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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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421.  エージェント:ライアン
かつてハリソン・フォードやアレック・ボールドウィンらが演じてきたCIA分析官“ジャック・ライアン”の若き日を描くリブート作。 リブート版「スター・トレック」の主演としてシリーズ成功の一躍を担ったクリス・パインを新たなジャック・ライアンに起用し、例によってシリーズ化を目論んだのだろうけれど、どうやら失敗に終わったようだ。  アクション映画として決して面白くない映画ではなかったと思う。駆け出しスパイものとして楽しめないわけではない。 クリス・パインは、理想と野心そして才気に溢れた主人公像を好演しており、この荒削りな若者が、年月と経験を経て、「パトリオット・ゲーム」のハリソン・フォードへと変貌していくことを想像するとある種の感慨も覚えた。 お目付け役として登場するケビン・コスナーも存在感があり、シリーズ化が実現したならば、主人公との師弟関係においても展開が期待できたと思う。  期待できる要素は随所にあったのだが、昨今良作が乱立するスパイ映画勢の中にあって、特筆すべき見どころがあったかというと、「ノー」と言わざるを得ない。 アクションシーンにおいても、ストーリーテリングにおいても、目新しさは無く、かと言って各要素が洗練されているかというとそうでもなく、中途半端でありきたりだった。 監督と悪役を担ったケネス・ブラナーに、この手の娯楽映画を巧く仕上げる資質がそもそもないのではないかと思える。  “粗”として最も気になったのは、何と言ってもヒロインのキャラクターとしての魅力の無さ。 婚約者の正体がCISエージェントであることを知って、それに対する驚きはほぼ皆無で、ただただ浮気の疑惑の解消に安堵する女ってどうなの? 彼女が未熟なティーン・エイジャーであるなればその描写も可愛く映るのだろうけれど、医師の肩書を持つ大人の女性だというのだから、正直ただのイタい「馬鹿女」にしか見えなかった。 途中までキーラ・ナイトレイが演じているとは気付かなかった程のこのヒロインの魅力の無さは、娯楽映画として致命的だ。
[インターネット(字幕)] 4点(2017-08-05 20:02:06)
422.  ポテチ
伊坂幸太郎の短編小説の映画化。 原作が短編小説とは言え、一本の映画にするには物語構造自体が薄すぎたように思う。 このお話自体が嫌いなわけではないけれど、醸し出されるポップさが少々あざとすぎるようにも見え、登場するキャラクターたちに総じて実在感がなかった。 現代劇として映画化する以上は、一定以上のリアリティは不可欠なわけで、その部分を担保できなかったことは大きな敗因と言えるだろう。  ストーリーテリングの中心に「野球」が存在するわけだが、そうである以上、「野球」をもっと象徴的に描く最低限の巧さがほしかった。 勿論、低予算の中編であるから贅沢は出来なかったのだろうが、ラストの球場シーンがまったくもって「プロ野球」に見えなかったことには失笑を禁じ得なかった。  流行作家としての伊坂幸太郎の小説は好きだし、いくつかの映画化作品も概ね面白く観ている。 今作も決して全く面白くないということではないけれど、他の作品と比較して捻りと毒気が弱いことが、大いに物足りぬ。
[インターネット(邦画)] 4点(2017-07-20 23:33:15)
423.  オンリー・ゴッド
いやあ、ひさしぶりに変ッな映画だった。 明らかに屈折した「何か」を抱えつつ、バンコクの暗黒街を牛耳る兄弟。 わけも分からぬまま、狂気に取り憑かれたように暴挙に出た兄が、問答無用の制裁により惨殺される。 兄への偏愛に狂う母親に命じられるままに、復讐に駆り出される弟。 と、プロットだけを見ても、その偏執さは漂ってくるけれど、この映画は観客のその想定をも暴力的に壊してくる。  主人公の精神そのものを投影するかの如く、冒頭から各シーンの描写が倒錯する。 これは現実か?幻想か?自分が今観ているものは何なのか?まるで分からなくなる。 羅列されるシーンの一つ一つにおいても、描かれ方が“どうかしている”。 過激な暴力描写は嫌悪感を覚えるほどに凄惨で遠慮がない。 だがその反面、すべてのシーンに美しさを感じ、ときに恍惚としてしまうことも否定できない。  暴力の螺旋と、それに伴う罪と罰。 奇妙な“神”の如き存在を目の当たりにして、血塗られた両の腕を遂に差し出す主人公。 彼が迎えたラストにあったのは、絶望か、救済か。 一説によると、公開版のラストシーンの後に、主人公とヒロインが仲睦まじく“暮らす”シーンの撮影もされたらしいから、やはり彼は“血”によって宿命づけられた地獄から抜け出せたのだろう。  ただし、いかんせんそんなことは、この映画だけをフツーに観ていただけではまるでわからない。  偏執的な支配は、神によるものか、それとも悪魔によるものか。 おぞましくも美しい狂気と暴力の錯綜と混沌。 いくらそれっぽい言葉を並べ立てようとも、無意味だ。 いやあ、やっぱりわっけわかんねえ。  安易な「理解」など諦めて、奇妙な神の如く、無表情のカラオケに興じるべきかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-07-18 22:35:55)
424.  オクジャ/okja 《ネタバレ》 
韓国が生んだ巨匠ポン・ジュノの最新作は、Netflixによる世界同時配信映画であるに相応しく、非常に触れやすく見やすいエンターテイメント性に富んだ楽しいアクション・アドベンチャーである……ように見えるが、勿論そんな映画ではない。 当然ながら、ポン・ジュノがそんな分かりやすく楽観的な映画を作るはずもない。 この作品は、おそらく、「食品」として肉を食べている地球上の人間総てにとって、居心地の悪い映画となることだろう。  この“居心地が悪い”とは、「気持ち悪い」とか「見ていられない」とかそういう類のものではない。 冒頭に記した通り、この映画はエンターテイメント性に溢れていて、愉快だし、高揚する。それは間違いない。 けれど、そういった映画としての「娯楽性」を感じた瞬間に、はたと気づく。 「あれ…、自分はこのシーンに対して楽しんでいい立場の人間ではないぞ……」 現実を突きつけられて、途端に居たたまれなくなる。 極めて「意地悪」な映画であり、だからこそ流石だと苦笑いをしつつ感嘆する。  不可思議な巨大生物と幼気な少女のハートウォーミングな交流シーンから、突如として、この世界の「食」が抱える闇と真理が、「肉採取機」のように容赦なく抉り出される。 その様は、あまりに残酷で無慈悲に見えるけれど、観客はそれを心の底から否定できない。 そして、映し出される描写が滑稽であるほどに、徐々に確実に笑えなくなってくる。  ティルダ・スウィントンが相変わらず演技派女優らしからぬぶっ飛んだ演技で「悪役」姉妹を一人二役で怪演している。 しかし、結果として、彼女たちは何も裁かれることはない。むしろきっちりと計画的に当初の目論見を成し遂げる。 何故ならば、彼女たちの悲願である“ビジネス”は決して悪事ではなく、現代社会の食文化の「理」そのものだからだ。  愛する“オクジャ”を救うために、身ひとつで巨大企業に挑んだ少女は、その「理」に跳ね返され、打ちのめされる。 彼女が唯一携えていた「現実」によって、すんでのところで“オクジャ”は救い出せたように見えるけれど、それは自分が愛する巨大な生物をついに「食品」として受け入れざるを得なかったことに他ならない。 そうして彼女は、おびただしい数の虚無と絶望に文字通りに覆い囲まれながら、暗い暗い帰路を辿る。   世界の食糧事情を解消するために「遺伝子操作」をすることは罪か? それでは、美味しい食肉を生産するために「品種改良」をすることは罪ではないのか?  その身勝手で曖昧なラインが明確にならない限り、この映画の「居心地」は益々悪くなり続けるだろう。 そういうことを感じながら、今日も僕は、この世界の何処かで“作られた”肉を食べている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-18 13:29:21)(良:1票)
425.  メアリと魔女の花
冒頭の一連のシークエンスはまさに“ジブリ的”であり、期待感と高揚感が刺激された。 「天空の城ラピュタ」のようであり、「千と千尋の神隠し」のようであり、「崖の上のポニョ」のようであった。 この映画が、「スタジオジブリ」としての再出発作品だと言うのならば、僕は一定の満足感を得られたかもしれない。  米林宏昌監督としては3作目だが、スタジオジブリから独立し、新スタジオを立ち上げて臨む第一回作品として、彼のこれからのフィルモグラフィーにおいても非常に大切な一作だったに違いない。 選んだ題材は「魔女」。当然ながら観客は特にジブリファンでなくとも「魔女の宅急便」を否が応でも連想する。 キャッチコピーにも「魔女、ふたたび。」と掲げる大胆不敵ぶり。 そして、冒頭からの過去のジブリ作品に対しての過剰なまでのオマージュ性は、敬意と感謝を込めつつも、それを越えていくことの堂々たる宣言かと期待した。  がしかし、最終的に得られた感想は、冒頭のシークエンスで感じた印象に集約されていた。 即ち、「ジブリのような映画」でしかなかったということ。 シーンもキャラクターも台詞回しですら、映画を構成する殆どすべての要素が“のようなもの”だった。  “ジブリの継承”と言えば聞こえはいいけれど、同時に恥ずかしいくらいに“二番煎じ”の域を出ておらず、むしろ“呪縛”めいたものも否定できない。 当然ながら、それではアニメ映画として新しい世界が開くはずもない。 悪いけど、この国のアニメーションはもっと先に進んでいて、そんなところにいつまでも留まってはいない。  奇しくも、昨年の国内映画シーンは、片渕須直監督の「この世界の片隅に」と、新海誠監督の「君の名は。」が席巻し、今年も「夜は短し歩けよ乙女」で湯浅政明監督が改めて新時代への名乗りを上げた。 勿論、最先鋒には庵野秀明や細田守も君臨していて、国内のアニメ映画界は、群雄割拠の戦国時代に突入している。  そんな映画ファンにとってはしびれる状況の中で、米林宏昌監督がこの“二番煎じ”で満足しているというのならば、それはあまりにも残念でならない。 ジブリからの直接的な独立者として色々と難しい立ち位置ではあるのだろう。そうであったとしても、ここまで古巣に対しての目配せをし、媚びへつらう必要があったのだろうか。 エンドロールの最終盤にクレジットされる御大3名に対しての「感謝」の二文字が気持ち悪くって仕方なかった。   “偏屈な天才”がまたもや「引退詐欺」を画策しているという噂も聞く。 米林宏昌監督があくまでも“ジブリ”というブランドの枠組の中で「作画」のみに没頭し、老いた天才と共に心中したいというのであればそれもいいだろう。 けれど、個人的には前作「思い出のマーニー」に多大な可能性を感じただけに、勿体なく思う。  新スタジオの名前はスタジオポノック。「ポノック」とは「午前0時」の意で一日のはじまりを表現しているらしい。 果たして、「午前0時」は一日のはじまりなのか終わりなのか。 残念ながらこの作品からは、過ぎた一日の疲弊感とそれに伴う想像力の欠如しか感じない。
[映画館(邦画)] 4点(2017-07-15 17:41:47)
426.  ハドソン川の奇跡
出張で羽田行きの機内に乗り込む最中、10日前に観たこの映画のことを思い出した。 日々の行いだとか、常日頃の危機意識だとか、事故に遭遇しないための言い様は色々とあるけれど、事故に遭うか否かは詰まるところ「運」次第だろう。 しかし、同時に、不運にも起こってしまった事故に対処する人物が誰であるかということも、「運」次第だと思う。 この映画で描かれた事実を率直に受け取るならば、あの航空事故は、「不運」と「幸運」が同時に邂逅した出来事であり、そのことが即ち「奇跡」と呼べるのだろうと思う。  原題は「Sully」。事故機の機長チェスリー・サレンバーガーの愛称である。 原題が表す通り、今作は「奇跡」の顛末ではなく、サレンバーガー機長の事故前後の心情描写と葛藤、ベテラン機長としての矜持がつぶさに描かれている。  パイロットとして30年以上に渡り飛び続けてきたからこそ抱えた一抹の不安。 彼は、航空において「絶対」が無いということを、他の誰よりも知っていたのだろう。それがたとえ自分自身が生み出した奇跡と、それに対する疑念であったとしても。 紛れもない「一流」だからこそ抱えた葛藤の行く末に心がふるえた。  主演のトム・ハンクスは、「キャプテン・フィリップス」「ブリッジ・オブ・スパイ」そして今作と、実際に起こった事件・事故に対峙した実在の人物を立て続けに演じ、流石の存在感を放っている。 すっかり“アメリカの良心”を象徴する大俳優になった印象を覚える。  そして、監督のクリント・イーストウッドは、映画人として極まった円熟味に更に拍車をかけるか如く、あまりにも手際よく良作を仕上げてみせている。 この題材となった事故は、確かに奇跡的な出来事ではあるが、あまりにも突発的で短時間で収束した事故だっただけに、映画として膨らませることは困難だったはずだ。 しかしながら、イーストウッド監督は、紛れもないキーパーソンであるサレンバーガー機長の深層心理にまで的確に表し、同時にこの奇跡が機長一人の功績ではなく事故に関わったすべての人達による最善の対応結果であったことまで拾い上げ、それぞれの描写を手際よく描ききっている。   冒頭機長は、対応の是非を追求してくる国家運輸安全委員会の「墜落」という表現に対して、断固として「着水」だと言い放つ。 勿論結果として、機長の主張は正しかったわけだが、この映画が伝えることはその正誤そのものではない。 或る英雄的行動も、一つ視点を変えれば、蛮行として捉えられることもある。 事故に関わった様々な人間たちの多角的な視点こそが、この映画のテーマだろう。  そこには、この世界の理、アメリカという国の真の姿を冷静に見続け、表し続けるクリント・イーストウッドの本領が如実に表れている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-09 22:50:08)
427.  美しい湖の底
或る強盗事件の発生前後の4日間が、一日ずつ章立てされた時間逆行型のストーリーテリングで描かれる。 今更、時間逆行型サスペンスなんて珍しくもなく、Netflixオリジナルの劇場未公開映画ということもあり、あまり期待せずに観始めたが、なかなかどうして、充分に一定の見応えを備えた作品であった。  語り口とルックだけ捉えれば非常に洗練されていて、犯罪映画としてコーエン兄弟監督作のような佇まいも感じる。 監督はコメディ畑の作り手らしく、一見陰鬱な映画世界の空気感の中に絶妙な塩梅で挟み込まれるコメディセンスが、映画のテイストに対してとてもフレッシュで、光っていたと思う。
 あまり有名な俳優は出演していないが、キーパーソンである主人公の兄を演じるレイン・ウィルソンは、アンチヒーロー映画の傑作「スーパー!」の記憶が新しい。今作においても、ブラックなユーモアと狂気性に満ち溢れたキャラクターを見事に演じている。  期待が低かった分、鑑賞中は概ね満足はしたのだが、観終わってみるとストーリーの描き込みの弱さは目立つ。 予算の都合も多分にあるのだろうけれど、絡み合う人物たちにとって重要な「過去」の描写が全く映し出されないため、今ひとつ人間関係が掴みづらいままクライマックスを迎えてしまう。 ラストのワンカットでも、“湖での出来事”の真相なり、キャラクターたちの若かりし頃の描写なりを見せていたならば、もっと味わい深く、エモーショナルなサスペンス映画に仕上がっていたかもしれない。  まあ取り敢えず、Netflixオリジナル作品は今後もしっかりと追っていかねばならないとは思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-07-09 22:45:49)
428.  マッドマックス2
荒廃した地球、入り乱れる暴力と狂気。 「映画」のみならず、漫画、小説、様々な表現において、その後デフォルトとなったこの「イメージ」を発明し、創り上げたこの映画の価値と衝撃は、如何なるものだったのだろう。 今作の製作年と同じ1981年生まれの映画ファンにとっては、伝え聞くその衝撃は、言葉通り“伝説”の範疇を出ず、非常に口惜しく思う。  2015年の大衝撃作「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)」が、“マッドマックス”初体験だった。 その直後に第一作「マッドマックス」を観て、今回ようやく「2」の鑑賞に至った。 ある意味必然的なことなのかもしれないが、伝説的なこの2作に対して、伝説通りの衝撃を受けることは出来なかった。  “カルト”であることは理解できる。いろいろと、どうかしている映画である。 だからこそ、レジェンド化され過ぎなんじゃないかとも思う。 非常に実験的でもあり、破れかぶれの映画であり、だからこそ世界中のボンクラ映画ファンの心を掴んで離さなかったのだろう。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-06-19 22:40:37)
429.  スプリット
冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。 あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。 孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。 即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。  ある意味予想通りではあるが、変な映画である。 M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。  アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。 今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)  多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。 今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。 いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。 そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。 終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。   この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。 しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督による“ミスリード”である。 「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。  その心理の変化は我々観客にも与えられる。 だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。 「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。 主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。  「え?どういうことだ」 と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ! 思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。 シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。 そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。 いやあ、参った。
[映画館(字幕)] 8点(2017-06-14 23:03:03)(良:1票)
430.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 
軋む。 古い車体が、錆びた鉄扉が、そして満身創痍のヒーローの身体が。 不死身だったはずのヒーローが、老い、拭い去れない悔恨を抱え、死に場所を求めるかのように最後の旅に出る。 メキシコからカナダへ。アメリカを縦断する旅路の意味と、その果てに彼が得たものは何だったろうか。  17年に渡り「X-MEN」シリーズを牽引してきた主人公のラストが、まさかこれほどまでにエモーションに溢れた“ロード・ムービー”として締めくくられるとは思ってもみなかった。 シリーズ過去作のどの作品と比較しても、圧倒的に無骨で不器用な映画である。テンポも非常に鈍重だ。 いわゆる“アメコミヒーロー映画”らしい華やかで派手な趣きは皆無だと言っていい。 だがしかし、どのシリーズ過去作よりも、“ヒーロー”の姿そのものを描いた映画だと思う。  個人的に、長らく「X-MEN」シリーズがあまり好きではなかった。 初期三部作における主人公・ウルヴァリンの、鬱憤と屈折を抱え、あまりのもヒーロー然としないキャラクター性を受け入れるのに時間がかかったからだ。 リブートシリーズと、ウルヴァリン単独のスピンオフシリーズを経て、ようやくこの異質なヒーローの本質的な魅力を理解するようになった。 それくらい、このヒーローが抱える憂いと心の闇は深く果てしないものだったのだろうと思う。  そんなアメコミ界においても唯一無二の「異端」であるヒーローが、ついに自らの闇に向かい合い、決着をつける。 おびただしい数の敵を切り裂いてきたアダマンチウムの爪が、これまで以上に生々しく肉をえぐり、四肢を分断し、血みどろに汚れていく。 そして、同時にそのアダマンチウム自体が体内に侵食し、無敵のヒーローの生命を徐々に確実に蝕んでいく。 それはまさしく、“ウルヴァリン”というヒーローの呪われた宿命と業苦の表れだった。  不老不死故に、他の誰よりも、相手を傷つけ、そして傷つけられてきた哀しきヒーローが、ふいに現れた小さな「希望」を必死に抱えて、最後の爪痕を刻みつける。  過去作におけるウルヴァリンというキャラクター故のカタルシスの抑制とそれに伴うフラストレーションは、今作によってそのすべてが解放され、別次元の感動へと昇華された。  それが成し得られたのは、何を置いても主演のヒュー・ジャックマンの俳優力によるところが大きい。 彼は今作で自らのギャランティーを削って、「R指定」を勝ち獲ったらしい。 そこには、“ウルヴァリン”を演じることによってスターダムをのし上がったことへの感謝と、このキャラクターのラストを締めくくる上での並々ならぬ意気込みがあったに違いない。 結果、ラストに相応しい見事な“オールドマン・ローガン”を体現してみせたと思う。   「This is what it feels like(ああ、こういう感じか)」  最期の最期、哀しきヒーローは、ついに“それ”を得ることが出来た。 墓標の「X」が涙で滲む。 さようなら、いや、ありがとう、ローガン。
[映画館(字幕)] 9点(2017-06-09 23:05:46)(良:2票)
431.  美しい星
ぶっ飛んでいる。 この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。 「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。 そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。 (亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)  三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。 そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。 即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。  この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。 そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。 その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。  終始、可笑しくて、笑いが止まらない。 ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。  人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。 人類は許されたのか?勿論、違う。 謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。 “ボタン”など端から必要なかったのだ。  優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-06-03 23:30:52)
432.  ウォー・マシーン:戦争は話術だ!
主人公の米軍エリート大将は、ストイックな男。 毎朝の11kmのランニングを欠かさず、食事は一日一回、4時間しか眠らない。 劇中何度も描写される彼の絶妙に滑稽なランニングフォームが可笑しい。 そこには、この「戦争についての映画」におけるシニカルな悪意が凝縮されているように思えた。  さて、この映画は、「戦争映画」だろうか。 勿論、「9・11」に端を発した「アフガニスタン紛争」の“現場”を描いている以上、風刺とコメディがふんだんに盛り込まれてはいるが、「戦争映画」だと認識することが正しかろう。 しかし、この映画の作り手は、描かれていることが「戦争」であるということを絶妙なさじ加減で終始ぼかし続ける。  冒頭、国際空港の便所で用を足した後、意気揚々と闊歩し、「勝ちに行くぞ!」と兵士たちに発破をかける主人公の陸軍大将の姿は、まるでやる気のないスポーツチームを率いる少々間の抜けたコーチのようだ。 その後駐留地を目の当たりにした大将は、「ここの連中は戦争だということを忘れている」と嘆く。 それは米軍の兵士に限ったことではない。連合諸国の兵士は勿論、大使をはじめとする米国政府の面々も、現地のアフガニスタン兵や国家元首すら、それが「戦争」であることの意識が希薄になっている……ように見える。  それでも熱い大将は、あらゆる場所で「熱弁」をふるう。 この「戦争」の意味と価値を、各所で、兵士、政治家、民衆、記者、様々な人に説いて回る。 どの場面でも、大将の演説はとても情熱的だ。 劇中、ティルダ・スウィントン演じるドイツ人議員の指摘にも含まれていたように、「大将は善い人」だと思う。この人物が本当に信念をもって任務に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。  しかし、悲しきかな彼の言葉に、説得力を伴う「中身」は無い。 それは、彼が己の人生を通して信念を懸ける「戦争」そのものに、中身がないからだ。 そして、逆説的に彼の存在そのものが、この「戦争」の空虚さとイコールであることが、徐々に確実に露わになってくる。  熱き大将は、嘆く。戦争であることを認識していない本国、そして世界に対しての壮絶なジレンマに苛まれる。 でも、現実はそうではないのだ。 「戦争」というものに、彼が求める「理想」が本来はあったのだとしても、そんなものはとうの昔に無くなっている。  そんな“今”の「空虚な戦争」において、古ぼけた理想を掲げる軍人がいくら熱弁を振るおうとも、何かが伝わるはずもない。 何処から来て、何処へ行くのかすら伝わらない。 そこには、巨大な虚無感が横たわっているようだった。   ブラッド・ピットがあらゆる意味で素晴らしい。 製作者としてネット配信限定の映画製作を担うにあたり、その性質を最大限に活かした題材と手法と作品規模で、オリジナリティに溢れる作品を仕上げてみせたと思う。 そして同時に、スター俳優としてベストパフォーマンスを見せている。時期的にアカデミー賞ノミネートは狙えないのかもしれないが、間違いなくそのレベルであり、少なくともこのスター俳優の新たな代表作の一つとなったことは確かだろう。   空虚な戦争を続ける空虚な大国は反省などしない。 では何をするのか?クビにして後任を送るのだ。 後任として送られてきたまさかの「ボブ」の闊歩を目の当たりにして、最後の最後までブラックな笑いと虚無感の増大が止まらなかった。  それにしても、このレベルの戦争映画がネット配信限定で公開される時代か。 作品内容に対する邦題の的外れ感は罪だが、映画の在り方は今後益々多様化していくのだろうな。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-05-31 23:00:44)
433.  メッセージ
人類が、“ただなんとなく”明確な「希望」を見い出せなくなって久しい。 つい昨日も、英国でまたテロ事件が起きた。不安と脅威に怯え、「対話」する勇気を持つことが出来ない愚か者たちによる蛮行が後を絶たない。  時の流れに縛り付けられ、今この瞬間にも訪れるかもしれない得体の知れない恐怖に、全人類は焦り、怯え続けている。このまま希望を見出だせない人類には、進化はなく、必然的に未来も無くなってしまうだろう。  このSF映画は、そんな今この瞬間の人類全体に対しての警鐘と救済を等しく描き出す。  「言語」とは、「思考」の具現化であり、即ち未知なる言語との邂逅と会得は、それまで想像すらもし得なかったまったく新しい思考を繰り広げられるようになるということ。 そしてそれが、人類が長らく縛り付けられていた「時間」という概念を超越する手段になる、という科学的空想。  突然現れた“前後ろ”のない来訪者が、時間の概念が存在しない「円」で表された言語を人類に提示する。 荒唐無稽ではある。 幻想的かつ錯綜的な表現も手伝って、非現実的に美しい映画世界はファンタジーのようにも見える。 だけれども、これは紛れもない“SF”の傑作であると思う。 科学的に説明尽くせることがSFではない。科学的に説明できないことの空想こそがSFであり、その追求こそが「科学」なのだ。  来訪者によって与えられた「武器」=「言語」を、全人類に先駆けて受け取った主人公は、自らの運命とその意味を即座に理解し、受け入れる。 それは、“進化をしていない”人類にとっては、あまりに過酷で、残酷で、受け入れ難い運命かもしれないけれど、彼女を通じて、その進化の意味の一端を理解した我々は、感動的な充足感に呑み込まれる。  ふと、自分自身のことを顧みてみる。 自分の子が生まれて早くも6年の月日が経とうとしている。二人の子に恵まれ、幸福な日々を過ごしていると思う。 ただ、この6年間ずうっと心の片隅で押し黙るように抱え続けてきたことがある。 それは、幸運にもかけがえのない大切な存在を抱えるということは、同時に、それを失ってしまうかもしれないという恐怖を抱えるということでもあるということ。 それは、悲観的だとか、不謹慎だということではなく、必然的な事実であろう。 その恐怖を否定することは、同時に存在する幸福をも否定することであり、決して逃れることはできない。  この映画の主人公が、「言語」を理解したと同時に解したことは、そういう人生における普遍的な真理だ。  大切なものを失ってしまう悲しみよりも、その大切なものに出会えなかったことを想像する方が、何倍も、いや何万倍も悲しい。 SF映画の新たな傑作を目の当たりにして、涙が止まらなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2017-05-20 23:01:38)(良:2票)
434.  ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス
絆、きずな、キズナと安直に謳う映画は多いけれど、果たしてその内のどれくらいの作品がその実態を描けているだろうか。甚だ懐疑的である。 そんな数多くの“エセ絆映画”に対して、持ち前のハイテンションとノリの良さを全面に打ち出しながらも、「絆」というものの本質をストレートにぶちかましてくる。 世間の期待値を遥かに上回る世界的大ヒットとなった前作も勿論存分に楽しんだけれど、個人的には前作を遥かに越える満足度の高さに対して、エンドロールを観ながら恍惚としてしまった。  前作では、全編通して繰り広げられる70年代ヒットチャートが世代的に今ひとつ突き刺さらなかったことと、個々のキャラクターが魅力的だからこそ生じた描き込みの物足りなさに、ノリ切れなかったことも事実だった。 しかし、今作では、オープニングクレジットと共に繰り広げられるスペクタクルシーン+ベビー・グルートのキュート過ぎるダンスシーンに、一気に心が鷲掴みにされた。 そして、続編故にガーディアンズの面々の“チーム感”と個々のキャラクター性は、序盤から細やかに描き込まれており、彼らが織りなす大エンターテイメントにすんなりと呑み込まれることができた。  ガーディアンズの面々は前作以上に魅力的に描かれている。 しかし、何と言っても今作のMVPは、前作に引き続きマイケル・ルーカーが演じた“ヨンドゥ・ウドンダ”以外にあり得ないだろう。 個人的には前作においても、ハイライトと思えたシーンは、敵の大群に囲まれ絶体絶命に見えたヨンドゥが唯一無二の武器「ヤカ」で大群を蹴散らすシーンだった。 今作でも、失意のどん底に突き落とされたヨンドゥが、見紛うことなき“リーゼント”を模した赤いフィンを頭頂部に差し込み、起死回生の美しすぎる大逆転シーンを見せつける。  またしてもハイライトをかっさらったこの青い肌の宇宙盗賊の首領は、今作の主題の核心的なキャラクターとして存在感を終始発揮し、世界中の映画ファンに永遠に愛し続けられるであろうキャラクターへと昇華する。 「クリフハンガー(1993)」以来のマイケル・ルーカーファンとしては、彼が演じたこのキャラクターの昇華は堪らない。因みに雪が降り積もる場面でのシルヴェスター・スタローンとの対峙シーンは、完全に「クリフハンガー」オマージュだろう。  これでもかと繰り広げられるスペクタクルを心ゆくまで楽しむべき大エンターテイメント映画であることは間違いないが、主軸となるストーリーラインには、人と人とが繋がること、または離れることで生じる避けがたい辛苦や残酷性も孕まれている。そのあたりには、ジェームズ・ガン監督ならではのシビアさも多分に反映されていると思えた。   これは紛れもない「家族」にまつわる映画である。 理屈ではない。心で動かすのだ。青い無頼漢が操る縦横無尽の赤い矢が心に突き刺さる。 文句なしにノックアウト!号泣メーン!
[映画館(字幕)] 9点(2017-05-17 09:44:48)(良:1票)
435.  ワイルド・スピード/ICE BREAK
冒頭、「Fast & Furious 8」とタイトルが掲げられ、いつものようにストリートレースを挑まれた主人公がハバナの街を激走する。 シリーズ8作目にして、公開されるやいなや喜び勇んで映画館に足を運び、お決まりのレースシーンに早速高揚させられた時点で、この映画を否定する余地は微塵もなかった。勿論端からそのつもりはないのだけれど。 言わずもがなこのカーアクション映画シリーズの大ファンである。 決して自動車自体に強い興味があるわけではない僕を虜にして久しい今シリーズの稀有なエンターテイメント性はもはや奇跡的であるとすら思う。  ただし、この最新作に対して不安が無かったわけではない。 前作「SKY MISSION」は、ヴィン・ディーゼルと共に主人公を演じてきたポール・ウォーカーの急逝を乗り越え、彼と彼が存在したこの映画世界に対する多大な慈愛に満ち溢れたまさに奇跡的なアクション映画だった。 傑作の後を受け、必然的に新たなキャラクターバランスの構築を余儀なくされたこの最新作が、果たしてどんな仕上がりになっているのか、期待と不安は入り混じっていたと言える。  しかし、様々な苦難を乗り越えながら“PART8”まで作られてきた今シリーズの底力は伊達ではない。 これまで幾度も「強引」という言葉を覆い隠す「豪快」な展開により、映画世界そのもののテイストやキャラクター設定すらも変革してきた今シリーズだからこそ許される「前作までのキャラ設定ほぼ無視」の展開力により、新たな娯楽性の付加に成功している。 過去作での出来事を振り返れば、「さすがに強引過ぎる」という意見も分からなくはないけれど、もはやそんなことに目くじらを立てていては、目の前で繰り広げられる圧倒的娯楽性に対して勿体無いと思える。 そして、ジェイソン・ステイサムのファンとしては、アレほどこのアクションスターに相応しいアクションシーンを見せられては、諸手を挙げてニヤニヤするしかなかった。  おそらくは次回作以降もラスボスとして存在するのであろうシャーリーズ・セロンの“絶対悪”感も最高だった。 いよいよ筋肉バカだらけになってきた熱苦しい映画世界の中で、まさに氷の女王のような冷ややかな美しさと悪意がほとばしるこのアカデミー賞女優の存在感は、見事に新たなキャラクターバランスを構築していると思う。  キューバ・ハバナを激走するファーストシーンで明らかなように、この地球上に走っていない場所がある限り、このシリーズは新たな娯楽性を生み出し続けられるとすら思う。 アクション映画として体感は10点満点。さあ、次はどこを走るのか。
[映画館(字幕)] 8点(2017-05-10 23:10:41)
436.  カジノ
時は70年代、ラスベガスがまだマフィアの支配下にあった時代。 決して臆すること無く彼らは「欲望」の波を奪い合う。ある者はビッグウェーブを乗り越え、ある者は呑み込まれ藻屑と消える。 ただし、この街は一人の者が勝ち続けることを絶対に許さない。 幾つもの大波を越えた強者であっても、一寸の揺らぎで途端に波に呑まれ、溺れて沈む。  そこからすんでのところで、“生還”した者が、本当に追い求めていたものは、ただただ純粋な愛だった。  そんな哀しくて、虚しくて、愚かで、残酷で、ギラついた夜が延々と続いた時代が、凄まじい「映画力」によって描き出される。 圧倒的な3時間。凄い。   マーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロ、かつてこの二人がハリウッドにおける「最強タッグ」として数々の大傑作を映画史に残してきたことは当然認識していたが、実際に観ていたのは「タクシードライバー」と「ケープ・フィアー」くらいだった。 1981年生まれの映画ファンにとっては、スコセッシ監督作の主演俳優といえば、デ・ニーロよりも、レオナルド・ディカプリオの方が印象強く、実際作品を漏れなく鑑賞しているもそちらである。 しかし、今更ながら往年の「最強タッグ」の最後(2017年時点)の作品を観て、偉大な監督と偉大な俳優の映画愛と野心に溢れた映画世界に圧倒された。 そして、22年前の今作を、今まで鑑賞していなかったことを激しく後悔した。  何と言ってもロバート・デ・ニーロの存在感が素晴らしい。 今作の主人公である“エース”は、他作でデ・ニーロが演じてきたキャラクターと比較すると、決して激情的なキャラクターではない。努めて冷静に物事を見据え、対処し、物語の舞台であるカジノを支配する。 キャラクター的な激しさを捉えたならば、脇を固めるジョー・ペシ演じる“ニッキー”やシャロン・ストーン演じる“ジンジャー”の方がよっぽど激しく暴れまわる。実際、この二人の演技も物凄い。 しかし、やはり映画を支配しているのは、ロバート・デ・ニーロだ。 実在した天才賭博師を演じきった彼の佇まいには、長年組んできたマーティン・スコセッシに対する絶大な信頼に裏打ちされた映画俳優としての“極み”を感じた。  兎にも角にも、マーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロの未見作があることは、映画ファンとして恥ずべきことだけれど、逆に言えば、「レイジング・ブル」も「グッドフェローズ」もこれから“初見”できるわけで。 それはそれでハッピーなことだと思う。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-05-06 09:43:57)
437.  映画 はなかっぱ 花さけ!パッカ~ん♪蝶の国の大冒険
ゴールデンウィークの最中、子どもたちの暇つぶしに、某動画配信サービス内で見つけた今作を観始めた。 「はなかっぱ」は、今現在幼児を育てている家庭であれば、圧倒的な割合で毎朝観ているアニメ番組ではなかろうか。 因みにウチでは、この番組が終わるタイミングまでに身支度を終わらせ、全員で家を出るのが日課となっている。  自分の子どもが生まれるまでは、「はなかっぱ」というアニメキャラクターの認知すら殆ど無かった。 最初のうちは、完全なる幼児向けアニメだろうと流し見していたけれど、次第にナンセンスでシュールなキャラクターたちに愛着を持ち始めてきた。  頭から花を咲かせるって、なんて能天気なキャラクターなんだと思っていたが、「成長を通じて自分らしい花を咲かせよう」というそのテーマ性を知ってからは、「なんて真っ当な子供向けアニメなんだ」と思うようになった。 さすがはEテレである。  とは言え、「はなかっぱ」の映画化なんて、作品規模に似つかわしくなく大袈裟だろうと思っていたが、これが意外にも泣けた。 クライマックスで見せるはなかっぱの怒涛の攻撃シーンには、まさかの高揚感を覚え、そして横たわる母に向かって号泣するさまに涙腺が緩みそうになった。  アニメの悲しいシーンや可哀想なシーンでは必ずと言っていいほど泣き出してしまう我が愛娘は、はなかっぱの号泣シーンを我慢してじっと観ていたが、ふいに背後に自分の母親の存在を感じたらしく、途端に大号泣。 その様子を見ていた僕は、彼女が泣き出す瞬間の表情の変化を目の当たりにして、より一層胸が熱くなった。  人の親になって日々身に沁みていることだが、子の成長ほど感動的なことはない。 当たり前だが、それは自分のすべてを投げ売ってでも、守るに値するものだ。 自分の子どもたちが、頭にどんな「花」を咲かせるのか。 まんまとこのゆるーいキャラクターに感化されてしまっているが、楽しみでならない。
[インターネット(邦画)] 5点(2017-05-05 21:11:46)(良:1票)
438.  シェルブールの雨傘
色鮮やかな色彩世界が、徐々に色を抜かれ、ついには雪と夜のモノトーンに終着する。 若者たちの、熱く燃え上がった恋はあっけなく霧散した。 彼らのことを愚かだとは思わない。ただ若かっただけ。 すっかり大人になれば、そりゃ2年なんて瞬く間に過ぎ去り、心変わりの隙なんて生まれないだろう。 けれど、すべてが初めての体験の連続である濃ゆい時間を生きる若者たちにとって、未体験の2年を推し量る術などない。 それは、時代も、国も、関係なく、普遍的な若者たちの姿だ。  全編を歌唱で綴る完全なるミュージカル構成がやはり印象的。 そして、画面を彩る色彩が、そのまま主人公たちの心模様を映し出す。 今年のアカデミー賞を席巻した「ラ・ラ・ランド」が、今作の影響を多分に受けていることは明らかだった。 映画史においての一つのエポックメイキングとなった作品であることは間違いないと思える。 大女優カトリーヌ・ドヌーヴを生み出した作品でもあることも、そのことに拍車をかけている。  時代を越えて、この映画の主人公の若者たちは、大人たちをやきもきさせてきたことだろう。 しかし、人生を「選択」することこそが、若者たちの特権だということも、大人たちは知っている。 だからこそ、限られた華やかさと美しさに彩られたこの映画を、人々は心の中で愛し続けるのだろうと思う。  結果的に、若者たちは不幸になったわけではない。むしろ逆だろう。 恋の未成就をさめざめとしたハッピーエンドとして描き出したこの恋愛映画の在り方は、公開当時、歌唱や色彩の演出以上に、センセーショナルだっただろうな、と思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-05-05 21:00:57)(良:1票)
439.  仁義なき戦い 頂上作戦
ドン底からの暴力による抗いを描きつけるシリーズ第4弾。 東京五輪を間近に控え、時代が生んだアウトローたちの一寸のカタルシスは、権力と時代の激流により徐々に確実に淘汰されていく。 暴力のカリスマ二人が、極寒の留置所で諦観じみた掛け合いをする様が哀愁に満ち溢れる。 菅原文太、そして小林旭、稀代の映画スターの存在そのものが、今作における圧倒的娯楽である。  いつの時代であれ、暴力団という存在を肯定するつもりは一切ないけれど、敗戦に伴う喪失と屈辱、国全体の貧困と飢えが、彼らを暴力に駆り立てたこともまた事実だろう。 言うなれば、この稀代の暴力映画シリーズの根底にあるものは、この国の覆い隠された生身の姿なのだろうと思う。  だからこそ、ひたすらに繰り広げられるバイオレンス描写と愚かしいヤクザ世界の人間模様に、一抹の滑稽さと多大な娯楽性と共に、どこか拭い去れない侘しさを感じてしまうのだ。  クエンティン・タランティーノをはじめ、世界の映画ファンからも愛される日本のヤクザ映画だが、日本人にとってのヤクザ映画には、時代を越えた特別な感慨がじっとりと染み付いている。 それは、ヤクザ稼業の人種に関わらず、この国のすべての人達がかつて味わった「侘しさ」を思い起こすからだろう。  この「仁義なき戦い」シリーズをはじめ、この国のヤクザ映画が老若男女に愛された理由は、そういうところにあるのではないかと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2017-04-22 20:30:32)
440.  ハードコア(2015)
新宿バルト9、上映終了が0時近くのレイトショー。 クライマックスを“走り抜ける”につれ、自身の脳内メモリが激しく消費されていくのを体感。 誤解を恐れずに言うと、刺激的な映像世界に対する高揚感に相反するように、特に終盤、“欠伸”が止まらなかった。 無論、退屈だったわけではない。脳内メモリが尽きかけ、思考が停止しかけていたのだと思う。  きっと世界中の映画人たちが一度は思いついたものの実行には移せなかった“全編FPS視点”でのアクション映画。 今作のつくり手たちは、その禁じ手とも言える破天荒な映画企画を、時に緻密に、時に強引に、見紛うことなき“新しい”エンターテイメントとしてまかり通している。  何はともあれ、「映画」として成立させたことがまず見事だと思う。  前述の通り、鑑賞者のタイプやタイミングによっては、“メモリ”のキャパオーバーで、映画としての許容範囲を越えてしまうことも致し方ない文字通りに「不安定」な作品であることは間違いない。 ただし、決して“全編FPS視点”というアイデア一発に頼り切った映画ではないことも確か。  ある意味「主人公不在」の映画であるため、その分周囲のキャラクターを演じた俳優たちがそれぞれ印象的である。  まず主人公の愛しき妻(?)としてファーストカットで映し出されるヘイリー・ベネットがいきなりエロい。 はっきり言って悪趣味なエログロ映画でもある今作において、この女優が醸し出す善悪を超越した淫靡さは必要不可欠な要素だったと思う。  そして何と言ってもこの作品を語る上で外すことが出来ないものは、実は特異な撮影手法などではなく、シャールト・コプリーその人。 彼が扮する“ジミー’s”の縦横無尽、奇々怪々、魑魅魍魎な存在感こそが、今作の最大の見所だと言っていい。 盟友ニール・プロムカンプ監督の「第9地区」で鮮烈なデビューを果たして以降、一気に“怪優界”のトップに躍り出たこの人の俳優力はやはり本物だ。   途中、喋ることが出来ない主人公を指して「チャップリンだったとはな」という台詞があるが、これは言い得て妙な巧い台詞である。 完全なる主人公視点により、まさに映画世界を「体感」する今作の体験は、映画の黎明期に“チャップリン映画”を観た当時の観客たちの「体感」に通じるものがあるのではないか………。 とまで言ってしまうと流石に大袈裟だけれど、つくり手たちの意欲そのものは、映画史の偉人たちに対しても胸を張っていいと思える。
[映画館(字幕)] 7点(2017-04-20 07:50:38)
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