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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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101.  コラテラル
マイケル・マンという監督は、常に“反社会的な者たち(アウトサイダー)”を描く。そして、その生きざま(や、死にざま)を、ひたすら〈崇高〉なものとして描き出すのだ。彼らはみな、社会に、運命に立ち向かい、反逆し続ける。その姿(というか、魂)は、英国の思想家エドモンド・バーグが言う〈崇高さ〉そのものだ。  「我々が崇高を感得するのは暗い森林や寂しき荒野、ライオンや虎や豹や犀などの姿においてである、(中略)それが解き放たれていて人間を無視していることの強調によって、少なからぬ崇高な姿に盛り立てられているが、そうでなければこの種の動物の描写は何一つ高貴な要素をそなえぬであろう」(中野好之訳)  …しかし、トム・クルーズ扮する殺し屋を主人公のひとりとする本作は、いかにもマイケル・マンらしいようで、これまでの作品とはどこか異質な印象を与える。それは、常に脚本にもクレジットされていた彼の名前がここにはないことからくるのか。あるいは、120分という彼の映画では(『ザ・キープ』を除いて)最も短い上映時間によるのか。デジタル・カメラによる奇妙なほど奥行きと陰影を欠いた映像によるものなのか。  …そう、まるでスコセッシの『アフターアワーズ』や『ヒッチャー』にも似たこの悪夢めく「不条理劇」は、むしろ製作者のひとり『エルム街の悪夢3/惨劇の館』の監督チャック・ラッセル(同じく製作に名を連ねるフランク・ダラボンも、あの映画の脚本家だった…。このご両人、どんな仲?)あたりこそがふさわしい。その意味において、マンは単なる「御用監督」でしかないのだろうか? …  しかし映画の中で、ロス市内の道路を2頭の野性のコヨーテが悠然と横切った瞬間、ぼくたちは確信するのだ。あのコヨーテたちこそ「解き放たれて人間を無視している」ことで孤高を生きる、マイケル・マン的存在に他ならないことを。そして、殺し屋とタクシー運転手もまた、その瞬間から夜のLAという「荒野」を生き、死んでいく者たちとして「解き放たれ」る。まさしく「ライオンや虎や豹や犀」のように生き始めるのだ。だからこそラストの、よく生き、よく死んだ両者の姿は、かくも〈崇高〉で、ただただ美しい。
10点(2004-12-03 14:39:04)(良:5票)
102.  ハウルの動く城 《ネタバレ》 
主人公のソフィーは、映画の中でいつも「家事」ばかりしている。帽子に刺繍を施したり、散らかり放題の魔法使いハウルの“動く城”を掃除したり、買い物にいったり、料理をしたり、洗濯物を干したり。…そういったごく「日常的」なあれこれを、たとえ90歳の老婆にされても変えることなく続けていく。  そして宮崎駿監督は、このソフィーの「家事」に対立するものとして、「戦争」を持ってくるのだ。日常生活をやがておびやかし、破壊してしまうものとしての「戦争」。その時「魔法」とは、戦争の“道具(!)”に他ならない。…ハウルたち魔法使いが、国の軍事面をつかさどる者たちとして描かれていることを、ぼくたちは重く受け止めねばならない。まったく、『魔女の宅急便』の愛らしい魔女との、何という違いだろう!  だが映画は、掃除し料理を作り続けるソフィーの「勝利」によって、幕を閉じる。彼女の「家事」によって、ハウルが、荒野の魔女が、火の悪魔カルシファー(見かけは可愛いものの、いうまでもなく「火」は使いようで脅威に成り得る…)が、少年の魔法使いが、案山子男(かかしではなく、出来れば“あんざんし”と読みたい・笑)が、ひとつの“家族”となってまとまり、「魔法」を、戦争ではなく日常生活を守る・取り戻すための「道具」とし、遂には「戦争」そのものに打ち克ってしまうんである。  …そう、どんなに強大な力も、「家事」に代表される人々の生の営みの前には敗北する。歴史上に現れたいかなる王国や帝国もいつかは滅び、けれど人々の「生活」はどんな時代にあっても連綿と続いてきたのだ。それを言うために、映画は、ソフィーたちの生活の細部(ディテール)こそを丹念に描いていく。そこにはもはや、戦いの愚かさを訴えながら逆に「戦い」を魅力的(!)に描いてしまう(たとえば『ナウシカ』…)宮崎作品の抱え続けてきたアンビヴァレンツ(二律背反)はない。平凡な日常の繰り返しのなかにある生きることの喜びや、愛することの素晴らしさを、優しく、少しだけ照れ(?)ながら肯定するばかりだ。  前作『千と千尋の神隠し』に続いて、ぼくはこの作品もまた、(多くの方々が指摘される「欠点」にうなずきつつも)その「世界観」ゆえに心から共感し、愛したいと思う。
9点(2004-11-30 15:19:35)(良:2票)
103.  砂漠の救出作戦
自分で登録しておきながらナンなのだけど、う~ん、何書いたらいいのやら…(笑) とりあえず、これ、欧米の好き者の間ではカルト化している(らしい)『ジャングルの裸女』という“女ターザンもの”の続編です。でもって、日本じゃ劇場未公開。小生もテレビ放映で見ました。  映画が始まると、タイトルも出ないうちにいきなりアフリカ奥地の村落で、トップレス姿の黒人娘(オバサンも、少々)たちがドンドコ踊っています。と、そこにふんどし一丁の白人少女が現れ、激しく、妖しく踊りだす! 長い金髪で胸を隠しているものの、ちょっと見はすっぽんぽん!1950年代にこの大胆さはさすが旧・西ドイツじゃわい…と、もうこの時点で大満足(…もっとも、よく見ると白人少女は、乳首のところに飾り物つけているんですけどね。アフリカの現地女性たちは丸見えだってのに、このあたり、昔の“エセ秘境もの”記録映画で、原住民の秘部ならボカシなしで公開していたニッポン国に通じる「差別観」がモロ)。主役のマリオン・ミハエル嬢は、まだ10代だったそうな。 踊りの最後、彼女はトランス状態になって大股開き(!)で倒れ、キャメラはそれを真正面から捉えます。ウ~ン、なんてスケベなアングルなんだっ! と、その頃にゃもうすっかり小生の視線は、キャメラと同化(笑)しておりました。  その後も、このストリップ…もとい、ダンス場面は、物語とはまるで関係なく2、3回登場し、マリオン嬢は、たとえ街の場面で普通の服に着替えていても、お股に食い込む短パン姿で、通りを行くオトコたち(と、小生)の眼差しにさらされまくり。いやぁ~、もうたまりまへんです。  …そりゃあ、『シーナ』のタニア・ロバーツや『類人猿ターザン』のボー・デレクの方が、文字通りの“裸女”だったけどサ。この映画のマリオン嬢って、実に天真爛漫というか、無垢というか、イノセントな“処女性”に輝いているのね。だからイイんですっ!。それは、前作が実のところ「ターザン」というより「アルプスの少女ハイジ」的な展開だった(すみません、未見です)ことを考えると、作り手の意識が決してスケベ心だけじゃなく、彼女を通して「アフリカ」という“処女地”に対する西欧人のロマンチックな憧れを描きたかったということなのかも。  でもやっぱり、これはマリオン嬢を鑑賞するため(だけ)の映画ですけどネ。
6点(2004-11-20 17:18:07)
104.  脱走四万キロ 《ネタバレ》 
ロイ(・ウォード)・ベイカー監督と言えば、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』でもかなり“参照”されたとおぼしい『SOSタイタニック』や、あるいはハマー・フィルムのドラキュラ映画でご存知の方も多い(?)のでは。実を言うと、ある時期まで(いや、実は今なお)このベイカー監督の名前は、ぼくにとって、例えば同じイギリスのデヴィッド・リーンなんかよりもずっと“偉大(!)”だったんである…  この監督の映画は、「ドキュメンタリー的」な面と「ドラマ性」とが融合し、時には対立しながら、あるひとつの濃密な“劇的空間”を画面に構築していく。そして題材やストーリーによって、「ドキュメンタリー的」な要素が勝ったり「ドラマ性」が大きくなったりする、そのバランス感覚においても傑出してたんだと思う(…後年、ハマーのゲテ物ホラー映画を撮る頃には、そういったバランスなどほとんど“放棄”しているかのようだったが…)。  例えば、この『脱走四万キロ』だ。イギリス映画でありながら実在したドイツ軍パイロットを主人公とし、しかもまんまとイギリス軍の収容所から脱走するまでの顛末を描くという本作。冒頭の空中戦から、主人公が不時着して捕虜となるまでのくだりにおいて、実写フィルムを巧みに織りまぜながら見る者を一挙に「ドラマ」へと引っ張り込んでいく。その後は、何回も脱走を繰り返すパイロットの“一人舞台”となるのだけれど、特に後半、厳冬のカナダの収容所に送られた彼が、雪の平原や森、凍った河を逃亡する描写は、ひたすらロングに引いた苛酷な自然の中にポツンと映る主人公の姿を延々と追うだけでありながら(ほとんどセリフすらない)、本当に血沸き肉躍る、いっときも眼が離せない、スリリングな冒険譚になっているんである! …昨今の大げさな設定やらCGによるド派手な映像やらがなくても、この地味なモノクロ映画は、主人公の置かれた“状況”をキャメラで捉えるだけで、かくも濃密な「ドラマ」が描きうることを教えてくれる(そんなベイカー監督の才能が遺憾なく発揮されたのが、本作の翌年に作られた『SOSタイタニック』に他ならないだろう)。何も「ドキュメンタル」な撮り方だから良いんじゃない、その“状況”の描写力において傑出しているからこそ、素晴らしいのだった。  この監督をきちんと再評価してくれる評論家センセイ、誰かおられませんかねぇ…
9点(2004-11-20 15:58:23)(良:1票)
105.  大怪獣出現 《ネタバレ》 
この映画は、まだ中学生だった頃テレビで見ました。その後、数年してもう一度再見。なかなかのインパクトを与えてくれる出来映えで、未だに強烈な印象が残っています。(日本では、大幅にカットされた短縮版でのみ公開とか。でも、近年WOWOWで「完全版」を放映したんですって? …いいなあ、見たかった!)  ストーリー的には、1950年代に流行した“放射能によって変形・巨大化したモンスターもの”のひとつ。海底で甦った古代のカタツムリ(と、いろんな文献で紹介されているけれど、どうみてもトンボの幼虫のヤゴかイモムシやんか)軍団と、アメリカ海軍との攻防がメインになっているあたり、特に『放射能X』に似ている。  とは言え、パラシュート訓練中に海で行方不明になった兵士をめぐる冒頭(捜索中、血を吸われたミイラ状の死体が、突然海上に浮かんでくるショック演出の巧さ!)から、映画はサスペンスを途切れさせることなく見る者をグイグイと引き込んでいきます。何よりモンスターの、醜悪さと昆虫的攻撃性が見事に表現された造型の素晴らしさ!(…後に『魔獣大陸』とかいう映画を見たら、ソックリな顔したモンスターが登場していた記憶がある。この怪物クン、意外とあちらじゃ「有名」なのかしらん) どうにか彼らの巣を見つけて爆破し、やれやれと思ったら、調査用に回収してあった研究室の卵がふ化してヒロイン(と、その幼い娘)が絶体絶命のピンチというのも、ありきたりな展開ではありながら、伏線の張り方やその語り口がうまいものだから、思わず手に汗にぎってしまう。いやぁ、この映画の脚本と演出は、間違いなく一級品です。  当時のこの手の作品には、明らかに「政治的」寓意性(アカ狩り、冷戦といった“共産主義”のメタファーとして、当時の「モンスター」や「エイリアン」たちは描かれていたものだ)を持っていたり、「核」と“放射能”への恐怖を煽るものが大半だったのに対し、本作は、そういうイデオロギー臭や社会ヒステリー的な要素をほとんど意に介していない。その上でただ純粋に「怪獣映画」としての面白さ、それだけを主眼とした潔さこそが、ぼくには好ましい(皆さんがバカにするローランド・エメリッヒ監督の映画も、同じ意味でぼくは評価しています)。作品的には単なる「B級モンスター映画」なれど、山椒は小粒でもピリリと辛い、とは、こんな作品のことを言うんすよね!
8点(2004-11-20 14:25:12)(良:1票)
106.  渚のたたかい
見たのはもう随分と大昔で、しかもテレビ放映だったけれど、今なお忘れ難い「(ぼくにとっての)永遠の名作」です。ノルマンディ上陸作戦を背景にした第二次世界大戦ものの戦争映画だけど、決して『史上最大の作戦』や『プライベート・ライアン』なんかのように大上段に「歴史」だの「悲劇」だのを描くものじゃない。派手な戦闘シーンもほとんどない。むしろ一編のメルヘン(!)めいた、不思議な余韻を残す「反戦」ならぬ「反=戦争映画」とでも言いましょうか…。  クリフ・ロバ-トソン扮する軍曹率いるアメリカ軍小隊が、沿岸近くの村人やドイツ兵捕虜を、安全な連合軍キャンプまで引率しようとする。が、ようやく連れてくると司令官に「もう一度村へ連れ戻せ!」との命令。仕方なく再び来た道を戻ったものの、まだ砲弾が飛んでくる危険な状態。軍曹は、今度こそとキャンプへ彼らを連れていくが、またまた拒絶されてしまう。そして一行は、今度も村への道のりをてくてくと…。  と書くと、何だか風刺っぽいコメディみたいだ。けれど映画は、村と連合軍キャンプを行きつ戻りつする彼らの中で次第に芽生えていく連帯感やら心のふれあいを、ただ丁寧にスケッチしていく。食べ物を分け合ったり、楽器を演奏したり、時にはいがみあったり砲弾を喰らったりするものの、まるでピクニックのような気分。そのへんてこな“珍道中”を通して、「悲惨な戦争時にも、こんな風に普通の人々は笑ったり、泣いたり、恋したりして生きてきたんだ」という実感を、見ているぼくたちはしみじみと噛みしめるといった次第です。ほんと、すべてを“白か黒か・正義か悪か”と単純化するアメリカ映画にあって、この良い意味での「ゆるさ」は、実に新鮮なオドロキをもたらしてくれることでしょう。  最後、仲良くなった村人たちと分かれて、戦争という非日常的な「日常」へと戻っていく軍曹と彼の小隊。その美しいラストを含めて、“そして、人生は続く”ことをかくも詩情豊かに描いた本作を、ぼくはいつまでも愛し続けたいと思います。DVD、出ないのかなぁ。
9点(2004-11-04 17:24:01)(良:1票)
107.  レッド・バロン(1971)
実際にジョン・フィリップ・ローなど役者を操縦席に座らせた複葉機が、大きく空中で一回転する。と、役者の真正面に据えられたキャメラは、その表情とともにバックに広がるヨーロッパの田園地帯の風景をも映し出す…。  この「究極のリアリズム」の前には、もはやどんな最新のCG映像も太刀打ちできまい。もちろん空中戦のシーンでも、本当に役者が空を飛ぶ飛行機上で“演技”している。つまり彼らは、その時「本物のパイロット(もちろん、操縦しているのは別人だろうけれど)」として、画面の中で君臨(!)しているんである。そう、彼らは、第一次世界大戦の“空の勇者”を演じるというより、その生身(なまみ)でもってパイロットが見た・感じたままの“現実(リアル)”を「再現」しているのだ。  ロジャー・コーマンの映画は、一連の“エドガー・アラン・ポーもの”をはじめゲテ物と蔑まれるようなB級映画であろうと、ロケーションと美術セットに対する感覚において際立ったものを持っている。彼の監督作を見たなら、そこに映し出される森や池、古い城壁それ自体がドラマを暗示し、見る者をその作品世界へといざなっていくものであることを誰もが認めるだろう。さらに、どんなに低予算であろうと、登場人物以上に「物語」を雄弁に語るあの美術セット。…そう、コーマンは決して役者たちの演技やセリフによるのではなく、あくまで“画”によって恐怖を、悲哀を、官能を、憎悪を、狂気を、…そう言った人間の内面の「闇(=病み)」を描く術において卓越しているのだ。  そんな彼の資質が、この生涯で唯一(?)の大作においても遺憾なく発揮されている。19世紀的騎士道精神を生きる“レッド・バロン”ことリヒトホーフェンの驕慢さと、その背後に隠された「滅びへの意志」。一方の、英国軍パイロット、ブラウンにおける徹底した上流階級に対するルサンチマンとその「破壊衝動」。その相対立する葛藤劇を、コーマンは、役者を複葉機に乗せて飛ばす全編にわたっての空中シーンという形で“画”にしている。言い換えるなら、役者たちというフィジカル(肉体)な“実体”を用いて、メタフィジカル(形而上的)な“精神”を描くこと。そこにこの映画における「野心」があったことを、ぼくは信じて疑わない。  …監督としてのロジャー・コーマンを、今一度ぼくたちは再評価するべきだ。
10点(2004-11-04 16:13:10)
108.  女は夜の匂い(1962)
もう30年近く前(いやはや…)にテレビ放映で見て、その後10年ほど前にビデオで再見。以来、見直す機会に恵まれないものの、今なお小生には忘れ難い作品のひとつです。日本でのタイトルはレレレだけど(検索すると、まっ先に日本の小林旭主演作『ネオン警察・女は夜の匂い』だの、洋画ピンク作だのがヒットする…悲しい)、とっても小ジャレたフレンチ版赤川次郎(?)とも評すべきライトなロマンチック・ミステリーであります。  もっとも、何人もの女性と同時に付き合っているものの、一度も真剣に愛したことのないプレイボーイが主人公。コイツが女のひとりに偽証され、殺人犯として追われるものの、いつも女たちに匿われて救われる…というストーリーにゃ、思わず「ケッ!」とくる御仁も多いことでしょう。しかし映画は、そんなお調子者の男のスッタモンダを描きつつ、ちっともイヤミじゃない。むしろ、こんな男を好きにならずにはいられない女性たちの「愚かさ」を、むしろ“女ゆえの「可愛さ」”としてユーモアたっぷりに描いている。このあたり、監督のミシェル・ドヴィルと女性脚本家ニナ・コンパネーズの才気が光っています。  そして主人公は、逃亡と真犯人探しの中で、はじめて女性に心奪われる。けれどそれは人妻で、いくら彼が生まれてはじめての“純粋な愛”を捧げても、彼女の心は夫のものだと悟らされてしまう。その時、主人公は、鏡に映る彼女の後ろに立ち、彼女の顔を両手で包み込みながら「ほら、これが笑っている時のきみ。これは泣きベソ顔のきみ、おこりん坊のきみ、(目尻を吊り上げて)中国人のきみ…」と、百面相(?)ごっこのイタズラをするんだけど、そこには、はじめて女性を好きになったのに、どうしようもない男の悲しみとあきらめが痛いほど感じられる。そう、ぼくはこれほどロマンチックで、洒落ていて、でも切なくて、叙情的なシーンを、今にいたるまで見たことがない。だからこそ、このほとんど語られることのない映画のことが、未だ忘れられないのであります。  ヌーベルヴァーグ全盛の頃に作られながら、いかにもフランス的なコケットリーとソフィスティケ-トを持った、むしろ「古い」タイプの映画には違いない。けれど、ぼくはこんな「おフランス」な味わいも心から愛していきたい。…自分にゃ縁のないものだから、いっそうのこと(笑)
8点(2004-11-01 13:45:04)
109.  野獣の墓場
20数年前、学生だった小生は、大阪ミナミの今はない「花月シネマ」という二番館でこの映画と出会いました。それは、劇場前に貼ってあった(たぶん次回上映の)『ナバロンの嵐』のポスターを見て、勘違いして入ったというマヌケなものだったのですが…。  で、館内に入って、ようやく自分が間違えたことに気づいた次第。仕方なく見ていると、これがどうやら“ベトナム帰還兵もの”で、中西部あたりの片田舎に帰ってきた元グリーンベレーのスゴ腕兵士が、町を恐怖に陥れる残虐な暴走族集団と戦うといったシロモノ。彼は最初のうち「もう二度と“戦い”はゴメンだ」と関知しないものの、狂気じみたバイカーどもが家族にまで危害を加えるに至って、遂に爆発。かつての戦友たちを招聘し、対決を挑むのでありました。  それまでこの手の映画の「帰還兵」たちは、戦争後遺症で精神や肉体を病んでいるか(『幸福の旅路』『帰郷』)、周囲の人々の無理解や偏見にさらされる(『ソルジャー・ボーイ』『ランボー』!)ものばかりだったのに対し、ここまで“ヒーロー”視(屈折したキャラクターであることは確かだけど)したものは、この当時にあって新鮮だったことを今も覚えている。スローモーションを多用したアクション場面は、たぶんペキンパー監督の影響…というか、アメリカン・ニューシネマの名残りかな。何より、これが1960年代にロジャー・コーマンあたりが作っていた“モーターサイクルもの”(不良&ジャンキーな暴走族集団を描いた一連のB級映画。そのなかからあの『イージーライダー』が生まれたことは、あまりにも有名)にヒネリを加えた、その“ヒネリかた”がなかなか技ありって感じだったを覚えています。  ところがこの映画、ぼくの知る限り日本公開された形跡がない! ビデオ化されたとか、そんなことも分からない! …そりゃあ、監督もこれ1本きりで“消えた”無名の御仁で、出演もウルトラ地味な顔ぶれ。しかもカルトにすらなれそうにない、極めてフツーのB級アクションではあります。が、そこには’70年代テイストとも呼びうる「映画を撮ることイコール社会を反映すること」の奇妙なリアリティがあった。そしてぼくは、今この映画のそうした「リアル」な味わいが気になって仕方がないのです。  どなたか、この映画のことをご存知な方おられませんか?  ちなみに製作は、かのキャノン・フィルム(!)らしいです。
6点(2004-10-29 13:32:55)(良:1票)
110.  モーターサイクル・ダイアリーズ
「アメリカ」と聞けば、ぼくたちは、すぐに「アメリカ合衆国」のことだと思ってしまう。しかし「アメリカ」とは、南北にまたがる広大な大陸(=土地)に与えられた名前でもあるのだった。そしてまだアルゼンチンの若い医大生だったエルネスト・ゲバラが、友人とともに敢行した冒険旅行のなかで見出したもの。それは、常に虐げられ“搾取”される「(南)アメリカ」という土地と人々という現実に他ならない…。  この映画は、50年前にゲバラたちが見た風景を、あらためて映し出す。それらは、ゲバラが眼にした時とほとんど変わらないのだろう。同じく、差別と貧困にあえぐ先住民や、工事現場での苛酷な労働を余儀なくされる人々の姿もまた、きっと当時のままだ。ウォルター・サレス監督は、まるでドキュメンタリ-作品であるかのようにナマの土地を、人間たちをフィルムにおさめていくことで、そういった「現実」を静かに告発する。そうしてぼくたちは、ゲバラが見た・感じた・考えたままの「現実」、今も変わることのない南アメリカの「現実」と直面することになるのだ。  …ただ、このハンサムで喘息持ちの理想主義者に過ぎなかったひとりの青年エルネストが、後に真の「革命家」チェ・ゲバラになっていったことを、本作は描くものでなかったこと。そのことだけは、やはり少し残念に思う。ゲバラがこの旅を通じて見出したもの、それは“ふたつの「アメリカ」”だったのではないか。ひとつは土地としての「アメリカ」であり、もうひとつはそんな土地を搾取し続ける国家としての「アメリカ」。その構図と直面したことが、彼を“アクティヴィスト(実践的革命家)”へと成長させたはずだ。その“ふたつの「アメリカ」”の関係を、本作は巧妙に避けている。確かに後半のハンセン病患者たちとの交流を描くシーンは、美しく感動的だろう。が、あれだけでは、ゲバラとは単なる「理想主義者」のままにしか見えない。そして「理想主義者」とは、決して偉大な「革命家」たり得ないのだ…。  それでも、映画のなかのナレーションにもある通り、これは「偉業の物語ではない」のかもしれないが、「偉大な“魂”の物語」であることは間違いないだろう。本当に、こんなにも“美しい人”を、ぼくは映画のなかで久しぶりに見た気がする。そのことだけでも、この作品に出会えたことを心から喜びたいと思う。
7点(2004-10-27 17:23:14)(良:2票)
111.  DEAD OR ALIVE FINAL 《ネタバレ》 
(数年前、酒を飲んでて終電に乗り遅れ、仕方なく(カントク、失礼!)入ったオールナイトの映画館でこれを見ました。酔っぱらっていた上、ご年配のホモセクシュアルなオヤジさんにつきまとわれて、逃げるため席を換え換えしつつの鑑賞であったことをご承知おきください。…)  三池カントクの映画は、ホラーやヤクザもの、ヴァイオレンスものなどといった、何らかのジャンルにきちんとおさまったものほど魅力に欠ける。ほとんどジャンル分け不可能な“怪作”であるほど、映画も嬉々としてはじけている。そんな「はじけっぷり」の真骨頂が、この「D.O.A.」3部作であることは間違いんだけど…。ここまではじけトンじまっちゃ、翔兄ィと力兄ィを見に来た大多数の観客はついていけまへんわなぁ。  それでも、“暴虐なヨコハマ市長(笑)の支配下にある街を出て、新天地を夢見るテロリストの若者たち。それに加担する流れ者”という古典的な図式には、この監督ならではのロマンチシズム(どんなにエロ・グロ・ナンセンスな映画を撮ろうとも、三池作品の“核心”にあるのが、ほとんど12歳の少年じみた(!)この「ロマンチシズム」だ)が漂っている。飄々とした翔兄ィ、一途な力兄ィというキャラも、すべてに破綻したストーリーや展開の中でさえ見失われることはない。やっぱり、このカントクはたいしたもんだと(酒による睡魔とオヤジさんの“魔の手”とたたかいつつ)唸らされたものだった。  そしてモンダイのラスト。翔・力両兄ィが「合体」して誕生したロボット(?)の、『鉄男』のドリル・チ○ポコならぬ本物(??)の巨大チ○ポコが一瞬にゅう~っと伸びた時と、続いてのオチへのツッコミ方(お下劣な表現、ご容赦あれ)なんだけど、確かにあれは観客の膝をカックンとさせる「脱力ぶり」にもほどがある。が、あの“カックン感”は、吉本新喜劇を見なれた関西人にならおなじみのものではないか。あの舞台での芸人さんたちによる一発芸は、こうした「脱力もの」の笑いを誘うものだったはずだ…。つまりこの映画の感覚を真に理解し、楽しめるのは、我々「関西人」である! と、小生はこれを書きながら本気で信じつつある。  ただ、これは三池作品の常なんだけど、せっかく警察側・テロリスト側に「イイ女」を登場させながら、ほとんど活躍の場を与えてくれない。そのことへの不満だけは、ひと言イチャモンつけておきたい。
7点(2004-10-22 15:25:27)
112.  第7騎兵隊 《ネタバレ》 
たぶん↓のお二人と同様、関西の地方局によるテレビ放映で見ました(こんな古い西部劇を流してくれるあたり、ほんと“ビバ! サンテレ”ですよね。サイケデリコンさん)。でもって、確かにご両人のおっしゃる通り、お話的にはどうにも盛り上がらない。だって、カスタ-将軍の第七騎兵隊が全滅した“リトルビッグホーンの戦い”は、生き残った騎兵隊員の口で語られるだけだし、クライマックスにしても、結局のところインディアン対騎兵隊の銃撃戦などないまま、1頭の馬(!)の出現があっさりと戦闘を解決してしまう。派手なドンパチだけを期待する向きには、やはりおすすめ出来ません。  ただ、映画のはじめ近く、人の気配のない砦の様子をさぐるランドルフ・スコットの主人公が、砦の内部を見渡す場面がある。カメラは主人公の視線のままぐる~りと360度パンしていくんだけど、最後に映し出すのが主人公のスコットの顔! …人は鏡でもない限り、決して自分の顔を見ることはできないよね。だのに、はじめは明らかに彼の“眼”としてあったカメラが、最後に自分自身を見るといったこのシーンは、あくまでさりげなく、けれど実に大胆なものだと思わずぼくは興奮させられましたです(強いて言うなら、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の名高い360度パンに匹敵するくらいの…マジっすよ!)。  さらに、この映画は西部劇のくせに室内場面が多いのだけど、手前の人物と、背景の両方にカメラのピントが合っているパンフォーカスで撮られている。それだけでなくテーブルなどの小道具と壁の色が統一されているなどの演出により、この「壁」が何とも生々しいっていうか、異様にぼくたち観客の眼差しをひきつけてやまないっていう点も、指摘しておきたいと思う。こんなに「壁」を意識させられたのは、これも大げさな例をもってくるなら、カール・ドライヤーの『奇跡』以来じゃないかな。ホンマっすよ!  …これが鈴木清順の映画とかなら、「なるほどスゴイや」と感嘆すると同時に納得もさせられるそういう画面の“突出ぶり”を、こんな日本未公開の名もないB級西部劇で目撃させられることの驚き。そのことにこそ、ぼくは興奮したいと思う。たとえこの映画の監督が、一部ではカルト的な人気と評価を得ていることを知らなくても、テレビのモニターからでさえ作品の“特異さ”はひしひしと伝わってくるのだから。ただただ、スゴイです。
10点(2004-10-20 13:00:12)(良:1票)
113.  大列車強盗(1903)
走る貨車のなかで、列車強盗と守衛が撃ち合っている。こんな至近距離でよく弾(たま)が当たらないもんだなあという、何とも牧歌的(?)場面。しかし一方で、彼らの背後は扉が開いたままになっていて、そこには流れるような森の光景が映し出されている。この映画を見ると、いつもぼくの眼はそこに釘付けとなってしまう…。  もちろんスタンダードサイズの映画だから、ほぼ正方形に近いフレームの映画のなかに、もうひとつ「開かれた扉」というフレームがある。そしてそれは、ぼくの記憶ではヴィスタサイズ風の横長で、そこに映し出された“流れるような森の光景”の映像には、見るたびいつも陶然とさせられてしまうのだった。  あるいは、登場人物たちの服装やちょっとした小道具など、その細部(ディテール)がもたらすリアリティはどうだ。この映画が撮られた1903年と言えば、まだワイルド・バンチ一味も、ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドも実在していた。西部劇の主役たちが生きていたんである! この映画に描かれたものは、すべて当時の「現実」であり、それを再現したものであるのに他ならない。そしてそれは、今なお本作を、フィクションでありながら「ドキュメンタリー」的な生々しさを見る者に与えないだろうか(少なくともぼくは、そう感じた)。  他にも、100年以上前に作られたこの10分程度の映画は、今なお、ぼくという現代の観客を魅了する部分に事欠かない。それは決して「歴史的」やら「骨董的」な意義だのとかじゃなく、まさに1本の「映画」として、ぼくの瞳と心を奪ってしまうのだ。  …例えば、有史以前の人類が洞窟内に描いたラスコーやアルタミラの壁画。その単純な線と色彩による馬や牛、人などの絵は、驚くべき力強さで見る者を圧倒する。それを「古い」とは、誰も言えないだろう。それは「古い」のではなく、「オリジナル(原初・起源)」だからこそ永遠の“生命”を持つ。同じくこの映画もまた、真の「オリジナル」として永遠に「新しい」のだと、ぼくは信じている。
10点(2004-10-13 11:46:23)(良:6票)
114.  アイ,ロボット 《ネタバレ》 
ウ~ン…。  今どきのSFアクション・スリラーとしての“ノリ”も、ウィル・スミスのスター性も十分な、純然たるエンタ-テインメント作品だし。その上で、豊かな「寓意」を持った、かなりインテリジェントな作品だとは思うんだけど…。すんません、ぼくの中でこの映画って、どういうワケか手塚治虫の初期コミック『メトロポリス』と、“猿の惑星”シリーズの最終作『最後の猿の惑星』とダブッてしまうんです。それがこの映画の“すべて”って感じなんですよね。  つまり、1940・50年代に想像された「流線型とピカピカの21世紀像」を踏襲したビジュアルと、もはや古典的な「人類VSロボット」の階級闘争劇は、ほとんど『メトロポリス』に通じるものがある。そして、「主人(人間)と奴隷(ロボット)の関係の逆転と、戦いの末に共存をはかる」という構造において、これは『最後の猿の惑星』とほぼ同じ物語を踏襲している…。  そしてそれゆえ、この映画は決定的に「古い」のだと思う。本作における作り手のセンス(感覚)が、ほとんど過去の映画や小説、コミックなどで育まれ、培われていったことは間違いない。そこでは、実のところ「現実」などまるで意に介されていないんである。たとえどんなに現実離れしたものであろうと、映画とは、あくまでこの「現実」の延長にあるものだとぼくは思っている。だからこそぼくたちははるか宇宙の果ての物語であろうと、未だ見ぬ未来社会を舞台としたスリラーであろうと、その世界を「実感」でき、「共感」を抱ける。けれど、この『アイ、ロボット』のように、すべて過去の映画や小説やコミックなどに依拠し、その中に“自閉”したかのような作品は、たとえどんなにビジュアル面やストーリーテリングにおいて傑出したセンス(才気)を見せようとも、やっぱりどこかムナシイ。何故なら、あらゆる場面、あらゆる展開が、すでにいつか見たものであるに過ぎないから。近未来SFでありながら、映画は「古い」物語を反復しているだけに過ぎないからだ…。  ところで、この映画のパート2が出来るとしたら、あのラストシーンを見る限り間違いなく「サニーVSウィル・スミス」という設定だよね。今度はサニーが人類に叛旗を翻すに違いないっすよね! …って、そりゃあ『猿の惑星/征服』と同じじゃん。
7点(2004-10-04 19:54:49)(良:1票)
115.  暁の用心棒
アメリカから渡ってきた売れない役者のトニー・アンソニーは、イタリア西部劇ブームの恩恵で何とか主役の座を得る。が、それは、スペインの僻地で細々と撮られた低予算のBマイナス・ランクの代物。彼自身の弁によれば、クライマックスなど単なるビルか何かの工事現場で、ブルドーザーをどけて撮影されたものだったという。 しかし、アメリカ政府がメキシコに貸与するドル金貨を巡り、盗賊一味と流れ者ガンマンが渡り合う映画は、マカロニ特有のサディズムだけではない、ある奇妙な「詩情(!)」を漂わせることとなった。…もちろん、それは“狙った”ものじゃあるまい。けれど、どんなに安っぽいものであろうと、その「詩」は、間違いなく作品を忘れ難いものにした。   …この映画には、科白が極端に少ない。主人公はほとんど喋らないし、誰かが何かしゃべっても、それだけで終わってしまう。つまり、「会話」がないのだ。 代わりに、拳銃やライフルの発射音、馬のいななきや蹄の音、鞭が風を切り肉を裂く音…など、ここには殺伐とした「音」が満ち満ちている。特にクライマックスの、ガトリング銃(ほら、『ラスト サムライ』で政府軍が撃ってた機関銃っす)を乱射する盗賊のボスと、トロッコで弾をかわしつつショットガンでボスを追いつめるガンマンの対決など、廃虚内に響きわたるガトリング銃とトロッコの軋む音の二重奏がほとんど「官能的」ですらあるだろう。この、沈黙と音の〈異化効果〉が、観客を「超現実的(!)」な世界へといざなっていく…。  そして、低予算ゆえにエキストラを雇えずほとんど人間のいない町や、貧相なセットが、逆にやはりシュールな異様さを画面に与えることになったということもある。人物の極端なクローズアップが多いマカロニものにしては、引き(ロング)の画の多いことも、超現実感をより強調していることも指摘しておきたい。例えるなら、それはパゾリーニの『奇蹟の丘』と同じ効果を作品にもたらしている…  いったいこれは、監督の才能ゆえなんだろうか。それとも、単なる偶然? …いずれにしろ、「酷い・汚い・どうでもいい」代物がほとんどのマカロニ・ウエスタンにあって、これはそのすべてにあてはまりつつジャンルを超越するに至ったものだと、少なくとも小生は信じている。  この名もない1本は、ささやかだけれど、「奇蹟」を実現した映画だ。
8点(2004-10-01 17:16:02)(良:1票)
116.  風の季節 《ネタバレ》 
この映画、中学生の時に名画座(…って、もう“死語”だけど)で見ました。なつかしいなぁ。  フランスの片田舎で、歳のはなれた学者の夫や子どもたちと暮らす妻。そこへ夫の助手としてひとりの青年が現れ、彼女に恋をしてしまう。“あなたはまだじゅうぶん若くて魅力的です”と告げられ、揺れる女ごころ。…ああ、実に「おフランス」な展開ザマス!  確かに、お話としては実にありがちな「年上の人妻と青年のロマンスもの」なんだけどね。でもこの映画、登場人物たちの心理を、風で揺れる木立や波立つ草原、沈みゆく夕陽などの自然描写によって語らせるあたりが心憎いんだな。決して科白などコトバに頼らずとも、南フランスの豊かな自然と、何度も奏でられるモーツァルト交響曲第21番の甘美な一節があれば、かくも繊細な陰影に富んだ心理のあやを描きうる。…ドラマというより、これは一編の“詩(ポエジー)”に他なりませぬ。  結局、肉体的に結ばれないまま、年上の女は元の平穏な生活に戻る。でも二人が別離を迎える前日の夜、映画はこんなシーンを用意する。夜更けの散歩から帰り、それぞれの部屋で床につくふたり。女が服を脱ぎ、青年も服を脱ぐ。そしてベッドのシーツを女がめくれば、青年もシーツをめくり上げる。ベッドに身を横たえる女。青年もベッドに横になる。女の眼差し。青年の眼差し。…と、それぞれを交互に映し出すことで、あたかもふたりが同じベッドで眠ろうしているかのよう錯覚を観客に与えるんである。…まだ中房だった小生にも、このシーンは深く印象的だった。単に小手先の編集トリックを弄したんじゃなく、彼らが少なくとも意識の内において「貫通(!)」したことを、この短いカットバックは鮮やかに描いてみせたのだった(そしてその、何とエロチックだったこと!)。  『美徳のよろめき』とは、たぶん三島由紀夫の小説の題名だったと思うけど、フランスの映画や小説において人妻が“よろめく”のは、間違いなく「美徳」だ。そしてこの映画は、スタンダールの『赤と黒』にはじまる「人妻の不倫の美」の系譜の、慎ましくも美しい継承なのだと思う。(主演の人妻を演じたのが、マリー・デュボワ。彼女の名前も、フランス文学にその名を残すヒロインの名を芸名にしたものだ。う~ん、隅々までさり気なく凝ってますね。さすが、元『カイエ・デュ・シネマ』誌編集長のバルクローズ監督!)
8点(2004-09-29 19:59:26)(良:1票)
117.  LOVERS 《ネタバレ》 
男2人・女1人の「三角関係」ドラマは、“誰に感情移入できるか”じゃなく、3人のいずれにも感情移入できる…というか、いずれの心情をも理解できるか否かが大事なんんだと思う。愛する者、愛される者、愛されなかった者、それぞれの苦悩や歓喜、とまどい、揺れ動く想い…。そんな3者それぞれの“立場”を、観客はハラハラしながら、切なさに涙しながら、その行方をただ見守っていく。そして、一方的なハッピーエンドなどあり得ない(2人の恋が成就した時、そこには、かならず1人の“敗者”が残される…)という「真理(!)」を体現するがゆえに、すぐれた「三角関係」ドラマは、ぼくたちに《愛》というものの甘美さと残酷さを「経験」として与えてくれるのだ。  …ぼくはこの映画の、チャン・ツィイーに、金城武に、とりわけアンディ・ラウに、心から魅せられた。彼らのいずれをも、ぼくは人間として「共感」できたのだった。それは、CGとワイヤー操作を駆使したどんなに華麗なアクションシーン(たとえそれらが、あの素晴らしいキン・フー監督の『山中伝僖』や『侠女』をより精巧に“再現”したものだったにせよ)よりも、はるかに息詰まり、胸を高鳴らせ、眼を逸らせない、男と女と男の情念の闘争劇を繰り広げていた。確かにあざとく、作り過ぎの陰謀をめぐるストーリーでありながら、彼ら3人の「愛」をめぐるドラマこそが見る者を圧倒するのだった。  このような「人間(の愛)」を、チャン・イーモゥ監督がかくも正面きって描いたことなどなかったはずだ。イーモゥの映画は、これまで常に「人間」など物語の、あるいは映像(…彼の映画を見ていると、いつも「はじめに映像ありき」という倒錯した想いにとらわれてしまう。あの色彩も、あの構図も、すべてが空しいまでに美し過ぎる)のための“手段”でしかない。なるほど、彼は「天才的」な映像の作り手であり、物語の語り手かもしれない。しかし、そこには、「人間」がいない。つまり、「愛」がないのだった…。  そんなイーモゥが、ついに「人間(の愛)」を描いた。相変わらず審美的すぎる「美しい画」の洪水のなか、それでも確かに「人間」の息づかいが聞こえてきた。 …それゆえ、ぼくはこの映画を愛する。  
10点(2004-09-24 20:10:59)(良:1票)
118.  最後通告 《ネタバレ》 
「子ども」という《概念》が登場したのは、近世になってからのことだ。それまでの社会は、子どもたちのことを、「大人になる前の“半端”な存在」としか認識していなかった。「子ども」が無垢で、大人たちとは“断絶”した彼らだけの「世界」に生きているなどという「子ども観」は、少子化をむかえ、「少なく産んで大切に育てる」ことが可能になった近代に成立したイデオロギーにすぎない。中世までの「数多く産んで、生き残った者を育てる」という、あの頃の医療水準では仕方のないことだった状況からは出てくるはずもないのだ。それまでの彼らは、「死んだらまた産めばいい」程度の存在でしかなかったのだった…。 昨今の、世界中で繰り広げられる子どもたちへの“受難”を見るにつけ、この世は、ふたたび中世以前に逆行しているとしか思えない。ささいなことでわが子を虐待し、死に至らしめる親たち。無抵抗ゆえに、平気でテロの対象として殺戮していく大人たち。…むしろ中世以上に、今のほうが子どもたちの命を軽く見ているのではあるまいか。  この映画の中で、子どもたちは理由もなく失踪していく。大人たちはただ戸惑い、嘆き、必死に失踪の謎を追う。しかし、結局、誰が、どこへ連れ去ったのかは分からない。 けれど、映画を見るぼくたちは、彼らが不思議な黒人少年に誘われ、この世界を捨てて“あちらの「世界」”に行ったことを了解する。子どもたちは、“どこでもない「子ども」だけの世界”に消えていったのだと。でも、なぜ? さらに問う観客に、映画は最後まで答えようとしない。そして、ラストに、まもなく世界中の子どもたちが“こちらの「世界」”から消え去ってしまうことを暗示した「数字」を、ただ見せるだけなのである…。 このラストは、本当に戦慄的だ。この世界から子どもが消えていく…そんな世に、当然ながら未来はない。ゆえにそれは、まさにひとつの黙示録的《終末》を告げるものとしてあるだろう。この、とことんダークで不気味な「ピーターパン(!)物語」は、子どもたちへの“受難”が続く現代だからこそ、極めて鋭く、絶望的な寓話であり、警鐘として見る者を撃つのだ。  子どもたちが、この「世界(=大人たち)」を見捨てていく。…ファンタジーでありながら、何て「リアル」な恐ろしさ、哀しさ。   
10点(2004-09-24 15:11:16)(良:1票)
119.  ヴァン・ヘルシング
そう言えば、あの『ハムナプトラ』だって本来は、ユニバーサル映画の古典的ホラー『ミイラ再生』だったんだよなぁ。 で、今回はいよいよユニバーサル・ホラーの主演モンスターたち揃いぶみできたかあ! …たぶん、先に発表された『リーグ・オブ・レジェンド』の内容を聞いて、「あ、俺もそのネタいただき!」てなもんで、嬉々としてデッチあげた企画なんじゃないかな。  そして出来上がったのは、例によってノーテンキな笑いとアクションとサプライズ満載の、まさにマンガ的世界。例によって、観客の微笑・失笑・爆笑を買っているようだ。正直、ぼくもその1人です。ただ、ソマ-ズ作品の場合、至る所にあるツッコミどころやアラも、笑っているうちに、何だかあらかじめ計算している…意識的に仕組んでいる気がしてこなくもない。まさかとは思いながら、実はデタラメすらわざと“ギミック”として用いているんじゃないかと…。 そうだからこそ、単なる新奇なスペクタクルやもの珍しさばかりを見る者に押し付ける、昨今のCGだらけのアメリカ製エンターテインメントの典型に見えて、ソマーズの映画はハッキリと一線を画すものだと言えるだろう。彼の映画を見るぼくたちは、「おいおい、そりゃ何だ!」とか、「そこんとこ、ウソっぽい!」とか否定的な向きであろうと、知らず知らず作品に「主体的(!)」に関わっていることになるからだ。 特にここ最近の映画の場合、ぼくたちは、「見る」んじゃなく、「見せられている」という“受け身”の立場にたたされていることが多い。その時、ただ「面白さ」や「刺激」をスクリーンから与えられているばかりで、もはや何も考えない。結局のところそれはただ映画に“反応”しているだけのことだ。 しかしソマーズは、この映画においてもそうだけど、どこまでも「おバカ」に徹しているようで、観客の積極的なツッコミを“要請”している。「楽しませる」だけじゃなく、「楽しむ」ことを見る側に求めている。ボケとは、漫才がそうであるように高度な“知性”の産物なのだ。  映画とは、本来そういった映画と観客との「間」において、はじめて成立するものだったはずだ。人と人との間に、愛が成立するように。 そんな、「何より大切なこと」を、あろうことかスティーブン・ソマーズの映画に教わるとは…。だから映画は、あなどれまへん。  以上、与太めいてますが、ぼくはマジです(笑)  
8点(2004-09-15 17:03:33)(良:2票)
120.  ALI アリ
マイケル・マン監督の映画に出てくる「男たち」は、常に寡黙でありながら雄弁で、饒舌でありながら静謐だ。何ものかに挑む時、彼らは黙々と行動する。ただ黙って闘い、殺し、愛し、勝利し、敗北し、死んでいくのだ。命を賭けるものがあるなら、「男たち」は迷うことなく“死”へと突き進む。安っぽいヒロイズムや、無鉄砲さとはあくまで無縁の、「運命に挑み、その結果を受け入れる者」としての孤高と諦観を漂わせて。  アリもまた、そんな“マイケル・マン的「男たち」”のひとりとして、マンの世界(マン・ダム!)に召還された。この、蝶のように舞い蜂のように刺す天才ボクサーは、一方で「ほら吹きクレイ」と呼ばれるほど挑発的な言動を繰り返す。試合前のインタビューで、試合中も相手ボクサーに対して、“暴言”を吐き続けるアリ。そこに、黒人である彼の、アメリカの白人社会へのレジスタンスが込められていることは、間違いない(そんなアリの最大の理解者が、白人のスポーツキャスターであったこと。それもまた、アメリカの一面であることを示すあたりの心憎さ!)。が、この映画は、そんな「社会派」風の、あるいは「ヒューマン・ドラマ」風の側面以上に、アリというひたすら饒舌な男のなかにある“寡黙さ”を、ほとんどそれだけを映し出そうとした。ボクシングと言葉によって「アメリカ」に闘いを挑み続けた男の、内なるストイシズム。そこにこそ彼の、真の偉大さがあったのだと。  だからこの映画が、ボクシングを描きながらどこまでも「静か」なのは当然だろう。これはボクサーたちの闘いを通じて、さらには、ひとりの黒人青年によるアメリカへの闘いを通じて、自らの「運命」と対峙し続けた偉大な魂の記録なのだから。そして、偉大な魂とは、常に孤独で、寡黙で、静謐なものなのだ。  繰り返そう。マイケル・マンの映画の「男たち」は、たとえどんなに“反社会的(アウトサイダー)”であろうとも、孤高を生きる者たちだ。本作もまた、そんなマンならではの世界観が昇華された、偉大な映画だとぼくは信じて疑わない。…皆さんの評価があまりにも低いこともあるので、あえて満点を献上する次第です。
10点(2004-09-15 13:27:53)(良:1票)
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