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1.  007/スカイフォール 《ネタバレ》 
D・クレイグに代わってから3作目。ボンド役もすっかり板について・・・と言いたいところだが、そうはならないところが辛いところ。彼を起用した理由の一つに、原作のイメージに最も近いらしいのだが、、それにしても、これほど“ボンドのテーマ”の似合わない男も珍しく、ワクワク感がまったく感じられない。「ロード・トゥ・パーディション」の監督S・メンデスだからと言うわけでもないが、とにかく画調が終始、暗く陰鬱なのは、おおよそ「007」らしくなく、クレイグのフィルモグラフィーを見ても、何故か鬱陶しい映画ばかりがズラリと並ぶ。彼の極端にこけた頬とおちょぼ口、薄い眉毛の容貌は、ちょっと不気味で、「ロシアより愛をこめて」がリメイクされたら、敵役でもある、グラントをこそ相応しいと思うのだが・・・。「007」の定義は、3年に一度の“お祭りムービー”であり、つまりはオリンピックのようなものでる。スケールも然ることながら、どこまでも荒唐無稽な夢物語であり、また、小粋でエレガントでエロティックで、なにより主人公のボンドに華がないと成り立たない映画なのである。長年に渡って製作者として携わってきた、アルバート・R・ブロッコリやハリー・サルツマンから世代交代してからは、趣や目指す方向性も変貌を遂げ、何とも無味乾燥なシリーズに変質してしまった感がある。だからと言って、リアリズムやハードボイルドに徹してるのかと言えば、そうでも無く、とりわけ、冒頭の列車上のアクションからタイトルを挟んでからの後のシーンへの流れなどは、ご都合主義に過ぎる。また、らしくないという意味では、秘密諜報員が町中を追い掛け廻るなんて図は、まるで刑事モノ。今まで時代をリードしてきたシリーズだが、優れたアクション映画の後塵を拝しているかのように、何やら焦りのようなものを感じさせる作品となっている。
[映画館(字幕)] 5点(2013-04-06 16:49:25)(良:2票)
2.  ダイ・ハード/ラスト・デイ
酷評につぐ酷評で、シリーズ最低作の烙印をも押されてしまった気の毒な作品だが、本当に、そんなに酷い出来なのだろうか。存分に楽しめたという点では、私などは少数派だが、冒頭からクライマックスに至るまで、昨今、これほどダイナミックでスピード感溢れるアクション映画を他に知らない。些かもダレることなく、切れ味鋭くストレートな印象を魅せているのも、余計なドラマを極力廃し、アクションに徹する事で、上映時間を最小限に抑えているからなのだろう。この設定と内容なら、極めて妥当であり、過去の優れたアクション映画と呼べるモノは、すべからく上映時間は1時間半程度であり、そういう意味において、本作は、まさにアクション映画の王道なのだ。随所に、“偉大なる第一作”にオマージュを感じさせてはいるが、むしろ、これらは、“プチ・リメイク”と言えるもので、ご愛嬌として楽しめる。それと言うのも、監督に“リメイクの帝王”J・ムーアを迎えた事から、製作者側の狙いが読み取れ、彼もまたそれに見事に応えたのである。難を言えば、父と息子が殴り込みをかける戦場に、チェルノブイリを設定した事。アイデアは面白いんだけど、これはちょっと無茶だったかも。ただ、無茶は、このシリーズの大きな特徴で、ジャンプしたパトカーでヘリを墜落させたり、ライターの火で旅客機を空中爆発させるという、物理の法則を無視したり、高速道路で戦闘機がミサイルをぶっ放したりと、過去の事例を言い出したらキリが無いほど。だが、本当に問題なのは、テロ集団の襲撃に巻き込まれ、孤立無援の高層ビルの中、戦いを余儀なくされていく若き日のマクレーンから、冒頭の射撃の的に風穴を開けた時から、既に戦闘モードになっている、本作の彼の姿の変貌ぶりだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2013-04-06 15:17:47)(良:2票)
3.  ウィスキー
下町で古びた靴下工場を細々と経営する初老の主人ハコボの元へ、疎遠になっていた弟のエルマンが訪ねてくる。ハコボは事もあろうに、従業員のマルタに偽装夫婦になる事を頼み込み、三人での束の間の奇妙な共同生活が始まるというのが、大雑把なストーリー・ライン。何故、ハコボは結婚していなかったのか、或いは偽装結婚を何故する必要があったのか、などと言った素朴な疑問には殆んど触れられないまま、ドラマは進行していく。勿論、それらには然したる意味はなく、何の変化もない同じ事の繰り返しで明け暮れしている所へ、一石を投じた事によりドラマが生まれ、やがて人間の本性が炙り出される面白さ。様々なエピソードを積み重ねる事でそれらは的確に描出されていく。静かな語り口だが演出は実に巧みで、ドラマらしいドラマがなくとも、多くの事を語りかけてくる作品だ。もう若くもなく、同じスタイルに固執し変化を望まない一組の男と女。仕事以外のことには無気力・無関心で、自分の殻に閉じこもって人生を楽しもうとしないハコボ。今までどのような人生を送ってきたのだろうか。しかし羽振りのいい弟には弱みを見せたくないという、兄としてのプライドだけは持っていて、その頑なな姿勢はどこまでも崩さない男だ。年配の従業員マルタも寡黙で仕事には従順な女性として描かれるが、利己的で単純なハコボと違い様々な表情を垣間見せる。彼女は一人では生きていけない事を自覚し、そして何かに期待を抱きながら生きてきた女性なのである。偽装夫婦を頼まれた時に快く応じたのもやはりその何かを期待したからで、たまたま年恰好が同じという程度の理由で、マルタを選んだハコボとは大違いだ。だからラストのしっぺ返しも当然の成行きとも言える。表向きは例え同じ方向を向いているようでいても、生き方や考え方というものはやはり人それぞれ違うという、至極当然のことを映画は改めて教えてくれる。“チーズ”と“ウィスキー”の違いはあっても、人生を笑顔で過ごしたいのは何処の国の人も同じだと、作者は言いたげだ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-16 23:20:15)(良:3票)
4.  メメント 《ネタバレ》 
几帳面な人ほど痴呆症になり易いという説を聞いた事があるが、人間本来の喋る事や食べる事、或いは車を運転するといった生活習慣は忘れないそうだ。そう言えばこの映画の主人公は10分前の記憶が途切れるという事は忘れないようで、その為のメモを採ることもしっかりと覚えていようとする、実に神経の細やかな男のようだ。(しかし体中にメモを刺青にするという行為は、いくらなんでも悠長な話ではないか?)もうひとつ、主人公が車を乗り降りするたびに何度も繰り返し使用するドアリモコン(キーレスエントリー)。本来他人の車であるのにもかかわらず、決してその行為を忘れることがないという事を、ことさら強調するかの如く執拗に描写することで、主人公の性格を炙り出してゆく過程が何とも面白い。冒頭での、記憶が薄れていく暗喩としてのポラロイドが上手く生かされていると思うし、またどこかで記憶が廻り廻って、その度に主人公が混乱している様子も巧く表現されている。
[映画館(字幕)] 9点(2010-08-01 23:59:14)(良:1票)
5.  グエムル/漢江の怪物
今、世界中から最も熱い眼差しを受けている韓国の社会派ポン・ジュノが、いわゆる大娯楽作品に挑戦したのが本作である。本国では当たらないとされているジャンルであるにも拘らず、大ヒットを記録したこの作品は、紛れもなく“正しい怪物映画の作りかた”的な面白さに満ち溢れていて、今後、亜流作品が続出することは間違いない。  本作の最も注目したい点は、政府や軍隊あるいは科学者といった、市民(=弱者)を守り、本来立ち向かっていくべき組織が怪物を生み出す原因を作り、そればかりか、自ら闘う事を余儀なくされる市民の足枷にまでなってしまうという、今までの怪獣映画の常識を覆す逆転の発想にある。冒頭の在韓米軍研究所から薬物を廃棄処分するシーン(いかにもB級っぽい!)や、政府による妨害工作など、反米・反政府といった社会派としての一面を覗かせてはいるが、実のところ余り深読みするほどの面白みは感じない。それは怪物に攫われた娘を、家族が力を合わせて救出するというストレートなドラマツルギーのほうが勝っているからに他ならない。それは一方で、さながら街をジャングルに見立てた、サバイバルゲーム的な面白さとでも言えるだろうか。怪物と国家の両方と闘わなければならない家族には、悲壮感や深刻さを余り感じさせず、どこまでもカリカチュアされた描写を貫く事で、大騒動を繰り広げる人間たちの滑稽さと悲しさを浮き彫りにしている。それにしても、韓国映画の生々しさは本作でも健在で、黒くヌルっとした物体が橋の欄干から、(まるでウ○コのような)いかにも排泄物の塊のように垂れ下がる姿で登場する怪物と、“ん?あれは一体、ナニ?”と、一瞬わが目を疑うような反応をする人々の描写が秀逸で、そのあとにくる河川敷でのパニックへと波及していく転換の面白さは比類のないものである。カメラの遠くから近くへの遠近法と、「ジョーズ」を参考にしたような横移動との巧みな組合せによる視覚効果は、緊迫感を伴った極めて精度の高い迫真の映像であり、中でも、次々と人々を襲う怪物が土手で足を滑らせるマヌケぶりなどは、まるで本当の生き物のような錯覚を覚えさせるほど芸が細かい。この序盤の圧倒的な素晴らしさに比べると、クライマックスは少々呆気ないが、ジャンルを問わずとも質の高い映画を描出するポン・ジュノの才能も然ることながら、映画製作に於ける柔軟な姿勢と懐の深さには敬服せざるを得ない。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-10 23:41:14)(良:3票)
6.  世界最速のインディアン
これもやはり、ひとつの人生の応援歌と呼べるものではないだろうか。人間、何か一つの事に一生を賭けるという事など、誰にでもその機会はあっても、なかなか実行に移す事は難しいもの。それも世間の常識を覆すようなものであるならば、尚更である。情熱や経験だけでは達成することなど到底不可能な事。しかし、それを自らの人生の生きている証しとし、目的として、ついに夢を実現させた男の生きざまを描いたのが本作。歯を食いしばり、いかにも頑張っている風には見えない主人公。その颯爽とした立ち居振る舞いの清々しさ。それが持病持ちの老人とならば、尚更際立つ。その気概の持ち主を、A・ホプキンスが自身とダブらせ、孤高の人物に成り切って、実に気持ち良さそうに演じている。軽妙洒脱な面を見せながら、人間味を滲ませていくという、彼の引き出しの多さには、今更ながら敬服する。幾つになっても夢を追い翔る少年のような気持ちを抱き続けられるのは、男の特権であろう。それを身をもって証明してくれているのだ。本作でとりわけ優れているのは、年老いてから旅に出て、様々な人々と出合うことで、一種のカルチャーショックを受けながらも、人の意見には素直に耳を傾け、人情の機微を感じていく彼を、単なる頑固一徹な老人といった画一的な人物としては描いていない点や、周囲の多くの暖かい眼差しが、彼の夢を実現させたという視点を巧みに描出できた事だろう。実話をベースにしているからこそ、一見すると奇想天外なストーリーにも、真実味が帯びてくるのであり、ポンコツ・バイクを引っ提げて、世界の名立たる強豪を相手に出し抜く姿には、もはや喝采を挙げるしかない。近年稀に見る、ロードムービー痛快篇の誕生である。
[映画館(字幕)] 9点(2009-07-19 00:09:56)(良:2票)
7.  キング・コング(2005)
映画史上余りにも有名なキャラクターであり、“怪物映画”の原点とも言うべき「キング・コング」を最新テクノロジーを駆使してリメークしたのが、P・ジャクソン版の本作。ここまで徹底して映像化してくれれば、リメークした意義があろうと言うもの。SF映画の古典のリメークとしては、スピルバーグが「宇宙戦争」に今日的な味付けを施し、その独自の切り口と驚愕の映像で我々を魅了したのが記憶に新しいが、本作はあくまでも正攻法で描ききった、見所満載の超一級品と呼ぶに相応しい作品だと言える。ストーリー・ラインも然ることながらデティールにおいてもオリジナルと大差なく、また数々の名場面はそのまま踏襲されているが、CGでダイナミックに再現された映像は、古き良き冒険活劇としての味わいを些かも損なってはいない。計算され尽くした画面構成の巧みさと映像表現に於ける技術力とセンス。そして得意の長尺ドラマの組み立て方など、P・ジャクソンの魔法のような演出は冴えに冴える。こういったド迫力の超大作を撮らせたら、今まさに“旬の監督”と言えるのではないだろうか。特筆すべきは、やはりオリジルをも超越した言ってもいいほどの、野性味溢れるコングの仕草の数々。いかにも密林の王者らしいふてぶてしさとその雄叫びの凄まじさ、時折見せる物憂げな表情など、息づかいまでも感じさせ、CGとは思えないほどの完成度の高さである。ただ、恐竜たちの描き方は迫力あるものの、画一的で面白みに欠けるし、また谷底での巨大化した無数の虫の襲撃シーンはインパクトがあり過ぎ、恐竜たちの存在を霞ませてしまうだけで、少々余計な気もする。時代設定に拘りを見せているのは、夢とロマンが溢れていたあの時代だからこそ成立し得たオリジナルへのオマージュともとれるが、やはりエンパイア・ステートビルでのクライマックスの攻防戦に焦点を絞っていたからだろう。それはコングを攻撃するのはあくまでも複葉機でなければならないからであり、蝿を追い払うかの如く叩き落とされる複葉機に対し、ビルの頂上で雄叫びを上げるコングという構図が「キング・コング」という映画の最もシンボリックな部分である以上、最新のジェット戦闘機では絵にならないのである。エンパイア・ステートビルの向こうに広がるパノラマは“カラー作品”ならではの鮮やかな色彩設計で、コングとアンを包み込むように束の間の至福感を見事に描出している。
[映画館(字幕)] 10点(2009-07-14 23:34:43)(良:2票)
8.  地球防衛軍
SF映画が空想科学映画と呼ばれていた時代の、これは日本が生んだ特撮映画の中でも特にエンターテインメント性の強い作品で、本格的な侵略SF映画としても、後の世界のフィルム・メーカーたちに多大な影響を及ぼした記念碑的作品である。映画は、圧倒的な科学力で地球侵略を企むミステリアンと、やはり最先端科学を結集した地球防衛軍との大攻防戦が、極めて日本的景観の富士の裾野を舞台に展開されていく。それはまさに音と光の一大ページェントといった趣であり、シネマスコープの横長の画面が実に効果的。山火事や地崩れそして大洪水といったスペクタクル・シーンも用意されてはいるが、やはり卓抜なアイデアを駆使して製作された科学戦を演出する様々なメカの活躍ぶりが楽しい。夕暮れの蒼さにひときわ白く輝くミステリアンの円盤は、エイをデザイン化したようなユニークなボディで、ゆったりと飛行する姿は優美ですらある。山の斜面の一角が崩れて登場するモゲラは、鼻と背中にあるドリルで地中を掘り進むモグラ型ロボット。ゆったりといかにも重量感溢れる動きは恐怖感たっぷりだが、その鈍重さが唯一の欠点でもある。目からはあらゆる物を溶かしてしまう強力な怪光線を発するのに対し、防戦一方の自衛隊員の武器には火炎放射器というのが、この頃の時代色がよく出ている。モゲラが暴れまわる前半から一気に富士をバックにしたバトルが開始されるが、地球側からは熱戦砲を装備したα号とβ号の空中戦艦が登場。このシャープなデザインの攻撃型スーパー・メカと実際の戦闘機を並列に合成して、その巨大感を演出するところなどは円谷特撮の真骨頂であり、噴射口から黒煙を吐きながら進行するシーンなどはもはやアートと言ってもいい。最終兵器のマーカライト・ファープは、後の東宝特撮映画に欠かせないパラボラ型兵器の原型である。輸送型ロケットのマーカライトジャイロが上空で真っ二つに分かれたカプセルから出現、敵の熱線を反射・吸収するパラボラを上にして、逆噴射で地上に降りてくるというアイデアは画期的で、ドーム包囲網の画面構成が実に素晴らしい効果を挙げている。このように単純かつ荒唐無稽な娯楽作品ではあるが、1時間半足らずの上映時間には息をもつかせない面白さが凝縮され、円谷特撮では最も密度の濃い作品だったと言える。今でも様々なシーンが明瞭に甦るほど思い出深く私にとってはまさにエバーグリーンなのである。
[映画館(邦画)] 10点(2009-07-08 00:13:49)(良:4票)
9.  長江哀歌 《ネタバレ》 
別れた妻と子を捜しに、中国は山西省から三峡ダムへやってきた男と、時を同じくして、音信不通の出稼ぎ夫を追ってきた女。その二人に纏わるドラマを軸に、巨大事業の進む長江の“今”をセミ・ドキュメンタリーで描いた作品。雄大な自然をバックに、人々の感動的な出会いと別れといった、豊かな娯楽性を秘めた内容ではあるが、独特の作風で知られるジャ・ジャンクー監督の手になると、かなり趣が異なった作品の仕上がりを見せているのが特徴だと言える。タイトル(日本の)から受ける風光明媚な叙情的イメージも、メロドラマになりそうな男女の再会のシーンすらも、その描写たるや、まったくと言っていいほど素っ気ないのは、描こうとしている対象が、この地に暮らす普通の人々の生活そのものであるからに他ならない。つまりドマラチックな味付けをする事からくる、嘘っぽさを極力廃したいという、彼の基本的なポリシーによるものだろう。(ただ、建物が突如ロケットになったりするような、意味不明な“遊び”もありますが・・・)従って、読後感と言う意味では、まったくと言っていいほど盛り上がりに欠け、一般の観客には不向きだという烙印を捺されかねない作品だとも言える。しかしながら、ここに描かれる、昔ながらの人海戦術で建物を解体する、労働する男たちの逞しく生きる姿こそが、近代国家としての今日の中国を下支えしてきた人々の生身の姿であることは疑いようの無い事実であり、そういった中国人の活力と生活感というものが、画面を通してビビッドに伝わってくる。それだけで十分なのではないだろうか。国策に翻弄され、周囲がどんな状況に変わろうとも、生きていく為には、なり振り構わぬ姿勢と結束力をみせる彼等だが、それぞれ一人一人には、やはり事情もあり苦悩がある事を、さり気無く諭す幕切れが、ことの他、印象的だ。
[映画館(字幕)] 8点(2008-05-08 22:52:14)(良:1票)
10.  ローレライ
戦場という特殊な状況下に置かれた男たちのドラマ。それは常に死と隣り合わせであることを意味し、ただそれだけでも緊迫感を生み出すものだが、さらに潜水艦という閉塞された空間ともなると一層切迫感を帯びてくる。しかし本作に限って言えばカラッとした明るさ(脳天気と言い換えてもいい)を覚えても、緊張感の欠片も感じないのは何故だろうか。シリアスさの一方でSFファンタジーといった感覚の本作が、そのどっちつかずの印象となっているのも、一人の超能力少女を登場させている事に起因しているように感じられる。男たちの舞台に上げてしまったこの不思議な少女に、どれだけのリアリティを感じさせられるかが本作のポイントともなるわけだが、実際にはさほど重要な役割を担っている訳でもなく、また有機的な働きをするでもなく、実に曖昧で得体の知れない存在としか映ってこない。しかもその彼女を艦長以下乗組員全員が、この男たちの聖域に容易く受け入れてしまうという不可解さ。とても国家存亡を担っている軍人たちとは思えないほどの御気楽さである。「私は、歌うことが好き」などと、妻夫木クンと甲板で日向ぼっこをするなど、状況を考えるまでもなく、まったく真実味のない浮世離れしたシーンであり、いかにも若い客層狙いのあざとさを感じてしまう。その他、全編有り得ない設定のオンパレードで、基本的なコンセプトを見誤ると、かくも無残な作品となってしまうという戒めをも感じてしまう。本作は戦争体験とはまったく無縁の世代が、そして過去の戦争映画をロクに勉強もしていないことが図らずも露呈してしまった、いわゆる平成という時代そのものが創り上げた産物だと言える。
[映画館(字幕)] 4点(2008-05-04 14:46:41)(良:6票)
11.  それでもボクはやってない
周防正行監督の新作は社会のある一断面を描いた問題作である。ブランクというものをまったく感じさせない彼の手腕は、やはり本物である事をいみじくも証明した、実に力のこもった作品であり、待たされただけの甲斐はあったと言うものだ。描かれる内容は、日常生活に於いて普段我々が関知しないと思っている、裁判制度の現実と冤罪の怖さを否応無く思い知らされるものである。一般の民間人がある日突然、犯罪者として扱われ、罪に問われるべく裁判に持込まれた挙句、限りなく100%に近い確率で有罪とされてしまう司法の在り方とその不条理さ。映画は裁判が言い渡されるまでのプロセスを、実に肌理細やかに解り易く描き、訴訟制度に於ける組織が個を潰していくという構図を、由々しき現実的な問題として、我々ひとりひとりに訴えかけてくる。余りにも映画的に面白く創られている為か、深刻さを然程感じさせないのは、殺人といった重い犯罪ではなく、あくまでも微罪である事が考えられるが、だからこそ、いつ自分の身に降りかかるか分らない、より身近なものとしての怖さと理不尽さを感じさせる。この映画でとくに興味を引いたのは、対照的な二人の裁判官の存在である。片や人情肌で、一方は冷静沈着といった、良くも悪くも人間性というものが真実味をもって巧みに演じ分けられ、そのイメージだけでは判断しかねる程、現実の裁判官とはこういう人たちで成り立っているのだと実感でき、実に説得力がある。途中から何故か交代してしまう事や、彼等自身の評価基準の裏話、或いはどこまでも事務的に物事を進めていく姿勢などを随所に散りばめる事によって、彼等も所詮公務員である事を再認識させられる。このキモである裁判官を演じる小日向文世と正名僕蔵の、冷静な熱演が作品を引締めている。多くの民間人が訴訟中であることの現状や、当事者にならないと解らない心情などの様々なエピソードも、長きに渡る綿密な取材に裏打ちされたものだからこそ、真実味が生み出せているのである。本作の印象はやはり周防監督らしく、社会派と言うよりも硬派なエンターテインメント と言うべきかも知れない。
[映画館(邦画)] 10点(2008-03-02 23:20:56)(良:1票)
12.  美女と液体人間
東宝特撮映画史の中でも、いわゆる「変身もの」というジャンルを確立した先駆的な作品として、是非とも記憶に留めておきたい逸品。「ゴジラ」がそうであったように、本作も核による放射能の計り知れない脅威と恐怖がテーマとなっている。放射能の影響で巨大化した怪物が暴れ回るという映画は、今までにも散々作られてきたが、しかし本作のような液体化した突然変異体が人間を襲い、瞬時に溶解して物質に同化してしまうという、異形の恐怖を扱った作品はほとんど例が無く、そういう意味においても極めて貴重な作品である。“彼ら”が実際に姿を見せるのが遭難船という設定は、現実の第五福竜丸事件を明らかにイメージしており、放射能の影響力に神経質になっている当時の社会状況を、映画として的確に反映させたものである。船を発見した船乗り仲間たちが、真っ暗闇の船室を巡る中、衣服だけが其処彼処に脱ぎ捨てられている事を目の当たりにする、これからの惨劇の始まりとなるこの一連のシチュエーションは、「ラドン」の序段の水没した坑道の恐怖感をそのまま増幅させたものであり、この手法は後年の「マタンゴ」にも引き継がれている。天井や壁や床を這いずり回り、どぶ川から壁面を伝って窓から雪崩れ込んでくる緑色の液体は、あたかも生き物のように全編に渡り描写される。そして音も無く忍び寄り、理由も無くまた相手も選ばず人間を溶かしてしまう恐怖感。 これらの視覚効果は、円谷特撮の腕の見せ所であり、試行錯誤を繰り返しながらも、見事な液体人間を創出してみせたのである。人間が服を着たまま萎んでいく様子を、細かいカット割りで繋ぐ編集の巧みさ。また、科学的裏付けの為、泡を噴きだして溶けていく蛙の実験を、微に入り細に穿ち描写することで、より説得力あるものにしている。中盤からクライマックスへ至る美女を襲う液体人間の構図は、スリラー映画の王道であり、スリリングな面白さと底知れない恐怖で、 SF映画史に独特の存在感を示している。余談ながら、白川由美は私にとって永遠のマドンナであり、また、幼い私がトラウマになってしまうほど恐怖を味あわされた本作に、どうして低い点数が付けられようか。
[映画館(字幕)] 10点(2007-12-17 23:44:46)(良:3票)
13.  ツォツィ
饒舌で冗長な作品の多い昨今、極めてシンプルなドラマツルギーを保持しながら、観る人の感情に訴えかける奥深さで、心に染み入るように感動が伝わってくる。上手い映画とはこういう作品のことを言うのだろう。アパルトヘイト以来、アフリカを舞台にした映画が次々と公開されているが、同じ黒人居留区のスラム街を描いた「シティ・オブ・ゴッド」の喧騒に対し、本作が意外なほどの静謐さで貫かれているのは、時代や国家を超越した、謂わば人間本来の「優しさ」と「寛容」と言う普遍的なテーマに集約されているからだろう。地を這いつくばり、貧者がより貧者を襲ってでも生き抜いていかなければいけない生々しい現実の中、生まれながらにして薄幸で、無軌道にしか生きられないツォツイは、他の人間を敵視し決して心を開こうとしない、まだあどけさの残る孤独な少年だ。しかし、無抵抗で純真無垢なる者と対峙した時に見せる慈愛と、思春期の少年らしい女性への憧憬は、母なる者へのイメージと重なり、彼の不幸な生い立ちを感じさせる一方で、本来の人間らしさが芽生えた事を印象づける。このツォツイを演じる少年の荒んだ眼差しとナイーブな表情が素晴らしい。終盤、ブルジョワ夫婦も警察側も、やけに物分りが良過ぎるのが気になるところだが、作者自身が、世の中に本当の悪人はいないという、性善説を前提として創られているからかも知れない。
[映画館(字幕)] 9点(2007-10-18 17:54:42)(良:1票)
14.  キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
タイトルバックにはあまり凝らないと言うか、拘らないのがスピルバーグ作品の流儀なのだが(それは本編に自信があるからこその裏返しともとれる)、今回ばかりはレトロっぽいアニメを今風にアレンジして、これから展開される作品世界に我々を誘ってくれるには、実に効果的なオープニングだ。陽光眩しいのんびりとした60年代の雰囲気の中、全編にわたり軽妙洒脱な語り口で魅せるこのスピルバーグの新作は、まさしく原初に立ち返ったような印象を受ける。SFXをふんだんに駆使したSFでもなければ、ド派手なアクションもない。あるのは贅肉をそぎ落とした、彼本来の姿そのもの。軽いフットワークで撮った作品のように見られがちだが、恐竜や宇宙人などが出ない分、いわゆる誤魔化しが利かないため、演出力そのものが作品の出来を左右してしまう。それだけに今までの作品中でも、彼自身かなり力を込めて撮った様子が窺い知れるというもの。そしていかにも彼らしい壮快な作品に仕上がっている。とくにデカプリオの七変化の伊達男ぶりと、不変のスーツ姿のハンクスの対比が面白く、頭脳明晰で常に奇策に転じて逃れるレオに対して、極めてオーソドックスな捜査で追い詰めていくハンクスという構図が、ふたりのキャラを殊更際立たせている。痛快作ではあるものの、実話からくる重みを感じさせるラストも巧い。
[映画館(字幕)] 9点(2007-09-25 23:29:10)(良:1票)
15.  ブラックブック
レジスタンスものは、近年の戦争映画の中では少数派とも言えるが、本作ではむしろ一人のユダヤ人女性の戦争体験による、波乱に満ちた数奇な運命を中心に、戦争というものがいかに残酷で、人間の運命を狂わしていくかを描いたものである。しかも監督がP・ヴァーホーヴェンという事もあり、展開は必ずしもセオリー通りとはならず、かなりアクの強い作品に仕上がっている。ナチスとレジスタンスという明確な対立の構図の中を、女スパイとして綱渡りをするのも、肉親を虐殺された事による私憤の為であり、映画としては常識的に、彼女の復讐劇が描かれていく筈のものが、そうはならないのは、従来から既成概念に捉われず、自由闊達な視点で創作するヴァーホーヴェンの一つの特徴と言えるだろう。そういう意味においては、中盤の見せ場である仲間の救出劇や、ムンツェとのラブ・ロマンスにしても、敗北感や虚無感ばかりが覆い尽くしている。つまりは本当の意味で、溜飲を下げる要素は何一つ無いと言ってもよく、波乱万丈の大娯楽作品としての味わいとは程遠いのである。しかしながら、ただひたすら荒っぽい筋立てで、まったく先の読めないまま、目まぐるしく展開していく事と、彼の作品の特徴でもある、残虐性や露骨さ、或いは猥雑さ(中でも美女を裸にして汚物まみれにするという悪趣味の極み!)等が渾然一体となって、本作を魅力的なものにしている事も事実である。全編、既成の善悪の判断の無意味さと、欲望に駆られた人間の愚かしさが痛烈に炙り出されていくが、やがて平和を迎えた時に、かつて、仇の男と毎夜の如く情痴を繰り返していた、もう一人の女性と再会した事から物語が回想されていくのも、何やら皮肉な運命を感じさせる。女たちの生きる事への貪欲さとしたたかさに、改めて人生を教えられた思いだ。注文を付けるとすれば、何の前触れも無く唐突に出現した感のある、肝心の“ブラックブック”の(まるで葵の印籠のように)有無を言わせぬその信憑性と齎す意味に 、あまり説得力を感じない点だ。
[映画館(字幕)] 8点(2007-07-29 16:03:58)(良:1票)
16.  父親たちの星条旗
日米双方の視点から描いた硫黄島2部作とは、舞台が同じでありながらアプローチの方法がまったく違う為、大きく異なった印象を受けるものであった。それは作品の出来不出来という次元の話ではなく、民族の置かれた立場、描かれている内容、人間描写の密度の違いから受ける物語性の深さによるものであり、本作が「硫黄島からの手紙」ほど身につまされなかったのは、単に私が日本人だからという理由だけではない。硫黄島に星条旗を立てることの意味と価値観は、まさしくアメリカ人特有のものであり、それに纏わる裏話として関わった3人の米兵の後日談を綴っていくのが本作の主としたスタイルであり、攻防戦を基点にした過去を回想形式で描いた日本側の「硫黄島」と大きく異なる点である。帰国後、英雄として祭り上げられた彼等は、連夜のセレモニーの舞台に立たされるものの、その居心地の悪さに後ろめたさを感じたり狼狽するばかりであり、(端的な例として、悪酔いする一人の兵士に凝縮して描かれる。)戦意高揚の広告塔としての立場を経て、社会情勢の変化による大きなうねりに呑み込まれた挙句、人生をも狂わし、やがて人々から忘れ去られていく様を、映画は断片的に語り繋ぎ、戦争の悲惨さや虚しさを謳いあげる。しかし、それにしても“硫黄島の戦い”を舞台にしなければならない動機が今ひとつよく分らない。現在と回想シーンとがまったく別物のような印象を受けるのも、話の繋がりの解り難さからくるとも言えるが、ひとつには、終始無表情なR・フィリップに代表されるように、“彼等の顔”が見えないことだ。直截的な「硫黄島」と違い、彼等の屈折した心情というものが、十分に表現しきれなかった事に起因するように思う。要は、“戦争にヒーローなどいない!”という本来主張するべき部分にインパクトが無いのだ。また、彼等の嘆き節は、70年代後半から80年代にかけて、あまた作られたヴェトナム戦争後遺症映画で語られてきた事と同音異曲であり、ドラマに何ひとつ意外性が無く、テーマそのものにも目新しさというものが感じられない。ただ、「硫黄島」の強烈さと物語性に比べると損をしているとも言えるが、イーストウッドは余りにも冷静過ぎて、原作の良さを十分に生かし切ったとは言い難い。これをスピルバーグが自ら監督をしていたなら、もっとウエットな作品になっていたに違いないが、それが正しい方法論なのかは私には分らない。
[映画館(字幕)] 7点(2007-06-06 00:00:57)(良:1票)
17.  ポセイドン(2006)
リメーク作品がどんなに良く出来ていても、オリジナルほど評価されないのは、もはや宿命のようなもので、人々の脳裏に焼きついた映像や感動は、そう簡単には消え去らないものだし、ましてや思い入れの深い作品ともなれば尚更である。どうせなら「キングコング」や「宇宙戦争」などと言った、半世紀以上も前の作品をリメークした方が、映像技術の格段の進歩による“新古品”としての新鮮な魅力が発揮できて、得策かも知れないのだが。本作も、名作の誉れ高いオリジナルと比べるまでもなく、何の工夫もない、とって付けたような人間ドラマの薄っぺらさや、魅力の乏しいキャスティング等は誰にでも容易に指摘できる。しかしながら、W・ペーターゼン監督が自解している事でも分かるように、本来それらはむしろ意図的な事であり、人間ドラマを充実させる事よりも、あくまでも最新テクノロジーによるスペクタキュラーな映像への果敢なアプローチ(挑戦)だと捉えるべきであろう。だから、“多くの批判は当らないよ!”と言わんばかりだし、むしろ作品の出来に、彼の得意気な表情が目に浮かんでくるようだ。それほどに、CGによる大スペクタクル・ショーは、文句のつけようが無いほどで、凄まじいの一言に尽きる。長年、映像化は到底不可能だとされてきた、荒れ狂う巨大波の再現は、CG映像の出現で、「ディープ・インパクト」のクライマックスでの驚異の映像となって実現して以来、頻繁にスクリーンに登場するようになり、映像表現の可能性が大きく広がった事を実証してみせた。今回の豪華客船に襲いかかる波のうねりの巨大感や質感、あるいはそれに呑み込まれて転覆していくポセイドン号のリアルさは更に進化し、いくらCGで再現されているものだと説明されても、本物の船が転覆しているとしか思えないほど迫力に満ちたものであり、その点においてはオリジナルの時代とは隔世の感がある。また、客船内部からの脱出サバイバル劇も、負けず劣らず様々な趣向が凝らされ、最後まで手に汗握るエンターテインメントとして成立させている。しかし良くも悪くも、ゲーム感覚の作品であることだけは疑いようのない事実であり、時代がこのような作品を生み落としたのだと言える。
[映画館(字幕)] 7点(2007-04-29 17:22:23)(良:1票)
18.  ディパーテッド
基本的なプロットは同じでも、描かれる舞台と作り手が違うだけで、こうも印象が変わるものかと、改めてハリウッド映画の底力と魅力を感じさせられた作品だ。ニコルソンのディモンとの親子のような師弟関係は、冒頭部分にさり気なく端的に描かれているのに比べ、ディカプリオへの信頼関係の成立ちへのプロセスには、かなりの時間を割いているのが良く見てとれる。スコセッシが目指したのは、“いつ正体がバレるか”といった、潜入捜査における手に汗握る“ヒヤヒヤ感”を描きたかったからに他ならず、そのあたりが希薄だったオリジナルに対し、難局を次々とかわしていくスリルと、ディカプリオの精神的な苦悩をポイントにしている以上、それなりの時間をかける必然性があったという事なのである。それは、マフィアと警察内部へと互いに潜入しているとは言え、ディモンの置かれた立場に対し、正体がバレることは死を意味するディカプリオを主体にドラマの興趣を盛上げていくのは当然だからだ。この囮捜査モノは、ハリウッドの伝統的な得意分野とも言え、そのあたりはさすがに面白く創られている。また、人間関係で言えば、アジア映画のひとつの特徴とも言える女性を話の中心に添えて物語を膨らませ、男女のエモーショナルで濃密な時間を描出したオリジナルに比べ、ハリウッド版はいかにも乾燥した土地柄の如く、そのあたりの味わいは実に淡白で、ラストへのお膳立ての為だけに存在しているようにすら感じる。むしろ警察内部での対立や、ギャング仲間の疑心暗鬼に興味を繋いでいくあたり、どこまでも男の映画だと言う事である。本作のディカプリオは、頭脳明晰だが経験の浅さからくる恐怖心や焦燥感を、他の捜査官などのヴェテラン組との対比でより際立たせ、病的なほどの熱演で体現している。オリジナルに心酔している人には受け入れ難い作品のようだが、結末はともかく、大筋で同じでありながら、それでも興奮させられる映画など、そうザラにはない。メリハリの効いたストレートなアクション映画が好みの私などは、むしろこちらに軍配を挙げたい。それほど良く出来た作品だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2007-03-20 23:29:54)(良:2票)
19.  単騎、千里を走る。
余命幾許も無い息子の意思を引き継ぎ、その願いを叶えるべく、単身異国に地を踏む父親の姿を通して、子に対する親の深い情愛と絆を描いた、いかにも張藝謀らしい心温まる感動のヒューマンドラマである。中国の伝統舞台のひとつ「単騎、千里を走る。」をそのまま題材にした本作は、そのほとんどが現地でスカウトされた出演者たちによるドキュメンタリーな肌触りと、純朴で嘘が無いと感じさせる張監督独自の語り口による演出法によって、まさしく「良心作」と呼ぶに相応しい映画だと言え、決して悪くは言ってはいけない類の作品である。とは言うものの、いかにも作為的で不満に感じたシーンがないではない。高倉健と子供との別れのシーンなどがそれで、素朴な疑問として、たった一昼夜共にしただけで、果たして子供と心を通わせられるのかという部分に対しては、余り説得力が感じられない。子供の純真さを過剰に強調することで、返って話が嘘っぽくなってしまい、如何にも“ここで感動させてやろう”とする製作者側の意図を感じてしまうのだ。張藝謀の“押し付けがましさ”という悪い面がモロに出たようだ。全体的にソツなく纏まりが良い反面、ただただ真面目主義を画に書いたようで、面白味に欠けるのと、とても今どきの映画と思えない古臭さを感じてしまうのは、不遜というものだろうか。高倉健の初の中国主演映画として早くから話題となっていた割には、興行的にも話題性に於いても、大きくなってこなかったのも、宜なる哉。
[映画館(字幕)] 6点(2007-02-25 22:43:18)
20.  太陽(2005)
日本を照らし続けるものの象徴として、「昭和天皇」を「太陽」として喩え、彼が敗戦という事実を受けとめて終戦を迎える日の一コマを、外国人の視点から描いたもので、静かな中にも終始緊張感の漂う作品となった。敗戦国の風景と天皇ヒロヒトの姿をシンボリックに描いたのが本作のポイントであり、それらは独特の映像で表現された東京の景観であり、イッセー尾形の形態模写的なソックリぶりとして、それぞれ独自の表現方法で画面に定着させていく。一人芝居で培ったイッセー尾形の独壇場ともいえる演技は、天皇ヒロヒトにどこまで迫れたか。それは映画を観た人の多くが納得いくものであろうし、少なくとも彼を起用した意図は十分に感じとれるものである。顔立ちや表情或いは何気ない仕草に加え、口癖のように「あっ、そう~」という言葉の言い回しや、“口モゴモゴ”の癖などをデフォルメして表現してみせるのも、生まれながらにして本当に言いたい事も言えず、言葉を呑み込まなければならない、その置かれた立場と哀しさをより強調したいからに他ならない。しかし、そのボソボソとした言葉は至って明瞭であり、全編に流れる微かな効果音と対を成していて、極めて印象的な演出方法だと思う。また、本編のセリフにもあるように、その容姿から“チャップリンのような”と形容され、事実、モーニング姿のおどけたような仕草に、ジャーナリストから好奇の目で見られるが、自身、意に介さないばかりか、むしろどこか得意気であり、そこに道化師の悲しみに似たものを感じさせる。多くの民を失わせた、その最高責任者としての表情と、一方で、どこにでもいそうな平凡な家族思いの男として、人間味を滲ませるなど、いかにも本物らしく、又は本物に近づいたかの如く、見事なまでに様々な表情を見せてくれる。未だ夜が明けきらぬままの、暗く重苦しい東京が終始映し出される。エンドロールに於ける、その上空から俯瞰で捉えた画面の端に、微かに鳩(だろうか?)が現れては消えるを繰返す様は、平和を願って已まない者の心の現われなのか、或いは、これからの日本の行く末を見守るものの象徴としてなのか。宮中の防空壕の暗い闇の中を、手探りで彷徨う天皇の姿と重なり合う。本作は、皇室の気品に溢れた調度品の様式美に至るまで、統一された色調による映像と演技者たちの表現力で、言葉だけでは伝えきれないものを我々日本人に齎してくれた力作である。
[映画館(字幕)] 9点(2007-02-18 17:37:01)
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