Menu
 > レビュワー
 > かっぱ堰 さんの口コミ一覧。3ページ目
かっぱ堰さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 1248
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334
投稿日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334
変更日付順1234567891011121314151617181920
2122232425262728293031323334
>> カレンダー表示
>> 通常表示
41.  裁かれるは善人のみ 《ネタバレ》 
撮影地はムルマンスク州のコラ半島とのことで、北極圏の海や山や街の映像が印象深い。この点でも非常に価値ある映画に思われる。 邦題の付け方からすると単純に、善なる庶民を虐げる権力は悪だ、と日本人に思わせたかったようだがそれほど簡単な話でもなく、そもそも誰が善人なのかわからない。主人公が妻と友人を失ったのは単なる自業自得のようでもあり、また正義の味方然とした都会の弁護士と、被害者に見える妻にも倫理違反があって、登場人物がみな程度の差はあれ善悪両方を備えていた。男は女を殺すという台詞があったが、その女が弱い男を殺すと脅していたのは性別関係なく荒れた社会ということらしい。 その社会に関していえば、ド田舎の古い体質が地方ボスをのさばらせている、という感想になりそうだがそういう地方レベルの話でもない。ここの国では帝政時代、キリスト教の神様のもとで政治権力と教会がともに国家を支える体制ができていて、その体制が現代において蘇りつつあることが表現されていたように思われる。寓意としてはクジラ=Leviathan=国家だろうが、これが原題であることからすれば映画のテーマは国家であって、劇中の町はいわば国全体の縮図ということになる。 神父様が主人公に話した旧約聖書の「ヨブ記」の話は、国家による統治の道具として宗教が使われてきたことを思わせる。実際に、主人公宅の跡地に教会が建ったのは神様が主人公から家を取り上げた形だが、そのような理不尽も受け入れて耐えれば長生きできるはずという皮肉な話ができている。冒頭クレジットにはロシア連邦文化省が資金を出した(「2014文化年」)と書いてあるが現体制には批判的で挑発的に見えるので、どういうつもりで政府が支援したのか不明な映画になっていた。  ところで主人公の息子を友人夫婦が引き取る動機について、友人妻は「分からない」と言っていたが、これは政治権力や神様などとは無関係に、素朴な民衆の心にこそ善が宿るという意味なのか。その後の「家族みたいなもの」という発言は、家族の紐帯を嫌う現代の西側自由世界の価値観には合わないだろうがそれはそれとして、とりあえず何がどうなろうとも、多くの庶民に本来備わった倫理や良心を守っていかなければならないというメッセージだと個人的には受け取った。 なお主教の説教の中で「善意による行いだと説き伏せようとする者がいる…倫理の根幹を壊す者にどうして自由を説くことができようか」(字幕)という部分を切り取れば普遍性のある言葉になっていると思った。善意と自由を振りかざして倫理の根幹を破壊しようとする者はどこにでもいる。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-12-30 16:45:49)
42.  7BOX セブン・ボックス 《ネタバレ》 
南米パラグアイの映画である。紹介文によれば現地でも大ヒットしたそうで、絶賛するほどでもないが普通に楽しめる。首都アスンシオン(多分)の市場街の込み入った場所感も見どころになっている。 題名は冒険ファンタジーのような印象だが、実際はただの運搬用の木箱である。その箱をめぐって追ったり追われたりのスリリングな展開になるが、主人公やその姉のラブストーリーの始まりという要素もあって和ませる。主人公の幼馴染?はなかなかいいキャラクターだった(うるさいが)。また警察署にいたおネエさんの「恋はこうやって始まるのよ」は説得力があって笑わされた。 特徴点として、ばらばらに出て来た登場人物が実は家族関係や交友関係でつながっていたり、警官も毎回同じ男だったりして非常に狭い世界の印象があるが、これが現地の下町風情の表現だともいえる。相当ヤバい連中もいたが、いざとなれば近所の知り合いが助けてくれることもあったりして、善悪込みの庶民生活が描写されている。 ラストはもう少し素直に盛り上げてくれればと思わなくもなかったが、結構な死人が出た一方で生まれて来る者もあり、今後もこのようにして人々の暮らしが続いていくという意味だったかも知れない。結果的にはエンタメとして楽しめることのほか、庶民の哀歓を表現することにも重点が置かれた映画かと思った。  その他、当時のパラグアイ事情の紹介かと思う点について列記: ・2005年時点で携帯電話がすでに普及していて写真や動画が撮れるものもある。今なら個人の動画を報道機関に提供するのも珍しくはないが、この映画の時点でパラグアイでもその端緒となる事件などがあったのか。人が死ぬ動画をそのままTVで流すのはまずいだろうが。 ・現地通貨グアラニーと米ドルのレートで頭が大混乱する映画だった。パラグアイでは2011年に1/1000のデノミを行う予定だったがなぜか中止になり、今もこういう状態のままらしい。商売敵の妻の所持金1万グアラニーは劇中レートで1.53米ドルでしかなく、現地はよほど物価が安いのかと思ったら、実際に世界的に物価の安い都市とのことだった。 ・窃盗、強盗、営利誘拐(身内も共謀)といった犯罪が多発する。いきなりナイフで刺す物騒な奴もいたが、犯罪者にも家族を養う事情があるといったことも普通に見せている。 ・個人で手押し車の運送業をしている人々は実際に多いのか。商売敵の集団が主人公を追う場面でもみな一台ずつ荷車を押していたのは、戦いに馳せ参じる際に必須の武具のようで面白かった。 ・別に珍しくないかも知れないが外国系住民が普通に商業に従事している。いきなり東洋人が出て来て何かしゃべるが字幕が出ないのでどうでもいいことを言っているのかと思ったら、何を言っているかわからないこと自体を生かした場面もあってなるほどと思った。ちなみに店名は「東洋飲食」(동양음식)とのことで、韓流にこだわらず適当に中華なども出していたのだろうと想像しておく。 ・別に珍しくないかも知れないがネコが4回くらい見えた。実際にネコが多いのか、または監督か誰かの趣味かも知れない。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-04 23:39:27)
43.  チャンシルさんには福が多いね 《ネタバレ》 
いわゆる何も起こらない映画である。これまで監督が映画制作に携わった経験が主人公の人物像にも反映しているとのことで、この映画自体も映画愛を感じさせるものになっている。 序盤で主人公が男を飲みに誘った場面では、行ったのがなぜか日本語の表示しかない居酒屋で、韓国映画に日本が出るとろくなことがないので警戒感が一瞬高まった。しかしそこで主人公が小津安二郎の名前を出したのでなるほどそうだったのかと思って、変に疑ってしまってすいませんでしたという気分だった。その後の「東京物語」の話の中では、主人公が日本人戦死者の存在に触れた(※)のがかなり意外に感じられた。 また同じ場面で「何も起こらない」(※)という言葉を、観客が言うならともかく映画関係者のはずの人物が言ったのは、映画関係者でない立場からしてもかなり心外に思われた。まさにそのような映画に関わってきた主人公からすれば、まるで異次元人とか不倶戴天の敵に見えたのではないかと思ったが、しかしそれで別に対立関係になるわけでもなく、それはそれとして他に共感できる部分を探そうとする展開だったらしい。 一般に、内部をまとめるために外部に敵を作るのはよくあることとして、内部でもわざわざ対立軸を作って誰かを攻撃したり争ったりするのでは生きづらい社会になるだろうが、この映画はそういう世界からは距離を置き、人々が何となく穏やかに協調して生きる社会を志向しているように見える。はっきりしないがそのように感じさせるものはあり、実際にそう思っていたとすればその点で非常に好感の持てる映画だった。 ※字幕の翻訳が正確だという前提で。  物語としては、人生の中間点を迎えた主人公の再出発の話ということらしい。いろいろ言葉が出て来るのでまとめにくいが、話全体としてはないことを嘆くのではなく、あるものに目を向けた上で前に進めということかと思った。また捨てることは大事だが、全部捨てればいいわけでもないとも言っていたかも知れない。人生の転機にふさわしい提言にも思われる。 ちなみにエンディングテーマは祝詞の詠唱のようなものを現代風にアレンジした感じの曲だったが、これが映画の内容を端的に表現していたようで最後の締めにふさわしい。歌詞は "チャンシルは福も多い" という意味の文章を起・承・結の3回繰り返して、そのうち一行目が原題と同じ、その後は文末を少しずつ変えて変化を出している。字幕も原文を生かした邦訳になっているが、歌の最後だけ前にはない「福まみれ」にしたのは翻訳段階での悪ノリのようで、ユーモラスな人間ドラマの印象を強調していたのは悪くなかった。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-05-27 10:50:16)
44.  赤い闇 スターリンの冷たい大地で 《ネタバレ》 
映画のタイトルでRをЯに、NをИにしていたのは、中学時代に同じことをやっていた奴がいたので精神年齢が低く見える。それ以外はまともな映画だった。 邦題は観客の意識を過去の国家犯罪に誘導しようとしているが、英題はジャーナリストである主人公の方を前面に出している。監督インタビューによれば、ジェノサイドだけがテーマならこの仕事は受けなかっただろうが、持ち込まれた脚本に「今の世の中にも通じる要素を大いに感じた」からこそ受けたとのことだった。  少なくとも現代では、一党独裁の全体主義国家は警戒するのが普通と思われる。経済成長を期待して投資の誘いに乗るにしても、ビジネス渡航者がいつ人質にされるかわからないのではリスクが大きすぎないか。人権抑圧だけでなく、国力増強のためには住民の生命を犠牲にまでする政権の機嫌を取るなど恥ずべきことだというのが、政財界はともかく一般庶民の感覚のはずである。 問題はそこに報道機関も加担して、自分らに都合のいい情報だけ流し、都合の悪い事実はなかったことにして一般庶民を欺くことである。報道業界も別に一般庶民に貢献するために存在しているのではないだろうが、それにしてもあからさまに虚偽報道をしておいて誤りを認めないというのでは、ジャーナリズムの崇高な理念など仮にあったとしても飾りでしかないのかと疑うことになる。 ただし報道機関とジャーナリストは同じでもないという考え方はあるかも知れない。本人がジャーナリストを自称しているだけで信用するわけにもいかないが、中には使命感をもって事実を明らかにしようとするジャーナリストもいるだろうとは思うので、ぜひ結果を見せてもらいたいと期待する(生命は大事だが)。  ところで映画は冒頭が「動物農場」から始まっていたが、実際の執筆時期は映画の物語よりもかなり後のようなので、当初は単純な社会主義者だったジョージ・オーウェルが、主人公の示した事実に心を動かされた結果がこの著作につながった、という流れを作ったらしい。主人公は若くして世を去ったが、いわば連携プレーで全体主義の脅威を世界に知らしめたという意味と思われる。 主人公の伝えた事実は、そのままならこの時代またはこの場所限定のこととして捉えられかねないが(邦題のように)、オーウェルの著作は具体的な事実を背景にしながらも、寓話や空想小説の形にしたことで後世にも通用する普遍性を持ち得たと思われる。この映画でもあえてオーウェルを登場させたことで、そのような普遍性を感じ取ってもらいたいとの意図があったのかと思った…そのようなことを監督インタビューでも説明していたので間違いないと思われる。  その他のことに関して、邦題は本当の闇なら色が見えないだろうから変な表現だと思ったが、劇中で実際に夜空が赤く見える場面があったことからの発想かも知れない。またエスニック調で不穏な歌詞の児童合唱は凄味があって効果的だった。 人物としては、ヴァネッサ・カービーという人が目を引いた。また序盤でやたらに目立っていた大使館員?は、「ゆれる人魚」(2015)で魚役(妹)をやっていたミハリーナ・オルシャニスカという人だった(ワルシャワ出身)。目立って当然だ。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2023-02-04 10:23:40)
45.  T-34 レジェンド・オブ・ウォー 《ネタバレ》 
昔の「鬼戦車T-34」(1965)を下敷きにした映画で、収容所から戦車で脱走してチェコ国境を目指すという基本的な流れは同じである。もとは砲弾なしの戦車が徒手空拳で暴れる形だったが、今回は主人公が捕虜になる前段階から始めることで戦車同士が戦う場面を入れ、また脱走時にも都合よく砲弾を持っていたことにして最後まで砲撃の機会を用意していた。 加えて旧作で、戦車を追いかけたが置いて行かれた女性に相当する人物を、この映画では最後まで同行させる形にして、旧作を見た観客の満たされなかった願いを気持ちよくかなえる話を作っている。終盤で出たクリンゲンタールKlingenthalというのは実在の地名だが、ここは街外れがすぐチェコとの国境になっている場所で(ストリートビューでチェコ側から見られる)、ここまで来たからにはもう脱出目前という意味だったらしい。 そのほか、のどかな道端で戦車とドイツ婦人が出会うとか、ちょっとした街に入ってビールをもらうといった展開にも見覚えがある。略奪はしないといいながら、結局いろいろ恵んでもらったりして和ませる雰囲気も出していた。当然ながら一般の人々を害するようなこともなく、前にも増して穏健で角を立てない作りに見える。なお最後に大戦中の戦車兵らへの献辞が出ていたのは旧作の形式を尊重したと思われる。  戦車映画としては当然旧作よりも派手に見える。別に戦車好きでもないので特に突っ込んで語りたくなることもないが、砲弾の行方にこだわった映像化は面白くなくもない。また弾が当たった衝撃がガーンというのは印象的だった(女性が気の毒)。 世間的には戦車がバレエ曲に合わせて踊るのが話題になっていたようだが、残念ながらあまり華麗でも可憐でもなく、やはり戦車には戦車にできることしかできないと思わされた。また星空の下のラフマニノフはいかにも通俗的に聞こえたが、世界的な作曲家はチャイコフスキーだけでなく人材豊富だということのアピールかも知れない。 なおヒロイン(プスコフ出身22歳おひつじ座168cm)はにっこり笑うと可愛い人だった。演者のイリーナ・スタルシェンバウムという人はドイツ風の名字なので、ドイツ語の通訳をしているのも自然に見える。最近ではDie stillen Trabanten (2022)というドイツ映画にも出演したそうで、西欧にも活躍の場を求めているらしい(国際情勢が厳しいが)。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-31 10:12:18)
46.  はちどり 《ネタバレ》 
1994年の話である。この年にあった聖水大橋の崩落は、個人的には翌年の三豊百貨店の倒壊とセットで憶えているが、昨年6月と今年2月にも光州で同じ建設業者による建物の崩壊事故で死者が出たとの報道もあり、旧来の悪弊がいまだに残っているということらしい。 主人公の周囲で見ると、父親は一般庶民らしく人格的には洗練されていないが、一般庶民らしく普通に情の濃い男には見える。しかしそういう個人レベルの問題とは別に、儒教風?の長幼や男女による上下関係と強すぎる規範意識、また科挙制度に由来するといわれる学歴偏重などの社会的圧迫が全体的な息苦しさを生んでいるように思われる。日本でも似たようなところはあるが圧力の高さが違うのではないか。主人公の言動など見ていても、日頃からストレスの多い社会を生きているらしいとは思わされた。ちなみに家族の間でも罵倒語はきつかった。 なお自分を守るために立ち向かえというのは確かにそうだが、自衛の範囲を超えて他者への攻撃自体を志向/嗜好するようになってしまうと、生きづらい社会の形成に自ら加担することになるので自制すべきである。  物語としては、この年代にとって大人よりはるかに長く感じられるはずの数か月間に、主人公が直面した様々なことが描写されていたようで、緩く見えるがけっこう高密度らしい。個別の場面では、まずは病室にいた一般庶民のおばさん連中が可笑しかった。また漢文講師が歌う場面はいろいろな意味で印象的だったが、その後に再開発地区(もとが不法占拠?)を見て言った言葉がこの人物の醒めた精神を表現していた。 結末の意味は不明だったが、例えば人間関係は永続的なものではないと悟った上で、その時々に相手から受け取れたものの方を心にとどめて生きようということか。背景事情を知らないまま関係が断たれてしまったことで、かえって純化された人間像が14歳の人間の心に刻まれたということかも知れない。年齢性別が違うので直接共感はできないが、いろいろ受け取れるもののある映画ではあった。 ちなみに愛らしい少女は小鳥に喩えてもらえて幸いだ。鑑賞側の見苦しいオヤジの方が自己否定感を催す映画だった。  以下雑談として、劇中の塾で教えていたのは現代語ではなく古典であり、日本で「漢文」と言っているものに当たるらしい。現代ではハングルしか使わないことになっているので漢字言葉は隠されているが、現に自国語の基盤の一部(かなりの割合)をなすものを知っておくのはいいことではないか。 漢文講師が解説していた「相識滿天下 知心能幾人」に関して、劇中で漢字をそのままハングルで表記していたのは、日本語だと「そうしきまんてんか ちしんのういくにん」と経文風に音読みした形になるので、これでどれだけ意味がわかるのかと心配になる(日本なら読み下しというのもあるわけだが)。同じ漢字文化圏でも事情が違ってしまっているが、「能」は可能の能だと特に説明していたのは似たような感覚だなと思った。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2022-03-05 09:41:15)
47.  白頭山大噴火 《ネタバレ》 
中朝国境の白頭山(2744m)が大噴火して半島に壊滅の危機が迫る映画である。日本でいえば「日本沈没」を思わせるので、最後は半島が救われた代わりに日本が沈没した、などという話だったら笑ったが、そういうタイプのおふざけはなかった。なおトンガで火山の爆発があった時(2022/1/15)にこんなのを見るのは不謹慎だろうが、見たのは爆発前(1/14夜)だったので許してもらいたい。 前に見た「韓半島」(2006)と同じく基本的には南北統一を志向しているが、近年の情勢変化を反映しているようなのは興味深い。もう北を対等な協力相手にはできなかったようで、この映画では南主導で米中のうち主にアメリカを悪役にし、核保有国の立場を保ったまま統一を果たす形を作っている。一方で日本が全く表に出ないのは、近年の日本政府が冷淡だったせいかも知れないが大変結構なことだった。日本人には見やすい映画になっているが、アメリカ人なら腹立たしいところもあるかも知れない。結局どこかにしわ寄せがいく。 なお「科学忍者隊ガッチャマン」が出てきた意味はわからないが、これは台湾のアニメ映画「幸福路のチー」(2017)でも印象的に使われていたので、東アジアの民に共通の視聴体験かも知れない。  派手な映像としては予告編にも出る都心崩壊のあと、中盤で漢江?の橋、終盤で大噴火の様子なども出るが、ほか基本的には南北の主人公コンビがやらかすコメディじみたドタバタアクションで楽しませる。咸興や平壌といった都市の映像もそれらしく見せていた。 主人公2人がTVドラマについて話す場面では「愛の不時着」が出なかったが、どうもこの映画自体が似た性質のものらしい。ラブストーリーでは当然ないとしても、おっさん同士が抱き合って気絶している場面があったりして、南北の心理的距離が縮まる過程も描かれている。両人とも国家への忠誠心は不足のようだったが、国はどうでも人間同士がわかりあうことが統一への近道だということらしい。 最後は首都の復興が進んでいるのも見えており(その金はどこから出たのか?)、非常に清々しいラストになっている。加えて日本が出ないのが極めて好印象だったので悪い点はつけられない(ガッチャマンだけ余計だったが)。  登場人物としては、主演俳優の名前の「イ」とその役名の「リ」は同じ「李」だろうが、発音に南北の違いが出ているのは意図したことなのか。 個人的にはミン中士(閔中士Sergeant Min、白鳥のジュン相当/演:옥자연 玉子妍)の頑張りを応援していたが、途中でいなくなったのは残念だがほっとした。また青瓦台の民政首席秘書(演:전혜진 全慧珍)も結構好きだ。この人を守った警護官も格好いい。こういう役になりたい。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-01-29 11:28:30)(良:1票)
48.  夏時間 《ネタバレ》 
宣材写真からは昔懐かしい田舎の風景を想像するが、撮影場所の家は仁川にあるとのことで、実際は大都市圏の邸宅の話である。ただ庭に対して開放的な家の造りとか、菜園とか蚊帳(ピンク色!)とかが郷愁を誘う雰囲気なのは間違いない(蚊取り線香は見えなかった)。祖父の代にはかなり余裕のある一家だったように思われる。  物語としては、主人公の夏休みに起きた家族の出来事が淡々と表現されている。現実に起こりうることの範囲で作られていて“小さな奇跡”も何もなく、極端に作為的な展開もないので反発を覚えることもない。 全体的に受取りの自由度が高いようには見えるが、一般的には大人の事情や他者の動向に左右される主人公の心情に着目する観客が多かったらしい。しかし自分としては年齢性別のせいもあり、どちらかというと解体しかけてなお家族というものが持つ包容力や、癒しの力や伝える力といったものを感じた。 個人的事情としては自分の立場に近い(次第に近くなって来た)祖父に目が行く。衰えてはいるが家族の和を気にかける人物だったようで、今回たまたまながら家族に看取られたのは幸いだったと思われる。若干意味不明だったのは昼夜の逆転ということで、夜中の3時半に音楽を聴くなど高齢のせいとも思えるが、息子にしたという悪戯の話を聞けば、元からそういう変な遊び心のある人物だったのかも知れない。壁にかかっていた記念写真の時以降、この家で積み重ねられた家族の歴史を思わされる気はした。  もう一つ印象的だったのは、思いがけず優しい映画だったということである。主人公はいろいろな相手に反発していたが特に悪人はおらず、身内は家族思いの人ばかりで一緒の時間を大事にしている。叔母の夫が悪魔というのも恐らく誇張があり、また主人公の彼氏というのも善良な男のように見える。全体的に見ても、表立って誰をも傷つけようとせず、静かに思いを語ろうとする映画のように感じられた。 ほか登場人物に関して、主人公は整形を考えるよりも今のままで自信をもってもらいたい。またその弟はなかなか愛嬌のある奴だったが、御霊前でダンスを始めたのはいいとして(祖父も笑って見ていただろうが)、歌詞がひどいのは笑わされた。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-11-20 10:43:39)
49.  セデック・バレ 第一部 太陽旗 《ネタバレ》 
台湾の先住民(台湾での呼称は「原住民(族)」)を扱った映画で、具体的には1930年の「霧社事件」に焦点を当てている。首狩り族というと印象は悪いが、昔の日本でも手柄の証拠として首級を持ち帰るのは普通にあったわけで、意外にも台湾の山中に武士が残っていたということらしい。殺された日本人の方が「武士の末裔」だなどと叫んでいたのは笑わせた(嘲笑)。 事件の場面はこの第一部の最後に出るが、ここで誰が見ても殺されて仕方ないと思わせる連中が真っ先に殺されたのは納得のいく作りになっている。特に男尊女卑の染みついた下司な男(上の世代の日本人にいた)や、自分の劣等感か何かのせいで弱い立場の者を踏みつけにするひねくれた男(どこにでもいる)などは早く殺されないかと心待ちにしていた。それ以外で殺された日本人は災難だったが、異質な集団と接する最前線にはこういうリスクがあると思わなければならない。  この第一部では、個人的には民族集団が大規模な侵略を受けた際にどう対応するかの問題かと思って見ていた。最初に激烈な抵抗をしておいて、その後は集団の存続のため忍従していたが、ここでまた改めて反撃を企てた形になっている。 しかし民族の誇りを守るのはいいとして、単なるテロ攻撃では自滅するのと同じというのは主人公本人も言っていたはずである。また戦える男の首を取るのは名誉としても、日本人の女子供まで皆殺しにしたことの理屈はついていたかどうか。侵略民の繁殖拡大を食い止めるための全数駆除なら意味はわかるが、しかし日本人全部を絶滅するなどできないことはわかっていたはずではないか。主人公も若い頃とは違って指導者としての分別を備えた人格者に見えたが、事件の後の落としどころまで考えていたのかどうか、この第一部ではわからなかった。 なお注意点としては、この映画では日本人が矢面に立っているが、日本人が来る前は漢人との間でも同様のことがあったのではないかということである。また先住民同士でも狩場をめぐる争闘が日常的だったことは劇中に示されており、人間集団の間に必ず起きる争いが、この映画ではたまたま先住民と日本人との間で起きたというように取れる。仮に日本人が悪とするなら漢人も先住民もみな悪ということになるわけだが、あるいは劇中で、男のプライドが女を苦しめるという意味の歌が聞かれたのは、男こそが悪の根源だということかも知れない(現代風解釈か)。  そのほか特徴的なのは先住民の歌が多用されていたことで、特に渓流で主人公と先代が輪唱した場面は印象的だった。また金玉を握る場面も印象的だった(痛々しいが笑った)。主人公は苦みと渋みが顔に出たナイスオヤジだった。
[DVD(字幕)] 7点(2021-10-16 14:28:47)
50.  提督の艦隊 《ネタバレ》 
原題の「ミヒール・デ・ロイテル」は17世紀オランダの提督の名前である。 冒頭の場面で、ここはどこかと思っているといきなり海戦中だったのは驚かされたが、その後も全編を通じて帆船時代の戦列艦の戦闘場面がそれらしく作ってある。戦術的なことはよくわからなかったが、敵本国の港にいる艦隊を「海兵隊」(陸戦隊)で襲撃した場面と、オランダ艦の喫水が浅くできているのが映像化されていたのは印象的だった。ちなみに一般人の応援団が海辺で観戦するのがオランダ風なのかと思った。  ドラマ部分は複雑な政治史が背景にあるのでわかりにくいが、要は国内で敵味方を分断する政治闘争に巻き込まれながらも、主人公がいわば軍人としての分を守り(家族も守りながら)、党派を超えてオランダという国のために働いたことを顕彰する映画だったらしい。結果として、21世紀のオランダにも愛国心のようなものがあるらしいとは思わされた。 戦闘での無惨な場面はそれほどないが、劇中で最も残酷だったのは海戦ではなく、陸で民衆がやらかした虐殺だった(写実的絵画が残されている)。またどうでもいいことだが、最初の海戦の場所は字幕で「スヘフェニンゲン」と書いてあるが、これは「キンタマーニ」や「エロマンガ島」と並ぶ世界の珍地名として知られる「スケベニンゲン」のことである。  ちなみに自分がこの映画を見た動機は、トロンプとデ・ロイテルという、個人的に名前を知っていた数少ないオランダ人が出ていたことである。太平洋戦争の開戦当初、この2人の名前のついたオランダ軍艦が現在のインドネシアにいて、うち軽巡洋艦デ・ロイテルは昭和17年2月のスラバヤ沖海戦で日本海軍が撃沈したので日本でも知られているが、同じ名前はこれまで何度もオランダ軍艦の名前に使われており(今もある)、主人公がオランダ海軍で英雄扱いされてきたことが知れる。ほか劇中で主人公の盟友になった首相も、現代のドック型揚陸艦ヨハン・デ・ウィットに名前が使われているので、オランダではそれなりの偉人であるらしい。 この映画ではオランダとイギリスが戦争し、また第二次大戦ではどちらも日本とは敵味方だったわけだが、現代ではイギリスの空母とオランダの軍艦が一緒に太平洋に来て、海上自衛隊と共同訓練したりして(2021.8.25)、世界の枠組みも変わっていくものだという感慨がある。いわゆる昨日の敵は今日の友というようなことかと一応思っておく。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-09-18 09:58:13)
51.  悪魔の奴隷 《ネタバレ》 
一部で知られた「夜霧のジョギジョギ(モンスター)」のリメイク版である。劇中年代が現代ではなく1981年なのはリメイクの本気度を示したのか、あるいは時代回顧的な意味もあるのかも知れない。 題名に関しては、前作の英題が”Satan's Slave”だったのに対し今作は”Satan's Slaves”になっているが、インドネシア語に複数形はないとのことで原題は同じ”Pengabdi Setan”である。邦題は前作のようなふざけた名前ではなく原題そのままであり、これは実際に見て感じる印象の表現になっている(あまり笑えない)。  リメイク版のため、「ラーイラーハイッラッラー」とか「トニー...」とか喘息気味の人物とかバイクの事故といったオマージュらしいものは結構見える。しかし前回の年代物映画とは違い、今回はちゃんと現代的なホラーになっていたのは感動的だった。 最初がいきなり無音で虫の声から入るとか、オープニングの物悲しい音楽が流れたあたりでまずは期待させられる。基本は家で何かに襲われるパターンだが、あからさまなドッキリで飛び上がるようなところもあって結構怖がらされた。個人的には屋内の水場(上下水を集約?)を使うのが特徴的に思われたのと、一神教の渡来以前からある邪悪な勢力の存在を感じさせたのも恐ろしげに見えた。 物語上は、神を信じない一家が悪魔に狙われる、という設定を踏襲したようでいて実はそれほど単純でもなく、信仰と家族とオカルトのどれが頼れるのかを迷わせながら進行する。少し手が込んでいると思ったのは、真相に関する劇中の発言はあくまでその時点の見解なり解釈または方便に過ぎず、最終的な結論はラストの場面を待つ必要があることだった。結果として「家族が見放さなければ」は正しかったらしい。また英題のslaveを複数形にしたのもそれなりの含みが感じられる。 登場人物としては主人公が変に肉感的な女性だったのと、その弟3人がかなり愛嬌のある連中なのが目についた。  なおこの映画で見た限り、現地ではイスラム教が絶対視されているわけでもなく、むしろ家族が大事というようでもある。終幕場面で観客を誘惑する目つきだった女性が前作の主人公と同じ名前らしい(Darmina/Darminah)のも、やはり信仰心が不足していたという意味か。 また前作で出ていた伝統的な呪術の代わりに、今回は少し現代的なオカルトを前面に出したらしい。劇中の「MAYA」は主人公に「低俗な雑誌」と言われてしまっていたが、これは日本の「ムー」のようなものかと思って笑った。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-08-28 09:18:58)
52.  天空からの招待状 《ネタバレ》 
監督の齊柏林氏はもともと航空写真家で、自分が空から見てきた台湾の姿を紹介するため一念発起して空撮ドキュメンタリー映画の製作に取り組んだとのことである。それで大成功を収めたが、続編を撮影中の2017年にヘリコプターの墜落事故で亡くなったというのが痛ましい。 この映画も全て空からの撮影で、スケール感が失われて地形が模様に見える高度から、人々の表情がわかる低空での映像もある。自然景観や人々の暮らし、伝統的な一次産業は好意的に撮られており、水田らしき場所で水路に陽光が反射したのはキラリと光る一等地の圃場だというアピールに見えた。また人々が農作業をしている両側で、緑の植物が風になびいて流れるような構図は見事だった。 一方で否定的に扱われた人工物として、海に接する排水口(大潭発電所?)の映像は戦慄を催した。また土砂採取の現場が何本もの虫食い跡のように見えたのも気色悪い。  当然ながら単なる空撮映像の羅列というわけではなく、故郷の島を母親にたとえ、その子である人間が都合よく使うだけでなく労わることが大事だと訴えている。監督が長年空から見て問題だと思ってきたことが、地表の人々には見えていないという危機感が根本にあったらしい。 具体的な問題点としては、まずは山地開発による山崩れや土砂流出といったことが印象づけられる。また西海岸の養魚場で地下水を大量に使用するため地盤沈下が発生し、墓地も浸水して「土葬が水葬になった」というのは、「熱帯魚」(1995)の映像でも見えていた気がする。ほか水質汚濁や廃棄物処理など環境保全の基本的事項とともに、近年の時流に乗った形で石炭火力の問題を指摘するとか有機農産物への取組みを紹介していた。 日本人の感覚としては、今さらそれを言われても、というのもなくはなかったが、しかしさすがにこれはまずくないかと思ったのは、大都市近郊の急峻な山地で稜線を削って高層住宅などが建設されている場所だった。傾斜の度合いが多摩丘陵などと比べ物にならないわけで、今の日本でいえばメガソーラーによる環境破壊が危惧されていることにつながるかと思った。  なお今回初めてじっくり見たのが、台湾の最高峰である「玉山」(3,952m)の姿だった。いわゆる新高山(ニイタカヤマ)だが、ノボレと言われても険しいのでどこから登るかわからず無理そうに見える。しかしこの映画のために「台湾原声童声合唱団」の子どもらが登り、狭い主峯の上で揃ってパフォーマンスをやっていたのはご苦労様だった。マイナス2度だったとのことだがみんな笑顔で、若い人々が元気なのは大変いいことだと思わされた。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2021-08-14 09:33:09)
53.  ザ・ライフルマン 《ネタバレ》 
ラトビアの作家アレクサンドルス・グリーンス(1895-1941)の小説を原作にした歴史映画である。原作者自身の従軍体験が反映されているそうだが、本人は第二次大戦時にソビエト政権に殺害されてこの本も禁書になっていたとのことで、それを作中の時代から100年後に初めて映画化したという意義があるらしい。 邦題の由来は、第一次世界大戦時のロシア帝国時代にラトビアで編成され、後にその多くがロシア赤軍に加わったラトビア・ライフル兵部隊(Latvian Riflemen / Latviešu strēlnieki)で、ソビエト時代の記念像が首都リガに建っている(むかし見たことがあるが今もあるらしい)。映画はバルト海に近いスロカ(Sloka、墓地と記念碑あり)での戦いに始まり、死の島(Nāves sala)、「クリスマスの戦い」(Christmas Battles / Ziemassvētku kaujas)、「ツェーシスの戦い」(Battle of Cēsis / Cēsu kaujas)の各戦闘を追っていく形になっている。 ストーリーとしては、母親をドイツ軍に殺された主人公がライフル兵部隊に志願してドイツと戦ったが、ロシア帝国には裏切られ、その後に参加した赤軍にも裏切られて、最後に加わった新編成のラトビア国軍で、真にラトビア人のために戦ったということになっている。歴史的には、終盤のツェーシスの戦い(1919年6月)でドイツ勢力を敗北させたことでラトビア(とエストニア)の独立が固まったらしいが、この映画で見る限り、亡霊の軍隊の加勢まで得てやっと勝てたかのような印象だった。  主人公はまだ16歳で従軍し、最初は軍隊に向いてないのではと思わせるところもあったが、最後は新生ラトビア軍の新兵のために、最前線で身をもって(OJTで)教官役を果たすまでになる。ラトビア国軍は「子供と脱走兵と難民※」の軍隊だと言われていた通り、本当に子どもばかりで痛々しく、志願者の母親が嘆いていたのも大変ごもっともなことだった。 ※字幕の「難民」は外国人ではなく、当初の主人公と同じように家を失った地元民の意味と思われる。 かなり悲惨な戦いだったが一応の事情をいえば、ラトビア人がまとまって作った国はそれまで存在したことがなく(エストニア人と一緒くたにドイツ人支配→ロシア支配)、この時初めてラトビアという国の枠組ができたのであり、その後の独立国の時代とソビエト連邦構成共和国の時代を経て、再び現在の独立国につながった元がこの時だったということである。ラトビアを愛する人々の立場では、こんな悲惨な戦争をしてまで作った国をこれからも大事に守っていこう、というのが本来の受取り方と思われる。 そうは思っても、さすがにこんなガキ連中に鉄砲を持たせるのはやめておけ、と言いたくはなったので、部外者としてどう思うべきか微妙な感じの映画ではあった。あるいはこの映画自体が、現代の普通の感覚を微妙に反映させておこうとしたのかとも思った。  具体的な場面としては、冬の戦闘では積雪はあまりないようだったが、敵陣の土盛りが凍結して滑るため、銃剣の先で足場を作っていたのは原作者の実体験かも知れない。またエンドロールの背景では、映画でも参考にした当時の写真が出ていたようで、この時代の記憶を映像として後世に伝える意味はあったらしい。ほかどうでもいいことだが、序盤で母親が主人公を撫でていたのは犬の扱いのようだった。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2021-03-06 09:10:00)
54.  とうもろこしの島 《ネタバレ》 
基本はグルジア(今でいうジョージア)の映画だろうが、その他いろいろな国から支援を集めて作ったらしい。役者としては、祖父役はトルコ出身のクルド人のようで、また孫娘役は名字からしてグルジア人に見える。いずれにせよアブハズ語の話者ではないだろうが、台詞が少ないのでボロが出ないで済んだかも知れない。 題名の島は、最初に全貌が見えた時点では本当に小さい中州だが、やがてそれなりの畑地ができていくのは見事と思わせる。撮影は2013年の4~9月とのことで、季節が変化すると作物が伸びて人の衣服も変わっていた(体型が透けて見えすぎだ)。  ところで他の映画レビューサイトを見ると、最後に出た男は全く別の登場人物と思うのが普通らしいが、個人的には祖父によく似た人物かと思った(鼻など)。ただし少し若く見えるので、これは例えば祖父の息子(孫娘の父)が、最初にここで人形を見つけた時点まで遡ったと思うこともできる。この人形は娘にとっていわば父親の形見なのかも知れないが、祖父が最初にここで発見したのも息子の遺品だったのではないか。土地は耕す者のものだという言葉そのままに、祖父は息子の土地だったこの場所を、いわば自分の領土として守り抜こうとしたと取れる。 「戦争でのうても人は亡くなる」という別映画の台詞を思わせる結末になってしまったが、しかしそれほど柔な男でもなく、しぶとく生き延びて孫娘の成長を見届けたはずだと個人的には思いたかった。よくわからないところもあったが結果として、戦争があっても自然の猛威があってもこうして人間は生きている、ということを訴えたかったようではある。あるいは国家も耕作者も区別なく、人間の土地に対する支配など永続するものではない、というのが真意かも知れない。  ほか個別のこととして、負傷したグルジア兵に対しては祖父としても思うところがあったらしい(ポケットの遺品に手をやっていた)が、最後はもうこの男を軍隊には戻したくないと思っていたようだった。 また思春期の孫娘が変に色気づいていくのは心配させられた。トウモロコシ畑でつかまえて状態で翻弄されまくった男は哀れだったが(バカみたいだ)、その後の収穫時に孫娘が手を切ってしまい、軍手とかはしないのか、と思っていたらいきなり泣き出したので笑ってしまった(笑ってごめんなさい)。こんな乙女心には付き合いきれない。祖父も大変だ。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-02-20 09:29:38)
55.  夕凪の街 桜の国2018<TVM> 《ネタバレ》 
NHK広島が制作して2018/8/6に放送された特集ドラマで、現在はNHKオンデマンドで見られる。ちなみにタイトルバックの空撮では、手前に「この世界の片隅に」に出る江波山も映っている。 原作と比較すると、現代パートを2004年から2018年にずらしているのが最大の違いである。つまり「桜の国(二)」の出来事が2004年には起こらず、形を変えて2018年に起きたことになっている。主人公の石川七海は40過ぎ(独身)、また広島への同行者は弟の娘の石川風子という人物(高校生)になっており、昭和30年の皆実から姪の七海へ、そこからまた姪の風子へとつながる形を作ったらしい。風子という名前は、皮肉をいえば昔の記憶が風化してきたという意味かも知れないが、真面目にいえば凪のあとにまた新しい風が吹き始めたという感じを出している。なおその母親である東子さんは顔が出ないが、原作の出来事がなくても結婚できたようで、いまは看護師長だそうである。  全体構造としては「桜の国(二)」に相当する現代パートを軸にして、途中に「夕凪の街」をほとんど全部入れており、終わりの方で端折り気味ながら「桜の国(一)」も扱っている。2007年公開の実写映画で現代パートが不要とまで酷評された難点は改善され、一応それほど違和感なく全体を72分に収めた形になっている。 原作にない部分としては「桜の国(一)」の途中に、いわゆる「原爆スラム」に関するエピソードを加えている。これはストーリーの説得力を増す意味はあるようだが、ほかに何か世間的な配慮の必要でもあったのかと思った。一方で登場人物が東京へ帰らないまま終わり、原作で非常に印象的だった「決めたのだ」の場面はなく、そもそも桜は申し訳程度にしか出ない。 ただ全体的に、原作にある個別の場面や台詞はかなり生かしており、また西武鉄道とか西東京の病院とか、「…のだ」「それよか…」といった言葉づかいからも、原作読者に気を使っている様子は見える。ワンピースを作る場面では、原作の可愛らしい絵柄を再現できていたようで嬉しくなった。  物語の面では、やはり「夕凪の街」の印象が強くなっており、「桜の国」の方は主人公の心のわだかまりが曖昧なためそれほど感動的でもない。ただ高校生の姪が、墓地で故人の没年月日を見て「本当にあったことなんだね」と言ったのは、年長者には“今の若い者は…”と嘆かれるかも知れないが、自分が現地で実際に見てもそう思うかも知れないとは思った。世代も変わって記憶が途切れそうだったところを、若い人を含めてしっかり思いを受け継いだ話になっており、広島のNHKが8/6向けに現代の感覚で作る、という条件下では悪くないドラマだったかも知れない。 なお登場人物としては、皆実役の女優は2007年の映画より個人的に好きだ(アイドルっぽくはない)。また小芝風花さんの熱演場面は新作エピソードに置かれていたが、その後の「誰も来てんなかったね」の台詞もちゃんとあった。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-01-02 10:26:05)
56.  WAR OF THE SUN カウラ事件-太陽への脱出 《ネタバレ》 
カウラ事件とは太平洋戦争中の1944年8月に、オーストラリア国内の捕虜収容所から日本兵が大挙して脱走した事件である。この映画はその事件から始まるが、事件自体の描写というよりも、事件の場を借りた戦争と人間のドラマになっている。  映画の中心になるのは日本兵の田中マサルと、近隣に住むオーストラリア人の主人公の交流である。日本人が従軍したのは第二次世界大戦、オーストラリア人は第一次世界大戦という形でずらすことで敵味方の対立関係を弱めている。また残虐無比なはずの日本兵の田中が実は人を殺したことがなく(多分)、オーストラリア人の主人公の方がよほど人を殺してきたというのもいわば逆転の発想である。 物語は日豪の意識の違いを軸にして展開するが、まず問題になるのは“生きて捕虜になるな”という日本側の規律である。当時の人命軽視の姿勢が非難されるべきなのは間違いないが、しかしこれを“決死の覚悟で戦え”という意味に解すれば、豪側の“逃げずに最後まで戦え”とほとんど同列の戦時道徳であり、特に優劣を語るようなものではないようでもある。 また日本兵の田中が自決した者に敬意を払っていたのは、自ら死ぬことが本人にとってどれだけつらいかと思うからとのことだった。単に自分が死にたくないことの裏返しではあるが、それを他者にも敷衍することで、生命の重さをより強く感じていたとも解される。一方その田中が戦友の生命を断ったのは、本人の意向を受けて、相手の思いを自分の思いに優先させたからに違いない。あるいは単純に人を殺さない、または断固として延命させるといった普通一般の倫理規範を越えて、人としての尊厳を守ろうとしたのではなかったか。 これに対し、逃げられない主人公にとっての第一次大戦は今も終わっておらず、助けられなかった戦友や殺した敵兵の亡霊(幻影)に苦しめられ、怒りだけが生きる糧というのは戦争犠牲者の一つの姿といえる。そのほか故郷に身寄りがなかったらしい日本兵の山本は、自殺に理由を求めていただけの寂しい男ということになるかも知れないが、主人公の境遇(生き地獄)とどちらがましかは何ともいえない。  結果的にはよくわからないが、ここから何らかの確定的な結論を導くというよりも、日豪の人々がわかり合える接点を探るための映画なのかと思った。そうだとすれば、カウラの日本人墓地がその後に日豪交流の象徴的な場所になったことにふさわしい映画かも知れない。娯楽性は全くないが極めて真面目な映画のようだった。 ちなみに劇中の日本兵はオーストラリアで活動している日本人役者とのことで、日本語には全く問題がなく、逆に英語を話せるのが不自然だった。
[DVD(字幕)] 7点(2020-12-19 08:58:16)
57.  ウィッチクラフト 黒魔術の追跡者 《ネタバレ》 
映画紹介の通り「黒魔術VS人身売買組織」である。 売春目的の人身売買組織と政治家・役人が結託しているという設定で、映画的な誇張があるのだろうと思ったら、現実にこういう根深い問題が存在するとの報道もあって全く洒落にならない。娯楽映画なので社会批判が主目的ではないのだろうが、逆にそれが常態化しているのを普通に背景にした映画のようでもある。 撮影場所はブエノスアイレスに近いサン・アントニオ・デ・アレコという小都市で、エンドロールに自治体のロゴが出ていた。市長が人身売買に加担する映画などによく協力したものだと思うが、逆に堂々と名前を出すことで、うちはそういう所ではないとアピールしていたのかも知れない(信用できないが)。当然ながらこういう映画ができているということは、アルゼンチン社会にも良心は存在するはずだと思っておく。  主人公は黒魔術の使い手ながら、あまりに弱く痛快な場面もないのは娯楽映画としては厳しいが、最後に知恵と気合いで乗り切ったのは立派というしかない。母の力にはどんな悪人も敵わないということだ。 周辺住民には忌避されていても、当人としては心優しく非情になり切れない人物だったようで、そこが最大の弱点だったのかも知れない。ヤギはともかく人は殺していなかったが、最後の炎上だけは女神様の許諾か勧奨があったのか、あるいは女神様が直接手を下したということか。いちいち代償を前払いするのが痛々しく、最後の捧げ物はかなり気の毒だったが、それでも娘(及び他の少女たち)を救えないよりはるかにましだという点で、持っていてよかった能力であることは間違いない。 なお想像だが、かつて主人公が流産しかけたのを救ったのは祖母だったかも知れない。  登場人物では、主人公はけっこう可愛気のあるおっ母さんで、女優は1974年生まれだが劇中設定としては30代と思われる(推定例:17+17=34)。魔女の乗物としては自転車を愛用しており、小汚い格好ばかりでなく、パーティーにはそれなりの服装(場違い?)で行っていたので世間並みを心掛けていたらしい。またその娘が魔術の力量を示すために母親に呪いをかけていたのは笑った。確かに携帯電話は不要だ。 ほか自宅の設えが魔女っぽいのはいい感じだった。ギター入りのテーマ曲も心に染みる。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-09-26 09:27:43)
58.  ウィッチ 《ネタバレ》 
アメリカ開拓時代の最初期に当たる17世紀という設定で、場所はニューイングランドとのことだがマサチューセッツを想定していたらしい。なお撮影場所はカナダのオンタリオ州とのことである。 エンディングの説明によれば、各種の記録に基づいて古い時代の魔女像を再現しようとした映画ということになる。時代設定からすると、先住民の社会で伝えられてきた魔物にヨーロッパ人が初めて遭遇したというような話かと思ったら全くそうではなく、出るのはヨーロッパ風の魔女である。イングランドから最初の移民が来た時点で現地在住の魔女が既にいたというのも変なので、いわばキリスト教徒(清教徒)と魔女が一緒に渡来したようなものだったと思うしかない。 監督インタビューによれば、主人公のモデルはエリザベス・ナップ(Elizabeth Knapp)という実在の人物だそうである。思春期の少女が悪霊に憑かれた話とすればありきたりなようだが、あるいは「セイラム魔女裁判」(1692~1693)のような事件の背景を表現した映画かも知れない。個人的には「魔女」(1922)の各論編という印象だった。  全体的には陰鬱で不穏な雰囲気の中で神経に障る出来事が起きていく展開で、ホラーとしては地味だが悪くない。魔女が出る場面は多くないが、妖艶な美女とか単なるババア(裸)とか夜会に集まった連中(裸)とかがいたようである。 物語的には宗教色が強いようでよくわからない。要は厳格な宗教で抑圧されていた少女が解放?された話かも知れないが、その辺は個人的に共感するものではない。部外者なりにいわせてもらうと、教義のようなもので固めた世界観は危機にかえって脆いというように見えた。母親のように、一神教を現世利益的に捉えるのは無理がある。また父親に関しては、旧約聖書の「ヨブ記」のように神の試練に耐えようとしたものの、それより一番大事なのはやはり家族だ、と思ってしまったことで罰せられたという意味なのか。最後に薪の山が崩れたのは物悲しく見えた。 ほかに哀れなのが健気な弟だった。姉をそういう目で見るなとは思うが、彼が罪人というなら人類など全て死滅した方がいい。  出演者に関しては、主演は可憐で個性的な美少女だが、裸になると少し肉付きがよすぎるように見えた(後姿)のは意外だった。また悪魔に欺かれて地獄に堕ちた子役の演技が印象的だった。
[DVD(字幕)] 7点(2020-09-26 09:27:39)
59.  ナイトメアは欲情する 《ネタバレ》 
リトアニア映画である。研究者が話す英語以外はリトアニア語だったのだろうから、変な医学の実験がリトアニアの医療機関で行われたという設定だったらしい。物語的には正直よくわからない話で、個別の出来事を一つひとつ解釈していくのは難しいが、わかりそうなところだけ適当につなぐと次のようになる。 【ここから解釈】 女性に関しては、当初ただ寝ていたところに主人公が来て、「眠れる森の美女」のように目覚めさせたのが運命の出会いになったらしい。しばらくは相手が誰かもわからないまま過ごしていたが、やがて薬の作用で前の男を思い出し、その男を主人公がちゃんと殺したことで、昏睡に至った現実をしっかり受け止めたと思われる。主人公の献身によって人の心を取り戻し、主人公を恋人として受け入れた上で、ちゃんと現実世界で目覚めてから死んでいったというハッピーエンドかも知れない。 主人公の男は何を考えていたのか不明だが、女性の死期が近いことは初めからわかっており、それまでの間に、劇中で実際にやったことをやろうとしていたと思われる。研究者としての立場も恋人も捨てて、女性の魂を救うことに賭けたということか。あるいは自分が現実世界で得られなかった、心が直接つながる恋人を得る体験をしたのかも知れない。 【ここまで解釈】  ところで予告通りエロい場面は多少あったが(ボカシだらけだ)、観客が見るだけなのは当然として、もしかして主人公の男も性欲が亢進するばかりで充足していなかったのか(実験中に放出するとまずいので?)。物理的な行為を伴わない精神世界の性愛だったのかも知れないが、女性としてはこれで満足だったのかどうか。 またその精神世界の映像は結構面白い。女性の家は木材を積み上げた/崩れたような建物(障子窓のようなものがある)で、アートっぽい風景の中に変なグロいものが生成されているのがファンタジックな印象だった。また泳いでいる自覚はあるが周囲は見えていないとか、車で走っていた道がいつの間にか劇場の階段になり、その劇場で何を見たかはわからないがとにかく彼女と一緒にいた、といった、いかにも夢に出そうなことをまともに映像化していたのはよかった。 個人的には特に共感できたわけでもないが、妙な邦題からイメージされる軽薄なエロ映画では全くないので、少しいい点を付けておかなければ済まない。
[DVD(字幕)] 7点(2020-09-05 08:26:45)
60.  本当の目的 《ネタバレ》 
製作国は今でいう北マケドニアとコソボである。撮影は全てマケドニアだったそうだが、言語はマケドニア語のほかアルバニア語(コソボの主要言語)が使われているとのことで、終盤の男連中(コソボの役者)が話していたのがアルバニア語だったのかも知れない。なお景観が印象的な湖はマケドニア・アルバニア・ギリシャの国境にあるプレスパ湖だったらしい。 内容的にはミステリー調の物語で、最初は見ず知らずだった女性2人が、原題の「9月の3日間」を通じて互いに理解し共感し合い、最後に何事かをなす展開になる。初めのうちは人物像もわからず突き放した気分で見ていたが、その後次第に愛着もわいて来て、最後はそれぞれ納得のいくよう決着してもらいたいと願いながら見ていた。 ちなみにヘイトと言われるかも知れないが、個人的には普段から白人女性の外見をあまり魅力的に感じないことが多いので、この映画でも主要人物2人とも可愛くないのが出て来たなと思っていた。しかし後になるとそれぞれ外見的にも人物的にも格段に魅力が増し、特に「売春婦」と言われた人物が終盤いきなり清楚系に化けたのは意外だった。  ほか社会的なテーマに関して、まず元大臣が建設したホテルの件は、地元貢献なのか汚職による蓄財か、あるいは単に現地の歴史的習慣なのかも知れないがよくわからない。また女性への性的虐待に関する問題意識が根底にあったようで、主要人物の境遇もそうだが、特に引っかかったのが「この国自体が売春宿みたいなもの」という発言だった。 劇中では、警察官が反社会的勢力と結託して「売春宿」を作ろうとし、これを「質のいいやつ」にするために、「放浪してる女」ではなくロシア人を使うつもりだと言っていた。ここでロシア人が上物扱いというのもどうかと思ったが、下に見られた「放浪してる女」という字幕のところで、原語の台詞ではЦиганки(ロマまたはアッシュカリー?の女性)とかМолдавки(近年ヨーロッパで最貧国扱いされているモルドバ共和国の女性)と具体的に特定していたらしいのはかなり侮辱的に聞こえた。これが現地の実態なのだとすれば結構厳しい告発になっている。 ちなみにネット上にあったモルドバ人女性の人身売買の記事(マケドニア語、2004.10.17)によれば、売られる先は主にロシア・トルコ・バルカン半島だそうで、マケドニアでも警察官が仲介した事例があったとされていた。この映画も適当な作り話ではなかったらしい。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-08-29 08:25:06)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS