1. 新幹線大爆破(2025)
日本人は、最後の最後まで偶発的な「奇跡」を信じないし、頼らない。 どんなに危機的な状況であっても、まず確認し、準備し、試して、実行する。 だから、その“危機”を回避し乗り越えた瞬間も、大仰に歓喜に湧いて抱き合ったりしない。ただ静かに安堵し、握手を交わすだけだ。 それは、日本人という民族の美徳でもあり、脆さでもあろう。 ただ、「シン・ゴジラ」同様に、そんな日本人の性質、特に日本社会の中の体制的な組織に所属する人たちの“葛藤”と“闘い”を描き出した本作は、この国が生み出すべき真っ当な娯楽映画だったと思う。 「新幹線大爆破」がNetflixで“リメイク”されるという報を聞いたときは、キャストやスタッフの情報を得るよりも前に、即座に高揚した。 1975年のオリジナル版は、20年以上前に鑑賞していて、鑑賞当時すでに30年前の国産娯楽映画の圧倒的なパワフルさに対して、興奮と嫉妬を同時に感じたことをよく覚えている。 もうこの先、こんなにもスリリングでエキサイティングなパニック映画は、日本では製作されないのではないかと、落胆めいた感情を覚えるほどだった。 その落胆は、かつて1954年の「ゴジラ」第一作が孕む絶対的な畏怖や絶望感を、もう感じることはできないのだろうなと諦観していた頃の感情によく似ている。 そして、その“諦め”が、「シン・ゴジラ」の誕生によって見事に払拭された経緯にも、本作鑑賞後の感情はよく似ている。 無論、1975年版の豪胆でエネルギッシュなエンターテインメント性と、本作の性質は異なる。 だが、それに勝ると劣らない「現代」のアプローチによって、この映画は今の時代にふさわしいエンターテインメントと、この国の社会性を存分に反映してみせている。 多くの鑑賞者が頭に思い浮かべた通り、まさに本作は“シン・新幹線大爆破”と呼ぶに相応しい意欲作だったと断言したい。 オリジナル版の鑑賞者としてまず驚いたのは、本作が“リメイク”ではなく、正当な「続編」であったということ。 ほぼオリジナル版と同じ設定でありながらも、50年の歳月を経た地続きの物語であったことが、この映画の世界観に重層性を生み出していると思える。 国鉄がJRに様変わりしたことも含め、時代は大きく移り変わり、様々な物事や常識が変わった社会の中で、繰り返された大事件には、この国が辿った道程に伴う様々な軋轢やひずみが内包されていた。 1975年の「新幹線大爆破」で、高倉健演じる主人公・沖田哲男が引き起こしたあの大事件が孕んでいた、時代や社会に対する怒りと悲しみ。 その執念と怨念が入り混じった感情は、彼らの死によって潰えたはずだったけれど、50年が経っても変わらないこの国の本質的な“愚かさ”に対して、世代を越えて再び彼らの憤りが地の底から湧き上がり、一人の少女に集約されたような印象を覚えた。 昭和の大スター高倉健が、その顔面で牽引し、当時のオールスターキャストが揃った超大作であった前作と比較すると、文字通り脂汗が滲むような演者たちの「熱量」という観点では、本作はどうしても薄くは感じてしまう。 ただそれは致し方ないことだろう。本作で主演の草彅剛が演じるのは新幹線に乗務する車掌であり、ストーリーテリングのアプローチそのものが全く異なっている。 あくまでもJRという組織の一員として、懸命に自分自身の“仕事”を全うする姿こそが、本作が目指したドラマ性であり、冒頭で記した通り、現代社会の「日本人」を表現する上で適切なストーリーテリングだったとも思える。 オリジナル版と異なり、JRの全面協力を得られた要因もまさにこのストーリー性だったからこそだろう。 そして、JRの全面協力を得ることで、本作の映像的なクオリティーとスペクタクルは、オリジナル版を大いに凌駕するクリエイティブを実現している。 ノンストップの“はやぶさ60号”を舞台にした、息もつかせぬスペクタクルシーンの連続は、特技出身の樋口真嗣監督の真骨頂であろう。 オリジナル版では、現場刑事の荒唐無稽な案として一笑に付せられた“後部車両切り離し作戦!”が、本作においては見事採用され、中盤の最大の見せ場として展開されたことも、メタ的要素も孕んだ胸熱なポイントだった。 兎にも角にも、映画企画としては「大成功」と言って間違いない作品だったと思う。 惜しむらくは、この国産大スペクタクル映画を劇場のスクリーンで観られなかったことか。 Netflix映画ならではのジレンマはことさらに強く残った。 [インターネット(邦画)] 9点(2025-04-28 00:14:47)(良:1票) 《更新》 |
2. 片思い世界
ネタバレ 冒頭から映し出される美しい“三姉妹”の「生活」が、ただただ愛おしい。 三人の表情や佇まいはもちろん、衣服も、家具も、食器も、ご飯も、彼女たちが暮らす空間のすべてが美しくて、丁寧で、“大切”に織りなされていることが伝わってくる。 その空間は、「完璧」だと言っていい。ただ、だからこそ、そこには何か言いようのない“違和感”が、映画のはじめから生じていた。 とても、美しくて、完璧だけれど、何かがおかしい。 彼女たちが当たり前のように出かけ、社会での日常生活が映し出されると、その違和感はより一層顕著になってくる。「あれ?」「え、何だいまの描写は?」と、疑問符は積み重なり、この“三姉妹”の世界の真相が明らかになったとき、冒頭から感じ続けてきた違和感が、映画的な妙味となってくっきりと正体を現した。 美しい“三姉妹”の、とある世界のお話。 12年前のある出来事を契機として、擬似的な三姉妹生活を積み重ねてきた彼女たちが抱える真相は、とても辛く、悲しく、重くて、仄暗い。 でも、本来そこにあるはずの陰鬱さや不穏さを完全に廃して、美しい煌きを全面に映し出すことで、同時に存在する“陰”を表現した映画世界が、本当に素晴らしかった。 彼女たちの生活空間が完璧だったのは、それが彼女たちが必死に想像し築き上げたものだったから。 3人が織りなす空気感が暖かく慈愛に溢れているストーリーテリングが深まるほどに、彼女たちにとってはこの場所が“すべて”であり、そうするしかなかった切なさが心に突き刺さって抜けなかった。 この映画世界で描かれたものは、悲痛を遠く越えた先で迎えた、新たな悲しみと、抱擁だった。 本作は、単純な幽霊モノ、異世界モノのファンタジーではない。 現実世界の事件の痛みや、社会の悲劇を礎にして、その数々の痛みや悲しみに対して真摯に向き合った作劇だったと思う。 無論突飛な世界観ではあるけれど、科学的な考察も引用し、「本当はそうなのかもしれない」と思わせるストーリーテリングは、現実の悲痛と共に生きる人たちにも寄り添うものだった。 設定のアイデアに主眼を置かず、その設定の中で確実に“生きている”人物たちの会話や葛藤でドラマを綴った構成は、坂元裕二脚本の真骨頂だったとも思える。 そんな当代随一の脚本が織りなす物語の中で、息づき、華やかな彩りを見せた三人の若き女優がやはり素晴らしい。 広瀬すず、杉咲花、清原果耶、トリプル主演としてこの三人が揃うこと自体が、もはや奇跡的なことにも思えるが、それを更に超える奇跡的な人間描写をそれぞれが体現している。 設定が設定だけに、どうしても完全な整合性やリアリティをストーリー上に生み出すことは難しかったろうけれど、三人の女優が織りなす文字通りの“アンサンブル”が、それを優しく包み込み、映画表現として昇華していたと思える。 鑑賞から数日経ち、公式SNSから流れてくるショート動画で、本作のシーンに触れるたびに、心に残り続ける余韻がたなびいている。この三姉妹の言葉の一つ一つ、動きの一つ一つが、想像以上に自分の中の価値として深まっていることに気づく。 私は、この先何度も、この映画の“世界”に浸りにゆくだろうと思う。 もし何年か後に叶うならと、この映画世界を礎にしたドラマシリーズを想像する。 湖畔のとある“幽霊屋敷の三姉妹”の日常を、観たい。 坂元裕二はきっと脚本構想を進めているに違いない。 本作には、敢えてまだ描ききっていない要素も多分にある。“ラジオ男”の出し惜しみも、その伏線に違いない。 [映画館(邦画)] 9点(2025-04-20 11:28:08) |
3. HERE 時を越えて
自分自身、結婚をして、子どもが生まれて、ちょうど10年前に家を建てた。 “家”の中で家族で過ごす時間は、あまりにも有り触れていて、普段その価値を見出すことはなかなかできないけれど、最近ふとした瞬間に「ああ、これが幸せというものかもしれないな」と感じることがある。 その瞬間はあまりにも唐突で何気なく訪れるため、映像や写真に残ることもなく、ただただ過ぎ去っていく。 逆に、最も長く過ごす場所だからこそ、家族に対して怒ることもあるし、さみしい思いをしたり、悲しくなったりもする。 “コロナ禍”を経て、全世界単位で「自宅時間」が増えた経緯を持つ今だからこそ、有り触れた一つの場所で織りなされる“営み”の価値を、再発見した人たちも多いことだろうと思う。 そんな時代に生み出された御大ロバート・ゼメキスの最新作は、時を越えて、幾つもの世代の「家族」の、めくるめく“営み”を、ただ一点の視点で俯瞰しつづけた意欲作だった。 数十億年に渡る時の流れを“定点映像”で映し出し続けるという映画的なダイナミズムと、その中で描き出されるとても普遍的で、繊細な人生模様。 そこには、七十歳を越えて、いまなお映画表現におけるチャレンジングな姿勢が衰えない大巨匠の真骨頂が示されていた。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をはじめとして、「フォレスト・ガンプ」、「コンタクト」、「キャスト・アウェイ」、近年も「フライト」、「ザ・ウォーク」、「マリアンヌ」と、あらゆるジャンル、あらゆる題材で、映画史そのものを彩り続けるゼメキス監督の創造性は、まだまだ色褪せないようだ。 本作で描き出される、いや“映し出される”家族像や物語は、決して特別なものではない。アメリカに限らず、どの国、どの時代においても、どこにでもある普通の家族の普通の人生像であろう。 それなのに、ただ一つの視点で、形容しがたい情感を生み、スクリーンに釘付けにする。そして、気がつくと涙が溢れ出ていた。 それぞれの世代の家族同士の会話や結びつきに“ドラマ”が生まれることは、ある意味当然だろう。しかし、この映画は、映し出されている或る家のリビングの中にあるソファやテーブル、掃除機、壁紙、窓の外の風景に至るまで、ドラマを感じさせる。 本作が特異で素晴らしいのは、まさにその部分であろう。 スクリーンの“四角”で切り取られた視界の隅々に散りばめられているその家族の生活の「証」のすべてから何かしらの“感情”が生まれ、それらすべてが一つになって「人生の物語」となっている。 時代や世代が切り替わるタイミングでは、常に映像の中の一部がコマ割りで残った状態で次の場面へとブリッジされる演出も、まさに一つひとつのモノやコトに物語が内包されていることを示す巧みな映画表現だったのだと思う。 映画のラスト、トム・ハンクスとロビン・ライトが演じる老夫婦が、共に思い出した記憶が、本作のテーマを雄弁に物語る。 夫の母親が選んだ趣味の悪いソファの下に、娘が大切にしていた無くしたリボンが見つかり、彼女が大喜びをしたという、とてもとてもささやかな思い出―― 義両親との同居も、ソファも、このリビングも自分の人生における「不満」の象徴だったはずだけれど、すべての美しく眩い記憶は“ここ(HERE)”で生まれていたということ。 帰宅すると、いつもと変わらず妻と子供たちが、リビングの食卓についていた。 その変わらない視界も、この先時間の経過と共に、様々な感情を生み続け、そして「過去」となっていくのだろう。 それは、少しさみしくて、不安でもあるけれど、とても愛おしいことなのだと思う。 喜びも、悲しみもひっくるめて、私も“ここ”を大切にしていきたい。 [映画館(字幕)] 9点(2025-04-10 23:00:51) |
4. ミッキー17
ずばり結論から言ってしまうと、「失敗作」だったと思う。「駄作」ではなく、あえてそう言いたい。
昨年トレーラーを初めて観た段階から、2025年再注目の作品の一つであることはもちろん、個人的には「No.1」候補の筆頭だったのだけれど、結果的に総じてインパクトに欠ける作品だったことは否めない。 近未来、社会のド底辺に生きる主人公が、“生きる”ためにクローン生成された自分自身を「消耗品」としてブラック企業に提供し続けるという、文字通りのブラックコメディ。
『スノーピアサー』『オクジャ』、そして『パラサイト 半地下の家族』へと、世界共通の現代社会の闇を、シニカルで乾いた“可笑しみ”を満載にして描き出してきたポン・ジュノ監督らしい作品世界であり、本作の“導入部”から醸し出されるテーマ性は、手塚治虫の『火の鳥』のような深淵な哲学性をビンビンに放っていた。
ただ、その予感や期待感はストーリー展開に伴って深まることなく、あまりにも類型的な顛末に終始してしまっていたと言わざるを得ない。
何やら面白そうなテーマを手に取ってみたはいいものの、ストーリーテリングや着地点を整理しないまま進めてしまい、結局昇華しきれずに、映画づくりそのものを「妥協」してしまったような、そんな印象を覚えた。 端的に言えば、ストーリーテリングが上手くなく、お話自体も凡庸だったと思う。
主人公が生活と人生に窮し、自らをクローン検体として捧げるしかなくなったという起点は、極めてSF的ではあるものの、見方を変えれば現代社会の困窮をダイレクトに表しており、社会風刺としてとても面白いアイデアだった。
だがしかし、そこから展開される物語に特筆すべき発見やユニークさがあまりなかった。 SF映画の系譜の中で“クローン”を描いた作品は数多あり、アイデアとして出し尽くされていることも、その一因だろう。
一体ずつ生成されるはずのクローンが、ある事故に伴い二体存在してしまい、本人同士の対立やそれによる混乱が生じるという“転回”は、決して目新しいものではなく、その後の顛末においても本作ならではの視点や発展を感じることができなかった。 重複して存在してしまうこととなった“ミッキー17”と“ミッキー18”は、同一人物でありながら性格が少し異なるキャラクターとして描かれるが、その性格の差異が生じている理由も曖昧で、展開に違和感を禁じ得なかったし、その状況をわりとすんなり受け入れる恋人のキャラクター性にも整合性を感じられなかった。 映画全体を通じて、主人公をはじめとして諸々の個性的なキャラクターが登場するけれど、その一人ひとりのキャラクター性がどこか定まっておらず、ふわふわと描かれているので、ほぼすべてのキャラクターがストーリー展開の中で活かされていないことも大きな弱点だったと思える。
マーク・ラファロを筆頭にキャスト陣は、特異な映画世界の中でトリッキーな存在感を放ってはいるけれど、創造されたキャラクター自体が曖昧なので、人間模様全体が空回りしているようだった。 アカデミー賞を制した後初めてのポン・ジュノ作品だったので、個人的にも、世界的にもその期待値は最高潮だったことは間違いない。
それに伴う重圧や軋轢が大いに影響したことも想像に難くないが、ある意味で見事な失敗ぶりだったと思う。 無論、この一つの失敗で、アジアを代表する映画監督への信頼が揺らぐことはないが、次作では今一度彼しか創造し得ない映画世界を期待したい。 [映画館(字幕)] 4点(2025-03-30 18:13:22) |
5. あんのこと
週末深夜、先刻までエンドロールが流れていたテレビの光が消えて、暗い部屋の中で思わず天井を仰いだ。「つらい…つらいな」と、一人何度もつぶやきながら、静かに寝床に就いた。 気がつくと、その夜から一週間が経っていた。なかなか、この映画に対する行動を起こすことができなかった。これほど“ダメージ”を負った映画鑑賞は久しぶりだった。 その間も、本作で若手実力派俳優の筆頭となった主演女優は、幾度も数々のCMに登場し、その都度そのCMで見せる彼女の笑顔とはあまりにも遠くに存在する“あんのこと”が思い起こされて、またつらくなった。 「つらい」と感じた一番の理由は、とても悲しくて、残酷で、愚かしいこの物語が、すなわち主人公“あん”の一生が、決して特別な絵空事ではない「現実」であることだった。 今この瞬間も、毒親に虐げられ、貧困にあえぎ、虚無的に、もしくは盲信的に、過酷な日常を過ごしている子どもたちが、この国には確実に存在しているということ。 陰鬱で、目を背けたくなるシーンが何度も訪れる映画だったけれど、それは今この国に生きるすべての“大人”が直視すべき事実であり、ゆえに多くの人が鑑賞すべき作品だと思った。 “親ガチャ”や“環境ガチャ”、“国ガチャ”という言い回しは軽薄で好きではない。けれど、事実としてそれは確実に存在し、生まれて育った「環境」によって、人生の幸福度は勿論、人格形成そのものが大きく左右されてしまう現実が、本作のような不幸を無数に生み出している。 新聞の小さな三面記事で伝えられた或る事実から着想し、描き出された本作は、ひたすらに問い続けていた。 おぞましいまでの毒親の元に生まれ落ちた子どもは、絶対にその支配下で生き続けなければならないのか。 介護を要する家族を持つ若者たちは、自らの機会と可能性を摘んで献身し続けなければならないのか。 学ぶ機会、働く機会を失った者は、いつまでもこの社会の底辺で息を潜めるように生きなければならないのか。 国と国の争乱の中で生活している者たちは、常にその生命をさらして、絶望に埋め尽くされなければならないのか。 人の世は本質的に不平等なものだし、人が生きていく上で「運」は多分に必要だけれど、それでも看過すべきではないそんな無数の不幸に対して、この社会が今本当にすべきことは何なのだろうか? 僅かな光を手繰り寄せて、更生の道を歩み始めていた主人公は、小さくて儚い「希望」を確実に手にしていた。でも、それはするりと彼女の手からこぼれ落ちていった。 客観的に見れば、それは彼女の人生においてそれほど大きな悲劇には見えない。もっと大きな苦痛の中を彼女が生き抜いてきたことを知っているから。 だがしかし、自分の人生に初めて「希望」を感じたからこそ、彼女は初めて拭い去れない「絶望」を感じてしまったのだろう。 “コロナ禍”がその「絶望」へのきっかけを生んだことは間違いないとは思う。 でも、本質的な原因はもっと根源的なこの社会の機能不全なのだと思う。 主人公の母親が毒親であったことが彼女の不幸の本質ではなく、その毒親を生み出して負のスパイラルを生じさせたこの社会の経緯こそが不幸。 素行不良の刑事が自らの地位を利用して、更生者の女性を手籠めにしていたことが問題の本質ではなく、彼しか薬物依存者の更生に真剣に向き合う人間が存在しなかったことこそが問題なのだ。 この映画の最後の顛末では、主人公が生きた意義を“救い”と共に映し出しているように見えるけれど、私はそこに“救い”があったとは思わない。 彼女は、結局救われなかった。それが事実であり、現実だ。 本当に、もう少しだったと思うし、彼女と同じような道程で更生し、過去から脱却し、自ら幸せを掴み取った人たちも数多くいるのだろう。 でも、彼女は、“あん”は、救われなかった。 この社会に生きる一人ひとりが、その事実“あんのこと”に対する怒りと悔しさを、歪めず、直視することこそが、この映画の願いだと思うのだ。 [インターネット(邦画)] 8点(2025-03-22 17:37:43) |
6. フォールガイ
バスター・キートン、チャールズ・チャップリンの時代から、アジアではジャッキー・チェン、そしてトム・クルーズに至るまで、「映画」とは“アクション”の歴史だ。映画の撮影時に「アクション!」という号令と共に撮影が開始されることからも、それは明白だろう。 そして、その映画製作の系譜において、銀幕に大映しになるスター俳優と同等以上に実は重要な存在が、“スタントマン”であり、彼らの存在と研鑽がなければ、映画という娯楽は成熟しなかったと言っても過言ではないだろう。 この映画のすべては、溢れ出る“スタントマンリスペクト”と、映画製作そのものにおける“アクション愛”。 あらゆるアクション映画を観続けてきた世界中の映画ファンにとって、愛すべき娯楽映画だったと思う。 鑑賞前は、もっと単純なアクション描写に振り切ったコメディ映画だと思っていた。もちろんその側面も確実にあるのだが、この映画の面白さは、その“多層性”だろう。 表面的には主人公であるスタントマンが、自身が生業とするアクション映画さながらに大活躍するエンターテイメント。だがそれと同時に、彼が現在進行形で関わる映画製作の現場や、もっとマクロ的な映画界の性質自体が、入れ子構造となり、ユニークでエキサイティングなストーリーテリングを生み出している。 想像以上に色濃く描かれるラブコメ要素や、類型的な悪役像も、そのストーリー構造を踏まえた“狙い”によるもので、映画ファンであれば必ず感じる「既視感」が、本作のメタ的要素を引き立て、その上でプラスαの娯楽を生み出していたのだと思う。 同様に、あえて大仰に、大雑把に見えるアクションシーンの意図も明確だ。 ライアン・ゴズリング演じるスタントマンの男が、この映画の中で繰り広げるアクションシーンのすべては、“スタントマンの仕事”そのものであり、普通の映画であれば大味で不自然に見えるアクションの数々が、それを際立たせていた。 当然ながら、本作でもライアン・ゴズリングの代わりに危険で高度なアクションを担うスタントマンが存在しているわけで、そのことをあえて観客に感じさせる数々の描写が、この映画の本質を突いていたと思える。 スタントマンリスペクトを掲げる一方で、主人公をはじめとするキャラクターは魅力的に描き出され、ライアン・ゴズリング、エミリー・ブラントらスター俳優の魅力も存分に引き出している点も、本作の愛すべき要素だろう。 ライアン・ゴズリングは独特の存在感と人間味で、主人公のスタントマンを違和感なく好演していた。溢れ出るスター性を醸し出しながらも、どこか人間的な脆さや滑稽さを感じさせるこの俳優にとって、本作の役どころはまさにはまり役だったと思う。 主人公の元恋人&アクション映画監督役を演じるエミリー・ブラントも素晴らしかった。どちらかと言うと硬派な女性像を演じることが多く、元々の大好きな女優の一人だったけれど、本作ではその元来の性質を活かしつつも、とてもキュートで魅力的な女性像を体現していて、益々好きになった。クライマックスで突如としてそのアクション性を開眼させる描写も最高だった。 アクション、コメディ、ロマンスが入り混じり、時に特異な強度でいろいろな要素が飛び出てくるびっくり箱のような映画だ。 自身がスタントマン出身であり、スタントコーディネーターを経て、今やアクション映画監督のトップランナーであるデヴィット・リーチだからこそ描くに相応しい、いや描かずにはいられなかった映画世界に対して、力強く“サムズアップ”を示したい。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-03-16 10:55:58) |
7. ファーストキス 1ST KISS(2025)
自分自身、結婚をして丸々15年が経過した。主人公たちの年齢設定や結婚生活の期間は、ほぼ自分の現在地点と重なり、“夫婦ドラマ”としてとても感情移入しやすかった。 この映画の主人公たちほどは、自分たちの夫婦関係はすれ違っていないつもりではあるけれど、彼らが織りなすその関係性の変化とそれに伴う悲喜劇は、それでもダイレクトに突き刺さる部分が多かった。 こんな悲しみや苦痛を背負うくらいなら、むしろ最初から出会わなければ良かったのに、という思いは、その程度は様々だろうけれど、きっと世界中の“夫婦”が必ず抱えるジレンマだろう。 松たか子演じる主人公は、「離婚」をするその日に夫を亡くし、様々な感情の行場を見失ったまま、虚無な日々を過ごしていた。 すでに心が離れていた夫の死を悲しんでいるのか、それとも離婚できぬまま“夫婦関係”を続けざるを得なくなってしまったことに苛立っているのか、彼女自身その心情の“正体”を見いだせず、静かな絶望を抱えているように見えた。 そんな折、3年待った取り寄せ餃子をものの見事に焦がしてしまったことで、この世界の堰が、文字通りに崩れ落ちる。そして彼女は、夫と出会った15年前の夏の日をループする――――。 15年後の夫の死(列車事故)を回避するために、主人公が画策するあれやこれがとても間が抜けていて面白い。 肉屋に立ち寄らせないために若き夫をコロッケ嫌いにさせようとしたり、本屋に予約していた学術書を未来から持ってきて混乱を招いたり、緊急停止ボタンの存在を刷り込んで別の大惨事が起こる未来を生み出しそうになったりと、彼女は奔走するけれど、どれも上手くいかない。 幾度もタイムリープを繰り返し、途方に暮れる主人公は、ある決意にたどり着く。 そう、そもそも結婚なんてしなければいいのだ、と。 15年後の妻と15年前の夫が、繰り返し紡ぐ数時間のラブストーリーは、とても眩くて、ユニークだった。 他愛もない会話劇で上質なドラマを創出している点においては、「最高の離婚」「大豆田とわ子と三人の元夫」等数々の名作夫婦劇を生み出してきた坂元裕二ならではの作劇だったと思う。 主演の松たか子は、「大豆田とわ子と三人の元夫」でもそうだったように、阿吽の呼吸で坂元裕二が生み出したキャラクター像を体現し、魅力的な存在感を放ち続けていた。 その一方で、タイムリープものとしてはいささか詰めの甘さが目立っていたようにも思える。 そもそも主人公が15年前にタイムスリップしてしまう経緯がとても強引だし、その後本人の意思で簡単に時間移動を行えてしまうストーリー展開は流石にチープすぎやしないか。 また、タイムリープを行っている主人公は15年前の夫との“デート”を繰り返しているわけなので彼に対しての距離感が縮まっていくことに理解できるけれど、反対に松村北斗演じる若き夫は、常に初対面なわけであり、双方の距離の縮まり方に違和感を禁じ得なかった。 最後の“告白”後のくだりも、いくら学者の卵とはいえ理解が速すぎないかと思わざるを得ないし、そのまま恋に落ちるというのは、ラブストーリーとしてもややチープに感じた。 若き夫が真相を知るクライマックスの展開についても、あまりにも直球過ぎたなと感じる。 自らの未来の悲劇を、あれほどダイレクトに説明されて、それでもその未来に突き進んでいくというのは、流石に非人間的ではないか。 彼が真相に触れる経緯については、主人公が落とした“付箋”のみで薄っすらと感づく程度に留めたほうが良かったのではないかと思う。 自らの死を頭の片隅では感じ取りつつも、それでも眼の前に現れた愛しき人と過ごす時間を選ぶ。そういうバランスのほうが、この映画が描き出した“夫婦愛”がもっと際立ち、映画的なマジックも生まれたのではないか。 ただし、それでもこの映画が坂元裕二ならではの会話劇と夫婦劇で、作品としての品質を保っていることは間違いない。 結局、“未来”は変えられなかったけれど、主人公の奔走により、15年間の夫婦生活は幸福なものになった。それは決して現実を歪曲したわけではなくて、この映画の妻と夫が、本来歩むはずだった生活を取り戻したという帰着だったのだと思う。 夫の死をちゃんと悲しみ、ちゃんと泣くことができた日、取り寄せ餃子が届く。 今度の餃子はきっと上手く焼けたに違いない。 [映画館(邦画)] 7点(2025-03-02 23:17:10) |
8. しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜
人気アニメシリーズやゲームの“3Dアニメ化”という企画がしばしば実現し公開されるが、「その需要は一体どこにあるのだろう?」と、非常に懐疑的に思う。 多くの場合、慣れ親しんだアニメのビジュアルに対して、3D化されたキャラクターの造形にまず違和感を覚え、それはすぐに嫌悪感や気味悪さにまで発展することが多い。まともに鑑賞していないが、「STAND BY ME ドラえもん」などはその最たる例だろう。 そんなわけで、「クレヨンしんちゃん」の3Dアニメ化である本作も、まったく観るつもりは無かったのだけれど、ある休日の午後、暇を持て余した小4の息子がリビングで観始めたので、仕方なく遠目で鑑賞した。 結果的に、懸念していた3Dアニメに対する違和感や嫌悪感を覚えるには至らなかった。なぜなら、3Dアニメの造形に、オリジナルのアニメのキャラクター造形と比較して、それほど大きな差異が無かったからだろう。 無論、声優陣も同一なので、3Dアニメを観ているという感覚自体が薄かったように思う。 が、それならば、ということである。 それならば、何も3Dアニメにする意味があったのか?ということであり、詰まるところ「誰得?」という印象に着地する。 “超能力”を題材にして、ファンタジックでスペクタクルなストーリー展開は用意されていたけれど、元々「クレヨンしんちゃん」映画といえば、映画ならではのエキサイティングな世界観を展開させることが売りでもあるので、特に今作のみが特筆してエンターテイメント性が高まっているというわけでも無かった。 確かにクライマックスにおける、“特撮的対決”シーンには、3Dによる立体感やダイナミックなカメラアングルが効果を発していたのかもしれない。 でも、その点においても、クレしん映画においては、縦横無尽なアニメーション表現によりエキサイティングなアクションやアドベンチャーを創出し続けているので、特別さを感じるには至らなかった。 むしろ、3Dアニメ化による“労力”が通常よりも嵩んでいるのか、他作よりもストーリーテリングにおいては平坦で類型的だったと感じざるを得なかった。 監督は、Netflixドラマ「地面師たち」の記憶も新しい大根仁。 ラブコメからシリアス、アニメまで守備範囲の広さは、堤幸彦や秋元康のもとでキャリアを積んだこの監督ならではの特性であろう。 ただその一方で、ある種の節操の無さや、各作品における拭い去れない軽薄さみたいなものも、しっかりと受け継いでいるなあと感じる。 [インターネット(邦画)] 4点(2025-02-15 08:15:57) |
9. 愛にイナズマ
とてもバランスが悪くて、本当に伝えたいメッセージを上手くは表現しきれていない映画。でも、愛さずにはいられない映画。 [インターネット(邦画)] 8点(2025-02-08 09:27:27) |
10. エイリアン:ロムルス
リドリー・スコット監督が生み出した「エイリアン」は、言わずもがなSFホラーの金字塔であり、いまなお世界中の映画ファンやクリエイターを虜にし続ける傑作である。時代を越えて、映画表現そのものが刷新されていくほどに、その価値は高まり、映画史に深く刻みつけられている。 その稀代の人気シリーズの最新作は、御大リドリー・スコットが監督ではないものの、オリジナルの世界観と恐怖感をきちんと継承し、エンターテイメントとして上質で精度の高い作品に仕上がっていた。
1979年の「エイリアン」と、ジェームズ・キャメロンが監督した「エイリアン2」の間の時間軸として描かれるストーリーと映像世界は、リドリー・スコットが生み出した美術デザインや空間デザインのエッセンスが色濃く反映されていた。敢えて粗い粒子感を持たせた映像美も、オリジナルのルックへの敬意が表れており、地続きの世界線であることを丁寧に表現していたと思う。 個人的には、リドリー・スコット自身が監督した“前日譚”である「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」のその後のストーリー展開を待ち望んでいたため、今回の最新作がまた別の時間軸であることにがっかりし、劇場鑑賞をスルーしてしまった。
だが、実際に本作を鑑賞してみると、そのストーリーテリングにおいて、「コヴェナント」や「プロメテウス」が紡ぎ出したストーリーの要素も少なからず盛り込まれており、本作が決して安易なリブートではなかったことに納得した。 「エイリアン:コヴェナント」では、新たな“創造主”になろうとするアンドロイドが、「生命」そのものに対する“レイプ”を犯す。その顛末は、「エイリアン」と冠されたSFシリーズの前日譚としてはあまりにも異質で、禍々しく、一部のファンにとっては大いなる失望を招いた。
しかし、それは「エイリアン」という映画が、実は生命そのものの抗いと、純粋な暴力、それに伴う圧倒的な恐怖を描き出した作品であったことを追求した結果だったようにも感じた。 この最新作においても、そのテーマを踏襲するかのように、異なる生命体による“レイプ”とその“産物”が、さらに禍々しく描き出される。
非常にショッキングでえげつないその展開は、またしても多くのシリーズファンを失望させたかもしれないが、「エイリアン」という映画世界が孕む「真意」に対して、相応しいストーリーテリングだったと思えた。 「生命」そのものが犯した“禁忌”を目の当たりにしながら、生き延びた新たなヒロインは、先の見えないあまりにも不確かな旅を続ける。その先に待ち受けるものは何か。かつて創造主が宇宙の星々に撒いた企みなのか、それとも創造主に憧れたアンドロイドが作り出した新たな世界なのか。
分岐し広がった「エイリアン」が織りなす宇宙観が、一つの場所へ収束していくような期待感と、まだ見ぬ恐怖感が同時に押し寄せてくるような新章に感嘆した。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-01-27 08:32:49)(良:1票) |
11. MEG ザ・モンスターズ2
鑑賞から一週間以上経ってしまい、本作における細かいストーリーテリングについての記憶は薄れ始めている。ストーリー性の薄い、雑多な映画であることはまず断言したい。
しかし、だからと言って、本作に対して低評価のレッテルを貼るつもりは毛頭ない。なぜなら、どれだけ大雑把で馬鹿馬鹿しい映画であったとしても、本作がモンスター映画として、サメ映画として、そしてジェイソン・ステイサム映画として、真っ当に面白い映画であったことは間違いないからだ。 個人的に、昔からB級モンスター映画が大好きで、数多の同ジャンル映画を観てきた。
名作「トレマーズ」を筆頭に、「ザ・グリード」、「アナコンダ」、「ピラニア3D」など、伝説的なB級モンスター映画は数多い。 そして、その中でも最も人気の題材であり、それだけで一つのジャンルとして派生しているのが、“サメ映画”の系譜だろう。 1975年、スティーヴン・スピルバーグ監督の「JAWS/ジョーズ」以来、“サメ映画”はモンスター映画の代名詞となり、A級からZ級までおびただしい数の作品が生み出され続けている。
「JAWS/ジョーズ」は映画史的な価値が高い純粋な大傑作なので、サメ映画界におけるB級モンスター映画の筆頭はやはりレニー・ハーリン監督の「ディープ・ブルー」だろう。人類の叡智(?)が生み出した超巨大で知能の高いモンスター鮫と人間たちの攻防を描いたその設定とストーリーテリングは、B級モンスター映画史の一つの金字塔と言える。 そして、本作は、そのB級モンスター映画史、サメ映画史の連綿たる系譜にしっかりと降り立つ、大仰で馬鹿馬鹿しい“見事”な作品だった。
無論、前作の段階でもその映画史的な文脈はしっかりと受け継がれた作品ではあったけれど、作品内のテイストがもう一つアンバランスで踏み込めていない要素があり、手放しで興奮できなかった。 しかし、続編である本作は、前作のマイナス要素を完全に呑み込み、融合させ、オリジナリティへと昇華させてみせている。
すなわちその要素とは、本作の主演が“ジェイソン・ステイサム”であるということだ。“サメ映画”でありながら、同時に“ジェイソン・ステイサム映画”でもあることが、前作時点ではもう一歩うまく馴染んでいない印象があったが、本作においてはその2つが文字通り噛み合い、B級モンスター映画としての魅力が爆上がりしている。 普通、サメ映画の場合、絶対的弱者である人間たちがモンスターであるサメからどのように生き延び、もしくはどのように死んでいくかということを固唾をのんで見守るものだ。しかし、本作の場合はその様相が逆転する。
人間に襲いかかるモンスター鮫が、同様にモンスターであるジェイソン・ステイサムによってどのように撃退され、滅殺されるかをニヤニヤしながら堪能する映画となっている。 それは、モンスター映画としては反則的展開であるけれど、ジェイソン・ステイサムだからこそ許されるストーリーテリングだろう。 そんな反則的主人公を主軸においた登場人物たちのキャラクターも良い。
中国資本の映画なので、前作から中国人キャラが多い作品だが、本作では主人公らが所属する企業の社長キャラが印象的だった。早々に死亡フラグが立てられた惨殺要員かと思いきや、本人の台詞通りにしぶとく生き残り、最終的には主人公顔負けのヒーロー像を半ば強引に仕上げていく様がユニークだった。
また、90年代のハリウッド映画で育った者としては、前作に引き続きキャスティングされ、存在感を放つクリフ・カーティスの活躍も嬉しい。 続編として幾つかの違和感や不安定さを改善し、ある部分では強引の呑み込ませ、鑑賞者に許容させることに成功している。“サメ映画✗ジェイソン・ステイサム映画”の正しいアップデートだったと思える。 つらつらと駄文を綴ってしまったが、それくらいB級モンスター映画ファンの琴線を揺さぶる作品であったということ。評価点以上に満足度は高い。 [インターネット(字幕)] 7点(2025-01-22 22:27:44)(良:1票) |
12. ヘルドッグス
長らく韓国映画に後塵を拝していたバイオレンスアクションにおいて、負けずとも劣らない快作。 [インターネット(邦画)] 8点(2025-01-03 23:53:01) |
13. フェイブルマンズ
なぜ私は3年前に公開されたこの映画を、映画館で鑑賞せず、今の今まで放置してしまっていたのか。自分自身のことながら、まったくもって理解に苦しむ。 2025年2本目の鑑賞作品にして、最高得点、フェイバリットの上位に入り得る、私にとっては最高で最愛の映画作品だった。 --- 夢と狂気の世界に囚われたフェイブルマン家の人々 --- 暗闇を恐れて映画館に足を踏み入れることを嫌がっていた年端もいかない少年が、両親に連れられて観た「地上最大のショウ」に心を奪われることから、フェイブルマン一家の物語は始まる。それは「映画」という“夢と狂気の世界”への入口だったのだろう。 主人公の最たる理解者である母親から8mmフィルムカメラを渡され、彼は目に映るもの、そして頭の中に浮かんだイメージを、次々に写し撮り、「映画」を生み出していく。 イマジネーションと映画作りの才能に富んだ少年の眼差しは、明確な意志が満ち溢れていると同時に、ほとばしる才気が抑えきれないような危うさや、現実世界でも夢の中を浮遊しているような不安定さも感じ取れる。 そして、その眼差しは、本作の創造者であり、主人公の実像でもあるスティーヴン・スピルバーグのあの眼差しに重なり、入り交じるようだった。 世界最高の映画監督と言って無論過言ではないスティーヴン・スピルバーグが、そのキャリアの最終盤において描き出したこの半自伝的映画は、「映画」というものがもたらす奇跡と呪縛を等しく映し出した素晴らしい作品だった。 映画ファンのはしくれとして、そしてかつて映画製作を志した者の一人として、個人的な人生観にも染み渡る特別な作品だった。 --- スピルバーグだからこそ描き出せた映画製作にまつわる愛と憎しみ --- あのとき、幼い少年に、映画の中で映し出されたスペクタクルを見せなければ、“衝突”に対する衝動は起こらず、彼はもっと平凡に生きられたかもしれない。 あのとき、彼に8mmフィルムカメラを渡さなければ、この家族は表面的には波風が立つことなく、離散せず、幸せに過ごし続けられたかもしれない。 あのとき、興行の世界に身を置く大叔父を家に入れなければ、彼は普通に進学し、就職し、父親同様にビジネスで成功したかもしれない。 「映画」に出会わなければ、主人公は平穏で安らかな幸せな人生を歩めたのかもしれない。 しかし、母親が強く発し、子どもたちにも復唱させたように、「すべての出来事には意味がある」。 母親が衝動的に追いかけた竜巻の道を阻まれたことにも、主人公が撮った家族フィルムに母親の浮気心が映り込んでいたことにも、ユダヤ人差別をする同級生たちにいじめを受けたことにも、その出来事自体には悲痛が伴っていたとしても、その先に意味は生まれ、それが人生の価値となる。 そういうことを、決して幸福とは言い切れない少年時代を通じて深く理解した主人公、もといスティーヴン・スピルバーグは、それを具現化して表現する手段として「映画」を撮り続けてきたのだと思う。 人生は上に昇るか、下に降るかの連続であり、ど真ん中の平坦な地平線に向き合うことは死ぬほどつまらない。 スティーヴン・スピルバーグは、これまでも、これからも、スクリーンに映し出される世界の地平線を上へ下へと大きくずらし、面白き映画世界を生み出し続ける。 [インターネット(字幕)] 10点(2025-01-03 23:51:09) |
14. ナポレオン:ディレクターズ・カット
年末の日曜深夜に158分の劇場公開版を観終えて、床に就いた。 翌日の月曜日は有休を取っていて、年末の大掃除やら、買い物やらと、頭の中のToDoリストは数日前からひしめいていたのだけれど、そこに新たな“やるコト”が急遽飛び込んできた。 そう、「『ナポレオン』のディレクターズ・カットを観るコト」だ。 午前中、最低限の大掃除をこなしながらも逡巡した。何せこのディレクターズ・カット版の尺は「206分」である。年末のこの気忙しいタイミングで、3時間半近くの時間を割くことにはさすがに躊躇したけれど、結果的に言うと大正解だった。 (現状Apple TV+のみでしか観られないことを踏まえると、本作を観ずに試用期間を終了していたとしたらと思うとちょっとゾッとした。) 前置きが長くなってしまったが、結論としては、本作こそが御大リドリー・スコットが描き出したかった「ナポレオン」映画であったことは間違いない。まあ“ディレクターズ・カット”なんだから当然なのだが。 前夜に劇場公開版を観終えた時点で僅かに感じていたことではあったが、このディレクターズ・カットを観た後では、劇場公開版は158分のボリュームにも関わらず、要点を押さえた“総集編”に見えてくる。 あまりにも重要すぎる幾つものシーンによって、このディレクターズ・カットは、より立体的に、よりドラマティックに、ナポレオンという偉人の異様な人間模様を表現し尽くしていた。 タイトルは、「ナポレオンとジョセフィーヌ」にすべき このディレクターズ・カットにおいて最も重要なポイントは、本作の第二の主人公とも言える、ナポレオンの妻・ジョセフィーヌの人生と人間描写がより明確に映し出されていることだろう。 劇場公開版では、ジョセフィーヌは“ある状況”から既に解放された状態で登場し、ナポレオンと出会う。しかし、本作ではその前段となる彼女が置かれた悲痛な境遇と、そこから連なる“思惑”がしっかりと描き出されていた。 正直言って、このジョセフィーヌにまつわる数々のシーンが有ると無いとでは、彼女のキャラクター自体に対する印象はもちろん、映画作品全体の印象が全く異なってくる。 彼女の歩んだ人生と人生観がより克明に描き出されることで、この映画が映し出す時代背景もより明確になり、何よりもナポレオンが彼女を愛し、心酔した理由がより強く伝わってきた。 ナポレオンを演じるホアキン・フェニックスは言うまでもなく圧倒的な存在感で、歴史上最も有名な偉人の一人の演じきっている。 そしてその主人公像に勝るとも劣らない存在感で本作を“支配”するジョセフィーヌを演じたヴァネッサ・カービーが素晴らしかった。彼女のときに高圧的な視線、艶めかしい肢体、崇高なプライドに溢れたその佇まいは、ナポレオンのみならず本作の鑑賞者すべてを魅了している。 そしてその男は、遠い彼方の地で、一人彼女を想い続ける。 やはり、リドリー・スコットが本作で本当に描き出したかったことは、ナポレオンの英雄譚でもなければ、支配者像でもなく、とんでもない大人物ではありながらも、滑稽で愚かで人間臭い一人の男のあり様だったのだと思える。 一人の女性を愛し、支配しようと懸命になり、依存し、また依存され、別れ、遠い彼方の地で一人孤独に彼女を想い続ける男の一生。 それこそが、現役最強の大巨匠が創造したナポレオン像だった。 [インターネット(字幕)] 10点(2024-12-29 08:31:33) |
15. レッド・ワン
今年の12月は“クリスマス映画”をしっかり観ようキャンペーン第2弾。 先週末鑑賞した「バイオレント・ナイト」に続き、今宵のクリスマス映画も、強烈なサンタクロースが登場した。 本作の場合は、人知れず実在していて、正真正銘の唯一無二の存在であるサンタクロースが誘拐されてしまい、我らがザ・ロックとキャプテン・アメリカが共闘を組んで挑む救出劇。クリスマスシーズン向けのファミリー向け娯楽ムービーとして、申し分なく面白かった。 30年前だったら主人公役はアーノルド・シュワルツェネッガーが演じていたのだろうなと思いつつ、主演ドウェイン・ジョンソンのアクションスターぶりがまずもってエンターテイメント性に溢れ、安定している。 そのバディとなるのが、最近マーベル映画復帰も発表されたクリス・エヴァンス。キャプテン・アメリカ役の聖人君子像からの反動か、「エンドゲーム」以降の出演作は、意図的に“汚れ役”ばかりを演じているようにも思うが、元来この俳優はそういう役柄が合っているように思う。本作でも、“悪い子リスト”掲載必至の賞金稼ぎ+父親役を好演している。 サンタクロースの存在が、実は国際的な「機密事項」であり、彼とその“仕事”=“クリスマス”を徹底的に守る秘密機関と各国の協力体制があるという設定がユニーク。 米国大統領ばりに大勢のSPに守られ、戦闘機のエスコート付きで各国を飛び立てば、専用機(巨大なトナカイたち)の速度は超音速を凌駕する。 世界一有名な伝説のキャラクターを軸にした大空想が問答無用に楽しい。 主人公は、“ボス”であるサンタクロースを尊敬、崇拝し、彼を守る自らの職務に誇りを持ちながらも、プレゼントを送り届ける対象である人間自体に絶望している。そんな彼がこの救出劇を通じて、人間の性善説を再確認していくというストーリーテリングは、ベタで王道的だけれど、それがクリスマスらしく、率直に良いと思えた。 注文をつけるとするならば、サンタクロースの存在とその組織(国?)の功績を、世界中の国家機関が機密事項として認識しているという設定なのだから、もう少し“世界各国のクリスマス描写”があると良かったなと思う。 言語も歴史も宗教観も気候も季節も異なる中で、それぞれの国で異なるクリスマス文化があり、それでも共通して愛されるサンタクロースという絶対的な存在が、世界を一体にする。そういう描写があれば、本作の帰着である「性善説」にもっと説得力と、意義が備わったのではないかなとは思う。 今この瞬間も、世界のあちこちでは争乱が収まらず、子どもたちは泣き続けている。そのことを暗に言及し、“クリスマス”という行事の価値を高められることができていれば、本作はファミリームービーをの枠を超えた究極のクリスマスムービーにもなり得たと思える。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-12-26 22:36:49) |
16. フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
スカーレット・ヨハンソンの60年代コスチュームが美麗。もっとくだけたコメディかと思いきや、アポロ11号の発射シーンなど、映像的にもしっかりと作り込まれており、映画の作り自体がとてもリッチだった。フェイクニュースに対する見極めを、個々人に求められる今だからこそ、今なお陰謀論が根強く残る月面着陸の捏造を題材にした本作のテーマは、社会の本質をついているとも思えた。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-12-22 16:26:28) |
17. ナポレオン(2023)
私が「ナポレオン」について知っていたことといえば、小学生の頃に学校の図書室で読んだ学研まんがの伝記シリーズに描かれていた通り一遍の生涯と、ナポレオンを「英雄」として推していたベートーベンが、彼が皇帝になったことに失望し激怒したという逸話くらいだった。
本作を観終えてまず思ったことは、「ナポレオンってやっぱりとんでもない人間だったのだな」ということ。そして、「世界史(ヨーロッパ史)ってえげつなくて、残酷で、なんて面白いんだ」ということだった。 御大リドリー・スコットが、相変わらず年齢的な限界をまるで感じさせない熱量で描き出すこの映画は、重厚な歴史モノでありながら少しも鈍重ではなく、あらゆるタイプの映画作品を創り上げてきた巨匠ならではの軽快さや軽妙さも備えていた。ナポレオンという偉人の特異な“人間味”に溢れた、濃厚でエキサイティングなドラマであった。
映画史の文脈における、エネルギッシュとフレッシュの最高到達点を齢87歳にして更新し続ける現役最強巨匠のクリエイターとしてのパワーには、驚嘆を越えてただただ感嘆する。 本作はナポレオンの伝記映画ではあるが、必ずしもこの大人物の英雄伝や支配者としての功罪を歴史になぞって描き出した映画ではない。
そこには映画的なフィクションやサービスが多分に盛り込まれており、この作品単体を観てナポレオンの人物像を決定づけるべきではないし、リドリー・スコットもそんなことを求めているわけではない。 ただし、ナポレオンがあまりにも“普通じゃない”人間であることは明らかであり、それは歴史が語る事実としても証明されている。
この映画は、その普通じゃない人物のただならぬ半生を、卓越しつつも野心的な映画表現によってこれでもかとキャンバスに塗りたくるように描き出した、まあ控えめに言って傑作だと思う。 正直に言えば、この映画世界のボリューム感に対して、158分という尺はあまりにも短すぎた。
前述の通り重厚なドラマを全編通して感じつつも、やはり濃密すぎる彼の人生の“総集編”を観ているような感覚をどこかで否定できなかった。 年末の週末深夜に本作を観終え、寝床に潜り込んだ私は、翌日の何かと忙しい休日を犠牲にしてでも、3時間半の“ディレクターズ・カット”を観るか否か逡巡しながら眠りに落ちた。 つづく。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-12-16 00:38:42) |
18. バイオレント・ナイト
12月、今年は“クリスマス映画”をしっかり観ようと思い、まずは昨年末からキープしていた本作を満を持して鑑賞。 アメリカの伝統的なクリスマス文化を踏襲し、ブラックジョークとバイオレンスに満ち溢れた映画世界は、世界中のボンクラ映画ファンに愛されるに違いない。 「ダイ・ハード」+「ホーム・アローン」+「バッド・サンタ」 1980年代生まれの映画ファンにとっては、特にツボにハマる要素が連発される映画だった。 ストーリー展開としては、ほぼ「ダイ・ハード」の主人公ジョン・マクレーンをサンタクロースに置き換えたと言っていい。とある大富豪の豪邸で“仕事”に取り掛かろうとしていた酔いどれサンタが、武装集団による急襲に巻き込まれる。 ユニークだったのは、主人公は正真正銘のサンタクロースではあるものの、それほど超人的な身体能力を持ち合わせているわけでもなく(1000年前は戦士だったらしいが)、割と血みどろになりながら戦う一連のアクションシーン。 その様子は、まさに「ダイ・ハード」でブルース・ウィリスが演じたジョン・マクレーンそのもの。未対面のバディとの無線でのやり取りなど、同作を多分に意識したオマージュも愉快だった。 様々なクリスマスデコレーションをはじめとして、たまたま手に取ったあらゆるものを武器にして、“悪い子”たちを血祭りに上げていくサンタの活躍が痛快である。(その咥えたキャンディーまで凶器にしてぶっ刺すなんて、遠慮がなくてとても良い) 主演のデヴィッド・ハーバーも、ベストキャスティングで、粗雑&粗暴だけれど魅力的で格好いい“バッド・サンタ”を喜々として演じていた。悪オジキャラ俳優の代表格として近年出演作が目白押しだが、本作を見て愛される理由がよく分かった。 子どものキャラクターによる「ホーム・アローン」展開もしっかりとバイオレントに描き切り、タイトルに相応しい“一夜”を過ごさせてくれるこの映画は、まさに最強(最狂)のクリスマス映画であろう。 そのくせ最後にはしっかりとハートウォーミングに帰着させる、想像以上に隙のない作品だった。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-12-15 07:54:36)(良:1票) |
19. デッドプール&ウルヴァリン
過去2作でも強く感じてきたことだが、「反則技」こそがデッドプールという独創的なヒーローの最大の武器である。「そんなのアリ!?」という数々の設定や言動をまかり通してしまう唯一無二のヒーロー像が、このキャラクターの存在感を絶対的なものにしていることは言うまでもない。 そして今回、ディズニーによる20世紀フォックス買収という、ある意味での“大反則技”によって、デッドプール、さらにはウルヴァリンまでもが“MCU参戦”という世界線を構築したのは、このキャラクターが存在していたからこそ成し得たミラクルだといえるだろう。 世界中の映画ファンにとってすでに食傷気味だった“MCU”において、“俺ちゃん”の乱入は、まさしく起死回生の反則技だ。 本作の劇中、デッドプール自身が言及する通り、“フェーズ4”以降のMCUが各作品で描き続けてきた“マルチバース”は、飽和状態となり収拾がつかなくなっていることは明らかだ。世界観に対する興味深さは尽きないものの、その苦痛を伴う“満腹感”によって、MCU離れが生じていることも否定できないことだろう。 そのMCU全体の窮地を、多元宇宙どころか“第四の壁”を突破し、映画世界と現実世界を自在に行き来するデッドプールが“救う”という構図は、結果としてあまりにも的確で、映画史そのものを巻き込んだ見事な文脈だったと思うのだ。 さらに、その「救世主」としての役割を、“デッドプール&ウルヴァリン”というこれまた奇跡的なタッグに担わせたことが、圧倒的な娯楽性と強い説得力を生み出していた。 “ウルヴァリン”というキャラクターは、「X-MEN」シリーズの中で時代と時空を縦断し、苦悩と絶望を抱き続けるヒーローとして描かれてきた。 そのヒーローとしての特徴や能力、性格や背景は、デッドプールと両極端のようにも見える一方で、同時に極めて似通っているようにも感じられる。 本作でも描かれているように、彼らが対峙すれば、勝負は一晩どころか永遠に決着がつかないだろう。しかし、いざタッグを組めば、これ以上強力で魅力的なペアはないということを痛感させられた。 加えて、ウルヴァリン登場の世界線が2017年の「LOGAN/ローガン」に通じるものだったことも、本作の完成度と満足度を大いに高めた要因だった。 他の誰でもなく己自身に傷つき、絶望し、年老いた“オールドローガン”ことウルヴァリンが、最後の戦いと逃避行の果てに“死”という安らぎを迎えるさまを描いた「LOGAN/ローガン」は、個人的に大傑作だったと思う。その“オールドローガン”が死を賭して守り抜いた世界と少女が、本作の多様性と世界観を一層深めていた。 デッドプールという愛すべき反則野郎のもとに集まった“世界に忘れられたヒーロー”たちとの邂逅も、胸熱な展開だったことは言うまでもない。 世界中の映画ファンが「そっちかい!」と突っ込まずにはいられなかったであろうクリス・エヴァンスの某ヒーロー再演や、年老いてもなお格好良すぎるウェズリー・スナイプスのブレイド復活など、MCUが存在しなかった時代からアメコミヒーローを観続けてきた者にとっては、まさに奇跡的な時間だった。 その高揚感は、「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」における歴代スパイディの大集合にも勝るとも劣らないものだった。 マルチバースに行き詰まったMCUに対しても、自らを生み出した20世紀フォックスに対しても、劇中で大いにディスり、軽口を叩き続けつつ、デッドプールとこの映画は、最終的にはすべてを許容し、感謝し、愛し、そして前進する。 「過去が今の彼を作った 修正する必要はない」 ラストシーンである人物が放つこのセリフは、過去の失敗や過ちも、それを否定したり無きものにする必要はないというメッセージをダイレクトに伝えている。 その映画としての着地点が、玉石混交のあらゆる世界線を股にかけ、現実世界のメタ的要素も多分に盛り込んだ本作の立ち位置として、とてもとても素晴らしかった。 [インターネット(字幕)] 9点(2024-12-02 16:03:17) |
20. 十一人の賊軍
「とても良いから、とても惜しい」というのが、鑑賞後、一定の満足感と共に生じた本音だ。 幕末という時代を背景に、小藩や中間管理職の悲哀と狂気、そして崩壊寸前の武家社会の愚かさを描いた本作は、久しぶりにエネルギッシュな娯楽時代劇を観たという満足感を与えてくれた。 本作の物語に描かれる群像劇は時代劇の枠を超え、現代社会の多様な人間関係や、あらゆる組織構造、さらには現在進行中の国際的な軋轢の数々とも重なる。 どの選択肢を選んだとしても、誰かにとっては「地獄」となるというジレンマは、どの時代においても普遍的であり、すべての人間が完全に満足する世界は存在しないという現実を改めて突きつけてくる。 物語構造上、十一人の罪人たちは絶体絶命の苦境を乗り越え、「生」を見出そうとする英雄のように描かれている。しかし、これは人間社会における狭小な一側面に過ぎない。 復讐のため冒頭で主人公にあっさり殺される侍や、砦を攻める倒幕軍の兵士たちにも、それぞれ親や子、家族がいるはずだ。名前もなく散っていくキャラクターたちにも、それぞれの正義や思いがあったことは想像に難くない。 その象徴的な存在が、阿部サダヲ演じる家老・溝口だ。 ストーリー上では悪役として描かれているが、彼の言動のすべては「家老」という職務に準じたものだと言える。確かに彼の謀略や非道な行為の数々は狂気的ではあるが、それも城下を取り仕切る“位”にある侍としては当然の行動だったのだろう。城下での戦を避け、町民から慕われる姿はそれを物語っている。 町民らに向けて乾いた笑顔を見せた後に訪れる彼自身の最大の「悲劇」が、この男が背負っていた中間管理職としての苦悩を何よりも雄弁に物語っていたと思う。 また、山田孝之や仲野太賀をはじめとする“賊軍”の面々を演じた俳優陣のパフォーマンスも見事だった。彼らは一面的なヒーローとしてではなく、それぞれが抱える罪や愚かさ、悲しみを通じて、社会とそこに巣食う人間の本質を体現していた。このアプローチが、本作の奥行きを大きく広げ、娯楽性に深みをもたらしていたと思う。 だからこそ「惜しい」と思うのだ。 映画全体に漂うエネルギー、現代にも通じる物語性、俳優たちの見事な演技、そして的確な演出力が光るだけに、一人ひとりのキャラクターに対する描き込みがもっと深ければ、さらに印象的な作品になったはずだ。 特に賊軍のキャラクターたちの背景描写が物足りなかったように感じた。 それぞれがとても人間臭く、魅力的な存在感を放っていたからこそ、彼らがどのようなバックグラウンドを経て、あの牢の中に閉じ込められていたのか。そのドラマ性がもう少し丁寧に描きこまれていたならば、彼ら最後に放つ命の灯火、その熱さと輝きが、さらに深く刻まれたことだろう。 [映画館(邦画)] 8点(2024-11-16 17:25:05) |