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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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101.  男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け 《ネタバレ》 
最近『ジョーズ』を再見したら、夢がジョーズの寅があったな、ということが気になり、調べたらこれだった。逆の流れでなく、夢づたいに思い出させる力があるのが寅シリーズの強さだ。これは「芸術とは何ぞや」を軸に語った一編。のちに『あじさいの恋』でも芸術(陶芸)と金銭の関係に触れるが、これでは酔った宇野重吉がちょろちょろっと描いて7万円の愕然から始まる。名前を有り難がる芸術市場への皮肉のようでもあるが、そこまでは言えないか。ついで龍野の旅になり(この風景の美しいこと)、宇野重吉と同行することで「車先生」になるあたり、やはり「名前で尊重される社会」への皮肉で通じ合っているような。宴会の里芋コロコロ。このシリーズでは食べ物のギャグが不思議と印象に残る。芸者ぼたん。この突き抜けた明るさがいかにもコロッと騙されそうなキャラクターで、また騙されることが美質に感じられるのが大事。後半で騙されたぼたんに一緒に付いていく社長もいい。工場の宴会に来てもらった返礼になっている。名前で有り難がるのではなく、相手の実質の行為に実質で応えようとする。寅はこういう現実社会の悪にはまったく無力で、池内淳子の『寅次郎恋歌』以来いつも傍観せざるを得ない。ただし本作では最後に宇野画伯の牡丹の絵を持ってきてきれいに締める。「金銭に代えられない芸術の価値がある」と言葉にすると愛想がないが、それを軸にして一編の人情話に見事に仕立てている。
[映画館(邦画)] 8点(2013-11-28 09:14:16)(良:2票)
102.  楢山節考(1958)
これ貧乏ってことがポイントだ。貧乏ゆえの掟であって、食うこと(歯)が罪悪感を伴ってくる。その実感を出すために、この歌舞伎的な様式が必要になったのだろう。リアリズムで演出したのでは、実感が出なくなってしまうということ、これ映画の手法を考える上で大事なことだ。とにかく製作者の気迫が感じられる作品で、会社を説得させるために前年に『喜びも悲しみも幾歳月』を作ってヒットさせ、やっと本作を手がけることが出来たという。村の長老たちが並んでの、山送りの作法を伝える儀式の重苦しさなど素晴らしい。監督のフィルモグラフィーを眺めると、深沢七郎による本作と『笛吹川』の二作が質感の異なる岩として浮き出て感じられる。木下のこういう深沢七郎の残酷と共鳴する部分をどう捉えるか、ってのが監督について考えるとき避けては通れない気がする。
[映画館(邦画)] 8点(2013-11-20 09:47:50)
103.  犬神家の一族(1976)
推理小説の映画化は、どうしても言葉に頼る部分が多くなり成功しづらいのだが、崑さんはそれを逆手にとって会話の場面で面白がらせる。前作『吾輩は猫である』がそうだった。いわばサロンの仲間うちの会話で成り立っているような原作から、会話のリズムと画面を顔で埋める映像で楽しめる映画にしてしまった。その延長にこの金田一シリーズが出来たのだろう。解決篇の部分が推理ものにとっては鬼門で、どうしても説明になってしまう。そこが本シリーズでは面白い。事件のフラッシュバックを挿入する勘どころ、言い募りあう人物を時間を少しずつずらして短いカットでつないでいく緊迫、顔の部分アップを折り込んだり、コラージュを楽しんで作っている。そして崑の終生のモチーフである女のドラマにもなっていた。本シリーズは『男はつらいよ』とは別のスタイルで、当時の大女優名鑑になった。シリーズを通しての脇役チームとなる俳優たちの顔を見るのも楽しく(本シリーズの坂口良子は忘れがたい)、それにしてもつい最近の映画と思っていたのにずいぶん多くの役者が故人になってしまっているものだ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-11-17 09:34:15)
104.  吸血鬼(1931)
サイレントじゃなかったんだ。サウンド版的だが、声もときどき入る。字幕なしでつらかったのはセリフよりも文章だった。夢魔にどっぷり漬かる体験。影が動いてきて人間の影と重なる。天井。噛まれた女の表情、苦しい表情から邪悪な表情へ。愛するものへ災いをなすかもしれないという不安の中から、悪がヌッと顔を出す。幽体離脱、縛られている女。自分の死体、その棺からの視線。蓋をネジ釘で止めていく回転作業。顔を覆っているガラスの上に立てられるロウソク、そして運ばれていく空の光景。圧巻ですなあ。これと同時上映でやはりドライヤーの『彼らはフェリーに間に合った』という短編も見たんだけど(火事を出す前のフィルムセンターで、デンマークから借りてのなんかの映画祭だった記憶)、交通安全キャンペーン用の映画。疾走する現代性と死神の古典性が対比されているのではなく、疾走感そのものの中にまがまがしさが感じられるあたりがミソ。たぶんこれが初めてのドライヤー体験。全編疾走している映画で、後に彼の他の作品を見るようになり、その地味さにびっくりすることになる。あの疾走の記憶は正しかったのか今では不確か。
[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2013-11-13 10:14:30)
105.  JAWS/ジョーズ
水面上でのはしゃいだ世界と水面下の低音弦がうごめく世界、この対比って以後の監督の作品でもしばしば見られ(恐竜ランドの柵のあっちとこっち)、遊園地のはしゃぎが恐怖に転換するのが好きで、またそれがうまいんだ。そもそもが最初の犠牲者が海面ではしゃいでいるとツーッと横に動くのが、なにか新式の遊具のような不思議さがある。遊ばせていた犬が戻ってこない、捕まえようとしつらえた罠のエサが桟橋ごと持っていかれる、どれもレジャー気分が恐怖に転換する。その裏返しのようにふざけた子どもの偽鮫が銃で囲まれたりもする。海開きのはしゃいだ気分が(はしゃがねばいけないような気分が)恐怖の背景として最適。後半は舞台が海に移って社会が恐怖に対面する装置はなくなってしまうが、ドレイファスとショウの「男の張り合いもの」で楽しめる。これもアメリカ映画の好んだ設定だ(あるいは『黄金』など、男三人ものか)。ショウが空缶を片手で潰すと、ドレイファスも紙コップを潰す。船のなかでの傷自慢も楽しい。冒頭の若者たちの描写に、70年代の映画だったな、と思った。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2013-11-11 09:43:39)(良:1票)
106.  アラクノフォビア 《ネタバレ》 
南の異国から来た邪悪なものが、スモールタウンを恐怖に落とし入れる。まずその蜘蛛の来訪が順々に描かれていて楽しい。最初の犠牲者の棺に付いてきて、ここから出るとき画面の隅で見せるの。瞬間だけチョロッと。烏に運ばれたりして、幼年時の体験のせいで蜘蛛恐怖症になっている医者の新居に到着するわけ。医者もそこの新入りで、ワザワイと一緒にされる。蜘蛛だから壁を這ったり二次元的な行動かと思うと、糸に伝わって三次元的に現われたりもする。ぴょんと飛び掛ったり。屋上パーティで紙コップが動くのなんかもいい。「最近コオロギが鳴きませんなあ」なんて会話も補強する。あわやの瞬間に踏まれちゃうなんてフェイントもある。田園讃歌・田舎讃歌をコケにしているようなスタンスがいいですね。地震があってもサンフランシスコのほうがいい、って。最後倒れたワインが蜘蛛の糸のように流れるのも粋。
[映画館(字幕)] 8点(2013-11-03 09:24:58)
107.  祇園囃子
姉妹(名目上の)の世代の差・時代の差。たとえば若尾文子が登場するときは洋服である。木暮実千代は若尾と浪花千栄子の中間の世代で、だからどっちの言いぶんも分かる。それだけにつらい。若尾もそれは分かっていて戦前の『祇園の姉妹』のように、一方的に責めるわけではない。浪花にやはり凄味、「それはお金のある人が言うことえ」と、ビシッと決めてくる。上方人のネットリした暗さを出すと一番でしょう。東京のホテルの部屋、窓の外に切り絵のようなビルがあり、上を欄間が切ってて、なんかこのセット、戦前ぽいと言うか、モダニスト溝口の残り香を嗅ぐような気がした。その一方で木暮の家を出たとこ、直角に路地が通ってて、分かれ道と言うか、一方に田中春男が去っていき、一方の奥では花火やってたり、狭い感じが懐かしい。モダニズムと日本情緒、監督の美意識の二極がうかがえる。
[DVD(邦画)] 8点(2013-10-28 09:48:02)
108.  プロデューサーズ(2005)
「春の日のヒトラー」のイメージがまずあって出来た話じゃないかな。ショービジネスとナチって、大衆相手(大衆操作)というところで似通っている。風刺とか皮肉とか言う以前のこの「似通ったイメージ」をなんとかしたい、という作家としての欲望がまずあったのではないか。目的のある明るさ。冒頭の失敗した新作、「またちゃんとつまらなかった」と皆が笑いながら出てくるところがおかしい。『バンド・ワゴン』はファウストだったが、これはハムレット。ミュージカルナンバーとしては、ばあさんたちの歩行器も使っての群舞が印象的。どうってことはないんだが、牢の中でそれまでのあらましを歌い演ずるのが、おかしい。ブロードウェイミュージカルをシンシンに置き換える。
[DVD(字幕)] 8点(2013-10-22 10:19:37)
109.  自由を我等に
社長が友情に負けて、ワルガキのように晩餐会をコケにしていくあたり。あの晴れ晴れとした感じは、この時代のフランス映画で特に見られるものではないか。ラストの式典での風も素晴らしい。まだサイレントのココロが残っているのだろう。リアルである必要のなさ。リアルであらねばならないという強迫観念がなかった時代。蓄音機工場ってのが、いかにもトーキーに入った時代を示している。つい後世の我々が思ってしまうように、トーキーになったことにそう戸惑っていた訳ではなく、その時代に作れる映画をただ作ってみたらこうなった、という汽水域ならではの豊かさと見たほうが当たってそうだ。
[地上波(字幕)] 8点(2013-10-16 09:33:54)
110.  コントラクト・キラー
この人の映画はまず上映時間がいい。かつてのベルイマンもそうだったが、北欧って映画時間を無駄に長くしない伝統があるようだ。そしていつものように、ついてなさ・不運を過剰に受け入れていく主人公がいい。寝てるイギリス人よりも働いているフランス人のほうが首切りの対象になる。机も持ち去られる。で彼はちょっと上を見上げロープを買う。ガス自殺に失敗したわけは、新聞(ガス会社のストライキ)で明かされる、と無駄がない。で殺し屋に自分の殺人を依頼する(金時計の金)。『豚と軍艦』の丹波哲郎だ。向かいのパブに行くのに、メモを扉に残しておく律儀さ。請負人を街で見かけると宝石強盗をやっており、ピストルを渡されじっと防犯カメラを見上げ、振り返ると窓いっぱいの目撃者、なんてあたりアキの本領発揮。殺し屋のところでかいがいしく家事をしてる娘もいい。そしてぶきっちょにハンバーガーを焼く手つきからの再会となっていく。充実した80分。
[映画館(字幕)] 8点(2013-10-14 09:46:51)
111.  東京オリンピック
これはいろんなカメラマンが撮影したものを編集したそうだから、画づらに監督のタッチを見てもあんまり意味はないかもしれないが、聖火リレーのときの屋根瓦の構図はあれはどう見ても崑タッチだよね。800mをずっと回しながらワンカットで捉えたのもいい。とにかくスポーツ競技の結果への「興味のなさ」がよく、試合前の選手の表情や敗者の表情など、スポーツをする人間そのものへの興味に絞られているのが潔い。自転車競技の八王子あたりの牧歌的な風景、マラソンの甲州街道沿道も貴重な記録だろう。開会式はこのころはまだ簡素なものだった。これ以後テレビの時代になって記録映画というものも次第に意味をなさなくなり作られなくなったかわりに、式は次第にテレビ向きのウルサイものになっていってしまった。まだオリンピックが「スポーツの祭典」でしかなかった良き時代の記録にもなっているだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2013-10-12 09:21:59)(良:1票)
112.  新学期 操行ゼロ
俯瞰で撮るとドキュメント的になる。対象と同一平面だとドラマとして共感できる点を探しながら見ているが、上からの視線だと観察的になる。だからこそ非ドキュメントのスローモーションで羽毛が舞う場になると、その効果が絶大になるのだろう。いかにも「普段」ではない。そもそも映画という表現の軸にある対立は「記録」と「幻想」だと思っているもので、本作の俯瞰とスローモーションの対立には「まったくそうだ」と思わずうなずいた。それとフランス映画にある「自由万歳」の精神、それが硬直した・スローガン的なものでなく、「だらしなさ万歳」や「のんき万歳」にもしばしば通じているのが、いいと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2013-10-08 09:37:51)
113.  戦火のかなた
ほとんどのエピソードについて言えることだが、言語の複数性、各国語が交わされ通じにくい状況が描かれる。米兵とシチリア娘のほそぼそとコミュニケートが取れていた状況に、不意の銃弾のショックが来る。さらにジョーのために銃を取った娘が独軍に殺され、しかも米兵にはジョーを殺したと思われてしまう。すべての理解から遮断されて、崖下に落とされている一個の死体の孤絶。戦争の残酷さをこれからこういう切り口で見せていくぞ、という姿勢を第一話から明らかにする。少年と黒人兵、社会の弱者同士がかろうじて話し合うが、連帯のような深いつながりには至れない。英会話教本を読む娘も同じ。映像が張り詰めているのは、フィレンツェの市街戦。影がくっきりと浮かび、煙もなく人影もほとんど見えない世界で、ロープに引かれた台車だけが、街角と街角を細くつなげている。修道院で泊まることになった従軍司祭のなかに、ユダヤ教やプロテスタントがいることを知っておろおろするユーモア。ロッセリーニの後の世界につながっていくテーマだ。ここでは缶詰の文化と500年の修道院とがコミュニケートする。そしてラストで、穏やかな川の流れに残酷な死を畳み込んでいく。これまでいくつかのコミュニケーションの可能性の情景を綴っていったラストに、戦争とはつまりコミュニケーションの可能性の放棄なんだ、ということを文鎮のようにドンと重く置く。
[映画館(字幕)] 8点(2013-09-28 09:35:02)
114.  ジプシーのとき
シュールリアリズムって、欧米の「正統」文化史観からだと「こういうのもありました」と傍系的に見られるけど、もっと広く捉えるとスペインあり南米ありこの東欧ありと、もしかしてそっちのほうが主流なんじゃないか。ごく自然に超能力が描かれる。空缶移動、壁を這い回るスプーン、七面鳥。あの七面鳥が死んでこの一家に不幸がやってくる。主人公も悪の道に入って行っちゃう。盗みに入った家で思わずピアノを弾いてしまうエピソード。空中浮遊もよく出てきたが、あれいい。雨の野を駆け出していくお父さん、合唱が入るところで“まいった”と思いました。民族の力、いうか。ジプシーってなんか遠く離れた東洋の我々にはロマンチックな雰囲気があるが、ヨーロッパ人にとっては、魔法を使う犯罪者のイメージがあるよう。古い推理小説ではよくそんな扱われ方をしてたし、だいたい差別用語になっちゃって、今はロマって言わないといけないんでしょ。ジプシーの扱われた歴史は、たぶんユダヤ人とともにヨーロッパを考えるとき大事なんだろう。主人公の顔が良く、ちょっと頼りなげで、組織の中にいればひょうきんな人気者だけど、外に出るとグレちゃいそうな弱さがある。そこらへんに実感があった。/このころユーゴの映画がよく公開されてて『アーティフィシャル・パラダイス/カルポ・ゴディナ監督』ってのもあった。フリッツ・ラングの東欧での青春時代を描くの。20世紀初頭の演劇や詩やカメラに漬かっていたある階級の雰囲気と、その崩壊の予感が味わい。ラング作品のネタ探し的楽しみもあった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-09-17 10:06:19)
115.  生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言
カバーかけたまま走り出す車のイキのよさで乗せ、次第に原発に集中していく。原発ジプシーと呼ばれるワタリの労働者の問題。30年前の映画だ。今も現場で働く人たちがマスコミに登場してこない気味悪さが続いている(欧米だったら英雄視されるだろう事故始末をしている彼らが、日本では顔が映るとモザイクがかかったりする)。廃液漏れなんてまさに今直面してるわけだ。飲み屋でビール瓶をボーボー吹くので彼らの不安が伝わる。浜での宴会で、今まで出会った人の名前を並べ立てる声が、呪文のような効果を出す。あれは題名になっている党の党員名簿でもあるのか。なら政治的な映画かというと、原田芳雄が白いのかぶっていれば、宗教的な気配が漂う。天気雨ってのも宗教的だし。「弱いものは助け合うべきだが、その弱さゆえに仲間を裏切ってしまうこともある、でもその疚しさを持続させれば、いつか弱いもの同士の連帯が可能なのではないか」といったメッセージが浮かぶが、これは政治的なのか宗教的なのか。甘いと言われればそうだが、その切実さが迫ってくるので、つい「あふれる情熱、みなぎる若さ」と叫んでしまうのであった。
[映画館(邦画)] 8点(2013-09-10 10:00:18)
116.  レナードの朝 《ネタバレ》 
せりふを使わないで発病の経過を示していく導入がすこぶるいい。ベンチに名前をナイフで彫りかけて手がしびれる。いつも成績がAかBのレナード君のテストの採点をしている先生がノートを調べると、単語の端がズーッと流れてる。ここらへん怖い。友だちが遊びに誘いに来たのに、帰さなければならない雪の日。視点は医者に移り、バイキンの本見ながら食事をする学者肌。治療が始まる。ボールによる訓練、音楽療法。床の模様替えをして、ルーシーが歩き続けるとこ。水飲み場へ行くのかと思っていると、その脇の窓辺に立つの、ニクい。で新薬の投与による目覚め。悲喜こもごも。熱帯植物園で退屈してるあたりのユーモア感覚。やがて「アルジャーノンに花束を」的な展開になり、ドアの外の自由から遮断される。痙攣が始まると歯を磨くときに便利、なんてユーモア入れちゃうのも凄い。娘が食堂でダンスしてくれるのに泣けるが、彼女がバスに乗るまで窓から見送るのも涙。そう、これは窓の映画ね。R・ウィリアムスはいつもの通り邪気のない善意の人で、困った人でもある。映画も彼を勇気のある立派な人とのみは捉えてなく、でも大量投与で少なくとも一時的な目覚めを与えることは出来たわけで、医療と言うものの難しさを思う。人と人との間にある距離のはるかさ、それだけに人と人とが出会えることの奇跡的な美しさ。
[映画館(字幕)] 8点(2013-09-07 09:55:22)(良:1票)
117.  ナサリン
裏切られる善意、報われない慈悲。予定調和を引っくり返していく。被害者が加害者に変わっていく。それをキリストが大口開けて笑って見ている。弱者を救うことが、虐げることになってしまう。タダ働きさえ、低賃金労働者への嫌がらせになってしまう。厳しいですな(この前の日本の震災でも、援助物資がだぶついて商店の復興を妨げてしまった)。その厳しさも苦渋として描くのではなく、ほとんどギャグとして描く。そして巡礼ということ。何かに憧れて、しかしそれにたどり着けるかどうか分からず歩み続けることなのか。後半の補導されていく人々は巡礼のようでもあり、ブニュエル映画でしばしば見た光景のようでもある。引きずること。ペストの町で少女がシーツを引きずって歩いていく。牢屋でナサリンが引きずり回される。思えば『アンダルシアの犬』でもロバの死骸を乗せたピアノを坊さんが引きずってたなど、彼の作品でよく見かけるモチーフ。ラストに鳴り響くのがカランダの太鼓。異様に晴れた道でパイナップルの施しを受けるナサリンに、神はありやなしや。
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-30 10:04:51)
118.  ミラーズ・クロッシング
秋のギャング。渋いの。『ゴッドファーザー』がイタリアオペラをバックにすれば、こっちは当然ロンドンデリーエア。近づく足。床をこっちに走ってくる銃弾。ドア越しに倒れる男。窓辺で踊るように撃たれ続ける男。そして繰り返される「帽子」、これだけは手放したくなかったのね。遠く母国のアイデンティティを保持していたのか。仲間を失っても持ち続けていた。室内シーンが多く、あの森だって深く閉じてる部屋のよう。ギャングものなのに、走らない・動かない映画。J・タトゥーロのバーニーの印象が強く、ただの馬鹿なチンピラには違いないんだけど、「悪魔のような卑屈さ」があって。他人を呑んでかかっている、その恐ろしいほどの世の中に対する軽蔑。いやもっと大きな何かに対する軽蔑でいっぱいになっている人物。彼がいることで、スタイリッシュなギャング映画が、もう一つ記憶に刻まれる作品になった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-22 09:27:46)
119.  雪之丞変化(1963)
じめじめした復讐譚をカラッと乾燥させたモダンの美に変えている。後の東宝での金田一ものを予告するよう。といってパロディではなく、人生の裏街道の人たちが彼らだけで一つの社会を作っているという面白さは生きている。歌舞伎の白浪ものに通じていくような確かさがあり、無理をしている余計な力みがない。監督にとってはこれが一番自然と思わせる確かさ、これが大事だ。スター総動員のお祭り映画で、それぞれの役者にどう役を割り振ったか、という楽しみもある。義賊・闇太郎に憧れる小者・昼太郎なんてふざけた三枚目を雷蔵にやらせたり(せっかく義侠の行動しても成果はライバルのものと思われてしまう)、山本富士子のお初姐御もいい。ちょっとイメージと違う役を配して、それがハマる楽しさ。この監督は基本、こういう遊びの映画で溌剌とする。こういう映画のときとりわけ自在にやってる気持ちよさが感じられる。セットのデザイン的遊びも一級で、昼太郎が義侠をする貧民窟の路地を屋根から捉えたカット。
[映画館(邦画)] 8点(2013-08-19 10:00:01)
120.  スラム砦の伝説
見たときはなんか勘違いしてて『ざくろの色』→『アシクケリブ』→本作、の順に作られたと思い込んでいた。だんだんと洗練の過程が分かるな、と思ってたら、『ざくろの色』→本作→『アシクケリブ』の順であった。本作のあとで、あのギンギラギンの『アシク』を作ってたんだ。とんでもない野郎だ。この『スラム』が一番こってりしてない作品じゃなかったでしょうか。メイクも淡白で、今までの人形劇志向と違い表情を持たされるシーンがあったし、室内シーンの照明も、ほかのわざとベタッとさせるのと違って、明暗をつけたりする。正面を向いた人、家畜の匂い、などは同じで、図柄優先の作風。愛国青年の殉死の感動物語よりも、女の屈折した復讐劇のほうに重点が置かれていたよう。ギリシャ悲劇風。コーカサスとギリシャってトルコ挟んでけっこう近いんじゃないか。愛と憎しみ、個人の情念が国民的伝説に溶け込んでいる、ってのが基本姿勢らしい。この人本人の弾圧と創作の関係にも通じていきそう。死ぬ青年が思い描く侵略のシーンてのがあって、羊の群れが匍匐前進する敵兵たちに追われて移動していく。あれなんかホントああいう図柄を収めたいためだけに入れたシーンと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-17 12:35:33)
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