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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作年 : 1960年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  赤い砂漠
モニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。  美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。  同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-08 22:35:30)
2.  続・男はつらいよ 《ネタバレ》 
マドンナは佐藤オリエ。  彼女で金八先生を思い浮かべるのは僕らの世代。寅さんの学生時代の先生、東野英治郎(黄門様)も味がある演技だった。茶の間騒動、マドンナに振られて終わるパターンも本作で確立したって感じ。元気いっぱいで喜怒哀楽の表情と動きが豊かな寅さんは見ていて清々しい。
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-28 22:49:48)
3.  男はつらいよ 《ネタバレ》 
いやー、泣いた。笑った。楽しんだ。  車寅次郎の20年ぶりの葛飾柴又への帰郷から始まる寅さんシリーズ(映画)『男はつらいよ』第1作目。渥美清の寅さんが若い! 登場早々、祭に飛び入り参加して纏(まとい)を手に威勢よく踊りまくるのだけど、これがなかなかカッコいいのだ。テキ屋の売の口上も最高にキマっている。倍賞千恵子のさくらちゃんはとても可憐だし、前田吟の博も精悍だ。 寅さんと博の船上での張り合いはなかなか緊張感のあるシーン。会話がすれ違いつつ、何故か噛み合うという絶妙さが楽しく、寅さんの純情な男気と気風の良さがよく分かるシーンでもある。博は、職工ながら大学教授の父親を持つ理知的な人物で、尚且つ腕っぷしの強さを秘めているという、若き前田吟がなかなか役に合っている。(最後の涙も感動的だった)  寅さんのおせっかいが逆に功を奏して、さくらちゃんと博がめでたく結婚し、その結婚式に博の父親、志村喬が現れる。家を飛び出した博とは8年ぶりの再会、そして披露宴の最後に挨拶。志村喬の朴訥としたスピーチに寅さんと博同様に僕も号泣;; ここはシリーズ屈指の名シーンだろう。この披露宴で、御前様の笠智衆と博の父親役の志村喬が同じ画面の中にいるのです。それだけで感動的なのだなぁ。  ちなみにシリーズ初のマドンナは光本幸子。寅さんがメロメロになる御前様のお嬢様で、少し地味だけど、品があってよかったよ。
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-28 22:49:42)(良:1票)
4.  乱れる 《ネタバレ》 
最後に思いもかけない展開となり、日頃冷静でしっかり者の彼女が我を失う表情で終わるラストカットがとても印象深いです。 高峰秀子の成瀬作品での特徴は、ツンとすました感じの雰囲気とあのちょっとひねたような独特の語り口調ではないかと思います。戦後的な新しい、女性的な芯の強さが彼女の個性でした。『稲妻』とか『流れる』とか、まさにそんな感じですね。『乱れる』は、彼女が40歳の頃の作品ですので、もうそういった新しさはありませんが、それでも彼女らしい女性的な強さを持ち、一人で酒屋を切り盛りするしっかり者で貞淑な未亡人として作品に登場します。しかし、義弟役の加山雄三のアプローチを受け、彼女は「乱れる」のです。それも徐々に徐々に心が揺らいでいき、気持ちが彼に傾いで、最後にはどうしようもなく心乱れてしまう、、、その様子がこれまでの彼女の役柄にはない分、とても新鮮だったのだと思います。この作品は、成瀬巳喜男の傑作であるとともに高峰秀子後期の代表作でしょう。  日本映画の黄金期を象徴する名女優。ご冥福をお祈りします。 
[DVD(邦画)] 10点(2011-01-01 14:29:58)
5.  アラバマ物語 《ネタバレ》 
この物語はさまざまな出来事が子供の目を通して語られる。大人を理解すること、公正さとは何か、差別とは何か、妥協とは何か、そしてそれらの思念の中で彼女らの誠実さの行方がそのイノセンスによって赤裸々に綴られている。そして、その語られる中に、アメリカという国の「正義」、その形が見え隠れする。 「ぼくはね、いまはっきりわかったよ。世の中には四種類の人間がいるってことだよ。ぼくたちや近所の人たちのようなのがふつうの種類、森のなかからでてくるカニンガムのような種類に、ごみ捨て場にいるユーイルのような種類、最後はニグロだ」 無実の黒人を死に追いやり、子供達を襲ったユーイルは思わぬ援護者によって逆に刺殺されてしまうのであるが、結局、ユーイルは事故死の扱いで処理される。そのまともな裁判もない事故死の扱いがこの作品を貫く正義の報いであり、この作品がアメリカ人の良心であるところのアメリカの正義なのだと思う。 この物語を思う時、僕は名作映画『十二人の怒れる男』を同時に思い出す。この作品もアメリカの陪審員制度における「正義」を扱ったものであるが、ここでの十二人は皆が顔の見える人間として自らの歴史を語り合い、納得するまで議論を尽くして、一旦は有罪と決まりかけた少年を無罪へと導く。但し、ここに『アラバマ物語』で差別の主題ともなる黒人と女性はいないし、ユーイルもいない。アメリカの正義というのは単純なものではないのだ。『アラバマ物語』は1930年代が舞台となっているが、まだそれから70年しか経っていない。当時、黒人は人間ではなく、学校教育も受けられず、当然まともな仕事にも就けなかった。何かあれば簡単に吊るされた、そんな時代からたったの70年しか経っていないのだ。黒人のみならず、森の中で自給生活をする人々、ゴミを漁って生活をする最下層の白人などが歴然と存在していた時代からほんの少ししか経っていない。差別は人々の意識に根付くものだ。アメリカという国はそんな差別を乗り越えようとして、結局は乗り越えられず、それがアメリカの正義を形づくってきた。その正義は微妙に歪んだ形を維持しながら、それを柔らかい衣に包んだまま何十年も受け継がれてきたような気がする。この問題はとても深い。それはアメリカ人の意識に深く根付き、彼らの正義を確実に規定しているのである。 
[DVD(字幕)] 10点(2006-10-21 01:33:13)(良:1票)
6.  モンタレー・ポップ
Janisが衝撃のデビューを果たし、The Whoが過激なパフォーマンスでアメリカを驚かせ、Jimi Hendrixがその超ド級のギターワークで時代を切り裂き、Otis Reddingが「音楽は感動そのものだ」ということを世に知らしめた。 それがSummer of Love'67の奇跡、Monterey POP Festivalである。人々はこの史上初のロックの祭典により、ロック・ミュージックが一種の衝撃であるとともに、一体感というある種の幸福感を共有できる麻薬的な幻想であること知ったのである。そのキャッチフレーズは"Love"である。 その幻想も2年後のWoodstockで賞味期限を迎え、1969年最後の月(僕の生まれた月だ)のオルタモントで完全に終わる。MontereyでMCをつとめたブライアン・ジョーンズはWoodstockの直前に死んでいる。ロックは商業ベースとして、別のステージに移行していく。 ロックにとって、奇跡的に幸福な時代。それがSummer of Love'67であり、Montereyだったのである。 今、僕らはMonterey POP Festivalの映像記録をDVDで観ることができる。以前は切れ切れにしか観ることが出来なかったシーンも今ではより多くの連続した演奏として追うことができる。 演奏そのものについては、挙げたらキリがないほどに充実しており、演奏シーンを集めたライブ映像としても卓越した作品と言えるだろう。 しかし、この映像記録は、音楽そのもの充実感以外にも僕らにある感慨をもたらす。確かに音楽そのものであれば、出演者達のオリジナル・アルバムやライブ盤を聴けばいい。この映画は確実に時代の空気、その幸福感を映していると言えないか。Montereyの映像がもたらす空気の色は明らかにWoodstockと違うのだ。それがSummer of Love ‘67、過ぎ去った一時の高揚感、その始まり。それは単なるノスタルジーとは違う、幻想という可能性、その幸福感を僕らに垣間見せる。過去にそこにあったはずのものが確かにある、ということが、その無に対して「有り得る」という豊穣を浮かび上がらせる、そういう幻想を僕らに呼び起こさせるのだ。 人間は幻想によって生きている。それは僕らを生かし、そして殺す。それもまた幻想。その全ては「心々」であり、また、それが僕らの心を震わす源泉なのである。 Summer of Love'67、Montereyという奇跡。この映像は確かに僕らに何かを語りかける。その何かを考えさせる。そういう映画としての力を僕は感じるのである。
[DVD(字幕)] 10点(2005-11-27 12:18:27)(良:1票)
7.  ニッポン無責任時代
「サラリーマンは~♪気楽な稼業ときたも~んだ♪」これはドント節だったかな? いまや懐かしき年功序列、サラリーマンの黄金時代。昭和30年代、日本は、戦後民主主義という名のもとに経済の高度成長へまっしぐらの時代だった。「無責任」というキーワードは、逆説的にサラリーマンという経済の担い手の職業意識を高らかに鼓舞するものであったといえるのではないか。つまり、そのココロは、戦前的なモラルの失墜と経済中心主義、そして消費文化のさきがけ。この映画はある意味で確信的な勤労サラリーマン鼓舞キャンペーンだったのだ。本来的な意味で戦後民主主義が大々的に花開き、国民全体が消費文化<による自己実現という虚妄>に浮かれまくるのは、それから20年以上後のバブル時代ということになる。実は僕が「ニッポン無責任時代」を観たのもそんなバブルの時代。「わかっちゃいるけど、やめられない!」なんて歌いながら仕事をスイスイとこなし、口八丁で出世して、女性にモテまくる平均(たいらひとし)こと植木等は、時代の先駆者のように捉えられていたのではなかったか。確かに植木等ブームが再燃したのもあの時代ならではのこと。まぁその反動は90年代以降にくるわけだけれども、ほんの10数年の間で、この映画もすっかり省みられることがなくなったような気がする。そんな「歴史」を意識しながら見れば、この映画もまた別の意味で面白く思える。
8点(2004-05-15 22:01:51)
8.  華氏451
ブラッドベリの名作SF小説の映画化。小説の冒頭に物語のイメージを決定付ける挿絵がある。火焔に包まれた家とその中で本を片手に叫ぶ女性。取り囲む群衆と無残に踏み捨てられた本の数々。一人の焚書官の背中が大写しとなっている。ファッショナブルな防護服とモヒカン様のヘルメット。背中には何やら火炎発生器のような四角い装置を背負って、そこから伸びるトカゲの尻尾のようなホースを手に持っている。小説の内容以上に印象に残る絵だ。トリュフォーがこの近未来小説のビジュアルイメージ化を焦点にしてこの映画を製作したことは想像に難くない。焚書官の制服は挿絵や小説の記述イメージそのままだし、部屋の一面を使った巨大なテレビや自動扉付の家もこの近未来小説に沿って造形されている。しかし、小説で描かれるその他の自動機械の映像化は全く無視されており、現代の僕らから観て、あまりにも牧歌的な装置の数々にはちょっと落胆するものがある。大体がブラッドベリ自身、4,5世紀先として描いた自動化イメージが今現在あっさりと凌駕されてしまっているというのも二重の悲劇だ。この映画をSFと呼ぶのが躊躇われるのも致し方ないかもしれない。にもかかわらず、この映画に僕らを惹きつける魅力があると感じるのは何故だろう。小説の中にこういう記述がある。「二十世紀の初期になって、映画が出現した。つづいてラジオ、テレビ、こういった新発明が大衆の心をつかんだ。そして大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながざるをえない。」元々、ブラッドベリは本と対立するものとしてイメージを規定する装置である映画やテレビを想定しているのだ。トリュフォーはそれにどう答えたか。それがこの映画の中にある。徹底的に簡素化された登場人物たちの演技や印象的な音楽、想像力を喚起するイメージ映像。トリュフォーが敢えてこの小説を映画化した意味を強く感じるのだ。
8点(2004-03-01 00:18:01)(良:1票)
9.  地獄に堕ちた勇者ども
ドストエフスキーの「悪霊」をモチーフにしたであろうヴィスコンティの傑作。特にマーチンの人物造詣と親衛隊による突撃隊殺戮劇「血の粛清」シーンは白眉だろう。分厚い制服を着た男達が、乱痴気騒ぎのパーティーで酔い潰れた裸同然の同類達を一斉に射殺する。迫りくる映像に僕らは完全に宙吊りにされるしかなかった。同類による同類の粛清という震撼すべき絶対的空疎。それは退廃した様式とイデオロギーという悪霊に一直線に繋がっている。悪霊とは何か?ここでマーチンよって語られる「スタブローギンの告白」は、ナチスという悪霊に憑かれることの危うくも美しい幸福感を見事に描いている。神の黄昏として表現される巨大な空疎⇒退廃。それは地獄の入口でもあるのだ。ナチスやソ連が滅んだ今でも、そのモチーフ、現代的意味は全く死んでいない。この映画を観たのは15年も前であるが、その内容を思い出すに付け、それは麗らかな春の昼間に朧見る悪夢に似ている。ぞっとして跳び起きた瞬間、まるで其処こそが地獄の入口であるかのように感じるのだ。
8点(2004-02-22 15:02:43)
10.  飢餓海峡
中学生の頃に原作を読み、酌婦八重の情の深さに涙した。以来、水上勉の薄幸の娼婦を扱った小説をいくつか読んだが、「飢餓海峡」の杉戸八重が僕にとってのNo.1であることは変わらなかった。<ある意味で僕の女性観に決定的な影響を与えたといっても過言ではないかもしれない> 映画を観たのはちょっと先の話。イメージというのは恐いもので、左幸子もそれなりにがんばっていたが、ちょっと狂信的な感じが立ちすぎて、僕の八重のイメージとは違うし、原作をかなり端折った<東京での八重の暮らしぶりとか>途中の展開にもすんなり入っていけなかった。原作と映画の関係というのは難しい。映画だけ観れば、この作品が名作であることに全く異論はないが、原作に感動し、そのイメージが出来上がってしまうと、原作に忠実な映画というのは、作品の単なる短縮版のような感じがしてしまうのである。<長編小説の場合は特に> 作品として完成されたもの同士を同列に観てしまうとそうなってしまうのかな。正直言って、こればっかりは仕方がないことかもしれない。ただ、映画ということで敢えて言えば、画面から漂う雰囲気がとても切なく、伴淳の名演もあって、期待以上に見応えがあったことは間違いない。
9点(2004-01-25 18:40:18)(良:1票)
11.  ワイルドバンチ
今や伝説となったラストの殺戮シーン。数年ぶりにこの映画を観て、改めてここに描かれる男達の生き様死に様の美しさに感嘆の念を禁じえなかった。男達の自死を賭した大量殺戮は、如何なる理由で描かれなければならなかったのか。彼らは仲間への友情の為に殺すのか。それとも自らのプライドの為か。ゴモラの火の如く、ラプラスの悪魔の如く、一切の妥協も躊躇いも排したあの殺戮シーンの美しさは一体何であろうか。僕はこの映画に失われた予定調和を見る。強烈なメランコリーの発露として、男達のちっぽけな信念に裏打ちされた運命そのものを見るのである。行き場のない狂気は、ただ生死の意味のみに執着し、その行為は、神の裁きの如き美しさを放ち、瞬時に一切を無に帰す。刹那に放たれた至上の輝き。その美しさ、その哀しみ。その根源性は、僕らの胸を強烈に打ち奮わせるのである。
10点(2004-01-24 03:53:45)
12.  2001年宇宙の旅
幼少の頃にテレビで観た時には、ご多分に漏れずさっぱり意味が分からない、僕にはやっぱりスターウォーズだな、なんて感想しかなかった。時を経て、手塚治虫や小林左京、そしてクラーク、ディックと、SFの傑作に触れるようになり、サイエンス・フィクションというのが「人類とは何か?」「知性とは何か?」を問う神なき時代の科学的預言であることが理解できると、ようやくこの映画に対する扉が開かれたように思う。この作品はキューブリックとクラークの合作と言ってもよく、あくまで小説「2001年宇宙の旅」がこの映画のノベライゼーションであることを考えれば、ある意味で同名の映画と小説はワンセットで一つの作品ではないか、とも思える。改めて、この映画の解釈をここで述べる必要はないでしょう。ただ「ツァラトウストラはかく語りき」はやっぱり確信的なBGMだ。意志こそが知性であり、人間身体を超えた意識の進化に繋がるのだー。ジャジャーン!
9点(2003-10-23 23:31:02)(良:1票)
13.  イージー・ライダー
厳密に言ったら精神的自由などというものはどこにも存在し得ないものだと思う。だって精神というものは僕らを縛るものであり、僕らは精神というものに本来縛られたがっているのだから。でも、そういう精神なんて今の世の中、どこを探したらあるんでしょうね。イージーライダーの主人公達が信じた自由とは、そんな自覚が生み出すある種の諦めや敗北感からの自由だったのではないかな?(だからこそ僕らはあの時代の映画を観て心を震わされるし、時代の感覚として確かにそれは僕らの胸に切羽詰ってくるのです。)彼らが敗北感への反抗に対して敗北を味わった…といえるだろうか。確かに彼ら自身はそうかもしれない。でも僕らは今でもそういう敗北感に対するラディカリズムをある生き難さの感覚として抱えている。イージーライダーという映画はそのことを僕らにそっと教えてくれるのです。
8点(2002-04-12 01:11:43)(良:1票)
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