競技かるた」と「百人一首」の何たるかを根底に敷き詰め、更に人生を通じてこの「勝負」に傾倒する登場人物たちの人生観や、彼らの鋭敏な肌感覚まで引き出し、映し出していく。 そうして主人公たちの“視線”を通じて、物語を「未来」へと導いていく。 それはまさに「百人一首」という文化そのものが、千年に渡って連綿と継いできた真髄に他ならず、この作品に相応しい帰着だった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2019-03-21 18:33:56)(良:1票)
290.  スパイダーマン:スパイダーバース
アメコミ映画最盛期の現在において、「スパイダーマン」こそがそのムーブメントの発端だったと思う。 2002年のサム・ライミ監督による「スパイダーマン」の成功を皮切りに、数多のコミックのスーパーヒーローたちが実写化され、それぞれの物語が映画文化の中で綴られてきた。 「スパイダーマン」自体は、この十数年に渡るムーブメントの中で、実に三度リブートされ、いずれも絶妙に異なったキャラクター造形と共に、それぞれが「親愛なる隣人」の魅力的な活躍を描き出してきた。  つまるところ、我々はこの十数年間の中で、知らず知らずのうちに“スパイダーマンたち”が織りなす多元世界を「体験」していたと言えるのではないか。 トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーも、アンドリュー・ガーフィールド演じるピーター・パーカーも、トム・ホランド演じるピーター・パーカーも、みなパラレルワールドの中で同時に存在する“スパイダーマン”なのだという認識が今となってはしっくりくる。  無論、各シリーズの映画企画においてそんな相互意識は存在しないのだけれど、結果的に殆ど間髪入れずに製作された三様の「スパイダーマン」シリーズの根底には、この愛すべきスーパーヒーローがそもそも携えていた“多様性”が存在していたのだと思える。 その“多様性”が具現化したものこそ、並行世界(=パラレルワールド)の“スパイダーマンたち”を描くという“アイデア”だったのだろう。  あらゆる領域と世界観を超えて展開されるストーリーテリングが素晴らしい。 それは即ち現実社会においても並行して存在するコミック文化の融合でもあり、様々なアニメーション手法を縦横無尽に行き来するような自由闊達な表現が脳内を駆け巡る。  “ボーダーレス”の実現を掲げ、それ故の軋轢の拡大が止まらない現代社会において、この映画が「表現」するものの価値は大きく、だからこそ今この映画が生まれた理由もよく分かる。 どんなに孤独で苦しい闘いを強いられていたとしても、「一人ではない」ということに気づくだけで、大きな勇気を得られる。そして、声援を送ってくれる「隣人」は必ず存在する。 このクールでセンセーショナルに見えるアニメーション映画が伝えるものは、あまりにも普遍的で熱い真っ直ぐなメッセージだった。
[映画館(吹替)] 8点(2019-03-21 18:31:54)(良:1票)
291.  アントマン&ワスプ
前作「アントマン」は、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と「シビル・ウォー」の狭間で公開され、両作の色々な意味で“重い”作風に対して、一服の清涼剤となるような良い意味でライトで痛快無比な最高のヒーロー映画だった。 続編となる今作もその立ち位置は変わっていない。あの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の重苦しい“悲劇”の直後のMCU作品として、“清涼剤”としての役割は前作以上に大きかったことだろう。  キャストとスタッフが概ね続投されていることもあり、映画のクオリティやテイストに大きな変化はなく、前作同様ヒーロー映画として十二分に楽しい作品に仕上がっていると思う。  ただし、前作ほどのフレッシュさは流石に薄れている。 美しく強い“ワスプ”は魅力的で、表題に割って入ってくるのも納得だけれど、アントマンとのパートナーとしての関係性自体は、前作時点で既に築かれていたものなので、安心感はあるものの特段目新しさは無かった。 アントマンの“巨大化”のくだりも、「シビル・ウォー」で“ネタ見せ”してしまっているのでインパクトに欠けていた。 ストーリーの肝である量子世界への突入についても、既に前作で帰還に成功しているわけだから、新たな緊迫感を生むには至っていないと思う。  それでも前作同様の娯楽性を担保できているのは、やはり登場するキャラクターとそれを演じるキャスト陣が魅力的だからだろう。 アントマンことスコット・ラングを演じるポール・ラッドをはじめ、ワスプ役のエヴァンジェリン・リリー、ハンク・ピム博士役のマイケル・ダグラス、そしてなんと言っても悪友ルイス役のマイケル・ペーニャらのパフォーマンスが安定している。そんなレギュラーメンバーたちの掛け合いを見ているだけで楽しい。 またスコットの娘ちゃんは健気で可愛いし、普通の映画だったら憎まれ役になりがちの娘の“継父”すらも端役ながら最高なキャラクター性を見せてくており、ほっこりさせてくれる。  というわけで結果的には、前回と同じく“清涼剤”の役割をしっかりと果たしてくれていることは間違いない。 が、「覚悟」はしていたけれど、MCUにおいて痛快無比なこの作品においても、あの無慈悲な“チリ”を舞わせるとは……何とも容赦ない。 でもね、アベンジャーズの超人オールスター勢の中で、スパイダーマンでも、ブラックパンサーでも、ドクター・ストレンジでもなく、スコット・ラングという「小物」が生残されたことは、きっと“大きな”意味を持つと期待せずにはいられないよね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-03-21 18:27:49)(良:2票)
292.  日本で一番悪い奴ら
いやいやいやいや、まったく笑えない!なのに、笑えて笑えて、困る!! 実際の警察不祥事事件をモチーフにしたこの犯罪映画は、想像以上に胸クソが悪くて、想像以上に面白くて、とても困った映画だった。  こういう“感覚”を、日本の映画ファンが体感する機会は少ない。 その理由は明確で単純だ。こういう映画があまりにも少ないからだ。 現代社会において実際に巻き起こった事件、事故、スキャンダルを映画の「題材」とすることはあっても、それらを真正面から捉えた上で“エンターテイメント化”する文化的土壌が、この国の映画業界には備わっていない。 その昔は、そういうことをまかり通すだけの肥えた土壌があったのかもしれないけれど、今はすっかり痩せ衰えていると言わざるを得ない。 それは何も映画業界だけの問題ではないだろう。この国の文化的な民度とリテラシーそものもが矮小化し、弱体化してしまい、許容し得る度量がないのだ。  そんな中で、今作と、これを描いた白石和彌という映画監督は、明らかに特異な存在と言えよう。 事実を事実として捉えた上で、「娯楽映画」としての暴力性、可笑しさ、エロさ、猥雑さ、それらすべてをひっくるめたエンターテイメント性から逃げない姿勢が先ず素晴らしい。  日本の映画業界と比較し、映画文化の土壌が肥えているハリウッドでは、作品の善し悪しは別にしてこの手の映画作品で溢れている。 マーティン・スコセッシの映画などはその頂点の一つであろう。決して過言ではなく、今作は、かの巨匠の作品の空気感を彷彿とさせた。近年の作品で言えば、序盤の主人公が悪徳メンターと交流するシーンをはじめ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に映画的な展開と性質がすごくよく似ていると思えた。  看過できない社会性と、直視しづらいほどの毒性、そして観る者を釘付けにするエンターテイメント性の混在。 それはまさに映画的「快楽」であり、日本でもこういう映画が作られるようになったことがとにかく嬉しい。   公開当時から観たい作品の筆頭であったが、劇場鑑賞の機会を逃したまま、期待値が高まるあまり鑑賞のタイミングを掴みそこねてきた。 ようやく鑑賞に至った動機は、この国の映画ファンにとってあまりに悲しい「ピエール瀧の逮捕」だった。 ピエール瀧が俳優としての類まれな存在感と価値を爆発させた最大のきっかけこそ、白石和彌監督の「凶悪(2013)」だったと思う。 今作においても、彼は序盤の少ない登場シーンで、前述の悪徳メンター役を嬉々として見事に演じ切っている。  無論、彼が犯した罪を擁護する気持ちは毛頭ない。一報を聞いたとき、一ファンとして、憤りと悲しみで打ちひしがれそうになった。 「作品に罪はない」という意見は概ね正しいと思うが、それがイコール「作品の価値が下がらない」ということではない。ピエール瀧の逮捕後に今作を観て、少なからず彼の演技を訝しく観てしまったことは否めなかったし、それはたとえ“過去作”であっても、この映画にとって決して小さくないマイナス要因だった。  ただそれでも、この映画がエネルギーに満ち溢れた良作であることは揺るがないし、今作に限らず、一人の演者の罪によって作品自体が蔑まされたり、日の目を見ないなんてことは間違っていると思う。 詰まるところ、重要なのは我々受け手一人ひとりの「意識」のあり方なのだ。 先に呈したこの国全体の文化的リテラシーの低下にも関わることだけれど、この社会の文化意識そものもがもっと成熟しなければならない。 その上で、「現実」と「作品」との境界線をきちんと認識し、個々人が適切な判断と評価をするべきだ。 そうでなければ、アグレッシブでオリジナリティに溢れた創造活動などできるわけもなく、結果本当に面白い映画なんて生まれるはずもない。  これからも、今作のように「現実」を「娯楽」で笑い飛ばすような映画が生まれ続けてくれることを切に願う。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-03-17 11:48:18)(良:1票)
293.  映画ドラえもん のび太の月面探査記
春先、子どもたちを連れての“ドラえもん映画鑑賞”は、毎年の恒例となってきた。 父親としても、映画ファンとしても、ドラえもんファンとしても、嬉しい恒例行事だ。昨年に続き、今年も二人の子どもと、友人親子らと共に鑑賞。  コミックスの一エピソードである「異説クラブメンバーズバッジ」を原案としたストーリー構成が、原作ファンとしては興味深く、小説家の辻村深月が脚本を担っていることも功を奏し、世界観の広がりを携えた物語構築をしてくれていたと思う。 「月」を舞台にした物語は、「ドラえもん」の世界では意外に少なく、地球にとって最も身近な天体である月を舞台に長編化することは、“F先生”にとっても実は悲願だったのではないかと勝手に想像する。 原作エピソードを原案としているのだから当然ではあるけれど、「大長編ドラえもん」シリーズを原作としない“オリジナル”の映画作品の中では、これまでで最も「ドラえもん映画らしいドラえもん映画」と言えるのではないかと思った。  描き出されるテーマは、家族や友達を中心とした「絆」であり、それ自体に目新しさはないけれど、決して安直なウェットさを全面に押し出さないストーリーテリングに好感が持てた。 世代を超えた膨大な時間や、生物的な異なり、幾つもの銀河を超えた果てしない距離、そういった登場人物たちを取り巻く大きな“隔たり”を踏まえた上で、手を取り、助け合い、苦難に打ち勝っていくさまを紡ぎ出したストーリーには、表面的な分かりやすさと共に、深い物語性が共存していたと思う。  というわけで、作品自体のクオリティーは高かった。 昨年の「のび太の宝島」鑑賞後は、ストレートな“父子の絆”を受けて「泣けたー!」と言っていた娘だったが、今回は「涙は出んかったけど、とても面白かった」と真っ当な感想を述べていた。 そんな子どもの様子も微笑ましく横目に見ながら、原作ファンとしては、ムス子、あばらやくん、多目くん、ガリベンくんら、原作の小さなエピソードでしか登場しないのび太のクライメイトたちが、冒頭の学校シーンでさり気なく映り込んでいたことに、製作陣の原作愛を大いに感じた。  エンドロール後の「特報」を見た限りでは、来年のドラえもん映画の舞台は“恐竜世界”のようだ。 「のび太の竜の騎士」のリメイクか、今回のような小エピソードの長編化か、まったくのオリジナルストーリーか、例によって父親が子どもたち以上にワクワクしている。
[映画館(邦画)] 7点(2019-03-03 22:09:58)
294.  アクアマン
「ロード・オブ・ザ・リング」+「ブラックパンサー」+「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」という式がぴたりと当てはまる。 そしてそれは、それぞれの過去作に対して“二番煎じ”というわけでは決してなく、あらゆる要素が大渦のように轟々と混ざり合い、まったく新しい「娯楽」の世界へと誘ってくれる。 詰まるところ、DCコミックスが放った新たなスーパーヒーロー映画は、「ワンダーウーマン」に引続き、最高の娯楽映画だったということだ。   大々的にイントロダクションされている通り、全編通して繰り広げられる海中アクションがやっぱり凄い。 映像技術の進化に伴い、水中描写そのものはそれほど珍しくなくなったが、今作ほど主要シーンの殆どが海中シーンであり、文字通り縦横無尽のアクションを展開させた映画はなかったのではないか。 そして、イマジネーションが満ち溢れる海底都市の魅惑的なビジュアルは、まさしく「誰も見たことがない」映像世界だったと思える。 また、果てしない奥行きを備えた海中世界の描写はIMAX3Dとの親和性も極めて高かった。   その圧倒的な映像世界と、凄まじいアクションシーンを司ったジェームズ・ワンの映画監督としての力量はやはり卓越している。 マレーシア出身のこのアジア人監督は、時に豪胆に、時に繊細に、広義の意味での“アクション”を膨大な映像的物量で積み重ねつつ、巧みに整理し、この大バジェット映画を支配している。 逃亡中の主人公らがヴィランに襲撃されるシチリアのシーンでは、ありがちな攻防戦を巧みな空間演出とカット割りによって、白眉のアクションシーンに昇華させている。 屈強でゴージャスなハリウッドスターの狭間で、マジックのような演出を施すこの小さなアジア人監督には、これからも新しい映画企画をどしどし回すべきだと思う。   「ジャスティス・リーグ」そして今作で、見事に“海の王”のキャラクターをものにしてみせたジェイソン・モモアのスター性も文句無く、もっとこの濃ゆい俳優によるアクアマンを観てみたいと思わせた。 現時点では「ジャスティス・リーグ2」の公開は定かにはなっておらず、今作においてもクロスオーバー的な描写が殆ど無かったことは残念だったが、隆盛を極めた“ライバル”に対して、DCコミックスの反撃態勢は確実に強く固まってきている。
[映画館(字幕)] 9点(2019-03-02 17:54:45)
295.  寄生獣 完結編
「映画化」のインフォメーションに際し、最も眉をひそめたポイントは、“田宮良子”を演じるのが深津絵里だということだった。 深津絵里は大好きな女優の一人だ。ただ、原作漫画において殆ど主人公の一人と言っても過言ではないキーパーソンである寄生生物“田宮良子”の文字通り「異質」なキャラクター性と、これまで深津絵里という女優が演じてきた多くのキャラクターとのイメージが、全く合致しなかった。 原作漫画の“信奉者”故の過剰な拒絶反応が、そもそも「映画化」という報にあった上に、その主要キャラクターにおけるイメージの乖離が、この映画を遠のかせた大きな要因だったと思う。  しかし、鑑賞後、結果的には、まさに手のひらを返すようにこの映画作品を称えたくなった。 その最大の要因も、深津絵里演じる“田宮良子”だった。 原作漫画に登場するキャラクターとは、やはり風貌も雰囲気も異なっていたけれど、深津絵里の“田宮良子”は素晴らしかった。 原作漫画のハイライトである“田宮良子”の最期のシーンが、映画化においても当然肝になると思っていたが、このシーンがほぼ完璧で、原作同様に泣いてしまった。正直、もうそれだけで、この映画化の価値は揺るがないと言っていい。 “田宮良子”の独壇場であるこのシーンで、深津絵里は、確固たるキャリアに裏打ちされた女優力で、見事にアプローチし、表現しきっている。  深津絵里に限らず、出演する俳優陣の演技がみな安定しているからこそ、諸々の改変点も許容の範疇に収まったのだと思える。 無論、改変点に対する違和感や拒否感が無くなることはないけれど、演者の演技に「説得力」が備わっているので、「これはこれでありだな」と思えたところも多かった。  “田宮良子”が「人間の真似をして笑ってみた」シーンは、原作においても印象的な場面だが、その“真似ごと”のきっかけを映画では「嘲笑」から「慈愛」に変えている。 原作通りのキャラクター表現であれば、この改変は完全に「改悪」と断罪すべきところだったが、映画のキャラクター設定と深津絵里の演技プランが、原作キャラに対して一歩踏み込んだものになっているので、原作とは別の感動を生み出していた。 また、前述の“田宮良子の最期”と、同じくハイライトの一つである“広川の最期”を並行して描いた点は、映画製作における「予算」「尺」など諸々の制約を超えていくための巧い改変だったと思う。  期待を超えた出来栄えに対する、原作ファンならではの「補完」も大いにあったのかもしれない。 が、鑑賞後確かな「満足感」を携えて、すぐさま自室の本棚に並ぶ原作全巻を読み直させたのだから、大成功の「映画化」であったことは認めざるを得ない。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-02-24 23:53:18)
296.  アリータ:バトル・エンジェル 《ネタバレ》 
序盤から何だかいやな予感はしていた。 舞台はディストピア、何らかの過去を抱えた選ばれしヒロイン、苦境の中で芽生える無垢な恋心、絶対的権力と運命に対する若者たちの抗い……ああ、この流れは、典型的な量産型ティーン向けムービーじゃないか。 有り触れたクライマックスと、見え透いた続編に向けたラストシーンを迎えた頃には、すっかり気持ちは萎えてしまっていた。   ジェームズ・キャメロン、ロバート・ロドリゲスというビックネームが名を連ね、クリストフ・ヴァルツ、マハーシャラ・アリらアカデミー賞俳優が顔を並べた今作のインフォメーションは魅力的だった。 久しぶりに登場したジェームズ・キャメロン御大に「革新的映像!」と日本人向けに煽られては、そりゃ期待せずにはいられないじゃないか。 というわけで、昨年早々のトレーラー公開時から期待値は非常に高かったのだが、結果としては非常に残念な仕上がりだった。   映像世界の作りこみは確かに凄いとは思うが、決して目新しさがあったわけでもなく、「革新的」と謳うわりにはあまりに物足りなかった。 トレーラーの段階では、“違和感”を“期待感”が凌駕していたけれど、主人公の造形をあからさまなCGI的な風貌にした意図も、結局ちょっとよくわからなかった。  非人間的な造形のスーパーヒロインが、ひたすらにハードアクションを繰り広げ、死屍累々の上に立つさまをおぼろげに想像したが、そういう振り切れた描写も殆どなく、ロバート・ロドリゲスが監督を担った意味も皆無だったといわざるを得ない。   日本の原作漫画も未読なので、このあとにどんなストーリー展開が備わっているかは知らないけれど、少なくともこの映画作品の方向性では続編への期待は薄い。 ついでに、御大が満を持しての続編を公開する「アバター」に対しても、極めて懐疑的になってきた。
[映画館(字幕)] 2点(2019-02-23 23:58:41)
297.  劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉
原作は全巻保有していたし、TVアニメシリーズも小中学生の頃に好んで観ていたオールドファンなので、久しぶりの「復活」の報には無論興味を惹かれたけれど、劇場まで足を運ぶつもりはなかった。 しかし、出張中の新宿で、観たかった大作映画のタイムスケジュールがどれもこれも合わず、ならばと思い立ち鑑賞。「コレを観るなら、“新宿”だろうよ」と。  ゴールデンタイムの新宿バルト9の館内は盛況で、「シティーハンター」というコンテンツ、そして「冴羽獠」というキャラクターの時代を越えた魅力を改めて感じた。 特に今作は、全編「新宿」が舞台で、最終決戦の地も「新宿御苑」をモデルとしており、まさに「ご当地映画」的な盛り上がりも多分にあったのだと思う。 映画館から出て徒歩数分で、映画の舞台となった歌舞伎町やゴールデン街に足を運ぶのも一興だろう。  というわけで、今回の映画化企画は、「新宿」という街そのもののイベント企画という趣向が思ったよりも強かった。 故に、普段から新宿を活動拠点としている人たちや、古くからこの街を愛する人たちにとっては、問答無用に愛着を持たざるを得ない仕上がりだったろうと思う。  その一方で、原作ファンを満足させる内容であったかと言うと、残念ながらそうではなかった。 北条司による原作漫画で、ハードボイルドな世界観、大人の色気と色香に痺れ、「格好良い」ということの意味を知ったファンとしては、あまりにチープなストーリー展開に鼻白んでしまったことは否めず、失笑と苦笑の連続だった。 作画やビジュアル的にもお世辞にもクオリティが高いとは言い難く、テレビスペシャルを見ているようであった。  原作・アニメのオールドファンや、新宿のオトナたちをメインターゲットにするのだから、ストーリー展開的に、もっとハードに振り切って良かったのではないかと思う。 裏社会No.1のスイーパー(始末屋)である冴羽獠に、ただの一度も明確な“殺し”をさせず、パチンコ玉での応戦や、ドローン相手のドンパチに終始させてしまう展開には意気消沈せずにいられなかった。  そして何と言っても最大の難点は、自主規制か何だか知らないけれど、最後の最後まで冴羽獠に“もっこり”をさせなかったことだ。 お慰みのように、主題歌の最後に神谷明に「もっこり」と言わせるが、そういうことじゃないんだよ。 「それが時代の流れ」と言ってしまえばそれまでだが、人を殺さず、“もっこり”もしない冴羽獠なんて「シティーハンター」じゃない。   だがしかし、クライマックスでの「SARA」、そしてエンディングの「Get Wild」が流れた瞬間に高揚感を抑え切れないのも、オールドファンの性。 実家に置きっぱなしの原作漫画全巻を近日中に取りに行くのは間違いない。
[映画館(邦画)] 2点(2019-02-23 23:57:54)(良:2票)
298.  ファースト・マン
これは褒めているのだが、想像よりもずっと陰鬱で、地味な映画だった。 人類史に残る「偉業」と共存していた“心の傷”と“孤独”。光と闇を等しく抱えたまま、「偉大な一歩」を残した“最初の男”の人生そのものを、俯瞰するようなシビアな目線で、リアルに映し出していた。  「アポロ計画」を題材にした映画作品といえば、筆頭として挙げられるのは「アポロ13」だろう。絶望的なトラブル(=ミッション失敗)からの奇跡的な生還を描き、王道的な感動で世界を包み込んだ1995年の傑作は今尚色褪せない。 普通に考えれば、歴史的成功をおさめた「アポロ11号」を描いた今作は、「アポロ13」以上の“大感動”を与えてくれそうなものだ。 だがしかし、その安易な想定は全くの見当はずれだった。「失敗」を描いた「アポロ13」の華々しい達成感に対して、「成功」を描いた今作がこれほどまでに重く苦しい映画に仕上がっているとは。 その意外な後味が、何とも興味深かった。  ただ、よくよく考えれば、その苦々しい後味は至極当然のことだ。なぜなら今作は、デイミアン・チャゼル監督の映画なのだから。 「セッション」、「ラ・ラ・ランド」と立て続けに、映画的な熱量と、人間のほとばしる情念に溢れた作品を生み出し、一躍ハリウッドのトップに駆け上がったこの若き名匠が、ストレートに感動的な伝記映画など撮るわけがないのだ。 「人類史上初の月面着陸」という偉業を描くのではなく、ニール・アームストロングという現代の偉人の半生と、彼のインサイドを深く深く抉り出すようなアプローチにより、この映画は極めて繊細で、危うさを秘めた作品に仕上がっている。  一人の男を描いたストーリーテリングの中で刻み付けられたのは、明確な「死」と「喪失」の連続だった。 幼い娘を亡くし、志を共にした仲間を亡くし、ミッションに向き合い、緊張と恐怖が深まると共に、主人公は盲目的な使命感と際立つ孤独感に苛まれる。その様は、誰よりも勇敢ではあるが、何とも心もとなく見え、痛々しさすら感じる。 そんな彼の生き様を映画を通じて追想することで、50年前の偉大な冒険が、いかに危険で絶望的なものだったかを思い知った。  ラストシーン、地球に帰還した主人公ニール・アームストロングは、感染予防のため隔離された部屋のガラス越しに妻と再会する。 今生の別れを覚悟した夫婦の再会シーンなのだから、もっとわかりやすく感動的に描けたはずだが、ここも極めて抑えたトーンで描き出される。 それは、月に辿り着き帰還したことで、この二人が抱え続けてきた喪失感が、少しずつ埋まり始めたことを噛み締めているようにも見えるし、全く逆に、一度離れ始めた心と心はもはや簡単に重なり合うことは無いということを示しているようにも見える。(因みにこの夫妻は38年の結婚生活を経て離婚しているそうだ)  ふと思う。苦々しく、辛らつな後味の正体は、あまりに普遍的な或る夫婦の物語だったのではないかと。
[映画館(字幕)] 8点(2019-02-11 21:47:02)
299.  寄生獣
最初にきっぱりと言っておくと、岩明均が描き出した漫画「寄生獣」は、僕にとって人生のバイブルだ。 初めてこの漫画を読んだとき、当時10代だった僕は、最終話における寄生生物ミギーの「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」という台詞に心から救われた。以来、この漫画は常に僕の人生の傍らに存在している。  というくらいのファンもとい“信奉者”なので、国内で映画化と言われても疑心しか無かったし、とてもじゃないが劇場に足を運ぶ気にもならなかった。 そうして劇場公開から4年余り経過し、某動画配信サービスのラインナップの中から“当たり屋”的なスタンスでようやく鑑賞に至った。  結果的には、言いたいことは無論尽きないが、ハードルを下げきって観た分、想像以上に無難に実写化しているとは思えた。 原作の信奉者として、改変箇所には一々違和感と拒否感を禁じ得なかったけれど、実写化する以上は一定の尺の中に収めることは避けられないことであり、あらゆる制約の中で、ストーリーテリングとキャラクター設定を整理しつつ、纏めている部分は致し方ないと思う。そして、「あ、なるほど」と少なからず感心する改変ポイントもあった。 そもそもモノローグが多い原作漫画なので、実写化にあたっては意外と話運びそのものが難しかったのではないかと思うが、キャラクターを整理・統合しつつ、破綻しない程度に改変できていたのではないか。  キャスティングを含め、俳優陣も概ね良かったと思う。 特に、主人公“泉新一”役の染谷将太、キーパーソン“田宮良子”役の深津絵里については、ビジュアル的にも表現的にも原作キャラと合致しているというわけではなかったけれど、それぞれが独自の演技プランで的確な役作りをしていたと思える。 一部酷評も目にしたが、“島田秀雄”を演じた東出昌大も、この俳優特有の“棒演技”感が絶妙にマッチしており、原作の“島田秀雄”というよりは、寄生生物キャラ全体に共通する作り物のようなおぞましい無機質感を体現できていた。  と、溜飲を下げる一方で、根本的な演出面では稚拙さが際立っていたと思う。 ストーリーテリング自体は整理できていたけれど、その分、一つ一つの描写がとても薄っぺらい。 俳優陣はそれぞれ頑張っていたが、感情を揺さぶられるほどの情感を引き出すには至っておらず、これはすべて監督の演出力の無さに起因すると思わざるを得ない。 「混じった瞳」「火傷の手」など、キーポイントとなるカットをしっかりと押さえるだけでも、印象は随分変わったはずだ。せっかく原作という“絵コンテ”が存在するのに、そういう画作りの不味さが際立ってしまっているのは残念だ。  あとは「みんなの生命を守らなければ」ではなく、「みんなの生命を守らねば」だ!だとか、細かすぎる難クセは枚挙にいとまがないが、「後編」も不安半分、期待半分で観てみようと思う。 浅野忠信の「後藤」には期待している。
[インターネット(邦画)] 6点(2019-02-09 23:50:40)(良:1票)
300.  アノマリサ
冒頭から、強烈な“違和感”を突きつけられる。 或る都市へ向かう飛行機内の乗客たちの何気ない会話音のはずだが、なんだか物凄く気持ちが悪い。 その理由が、乗客の声がすべて同一の無機質な男の声であることに気づくのに時間はかからないけれど、なぜそんな奇妙な設定になっているのか、得体の知れない世界観に突如放り込まれたような感覚を覚えた。  カスタマーサービス業における啓発で名声を得た主人公は、見るからに憂鬱な眼差しを携えつつ、講演のため異国の街に降り立つ。うつ病を患っているらしい彼は、自分以外の周囲の人間がすべて同じ顔に見え、同じ声に見える。 ストップモーションアニメによる絶妙に悪趣味な造形も手伝って、人形とは思えないリアルな描写が妙に生々しく、痛々しく、居心地の悪さに包み込まれる。  某動画配信サービスのラインナップの中から、特段予備知識も入れないままに鑑賞を始めたこともあり、「何を見せられるのか?」という期待と不安が入り混じった感情が、展開とともに、徐々に確実に大きくなっていった。  ストーリー展開自体は極めてミニマムだ。 翌日の講演のために前泊したホテルでの一夜を、過剰とも言える細やかさで描き連ねている。 主人公の一挙手一投足を並べ連ねていくことで、彼が抱える鬱積と闇が自然に見え隠れする。 そして、この男の、生々しく痛々しい様を見るにつけ、彼が何故ゆえ世界から孤立し、奇妙な環境の中で生きざるを得なくなっているのかが見えてくる。  主人公の正体、そして映画の正体の輪郭が見え始めた頃、「ああ、そうか、これがチャーリー・カウフマン(の映画)だったな」と思い出した。 「マルコヴィッチの穴」しかり、「アダプテーション」しかり、“こじらせオヤジ”を描かせたら、やはりこの人の右に出る者はいない。  ラスト、自宅に帰り着いた主人公は、再び孤立し、“玩具屋”で土産に買った壊れた奇妙な絡繰人形と対峙する。 まさかの「桃太郎」を歌う(気持ち悪い!)その人形を前にして、果たして彼は己の愚かさに気づいたのだろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-02-07 23:30:25)
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