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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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561.  リオ・グランデの砦
最初のほう、せがれが入隊してきていることを知らせる過不足のない語り口に、うまいなあ、と唸らされ、ローマ式馬術だっけ、二頭の馬に立って走り柵を越えるささやかなスペクタクルで眼も楽しませ、こっちの観賞気分はかなり合ってきてたんだけど、中盤がどうもうまくない。向こうのせいなのかこっちのせいなのか、連隊付きのコーラスがやたら歌ったりすると気が抜け(向こうのせい)、またこの夫婦、なんか南北戦争時のこだわりをひきずってるようで(?)、そこらへんの味わいはよく分からない(こっちのせい)。全体馬のシーンはすべていい。火で興奮し暴れ、柵を躍り越えたり、疾走シーンはもちろん、倒した馬を楯にしての銃撃もある。鐘を鳴らす少女のカットも効果的。だが、こういうこと意識するのは野暮だとは思うんだけど、やっぱインディアンを悪役と割り切って観続けることは出来ず、しばしば活劇の途中で気分を冷まされてしまう。映画を観るときはとりあえず作品の枠組みを全面的に肯定して観る、と決めていて、昔の国策映画のときは出来るだけ当時の愛国的国民になって観たりするんだけど、西部劇では白人になりきれない。気を抜くとつい侵略されたインディアンの側に回ってしまっている。困ったものだ。子どもをさらうような分かりやすい悪に設定してくれているんだけどね。(撮影当時の先住民にとっては西部劇のエキストラ出演料が貴重な現金収入だったそうで、世の中は複雑だ)
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-11-20 10:12:16)
562.  鰯雲
成瀬のフィルモグラフィーにはときどき変種が紛れ込んでいて、おやっとさせられる。戦前にはプロレタリア作家徳永直の『はたらく一家』を映画化しており、その「おやっ」という違和感を成瀬の世界にしていく面白さがあった。ときに「合わないだろう」という脚本家と平気で組んで(会社の方針には逆らわない主義なのか)、菊島隆三脚本の『女が階段を上がるとき』を代表作にしてしまう。あと「合わないだろう」は、本作と『コタンの口笛』の橋本忍だ。どちらも原作ものだが、こっちは農民文学の人。都市の近郊農家の難しさとか、若い世代の農業離れの問題とか、成瀬的とは言えないテーマである。そのなかから「滅ぶものの唄」を引き出していく。鴈治郎が淡島千景に「みんなあんたの言ったとおりになる」とぼやくあたり、農民文学のなかから成瀬的なものが匂いたつ。土地の相続の問題、土地を平等に子どもに分割していったら、農業ってものが成り立たなくなっていってしまう、というけっこうシビアな問題も見据えている。「自分の生き方が現代と合わなくなってきている、でもそういう生きるしか道がない」というこの時代の農業従事者の苦衷が、成瀬的に、ということは半分諦めながら、しみじみと伝わってくるのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-18 09:21:46)
563.  喜劇 にっぽんのお婆あちゃん
これはもう邦画脇役大会というか、配役眺めているだけでニコニコしてしまう。おっとりの東山千栄子、いいとこの女中の浦辺粂子、満州帰りで英語の岸輝子、ナイチンゲール勲章(『ひめゆりの塔』!)の原泉、ドラ焼を盗ったらしい村瀬幸子、そしてもちろん北林谷栄に飯田蝶子。男も、山本礼三郎、上田吉二郎の二大悪役に喧嘩させ伴淳を遅れて登場させる憎さ。中村是好、渡辺篤、菅井一郎、殿山泰司もいる。ジッパーを上下させているのは何て言ったっけ。斎藤達雄のドクター、まだ忘れてないか、看護側で市原悦子、織田政雄、小沢昭一、ちょい役の警官に渥美清(まだちょい役で当たり前の時代だったのか)。こういう贅沢を社会派監督に提供してもらえるとは思わなかった。家族と一緒より養老院のほうが幸福かもしれないという『にんじん』みたいな見方を提示し、でも養老院だって極楽というわけではなく、ドラ焼き食べた疑いが掛かったりするように、そうそうノビノビしていられるわけでもない。フォークダンスの暗鬱さが秀逸。全体はユーモア優先で、こういう映画も作るのか、と思っていると、最後のミヤコ蝶々の家族描写がずっしりリアリズムで、監督の本性が剥き出しになった。「お風呂行かないんですか、行かないなら行かないとおっしゃってくれなくちゃ」。題材が題材だから、もっと展望があってホッとさせる展開にしてほしかったが、社会派は暗く問題提起しないといけないらしい。音楽がモダン、60年代は50年代と違うな、と思いました。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-12 09:59:55)
564.  ロイドの人気者
アメリカの最も良質の理想主義がある。チャップリンやキートンは最初から普遍性を持っているが、ロイドは「アメリカ的」ということを突き詰めて普遍性に至ったよう。上級生たちの残酷さに気づかぬロイド、状況を知らずに有頂天になっているロイド、しかしわずかのチャンスを生かして栄光に至る。アメリカではすべての人にチャンスが与えられているはずだ、というあの国の自負と、しかしそのチャンスを生かすのはおまえ自身だぞ、というあの国の教訓。個人主義の国の良さと厳しさ。仮縫いのままのパーティなど笑った。タップはやがて小津が真似するのではないか。ラストの試合が思ったほどじゃなかったけど、キックした球が風船と混ざって分からなくなっちゃうのがおかしい。自分が馬鹿にされていたと知ったときのあたりは、ホロッとさせられた。やっぱり人間努力だ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-11-11 09:52:48)
565.  どっこい生きてる
河原崎長十郎は映画俳優としてさしてうまい人じゃないと思うんだけど、その不器用さが主人公の不器用さと重なって面白い効果になっていた。ボーッとした表情。一番いいのは仲間のカンパを盗まれちゃって飯田蝶子にやりこめられるとこ。カンパシーンはややしらけたが、ちゃんと理想だけではない厚みを描いたのね。そして飯田蝶子の、優しさと厳しさを合わせ持つうまさ。「こんなことだろうと思ってた」と仲間に呟かれるつらさ。理想を謳うだけじゃなく、たえず現実とのギャップを提示している。だからといってどうすればいいという案はないのだが、声援を送る姿勢だけは続けようという決意を感じる。ラストの子を助けるシーンは、社会の問題をこういう形で結論づけてしまってはいけないだろうとは思いつつ、けっこう感動してしまった。ブランコをこぎまくる部分の怖さ・やりきれなさが出てるからいいんでしょうね。ロケシーンに時代の空気が匂い立っている。イタリアのネオリアリズムに触発されたのはアリアリだが、こなれているし、戦前からこういった路線は日本にも『綴方教室』などあったはずだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-10 09:44:10)
566.  魚影の群れ
こちらの心が不純なせいか、長回しのシーンはつい撮影風景を想像してしまっていけない。クレーン移動は心地よいけど。拳と十朱の再会シーンと追っかけとか。父と婿の、というより先輩と後輩の和解シーンはちょっとホロッとした。たとえ本人が死んでも本人がやっと釣ったマグロを捨てるわけにはいかん、このことで初めて漁師仲間に入れてもらえた、ということで、忠臣蔵の勘平みたいなものか。この仲間に入れてもらえぬ焦りが重要なモチーフであった。この閉鎖性は否定されるべきものだが、漁師の側からすれば「あんまりいい仕事じゃないよ、娘に苦労はさせたくない」という気持ちもあり、しかしマグロ獲りの誇りも強く、娘の亭主は漁師でなければならぬ、と思うわけ。そういうあれこれがあるので、ラストの「マグロ一匹百万円か、いい仕事だべなあ」のセリフが生きてくる。最初のマグロ釣りのシーンが一番の迫力だった。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-09 09:57:31)
567.  ジャングル・フィーバー
この監督の面白さはホームドラマにあるのかも知れない。一組の男女から、しだいにそれぞれの背景、家族から民族まで広がっていくドラマを、会話で綴っていく。「わだかまり」の根本を見詰めようとする姿勢は正しい。残業の会話でジョークジョークと言いながら、黒人の上司と白人の部下という関係のわだかまりをためつすがめついじり回す楽しみ。女たちの討論会。黒人男はどこかで白人女を求めてるのよ。イタリア系の店での差別論議。今回は人種差別に性差別も絡んでくる。主人公のカップルの裏に、タトゥーロ青年の黒人女性への恋が肯定的に置かれていた。後半麻薬のモチーフがグッと出てくるのがもひとつピンと来なかったんだけど、今のアメリカで家庭を考えるとき避けられないテーマなのでしょうな。道を散歩するシーンがなぜか滑らかな移動で描かれるのが面白い。フィーバーではあるけど、すべて中途半端な情熱になってしまう哀しさみたいのがある。警官に強姦していると思われそうになるとき「恋人と言うな、友だちと言え」なんてあたりに、今黒人が置かれている状況が分かる。タテマエは平等ということになってても、実際に心に生まれてくる「わだかまり」はどうすればいいのか。
[映画館(字幕)] 7点(2012-11-07 09:44:43)
568.  フレンチ・コネクション
警察ものの場合、たとえオールロケでも、犯罪現場や捜査会議室なんかは繰り返し映され、光景に馴染みのある・なしの濃淡が生まれてくるのが普通だ。本作にはそれがない。観客にとってすべてのシーンが「ゆきずりの場所」であり、そこをノンストップの電車のように突っ走っていく。警察ものの真の主役は都市そのもの、と割り切った映画。匿名の街角が連なっていく。張り込みと追跡の背景としての都市が流れていく。そのザラついた摩擦感が味わい。一番好きなのはフェルナンド・レイをポパイがホテルから地下鉄まで追跡するシークエンス。人混みの中に見え隠れする紳士の姿、そして車両に乗ったり降りたりの騙し合い、レイの人を食ったキャラクターが生かされていた(これを初めて観たころはまだブニュエル映画を知らなかったはずだが)。音楽がけっこういい。低弦のユニゾンがモゾモゾッとうごめいて、やがてジャズが乗ってくる。このモゾモゾッに、なんか文楽の太棹三味線的な、映像に対する合の手の味がある。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-11-04 09:44:24)(良:1票)
569.  我等の仲間
友情の崩壊ストーリーよりも、田園の美しさに見惚れた。田園っちゅうか、川沿いのあたり、川遊びとかね。白黒だと木々の色が出せなくて駄目だろうと思いがちだが、かえって光に敏感になるので美しい。冒頭から木々の並びを流す画面だった。堪能堪能。開かれた祝祭気分の仲間うちの世界、これが一人ずつ去っていくことになるんだが、完全に分解しないで、最後二人だけで友情よみがえって終わったとしても、ちっとも甘くないと思うよ。悪女にリアリティなくても、それに振り回される男のほうに説得力があるからいいのね。みんなで瓦を飛ばされないように屋根に寝たのが一番の思い出だぜ、なんてのがいい。この監督は、巨匠というより名匠という言葉が似合う。(ハッピーエンドの版もあるらしい)
[映画館(字幕)] 7点(2012-11-02 10:04:56)
570.  大いなる幻影(1937)
職業軍人たちの誇りと焦りと諦め、というあたりがよく出ている。仏のほうはもう次の世代へ譲り渡そうとしている。独のほうは最後の礼儀正しさで、自分の階級をまっとうしようとしている。そしてその次の世代というのは、より残酷な世界大戦で闘うことになるわけだ(当時のルノワールが予想していたわけではなかったろうが)。各国語をそのまま使っている。ジャン・ギャバンが次の捕虜に地下の穴を伝えようとするが「ワタシフランス語ワカリマセ~ン」となる。あるいは逃走中のロマンス。互いに理解できぬ言葉で語り合う場面の哀切さ。あるいは独房でフランス語を喋りたい、と叫ぶ。戦争を言葉の面から描いたのが貴重。演芸会に至る部分はよかった。女装の男を見てみながシーンと静まり返ってしまう。あるいは窓辺での会話「子どもたちは兵隊ごっこ、兵隊は子どもの遊び」って。当時のヨーロッパの細かな情勢や文化に詳しいと、もっと面白そうな部分はある。国境も幻影だが、最後彼らが撃たれなかったのも、国境に守られたからな訳で、ここらへん皮肉なのか。そういう感じでもなかったな。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-31 09:37:40)
571.  遺言
主人公が純粋な芸術家なのではなく、役人でもあるところがヒネてる。芸術家の受難物語だけで閉じてしまわない。個人と風土がとうとう触れ合えなかった哀しみなどにテーマは広がり、故郷を失った現代人の普遍性のある物語にまでなった。鳥が鳴き牛がいななく美しい風土、絵画の素材としてそれを愛することは出来るんだけど、受け入れてはもらえない。彼が芸術家だけでなく、森林監督官という役人でもあったからか。そこらへんの曖昧な膨らみが寓話の味。ましてここはマカヴィエフを生んだユーゴスラヴィアだ。交流はあっても本当に触れ合えないのは、なにかユーゴならではの政治的な寓意があるのかも知れない。ドアの周りを原色で囲っているのは、普通の家作に見られるリアリズムなのか、それとも監督の作為なのか。そういったことから悩まされる。室内の天井の低さも気になったが、これもリアリズムなのか作為なのか。ロングショットが生きてる映画ってのはまず失敗がない。原野の中央に立つ牛。野に出ていく絵画。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-30 09:25:44)
572.  靴みがき 《ネタバレ》 
貧者の犯罪、「社会が悪いんだ」という告発が目新しかった戦後という時代。次作の『自転車泥棒』に比べるとまだ切迫さはないが、こちらは友情が大人の思いによって引き離されていく痛々しさがある。よく作られている。ベルトでぶたれていると思い込まされて、友情のために白状してしまうことが、逆に裏切りとされ、密告される。そのときの本当のベルトの痛みを、ラストで与えようとして殺してしまう、というシーソー。最初は何の契約書も交わさずに合同出資するほどの信頼だったのが、裏返されていくにつれ、より強くなる面とより憎む面とに増幅していってしまう。脇が充実しており、ワルの奴、間を取り持とうとする奴、肺病持ちでフィルムの海に感動したあと踏み殺されてしまう奴、などいい。家族愛とそれが他者に対して残酷になるところもしっかり描かれる(長男をかばうためにはみなしごを主犯にしなければならぬ)。馬は何かの象徴と決め付けないほうがいいのかもしれない。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-29 09:58:38)
573.  どん底(1936) 《ネタバレ》 
普通なら理解し合えないはずの者たちが・理解し合えっこないはずと信じ込まされていた者たちが、コロッと意気投合してしまう。会った瞬間に友だちになれてしまう。なんという人生肯定。この作品で一番印象深いのは男爵だろう。「身を落とした」などという意識は微塵もない。草原に寝転がる自由を心の底から満喫し、自分の選択を全然後悔していない。理想主義的すぎるとも思えるけど、でもいい。フランス映画でよく感じる「のんき」の尊重。けっきょく今まで自分は衣装を替えていただけだ、という述懐もあった。自殺してしまう役者とペペルの対比もある。遠い夢の病院と、現実の地道な生活への一歩の違いということか。マドンナが役人に口説かれてしまいそうになるときの陽の光の美しさは、親父譲りだな。というわけで黒澤版の暗~い『どん底』とはずいぶん印象が違うが、本家ロシア人が見るとそれぞれどんな感想を持つのか、ちょっと興味がある。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-26 10:04:26)
574.  ダントン
映画はシナリオ文学ではないのだから、言葉にだけ感動してはいけないのだろうが、これは一つ一つのセリフに革命に対するワイダの思想の練り返しが感じられ、重い。人民の政府であるはずの共産国の作家が「人民の敵は政府だ」と叫ばねばならない悲痛さ。実質の主人公であるロベスピエールが「ダントンを裁いても裁かなくても革命は崩れ去る」という恐怖。人民に誠実であり続けるためにはダントン的人物が必要であり、しかしそういった人物が革命の輪郭を溶かしていったりもする。当時はダントン=ワレサとすぐに思わされたが、おそらくもっと普遍的なものとして捉えようとわざわざ過去に題材を採っていたのだろう。人民のための革命が専制独裁になっていくメカニズムが今までにも何度も繰り返されてきたのはなぜか。恐怖政治下の人々の描写がリアル。身分証明書を求められて怯える少女や、革命憲章をビクビク暗証させられている少年などがよく、これがラストのロベスピエールの恐怖と共鳴する仕掛けになっている。全体に青ざめた色調。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-09 10:33:58)
575.  嘆きのテレーズ 《ネタバレ》 
殺人ありユスリありの犯罪ドラマだが、極悪人がいない。みんなささやかなレベルアップを求めているだけで、ちょっとした自由や安定に手を伸ばし、破滅を引き寄せてしまう。印象深いのがユスリ、ネチネチした悪党の振る舞いはしていても、けっこう義理堅い奴で、自分が瀕死の状態でも密告手紙の心配をしてる。古自転車屋を営めたらたぶん更なるユスリはしなかっただろうと思われる。戦争で裏切りを含む幾多の苦難を渡ってきて、これからは穏やかに生きたいと思ってたんだろう。値切られた金額でも満足していた。その希望のささやかさが、この人物を立体的にしていた。テレーズの旦那はすごろく遊びで満足する、その母は息子さえ元気ならいい。主人公の二人は、ダンスホールで大っぴらにダンスできなくても、ひそやかに密会を続けていた。それだけで満足できなかったちょっとした夢、レベルアップの希望が、登場する全員を破滅に導く。ことさら宿命などと呼ばなくても、こういう「意のままにならない進行」で世の中は動いていくんだな、だからと言って死んだように生きてても仕方ないしなあ、などとしみじみ考えさせられる。その事実だけを淡々と記録する映画の静けさがいい。寡黙なテレーズ、病後の姑の目だけの無言、そして破滅を告げるラストのユスリ屋の永遠の沈黙。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-10-06 11:02:58)
576.  ケープ・フィアー
この監督ジェントルマンの顔して、どうしてこうむかつく男を描くのが好きなんだろう。自分を「裁く男」と規定した人間のドロドロ。『タクシー・ドライバー』以来のモチーフですな。14年間、牢屋の中で勉強する執念。スコセッシが描く嫌な男はピンと張りつめている。いい加減なところ、だらだらしたところがない。前半の嫌がらせの部分なんかも、遊んでる感じがなくピリピリしている。だいたい「嫌がらせ」なんて、どこか薄笑い的なものなんだけど、本気も本気。その絶えず精進している本気さ加減が弁護士を怖がらせるんだからここは大事。怖いのは、弁護士のほうも手を出しちゃうとこで、相手にますます正義を与えてしまうの。ただ後半に宗教性が出てきたことで「悪とはなんぞや」というテーマをやや薄めてしまったか。日常が恐怖という一点に絞られ錐でグリグリ突き通されていくような映画。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-28 09:37:58)
577.  五人の斥候兵
国策映画で戦争そのものを描く場合、敵が強いと国策に合わないし、敵が弱いとドラマとして成立しない、というパラドックスがある。で大局的な視野を捨てて、局所的な出来事に目を向け、そこに集中することで映画作家としての誠実を尽くそうとした、ってことはありましょうな。戦場における理想的な心意気の世界。負傷した兵が送り返されるのを嫌がり、無理して「ほら、銃ならちゃんと持てます」と言うのに対して、部隊長がその心を汲みながら「命令だ」というあたりなんか、やがて一つの型になっていくのの初めのころのケースだろう。斥候に出て行くときの不安定な(舟に据えたカメラ?)の視点なんかもいい。敵兵の表情が見えないのはうまいのかズルいのか。そのかわりときどき敵兵の視点になってトーチカから斥候兵を狙い撃ったりするシーンがあり臨場感。田坂監督の当時の言葉によると「小津君の入営がこの映画を作ろうと思った一つのきっかけだった」という。当時の小津の軍隊日記には本作がキネ旬の1位になったことを記し「それほどの作品だったかな、まだ見てないが『路傍の石』のほうがいいんじゃないか」てなことを書き込んでいる。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-26 09:39:34)
578.  黒い十人の女
ファーストシーン、光と影のサスペンスであると同時に、女がぞろぞろと歩いているどうしようもないおかしさ、見てるほうとしては、まだどういう設定か分からないんだけど、市川さんの映画だなあ、とシミジミ思わされる。働く女性ってのがかなり定着してきた時代(翌年に鈴木英夫の『その場所に女ありて』)。それまでの養い・養われる、という男女の定型が崩れ出してきた。これ見ると、男のほうは仕事の手順忘れていたりして、女のほうがギラギラ働いている。なのに男にはまだメンツがあって、そこらへんに悲喜劇が生まれる。あるいは、女は男によく優しさを求めるけれど、優しい男とはこういう残酷もある、って言っているのか(「誰にも優しいってことは、誰にも優しくないってことでしょ」)。でそれを上回る残酷を、女が優しさとして発揮した、というストーリーなのか。とにかく和田夏十のそのシニカルさを徹底した視線が感じられる。宮城まり子の存在が、ちょうど『鍵』の北林谷栄を思わせ、ゴタゴタやってるのを外から見る者としての役割りを担っていたよう。最後に二人が自閉的に籠もってしまうってのは、なんとも不気味。二人で向かい合って喋るシーンが多かったなあ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-24 10:21:01)
579.  隣の女
感情のシーソーゲーム。どちらも相手に対して完全には優位に立てない。男は招待パーティから逃げてしまい、友だちとしてやっていく可能性を封じてしまう。夫の留守に逢引するのは乗ずるようでいやと言っていた女も、その禁を破ってしまう。ひとつひとつ障害となるべき葛藤を破りつつ越えて、破局へ歩んでいく、その道行きの味わい。ひそやかな不倫の緊張が、パーティの席で解き放たれるのは、破局でもあるが快感でもあった。偶然の出会いまでは、それぞれどうにかやっていたわけで、別に死んだような人生だったわけじゃないのに、もうダメ、こうなってから振り返ると、もう後戻りは不可能。この情熱の不合理、心の奥に潜んでいるものの不気味さ。こういう破局の快感でしか、解き放たれない魔があるんですなあ。「隣」と言う曖昧な関係の設定がいいんだな。友人のように深くは立ち入らないが、微妙に付き合っていかねばならない。赤の他人より、他人を意識する関係。そこに最も深く心が関わる人間が据えられてしまったことによる、ひずみ。ヒロインを神経衰弱にしたことは、トリュフォーの好みなんだろうが、ラストを弱めてはいなかったか。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-23 10:05:21)
580.  ウィンチェスター銃'73(1950) 《ネタバレ》 
名刀が流転して妖刀になっていく話は日本にもあるけど、こういう名品は単なる武器以上の価値が寄り添い、魔が生まれてしまうんだな。ま、本作の銃は魔ってほどではないが、手にした者は次々と命を落としていく。そしてそれを所有するにふさわしかった最初のリンに帰っていくって話。流転していく連作短編のようでいて、一応全体としての筋も整えて90分ちょっと、という手ごろな仕上がり。それぞれのエピソードに見せ場がある。射撃競争で始まり、その賞品のウィンチェスター銃が奪われ、さらに荒野の中のクセモノの武器商人にポーカーで巻き上げられる。ついでロック・ハドソンのインディアンに渡って(逃げる馬車と追跡するインディアン)騎兵隊との銃撃戦、ここで銃が戻るかと思わせといてはずし、町で家に立て籠もった悪漢に奪われる(この悪漢ウェイコが、ちょっと若いころの三井弘次を思わせるいい味。ダン・デュリエって役者いまここで検索したら『飾窓の女』に出てる。こんなネチネチしたユスリが出てたがあいつか?!)。そしてラストで冒頭のエピソードの人物が回帰して閉じるという趣向。西部劇の見せ場集みたいになっちゃうところをリンの銃回収の旅という芯を仕込み、射撃競争の敵役の再登場でまとまった感じを出せた。この宿命の敵が実は兄弟ってので、神話的な味を狙ったのか。あちらの人にとっては、カインとアベルなんかを連想し、重さが出るんだろう。アンソニー・マン監督とジェームズ・スチュアートという『グレン・ミラー物語』の組み合わせ。まったく異なる世界のようだが「ものすごくアメリカ的」ということで共通しているな。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-09-21 12:24:57)(良:1票)
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