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バーグマンの瞳さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 65
性別
自己紹介 不定期連載「どうでもいいランキング」

ミュージカル映画部門別ベスト5(ちょこちょこ変動してます)

曲の良い作品5傑
1 アニー
2 若草の頃
3 メリーポピンズ
4 オズの魔法使
5 オペラ座の怪人

ストーリーが面白い作品5傑
1 ヘアスプレー
2 アニー
3 レ・ミゼラブル
4 ウェストサイド物語
5 シカゴ

ミュージカルシーンへの入り方がナイスな作品5傑
1 ヘアスプレー
2 雨に唄えば
3 若草の頃
4 メリーポピンズ
5 シカゴ

衣装・演出・ダンス時の振り付け・その他総合的なミザンセヌ
1 ヘアスプレー
2 メリーポピンズ
3 雨に唄えば
4 チキチキバンバン
5 イースター・パレード

人物描写5傑
1 若草の頃
2 メリーポピンズ
3 シカゴ
4 ヘアスプレー
5 ブルースブラザーズ

神声1傑
バーブラ・ストライザンド

ミュージカル界に来て欲しい人
エフゲーニャ・オブラスツォーワ



その他 超独断&偏見

ルックスを「加点法」で評価すると最強な女優1傑
イングリッド・バーグマン

「減点法」で評価すると無双する女優1傑
エリザベス・テイラー

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21.  ブロードウェイ・メロディー 《ネタバレ》 
「雨に唄えば」のパロディ元ということで、観たことはなくとも名前は聞いたことあるよという人も多いはずのこの作品。「未来を失ったヒロインが土壇場でヤケグソ気味に『こっからもう一回復活したるわ~い!』と言って終わる」というラストはある意味「風と共に去りぬ」の前半のラストと同じはずなのだが、これはとても感動できない。なぜか? ヒロインが最初から一貫してず~っと「いい人」過ぎるのだ。こんなにいい人がこんなに悲惨なラストを迎えては、観ている側としてはただもう「うっわ~、これはシャレならんわ…こんな可哀想な終わり方ありかよ…」とドン引きしてしまうのみ。でも恐慌直後のこの時代にはこんなラストが共感を呼んだってことなんでしょうね。アカデミー賞取ってるし。でも私はこんなの観るのは辛くてもう二度と観ないと思います…。それでも姉妹の日常生活のやり取りなどは微笑ましくてちょっと良かったので6点。
[DVD(字幕)] 6点(2014-10-21 18:49:53)
22.  若草物語(1994)
引っ張るべきところをバッサリ切り、バッサリ切るべきところを引っ張るという困った脚本。よりストーリーを端折ってるはずの46年版の方が話が分かりやすいという皮肉。色使い&照明も好きになれず。この映画の色使い、照明、部屋の装飾、小道具、外の風景…などは、リアルかもしれないが、華やかさに欠ける。下手すりゃ刑事モノの映画っぽい。これに比べて46年版は、なるほど、いかにも作り事の世界ですよって感じでリアルさは無かったかもしれないが、とにかく華やかで目に楽しい。人によっては可愛らしく見えるらしいキルスティン・ダンストも私にはモンスター。ローリー役も、どこか「さえない二枚目」という感じの今作よりも、「カッコイイ三枚目」という感じの46年版の方が、同性の私から見れば好感を持ちやすい(女性から見ればまた違うかも)。ヒロインのウィノナ・ライダーは美しいが、46年版のジューン・アリスンのような愛嬌がない。そもそも美しさにしたって46年版のエリザベス・テーラーには流石に敵わない。同性からも好感を持ちにくい教授の顔も問題あり。総合的に46年版の方が絶対にいいと思えました。 《付け足し》失礼、46年ではなく49年でした。
[地上波(字幕)] 5点(2014-10-19 19:17:49)(良:1票)
23.  となりのトトロ
原始ミュージカル映画。
[地上波(邦画)] 9点(2014-10-10 09:18:08)
24.  アバター(2009)
この作品と、今までのキャメロン作品との決定的な違いは「看板シーンの有無」ですよね。今までのキャメロン作品には「○○というタイトルを聞いただけで条件反射的にこのシーンを思い出さずにはいられない」というシーンが必ずあったものですが、この作品にはそれがない。まあ、「全てのシーンが平等に素晴らしい」」という見方も出来なくはないが、「没個性的な作品だ」という意地悪な見方も出来なくはない。こんなこと言うと「別にいいじゃないか。とにもかくにもその映画を観ている間は夢中になれる作りになってるんだから」と言う意見もあるかも知れませんが、そのような「個々のシーンがどうのこうのというよりは、見ている間の一体感そのものがウリの作品」というのは、将来的にはわりと簡単に埋没してしまう危険性があるんじゃないかと。だってみなさん、ちょっと考えてみて下さい。例えばスピルバーグの「E・T」のような「異性人との交流というモチーフなんて他にも同タイプの作品がいくらでもあるよ」という作品を、我々が何故未だに時々観たくなるかというと、「だって、あの自転車のシーンを観れるのはE・Tだけだから」という所に行き着くと思いませんか?だから物凄く乱暴なことを言えば、「一流作品と二流作品との究極的な違いは、同タイプの映画が頻発しても需要が消えないか否かだ」と言えなくもないです。てことは、この作品は「超一流の二流作品」とも言えなくもないです。「見ている間の一体感そのものがウリの映画」というのは、今後将来的に同タイプの映画が増えていった場合に、需要的危機に陥る可能性があるわけですから。同じキャメロン製作&3D作品の「シルク・ドゥ・ソレイユ」の場合は「まずシーンのかっこ良さありき」で作られてるので(ということは後に出たこちらの方が余程従来のキャメロンっぽい)、何度観ても惚れ惚れしますが、この作品は私にはそこまでの作品とは思えませんでした。
[地上波(吹替)] 5点(2014-10-05 13:50:12)
25.  雨に唄えば
しかし本当によく「動く」映画だ。ミュージカル界のとなりのトトロだな。…いや、待てよ、「となりのトトロの方がミュージカル的なんだ」というべきなのか…。ま、ともかく「走る、跳ねる、回る、叫ぶ、笑う、バンザイする…などといった、一定以上の複雑な思考を必要としない、人類が太古の昔からやってきた本能的な感情表現を、「サイレントからトーキーへの移行期」という設定をなんともまあ巧~いこと使って、違和感なく流れの中に盛り込んだという天才的作品です。もう「唄うついでに動く」のではなく「動くついでに唄う」の領域ですもんね。「♪ローゼス、モーゼス…」なんて、思考などという上等なものはほとんど働いてなくって、掛け声を叫んでるみたいな感じですからね。そもそもここのシーンでのミュージカルに入っていく動機というのも、まず発声練習させられてるジーン・ケリーが退屈でいかにもかったるそうな様子であるのを見せておいてから「さあ、観ている方もぼちぼちイライラしてきたよね?動きたくなってきたよね?ハイ、じゃ、ここでちょっとふざけて茶々を入れて、ほ~ら、一息つこうよ、先生」という風な、実に子供じみた理由ですから。また、オコナーがアクロバチックなダンスを披露するシーンでも「なに?自分に自信が無くなった?そんなときはとにかく動いて無理やりにでも笑うんだ!」というやはり子供じみたパッパラパー本能で入っていきますから。「ここで動きたい」というときにミュージカルに入ってます。結構これが分かってないミュージカル映画が多くって、「ここで唄わせたい」という理性的な理由でミュージカルシーンに入っていこうとした結果、「…さて、それじゃ、ただ唄わせるだけなのも芸がないからちょっくら動かしてみるべ」という本末転倒な行為に及んでいるノーセンスな作品のなんと多いことか。「お前ら、本当にそこでそんな動きをしたいと思って動いてるのか?」とつっこみを入れたくなる作品のなんと多いことか。人間、動く必要のないところで動くことほど不思議で気色悪いことはないのである。その点、この作品は本当に「そもそもなんで踊るのか、唄うのか」というのをよく分かってるし、わざわざミュージカルでやる意義のある作品だと思います。「唄うついでに動く」というタイプの作品の大半は、比較的容易に小説化が可能ですが、この作品の面白さを小説で表現するのはさぞや骨が折れるでしょうね。
[地上波(字幕)] 8点(2014-09-26 20:33:18)(良:1票)
26.  マイ・フェア・レディ
人間が喜ぶ時って、思考よりもまず体の動きが優先しますよね。例えばテストの合格発表を見た瞬間などは、喜びのあまり「ヤッター!」と飛び跳ねる人はいても、喜びのあまり歌を歌いだすという人などいません。仮に声は出すにしてもそれは「フォ~!」とかいった類の雄たけびのようなもののはず。てことは感情表現には歌うことよりも実は踊ることの方が大事。だから私は踊らずにただ歌うだけという行為には強烈な違和感を感じるんです。という前置きをしつつ……。  ヘップバーンファンの方には殴られるかも知れませんが、この映画のヒロインは、舞台通りにジュリーアンドリュースがやってた方が良かった気がします。元々それで大評判だった訳ですし。いや、もっと言うと、メリーポピンズの方をヘップバーンが、この作品の方をジュリーアンドリュースがやった方が、お互いにとって有益だった気がします。ポピンズというのは、ミュージカルという以前にまず映画としての完成度がメチャメチャ高い作品です。だから物語全体の面白さにおけるヒロインの歌唱力の比重がそれほど絶対的に高いわけでもありません。つまりヒロインが口パクだというだけで即「あ~残念」ということにはならない作品なわけです。でもこの作品は違います。本格的なミュージカル作品です。にもかかわらず、ヒロインは踊りません。唄いません。けしからん。とどのつまり、この両作品は「せっかく汎用性の高いヒロイン役の方に、当代屈指の歌姫をわざわざ起用し、本人が実際に歌うことが望ましいヒロイン役の方には、歌えない女優を起用する」という非効率な関係にあるわけです。想像してみてください、ヘップバーン扮するポピンズが宙を漂う姿を…。今頃はきっと「ローマの休日もいいが、やはりヘップバーンの代表作といえばメリーポピンズだな」となってることでしょう。そしてこの映画も「面白いんだけど、口パクじゃあね…」などと言われることもなかったはずです。え、なに?後半の良さはヘップバーンじゃないと…ですって? いや、私が思うにですね、へたにヘップバーンを起用しちゃったからこそ「せっかく彼女を使うからには…」とか余計なこと考えてgdgdな後半になっちゃったんじゃないかと。あと、ヘップバーンの悪口を堂々と言えるスタッフもそんなにいないでしょうから「この人は踊れないから…」という理由で泣く泣く没になった案も本当は結構あったんじゃないかな…。
[地上波(字幕)] 6点(2014-09-10 21:46:30)(良:1票)
27.  太陽の下の18才
こういったアイドル映画というのは不当に過小評価されがちですが、結構こういう映画こそが、「このシーンの魅力は小説では再現しにくいよね」という類の映像表現の隠れ宝庫だったりするので、私的には評価が高くなりがちだったりします。この映画の場合はカトリーヌ・スパークのダンスシーン(音楽はモリコーネ)がそれ。ここ、まるで素人がハンディカメラで撮ったかのようなラフな映像。画面はだらしなく揺れ、ピントもちょっとずれて何だかいいかげんな感じ。どうも巷のサイトを見ていると、ここの解釈は「いや~ホント、いいかげんな映画ですよね~」で終わってるレビューが多いんですが、私はきっとこの監督は「熱気」を、もっというと「湿気」を表現したかったんだと思います。ホントは好きな彼女に素直になれずにふてくされて座っている青年と、カトリーヌとの熱気量の差です。実際に観てみると、青年のショットでは、非常にシンプルな撮り方で「ハイ、こちらは寂しくカラッと乾いた感じですよ~」に、しかし次の瞬間、カトリーヌのショットになった途端に「ハイ、こちらは熱気ムンムンですよ~」になっている様子が凄く上手く表現されてます。マジでマジで凄く上手く表現されてます。はっきりいってこのノーテンキ映画で技術的に誉められるところといったらここぐらいなんですが、そのここだけでも観る価値はあります。「こんなアホみたいなアイドル映画観てられんわ」というそこのあなた。騙されたと思ってこのシーンを観てください。本当に上手いこと撮ってるんですよ。そしてきっとあなたはカトリーヌが大好きになりますよ!
[地上波(字幕)] 7点(2014-09-07 08:51:27)
28.  道化死てるぜ!
将来の大物コナー・マクマーンに期待を込めて8点。
[地上波(字幕)] 8点(2014-06-14 23:59:31)
29.  トーマス・クラウン・アフェアー 《ネタバレ》 
6点を切ってるのでどんだけつまんないんだろうと思って観たら意外と面白かったです。ヒロインの女優さんがえらく年増なんだなーと思ってたんですが、ラストシーンを見て納得。なるほど、あのオチを効果的に作用させるには「ああ、この人やっぱり捨てられちゃったよ」と思わせる必要があるわけで、ヒロインがあまりに若くてナウいピチピチギャルだと「これだけの女をあの女たらしがほっとくわけが…」と思われる危険性があると。さらに「これだけの年増を選んだということは、この男、ただの女たらしでなくちゃんと中身を見る男だったんですよ」という綺麗な終わり方に出来ると。ま、これはこれでいいんでしょうけど、やっぱりヒロインは若い女の子の方がいいなあ(どないやねん)。お洒落でセンスの良い映画だなとは思いました。6点。
[地上波(字幕)] 6点(2014-05-30 17:34:18)
30.  オズ/はじまりの戦い
映画界きっての優等生ディズニーが作ったファミリー映画。当然、老若男女幅広く指示されることを意図した手堅い王道プロットでいくんだろう…と思いきや、これが必ずしもそうではない。一応、全体的なストーリー上における「起・承・転・結」は正確な位置に配置されているので(さすがディズニーですね)一見すると王道プロットに思えるんですが、実は結構変則型。例えば「最初は敵かと思われた存在が味方になってくれる」という鉄板パターンにもつれ込むまでに一時間超もかかっている。それでいながら「主人公一人では処理しきれない脅威」が襲ってくるよりも前になっている。なんでまたこんな横着な運びにするのか? それはこの映画が75年も前に作られた、穴だらけの設定を持つ映画「オズの魔法使」の続編(というか前編)だからです。ディズニーの苦労は察して余りあります。「前作の設定をうまく生かしつつ…それでいて前作を知っている人でも新たな発見があるようにしつつ…それでいて要所要所では前作のオマージュがでるようにしつつ…しかもそれらがセンス良く繋がるようにしつつ…それでいて前作の設定には絶対に矛盾が出ないようにしつつ…」こんな作り方でプロットに影響が出ないほうがおかしい。この問題をどう処理したか?「本物の魔法使いではなく単なるペテン師だということがいつばれるんだろう…」というハラハラ感をかなり後のほうまで持続させることによって、実は結構だらだらしたストーリーであるというのを隠すという方法に出た。これがなかったらこの映画は本当に大したストーリーじゃないです。それから前作に対する並々ならぬ愛も感じられました。途中に出てきたチキンなライオンは、前作のライオンのお父さんじゃないでしょうか。シャボン玉浮遊のオマージュも「そうか、そこで使ってくるか、うまいこと入れるなあ」と感心します。眠りの花もまたうまいこと絡めてくる。最後の決戦で例のトリックが出てきたときも「うわ!そう来たか!これは超萌え萌え~!!」って感じでテンション上がりまくりでした。ここでの評価はえらく低めですが、私は、ストーリー上の縛り要素が満載の映画にしてはむしろ大健闘したほうだと思います。8点でもありかなという感じの7点です。
[地上波(字幕)] 7点(2014-05-16 23:42:03)(良:1票)
31.  
個人的な話で恐縮なんですが、私は子供の頃からずっと疑問に感じていたことがありまして、それは「この世に神様がいるなら、どうして人間社会の争いごとがなくならないんだろう。どうして哀れな境遇にいる我々を救ってくれないんだろう」というものでした。そしてその疑問に対して、思いがけない解答を与えてくれたのが、チャップリンと黒澤明さんだったんです。「悲劇を遠くから見ると喜劇になる」これを教えてくれたのはチャップリンです。そして「人間社会のいかなる事象も神には美しく見えている」これを教えてくれたのが黒澤明さんだったんです。いや、もちろんはっきりとそう仰った訳ではありません(チャップリンは言いましたけど)。でもこの作品を初めて観た時、もう頭にズッガ~ンという衝撃が走ったんです。大勢の人間が殺しあう合戦シーン。燃える城。絶望に駆られて自決する女達。傍で見れば目も当てられぬほどに残酷なはずの首無し少女の死体…。不謹慎を承知で言わせて頂きますが、私は正直、これらを観た時「ハハ~、なっるほどな~! こりゃ神様も我々のことをほったらかしにするわけだわ!」と思ってしまったんです…。もちろん、だからといって黒澤さんが「ね、わかるでしょ? 神様は人間のことを善か悪かで判断してるんじゃないの。美しいか否かで判断してるんだよ」というメッセージを込めたという証拠などはありません。単なる私の個人的な感じ方です。でも私には、一般に言われている「黒澤さんが言いたかったのは、人間社会の愚かさ、因果応報、憎しみの連鎖、その他もろもろがなんたらかんたら…」という類の意見は割とどうでもよくって(←何様)、要するに「神の視点で見れば、こんな醜い争いもこんなに美しく見えてしまうんだよ」という、ある意味では「因果応報うんぬん」どころでは済まないスーパー絶望レベルのとんでも残酷メッセージが込められてるんじゃないかなーと思うんでありますが、どうでしょうか。 あ、それから最後に一言。私、だいぶ前に何がしかのレビューで「この映画におけるスローモーションシーンは大変に美しい」とかなんとか書いた記憶があるんですが、今回久しぶりにテレビでやってたのを観たところ、スローモーションなんぞ一ミリも出てこないことが判明しましたw あっれ~、おかしいな~^^(←バッキャロ~!)
[地上波(邦画)] 9点(2014-05-01 23:18:52)
32.  オズの魔法使
この映画に関して「途中まではとても楽しいのに後半に入って急にパワーダウンする映画」という意見の方はとても多い様に思えます。そしてその理由として「これはきっとプロットが悪いんだ。最後の敵があんなにあっさりやられちゃ、そりゃあ盛り上がらないよ」という類の意見もとても多い様に思えます。でも私はそれってちょっと違うかな~と思うんです(なんだか偉そう)。だって、プロットが甘いとか言ってたら、そもそもこの映画は途中からではなく最初からそうですから。例えば、仲間になるキャラクターが最初からいきなり友好モードであるなど、現在の映画の常識からすれば「なめてんの?」というぐらいに甘々のプロットです。この映画がつまらなくなる本当の理由、それは「色の使い方を急に変えるから」だと思います。映画の世界では、センスの良い映像を手っ取り早く作り出す方法として、ある一つのメインカラーを中心とする「ほぼワンカラーコーティング」とでも言うべき手法があり、これは色んな映画で日常茶飯事的に使われています。あまりに使われすぎて、私のようなヒネた映画好きなど「…ま~た安易にオレンジだの黄色だのといった人受けの良い色一色で画面を作ってるよ、この監督ホント才能ね~な」などと文句をたれたりします(本当に偉そうだw)。でも、この映画の凄いところは、赤、青、黄、緑、紫…もうとにかく信じられない程の多彩な色を、同一画面内で一度に使用するという、並みの監督ならば自殺行為にも等しい芸当をケロッとやってのけているところです。前半はこの映画史に残る素晴らしい色使い「レインボーコーティング」のおかげで、プロットのヘボさなど全く気にならずにグイグイ引き込まれます。が、この誠に見事な「レインボーコーティング」がオズの城に着いた辺りから、誠に退屈な「ほぼワンカラーコーティング」にシフトしてしまうのです。もちろん製作者達にも意図があってのことでしょう。でも、レインボーコーティングはこの映画の要です。「ほぼワンカラーコーティングによる映像美」だなんて、そんなの他の映画でいくらでも観れるんですから。そのせっかくの要を断ってしまうので、結果として観ている者(特にキッズ達)に「…な~んか段々と僕達の求めるオズ魔ではなくなってきたなあ…。つまんないなあ、退屈だなあ…」という印象を与えてしまう、私にはこれが後半のつまらなさのトップ要因かなと思えました。
[地上波(字幕)] 7点(2014-01-30 18:21:10)
33.  シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語
現在絶賛中のゼロ・グラビティ(私も先日観て度肝を抜かされたクチです…)といい、この作品といい、私の様な古いおっさん映画好きにとっては「ヤバイ…。これは、今までの映画が『過去の遺物』となる時代がやってきてしまったのかも…」という、底知れぬ焦りを誘う様な作品です。ゼログラの場合はまだ「お、落ち着け…。こ、こんなの、要するに無重力描写だけがズバ抜けているだけだ、ハ、ハハハ…」という負け惜しみが成り立つかも知れません。でも、この作品は…ああ、この作品ときたら! 色の使い方、照明の使い方、スローモーションの使い方、etc…。はっきり言います。これは私が今までに観たどの作品よりも凄い映像です。でもいいのか? だって、こんなの「映画」じゃないでしょう。アトラクション、もしくはシルク・ドゥ・ソレイユという団体の為のプロモーション映像でしょう。そんな、「たかがプロモーション」に、私が今までに観たどの作品も勝ててないんですよ…。変な言い方ですけど、なんだか今までの私の映画人生を全て否定された様な気が…。いや、ホント、恐怖を感じる程の見事な映像ですよこれは。もちろん、ストーリーは全然大したことありません(有難い事です…)。ある女の子が、不思議な世界へ迷い込み、一目惚れの男性を追っての旅に出る…。ただこれだけです。でもこの女の子がと~っても魅力的なんです。ルックスはそれほどでもないんですが、サーカスガールだけあって、スタイルと姿勢(これがミソ!)が抜群に良く、ただテクテク歩いてるだけでも凄く絵になる子(と言っても30近いんですがw)なんです。衣装も考えられていて、スカートの丈の長さが絶妙(ひざの少し下辺りになってる)で、これは特にスローモーションで走っているときに、彼女の健康的なふくらはぎの美しさが際立つ様になってます。圧巻はラストの空中ブランコのシーンです。ここでほとんどの人は「あ!ここまで出来る子だったのか!」とビックリするハズです。特に私のお気に入りは、地上での前宙返り! ここは何度観てもウットリします。もう十回は見直したでしょうか。前述した様に、この作品は厳密には映画ではないと思います。でも映画ファンが絶対に観ておくべき作品でもあると思うんです。私は「とにかく脱帽させられたんだから」という事で9点としますが、「こんなもん、0点じゃ!」という方の考えも分かるつもりです。
[地上波(字幕)] 9点(2013-12-24 00:41:00)
34.  レ・ミゼラブル(2012)
ミュージカル映画の醍醐味の一つに「ドラマパートからミュージカルパートへ移行する瞬間の楽しみ」というのがあると思います。例えば、映画「シカゴ」で、レネー・ゼルウィガーが一瞬にして口パク操り人形となって唄いだすシーン。「雨に唄えば」で、デビー・レイノルズ達三人が、希望の朝の到来を「グ~ッモ~ニン♪」と唄いだすシーン。「ファニーガール」で、バーブラ・ストライザンドが「パレードに雨を降らさないで」を唄いだすシーン。センスの良いチェンジとの遭遇。それは思わず「おお!」と声が漏れ、膝をポンッと叩いてしまう至福の瞬間です。思いがけずやって来る一瞬の驚き、ときめき、笑い、etc…。そのせっかくの醍醐味を、自ら放棄してしまっているこの映画は、私にとっては終始out of questionの世界でした。香りのないコーヒーを飲まされたかなという感じです…。最近テレビでやっていたので、劇場で観て「損したなあ…」とカックリきて以来二度目の観賞をしてみたのですが、結果は同じでした。
[地上波(字幕)] 5点(2013-12-22 20:45:57)
35.  若草の頃
 実在した家族をモデルにしただけあって、各キャラクターが立ちまくってます。「こいつは主人公の魅力を引き立てるための将棋の駒だな」というキャラクターなどほとんどいません。若草物語に父親(これがまたいい役者さんなんだ)をプラスさせたとでもいうべき家族描写の微笑ましさが素晴らしい。当時7歳のマーガレット・オブライエンが、スープをサジですくっては「あぐ!」すくっては「あぐ!」とやるシーンは一撃必殺の可愛らしさです^^ 基本のドラマパートがこれだけしっかりしているので、ミュージカルがそれほど好きではないよという方がご覧になっても、十分に楽しめると思います。   路面電車のシーンがこの時代にしては恐ろしく画期的。というのもミュージカルと言うのは普通は「主人公が突然歌いだすことにより、一時的に周りの世界を置き去りにする」ものですが、ここでは全く逆に周りのみんなが歌いだす事により、主人公の方が(精神的な)置いてきぼりを食らう。一人寂しく螺旋階段(おろおろ感を出すミザンセヌ)を登る主人公。…と、彼氏が走ってくる!次の瞬間「ハイ、ここからは私が場の支配者よ」とばかりにサッと歌いだすジュディ。同時にまたサッと周りがジュディを祝福する側に切り替わる。このセンスが本当に素晴らしい。  2017.10.24   パーティーが終わった後、薄暗がりの中でジュディが隣人ボーイに唄いかける瞬間は凄まじく心地良いのだがそれもそのはず、ここでのミュージカルへの入り方は全ミュージカル史上でもトップレベルの入り方になっている。あの瞬間、男の方が女に観惚れている感じだが、しかしそのたったの数分前までは立場は逆だったのだ。パーティーが終わった直後の時点では明らかに女の方が一方的に男に夢中なだけであり、男の方はそれほどでも無さ気である。しかしここから長回し&照明が絶妙なコンビネーションを見せる。両者の間に漂う‟恋の制空権”が徐々にシフトしていくのだ。ある何らかの瞬間をきっかけにとかではなく徐々にという所がミソ。女が男に「照明を消すのを手伝って」と頼む。隣人ボーイはそれを快諾して照明を一つ一つ消していくのだが、この時の照明が本当に上手い。一気にではなく少~しずつ少~しずつ暗くなっていく。この家はジュディの家であり隣人ボーイにとっては敵地なのだからして、場の空気がボーイにとっては徐々に心細くなっていく。同時に両者の距離感が徐々に縮まっていく。さらに奥の手というか、他人の家の照明に不慣れなボーイが時々線の捻り位置を戸惑うのを女が教えて‟あげる”のである。このような過程を得て恋の制空権が本当にちょび~っとずつ男方から女方へとシフトしていく。ここでさらに第二の奥の手、階段の高低差を使った演出がズバッとハマる。女が男を見下ろし男は女を見上げる。この時点で観ている我々の立場としては「あ、これはもう恋の制空権が男側から女側へとガタ~ンと傾いたと思っていいんだよね? いいんだよね?」みたいな微妙な感じになっている。なにしろ恋の制空権のシフトのちょび~っとずつ具合があまりに上手すぎるために「ここらでぼちぼちはっきりした‟一押し”が欲しいなあ」という感じになっているわけだ。そのまさに「今だ!」というときにジュディが歌い始まるのである。「今の君の素晴らしさを何と表現しようか、え~と…」みたいな感じになっている男に対して女が「はいはい、しょうがないわね、あんたの言いたいことはこうでしょ」という感じで歌って‟あげる”のである。もうお分かりだろう。そう。このミュージカルの入り方というのは「はい、みなさん、お待たせしました~!もうここを持ってはっきりと恋の制空権が男側から女側へとシフトしたと思っていただいて結構ですよ~」という製作者からの我々への公認のGOサインを兼ねた入り方になっているのだ。そしてそれが「そうだと思いたいなあ」という状態でいる我々の願望をこの上なく心地良いタイミングで後押ししてくれるものなのでこれ程までの心地良さを感じることが出来るのだ。本当にセンスの良い入り方とはこういう入り方の事を言うのである。しかし本当に長回しの効果が絶大なシーンだ。実は私は世に存在する長回しシーンのまず8割方は嫌いなのだ。「なんちゅう芸の無い使い方じゃ。長回しが元々持っている特性をただそのまま使ったっていうだけやんけ。ある意味、『ほら見てください!星形のプリン型を使ってプリンを作ったらなんと!星形のプリンが出来ちゃいましたよ~!』とか言っとるようなものやんけ…」と呆れるものが多いし、眠たくなってくるものも多い。しかしここのシーンは別格である。   後半(秋パート)のミュージカルシーンで階段を上手く使って家族全体の沸点が徐々に下がっていく様子を表現したシーンも秀逸。この映画はミュージカルの見本ですな。
[DVD(字幕)] 9点(2013-12-14 12:22:15)(良:1票)
36.  風と共に去りぬ
レビューその③ 前半のラストシーンを劇的たらしめているのはプロットだけの活躍ではなく照明の力も大きい。この映画、「スカーレットってあまりに度を越えてわがまま過ぎるからどうしても感情移入が出来ない」という人も結構いますけど、そんな人でもほとんどの場合は「でもまああの前半のラストシーンだけは良かったかな」と思われるんじゃないでしょうか。あんなに憎たらしいと思っていたスカーレットにどうしてあそこだけは感情移入ができるんでしょうか。あそこのシーンをよく見てみると、直前のシーンでスカーレットの顔がシルエットになって、どんな表情をしてるのかが分からないようになっている。実はこれがミソ。どんなにスカーレットが嫌いな人でも、いやむしろ嫌いな人ほど「こんな状況下であのわがままお嬢様がどんな泣きっつらをしているのかが見てみたい」と思うはず。もちろんスカーレットが好きな人(私はこっちです)もやはりこの重要場面での彼女の表情は凄く気になる。そのまさに“ここ”というシーンでなんと! 顔が見えない!! いや~、賢いですねえ。これじゃあ、スカーレットの心は自分で想像するしかないわけです。でも決して押し付けがましいシーンにはなっていない。実質上は「はい、今のスカーレットの絶望的な心情を察してね」という、誘導的、洗脳的なシーンのはずにもかかわらず、まあ、これはとにかく観て頂ければ分かると思うんですが、すごく自然にスカーレットに感情移入していき易く撮られている。この時代の映画で人の顔を隠すという手法を取り入れた有名映画としては「市民ケーン」がやたら持ち上げられてますけど、私は絶対にこっちの方が頭の良いナイスセンスな使われ方だと思いますよ。だってケーンの場合は「観客の注意を喋っている人物ではなくセリフの内容に向けさせる為」という、ある意味「見た目そのまんまやんけ!」という使われ方なのに対して、こちらは「表情を見せないことこそ最強の感情表現なんだ」というお洒落な使われ方ですから。ま、ともかく「単純にシルエット効果により威圧感が増すから」とか、あるいは逆に「見方によっては『彼女の名誉を守るため』という意味合いに取れなくもない」などといった他の様々な理由などとも相まって、スカーレットを白い目で見ていた人でもここだけは「ついフッと…」感情移入してしまうようになっているのであります。レビューその④に続く…。
[地上波(字幕)] 10点(2013-12-03 12:03:10)
37.  ライムライト
一見すると、非常にベーシックな感動系映画に思えるこの作品。実はこの手の映画としては異端児的な作品なんです。何が異端児か? 世の大半の感動系映画を思い浮かべてください。ほとんどの映画には「悪人」が出てきます。でもこの映画には出てきません。この違いは何か。実はハリウッド映画の大半は「悪とは自分の外に存在するものだ。君が不幸でいる時、それは社会の責任なんだ。ほら、目の前に悪い奴がいるだろう。そうそう、こいつの責任なんだ。うんうん、君は悪くないんだよ。被害者なんだよ」とする点では概ね一致するからです。それがライムライトという名のこの異端児は「悪とは自分の内に存在するものだ。君が不幸でいる時、それは君自身の弱さが問題なんだ。悪いのは君だ」と、ハリウッド映画界に喧嘩を売る様なとんでもない主張をします。この映画をおとなしい優等生映画だなんて思ったらとんでもない、これは天下の大ハリウッド様を著しく不機嫌にさせる不届き千万な映画なんです。「甘えるな!自分の運命は自分で切り開け!」このテーマをより効果的に伝える為にこそチャップリンは悪人を出さなかったんです。例えば、テリーを「パッシーーン!」と引っ叩くあのシーン。普通のハリウッド映画ならば大の大人が(まして主人公が)イタイケな少女を引っ叩くなどありえない。なぜありえないか?そういう作りになってるからです。通常の映画ならばあそこにいくまでの展開で「少女には借金取りだの関係を迫るオーナーだのといった悪い奴が日々付き纏い、同情の余地が十分にある」という話にしているからです。それでは引っ叩けない。もし引っ叩いたら「ちょ、ちょっとチャップリンさん、あーた何もそこまでせんでもええやねん…」という空気になってしまうでしょう。でも異端児ライムライトは違います。天才チャップリンの巧みな構成術によって「少女には一応同情の余地はあるんだが、なんとかがんばって欲しい」という絶妙の展開で進んできたからこそ、あそこでの「パッシーーン!」が生きてくる、とこういうわけなんです。この作品がいかにも世の左翼系の映画評論家が好きそうな話でありながら、チャップリン映画全体の中では今ひとつパッとしない(一応は褒めるんですが)評価でいるのは「いつもみたいに「悪いのは社会の責任だ」と言ってほしい」という彼らの願望を完全に満足させてくれないからではないでしょうか。
[地上波(字幕)] 9点(2013-11-24 17:18:59)
38.  ニュー・シネマ・パラダイス/3時間完全オリジナル版
観終わった直後の感想は「こりゃまたなんてもったいない映画なんだ」というものでした。誠に失礼ながら、「アイデアに監督の能力が追いつかなかった映画」という印象を持ってしまったのです。「せっかくの貴重な素晴らしいアイデアを、よりによってあんたが拾ってしまったか…」などと素人の癖に偉そうな事を言っちゃったりとか^^ でも、とにもかくにもあのラストシーンは素晴らしいという事で6点献上です。
[地上波(字幕)] 6点(2013-11-23 17:17:26)
39.  シザーハンズ 《ネタバレ》 
ひねくれまくりのプロット進行が斬新でした。主人公が異質な世界に遭遇するお話と言うと、普通は「平凡な主人公がある日を境に特異な世界に飛び込んでいく→最初は敵かと思われた連中がひょんなことから仲間になってくれる→彼らのおかげで主人公の状況が好転する→そのおかげで様々な難関に立ち向かえるようになり、その度に人間的に前向きに成長していく」という話の流れになることが多いのですが、この映画では何もかもがあべこべで「特異な主人公がある日を境に平凡な世界に飛び込んでいく→最初は友好的だった連中がひょんなことから敵に転じる→難関に遭遇する度に酷い目に遭って精神的にへこんでいく→それでも経験を積んでいく内になんとか成長はするのだが、それは「自分は他者と共に生きていく事が出来ない」という現実を悟るというマイナス方向の成長であった」と、普遍的な王道映画の主人公とは全く反対の方向へと進んでいきます。難関に遭遇しても立ち向かわない(むしろ逃げる)というのもハリウッド映画の模範的主人公からは程遠い存在です。ここまで綺麗にひねくれたプロットになったのは単なる偶然でしょうか。ひょっとしたらティム・バートンさんは「究極的に反社会的でピュアなキャラクターがいたとしたら、そいつの物語は王道的な映画の主人公とは全く逆の展開になるのではないか」みたいな事を考えたのではないでしょうか。そうそう、ヒロインが必ずしも善人でないというのも斬新でした。ヒロインの狡さに関しては不満のある方も大分いらっしゃるようですが、私はリアリティがあって良かったと思います。そのおかげでラスト近くでの孫との会話の中で「私はあれ以来ずっと彼に負い目を感じて生きてきたのよ」とでもいうべき重苦しさ、いたたまれなさの様なものが濃く出ていたように思います。そして私が一番感動したのはラストシーン。雪の舞う城を映しながらカメラがゆっくり引いていくんですが、そのときのスタッフロールの流れ始めるタイミングがもう絶妙なんです!初めて観た時(その時は映画館でした)には余りの素晴らしさに思わず声が出そうになりました。私はあのスタッフロールの入り方は映画史上でも屈指のナイスタイミングだと思うんですが、既見のみなさんはどう思われたでしょうか。そして未見の方、この素晴らしいラストシーンを観る為にも是非ともこの映画をご覧になってください。超A級のラストシーンです。
[地上波(字幕)] 8点(2013-11-18 01:43:41)(良:3票)
40.  キャリー(2013)
巷のサイトなどでは「キャリーを演じるにはクロエは可愛すぎるのでは?」という意見もありますが、私は元々このクロエというアイドル女優さんは「見方によっては可愛いが、また見方によっては…」という微妙な人だと思っていたので、そこはそれほど問題じゃないだろうと思いました。それでもやはり監督さんの立場としては「世間一般的には彼女は可愛いアイドルで通っているから…」と意識してか、学園のマドンナ(死語)役にガブリエラ・ワイルド(アンダーソン版三銃士でヒロインやってた子です)のような正統派美人を容赦なく起用したり、冒頭に水着シーンを持ってきて、クロエの肉体的なたくましさ(例えば肩幅が広いとか)をこれまた容赦なく映したりと、いい意味でクロエをアイドル扱いせず、突き放したような作りも目に付きました。この姿勢は一見すると、デ・パルマ版のあのあまり可愛くないキャリーに近づこうと一生懸命に努力しているように思えます。でもちょっと待って。努力するところってそこだっけ? 「可愛くないキャリー」ではなく「不気味なキャリー」を目指すべきだったのでは? そこはち~っとも出来てないように思えたんですが…。
[映画館(字幕)] 5点(2013-11-09 13:12:07)
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