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dreamerさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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自己紹介 映画を観る楽しみ方の一つとして、主演のスター俳優・演技派俳優、渋い脇役俳優などに注目して、胸をワクワクさせながら観るという事があります。このレビューでは、極力、その出演俳優に着目して、映画への限りなき愛も含めてコメントしていきたいと思っています。

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61.  影の軍隊(1969) 《ネタバレ》 
「サムライ」「仁義」などの一連のフィルム・ノワールで私を魅了したジャン=ピエール・メルヴィル監督の「影の軍隊」は、レジスタンスに身を投じた人間たちの姿をセミ・ドキュメントタッチで描いた社会派サスペンス映画です。  全編を覆うダークな色調。使命を果たすためには、愛する者すべてを捨てなければならない非情な世界で、自己を引き裂かれ、葛藤する男や女たち。 彼らの胸中をよぎる悲哀と情念のたぎりは、まさに"フィルム・ノワールの世界"そのもので、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の簡潔で切れ味鋭い演出の技が冴えわたります。  この映画の主演俳優リノ・ヴァンチュラは、ボクサー上がりの体型通り、いつも見るからにタフな奴を演じてきたと思います。 だが、ただただ鋼鉄のごとく頑強な男というわけではないのです。 ある瞬間、フッと垣間見せる弱さ、脆さ。その時こそ、演技者としてのリノ・ヴァンチュラの真骨頂が発揮されるのです。  この「影の軍隊」でも、ゲシュタポに捕まった彼は、銃口の前に立たされ、その場に踏み止まり銃弾を浴びるか、誇りを捨て脱兎のごとく走り逃げるかの選択を迫られます。 レジスタンスとしての意志を貫こうと死を覚悟しながら、降りかかる銃弾の雨に、思わず走り出すヴァンチュラ。  辛うじて生き延び、本心は死ぬのが怖いと呟く彼の悲痛と絶望に疲弊した面持ちは、逆に人間本来のあり様と生と死の重みをを映し出し、緊迫したドラマ展開の中で、生身の人間の肌の温もりにも似た一種の安堵感を覚えさせてくれました。  人間の感情の二律背反をごく自然な演技で、しかもまざまざと見せつけるヴァンチュラの演技はとても素晴らしいと思います。  ひしゃげた鼻と猪首、それほど背丈はないが、むっちりと肉の付いた雄牛の如き体軀は、お世辞にも眉目秀麗とは言えません。 だが、他人の同情を拒絶するような厳つい肩に揺らめく"孤独の影"はなぜか妙に愛おしく、男心をそそらずにはおかない男の魅力は、誰よりも強烈なものがあると思います。
[DVD(字幕)] 8点(2019-03-30 16:53:27)(良:1票)
62.  マリアの恋人 《ネタバレ》 
この映画「マリアの恋人」は、ロシアでツルゲーネフの「貴族の巣」やチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を撮ったアンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー監督がハリウッドへ進出して撮った作品です。  コンチャロフスキー監督の特質は、人間の精神の問題を日常生活の中で"ささいで、極限的"なシチュエーションで現代社会の風景を描くところにあると思っています。  この「マリアの恋人」は、「チェベングール」をはじめとする一部の作品が発禁になっていたアンドレイ・プラトーノフの原作ですが、マリアという名前が象徴しているように、この映画は一種の処女懐胎の物語だと思います。  戦争から帰還したジョン・サベージ扮するイバンは、以前から愛していたマリアと結婚する。 しかし、余りにも純粋に精神的に愛しすぎたために、結婚を果たしてもマリアの前では性的不能者となってしまう。  焦燥感にかられ町を去るイバン。一方、マリアは流れ者の歌手に肉欲を煽られ、身ごもってしまう。 しかし、このことが原因で、初めてイバンとマリアは結ばれる。  崇高な愛と肉欲とは相い容れるのだろうかという、永遠の問題をテーマにしていますが、映画は結論に性急ではありません。  この映画はハリウッドへ行ったコンチャロフスキー監督の祖国ロシアへの思いが込められた映画のような気がします。 原作はアンドレイ・プラトーノフだし、マリアもイバン(字幕ではイバンとなっていましたが、本当はイワンが正しいと思います)もロシア名です。  そして、マリアはユーゴスラビアからの亡命者ということはセリフからもわかります。 舞台はアメリカですが、帰還式のパーティでおばあさんたちの数人の衣装がロシア風だし、踊りも、歌もロシア風なものが出てくるからです。  結婚式を挙げる教会は、ギリシャ正教のように見え、ひょっとしたら村全体が亡命者の村なのかもしれません。 そして、何よりも椅子が置かれた高原の風景は、コンチャロフスキー監督のロシアへの望郷の思いの表現であるようにも見えます。
[DVD(字幕)] 7点(2019-03-30 09:34:23)
63.  緑色の部屋 《ネタバレ》 
フランソワ・トリュフォー監督の「緑色の部屋」は、後ろ向きの人生まっしぐらの男の物語です。  かつて観た「海の上のピアニスト」の主人公に共感できなかったように、この映画の主人公ジュリアン・ダヴェンヌ(フランソワ・トリュフォー)にも全く共感できませんでした。  ある意味、非常にグロテスクな映画だと言えます。彼は死者しか愛せないのです。もちろん、死体愛好者ではなく、死んだ人が全く忘れられないということなのです。 そして、この映画はホラー映画でもサスペンス映画でもありません。ある異常な男の人生ドラマです。  人間は誰でもいずれは死にますが、かといって死ぬために生まれてきたわけではなく、生きるために生れてきた存在のはずです。 最愛の人を亡くせば、絶望のどん底にたたき落とされるのはよくわかります。 配偶者や恋人や両親や子供を亡くしたことのある人なら、誰でも経験することです。  しばらくは頭も真っ白になったり、呆然としたり、死にたくなるほど落ち込みますが、ごく普通の人なら、そのうち時が経てば心も落ち着いてくるものです。 親しい人の死の悲しみを乗り越え、自分の「生」も取り戻すことができるのです。  ところが、この映画のダヴェンヌはそうではないのです。 新婚時代に妻を亡くした彼は、ずっと妻を想い、妻の遺品に囲まれた部屋で時を過ごしたり、頻繁に墓参りに行ったり、別の土地でのいい仕事の話しがあっても断ったり-----。  彼は新聞社で死亡記事を書くことが仕事で、死亡記事を書かせたら、彼の右に出る者がいません。まさに彼の生活の中心は「死者」なのです。  この違和感満点の陰気な男を、フランソワ・トリュフォーは実に見事に演じています。 脚本もトリュフォー自身が書き、当然のことながら監督もし、彼自身が主演もしているという入れ込みようです。  そして、もう一点、見事なのはカメラワークです。 ほの暗い空間に無数に灯されたロウソクの光が幻想的で美しく、壁に貼られた数々の死者の写真が思い切り辛気くさく、なんとも言えない怖さが伝わってきます。  この主人公には全く共感できないのですが、映画としては傑作だと思います。 この何とも言えない"妖しい雰囲気"には、観ていてゾクゾクしました。 死者を想い続ける主人公の妄執は、とにかく陰鬱なのですが、考えてみれば、確かに世の中にはきっとこういう人もいるだろうなと思わせられます。  ダヴェンヌの前に現われるセシリア(ナタリー・バイ)という美しい女性との関わり合いも、とても切なくて印象的でした。  これからも、トリュフォー作品をこまめに観ていきたいと思っています。
[ビデオ(字幕)] 7点(2019-03-28 20:24:23)
64.  菊豆/チュイトウ 《ネタバレ》 
チャン・イーモウ監督の「菊豆/チュイトウ」のストーリーは、徹底的に悲惨です。 今までにも何本か、気が滅入るくらいの悲惨なストーリーの映画を観てきましたが、この映画はそんな中でも間違いなく、その悲惨ベスト5に入ります。  菊豆という若くて美しい人妻が、強欲で意地悪で不能で、年上の夫に苦しめられ、他の男性に愛されることで苦しさから逃れようとする物語です。 そこまでやるかというくらい、残酷で不幸で理不尽でやりきれないストーリーなのですが、とても美しい映像になっているのが特徴です。  原作の舞台は農村なのだそうですが、映画では染物屋になっています。 黄色や青や赤の長い反物が翻るシーンが数多く出てきて、実に印象的です。 これらの色鮮やかな布は、映画の中で効果的な大道具であると同時に、粋な小道具にもなっています。  残酷なのに、限りなく美しい映画というのはよくあるものです。 例えば、ジャンルは違いますが、「コックと泥棒、その妻と愛人」や「サスペリア」も同様でした。 やはり「赤」が美しい映画でしたから、「赤」というのはひとつの象徴なのかもしれません。 この「赤」から連想されるものは「血」とか「情熱」です。  菊豆の天青に対する想いは、年月が経っても全く薄れることなく燃えたぎったままでしたし、まるで"血の池"のような赤い染料のプールの中で溺れ死んでいく夫、ラストシーンの火事の炎など、到るところに「赤」のイメージがあり、まさにこの映画は「赤の映画」だなと思わせられました。  これでもか、これでもかというくらいの悲惨な終焉なのですが、後味が悪くないというのは驚きでした。 これはひとえに、チャン・イーモウ監督の演出の手腕だと思います。
[ビデオ(字幕)] 7点(2019-03-24 10:22:40)
65.  アガサ/愛の失踪事件 《ネタバレ》 
映画を作る人は、プロデューサー(製作者)、脚本家、監督、編集者、音楽担当者など、いろいろな人がいて、彼らの共同作業で、1本の映画が完成します。  この中で、撮影する人のことは日本では、単にカメラマンと言いますが、海外では「Cinematographer」と言って、これを「カメラマン」と訳してしまうのは、なんだか悲しい気がします。  そして、この映画の撮影をしているCinematographerは、ヴィットリオ・ストラーロです。 撮影一筋に数十年のキャリアを持ち、数々の名作を撮影している人です。  私の大好きな「暗殺の森」、他にも「ラスト・タンゴ・イン・パリ」「地獄の黙示録」「シェルタリング・スカイ」「ラスト・エンペラー」など、錚々たる映画のスタッフとして名を連ねています。  映画を語る時、ついつい脚本や監督(演出)に目がいきがちですが、総合芸術、しかも映像を媒体としての映画というものの特性を考えた時、実はCinematagrapherの存在はとても大きな縁の下の力持ちなのだと思います。  この映画「アガサ/愛の失踪事件」ですが、もし私が邦題をつけるとしたら「アガサ・クリスティー失踪事件」にすると思います。 「アガサ」がすぐに「アガサ・クリスティー」だと連想できる人は、そう多くないと思うからです。  現実に、アガサは、夫に捨てられてしまったショックで11日間失踪したことがあるのだそうです。 夫には他に愛人ができたのです。実によくある話ですが、この映画は、そのアガサ・クリスティーが失踪していた謎の11日間の出来事に焦点を当てて描いています。  アガサ・クリスティーを演じているのは、「裸足のイサドラ」「ジュリア」の英国の名女優ヴァネッサ・レッドグレーヴで、ちょっと神経質そうで上品な初老の超有名作家を見事に演じ切っています。まさにはまり役だと思います。  そして、彼女の失踪を追う、ニューヨークから来た新聞記者スタントンは、「真夜中のカーボーイ」「レインマン」の演技派俳優ダスティン・ホフマン。 公開当時のポスターの名前は、主人公がアガサなのにもかかわらず、ダスティン・ホフマンの方が大きく印刷されていたそうですが、これは単純明快な理由で、ホフマンのギャラの方がレッドグレーヴよりも多かったからだそうです。  それから、アガサの夫アーチボルト大佐は、ご存知007シリーズの4代目ジェームズ・ボンドを演じたティモシー・ダルトンで、舞台出身の曲者俳優らしく、一癖も二癖もありそうな悪役っぽい男を、実に渋く演じています。 彼は、こういう役を演じさせたら、本当に巧いと思います。  さすが主人公がミステリーの女王だけあって、映画もアッと驚く展開が待ち受けていました。 なるほど、そう来たかという感じでした。 全くのフィクションですから、現実にはこんな事はなかったのでしょうけれど、ミステリーの女王が自分自身にもミステリーを仕掛けるというのは、非常に面白くて興味深いものがありました。  1930年代のファッションも楽しめますし、マイケル・アプテッド監督のドキュメンタリー風の演出もいい感じだったと思います。 そして、当然の事ながら、ヴィットリオ・ストラーロの流麗なカメラワークに酔いっぱなしでした。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2019-03-23 15:31:11)
66.  エルミタージュ幻想 《ネタバレ》 
かつてミニシアター映画として公開された、アレクサンドル・ソクーロフ監督の「エルミタージュ幻想」をDVDで鑑賞。  私は非常に興味深く、この映画を観ましたが、映画初心者には向かない映画のような気がします。 映画がかなり好きで、かなりの本数を年間で観ている人でも、ストーリー性のない映画が苦手な人は、はっきり言ってダメだと思います。 私はストーリー性のない曖昧模糊とした映画というものも、ストーリー性のある映画と同じくらいに好きなので、思い切りツボにハマってしまいました。  そして、もうひとつツボにハマっていたのは、この映画がカメラワークに非常に凝っている点です。 96分をワンカットで撮っているのが、この映画の最大の売り物なのですが、流れるようなカメラワークは本当に芸術品と言えるくらい素晴らしく、もう見事としか言いようがありません。  撮影を担当したのは、「ラン・ローラ・ラン」で、主人公のローラをずっとハンディカメラで追いかけて撮影して、全くブレなかったというティルマン・ビュットナーです。 なんでも、ティルマン・ビュットナーは、この映画の撮影に備えて、身体を鍛えたといいますから、やはりプロは凄いと思います。  アレクサンドル・ソクーロフ監督は、ドキュメンタリー映画を数多く撮っているそうですが、はっきり言ってこの監督の映画は難解です。 この映画も予備知識なしで観たら、わけがわからないと思います。  原題は「ロシアの方舟(RUSSIAN ARK)」で、エルミタージュ美術館の中を探索しながら、ロシアの歴史を追うという内容になっています。 カメラを構え、ナレーションを語るソクーロフ監督自身と、この映画の主人公であり案内人でもあるフランスの大使キュイスティーヌ(セルゲイ・ドレイデン)とが宮殿の中を不思議な時間旅行をするという、邦題のとおり実に幻想的な映画なのです。  ストーリーがあるような、ないような不思議な雰囲気、90分ワンショットという驚異のカメラ、豪華絢爛な帝政ロシア時代の衣裳。 この3つの要素は、私の好みにズバリと合っていて、背筋がゾクゾクするほどでした。  そして、ラスト近くの、ワレリー・ギルギエフ指揮のオーケストラを伴奏に繰り広げられる舞踏会のシーンは、まさにため息が出るほど素晴らしいものでした。
[DVD(字幕)] 9点(2019-03-23 14:38:40)
67.  會議は踊る 《ネタバレ》 
この映画「會議は踊る」を観ていると、ヒトラーが歴史の表舞台に登場する前のドイツ映画は、世界の最先端だったということがよくわかります。  かのヒッチコック監督もドイツに映画の勉強に行っているほどですから。中でもオペレッタ映画に名作が多かったようです。 私はオペレッタ映画を観たのは今回が初めてで、なるほど、こういうものかと感慨深く鑑賞しました。  1814年、会議のためにウィーンにやって来たロシア皇帝アレキサンダー1世(ヴィリー・フリッチ)と、街の手袋屋の売り子クリステル(リリアン・ハーヴェイ)とのロマンスが描かれています。  ウィーン会議というと、当時のオーストリア宰相のメッテルニッヒが策略家だったということで有名ですが、この映画では、メッテルニッヒ宰相(コンラート・ファイト)が盗聴したり、外交文書をこっそり電灯に透かして盗み読んだりするという悪事をするシーンが出てきて、ブラックコメディにもなっていると思います。  なんとかロシア皇帝を会議から追い出してしまおうと、陰謀をめぐらすのですが、皇帝もちゃっかりしていて、影武者を用意して対抗するのです。  主題歌である「ただ1度だけ」は、どこかで聞いたことがある楽しいメロディと歌詞の曲で、思わず一緒になって口ずさみたくなってしまうほどです。  この底抜けに明るい映画がドイツ映画だなんて、とても信じられないくらいです。 こんなに昔に、それもドイツで、こんな素敵なロマンティック・コメディが作られていたなんて、本当に驚きました。  こういう映画を観ていると、戦争さえなかったら、ドイツも映画の大輪の花を咲かせ続けていたかもしれないと思わずにはいられません。 直接的ではなく、戦争の悲しさを感じてしまった珍しい映画でした。
[DVD(字幕)] 7点(2019-03-23 11:43:12)
68.  エアポート’80 《ネタバレ》 
1970年代に流行していたパニック映画の終わりの頃の作品「エアポート'80」は、製作者の原案によるオリジナル脚本がお粗末で、登場人物の紹介のイントロ部分からして、もたもたしている。  人間関係も、安直そのもの。人気女性キャスターと事件の元凶であるロバート・ワグナーが、恋人同士だというのも出来すぎている。 コンコルドの機長役の世紀の二枚目俳優・アラン・ドロンとスチュワーデス役の「エマニエル夫人」で一世を風靡したシルビア・クリステルが、今度のフライトで再会してよりを戻すことになっているが、以前、同棲していた仲なんていうのは、なくてもよさそうに思える。 ソ連の女子体操選手とアメリカの放送記者との4年越しの恋も、当時の世相を反映したのかもしれませんが、おまけの域を出ないと思います。  人気キャスターの家で殺人が行なわれるが、その反応が描かれないのも、考えてみたらおかしい気がします。 同様に、コンコルドがミサイルに狙われ、九死に一生を得てパリに着いたというのに、パリ空港があっけらかんとしているのは、全く腑に落ちません。  そして、悪事の露見を恐れた元凶の男が、自分の開発したミサイルでコンコルドを狙うのではないかと思ったら、案の定、そのとおり。 しかも、ミサイルが前後2回にわたってコンコルドを狙うが、どれも失敗。 ミサイルがこんなに命中率が悪いとは、もうほとんどご愛嬌としか言えません。  正義の味方のはずの女性キャスターは、恋人の悪事を知りながらも逡巡、まさに恋は盲目なのです。 そして、一難去ってまた一難。 パリ空港で整備員が、コンコルドによからぬ細工をする一件も、安易すぎると思います。  あんな飛行機に乗った乗客こそ大災難。パニック状態の機内描写で、女性キャスターが、置いてけぼりなのもどうかと思います。 脚本そのものが良くないので、デヴィッド・ローウェル・リッチ監督も演出の腕の振るいどころがなかったのかもしれません。  つくづく、映画は脚本が良くないと、いい映画、面白い映画ができないなということを、この映画を観て痛感しました。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2019-03-21 11:32:54)
69.  アイランド(1980) 《ネタバレ》 
映画「アイランド」の原作・脚本は、「ジョーズ」のベストセラー作家、そして「ジョーズ」で名をあげたR・D・ザナックとD・ブラウンのコンビが製作、「候補者ビル・マッケイ」「がんばれ!ベアーズ」などのマイケル・リッチーが監督、カメラは「太陽がいっぱい」の名手アンリ・ドカエという錚々たる顔ぶれによる"怪奇恐怖映画"ですが、期待が大きかっただけに、なんとも期待外れの作品でした。  "魔のバミューダ海域"と呼ばれているフロリダ沖のバハマ諸島では、毎年、たくさんの船と人とが消息を絶っていた。 しかし、その原因は杳として不明という設定で、マイケル・ケイン扮する新聞記者が、原因究明の取材に乗り出すことになる。  もしかしたら、どんな危険に遭遇するかも知れないという取材行に、13歳になるひとり息子を連れて行くというのもどうかと思います。  この間にもヨットが襲われて、乗組員が惨殺されるが、初めから複数の加害者を見せるから人為によるものとわかって、せっかくの怪奇性の興味が薄らいでしまいます。  つまり、無数にある島のひとつに、異様な風体をした海賊が住みついて、原始的な生活を送っていて、航行する船を次々と襲い、乗組員を殺して金品を略奪しているというわけなのだ。  謎がわかってしまうと、なーんだと、シラケてしまいます。 それに、ケイン父子が借りるボートの持ち主が博士と称する男で、それが海賊団と通じていて、沖を通る船の情報を伝え、略奪品の分け前にあずかっているという意外性も、あまりパッとしません。  「ジョーズ」の鮫に代わって海賊という仕掛け。17世紀ごろ、海賊団の先祖がこの島にたどり着いて、彼ら独自の掟によって特殊な社会を作り上げているというのですが、なんとも荒唐無稽でがっかりしてしまいます。  この海賊団に捕まったケイン父子が、最後で敵の首領をやっつけて難を逃れ、こんなことは誰も信じまいというケインの思い入れで映画は終わるのですが、まさに然りで、信じ得べからざる空々しい映画だったと思います。
[ビデオ(字幕)] 5点(2019-03-19 22:09:08)
70.  007/死ぬのは奴らだ 《ネタバレ》 
「007/死ぬのは奴らだ」は、ジエームズ・ボンド役としては、初代のショーン・コネリー、二代目のジョージ・レーゼンビーに次ぐ三代目ロジャー・ムーアの記念すべき1作目の作品。  ジェームズ・ボンドのイメージは、硬派のショーン・コネリーで確立されていたので、軟派のロジャー・ムーアではどうかと思っていましたが、私はムーアはムーアなりの個性、キャラクターで見せていて、かなり面白く観ました。ただ、映画としての欠点、突っ込みどころは山ほどありましたが。  この007シリーズは、大人向けの漫画というか、西洋忍者もので、もともと荒唐無稽なので、スリルとサスペンスがあればいいわけです。 この映画はシリーズとしては8本目ですが、この作品が発表されたのはかなり前で、確か「カジノ・ロワイヤル」の次だと思いますが、このイアン・フレミングの原作の小説には、ボンド映画の原型的なものがいっぱい詰まっていて、007の原点だと言えると思います。  映画のほうは必ずしも、原作の執筆順に作られたわけではないので、さてこの映画を作ろうと思ったら、新兵器も、意表をついたアイディアも、それまでの7本の映画でかなり紹介されてしまっていた。そこで、原作をいろいろといじらざるを得なかったのではないかと思います。  ミスター・ビッグが島で麻薬を栽培していましたが、原作では海底に沈んだスペインの海賊船の財宝を島に隠しておいて、やがて、これをアメリカに持ち込んで、経済を破壊しようと計画しているのを、ボンドが海底から襲撃。タコに襲われたり、鮫に食いちぎられたり、とくにあのラストシーン。本当はもっと迫力があるのです。  映画自体は、確かに子どもだましのところが多く、あんな強力なシンジケートの大ボスが、ガス圧縮弾なんか口にくわえさせられて、バーンと破裂するのだから、これではボス役のヤフェット・コットーがかわいそうでなりません。 そして、ボスに捕まったボンドとソリティアが裸にされて、船の横に張った網の上をいくわけですから傷ついて血がでます。  当然、臭いを嗅ぎつけて鮫がやってくる。そのままなら、全身食い荒らされて大怪我をするのだが、この船にボンドは爆薬を仕掛けている。 駆逐艦の機雷掃海艇、あれと同じに機雷に触れると、船が爆発する仕掛けです。 爆発が先か、鮫が先か、ボンドはそのタイミングを計るわけです。 原作通りにやれば、もっとラストの危機感も盛り上げられたと思うと残念でなりません。  全体として言えることは、主役がロジャー・ムーアに替わったことで、映画も今までみたいなスリルとアクションだけのボンド映画から、更に笑いの要素が入ったニュー・ボンド映画の誕生にはなっていると思います。  ただ、嘘でもいいから、もっと緊迫感が欲しかったと思います。オープニングの滑り出しは快調で、特にお葬式のシーンなど抜群に良かったのですが、どうも先細りになってしまって-----。 ともかく、新しい兵器がまるでなくて、結局は人間凧くらい。敵に見つからないように空から降りたというだけの話。 あとは磁石時計。だが、このアイディアは、確か前にも使っていたようだし-----。  いささかアイディアも枯れて、スケールも小ぶりになった感じで、我々観る側からすれば、どうしても今までのショーン・コネリーの、あの逞しい、男くさいイメージが固定しているから、甘いソフト型のロジャー・ムーアのほうがどうしても分が悪くなるのは致し方ないのかもしれません。 だから、余計、アイディアでもプロットでも、お色気でも、そのへんをカバーする強力な何かが欲しかったと思います。  ワニ圏での脱出も、面白いと言えば面白いのですが、イナバの白兎みたいな発想でどうかと思うし、ボートでの追っかけも、ああ延々と見せられては冗長すぎると思います。どうも演出にメリハリがないのです。  そして、悪が黒人という発想は、迫力はありましたが、その割には強大な感じがしないし、それから、あのタロット、カード占い。ソリティアは物凄い超能力を持った女性なのですが、もう少し面白く描けたのではないかと思えてなりません。  ポール・マッカートニーが作曲したテーマ曲が素晴らしかったので、そこを考慮して6点としておきます。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-03-19 00:18:36)
71.  テオレマ 《ネタバレ》 
ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「テオレマ」について、パゾリーニ監督は、最初はこのテーマを詩による舞台劇として考えていたそうだ。  そのため、この映画は知的な構成が明らかすぎるほど明らかだ。画面の隅々まで緻密に計算されており、登場人物の役割も非常にわかりやすい。 だが、主人公が神か悪魔かといった謎が"不条理演劇"のように、簡単には割り切れない。  それは、主人公を演じるテレンス・スタンプの顏のクローズ・アップが、極めて映画的な効果をもたらしているからなのです。  ~ミラノの大企業家パオロの家に謎の青年がやって来る。青年は、パオロやその家族と性的な接触を持ち、彼らの欲望を解放して、やがて立ち去って行く。残された人々は、彼ら自身の真実に向き合うこととなる。そして、彼に感化されたメイドは屋敷を出て、聖女になり、パオロは自分の工場を労働者に渡して荒野を彷徨うのだった~  悪魔の中に天使が宿るというようなイメージで、悪魔に魅入られた、悪魔のような美しい俳優・テレンス・スタンプ。 パゾリーニ監督の「テオレマ」に登場する彼は神なのか、それとも悪魔なのか?  彼の来訪は、郵便配達の姿をした天使によって告げられ、その辞去も天使によって予告される。 天使をつかわしたのは、そうすると神なのだろうか? 彼自身が神であったら、迎えの通知がくる筈はないのだから。  彼はただ彼という存在のままブルジョワ一家に迎えられ、客として滞在する。 彼はそこにいるだけで、一家の人々に不思議な力を及ぼす。 彼を見、彼に触り、そして彼に抱かれることによって人々は、自分自身に到達する。  イエス・キリストの衣に触れただけで病が治る聖書の話が、ふと連想されるが、彼は決して人々を救いに来たわけではない。 一家のメイドは、やがてブルジョワの屋敷を出て、故郷の貧しい人々の所に行き、身を犠牲にして土をかぶり、聖女となる。 だが、一家の他の人々は、それぞれの苦悩を生き始めるのだ。  この映画でテレンス・スタンプが果たす役割は、そこに存在するということなのだと思います。 彼の顏と彼の微笑、そして彼のなまめかしい肉体で、そこに存在するということ。 映画を観る私は、一家の人々と同じようにその存在を感じます。  神なのか、悪魔なのか、それとも神の子なのかという問いの答えは、永久に得られない。 逆に言えば、神は彼のような存在だとパゾリーニ監督は見ているのだろう。  ここでは、ひとりの役者が自分の存在をメタフィジカルな存在と同一化させているのだと思います。
[DVD(字幕)] 7点(2019-03-18 14:26:10)
72.  危険な関係(1988) 《ネタバレ》 
「危険な関係」に出演しているミシェル・ファイファーは、何とも言えない不思議な魅力を持った、面白い女優だと思います。 その彼女の魅力が十二分に発揮されたのが、この映画「危険な関係」だと思います。  この映画は、18世紀のラクロによって書かれた書簡体形式の小説が元になっており、このむせかえるようなエロティシズムの香りを放つ小説を映像化するのは並大抵のことではなかったと思います。  ~メルトゥイユ侯爵夫人は、自分から心が離れた愛人への腹いせのために、その愛人が恋慕している人妻を、これも自分の元愛人であるヴァルモン子爵を使って、その虜にさせようとする。ヴァルモンは、その意を受け、奸智をめぐらせて、この誘惑に乗り出すのだった~  メルトゥイユ侯爵夫人とヴァルモン子爵が企む誘惑の綾が、目に見えない関係の糸を結び、解き、切断する、狂おしいほどの小説世界を構築していると思います。 何でもこの小説は、発表当時は禁書とされたが密かに読み継がれ、18世紀のフランスを代表する作品になったと言われています。  しかし、この映画化された作品では、永遠のオスカー無冠女優である主演のグレン・クローズの見事さと相まって、ラクロの世界とはまたひと味違う肌触りをもつ世界を作り出すことに成功していると思います。  18世紀フランスの貴族の社交界の窒息するような優雅さとエロスの香りは、多少、犠牲にされていますが、性の悦楽を秘めた記号性と心理描写の綾は、このラクロの原作を見事に現代に蘇らせていると思います。  それは確かにグレン・クローズの快楽とサディズムがないまぜになった演技によるところが大きいのですが、ミシェル・ファイファーが発するアンビバレントな魅力にも寄っている点は見逃せないと思います。  あの輪郭がはっきりし過ぎている正面から見た顔。意志が強烈で、自我が強く、他者の介在を許さない顔。 ここには疑いもなく、現代の女性としてのストレートな強さが存在している。  しかし、横顔は、さながらギリシャ彫刻のように理性とエロスが融合し、その視線が観る者を目指さないだけに、遠くの世界の果てを指し示してくれるのです。 つまり、ミシェル・ファイファーの顏は、永遠のエロティシズムと現代性とが奇跡的に折り合いを見つけた顔なのだと思います。 その顔が、メルトゥイユ侯爵夫人の差し金とは知らず、ヴァルモン子爵に誘惑される人妻を演じているのです。  最初は誘惑を断り続けていますが、次第に傾き、ついにはそのヴァルモン伯爵の手に落ち、彼にのめりこみ、そして裏切られ、絶望し、最後に死に絶えるこの人妻は、18世紀においてはありふれた出来事だった、このような事件の中で、一方で、そのエロティシズムを失わず、他方、現代の男女の恋の綾までも表現してみせたのです。
[DVD(字幕)] 7点(2019-03-16 10:49:32)
73.  王将(1962) 《ネタバレ》 
映画「王将」で主人公の坂田三吉を演じるのは、坂東妻三郎、辰巳柳太郎に続き、名優・三國連太郎。 そして、三度とも伊藤大輔監督が撮っていて、坂田三吉に惚れ込んだ、伊藤大輔監督の執念に驚かされます。  この「王将」は、とても古風な映画だと思います。  天才棋士・坂田三吉(三國連太郎)が、ライバルの関根七段(平幹二朗)との対局で、苦し紛れに二五銀の奇手に出、娘(三田佳子)にそれを非難されて怒り狂い、やがて"銀が泣いている"と自ら泣き、たいこを打ち、題目を唱えながら波に洗われるシーン、関根名人就任の祝いの席から危篤の妻(淡島千景)を電話で励まし泣くシーン。  それらを伊藤大輔監督は、思い切り押しまくり、それに応えるかのように、三國連太郎も激しい演技で演じ、その熱意が画面を圧倒します。 その迫力たるや凄まじいものがあり、三國連太郎という役者の凄さ、狂気をはらんだ芸の奥深さに唸らされてしまいます。  作り方も人物像も確かに古風ですが、この無学の天才棋士の人物像は、人間ドラマの主人公として完成されたものと言うことができると思います。  映画を観る大きな愉しみの一つは、こうした鮮やかな人間像に出会うことだと再認識しましたね。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2019-03-15 15:14:51)
74.  忍びの者 《ネタバレ》 
忍術使いの石川五右衛門を主人公にして、社会派の山本薩夫監督が人間性抹殺の人間ドラマを描いた「忍びの者」を鑑賞。  伊賀の国。百地三太夫(伊藤雄之助)の部下として忍術の技に優れた石川五右衛門(市川雷蔵)は、三太夫の信頼を得てその家に出入りを許され、三太夫から冷たく遠ざけられている妻イノネ(岸田今日子)に誘われ関係を結ぶ。  その秘密を三太夫につかまれ、生かしておいてやるかわりに織田信長を暗殺しろと五右衛門は命じられた。 ここから、五右衛門の苦悩が始まることとなる。  山本薩夫監督は、当時の兵法としての忍術を、絵空事としてではなく、実証的に再現して視覚的な興味を盛り込みながら、闇に生れ、闇に死ぬのを掟とする、忍者の"非情の世界"に迫っていく。  三太夫の砦や家屋の構造が、閉ざされた暗い世界の妖しさを伝え、三太夫と五右衛門の対決が、人間抹殺の緊張感をみなぎらせる。  だが、惜しむらくは、物語全体の流れは時にとぎれ、もっと五右衛門の苦悩を凝結させて、じっくりと見せて欲しかった気がします。 もちろん、テーマとしても、見せる時代劇としても、異色の映画で見応えのある作品であったと思います。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2019-03-15 14:49:02)
75.  異邦人 《ネタバレ》 
主人公のムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)は、平凡な男だ。 それなのに、彼はいつの間にか、彼をめぐる社会からはみ出した"異邦人"になってしまっていることに気づく。  平凡な男が、いつの間にか平凡でない存在になってしまうのはなぜだろうか?  養老院で母が死んだので、彼は町から60キロほど離れた田舎の養老院へ行く。 汚いバスの中で、彼は暑さにぐったりしている。  暑い時に暑いと感じるのは当たり前だ。 そんな風に、彼の気持ちは、常に当たり前に動いて行く。  母の遺骸の傍らで通夜をしながら、彼は煙草を吸う。そして、コーヒーを飲んだ。 そのことが、後で彼が裁判にかけられた時、不利な状況証拠となってしまう。 母の遺骸に涙も流さず、不謹慎にも煙草を吸い、コーヒーを飲んだと受け取られるのだ。  それでは、ムルソーにとって、母の遺骸の前で泣き、煙草もコーヒーも断つことが、彼の本当の気持ちに忠実だったのかといえば、それはもちろん違う。 そんなことは、悲しみのまやかし的表現であり、嘘である。 ムルソーは、自分の気持ちを偽ることができなかったのだ。  暑い葬式の後で、泳ぎに行き、女友達のマリー(アンナ・カリーナ)に会い、フェルナンデルの喜劇映画を観に行った。 それは、果たして、法廷で非難されたように不謹慎な行為なのだろうか?  ムルソーは、ごく当たり前に生活する。 それが、世の中を支配しているまやかしの道徳にそぐわなかったのだ。  ムルソーは、"異邦人"のごとく見られ、断罪される。 だが、真に断罪されなければならないのは、彼を有罪とした社会なのだ。  "太陽のせいで"アラブ人を射殺する有名な事件は、原作者アルベール・カミュの"不条理"の哲学を直截に、しかも余すところなく具現化したものと言えるだろう。  ムルソーの人生は、不条理だ。だが、それでは条理とはなにか? ムルソーの生き方を見ていると、不条理に生きる人生こそが、最も平凡な、というよりは人間として当然の人生ではないかとさえ思われる。  それに比べて、条理の側に立ってムルソーを断罪する人たちの道徳や倫理観の、なんと非人間的なことか。 ムルソーの不条理とは、最も人間的に生きることなのであった。  かくて、最も人間的に生きた人間が断罪される不条理こそが問われなければならなくなってくるのだ。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-03-13 16:03:35)
76.  黄金の眼 《ネタバレ》 
「シンドバッド 黄金の航海」「バーバレラ」「新・夕陽のガンマン/復讐の旅」「レッド・バロン」などの作品で、その長身と少しエキセントリックでミステリアスな雰囲気を持った俳優として気になる存在だったジョン・フィリップ・ロー。  マリオ・バーバ監督の「黄金の眼」は、そんなジョン・フィリップ・ローの数少ない主演映画の一本です。 この映画の主人公は"怪盗ディアボリク"という怪盗ファントマを思わせる人物です。  原作は公開当時の1960年代の後半にイタリアで人気のあったコミックということで、そう言われてみれば、そのスタイルは頭からすっぽりとマスクを被り、ベルトを締めてブーツをはいている姿形は、まるでマントなしのスーパーマンのようでもあるし、おまけに物語の舞台もどこかの架空の国ということになっています。  悪魔的なという意味の怪盗ディアボリクは、近代的な科学設備が完備している洞窟の宮殿に住み、魅力的な女優マリサ・メル扮する恋人ともいい仲というなんとも優雅な身なのです。  このディアボリクを捕まえようと必死になるのが、名優ミシェル・ピコリ扮する警部ですが、いつも裏をかかれて地団駄を踏むのが、この映画の全編を通してのパターン。 いわばフランス映画のファントマとジューブ警部、あるいは日本のモンキー・パンチ原作の人気アニメ「ルパン三世」のルパンと銭形警部のような関係だ。  展開も思い切ってアニメ的というか007タッチで、現金を積んだロールス・ロイスが五色の煙に巻き込まれるや否や、クレーンで空中高く吊り上げられたり、大蔵大臣夫人が付けていたエメラルドをピストルの弾丸にして、悪党の体に打ち込み、後で遺体からその弾丸を取り出したりといった具合で、笑わせてくれます。  とにかく荒唐無稽と言うべきか、大胆不敵と言うべきか、いやこれはアニメ的な破天荒な面白さ、痛快さと言えますね。 さらに、20トンもの金塊を運ぶ列車を鉄橋から海へ落下させ、潜水艦で金塊を回収したりと面白さのてんこ盛りです。  そして、ラストはディアボリクが、アジトで溶解した黄金を全身に浴びて、文字通り"黄金の立像"と化してしまい、ミシェル・ピコリの警部の大逆転勝ち-----と思いきや、その眼がギョロリと動いて-----。  マリサ・メルのセクシーさも相変わらず魅力的で、主演のジョン・フィリップ・ローの颯爽とした活躍も素晴らしく、気楽に楽しめる娯楽作品だったと思います。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-03-13 11:19:30)(良:1票)
77.  キートンのセブン・チャンス 《ネタバレ》 
世界の三大喜劇王と言われる、チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートン。  DVDで名作の誉れ高い「キートンのセブン・チャンス」を鑑賞しました。 この映画でのバスター・キートンを観ていると、最もオーソドックスなスラップスティック・コメデイの演技とは、まさしく、これなのだと思えてきます。  バスター・キートンは、グレート・ストーン・フェイス、つまり、偉大なる無表情と呼ばれたそうですが、まったく無表情なのですから、すべては身体を動かして表現するほかないことになります。  ところが、よく観ると彼には小さな動きの演技はあまりないので、必然的に演技は大きく、なおかつ、猛烈なスピードを持って展開されることになります。 この映画を観て、あらためてスピードのないスラップスティツク演技なんてのは、スラップスティックとは言えないなと思ってしまいます。  この映画の最大の見せ場は、後半にやってきます。  前半の求婚をめぐるお話も、キートンらしく不器用で直線的で、それはそれなりの面白さを持ってはいますが、しかしこの前半は、例えば他のコメディアンが演じても、それぞれの持ち味に応じた面白さは出るだろうと思われます。  ところが、キートンが雲霞のごとき花嫁候補の群れに追われる後半は、キートンならではの面白さが一気に爆発します。 野越え山越え、ひたすら逃げ続けるキートンは、その疾走が紛れもなく全力疾走であることで私を驚かせ、その起き上がり方の素早さでアッと言わせてくれます。  キートンは、決して手を抜いたり、ふざけたりしません。 世界中の誰よりも真面目に、スラップスティック演技に全身全霊を捧げているのです。 キートン喜劇の面白さ、可笑しさは、まさに彼の生真面目から生まれてくるものだと思います。  彼の映画の笑いは、押しの一点張りが成功した時にめざましいものになります。 それは、チャップリンのような緩急自在の呼吸から生み出される笑いとは、まったく違う笑いなのだと言えると思います。
[DVD(字幕)] 8点(2019-03-12 22:55:45)(良:1票)
78.  午後の曳航 《ネタバレ》 
三島由紀夫の小説「午後の曳航」の映画化作品を先に観てから、その後で原作の小説を読んでみました。 そのことにより、映画と原作の小説について、いろいろと面白いことに気がつきました。  ルイス・ジョン・カルリーノ監督の「午後の曳航」は、映画それ自体としての出来栄えは、かなり良い作品だと思いました。 英国のデヴォンの港をメインにした撮影がとても美しく、雄大な海や白い崖と緑の野、そして落ち着いた古風な港町。  そして、それらとは対照的な少年たちの反抗的な行動、満たされない未亡人の生活、彼女と一人息子の生活の中に、不意に飛び込んできた海の男によって惑乱された母と子の関係、そして最後には少年たちによって、憧れの人から普通の人になり下がった海の男は処刑される-----。  このストーリーは、一歩間違えば、ひと昔前の港町を舞台にしたメロドラマになりかねないのですが、それを救ったのが、ごく控え目な、激しさを抑制したルイス・ジョン・カルリーノ監督の演出と、美しい自然の悪魔祓いにも似た作用だったと思います。  そして、海の男の英雄ぶりの失墜に対する少年たちの断罪こそ、原作者・三島由紀夫の観念に実に忠実なのですが、映画の表現としては、カルリーノ監督独自の解釈が表われていたのではないかと思います。  カルリーノ監督が、三島文学の愛好者であり理解者であることは、映画の中のいたるところによく表われていましたが、映画作家としての彼は、三島に忠実である以上に自分自身に忠実であったからこそ、そういう結果を生んだのだと思います。  それから、私は三島由紀夫の原作を読んで、やはり三島文学の忠実な映画化は、もともと無理だったのだということをつくづく感じました。 少年たちの秘密結社の行動は、確かに三島の小説の核心をなしているとは思いますが、それを三島の非現実的な理想主義的観念論で押し通すことは、はなから映画では浮き上がる恐れがある以上、これは、過去の例で言えば、リンゼイ・アンダーソン監督の「もしも---」に似た感じになるのも当然だったのではないかと思います。  海の男の凡俗化、堕落を処罰するという完全主義は、三島文学の信奉者でないかぎり、観る人を納得させることは難しいのではないかと思います。 むしろ、嫉妬からだと見るほうが、わかりがいいように思います。  いずれにしろ、三島の原作は派手な言葉の洪水に満ちています。絢爛という言葉が、まさにふさわしい小説なのです。 映画では、これはバッサリ切らなければなりませんが、切っただけでは通俗的なロマンスものになってしまいます。 映画は映画で独自の工夫というものをしなければなりません。  この点、脚色もしているカルリーノ監督は、なかなか巧みにアレンジしていると思います。 言葉と同じ価値のものは、あっさりと捨て去り、彼はそこに視覚的な世界を繰り広げてみせたのです。  彼も、三島の凝りに凝ったディテール描写の魔術をよく理解していたに違いないし、それを映画でも尊重していますが、もともと映画はそれを時間をかけずに一挙に映し出す特性を持っている以上、時間をかける三島の筆致を映画で踏襲することは、初めから無理なのだと思います。  そのため、カルリーノ監督はそういうことよりも、かなり質は違っても、街の風景や港の光景、特に海の景観の描写に重きを置いたのだと思います。 したがって、ここには、刺戟の強い三島の描写とは別の静かな情感にあふれた光景が表われている。  これが、原作に忠実な映画化かどうかには疑念があるかも知れませんが、少なくとも原作に忠実な映画作家の、映画に忠実な映画化であることは確かであると思います。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2019-03-11 14:47:27)
79.  暁の7人 《ネタバレ》 
「暁の7人」の主演俳優ティモシー・ボトムズは、「ジョニーは戦場へ行った」「ラスト・ショー」「ペーパー・チェイス」等での印象的な演技で私のお気に入りの俳優のひとりになりました。  今回DVDで観た「暁の7人」の彼は、きりっと引き締まった表情で、緊張でピリピリするような心が張り詰めた荒武者といった風情があります。 そして、ある種の悲しみを湛えた優しく暗い眼が、とても印象的です。  第二次世界大戦において、チェコスロヴァキアはドイツ軍の怒濤の進撃で占領されてしまいます。 ティモシー・ボトムズ扮するヤンは、ロンドンで機会を待つチェコ解放軍の兵士。 その彼らに、祖国チェコで占領・支配しているナチス・ドイツの総司令官ハイドリッヒ暗殺の指令が下される。  この指令は、大胆不敵な極秘作戦で、戦局を連合国軍側に有利に展開させるための、非情極まる作戦計画だった。 そして、今回選ばれたヤンを含む解放軍の3人は、明らかに"捨て駒"だったのだ。  私は、この映画を観ながら、イギリス、ドイツ、ロシア等の強国に挟まれて、悲劇的な歴史を歩んできた東欧諸国の運命を垣間見る思いがしました。 そのように感じた時、どこか悲劇的で悲しい表情を張り詰めさせたティモシー・ボトムズの個性が、ひと際、ものをいっていると思います。  このティモシー・ボトムズという俳優は、本質的に"青春の悲しさ"を体現できる稀有な存在だと思います。 眉をきりりと上げて、しっかりと未来を見据えている時でも、その高い鼻梁のかげに、若く純粋な悲しみと愁いの影が漂うのです。  「暁の7人」は、ティモシー・ボトムズを主演俳優として起用したことで、この悲劇的な戦争秘話に、悲しみの感動を盛り込むことができたと言ってもいいと思います。  ただ、その後の彼は、良い作品にも恵まれず、役者として失速していったのが残念でなりません。
[DVD(字幕)] 7点(2019-03-11 09:57:27)
80.  フリック・ストーリー 《ネタバレ》 
主演のアラン・ドロン。個人的には世界一美しい俳優だと思っています。その翳りを帯びた暗い表情の中に見せる刹那的な狂気と死の匂い、そして冷酷さとニヒリズム------。彼の素晴らしさは例えようもありません。俳優に陽と陰のタイプがあるとすれば、まさしく彼は陰のタイプ。そのため、彼はジャン・ピエール・メルヴィル監督と組んだ「サムライ」「仁義」などのフィルム・ノワールの世界でのストイックなムードがよく似合いますし、ジョセフ・ロージー監督と組んだ「パリの灯は遠く」「暗殺者のメロディ」でのクールで死の匂いを漂わせるムードも素晴らしい。  この「フリック・ストーリー」は、彼の盟友とも言うべき、また一部では彼の御用監督とも揶揄されているジャック・ドレー監督が撮った映画ですが、アラン・ドロンという俳優は、本質的に犯罪者、アウトローの役がよく似合うのですが、この作品は彼がフランスでミリオン・セラーとなったロジェ・ボルニッシュという元刑事が書いた自伝的な実録小説に惚れ込み、敏腕プロデューサーでもある彼が映画化権を買って製作した作品なんですね。  だから、ロジェ・ボルニッシュという人間に惚れ込み、シンパシーを感じたこの刑事役を、どうしてもやりたかったんでしょうね。確か、この時点で刑事役を演じるのは「リスボン特急」以来ではなかったかと思います。それほど、彼の刑事役は珍しいんですね。  そのため、本来であれば、彼が演じるべきだった冷酷で凶悪な犯人エミール・ビュイッソン役に名優のジャン=ルイ・トランティニャンをドロンは指名したんですね。つまり、悪役が引き立つことで、主役のドロンもその化学反応で相乗効果としてより輝いて見えるという事を知り尽くしているんでしょうね。とにかく、この映画でのトランティニャンの冷酷無比な背筋も凍るようなゾッとする犯人像は鮮烈で、法律家志望だったという彼は政治映画「Z」で製作者の一員に名を連ね、この映画の演技でカンヌ国際映画祭の主演男優賞を受賞している名優で、特に私の心に鮮烈な印象として残っているのは、やはり「男と女」ですね。  ドロンは相手役に「さらば友よ」でチャールズ・ブロンソン、「ボルサリーノ」でジャン・ポール・ベルモンドと競演したりと、自身の美貌をより引き出す術をよく心得ているんですね。そして、そのような大物俳優と競演する時のドロンは、相手役の俳優に必ず華を持たせて、自分は若干引いた感じの演技をするところが、またドロンの凄いところだと思いますね。  そして、この映画の最大の見どころは、やはりラストのクライマックスのシーンですね。郊外のレストランを舞台にした逮捕のシーンは、まさにピーンと張りつめた緊張感の中で繰り広げられ、意外やジャック・ドレー監督の抑制した演出が際立っていたと思います。  それにしても、1940年代のパリの街のたたずまい、クラシック調の車、トレンチコートを着た粋な男たち。フランス映画らしい雰囲気も漂わせ、何かレトロな雰囲気も味わえるんですね。このあたりは、やはりハリウッド映画とはちょっと違うフランス映画らしいエスプリ、お洒落な感覚もあり、実にいいムードなんですね。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2017-08-11 09:34:08)
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